チャイナ・シンドローム ★★★
(The China Syndrome)

1979 US
監督:ジェームズ・ブリッジス
出演:ジャック・レモン、ジェーン・フォンダ、マイケル・ダグラス


<一口プロット解説>
ジェーン・フォンダ演ずる、テレビ局のアナウンサーは、原子力発電所を取材中に偶然発生した原子炉トラブルに慌てふためく所長(ジャック・レモン)らの様子を隠し撮りするが、局はこのスクープを放映しようとはせずお蔵入りにする。
<入間洋のコメント>
 「チャイナ・シンドローム」のテーマは原発事故であり、社会問題をこれ程シリアスにしかもドキュメンタリータッチで描いた作品は、それまではほとんど存在しなかった。このような映画が出現するようになったのも、たとえば社会派監督と呼ばれるシドニー・ルメットらによる作品が製作され、1970年代に入ると、よりドキュメンタリータッチの色濃い作品が製作され、というように徐々に映画のテーマや表現形態が変化してきたからである。つまり、映画が基本的には気晴らしにすぎないと考えられている間はそこへ社会的メッセージを織り込むことは全くのナンセンスであると考えられても何の不思議もないが、殊に1970年代に入るとオーディエンスも製作者側もそのような見方から大きくテイクオフしてきたということである。

 実は小生は劇場公開時にパニック映画であると思ってこの映画を見に行き、冒頭でジャック・レモンがパニクっている以外はパニックシーンがほとんどなかったので「何だ、この映画は」と思ったことをよく覚えている。我ながら何とも情けない話ではあるが、チャイナ・シンドロームとは原子力発電所の原子炉の炉心が融解して地球の反対側の中国迄突き抜けてしまうという何やらもの凄いことを意味する言葉だと聞かされた上、1970年代はパニック映画の時代であり、またそのような宣伝のされ方もされていたので当時高校を卒業したばかりの小生は単純にそう思ってしまったのである。しかしこの映画は、原発事故を題材としたシリアスな映画であり、またこの映画の公開後しばらくしてスリーマイル島原発事故が発生したこともあり、極めてタイムリーな映画であったことには間違いがない。1970年代の前半からエコロジーに関連する映画が出現するようになったことは「サイレント・ランニング」(1972)のレビューで述べたが、環境問題に対する関心の高まりが「チャイナ・シンドローム」のような映画を生み出すようになったとも言えるだろう。映画に関する書物において原発の是非を論ずることは適当であるとは思えないのでそれはしないが、いずれにしてもこの映画には原発が環境に対する1つの脅威になり得ることがメッセージとして込められていることには相違はなく、そのことは「チャイナ・シンドローム」というタイトルが雄弁に物語っている。

 そのように考えてみると、この映画では何故ドキュメンタリータッチが強調されているかが明瞭になる。当然のことながら、そのような社会的メッセージは物語的進行を通じてよりも、リアルである印象が強い方がより効果があるからである。要するに、同様な事故が自分達の身の廻りでも容易に発生し得ることが説得的な仕方で描かれていなければ、そのような社会的メッセージは大きな効力を発揮し得ないということである。社会的メッセージの伝達に関して、この映画が非常に良く出来ているように思われるのは次のような理由からである。まず第1は、「チャイナ・シンドローム」というタイトルにもかかわらず、悲惨な災害シーンがないことである。すなわち、この映画における死者数はタイトルが意味するところにも関わらず、最後に当局の手により射殺されるジャック・レモン演ずる主人公ただ一人である。悲惨な災害シーンとは、まさに小生が最初にこの映画を見た時に密かに期待していたものであるが、そのようなシーンがあったならば単なる扇情的なパニック映画に終わってしまったはずである。第2は、原発の問題を原発それ自体の危険性という観点からのみではなく、社会構造的な側面を含めたより複雑な問題として捉えているという点が挙げられる。安全性をチェックするはずの保安会社はきちんと点検をしない、電力会社は利益の損失を恐れて危険があることが分かっている原子炉をシャットダウン出来ない、原子炉部品の製造業者は手抜きをするというような複雑な要因が絡み合い、何がどうなっているかに関して全体を見通せる人間が只一人として存在しない状況下で原子炉が運転される様子が、この映画では丹念に描かれているということである。第3は、映画自体のトーンがドキュメンタリータッチで統一されており、無駄なバックグラウンドミュージックもなく、この映画がフィクションであるという事実がなるべく浮き立たないように考慮されている点が挙げられる。特にこの映画の巧妙な点は、一人のニュースキャスター(ジェーン・フォンダ)と一人のカメラマン(マイケル・ダグラス)の目を通して事件が描かれているところに存在する。この映画の主演はジャック・レモンであるが、主観的な焦点はむしろジェーン・フォンダに置かれている。この映画は、彼女が原発とは何の関係もないテレビリポートをするシーンから始まるが、これはかなり意図的であるように思われる。つまり、事故の当事者であるジャック・レモンではなく、ジェーン・フォンダに観客の主観的な視点が置かれるような導入部が提示されているのではないかということである。要するに、映画の中でこの事件を客観的に見つめるニュースキャスターの視点に観客の視点を同化させることにより、媒介的な視点を経てストーリーを追わせるような構成がここでは意図されているのではないかということである。この点に、擬似的ではあるが第三者的観点を経た1つの客観性が発生する余地があり、それがこの映画に高度なリアリティを付与する結果に繋がっている。

