加治丘陵に残る滝山古街道その4 地図はこちら

直線的な堀割道を下った辺りは、道は木の枝が覆い、枯れ葉の下は湿地帯のようなジメジメした泥濘です。しかし堀割状の形態は続いています。左の写真付近は緩やかなS字状に道はくねり、その先は両壁が崩れている切通しです。

私がこの加治丘陵の古道を知ったのは芳賀善次郎氏の『武蔵野の万葉を歩く』と言う本でしたが、ここの道の写真をプリントして横浜のある鎌倉街道に詳しい年輩の方にお送りすると、貴殿の参考資料に『鎌倉街道』田村栄・誠文堂新光社がないようですねと返事がきました。

田村栄氏の『鎌倉街道』は各地に残る鎌倉街道を撮影した豪華写真集です。この本は今は廃版のため手に入れることは難しいのですが、たまたま市の図書館にあったのでコピーをさせてもらいました。その本にも「加治丘陵の古道あと」として、この道の写真が載っていて、その写真が上の写真とほぼ同じ位置のものです。84年5月26日とあり今から18年前のもののようですが、現在も全く変わっていないようです。

この加治丘陵の鎌倉街道について、私の知る限りでは芳賀善次郎氏の『武蔵野の万葉を歩く』と田村栄氏の『鎌倉街道』だけがこの道のことが載っている資料です。

左の写真は切通しがおわり、右手から踏み分け道のような道が合流した地点のものです。この辺りの道の姿が一番鎌倉街道らしい雰囲気が残ります。道幅もそれなりの広さがあります。

右の写真は上の写真を撮影した位置から角度を変えて撮影したものです。ここは堀割状遺構のとうな道の姿をしています。

さて、この道を紹介するにあたって私は「滝山古街道」と称した理由をお話したいと思います。
実はいつもの如く『新編武蔵風土記稿』にこの道のことが書かれていないかと調べてみたのです。この加治丘陵は武蔵国の入間郡と高麗郡の境で、入間市側が入間郡で飯能市側が高麗郡というようになるのです。

『新編武蔵風土記稿』入間郡寺竹村の項に「村内に一条の道あり、青梅村より扇町屋への往来なれば、則青梅街道と唱へり、外に瀧山古海道と称する往還あり、峰村より入りて高麗郡阿須村へ達せり」とあります。寺竹には西海道や打越といった古道に繋がる地名があるようです。また峰村の項には「古此辺を拝島領と唱へ、瀧山城付の村なりしと云、今村の東南に瀧山街道と唱ふる所あり、昔瀧山城より鉢形城への往来なりし由、今もかく云は其名残なるべし」とあります。

この道は後北条時代の滝山城から鉢形城へ結ぶ道だったようです。滝山城から本拠地の小田原迄は多摩丘陵を越える御殿峠古道や七国峠古道及び八王子市館町に伝わる「恋路の坂」と称する鎌倉街道山ノ道等を通り繋いでいたと思われます。そしてこの道筋上には更に古い時代の関東平野の西端を南北に繋ぐ古い道があったと考えられています。

上の堀割状遺構のようなところから更に北へ進むとやがて視界が開け崖の上にでます。そこから駿河台大学が目の前に現れ、道は消えています。
注意・かなり急な崖です。先には進めません。


この加治丘陵の古道は駿河台大学の南の崖上で現在は消えています。古道としては崖上から現在の駿河台大学の東側、或いは西側を崖伝いに周り込むようにして下っていったと思いますが、そのような道は現在はありません。古道は入間川の阿岩橋付近を渡河していたと考えられていますので、その付近へ下りていったものと思われます。
古道をこの崖上までこられた方は、一旦、鉄塔近くの舗装路まで戻り、その舗装路を道なりに下っていき、駿河台大学の東側から丘陵を南に越えて行く車道に出ます。後はその車道を駿河台大学前まで北へ坂を下り阿岩橋へと向かうことになります。

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