カント『啓蒙とは何か』(岩波文庫)を読むフーコー

 フーコーにとって、カントはもっとも重要な思想家のひとりである。1958年の文学博士号のための論文は、カント『人間学』の翻訳と注釈であり、『言葉と物』においては、カントこそが19世紀以降の「人間学」(言語学、経済学、生物学)を可能にする地平を切り開いた存在である。その意味では、「人間の死」という発言は、カント以降の地平の解体を指し示すといっても過言ではあるまい。さらに晩年になって、フーコーはフランクフルト学派のハーバーマスらと『啓蒙とは何か』について議論するつもりであったことが知られている。

ー 「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある」(7)

 こうしてカントは民衆が「自分自身を啓蒙する」(9)ために、自分の理性を「公的に使用する自由」(10)が必要であることを説く。これがいわゆる「公民的自由」である。

 しかしこの自由の増大は、かならずしも精神の自由にとっては有益ではないどころか、それに制限を加えることもある。そこで、民衆は、すでに啓蒙された君主に力をゆだねる。かかる君主のみが「君たちはいくらでも、また何ごとについても意のままに論議せよ、ただし服従せよ」と、命令しうるのである(18)。カント自身、この命令の逆説性(ダブル・バインド)を自覚している。(19)

 また、カントは、現代は「すでに啓蒙された時代であるか」という問いに対して、「否、しかし──恐らくは啓蒙の時代であろう」(16)と答える。このような両義的な事態こそ、カントが「現代」に読みとった「記号=徴候」であった。

 フーコーはコレージュ・ド・フランスの講義において、カントのこの作品を「学部の争い」という論文に結びつけ、現代の記号の解釈者としての役割を分析している。これらの分析を『監獄の誕生』の権力論の立場から、どのように読み直すことができるのであろうか。

 参考文献:

戻る