第1回 出会い----Puputan Square,Denpasar.
あれから、いくほどの時が経っただろう。
ガジャ・マダ通りはデンパサール随一の繁華路である。
午前9時――すでに熱帯の太陽は、強烈な光を容赦なく下界に注ぎ始めていた。木陰を求め歩くうち、ププタン記念碑の傍らで佇む人影が見えた。どことなく憂いを帯びた若者である。 ププタン記念碑(JPEG/64KB)
「シンクロニシティを信じますか?」と、今朝方ジョクジャから着いたという若者は言った。
「でも、本当なのです」と、呻くように若者は言った。
時折、トクトクというベモのエンジン音が、木立を通して聞こえてくる。
ジャワ島中央部に位置するソロは、スラカルタ(ジャワ語ではスロクルト)とも呼ばれる。16世紀後半に興ったマタラム王国の王統を継承するススフナンの住まう古都でもある。
「ソロには」と、若者は言った。「王宮が二つあります。一つはススフナン家のクラトン・スロクルト、もう一つはマンクヌゴロ家のプロ・マンクヌガランです」
17世紀以来、バタヴィアを本拠にジャワ島支配を目論むオランダ東インド会社は、度々マタラム王国に干渉してきた。
1755年、武力解決を諦めた会社はマンクブミと協定を結び、マタラム宮廷をソロのススフナン=パクブウォノ家とヨクヤカルタのスルタン=アマンクブウォノ家とに分割し、中部ジャワの一隅に封じ込めた。
「マンクヌガランには」と、若者は続けた。「ジャワで一番大きなプンドポがあります。二つの兄弟王家の狭間にあって、マンクヌゴロ侯は引け目を感じていたのでしょう。それが、極力二王家の勢力を削ごうとしていたオランダと利害が一致したのかもしれません。一番弱小な王家が最大の宮殿を持つことになったのは皮肉なことです」
「そこで何かあったのですか?」と、美耶子は訊いた。
ジャワの宮廷では、古来ガムランはプソコ(神器)の一つとして尊重されてきた。ガムランには聖人の称号が与えられ、王国時代には平民はその前で跪くよう強要された。マンクヌガラン宮のプンドポに安置するガムラン一式は、キヤイ・カニュ・メスム、すなわち「微笑みによって運び去られる」と呼ばれている。キヤイは神聖な人や物に冠する尊称である。
「あいにく、ジャワへは行ったことがありません」と前置きし、美耶子は訊ねた。「プンドポというのは、どういうものでしょうか?」
「それなら」と、美耶子は言った。「バリにもあります。ここでは、バレと言いますけど」
話をしている間にも、先にも増してサン・スルヨ(太陽)は地上を焦がし続けている。二人は木蔭を求めた。
「ジャワの踊りのことはよく知りませんが」と、美耶子は言った。「とても優雅な踊りと聞いたことがあります」
ブドヨは、マタラムの3代国王スルタン・アグン(在位1613〜45)が創作したと伝えられる宮廷舞踊の一つで、九人一組で女性が踊る。ジャワ宮廷舞踊にはスリンピというもう一つの様式があり、やはり女性が四人一組で踊る。 マンクヌガラン宮廷舞踊ブドヨのイメージ(JPEG/19KB)
「ブドヨを観ているうち」と、相変わらず淡々とした口調で若者は言った。「不思議な感情が沸いてきました。涙がこぼれ落ちてきて、『以前、自分はここにいたことがある』、そして『この踊りを観たことがある』という思いに満たされました」
「いや」と、若者は大きくかぶりを振った。「あれはシンクロニシティに違いありません。タイのお寺で過去世を思い出したという話を、友人から聞いたことがあります」
以前厚木から聞いた話を美耶子は思い出した。現代バリでは、プラは寺院、プリは王宮というように、別個の概念を表わすが、元来は同じ意味だったという。神霊を祀り、年祭を催し、村人が会議を開く場所をプラ、為政者が住まい、政治を執り行なう場所をプリと呼び別けるようになったのは、さほど遠くない時代のことである。
古代ジャワでは、王は神仏が現世に顕現した存在であると考えられた。王宮(クラトン)は王の現世のための住居であり、寺院(チャンディ)は王の来世のための住居であった。イスラム国になった今でも、その名残があるのだ。(下の写真を参照してください) マンクヌガラン宮殿正面のプンドポの写真(JPEG/17KB)
「すみません」と、若者は詫びた。「初対面なのに驚かせてしまって」
軽くうなずくと、奥山は美耶子に続いた。
(第1回終わり)
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NISHIMURA Yoshinori@Pustaka Bali Pusaka,1998-2000.