2015.04.06
      三石氏とのSKYPE勉強会では、前回から「大文字の第二次科学革命」情報社会学会誌 vol. no.1 2006(15-32) p.15-32.を読んでいる。これは吉田民人が最も世の中に残したかった文章ではないか、と思われる。論文そのものはネット上で容易に入手可能であるので、以下内容の要約は簡単にして解釈とコメントを主体にメモを書いていくことにする。

1.旧科学論の三つの根本命題と20世紀科学の変貌
      近代科学のパラダイムは、
(1)科学の目的は全自然の過去、現在、未来に亘る「認識」に限定される。
(2)物質層−生物層−人間層に渡る全自然の根源的な構成要素は「物質およびエネルギー」である。
(3)全自然の根本的な秩序原理は、決定論的乃至確率的、線形的乃至非線形的の変異はあるが、「法則」である。

      このパラダイムに対して、20世紀において、
(1)科学の技術化、技術の科学化、(2)従来の自然言語としての情報に加えて遺伝情報、神経情報、計算機情報が登場、(3)ゲノムによる生物層の秩序を、普遍的な「法則」によるというよりも、むしろ特殊且つ可変な秩序として体系化したことによって、
人文社会科学で主題とされてきた「意味や心や精神」、「倫理的・慣習的、契約的・法律的秩序」、「人文社会科学の言語論的展開」と(2)での情報、(3)での秩序、(3)による生物学のゲノム的展開との関係が問題となっている。これらの問題を整理すると、近代科学のパラダイムが転換されなくてはならないことが判る。

2.新科学論による三つの代替提案
      (1)の認識主義に対しては、設計を科学の目的に追加する。

     (槇の注釈)そもそも近代科学は16世紀までに西洋中世で発展してきた技術の体系化の成果を横取りする形で形成されたものである。横取りしたのは神学によって鍛えられた論理体系である。それまでキリスト教教会の教えが論理展開の大前提であり、それで説明できない経験的事実は軽蔑すべき職人の「実学」に委ねられたのであるが、勃興してきた新しい社会勢力が富を求める過程で、実学を無視できなくなり、次第に教会が正しいとしてきた文献が否定されていき、最終的に残されたものは「神」による世界の創造という神話だけになってしまった。近代科学は神の意図を人間が経験的に認識する行為として、つまり神が定めた「法則」を認識する行為として位置づけられたのである。神の恣意的意志はいまや自然法則として人間の知り得るところとなったのである。科学が法則による秩序の体系化として純化されるにつれて、元々科学を育てた実学は工学として科学から分離されることとなった。工学の動機は神の意志の認識という崇高なものではなく、現世的な欲望の充足である、とされた。他方、人間社会の倫理的、規範的秩序の方は依然としてキリスト教会の支配の元に残されたのであるが、18世紀から19世紀にかけての社会革命によって、キリスト教会の権限が弱められて、価値観の多様性が常態となってきた。それを体系化して「法則」を定めるべく、諸々の人文・社会科学の試みがなされてきたが、物理学のような成功を収めたとは言い難い。神の不在(社会法則の不在)というこの不安に対しての人間社会の反応がさまざまな現代哲学の潮流を生み出している。その中にあって、近代科学は依然として価値観への関わりを拒絶して、純粋な「認識」に踏み止まろうとしているのであるが、現実には科学の成果は科学者の価値観に関わらず現実世界に応用されて、さまざまな問題を引き起こしている。

      科学がその枠組みを乗り越えて、「設計科学」として成長するためには、設計の動機となる「価値観」の正当性をどうやって検証するのか、という方法論が必要とされる。従来の科学的(認識的)命題はポパーの「反証原理」であったが、これを拡張・一般化して設計科学の評価的命題もまた経験的に検証されるようにしなくてはならない。そもそも価値観なしには設計科学は成立しないのであるが、その価値観そのものを絶えず懐疑し検証し続けることによってのみ、設計科学が「科学」たりうる、ということである。吉田はこれを「経験的自己言及の無限前進」「評価命題の経験的反証」と表現している。

