泥棒成金 ★★☆
(To Catch a Thief)

1955 US
監督:アルフレッド・ヒチコック
出演:ケーリー・グラント、グレース・ケリー、ジェシー・ロイス・ランディス、ジョン・ウイリアムス

左:グレース・ケリー、右:ケーリー・グラント

1950年代に製作されたヒチコックの作品は合計で11本あり、およそ年平均1本のペースで彼は映画を撮っていたことになります。しかも、多くの作品は現在でも広くあまねく人口に膾炙しており、さすがはヒチコックと云うべきでしょう。それでも敢えてこの11本に関して、ポピュラリティ度による分類を行うとすれば、勿論見る人によって多少の分類上の違いが発生するのは当然のこととして、個人的には凡そ次のような4グループに分けられるのではないかと考えています。まずは、オールタイムベスト100の常連或いはそれに選ばれてもおかしくはない超A級作品で、これには「裏窓」(1954)、「めまい」(1958)、「北北西に進路を取れ」(1959)が分類されます。次に控えるのが、オールタイムベスト100は多少苦しいかもしれないとしても、それでも極めてポピュラーなA級作品で、これには「見知らぬ乗客」(1951)、「ダイアルMを廻せ!」(1954)、「知りすぎていた男」(1956)が分類されます。その次が、ヒチコック作品としては、やや人気度が落ちる(と云っても普通の監督であればトップクラスに属しますが)「泥棒成金」(1955)と「ハリーの災難」(1955)で、さしずめB級ということになるでしょう。最後が、作品そのものの出来如何に関しては不問に付したとしても、ポピュラリティではかなり落ちる白黒作品3本すなわち「舞台恐怖症」(1950)、「私は告白する」(1953)、「間違えられた男」(1957)で、これらの作品はヒチコックファンであってもそう何度も繰り返し見ているわけではないように思われ、ポピュラリティに関してはC級と云ったところでしょうか。勿論、これらはあくまでもポピュラリティに関しての評価であり、作品自体の評価そのものと必ずしもイコールというわけではありません。因みに個人的によく見る作品の順番もほぼこの通りですが、聴覚派の私めは「裏窓」よりも「ダイアルMを廻せ!」の方をよく見るという違いがあります。このように分類してみると、勿論並みの監督であれば代表作と見なされてもおかしくはない作品であるとは云え、「泥棒成金」は3番手ということになり、何故そう評価せざるを得ないかの申し開きが必要になるでしょう。そこで、それについて考えてみることにします。実はこの作品には、少なくとも1950年代のヒチコックの他の作品にはあまり見られない特徴がいくつかあり、それには長所と見なせる特徴と短所と見なせる特徴のいずれもが存在します。恐らく、これらの長所、短所の重み付けをどう見るかによってもこの作品の評価は変わるのではないかと考えられます。それではまずbad newsである短所と見なせる特徴から述べましょう。「泥棒成金」は他の作品と比較すると、探偵推理小説のレゾンデートルであるいわゆるwhodunit(誰がそれをしたのか=誰が犯人か)的な要素がかなり色濃く存在します。この作品のwhodunit的な展開が推理小説ファンが見ても満足できるものであるか否かは敢えて問わないとしても、通常の推理小説の場合を考えてみても分るように、この要素に重点が置かれすぎると、最初に見る時には「誰が一体犯人なのだろうか」という強い興味が喚起されても、2回目以降は逆に興味が著しく削がれる結果になります。推理小説であれば読み捨てが一部のマニアを除けば一般的であったとしても、映画は必ずしもそうではないのですね。勿論、ヒチコックの作品にはミステリー的な要素は常に存在しますが、たとえそうであったとしてもそれが第一の焦点になることはまずありません。たとえば、「裏窓」では、本当に殺人があったか否かが問題になったとしてもwhodunitが問題になることはありません。「ダイアルMを廻せ!」では、そもそも最初から犯人は割れており、むしろ刑事コロンボ的に犯人がどのように追い詰められるかに焦点があります。「北北西に進路を取れ」に関しても、whyやhowは問題になってもwho(by whom)は大きな焦点ではありません。「めまい」は、これらの作品の中では最もwhodunitが問題になり得る作品であるように見なせますが、しかしそれでもそれが「めまい」の大きな比重を占めているわけではなく、だからこそヒチコックは種明かしを早めにしてしまうのであり、人によって意見は異なるようですが個人的にはそれによって作品が損なわれることはないと考えています。それならば「めまい」の本質はどこにあるのかという点に関しては、そちらのレビューを参照して下さい。それに対し、「泥棒成金」の場合には、宝石泥棒は一体誰なのか(当然ケーリー・グラント演ずる主人公自身が何らかの嘘をついていて犯人である可能性も含まれます)という興味でストーリーが引っ張られている割合がかなり高い作品であると見なせます。勿論、ケーリー・グラントとグレース・ケリーのロマンスという要素が存在することも間違いないところですが、しかしストーリーのダイナミズムの多くの部分はwhodunitの解明にあることは間違いがありません。