スティング ★★☆
(The Sting)

1973 US
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
出演:ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、ロバート・ショー、チャールズ・ダーニング



<一口プロット解説>
詐欺師フッカー(ロバート・レッドフォード)は仲間と組んで悪漢ドイル・ロネガン(ロバート・ショー)の使い走りから大金をせしめるが、やがて相棒が殺されてしまう。そこでロネガンを完膚なきまでに叩きのめす為に、シカゴに住む稀代の詐欺師ゴンドーフ(ポール・ニューマン)と組んで一生一代の詐欺を企てる。
<入間洋のコメント>
 監督ジョージ・ロイ・ヒル、主演ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードと言えば、アメリカン・ニューシネマの代表作の1つである「明日に向かって撃て!」(1969)と全く同様だが、個人的にはあまりアメリカン・ニューシネマと呼ばれる映画を好んで見る方ではなく、「明日に向かって撃て!」もバート・バカラックの主題歌「雨にぬれても」はしばしば聴くことがあっても映画自体に関してはそれ程好んで見る方ではない。ついでながら言い訳をさせて頂くと、アメリカン・ニューシネマを代表する「俺たちに明日はない」(1967)や「イージー・ライダー」(1969)のような、映画文化史などというタイトルを付けるならばあってしかるべき作品が本書に含まれていないのは、かくして個人的な趣味の故である。それらの映画に比べると、「スティング」は遥かに娯楽サービスに徹した映画であり、この年一人で3つのオスカーを受賞して新記録を打ち立てたマービン・ハムリッシュのアレンジによるレトロな音楽をバックとした1930年代の時代設定が殊に素晴らしい。また、最後に有名などんでん返しがあるのだから文句無しと言いたいところだが、この点については留保する必要がある。というのも、このどんでん返しがある為にプロットが必要以上に捻られている印象が避けられないからである。というよりも、この作品全体が最後のどんでん返しから逆算してそれ迄のストーリー展開や人物配置が行われているような印象があるのが否めないと言う方が正しい。たとえて言えば、時刻表を見ながら到着地の到着時刻から出発地の出発時刻を割り出すような作業が行われているように見えてしまうということである。それについて次に説明するが、最後にどんでん返しが控えている映画の種明かしをすることは本来であればマナー違反であるとはいえ、「スティング」は既に30年以上前の映画であり映画ファンでこの映画を見たことがないという人は多くはいないはずなので大目に見て貰うこととする(以下に取り上げる「オリエント急行殺人事件」(1974)についても同様である)。

 わざわざ説明するまでもなく、「スティング」のラストシーンのどんでん返しが持つサプライズエレメントとは、ロバート・レッドフォード演ずる詐欺師フッカーがFBIエージェントに強引に丸め込まれて、ポール・ニューマン演ずる仲間の詐欺師ゴンドーフを逮捕する為に無理矢理協力させられ、彼を裏切ったかのように思われたのが、実はこのFBIエージェントも彼らの仲間であって実は全てが芝居であったということが最後の主人公二人の撃ち合いの末に判明する点にある。けれどもこのサプライズエレメントを導出する為に、この映画は実に巧妙にプロットを操作する。たとえば、悪徳警官スナイダー(チャールズ・ダーニング)の存在を取り上げてみよう。悪漢ドイル・ロネガン(ロバート・ショー)と詐欺師達の一種の知恵比べがテーマであるこの作品にあって、彼の存在は随分と中途半端であるような印象が初めはあったが、実は彼がいないと最後のどんでん返しが成立しないということにやがて気が付いた。要するに、FBIエージェントに丸め込まれたフッカーが、ゴンドーフを裏切ったと観客に思わせるシーンには、必ずフッカーとFBIエージェント以外の第三者が立ち会っている必要がある。何故ならばそうでなければ、彼らはこの映画を見ているオーディエンスに対してのみ芝居をしたことになり、それではルール違反になるからである。しかもこの第三者は、フッカーとFBIエージェントが実はグルであることがバレてはならない人物である必要があり、そうかと言って悪漢ドイル・ロネガン或はその仲間がそのようなシーンに居合わせるはずはない。そこで悪徳警官スナイダーが登場するのであり、彼がいなければこの二人が映画の中で芝居をする理由が全くなくなってしまう。このような点が、最後のどんでん返しを演出する為に巧妙にプロットが操作されているような印象を与えるのである。裏を返せば語り口のうまさということになるのかもしれないが、ものは言いようで私見では人工的であるような印象が強い。最後のどんでん返しの面白さという点に関してのみ言えば、たとえば「テキサスの五人の仲間」(1966)のような作品の方がシンプル且つ徹底的且つ大胆且つ細心であったように思われる。