      (槇の注釈)科学だけでなく音楽もまたヨーロッパにおいてはキリスト教会が大衆の音楽活動を横取りして、キリスト教の布教に利用したものである。当初はそこにギリシャ由来のピタゴラス音階を適用していたが、広いヨーロッパ各地で活動するにつれて各地の音楽的伝統が無視できなくなって3度音程が重視され長調と短調に整理されていった。またラテン語での朗誦では意味不明であるために、現地語での注釈が並唱されて複旋律の音楽が発展することになった。各地で使用される音楽を統一して監視するために楽譜が発明された。オルガンが使われるようになって、転調が容易になるように平均律が発明された。本来大衆が持っていた音楽の豊かさはクラシック音楽に取り込まれ整理されその時代時代でのパトロンの為に職業音楽家が提供する商品となっていった。世界大戦で利用された西洋音楽に対しての反応が2つあった。一つはバロック以前の音楽の復興であり、もう一つは政治に利用されない純粋音楽やノイズ取り込みの運動である。3番目の運動が、世界各地の民族音楽の発掘や高橋悠治の志向する体系化の拒絶、あるいは音楽を大衆に返す、大衆自身が音楽を創るという運動である。いずれも音楽の社会化を目指している点で吉田の科学の拡張と軌を一にしている。

      (2)の物質・エネルギー一元主義に対して、吉田は情報進化論を対峙させる。そもそも、物質・エネルギーは存在する以上、属性や特性や特徴や空間的、時間的配置、といった差異/パターンを不可避として持つ。それをウィーナーに倣って情報と見なすが、これはアリストテレスの形相のような概念に他ならない。情報は物質・エネルギーに従来の科学がそれと気づくことなく包摂されていた概念である、と吉田はいう。

      (槇の注釈)だが、現代物理学では吉田よりも精細にそのことを語っている。すなわち、物質はエネルギーの存在形態であり、比喩的にいえば、エネルギーが質料に物質が形相に相当する。その形相を決めるのが物理法則である。古典物理学的には物質は基本粒子から成り、エネルギーは物質が持つ連続量であり、量子力学的には場合によっては不連続でもある量であるから、吉田の言い方でも構わないが、日本の科学史研究者の殆どは素粒子論をよく知っているから、吉田のように大雑把に語られると反発するであろう。

       こうして本来的にあった情報は生命の誕生によって記号化される。記号化とは生命体が物質・エネルギーを情報として利用することである。つまり、情報がその記号と意味の二重性を帯びる。意味というのは情報が生命体に齎す作用である。

      (槇の注釈)さて、もう少し考えてみる。生命体とは、化学的に言えば、触媒作用であり、その触媒作用が特定の環境の中で存続し、複製していく機構を備えたものである。触媒作用というのは物質変換であると同時に情報変換である。しかしそれを観ているたけではその情報変換が記号−意味なのかどうか、つまりそこに「主体」があるのかどうかは判らない。存続と複製があるかどうかが暫定的には判断基準であるが、それすら特定の環境に依存する。つまり、「主体」(吉田の「自己組織性」)は現象観測的に定義されるしかないものである。観測者のもつ概念構成によって変わり得る。実際未開文明とされる多くの人々にとっては自然現象がしばしば「主体」として認識されている。逆に人間すら「主体」として認めない国家も存在する。何を以って主体とするか、もまた絶えざる懐疑の対象とすべきであろう。

       一般的な生命体によって差異化される記号−意味の関係においては、記号と意味が物理化学的プロセスによって結びついている。意味は対象としての意味であり、これが指示対象である。そういった記号をシグナル記号と吉田は定義した。しかし、神経系が発達するにつれて、情報が神経系内部で特徴的な情報形態を採ることが認められる。これを吉田は表象と定義した。記号が表象を意味として持つということは、記号と意味の関係が神経系の学習に依存することを意味する。そのような性格の記号をシンボル記号と吉田は定義した。意味が学習に依存するということはその生命体の過去の経歴に依存するということであり、言葉を変えれば恣意的である(法則では決まらない)ということになる。

      (槇の注釈)さて、そういう風に理解すると、例えばパブロフの犬がベル音で唾液を流すように訓練されたときのベル音はシンボルということになる。これはこれで意味のある定義とも思われるが、その後の吉田理論ではこれはシグナルである。(吉田にとって)シンボルはあくまでも人間に限られている。ということはシンボルの条件として、社会的に既定され体系化された記号、という追加の定義が必要ということである。だが、果たして犬と人間の関係は社会的でないといえるのか?

