2011.11.15

  吉田民人という社会学者の基本的著作と言われる「自己組織性の情報科学」(新曜社)という本の要点をまとめておく。構成としては第I部−情報・情報処理・自己組織性が1990年に発表されており、その基礎となった第II部−情報科学の構想が1962年である。この第II部は大部であって、I−記号論の再建、II−情報と情報処理、III−個人の情報科学、IV−社会の情報科学、結語−持ち越された課題、となっている。ここではまず第I部を参考にしつつも、第II部のI−記号論の再建の内容を要約する。なお、これは三石博行氏との共同作業の一環である。

●動機
  吉田民人は当時の社会学が捉われていた自然科学、特に物理学の方法に倣った考え方からの脱却を必要としていた。物理学は自然の法則を探究するために、仮説を立て数学によって予測をし実験によって検証する。そこで確立されてくる「法則」は検証された限りにおいて世界を支配する法則である。社会学においても法則があるものと考えられてきたが、それは相対的なものである。しかも、物理学のような厳密な検証作業も難しい。様々な学説が入れ替わるだけで進歩もなく、役にも立たない。社会学において探究すべきものは法則なのだろうか?そうではないのではないか?社会学における検証作業とは何であろうか?このような問題意識から、彼は生物学という分野に注目し、そこで見出された情報の概念を所謂情報科学と統合することによって、その間に挟まれた社会学の方法論を見出そうとした。一般化された情報科学の一分野として社会学を位置づける事で、社会学のなすべき仕事を明らかにしようとしたのである。

●方法
  そのための枠組みとして、彼はウィーナーの自然観に立つ。これは存在論であって、世界は物質・エネルギーとそのパターンである、という一種の2元論である。厳密には存在としての2元論ではなく、物質・エネルギーはパターンを必ず伴う、という意味である。そのパターン一般を彼は最広義の意味での情報と定義した。古くはアリストテレスの質料と形相に相当するから、これはまずもって常識的な見方と言えるし、人間的認識でもあるから、その意味での限界もあるだろう。しかし、それはこの際あまり問題とすべきではない。ともかく、そのような自然観に立った上で、吉田は生物という存在を自己組織性を備えた新しい存在様式として考える。この生物という存在様式の吉田流解釈にこそこの書物の特異性がある。生物は自己保存し、増殖する。その本質についてはいろいろな考え方があるが、吉田は生物をプログラムを備えた情報処理システムとして考える。つまり、生物という進化段階に至って情報が自己の生存や自己の増殖のために利用されるようになる、と考える。つまり、生物に至って、初めて情報を利用する主体が登場する、と考える。生物機械論ではなく生気論を概念として認める立場である。そこで利用されるようになった情報は最広義として定義された物質・エネルギーのパターン一般だけではなく新しい意味を持つようになるから、これを広義の情報として定義するのである。更に、利用される情報というのは記号であり、その利用目的こそ記号の意味である、と考えることで、従来の(言語を想定した)古典的記号論から大幅に記号概念を拡張することにもなった。なぜ、記号として解釈しなくてはならないのか、それは情報の利用を更に解明していくために必要だからである。

