加治丘陵に残る滝山古街道その5 地図はこちら

私が始めに書かせて頂いたように、加治丘陵の鎌倉街道を知った切っ掛けは芳賀善次郎氏の『武蔵野の万葉を歩く』という本でした。飯能市の入間川の岸にある阿須運動公園には万葉広場というのがあります。ここに阿須という地名が載る万葉二首の碑があります。阿須(阿受)とは崩れた崖をいみし、ここ飯能市阿須には入間川の浸食でできた加治丘陵の北側の崖が存在します。万葉広場から南側の丘陵は野球場南と駿河台大学の南が崖になっていうのが見渡せます。

飯能市阿須は地名がその崖があることからつけられたと考えられます。

十四 巻3539
あずの上に駒を繋ぎて危ほかど 人妻児ろを息にわがする

十四 巻3541
あず辺から駒の行こ如す危はとも 人妻児ろをまゆかせらふも

上の一首目
崩れそうな崖の上に繋がれている馬が危ないように、私は人妻である、あなたを恋してしまった。もし止めようとすれば、ただちに命を失うほかはない。

二首目は
崖っぷちを行く馬のように危ないことだけれど、人妻であるあなたに目配せして、誘ってみよう。

何だか不倫を犯そうとしている歌のようですね。まあ、恋愛の苦手な私には無縁の歌のようです。

左の写真は加治丘陵の崖を下りてきて、県道豊岡入間線を渡ったところの古道伝承の残る小道にある石地蔵です。

阿須の二首は東歌の中の国名の明らかでない未勘国歌という首で、直ちに阿須が歌のふる里というわけではないそうです。芳賀善次郎氏の本によれば、他にも歌の候補地があり、東京都稲城市にやはり多摩川によって削られた崖があり、そこもアズの地と考えられているようです。そして奇遇にも、その稲城市の地にも鎌倉街道伝承の道が通っています。

右の写真は加治丘陵を越えてきた古道が入間川を渡ったとされる、渡し場付近にある阿岩橋です。

阿岩橋から南を振り返り、駿河台大学の校舎の奥に古道が越えてきた加治丘陵が見渡せます。

ここ飯能市の阿須は万葉の歌が残されるような古代から知られたところだったのでしょうか。その真相は私にはわかりませんが、この橋の上から見られる入間川や加治丘陵、更には秩父の山並みは本当に美しいところです。古代の人が思わず歌を作ってみたくなったとしても不思議ではありません。しかし、この景色から不倫の歌はちょっと、どんなものでしょうか?

『新編武蔵風土記稿』高麗郡阿須村の項に「村内に西上州より相州へ通ふ路あり、北は岩澤村より南の方寺竹村へ達す、道幅一間余り古の鎌倉道なりと云、又秩父郡より相州への一路あり、乾の方川寺村より来り、当村にて鎌倉道と会す」とあります。この鎌倉道は紛れもない寺竹村の瀧山古海道と同じものと思われます。また、岩澤村の項に「村の西寄に上州より相州への往還一条係れり、北は双柳村より、南は阿須村に達す、鎌倉古道なりと云」とあります。

左の写真は阿岩橋を北に渡ったところの切通し道で、この道を北へ行けば岩澤に向かいます。写真の切通し右手には説明版があります。大山街道と渡船と題し、橋が架けられる以前は渡船場があり、ここから川を渡り神奈川県の大山阿夫利神社へと道が通じていたといいます。その道は鎌倉街道の裏街道で、この辺りでは鎌倉街道というより、大山街道のほうがなじみが深く、道しるべなどにも、たいてい大山街道となっているという内容が書かれていました。

昔のままの鎌倉街道 1. 2. 3. 4. 5. HOME