  そこで、「自己組織性の情報科学」を参照してみると、この場合は「習得的リリーサー」であることが判るが、ホルモンなどの生得的リリーサーが明らかに生化学的反応である(従ってシグナル)のに対して、習得的リリーサーは個体適応の結果であるから、何らかの記憶形成に基づいている筈である。そうなると、やはりシンボルと考えるのが首尾一貫しているように思われる。同様に曖昧な記号として「状況記号」がある。これは黒い雲が雨を意味するとか、怒った表情が怒りの感情を意味するとか、である。習得的リリーサーが少なくとも学習後には確実に行動を齎すのに対して、状況記号は一旦それと認知される、という意味でより複雑である(認知、評価、指示に分かれる)。しかし、これも個人がその人生経験の中で学習する記号であるから、厳密にはシンボルとすべきであろう。しかし、吉田はこれもシグナルと考えている。(習得的リリーサーと一緒にして習得的外シグナルとしている。)。その上で、この状況記号が作為的に(騙すために)使われることでシンボルへと性格を変えると言っている。つまり、吉田のシンボルの定義には学習という恣意性だけでなく、その生命体の「意思や意図」が必要とされる。パブロフの犬にとってのベル音はシグナルであるが、人間にとってはシンボルということになる。戦争で敵を欺くための陽動作戦は敵にとってはシグナルであるが、味方にとってはシンボルである。吉田はシグナルからシンボルへの過渡的な状況をチンパンジーが意図的に餌を見せびらかしたりする行為に見ている。さて、こういった吉田の定義に従うと、幼児が学習した段階での言語は本当にシンボルと言えるのだろうか?それは社会成員の側から見れば確かにシンボルであるが、幼児にとってはシグナルに近いとも言える。更に言えば言語といえども使う状況によってはシンボルと言えないことにならないだろうか?催眠にかかった人にとっての催眠術師の言葉は、吉田の定義によればシグナルでしかないだろう。吉田のシンボル定義に何故意図性が必要なのか?それは吉田が「主体」(自己組織体)の進化段階として、仮想世界の構築とそれに基づく環境の改変や操作を想定しているからに他ならない。記号を受け取る側ではなく、発信する側から見ている、ということである。確かに、「意思や意図」は記号の発信によってしか確認できない。吉田の定義に従えば、言語のシンボルとしての本質は「嘘がつける」という点にある、という格言が成立するだろう。言語学が言語の学でなく、人間社会の学にならざるを得ないのも当然である。

2015.04.08
    要するに、情報をシグナルとして利用する生物体からシグナルをシンボルとして利用する人間への進化である。

      (槇の注釈)ただ吉田が内記号から外記号への進化というのはおかしい。記号が生まれた時点において、生物体が内部と外部に区分され、同時に記号は内記号と外記号に分化した、と考えるべきである。ついでに言うと、18ページ上の方のシンボルの定義(記号表象と意味表象が、学習の結果、脳内で物理化学的に結合することで、シンボルは必ず意味表象を持つが、指示対象を持つとは限らず、持つとしても意味表象に媒介されてしか指示対象を持たない。)は不十分である。シンボルの定義には主体が事前選択をして意図的に利用する記号という限定が必要となる。ところで、昆虫は環境に対してDNAの変異で適応した進化の頂点であるが、人間は言語によって環境を改変することで生き延びてきたもう一つの進化の頂点である。最後に、19ページの派生二元論はあまりにも非常識な定義であると思う。

2015.04.13
     (3)の法則一元主義に対して、吉田はプログラムという概念を提示する。生物層、人間層においては、その秩序原理そのものが可変であり、可変である以上法則ではない。可変であるのは、その秩序原理が記号としてそのシステムの内部に存在するからである。DNAは生物層におけるプログラムの典型例である。