●生体内記号/規約的=シンボルの定義
  記号概念を主体によって利用される情報として一般化するということは、生命現象における物質過程を記号概念で語るということである。これは物理・化学的な観点から見れば奇妙に見えるかもしれないが、生物の研究現場においては記号として語られることが多いのも事実である。実際、ホルモンや酵素といった分子はその分子式に意味があるのではなく、分子の形態や極性分布によって規定される機能に意味があるのだから、同じ機能を果たす別の分子式も可能なのである。その場合、分子式で語るよりは機能に名前をつけて語るほうが効率的であるのは言うまでもなく、それは既に記号として語っていることになる。こうして、彼は、生物個体内部にある記号の種類として、核酸記号や酵素記号(これらを合わせて高分子記号)、ホルモン記号を挙げて、これらを合わせて「分子記号」と呼ぶ(注1)。動物の進化において、情報を迅速に遠距離まで運ぶ必要性から神経組織が発達するが、吉田はそれの担う記号(興奮パターン)を「神経記号」と名づける。分子記号の場合よりは神経記号の方が記号として扱うことに正当性がある。何故ならば、分子式ならいざ知らず、どこそこの神経細胞が興奮しているという現象そのものからその意味を導くのはほぼ不可能だからである。神経組織は中枢を構成するが、大まかには皮質下と大脳皮質であり、大脳皮質で感覚や運動、連合などの新たな機能が生まれるから、まずは、前2者における情報を「皮質下神経記号」、「感覚運動神経記号」と名づける。以上の記号は記号の内でもシグナルと呼ばれる。シグナルというのは記号とその意味の関連(連合)が因果的あるいは相関的であるものを言う。つまり、その生物主体にとってそれ以外に選択の余地の無い関係で記号とその意味が結びついている場合である。それに対して、「心象」は大脳皮質の連合野に関わり、記号情報の記録、保持、再生、という主体の操作によってもはや指示対象から遊離しており、主体の選択によって意味が決まっている。これを「規約的な関係」と吉田は定義し、記号とその意味が規約的な関係にあるときにそれを「シンボル」と定義する。「言語活動」もこの意味でシンボルである。吉田はまたシンボル記号を狭義の情報として定義している。その中でも言語を最狭義の情報としている。

(注1)物質・エネルギーそのものを利用する生体の方法がATPとADPの変換である。エネルギーをATPとして蓄え、ADPに変換する事で消費する。そういう意味でATP-ADPは生体における「エネルギー通貨」である。それに対して、情報を利用するための通貨が記号である、ということもできる。それではATP-ADPは記号なのか?その意味はエネルギーそのものであって、情報ではないから吉田流の記号定義には入らない。しかし、常識的には記号と見るべきであろう。同様な関係にある貨幣もまた社会的富の通貨であって、情報を意味しないが、記号として扱われている。

●生体外記号
・リリーサー/生得的−習得的の定義
  生体内部でやり取りされる情報を吉田は内記号とまとめてしまい、生体外部に存在する記号を外記号と呼ぶ。記号進化は自然選択のプロセスであるから、外記号の利用がその契機となる。外記号は生物個体同士の情報のやり取りに使われる。つまり、フェロモンやリリーサー(生物の行動を促す分子)がまず考えられる。フェロモンは生得的であるが、リリーサーには生得的なものと、生後環境によって条件付けられる場合、つまり生物にとって習得的なものもある。「生得的リリーサー」は個物や他の個体を識別するための記号と社会的交渉の為の記号に分類される。その起源は基本的には個物とその属性とが相関的であることからそれに対する行動が自然選択されてきたものである。社会的交渉については動物行動学によって解明されつつある。神経系の副産物である、意向運動(反応の初期部分)や転位行動(反応が阻止された時に代替として発散される他の反応)が他の個体に認知されて、それに対する反応が自然選択されてきたものと思われる。当然ながら、それらの運動が充分に記号的、つまり区別しやすいパターンに様式化されている必要があるから、リリーサーの側もまた特異性や様式化を進化させることになる。生得的リリーサーが自然選択によって記号化されるのに対して、「習得的リリーサー」は主体選択、つまり生物主体が環境の変化と行動との相関関係に適応することによって獲得する記号である点が異なるだけである。条件付けの学習がそうである。生得的と習得的の区別は研究の進展によって変わる。

・状況記号/認知・評価・指令の意味分化
  リリーサーにおいては記号が直接行動に結びついており、その意味は指令作用であるが、人間においてはその記号が認知されながらも直接行動に結びつかないものが多い。それを吉田は「状況記号」と定義した。雨雲が雨を意味する、表情が感情を意味する、株価が経済状況を意味する、などが典型的な例である。状況記号においては、認知的な意味、評価的な意味、指示作用としての意味、に分化している。雨雲が来るべき雨を意味するとしても、そこに留まる限り認知であり、それが嫌な感情を齎すとすれば評価であり、傘を持っていくという行動に繋がれはそれは指令作用である。