 実はこのような人工的とも言えるハンドリングが構造的要件によって強要されるが故に、プロット展開そのものが映画全体の大きなかせになっているケースは他の作品でも見受けられ、その典型的な例がシドニー・ルメットの「オリエント急行殺人事件」(1974)である。小生はシドニー・ルメットの大ファンではあるが、彼には余りにも作品数が多く玉石混淆のきらいがあることも否めず、有名な作品ではあるが「オリエント急行殺人事件」に関しても個人的にはあまり高く評価していない。何故ならば、この作品には本書でも紹介した彼のデビュー作「十二人の怒れる男」(1957)が持つ個性溢れる登場人物間の素晴らしいキャラクターインタラクションが、魅力的な豪華キャストにも関わらずまるで存在しないからである。しかしながら、それには立派な理由がある。つまり、「オリエント急行殺人事件」には個性溢れる登場人物間の素晴らしいキャラクターインタラクションが許されないようなかせが存在するのである。この点をもう少し詳細に説明しよう。乗客全員が犯人であるこの映画の主要登場人物の中で、犯人でないのはエルキュール・ポワロとオリエント急行を経営する鉄道会社社長(マーティン・バルサム)のみであり、他の乗客全員は共謀者同士である。従って、この2人のどちらも立会っていないシーンでは、そのシーンに登場する全ての人物は、居合わせた全員が犯人であることを当然知っているはずであり、そこで交される会話が殺人計画とは全く無関係な話であったり、自分達が犯人ではないことを示唆するような内容であったりすれば、それは単にその映画を見ているオーディエンスを欺くためだけに挿入されたシーンであったということになり、それではルール違反になる。逆に、そのようなシーンでこれから実行される殺人計画を暴露するような会話が少しでもなされれば、今度はストーリーの半ばにしてオーディエンスに対してトリックが全て暴露されてしまうことになる。このジレンマを解決する手段は2つある。1つはテレビシリーズ「刑事コロンボ」のごとく最初からトリックをバラしてしまい、焦点を謎解きからいかに探偵が犯人を追いつめるかという方向に逸らしてしまう方法である。しかし、そのような展開が選択された場合にはその映画はもはやミステリーと呼べるか否かは疑問であろう。もう1つは、殺人計画を知らない第三者を常に会話シーンに居合わせるようにする方法である。勿論「オリエント急行殺人事件」は後者が選択された例であり、鉄道会社社長がほんの飾り役に過ぎない以上、この第三者とはエルキュール・ポワロであらざるを得ない。この第三者たるエルキュール・ポワロが関与しない会話シーンをルール違反にならないように演出することは極めて困難であり、その結果ほとんどの会話シーンはポワロが個別に乗客を尋問するシーンにならざるを得ないような展開になっている。このような構造的要件が災いして、この映画には「十二人の怒れる男」が持つ個性溢れる登場人物間での魅力溢れる会話がほとんど見られないのである。

 「スティング」にも、ラストのどんでん返しを効果的に提示しなければならないという特殊な構造要件がある為に、「オリエント急行殺人事件」ほどではないにしてもどうしても人工的にストーリーが操作されている印象を受けざるを得ないことは前述した通りである。しかし、「オリエント急行殺人事件」とは違って「スティング」にはそれを補って余りあるエンターテイニングな要素がある。実を言えば、この映画のシーンの中で個人的に最も気に入っているのは、最後のどんでん返しなどではなく、列車の中で詐欺師ゴンドーフが悪漢ドイル・ロネガンをポーカーで鮮やかに手玉にとるシーンであり、このシーンでのゴンドーフとロネガンの駈引きは実に面白い。悪漢のドイル・ロネガンが悪漢らしくいかさまをしてゴンドーフを負かしたと思った瞬間、ゴンドーフの方でもいかさまをしていて見事にロネガンの裏をかく。ロネガンは自分がいかさまをしているから、ゴンドーフの方でもいかさまをしない限り彼は絶対に勝てないことを知っている。それにも関わらずロネガンは、ゴンドーフがいかさまをしていることを暴露出来ない。何故ならば、それでは皆に自分もいかさまをしていたということを暴露しなければならない上に、いかさまの腕前は彼よりもゴンドーフの方が上手(うわて)であったと屈辱的に認めなければならないからである。最後のどんでん返しではなくこのシーンを見たいが為にこの映画を見たことがある程、実に爽快なシーンである。

 いずれにせよ、冒頭でも述べた通り「スティング」はエンターテインメント性という点においてはこの頃の映画の中では随一であった。1960年代後半辺りからコメディにスタイリッシュさがなくなってきたような印象があるが、「スティング」は完全なコメディではないとは言えこの映画独自のスタイルとペースが全編を通じて維持されている。ジョージ・ロイ・ヒルの作品にはスティグマを負いながらもある種のスタイルを貫徹するキャラクターがしばしば登場する。たとえば「明日に向かって撃て」や「ガープの世界」(1982)などである。後者は考えてみると随分悲劇的な映画であり、畸形的な人物が続から続へと登場するが、映画全体にそのような悲劇性或いは畸形性がそれ程感ぜられず、逆に周囲を取囲む外景の美しさと相俟って全体的にアポロン的静寂さや爽やかさがあるのは、「明日に向かって撃て」と共通する。「スティング」も同様であり、コメディを通して詐欺師という自らのスタイルを徹底的に貫徹する人物達が描かれており、のみならずこの映画は勢い余ってオーディエンスまでもペテンにかけるのである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。また、このため「オリエント急行殺人事件」、「ナイル殺人事件」のレビューと重なる部分があります。

2000/09/15 by 雷小僧
(2008/10/18 revised by Hiroshi Iruma)
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