      (槇の注釈)吉田のプログラム概念は吉田の「内記号」と区別が付きにくいが、内記号の内で主体的に可変なもの、とでも定義しなおせば良いかもしれない。吉田と違って、プログラムをむしろ外記号にまで拡張して捉えたものが環境心理学におけるアフォーダンスと言えるであろう。ただし、下等生物にとっては外記号そのもの(担体それ自身)を変更することはできない。適応してその意味を変えることができるのみである。その意味で、吉田はプログラムを内記号に限定したものと思われるが、これによって吉田は環境心理学の「心は環境にある」という思想を包含できないことにもなった。

      生物層に法則があるとすれば、それはプログラムに関する法則であって、ダーウィンの進化論はその候補となりうる。

      記号がシグナルからシンボルへと進化しているように、プログラムもまたシグナル性からシンボル性へと進化した。これが人間層で見られるプログラムということになる。シグナル性プログラムが物理・化学法則で実行されるのに対して、シンボル性プログラムは主体の解釈を経由するから、必ずしも記号の本来の意味通りには実行されない。意味通りに実行されれば、それはむしろシグナルに近い。吉田はこうして秩序原理の自由度の増大を進化と捉える。その枠組みの中で、「意思の自由」、「主体性」、「実存的人間」を新しい科学の課題として採りあげることが可能となる。

     (槇の注釈)吉田のプログラムの定義では、プログラムは記号である、という条件が入っていて、これが可変であることの根拠にもなっている。法律などはその典型として説得的であるが、吉田がシンボル性プログラムの例として挙げている「経済法則(経済合理プログラムとその合成波及効果)」とか「慣習」とかが記号として我々の社会に内在していて、人々がそれを参照して行動しているといえるだろうか?その記号を変更することで経済法則とか慣習が変わるだろうか?出来ないからこそ人々は法則として思い描いているのではないだろうか?このあたりの定義のやり方はもう少しきちんと考えないと、「研究」する立場としては混乱するだろう。むしろ、大多数の重要なプログラムは記号として外在化されていなくて、それを外在化することこそがプログラム科学の第一の仕事なのではないだろうか?

2015.04.20
3.「経験的因果関係」を説明する3タイプの「理論的因果関係」

      正統派科学の因果論では、理論的因果関係と経験的因果関係が一致すべきものとして定義される。理論的因果関係とはその命題の記述そのものであり、経験的因果関係とはその命題が現実に経験されることである。つまり、法則である以上、理論的因果関係と経験的因果関係が一致するのは当たり前のことである。しかし、吉田民人の新科学においてはこれらは必ずしも一致しない。プログラムが語ることは必ずしも実現しないからである。むしろそのことが評価されることによってプログラムが改変される。

      かってマックス・ウェーバーは同じようなことを「社会学的規則」について語った。「意味適合性」と「因果適合性」である。規則(吉田の言うシンボルプログラム)にはその規則そのものの言語的意味と現実に規則が実行されるという2つの側面がある。後者はまたヒュームの考える因果関係でもある。ヒュームは因果関係の絶対性を認めなかった。因果関係は人間の願望の結果、そういう風に解釈されることで生まれる、という。つまり経験の積み重ねによって浮かび上がる(想定される)関係にすぎない。

      (槇の注釈)正統派科学の法則による因果論は、語るところの因果論が実験によって反証可能な形で語られていることが必要である。そうでなければ実証するための実験が組み立てられないからである。それでは吉田の新科学のプログラムによる因果論はどういう条件で実証可能になるのだろうか?法則に主体は無い。だからこそ法則が成立しない場合にどうなるかと想定すること(反証可能な形)が必要なのである。プログラムにおいて、それは何か?主体に対する他者を想定することに相当するのか?自らが主体となってプログラムを実行してその結果を見る、という行為が必須となる、ということか?価値観そのものを絶えず懐疑し検証し続けることによってのみ、設計科学が「科学」たりうる、という事にまで繋がるのであろうか?このあたりが充分に整理されていないように思われる。いずれにせよ、法則とは異なり、プログラムの場合には、それ自体の意味(認識)とその実行結果の齎す意味(評価)の2つが検証の対象となる。