・シンボル/規約性と写像性の相異
  この状況記号が発信者によって意図的に使われる場合(多くは騙すため)には意味との連合が規約的になるので、シンボルと見なさねばならない。元々はシグナルであったものを意図的にシンボルとして使用するので、吉田は「シグナル性シンボル」と定義した。それはシグナルの模倣段階である。更に社会生活の中で習慣化し、定型化して、握手や敬礼などの身振り言語や警笛や交通信号などの標識になってしまう場合があり、吉田はそれを「慣行性シンボル」と定義した。内シンボルでの心象と言語活動に対応する外シンボルはそれぞれイコンや肖像画等と(外)言語である。ここで吉田特有の表現として、心象とその生体外対応記号一般を映像性シンボルと定義している。これはかならずしも映像的なものばかりでなく、音声的なものも含まれる。それらと言語の相異は、これも吉田特有の表現であるが、「写像性」ということである。写像性というのは記号と意味との関係が「自然法則」によって想定されうるもの(関数関係がある)として定義され、主体が関わるかどうかには依存しない定義であることが規約性と異なる。心象は写像性であって規約性、測定信号は写像性であって非規約性、ということになる。言語は勿論非写像性で規約性である。更に、シグナル性シンボルは写像性で規約性であるが、慣行性シンボルは非写像性で規約性である。こうしてみると、慣行性シンボルと言語との相異は何であろうか?吉田は前者が単一組成、つまり非単位合成型であるのに対して、後者が単位合成型であることに注目する。それによって記号としての飛躍的な効率化が齎されたのである。(槇注:単位の合成方法としては、空間的配置と時間的配置が考えられる。言語で言えば、前者から後者へと順に並べることが出来て、手話−孤立語(漢字や象形文字)−膠着語(ウラルアルタイ語)−インド・ヨーロッパ語ということになるだろう。これらの吉田特有の定義は、「自然法則」(関数関係)をどのレベルで想定するか、また「主体」をどう想定するかで、内容が変わってくることに注意しなくてはならない。つまり、その人の専門分野や思想信条によって用語の意味する内容が変わってしまう危険性がある。)

  シグナルからシンボルへの「進化」は大脳皮質の発達による、記号操作(記憶、保存、再生)による表象能力とパターンの汎化・分化能力を必要とした。具体的な対象から離れてその機能や特徴を抽出する、つまりカテゴリー態度である。そもそも記号そのものがそういう性格を持っているわけであるが、分子記号などは化学反応による機能の選択がその役割を果たしているのに対して、シンボルに至っては主体が意図的に、つまり情報操作によって、そのカテゴリー化を行う。シンボルが更に単位合成型の言語の段階に達するための淘汰圧力としては衆目の一致するところ社会的交渉の必要性である。人間においては更に喉の構造変化による構音能力が最終的に音声言語の発達を促したと考えられている。

・シンボルの効用
  記号と指示対象の分離が可能となると、生体の情報処理活動に画期的な変化が齎される。すなわち、(1)現在に束縛された生活空間がシンボル性の意味変換によって、過去と未来と架空の世界へと拡がり、(2)仮想的情報処理によって問題解決が容易となり、(3)反応の刺激拘束性から解放されて意思の要因が導入され、(4)学習効果が高められ、(5)伝達意思を持った個体間コミュニケーションが生まれ、(6)遺伝に依存しない世代間情報伝達(文化)が発生する。これらが言語という効率の高いシグナルによって強力に推進されたのが現世人類の歴史であった。