 リアリティで思い出したが、この映画に関してフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールが「シミュラークルとシミュレーション」という著書の中で興味深く且つ少々アブナイことを述べているので最後にそれを紹介しよう。彼によれば、この映画で描かれているのは、カタストロフそのものではなくカタストロフのシミュレーションであり、従ってここにあるのは、小生が高校卒業当時この映画に期待した原子炉の壮絶な外部に向けての爆発ではなく、隠された持続的な内部破裂或いは分子レベルでの汚染であることが強調される。従って、ジャック・レモン演ずる主人公は、見る者の期待を裏切って決して爆発することのない原子炉の代償として最後に射殺されたということになる。またそれは、テレビというメディアとも共犯関係にあり、外見上はウォーターゲート事件のごとくジェーン・フォンダ演ずるテレビリポーターによって原子炉事故が暴露されているかのように見えるが、実はテレビというメディアと原子炉は互いに外部に向かってではなく内部に向かって破裂する連鎖反応を共謀して引き起こしているということになる(そもそもジェーン・フォンダ演ずる主人公達が原子炉に取材に入った途端に異常が発生するのである)。更にボードリヤールは彼一流の暴走気味の論調の中で、そのような決して外部に向かって派手に爆発することのないカタストロフのシミュレーションがもたらすジリジリするような心理的不安、彼によればそれは核の抑止力が持つ本質でもあるということになるが、そのような不安を緩和するには本当にカタストロフを引き起こすことだと述べている。自然は時々そのようなリアルなカタストロフを引き起こし、テロリズムもまた同じパワーを有しているものと見なすことが出来ると述べる。いかにも「象徴交換と死」を書いたボードリヤールらしいとも言えるが、そのような主張の是非は別としても、注目すべきことは、彼も述べるように、そもそもこの映画の公開の方がスリーマイル島原発事故よりも先だったことであり、ここに至ってついに虚構と現実が全く逆転してしまったとも言えることである。偶然で済ますには余りにも象徴的過ぎると言えるのではなかろうか。擬似イベントを扱った「ネットワーク」や「カプリコン・1」よりも「チャイナ・シンドローム」の方が一見すると遥かにリアルな作品であるように見えるかもしれないが、実は映画という虚構が現実よりも先行してしまった、言い換えると虚構が現実をシミュレートするのではなく、全く反対に現実が虚構をシミュレートする結果となってしまった恐るべき例が「チャイナ・シンドローム」であり、その意味では「ネットワーク」や「カプリコン・1」が単なるスクリーン上での擬似イベントのシミュレーションの提示であったのに過ぎないとすれば「チャイナ・シンドローム」はスクリーン外のリアリティまでをも巻き込んだ壮大な擬似イベントの呈示であったと言えば言い過ぎになろうか。ボードリヤールに感化されて最後は多少論調が暴走気味になったかもしれないが、いずれにしてもリアリティと擬似イベントの関係において虚構と現実が完全に逆転されたとも言える見方を自ずと喚起させる「チャイナ・シンドローム」は、映画と文化社会史との関連を自ずと語ってくれるのである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

1999/04/10 by 雷小僧
(2008/10/18 revised by Hiroshi Iruma)
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