2015.04.22
4.「自然の秩序」をめぐる新旧科学論の比較対照

      秩序の数学的構造が理論的、経験的、非経験的、線形的、非線型的、というさまざまな特徴を持つこと、それ自体は本質的ではない。正統派科学においては秩序原理は不変・普遍であると考えられたのに対して、吉田民人の新科学においては、新にプログラムによる秩序、可変・特殊な秩序を容認する。秩序の数学的構造が秩序の本質なのではない。それはプログラム次第でいかようにも変わる。レヴィ・ストロースの発見した親族構造の深層としてのクライン4元群という数学的構造は表層たる具体的な親族構造に先行しているのではなく、事態はその逆である。経済法則においても然り。人間が経済合理主義を選択するからこそ多くの経済「法則」がプログラムとして採用されているのである。

      自己組織性についてもまた法則的自己組織性(プリゴジンの定義)とプログラムによる自己組織性を区別しなくてはならない。後者はプログラムの実行状態という一次の自己組織性と、プログラム自体の形成、維持、変容、消滅という2次の自己組織性が必要とされる。そもそも社会科学で自己組織性が語られ始めたのは、集権的な社会秩序に対抗して分権的な社会秩序が構想され始めたからである。その経緯からして、自律分散系、つまりマルチエージェント型の自己組織性に偏っており、それが法則的自己組織性と類似していることから、法則的とプログラム的の区分が意識されないままになっている。実際には、集権的秩序は単一エージェント型の自己組織性に他ならない。こういう新しい見方は、正統派科学論では出てこない。新しい概念無しに新しい認識も生まれないのである。新しい概念を生み出すためには、帰納主義と演繹主義という方法論を超えて、アブダクション(仮説−実証)という方法が必要であり、吉田のプログラムという概念は正にその方法論によって生まれた。

      (槇の注釈)帰納主義と演繹主義は本来ギリシャからスコラ哲学期において、論争術、つまり他者を言論で負かす方法として(帰納的に)得られた方法である。当時、真理は言語によって対話を含めて頭の中で考えて得られると信じられていたから、これがそのまま真理探究の手法として意識されたのである。演繹のための定義や定理は聖書を始めとする過去の書物であり、帰納のための経験事実は当時の社会的、自然的観察結果であった。これらを整合的に説明することが求められたのである。そこでは具体的に生活の必要に迫られて工夫を繰り返している生活者や職人達の行為は無視された。しかし彼らの実学が世の中を動かし始めると、その成果を再度整理することになって、近代科学の方法論として「アブダクション」が意識されたのである。

2015.04.29
      生物は分子機械ではない。いずれもプログラムによって動くシステムではあるが、機械においてはプログラムが人間に拠って作られ、機械の外部に存在するのに対して、生物ではプログラムが自らによって作られ、生物の内部に存在する。吉田はここで、他の相違点として、プログラムの様式(数学記号か遺伝記号か)、プログラム創発様式(自由性か突然変異か)、選択様式(主体選択か自然選択か)、選択基準(目的合理性か適応度か)を挙げている。

     (槇の注釈)しかし、機械における自由性や主体選択や目的合理性は人間が主体となっているという意味で、あまり適切な表現とは言えない。主体が自己組織体に必須であるとするならば、機械それ自身は自己組織体とは言えない、というべきではないだろうか?物質・エネルギー世界(プログラム不在)→生命体(プログラム内在)→人間社会(同左?)→機械(プログラム外在)という「進化」の道筋の最後の段階についてはどうかと思う。もっとも、人間社会におけるシンボル性プログラムというのは、内在か外在かが自明ではない。動物ですらアフォーダンスをプログラムと考えれは外在である。法律は明らかに個人にとって外在である。要するに、人間社会はシンボルを利用した社会秩序に支えられているのであるから、人間関係の片方から見ればプログラムは外在(シンボル)であり、他方から見れば内在(シグナル)、という事なのである。人間は内在するプログラム(シグナル)を外在化(シンボル化)することで、改変することができる。改変されたプログラムを再び内在化する(自己暗示や訓練のようなもの)ことで環境に適応する。社会学において吉田が「プログラム」という言葉に込めた想いはそこにある。そして、このプロセスは他者が自分に対して行う事(マインド・コントロール)の模倣でもある。だから、社会性なしには個人の自由(自律性)もないのである。そして、この片割れである外在というあり方の極限が「機械」ということになる。つまり、物質・エネルギー世界になかった「主体」は生命体において誕生し、人間社会において「主−従」に分岐し、機械において「消失」して、人工物世界となるのである。正にデカルトの夢の実現である。