●進化と記号/内包と指示、固有意味(表示)と変換意味(含意)の定義
  情報の利用とは具体的には、その情報を得て何らかの反応(分泌や行動)を起こす事である。これがもっとも原初的な関係であり、記号とその意味に対応する。しかし、記号から最終的な意味に至るプロセスは必ずしも単純ではない。吉田は、そのプロセスを他の記号を意味する場合(これを「内包」された意味と定義する)と記号でない情報(これを「対象」と定義する)を意味する場合(これを「指示」された意味と定義する)に分類し、一般的には記号−意味の連鎖が内包の繋がりから最終的な指令へと繋がる、という風に理解している。例えば、餌を発見した時にそれが、感覚神経記号となり、空腹であれば摂取行動の心象記号となり、運動神経記号となり、最終的に摂取行動という対象になる。これは因果関係のようでもあるが、記号−意味の連合は因果とは必ずしも関係ない。例えば、餌の単純な認知の場合には感覚神経記号が餌という対象を意味するのであるから、因果がむしろ逆転していると言える。そこで、吉田は固有意味と変換意味を区別する。餌が齎す生体内記号(感覚神経記号)が餌そのものを意味するとき、これを「固有意味」とし、感覚神経記号が餌を「表示する」という表現を採る。これに対して、感覚神経記号がその齎す結果を意味するとき、それを「変換意味」とし、「含意する」という表現を採る。何故なら、生体によって、感覚神経記号が例えば摂取行動の心象記号へと「情報変換」されているからである。

  ところで、認知という段階は人間が自分の事としては理解できるが、他の動物が認知という段階を経ているかについてはなかなか難しい議論となる。しかし、行動は観察できるのであるから、少なくとも記号は何らかの指令をしているのである。人間に至ると、自覚的に認知→評価→指令という3つの段階が区別できるから、吉田はそれらの区別がどうやって「進化」してきたかを語ることになる。これらの分化は明らかに神経細胞組織が出来上がって以降(腔腸動物以降)である。吉田流で見た神経記号の進化は(1)受容器神経と効果器神経がホルモンで繋がっただけのレベル(腔腸動物)、(2)受容器神経と効果器神経が脊索を形成して繋がり、感覚性記号と運動性記号に分化するレベル(脊索動物)、(3)中枢神経の専門化によって、快不快の中枢が生じて、評価記号が分化するレベル(魚類、両生類、爬虫類)、(4)大脳皮質が発達し、皮質化された感覚、感情、運動記号が分化するレベル(鳥類、哺乳類)、(5)大脳皮質による感覚表象が可能となり、心象記号(映像性シンボル)が分化するレベル(霊長類)、(6)言語記号のレベル(人類)、ということになる。とりあえずは常識的な理解というべきであろう。

  (槇注:吉田は自動制御や電子計算機の発展によって生じた機械記号を取り上げて、シンボル、言語に次ぐ第3段階とまで強調している。確かにこの「情報革命」の人類史におけるインパクトは大きい。しかし、吉田はその充分な展開は行っていない。機械が情報処理を行うのであるから機械が主体なのか?それとも機械は人間の道具に過ぎないから機械によって生まれた記号は人間が主体なのか?その点が曖昧である。吉田は生命体における主体概念に機械における情報処理概念を結合させて記号論を拡張してみせたのであって、逆に機械における情報処理概念に生命体における主体概念を結合させる処までは考えていない、というべきであろう。しかし、情報処理によって最終的に行動指令がなされる以上、機械が主体を持つように見えたとしても不思議ではない。既に金融業界にその亡霊が見えるし、SFにもしばしば採りあげられている。)

●記号論と情報科学
  古典記号論の3部門、Syntactics(統辞論)、Semantics(意味論)、Pragmatics(語用論)は吉田記号論によって拡張される。Syntacticsは文章構成法ということであるが、一般化されて記号の形成様式の研究がテーマとなる。例えば絵画は色と形の配合として研究することもできるし、小説の構造なども含まれる。要するにパターン形成論となる。単位合成型かどうか、規約型かどうか、更には写像型がどうか、ということである。Semanticsは指示作用か内包作用か、表示作用か含意作用か、認知・評価・指令のいずれの作用か、ということである。(言語学では認知作用しか採りあげられなかった。)Pragmaticsは一般的に情報処理、すなわち情報の伝達・貯蔵・変換をテーマとする。以上で吉田情報論への準備が出来たことになる。
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