第2回 記 憶----Museam Bali,Denpasar.
バリ博物館は、ププタン広場の東側を走るレトダ・スドゥ・ウィスヌ通りを越えた向かいにある。
「さっきはびっくりしました」と、美耶子は厚木に言った。「突然、過去を思い出したなんておっしゃるものですから」
ジョクジャ発の夜行バスで今朝方デンパサールに到着した奥山は、ガジャ・マダ通りで降車し、そのままププタン広場まで歩いてきたという。今は独立記念広場となっている古戦場址を眺めながら、ソロのマンクヌガラン王宮における体験を思い起こしていた。美耶子が声をかけたのはその時だったのである。
二人が話をしている最中(さなか)、厚木はそわついていた。だが、しきりに首を傾げる二人は厚木の様子が目に入らなかったようである。
「やはりガムランを聴かれていたのですか」と、美耶子の蔭から身を乗り出して訊ねる奥山に、厚木はうなずいた。
その時、ワルンの調理台でジューという音とともに火の粉が上がった。厚木は一瞥しただけで、再び話を続けた。
「僕の場合は」と、奥山が言った。「女性の姿になっているので驚きました。服装や部屋の調度品などから想像すると、クラトンに住む王女だったようです」奥山が指で科を作って見せたので、美耶子は笑いを堪えた。
「それから」と、奥山は話を続けた。「四人で踊る踊り・・・、何と言いましたっけ・・・」
スリンピは、王家の子女が礼儀作法や強い精神力を養うための特別な舞踊であり、王族としての義務であり、彼らのみが踊ることを許された。 ![]()
「ガムランには」と、賛同を得たい口ぶりで奥山は訊いた。「過去の記憶を呼び覚ます力が備わっているのでしょうか」
ゴン・グデは、低く荘重な響き、スマル・プグリンガンは柔らかで繊細な音色、ゴン・クビャルは派手で華やかな音を持つ。
1930年代ウブッドで暮らし、ガムランの採譜を行なったアメリカの音楽家コリン・マクフィーは、バリ人が古い荘重なガムランを鋳潰し騒々しいゴン・クビャルに作り変えていくのを見て嘆いている。
音楽ばかりでなく、観光客向けのパンフレットにバリの伝統舞踊(traditional Balinese dances/performances)などと紹介されている舞踊もまた、大半はゴン・クビャル用に創作され改編されたものである。
「しかし」と、奥山が訊ねた。「ジャワのガムランも変化しているのでしょう」
18世紀来、政治的にオランダの監督下で余命を永らえていたジャワの王宮では、各王家がいわば「家元」となり、「伝統文化」の保持を担っていた。オランダ政府もそれを奨励した。その一方で、当時のジャワ人知識階層は「王宮の博物館化」を危惧した。
ジャワの王家の場合、「伝統」の核とされたのは第一にヒンドゥー文化であり、そこにヒンドゥー以前の基層文化、中国やイスラムなどの外来文化を盛りつけ、最後に西洋文化というシロップをかけて「スタンダードな」ジャワ「伝統」文化が練り上げられていった。ひと度「伝統」が決まってしまうと、容易にそこから抜け出せなくなる。
「だから」と、厚木は言った。「オランダ人をして『世界一優良な植民地』と言ってはばからなかったジャワと『最後の楽園』と謳われた観光地バリとでは、事情が違うのです。バリに比べ大きな四つの王宮のみに『伝統』が集約し、華麗な文化を誇る一方で民衆は搾取されていたジャワと、小さなプリがいくつも点在し、上下の区別なく島民が外国人の目にさらされ、島全体が『博物館』の様相を呈していたバリとでは、伝統に対する考え方に違いが生じたのでしょう」
「それなら」と、奥山が言った。「ジャワでも同じことです。ジョクジャと比べ、ソロは保守的な土地柄と聞きました。オランダによる支配を承認してまで伝統を保持しようとしたススフナンを戴くソロと、オランダに不服抗戦しスロクルト王宮と袂を分かったジョクジャとでは、王宮と住人の気風や街の雰囲気が違うのです」
この気風の違いは、インドネシア独立戦争時代にも発揮されることとなった。日本軍撤退後、連合軍の支援を背景にオランダはインドネシア再統治を目論んだ。
その時、ワルンのイブができ上がったばかりのナシ・ゴレンを奥山の前に置いた。湯気をあげる熱々のナシ・ゴレンを奥山がほおばり始めた。
奥山がイブと片言のインドネシア語で話を始めると、厚木と美耶子は席を外した。食事を終えたのを見張らかい、奥山を挟んで坐った。
「彼女が」と、厚木が切り出した。「僕たちの話に興味を覚えたらしく、シンクロニシティが体験できる場所がバリにもあるかと、訊くのです」
「それは」と、厚木が言った。「その場所と僕たちの側に、シンクロニシティが生じる条件が揃っていたのだろう。第一、過去世と繋がっていなければ意味がないよ」
「おもしろい」と、奥山は大きくうなずいた。「美耶子さんがそう確信するなら、力をお貸ししましょう。きっと見つかりますよ。厚木さんは如何ですか」
「お若いのに」と、微笑みながら美耶子は言った。「珍しいことをおっしゃるのね」
道路の向こう側に開けるププタン広場では、子供や大人が凧を上げているのが見えた。青い空、熱気混じりの湿った空気、轟音をあげて走るベモ――何もかもあの日――美耶子が初めてここを訪れた日と同じであった。
一見何の変化もないかのように装う風景のどこかに、あの殺戮の記憶がインプットされているのだろうか。それとも、人間の想念から溢れ出た虚像にすぎないのだろうか。はたまた、浮き雲のようにはかない人間の運命を玩ぼうとする神々の成せる悪戯なのか・・・。 ![]()
「ところで、今日の宿は決まっておいでですか」と、厚木が訊ねると、奥山はかぶりを振った。
一瞬恐縮した素振りを見せ、奥山は大きくうなずいた。
(第2回終わり)
![]() ![]() ●目 次 ●索引地図 ●表 紙 |
Created by
NISHIMURA Yoshinori@Pustaka Bali Pusaka,1998-2000.