5.新しい学問体系をめぐって

      新しい学問体系の3つのポイント。
(1)認識科学に対置・並置される「設計科学」の提唱。
(2)物質科学に対置・並置される「情報科学」(生物学の半分と人文・社会科学)の提唱。
(3)法則科学に対置・並置されるプログラム科学の提唱。

      思想史的にまとめると、「神による全世界の創造」→「法則による全世界の生成」→「自然自身による自然の設計(認識科学)」+「全自然に対する人間の設計的介入(設計科学)」。こうして、吉田科学論においては擬似神学的世界観と最終的に決別して進化論的自然観に全面移行することになる。

     (槇の注釈)とはいえ、これは神が人間に置き換わったということに過ぎないように思える。
      吉田の新科学論は社会科学の在り方についての提言が主たる目的である。その意味で先駆的な社会学として、H.ガーフィンケルの提唱したエスノメソドロジーが重要である。「当事者の常識的知識と文脈要因(つまりプログラム)による相互行為の達成(指令)」と「達成された相互行為場面における当事者の常識的知識と文脈要因による説明(認識)」という、2つの過程の同時進行として社会学を捉える。提唱された当時、彼の考え方は社会学における「法則や客観性」を否定するものとして受け取られ、そのことで反科学的と批判された。しかし、エスノメソドロジーは、法則ではなくプログラムが秩序原理となる社会学を科学として位置づけたものであった。

      従来の工学は新科学論では、新たに「設計科学」として科学に含まれることになる。それは法則科学ではなく、プログラム科学であり、従来の自然科学だけでなく人文・社会学にも依拠する科学である。

      生物学はシグナル性プログラム科学として位置づけられる。シグナル性である限りにおいてその法則支配を免れず、プログラム科学であるかぎりにおいて情報科学としての性格を持つ。

      「計算機科学」を吉田は自然進化の第4層「計算情報層」を対象とするプログラム科学として位置づける。物質層から生物層が、生物層から人間層が、人間層から計算情報層が、それぞれ「創発」してきた、と考える。

     (槇の注釈)ロボットや人工脳やインターネットやシミュレーションの世界をどう考えるかであろう。それらが個人や社会の制御を超える日が来るのであろうか?それはともかく、そのような計算情報層の科学は物質層、生物層、人間層の科学とは本質的に異なる点がある。科学はあくまでも人間による科学なのだから、計算情報層の科学とは創発を齎した下位の層から創発後の上位の層を認識し、評価し、設計する、ということになる。これは人間が機械を認識し、評価し、設計することとどこが違うのか?設計した筈の計算情報層が人間層に思いもよらなかった作用を及ぼすこと、そしてそれが制御できなくなること、であろう。それは、結局人間層が全体としての主体性を持てず、分裂していることに由来する。核兵器や原発と類似している。計算機情報のプログラム科学は、そういう意味では、極めて政治的な意味合いを持つ事になる。

6.新科学論の科学史的意義

      最後に、吉田は自らの新科学論(第2次科学革命)を科学の外からの要請として捉えなおしている。第1次科学革命(17世紀)の基調は「科学のための科学」であった。職人技術と神学が結合して科学が科学として独立したのである。職人技術は科学の応用として下位に位置づけられて工学として栄え、神は科学の法則として背後に隠された。神という倫理的支柱を遠ざけてしまった工学の齎したものは物質的繁栄だけではなく、繰り返される戦争と環境破壊でもあった。そのプロセスによって要請されたのが、社会のための科学であり、それは研究対象を明示するならば、「人工物システム科学」とでもいうべきものである。Sustainability Science として、今正に誕生しつつある科学分野もその中に位置づけられる。学術会議での講演 もその趣旨であった。

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