2015.02.21

     火曜日に借りた「高橋悠治対談選」小沼純一編(ちくま学芸文庫)をざっと読んだ。学生時代に確か京大西部講堂だったかの演奏会で高橋悠治のバッハを聴いた記憶がある。反体制派で近代思想の批判者であったから、学生活動家に担ぎ出されたのである。小声でぼそぼそと解説しながらポツポツとまるで気のない弾き方でインヴェンションとかを弾いていた。普通の演奏家とは随分違っていて親しみを覚えた。元々は作曲家であるが、若い頃は他に現代音楽の難しい曲を弾く人が殆どいなかったから重宝されて仕方なくピアノを弾いている内にそちらのほうが有名になってしまったようである。現在はかなりな老人になっていると思う。それはともかく、彼の書くもの(殆どが雑誌やレコード解説などに掲載されるもの)が本として纏まると大抵僕は買って読んでいた。内容が完全に判るというものではないから、今まで書評も書いたことがないが、ところどころにとても気になる言説があって、インスピレーションのようなものを感じるのである。バッハやシューマンのレコードも買って、よく聴いていた。どうみてもピアニスティックとは言いがたい、というかロマン派的なピアニズムを拒絶して、即物的に弾いているところに何ともいえない暖かさを感じて、今でも好きである。

      さて、この対談選は殆どが70−80年代のものである。あまり興味のない部分も多かったが、村上陽一郎とのバッハについての対談、三善晃との主体性論争、ユン・イサンとの音楽方法論、武満徹との音楽論、浅田彰との演奏論、永沼哲との民族音楽論、などが面白かった。個別にはとりとめもなくて纏まらないが、全体として高橋悠治の姿勢というのは一貫しているように思われる。音楽というものを細部まで設計したものとは考えない。大衆の為に提供するものとは考えない。「自己」表現とも考えない。むしろ少数の仲間と一緒に共同作業で作っていくもの、と考えて、それを実践している。よく訓練された演奏家が正確に演奏するような音楽とは正反対の、その場その場で演奏者が少しづつずれていくような合奏のあり方を追求する。アマチュアとしての音楽であり、プロの音楽家はその習得した綺麗に音程やリズムを合わせる技術を一度壊さないと彼の求める音楽には参加できない。このような考え方は、彼の演奏論にも現れている。クセナキスのように確率論で作られたどう考えても不自然で演奏不可能な音楽は計算機の方が正確に演奏できる、と考えられるかもしれない。しかし、彼が演奏するために身体を教育し(最初はゆっくりと何回も練習し、所定の速度で弾けるまで繰り返す、やがて無意識に手が動くようになる)、クセナキスの音楽を人間化することによって、実際に起きる現象は身体の運動に必然的な癖のようなものによって生まれる人間性なのである。つまり、元々意味を拒絶したような楽譜が身体を経由することで「意味」を与えられる。彼はそのような「手仕事」に近代思想に犯された西洋音楽を乗り越える契機があると考えている。そして、J.S.Bachが1世紀前の様式の音楽に拘って器楽対位法の探索を行い、古典派への流れから取り残された姿勢がこの「手仕事」に重なるのである。彼のピアノ演奏が一見アマチュアの音のような素朴な暖かさを持っているのも、偶然ではない。
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