またケーリー・グラントとグレース・ケリーのロマンスと述べましたが、この点についてもグレース・ケリーのパーソナリティに関して個人的には若干の問題が存在するように考えています。というのも、彼女のパーソナリティがどうも一貫していない印象があるのですね。たとえば、最初に登場した時は、ジェシー・ロイス・ランディス演ずる社交界ずれした遊び好きの母親に反発するような貞淑な風情で登場するのに、そのすぐあとには彼女の方からいきなりケーリー・グラントにキスをしたりします。その後のピクニックシーンでは、いかにも世事に長けて何でも知っているかのように振舞い宝石泥棒何するものぞというような態度を取るので、最初の淑女然とした彼女は見せ掛けであったかと納得していると、実際に宝石が盗まれるや否や今度は取り乱してケーリー・グラントをヒステリックに非難し始め、彼女の態度はコロコロ変わります。まあもともと、グレース・ケリーという女優さんはたとえば最近亡くなったデボラ・カーなどと比べると遥かに特徴が掴み難い人であると個人的には思っているので、そういう点も少なからず影響しているのかもしれません。さて次にこの作品の長所と見なせる特徴を挙げてみましょう。実は、ヒチコックはこの作品の前年には、「裏窓」、「ダイアルMを廻せ!」というほとんど室内劇(「裏窓」の場合は、中庭も含まれますが)とも呼べる動きの少ない映画を撮っていました。そもそも「裏窓」など、足を骨折して動きが全く取れない人物が主人公であり、一種の覗き見趣味とそこから由来するフラストレーションが1つのテーマでもありました。密室殺人を扱った「ダイアルMを廻せ!」もほとんど室内を出ることはありませんでした。そういうこともあってか、その次の作品である「泥棒成金」は動きと開放性が際立っていて、1950年代のヒチコック作品には珍しく空中撮影映像すら挿入されています。しかも陽光溢れる南フランスが舞台となっているので、ヒチコックはもしかすると陽光と動きに乏しい前2作の抑圧された鬱憤を晴らす為にこの作品を撮ったのではないかとすら思われます。「泥棒成金」はそのような開放感に溢れた作品であり、これはたとえばアクション的なシーンが多く動きはあっても必ずしも開放的という用語は当て嵌まらないように思われる「北北西に進路を取れ」のような作品とも異なる点です。別ユニットが撮影したフィルムをバックプロジェクトしてスタジオ内撮影しているのは明らかですが(このような技法で撮影された箇所は、DVDバージョンとしてリストアされる際に前景と背景の差が恐らく当時以上に明瞭化してしまう傾向があります)、それでもケーリー・グラントとグレース・ケリーが風光明媚な南フランスを車で疾走するシーンは開放感に溢れ爽快ですね。それからそれとも関係しますが、この作品が製作された1950年代の中頃はカラー感覚に優れた作品が続々と登場していたことはあちこちのレビューで述べているのでここでは繰り返しませんが、この作品もその例外ではなく、ヒチコックの作品にはあまり見られないカラフルさに溢れています。たとえば、前半の花屋のシーンやラスト近くの仮面舞踏会のシーンなどは、明らかに色彩が意識されていると云わざるを得ないでしょう。従って、「泥棒成金」はヒチコックお得意のストーリーテリングの妙味よりは、ビジュアル面の方が際立っているように思われ、むしろストーリーテリングという面ではやや安易ともとれるwhodunit的な側面が濃厚に存在するのは、この作品では「語り」よりも「視覚表象」に重点が置かれている結果であると考えられるかもしれません。このような言い方をするとフェミニストのアッパーカットを喰らいそうですが、その意味ではグレース・ケリーの存在も「語り」を構成する要素としてよりも「視覚表象」としてのアイコン性により大きなウエイトがかかっていると云えるのではないでしょうか。根拠があるわけではありませんが、もしかするとこの作品をよく見ているのは、ヒチコックファンというよりもグレース・ケリーファンなのかもしれませんね。何しろ、彼女はわすか5年程で早目に映画界から去り出演作も少ないこともあって(彼女くらいのビッグネームで、不慮の死以外によってこれ程早く引退してしまった俳優さんは、女優男優双方を含めてもほとんどいないのではないでしょうか)、南フランスの素敵な光景を背景としたこの作品での彼女が、その少ないフィルモグラフィーの中でも最もはっきりくっきりと、その名の通りのグレースな、すなわち優美な輝きを放っていると恐らく云えるのではないかと思われます。ただ敢えて云えば、ド近眼のように眼を細くしているシーンがチラホラ見受けられるのが少し気になりますね。照明が眩しかったのでしょうか。最後に付け加えておくと、この作品においても出たがりヒチコックがバスの乗客としてお約束通りチラリと姿を見せますが、その時まずおばちゃん乗客がバスに持ち込んだ鳥かごが映し出されてから、その次に彼の巨体が映し出されます。ということはもしかして、この頃から既に彼は「」(1963)を撮るつもりだったということでしょうか???


2007/11/14 by Hiroshi Iruma
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