バタフライはフリー ★★★
(Butterflies Are Free)

1972 US
監督:ミルトン・カトセラス
出演:ゴールディ・ホーン、エドワード・アルバート、アイリーン・ヘッカート、マイケル・グレイザー
左:ゴールディ・ホーン、右:エドワード・アルバート

ゴールディ・ホーンの実の娘であるケイト・ハドソンを見ていると、顔がよく似ているというわけではありませんが時々「ああ、確かに彼女はあのおかあちゃんの娘だな」と思わせるところがあり、同時にかつてのアイドルスターであったゴールディ・ホーンの娘が活躍するような時代になったかというおセンチな感慨が湧いてきます。というのも、ゴールディ・ホーンという女優さんは、私めがガキンチョの頃は人気ナンバーワンの女優さんだったからです。しかしながら、現在から振り返って彼女のフィルモグラフィーをよくよくながめてみると、意外や意外!彼女にはこれといった代表作がないのですね。一種人気先行型アイドルの先駆的な存在が彼女であったというと言い過ぎになるでしょうか?あれだけの人気を誇った女優さんでありながら、メジャーな作品への出演はゼロであり、しかも日本では劇場公開すらされていない作品もいくつか存在します。確かに「サボテンの花」(1969)では、かのイングリッド・バーグマンを向こうに廻してアカデミー助演女優賞を受賞しましたが作品自体はコメディ小品というようなところでした。その次の作品は、当時既にビッグスターであったピーター・セラーズと共演した「There's a Girl in My Soup」(1970)という作品ですが、ピーター・セラーズ+ゴールディ・ホーンという興味深い組み合わせにも関わらず日本劇場未公開であるのは、タイトルの馬鹿馬鹿しさに負けず劣らず内容が馬鹿馬鹿しく貧相であったことを考えてみれば当然であったと言わざるを得ません。「バタフライはフリー」を除くと、その後は「バンクジャック」(1971)、「続・激突!カージャック」(1974)、「The Girl from Petrovka」(1974)、「シャンプー」(1975)と続きますが、今となっては一般にはほとんど話題にのぼることのない作品ばかりです。それから、彼女の若い頃の作品を今見て思うことは、昔は何やらグラマー女優であるような気がしていたのに、実に華奢でか細く時には貧相にすら見えることです。失礼ながら胸などシベリア大平原のように見えます。実を言えば、彼女を見ているとマリリン・モンローと比較したくなるのですね。というのも、このように言うと怒られるかもしれませんがブロンドの脳天気娘的な印象(あちらにはAir Headなどという表現もあるようですが)をもって登場したアイドル女優という点では似ているからです。しかしこの二人には似ているところもあれば、全く異なるところも多く、登場した時代が違うという印象を強く受けます。一言で言えばモンローにはやはり神話的イメージが強く存在し、ホーンには現実世界的或いはより具体的には隣のギャル的イメージが強くあります。その意味では先ほど「アイドル女優」という言い方をしましたが、これを今日一般に使用されている意味で捉えるならホーンは確かにアイドル的であったとしても、モンローにはその用語は当て嵌まらないかもしれません。逆に「アイドル」を本来的な「偶像」という意味で捉えると、今度はモンローには当て嵌まってもホーンには当て嵌まらないように思われます。ひょっとすると前者の場合のアイドルとは「idle(暇な、怠惰な)」で、後者の場合のアイドルとは「idol(偶像)」ではないかとすら勘繰りたくなりますが、勿論それによってホーンが怠け者であったと言いたいわけではありません。そのような両者の違いは、中年おじさんがうら若きギャルに入れ込んでしまうという展開を持つという点では類似する「七年目の浮気」(1955)と前述した「サボテンの花」を見比べると明瞭になります。前者におけるモンローは、トム・イーウエル演ずる中年おじさんの一種の妄想的な現実錯視の中において神話化されたかのようなステータスを持つ存在として登場するのに対し、後者におけるホーンはウォルター・マッソー演ずる中年おじさんの徹底的に世俗的なお遊びの対象(などと述べるとフェミニストに張り倒されるかもしれませんが、当時はまだそういう時代でした)として登場します。