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フーコーが『監獄の誕生』で身体の歴史をめざすのは、たんにこれまでの政治史で論じられていなかった主題に光をあてるとか、抑圧されたマイノリティに言葉を与えるだけのものではないだろう。それではこの著作で、どのような意味で身体が問題になるのだろうか。なぜ「身体の政治的テクノロジー」が論じられるのだろうか。
権力関係の分析で身体はどのような位置を占めているのか。
「監獄についての、しかも監獄がその閉鎖的な建物のなかにかき集めている、身体のすべての政治的攻囲を含む監獄についての、歴史を書き上げたい」(35)
この言葉の意味について考えてみること。
社会史的な歴史家の身体史(生物学的な場としての身体)(29)、マルクス主義者(ルーシェとキルヒハイマー)の立場(労働生産力としての身体)とフーコーの分析の関係は何か?
SP, 30 :「身体は生産する身体であると同時に服従する身体である場合にのみ有効な力となる」
身体の政治的テクノロジーは、散乱し、体系的な言説とはならず、断片的である。それを国家や法律と同一視することはできない。国家などの制度と身体の物質性の「あいだ」において働くもの、それが権力のミクロ物理学である。
→ このようにしてフーコーは、「真理」「精神」「人間」などの価値がどのような微細なメカニズムの複合的な作用によって作られたものなのかを記述していこうとしていると思われる(後述のニーチェの「系譜学」(33)との関係を参照)
フーコーが身体の歴史を記述するに際して、なによりも強調する点は、その物質性である。このことは何を意味するのか。
『監獄の誕生』を一読すると、フーコーの「権力」なるものは、あらゆるものを含みこむ神秘的な実体であるかのような印象を受ける。ところが他方で彼は、身体を、その「物質性」において、ミクロの次元で分析する必要をも語っている。
フーコーの権力論を論じるに際しては、権力の拡散とミクロの身体との関係を正確に把握することが必要であると思われる。
・サイードはフーコーの権力概念は、「あまりに用法が広く、その道程にあらゆるものを飲み込み、変化を消し去り、そのミクロな身体への支配を神秘化」してしまうものであること、他方、フーコーは「リアリストのふりをして」(ブルジョワ的?)「形式主義者でないとみられたがる」読者をとらえたと批判している(D.M.
ハルプリン『聖フーコー』p.37)。要するに、サイードは、フーコーの権力論と身体論はうまく結びついていないと言いたいわけである。この批判を反批判せよ。
・反批判のためのメモ
ー 権力は身体を貫き、攻囲すると同時に、身体を拠り所にするものでもある。言い換えるならば、身体とは、権力の客体でもあれば主体でもある。この身体の二重性を正確に理解することが必要であろう。
→ 身体の二重の役割については、カントローヴィッチ(『王の二重の身体』平凡社)を論じた部分(32-34)が興味深い。また、第二章において、「両義性」が論じられている部分をすべて拾い、まとめてみることも必要であろう。このあたりに注目して、「両義性の哲学」者メルロ=ポンティ(授業)との関係について考えてみることは、フーコーの哲学的側面をさぐるためには、必須の課題であろう。
サイードはフーコーの分析の政治性にも疑問を投げかけているようである。この反論に答えるためには、権力関係における闘争関係を強調しなければならない。(サイッドの『オリエンタリズム』が、アメリカの学者のお遊びを作り出すのに終ってしまったことを考えれば、どちらが「リアリスト」の振りをしたがる人々に気に入られたかは明らかなのだが・・・)
ー フーコーは権力関係というものが、「多数の対決点」「不安定性の源(foyer)」「一時的な逆転」をはらんでいることを強調する(31)。これは何を意味するのか?
1)戦略としての権力。戦略の比喩は何を意味しているのか?
権力関係とは、構造主義の語る「象徴的な構造」のように、すでに与えられ、主体を外部から構成するようなものではない。それは、つねに身体によって再活性化されなければならず、「つねに緊迫し、つねに活動中」(31)である。
2)フーコーにとって、これこそが「抵抗」と「革命」の可能性に結びついている。権力の道具でもあると同時に担い手でもあるものとして、身体こそが抵抗のためのもっとも有効な媒体となりうると考えられたのではないか?身体こそが、権力の内部において、権力の外部への脱出の手段となるのではないか。(レポート課題に戻る)。
「権力は知を生産する」(36)とフーコーは述べている。それと平行して、彼は「人間」「精神」といったものが、権力と知との相関関係において、どのように生産されてきたかを分析していく。この問題はとりわけ『性の歴史』の第一巻に系がっていく問題である。権力と知の関係について、『監獄の誕生』の叙述にそって、具体的にまとめてみよ。
1)「精神」「人間」の概念について
フーコーの分析にとって、「人間」や「精神」はどのような位置を占めるか?
フーコーによれば、精神とは「イデオロギー(観念形態)」の創り出す幻影(イリュージョン)ではない。それは実体(substance)(翻訳では「実質的」)ではないが、「歴史的実在」(33)である。
この指摘は重要である。フーコーの目的は、たんに近代の精神を虚構やイデオロギーとして批判することではなく、その物質的・歴史的な発生過程をたどることであるからだ。この作業のためにこそ、「身体のミクロ物理学」が要請される。
「精神は、身体のまわりで、その表面で、権力の作用によって生み出される」(33)
2)言説と権力の関係について。
権力は言説を抑圧するのではなく、それを生産する、というのが『性の歴史』につながる重要テーマである。権力と言説との関係について、第二章の「自白=告白(aveu)」の問題を要約することで考えてみよ。
など、身体のまわりにさまざまな二重性が組織されることによって、権力と知がからみあい、真実が生産されていく過程に注目すること。
3)「死刑囚の断末魔語録」の分析(68)を手がかりに、犯罪物語の役割について検討し、言説と権力、民衆と君主の関係について論ぜよ。
参考:『ピエール・リヴィエールの犯罪』におけるフーコーのコメント(配布済み)
また、アンシャン・レジーム期の大衆文学の役割については、R. シャルチエの著作『読書と読者』(みすず書房)『書物の秩序』(ちくま学芸文庫)などを参照。
4) 改革者の役割に関して。
一八世紀における身体刑の緩和に関して、フーコーは啓蒙主義に基づいた改革者の役割を論じている。とりわけ問題になるのは、マブリーの次の発言である:「こう語ってよければ、懲罰は身体によりもむしろ精神に加えられんことを」(21)
この発言に注目しながら、古典主義時代と近代の結節点において、改革者、および「精神」や「人間性」という主題が、刑罰の歴史にどのような役割を演じたか、まとめよ。
1)「人間」や「精神」が知の対象となることを可能にした条件はなにか。権力の適用される場の移動(103)を考慮しながら、考えること。
ー limite としての人間
2)記号と表象
君主制ー改革ー監獄における異なった記号のあり方。その時間性
3)啓蒙主義思想の意義