リタと大学教授 ★★★
(Educating Rita)

1983 UK
監督:ルイス・ギルバート
出演:マイケル・ケイン、ジュリー・ウオルタース、マイケル・ウイリアムス、モーリン・リップマン



<一口プロット解説>
酔いどれ教授マイケル・ケインが担当する或る大学の社会人講座に、美容師のリタ(ジュリー・ウオルタース)がセルフ・アイデンティティの探索をする為にやってくる。
<雷小僧のコメント>
この映画の原題はEducating Ritaと言いますが、月並みな言い方をすれば、主人公である美容師のリタが大学の社会人講座のようなものに通って自己啓発に努めて変わっていくというお話です。この自己啓発という言葉は、日頃よく使われるのですが、あまりにも軽々しく何にでも使われるのでどうも意味が形骸化して使用したくないのですが、他にいい言葉がないのでとりあえず使用しておきます。この映画の最後の方で、主人公のリタが言うように、自己啓発というのは自身の選択の可能性を広げることなのですね。まさに生きるということの意味を多様化させることが自己啓発の本来的な目的だということがこの映画で示唆されているわけです。
ところで、よくこういう類の学校が絡んだ映画を見ていると、いかにも反学校、反権威的なメッセージがあからさまに表面化されている映画やTVドラマがありますが、この映画ではそういうわざとらしさがなく、妙に肩に力が入っているような印象がないのが大変いいですね。私目は、いかにも反学校的なメッセージをあらわにしたような映画は好きではなく、たとえば比較的最近でも「今を生きる」(1989)という映画がありましたが、この映画のファンが多くいるのを承知で敢えて言えばどうも好きになれませんね。こう言ったからといって、何も私目は長いものには巻かれろと思っているわけではなくて、巧妙に仕掛けられた欺瞞には注意しなければならないということを言いたいのです。この「今を生きる」の最後のシーンで伝統に捕らわれた学校のやり方を改革しようとして追い出された主人公のロビン・ウイリアムスに、生徒達が机の上に立って敬意を表すと同時に、そういう学校に対してプロテストするかなりパワフルなシーンがありますが、パワフルはパワフルと認めた上で1つ苦言を呈したいですね。何故ならば、彼らが踏みつけているのが学校というシンボルである机だからです。ここで誤解してもらっては困るのは、神聖なる学校の机を踏みつけるとは何事だと私目は言いたいのではなく、彼らが反抗しているのは学校というシンボルにしか過ぎないわけで、結局彼らは権威−学校という土俵から全く離脱していないではないかということをです。権威側とは常に権威が反抗されるという回路を予め自らの内に作り出しておいて欺瞞を計るという伝家の宝刀を持っているわけですが、見事にこの図式に引っかかっているようにどうしても思えるのですね。どうも、映画レビューが変な方向にそれてきましたが、この類いのヒューマニスト先生対頭かちかち学校+PTAという図式の映画やドラマを見ているとどうもそういう欺瞞があるようで胡散臭いなと思ってしまうわけです。勿論、映画やドラマの製作者がそういう欺瞞を描こうとしたとはまず考えられませんので、彼ら自身がもう最初からそういう罠に引っかかっているということが、問題の根の深さを示しているのではないでしょうか。
ところでこの「リタと大学教授」が非常にさわやかであるというか無理がないなと思える点は、主人公のリタが自発的にそういう自己啓発をしようとしている点がうまく表現されている点です。さてここでもよく世間では何げなく使用されているけれど、実は問題を多大に含んだ言葉が登場してきましたね。それは「自発的」という言葉です。何故なら、教育という観点において、これ程危険な言葉はないからです。またしても誤解を避ける為に説明しなければならないのですが、自発的であるということが危険だと言っているわけではありません。そうではなくて、他人に対してこの言葉が使用されるのが大変危険だと言っているのです。よく学校で自主性の尊重とかいうスローガンが掲げられていたりするのですが、あれは誰に言っているのでしょうかね。先生達に対して子供達の自主性を尊重しなさいと言っているのならば問題はありませんが、もし子供達に対して自主的であれと言っているのならばこれ程危険なことはないのではないでしょうか。何故かと言うと、この言明は明らかに子供達をダブルバインド状況に追込んでしまうからです。すなわち、この言明に従って自主的であろうとすれば、それは自主的でないことになってしまうからです(何故なら他人が下した言明に従っていることになるからです)。これを、言葉上の遊びだと思って笑ってはならないでしょう。こういうダブルバインドに苦しむ人は、かなり繊細な神経を持っている人が多いわけですが、子供はこういう矛盾を繊細にかぎとるものなのです。あまのじゃくの心理というのも多分こういうところにあるのだと思います。つまり、矛盾を微妙に嗅ぎ取ってその状況から何とか逃れるために一見不合理な態度をとるわけです。この辺のからくりは、グレゴリー・ベイトソンら心理学者の著作を読んでみるとよく分かると思います。さて話が大きく逸れましたが、主人公のリタは、まさに語の健全な意味において自発的に自己啓発に努めるわけであり、誰かに自己啓発せよと言われてやっているわけではないのです。こういう点が、特に主演のジュリー・ウオルタースというキャラクターを通して見事に表現されていると思います。それと同時にこの映画を見ていると、物を識るということは非常に面白いことなのだということが再認識出来ます。本来そういう面白いことが何故つまらないように一般に思われているかといえば、やはり学校のあり方ひいてはそういうあり方を要求する社会の仕組みということになるのでしょうが、そういう議論を始めると自分で言った舌の根も乾かぬ内に自ら飛んで火にいる夏の虫になるのでやめておきます。
随分と映画にはそれ程関係のないことを書いてしまいましたので、この辺で元に戻ることにします。この映画は、多分ラブロマンスも意図されているのだと思うのですが、実にこれが英国的に中庸な描かれ方がされているのですね。つまり、フィジカルコンタクトはおろか直接I love youなどとも絶対に言わないのです。まあ、大学教授と女子大生(と言っても26歳の社会人なので日本ではオバンでしょうが)という関係なので、言ってみればかなり怪しげなのですが、そういう期待は見事に裏切られます。まあこういうずばり核心をつかない感覚はどちらかと言うと、日本人向きなのではないでしょうか。それから、全篇アイルランドで撮影されたようで、景色がまた落着いていていいですね。音楽も素晴らしくこの映画の雰囲気を見事に盛り上げてくれています。それからアル中の大学教授(「失われた週末」というハードカバー小説(アル中の話しでビリー・ワイルダー監督、レイ・ミランド主演で映画化されているのでご存知の人も多いはずです)の後ろにウイスキーボトルを隠しているのは洒落でしょうか)を演じているマイケル・ケインと主人公のリタ役のジュリー・ウオルタース(1つ難点を言わせてもらえば、日本人の私目にはこの人のこの役でのアクセントはわざとでしょうが非常に聞きづらいですね)は両人とも素晴らしく、この映画でオスカーにノミネートされたようですが受賞には至っていないようです。

1999/04/10 by 雷小僧
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