前者におけるイーウエルキャラクターが現実をことごとく空想で覆ってしまういわゆるロマン主義者であったとするならば、後者におけるマッソーキャラクターは結婚していないにも関わらず結婚しているように見せかけて空想を現実の道具として利用するほどのプラグマティストであり、ロマン主義者の憧れの対象とプラグマティストのお遊びの対象との間にある違いがモンローとホーンの間に等しく存在すると言ってもよいでしょう。このような女優さんの質的側面の違い(質的と言ってもそこに良し悪しの判断を含めているわけではありませんが)はやはり映画が描く対象が1950年代から1960年代を通して大きく変化してきたことによる帰結の1つであり、これについては「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「等身大のスター達の誕生 《スリルのすべて》」でも書きました。この2作品を見比べてみると、高々15年の違いが、いかに大きいかが分かるのではないでしょうか。さてモンローとの比較はこのくらいにして、決定打がなかったホーンの作品中(ホーンの出演本数は必ずしも多い方ではなく最新のものを除けばほとんど全ての作品を少なくとも一度は見ているはずです)で私めが最も好きな作品が、この「バタフライはフリー」であり、彼女の特徴が最もよく出ている作品だと言えます。ホーンは、盲目の青年(エドワード・アルバート)のお隣りさんを演じていますが、いかにも彼女らしくノンシャラントでお隣のギャル的なキャラクターを満開にしています。雰囲気的には「サボテンの花」の時とほとんど同じだと言えるでしょう。盲目の青年の自己のアイデンティティの確立というシリアスなテーマをコミックなタッチで描くという一歩間違えるととんでもない代物になりかねないストーリー展開を持っていますが、主要登場人物3人(エドワード・アルバート演ずる盲目の青年、ゴールディ・ホーン演ずるお隣さん、アイリーン・ヘッカート演ずる盲目の青年の母親)の配置が実に巧妙でバランス感覚に優れた作品に仕上がっています。実はこの作品は主要登場人物3人全てが、互いとのやり取りを通じて多かれ少なかれそれまでの自己のあり方を変えていくという展開になっており、単純に主人公一人だけの教養小説的な成長が描かれているわけではないところが1つのミソだと言えます。1つ指摘しておくべきことはそのような展開の中で極めて重要な役割を果たしているのが、アイリーン・ヘッカート演ずる母親であり、下手をすれば極めてありふれた展開に陥りそうなマテリアルを活性化する触媒として極めて有効に機能しています。しかも単なる触媒としてのみではなく、自分とは180度異なるパーソナリティを持つホーンキャラクターとのコミュニケーションを通じてそれまで自分の息子を所有することにしか関心がなかった自己を改め、最後には息子の自立という一種の愛他主義的側面の重要性を悟るのであり、彼女のキャラクター自身もこの作品では少なからず変化を遂げます。そのようなドラマとしての機微が、主要登場人物3人のやり取りを通して見事に浮彫りにされており、またそれがコメディ的な要素で味付けされていて過度な感情過多に陥ってしまうことがない点にも好感が持てます。実はこの作品でコメディ的な側面に最も貢献しているのは、意外にもアイリーン・ヘッカートなのですね。彼女はコメディ出演が多いとはいえ「傷だらけの栄光」(1956)のようなシリアスなドラマにも出演しており、コメディとドラマの混合のような「バタフライはフリー」でも遺憾なく彼女の独自性を発揮しています(それに声が素晴らしい!)。結論的に言えば,この作品はノンシャラントなゴールディ・ホーン、夢見心地の青年を演ずるエドワード・アルバート(名前から想像されるように彼は、かの「ローマの休日」(1953)でペックの相棒(だったかな?)を演じ昨年ほとんど100才近くで亡くなったエディ・アルバートの息子です)それにこのアイリーン・ヘッカートという3つのパーソナリティが見事に融合した、現在のハリウッド映画には見かけることがほとんどなくなったタイプに属する作品だと言えます。


2007/01/20 by Hiroshi Iruma
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