第1回 出会い

  ----Puputan Square,Denpasar.



  あれから、いくほどの時が経っただろう。
  理由もなく、人には、妙に落ち着く場所がある。
  記憶になくとも、いつか見たことのある風景に出会うことがある。
  三界を流転するうち過去世の一つをそこで生きていたかのように、
  妙に気になる場所がある。
 

 ガジャ・マダ通りはデンパサール随一の繁華路である。
 右にパサル・バドゥンを見て取り、スロパティ通りに入ると、だいぶ交通量が減った。
 スロパティ――バリからバタヴィア(現ジャカルタ)へ奴隷に売られ、のちにオランダと闘った人物の名である。この街路に南面する広場の前で、美耶子はベモから降りた。

 午前9時――すでに熱帯の太陽は、強烈な光を容赦なく下界に注ぎ始めていた。木陰を求め歩くうち、ププタン記念碑の傍らで佇む人影が見えた。どことなく憂いを帯びた若者である。


デンパサールのププタン記念碑の写真です(JPEG/64KB/372×260Pixel)ププタン記念碑(JPEG/64KB)

 「シンクロニシティを信じますか?」と、今朝方ジョクジャから着いたという若者は言った。
 突然の思いも寄らぬ問いに、美耶子はうろたえた。

 「でも、本当なのです」と、呻くように若者は言った。
 「まだ、何も伺っていませんから」と、ようやく美耶子は応えた。「悪いお話でなければ、聞かせてください」

 時折、トクトクというベモのエンジン音が、木立を通して聞こえてくる。
 「そうですか」と、つぶやくように若者は話し始めた。「あれは、僕がソロに行った時のことです」

 ジャワ島中央部に位置するソロは、スラカルタ(ジャワ語ではスロクルト)とも呼ばれる。16世紀後半に興ったマタラム王国の王統を継承するススフナンの住まう古都でもある。

 「ソロには」と、若者は言った。「王宮が二つあります。一つはススフナン家のクラトン・スロクルト、もう一つはマンクヌゴロ家のプロ・マンクヌガランです」

 17世紀以来、バタヴィアを本拠にジャワ島支配を目論むオランダ東インド会社は、度々マタラム王国に干渉してきた。
 1749年、9代国王パクブウォノ2世は、王国を会社に委譲するという遺言を残し死去した。会社が擁立した傀儡王に不満を持つ先王の弟マンクブミは、甥マス・サイド等とともに挙兵し、新王と会社に対しジャワの半分を割譲するよう迫った。

 1755年、武力解決を諦めた会社はマンクブミと協定を結び、マタラム宮廷をソロのススフナン=パクブウォノ家とヨクヤカルタのスルタン=アマンクブウォノ家とに分割し、中部ジャワの一隅に封じ込めた。
 マス・サイドはなおも叛乱の手を休めず、1757年、ソロ市内のススフナン領の一部を割譲され、パンゲラン(殿下)・マンクヌゴロ1世と称した。

 「マンクヌガランには」と、若者は続けた。「ジャワで一番大きなプンドポがあります。二つの兄弟王家の狭間にあって、マンクヌゴロ侯は引け目を感じていたのでしょう。それが、極力二王家の勢力を削ごうとしていたオランダと利害が一致したのかもしれません。一番弱小な王家が最大の宮殿を持つことになったのは皮肉なことです」

 「そこで何かあったのですか?」と、美耶子は訊いた。
 「それなのです」と、虚空の彼方を眺めるような目をした若者は言った。「各王宮では、舞踊の練習やガムランの演奏を観光客に公開しています。ジャワ最大のプンドポで聴くガムランの音色は極上のものではないかと思い、演奏日を調べました」

 ジャワの宮廷では、古来ガムランはプソコ(神器)の一つとして尊重されてきた。ガムランには聖人の称号が与えられ、王国時代には平民はその前で跪くよう強要された。マンクヌガラン宮のプンドポに安置するガムラン一式は、キヤイ・カニュ・メスム、すなわち「微笑みによって運び去られる」と呼ばれている。キヤイは神聖な人や物に冠する尊称である。

 「あいにく、ジャワへは行ったことがありません」と前置きし、美耶子は訊ねた。「プンドポというのは、どういうものでしょうか?」
 「プンドポとは」と、若者は説明した。「宮殿正面の石壇上に建てられた吹き抜きの舞台です。宮廷内のセレモニーや賓客の接待、演舞やガムラン演奏に使います。ちょうど、大相撲の土俵の周りに柱を立て、大きな屋根を葺いたようなものと言ったら、お分かりになるでしょうか」

