マタラム王国 (Kerajaan Mataram)


 マタラムはヨクヤカルタ地方の古名。起源は1578年頃にさかのぼり、建国者はスノパティとされるが、詳細は不明である。8〜9世紀に同地で栄えた古マタラムまたはヒンドゥー・マタラムと区別し、新マタラムまたはイスラム・マタラムと通称する。スノパティの子パネンバハン・セダ・クラプヤック(在位1601〜13)は、ヨクヤカルタ南東のコタ・グデに王宮を設け、王国をマタラムと称した。本章に登場するマタラム王国はこちらを指す。

 第3代王スルタン・アグン(在位1613〜45)は各地で征服戦争を行ない、領土を中・東部ジャワのほぼ全域に広げた。マタラム王国の歴史は戦乱と動乱の連続でもあり、そのつど、王都と王宮は破壊されたり放棄されて、王都もクルト(1614年頃)、プレレッド(1647年)、クルトスロ(1680年)、スロクルト(1746年)と移り変わった。この過程でバタヴィア(現ジャカルタ)に本拠を置くオランダ東インド会社は、紛争の調停者として次第に王国の内政に力を及ぼし、その領土を削減し、権益を取り上げた。

 1749年、パクブウォノ2世(在位1726〜49)は、王国を会社に委譲すると遺言して死去した。王国の上級主権者となった会社は、その子をパクブウォノ3世(在位1749〜88)とした。これに異を唱えた先王の弟マンクブミと甥マス・サイドが挙兵し、支配層の多くが合流した。1755年、オランダ東インド会社とアマンクブウォノ1世(マンクブミ)との間でギアンティ条約が締結され、王国はスロクルトとヨクヨクルトとに二分されてマタラムという国名は消滅した。その後も抵抗を続けたマス・サイドは、1757年マンクヌゴロ1世としてパクブウォノ家から分立した。

 <読書案内>

  • インドネシアの通史・近代史を扱った本には、必ず記述があります。
  • 永積 昭『オランダ東インド会社』(世界史研究双書)近藤出版社,1971.9.
    <全編ではないが、王国と会社間の抗争や調停の過程について概観できる。もちろん、オランダ東インド会社の研究書としても第一級の書。付年表>

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