 「それなら」と、美耶子は言った。「バリにもあります。ここでは、バレと言いますけど」
 「そうです」と、若者は軽くうなずいた。「でも、バリのどこのバレ・アグンよりも大きいのです。どこの王宮にせよ、プンドポはガムランの音色が最も美しく響くように設計されているそうです」

 話をしている間にも、先にも増してサン・スルヨ(太陽)は地上を焦がし続けている。二人は木蔭を求めた。
 「演奏のある日」と、やはり遠くを眺めるような目で若者は言った。「僕はマンクヌガランへ出かけました。その日は、特別に宮廷舞踊も催されるというので、大勢人が集まっていました」

 「ジャワの踊りのことはよく知りませんが」と、美耶子は言った。「とても優雅な踊りと聞いたことがあります」
 「この日見たのは『ブドヨ』でした」と、若者は言った。「テンポの早いバリ舞踊とは違い、優雅で単調な踊りです」

 ブドヨは、マタラムの3代国王スルタン・アグン(在位1613〜45)が創作したと伝えられる宮廷舞踊の一つで、九人一組で女性が踊る。ジャワ宮廷舞踊にはスリンピというもう一つの様式があり、やはり女性が四人一組で踊る。
 王宮文書によれば、ブドヨもスリンピもプソコ(神器)とされ、王宮外や王の近親者以外は踊ることを許されなかった。一般に公開されるようになったのはごく最近のことである。


ソロ市マンクヌガラン宮廷舞踊ブドヨのイメージです(JPEG/19KB/268×378Pixel)マンクヌガラン宮廷舞踊ブドヨのイメージ(JPEG/19KB)

 「ブドヨを観ているうち」と、相変わらず淡々とした口調で若者は言った。「不思議な感情が沸いてきました。涙がこぼれ落ちてきて、『以前、自分はここにいたことがある』、そして『この踊りを観たことがある』という思いに満たされました」
 「それは」と、美耶子は言った。「単調な舞踊や音楽に浸っているうちに、夢を見たような気分になったのではありませんか。白昼夢とか」

 「いや」と、若者は大きくかぶりを振った。「あれはシンクロニシティに違いありません。タイのお寺で過去世を思い出したという話を、友人から聞いたことがあります」
 「その話なら」と、美耶子はうなずいた。「私も聞いたことがあります。でも、タイのお寺なら分かる気もしますが」
 「しかし」と、再び若者は反駁した。「シンクロニシティが起こるのは場所には関係ないと思います。確かにマンクヌガラン王宮はお寺の雰囲気に似ていましたけど」

 以前厚木から聞いた話を美耶子は思い出した。現代バリでは、プラは寺院、プリは王宮というように、別個の概念を表わすが、元来は同じ意味だったという。神霊を祀り、年祭を催し、村人が会議を開く場所をプラ、為政者が住まい、政治を執り行なう場所をプリと呼び別けるようになったのは、さほど遠くない時代のことである。

 古代ジャワでは、王は神仏が現世に顕現した存在であると考えられた。王宮(クラトン)は王の現世のための住居であり、寺院(チャンディ)は王の来世のための住居であった。イスラム国になった今でも、その名残があるのだ。(下の写真を参照してください)


ソロ市マンクヌガラン宮殿正面のプンドポの写真です(JPEG/17KB/286×201Pixel)マンクヌガラン宮殿正面のプンドポの写真(JPEG/17KB)

 「すみません」と、若者は詫びた。「初対面なのに驚かせてしまって」
 「いいえ」と、美耶子はかぶりを振った。「私たちも、いつも考えています。『一体どこから来て、どこへ行こうとしているのか』ってね」
 「それって」と、若者はつぶやいた。「ワヤンの・・・」
 「えっ」と、美耶子は訊き返した。「ワヤンが何か?
 「いえ」と、若者は言葉をさえぎった。「そういえば、自己紹介してませんでしたね。僕は、奥山千景です」
 「藤森美耶子です。これから博物館へ行きますが、よろしければご一緒しませんか」

 軽くうなずくと、奥山は美耶子に続いた。

(第1回終わり)

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NISHIMURA Yoshinori@Pustaka Bali Pusaka,1998-2000.