埼玉県南部のルート

現在、東山道武蔵路のルートとして東京都内のルートは、ほぼ確定しつつあるようですが、埼玉県内のルートとしっては残念ながらそのルートの解明は進んでいません。唯一所沢市内の「東の上遺跡」で発掘調査された遺構があるのみで、東京都府中市から所沢市までの間で確認されているルートを基にその延長線を辿って、川越市付近までは有力な道筋の候補が上げられています。しかし、そのルートとしても決定的な道路遺構などは確認されているわけではなく、鎌倉街道伝承路と奈良時代の遺跡等を考慮して結んだだけのものです。そして川越市以北のルートに関しては研究者の間でも様々な説があり、未だにそのルートは霧の中に閉ざされているという状況であります。

当ページを作成中の最中(2002年2月20日)に新聞の埼玉版覧に「古代の官道と橋脚跡 吉見で出土 多彩な土木技術」という見出しが載っているのを見ました。そして24日に遺跡説明会が行われ見学して参りました。その内容は埼玉県北部ルートで紹介したいと思います。


所沢市東の上遺跡
(南陵中学の東側の道路端にある説明版より)


波板状硬化面の拡大

所沢市東の上遺跡
東の上遺跡は所沢市内を流れる柳瀬川の左岸台地上にあり、南住吉・久米地区に広がる30万平方メートルに及ぶ大遺跡です。旧石器時代から古代・中世に至る複合遺跡で、平成元年(1989)の第36次調査で、南陵中学グラウンドから全長約100メートルの直線道路遺構が検出されました。両側に側溝をともない側溝間の芯々距離12メートルで、その両側溝内に3〜5メートルの硬化面も確認されています。この道路遺構は道路の幅、直進性、走行方向が南は東京都内の府中市や国分寺市で発見されている東山道武蔵路と一致することから同じ遺構と当初から考えられていました。

道路遺構は過去に確認されたものと合わせると総延長300メートルに達し、走行方向は真北に対して約10度西に傾いています。側溝は長い土坑が連続して、幅約1メートルほどに統一されていて、直線性を推持し両側溝は平行を保っています。

側溝の深さは0.3〜1メートルと一定せず、側溝の底から人為的に埋納されたと思われる須恵器杯蓋と杯身の完形を保った土器2点が出土しています。また以前の調査で硬化面に道路の修理等で混入したと思われる須恵器長頸壺が出土していて、これらの出土遺物から道路の築造年代は7世紀第3四半期と考えられているようです。

硬化面の横断面は中央が窪んだ皿状で、3枚の硬化面が認められ最も良好な第一期硬化面に波板状凹凸面と呼ばれる特殊な工法が確認されています。波板状硬化(凹凸)面は他の道路状遺構でも多数例が確認されていて、路面舗装のための路面下基礎部(路床)として造られたとする考え方が一般化していますが、その他の説としては泥濘等の修治のために造られたとするものや、重量物を運ぶ修羅を動かすための枕木の痕跡であると考える説などがあり、現状ではその用途はハッキリしていないようです。波板状硬化面に関しては今後の検討が必要であるということです。

道路遺構の両側には7世紀後半から8世紀前半で、規模の大きな竪穴住居跡や倉庫と思われる堀立柱建物跡が多くみられ、それらの建物跡は道路から一定の距離をとって建てられていて、道路を意識した計画的な集落構成をとっていた可能性が考えられています。

8世紀中葉から後半になると住居の中には側溝に近づくものや、側溝と切合うものがあり、側溝を壊して建てられていた住居跡から検出された須恵器は8世紀後半を示すもので、この時期に側溝は埋められていたものとされます。しかし道路面は3〜5メートルに縮小されたものの硬化面は存続していて以後も道路は使用され続けたものと考えられています。

その後の調査で道路遺構から東へ100メートル離れた住居跡から馬の戯画が描かれた漆紙文書も発見され、また鉄製馬具や「田」の文字と思われる焼印など特異な出土品もみられ、ここ東の上遺跡は武蔵国府から数えて二番目の駅家があったのではないかと考えられているようです。

所沢市の東の上遺跡から北の東山道武蔵路はどちらの方向へ続いているのでしょうか。現在最も注目されているのが堀兼道と呼ばれる鎌倉街道の支道が上げられます。この道は東京都内を南北に通る東山道武蔵路のほぼ延長上に続く道で、現在でも極めて直線性を保っていて、部分的に2本の道が並行していて帯状の地割をしめしています。

途中で並行する2本の道は現在東側の道が6メートルほどの幅で一般的な車道として使用されています。一方西側の道は4メートル前後の幅で部分的に未舗装のところもあり車の走行はほとんどありません。東西2本の道の間隔は15〜20メートルでしょうか。この道の間の空間はほとんどが山林化していて、所々に人家も建っています。そしてこの並行道の間こそ古代道であったと研究者は考えているようです。また一部この並行道の間で所沢市側が狭山市側に市境界が北へ細く入り組んだ部分が存在し、この境界線部分も古代道跡ではないかと考えられているようです。

狭山市に入って並行道の西側の道が終わった付近から少し北に行ったところには、『枕草子』などの歌枕として名高い「堀兼の井」が存在します。更に北へ進むと埼玉県教育委員会による鎌倉街道の調査で確認された堀割状遺構なども現在しています。中でも加佐志の街道遺構の道は現在では一部舗装路となってしまっていますが、その東を平行して進む現在道との間隔は先に説明した所沢市と狭山市の境付近の並行道とほぼ同じ幅と見られ、この間が古代道であるとも考えられなくもないように思えます。

現在の堀兼道の北の延長は狭山市新狭山の本田技研工業地で一旦途切れます。しかし、その延長線上の川越市大袋新田の山林内に鎌倉街道の遺構と思われるものが存在します。この堀兼道の延長ラインを更に北へ延ばしてみると川越市の八瀬大橋付近で入間川を渡ることになりそうです。


八幡前・若宮遺跡
入間川を渡って河川敷から台地上に上がった直ぐのところに若宮八幡神社があります。平成5年(1993)にこの付近でアパート建設にともなう遺跡の発掘調査が行われました。その結果、あまり注目されたことのないこの土地の遺跡から古代駅路の駅家跡を想定させる遺物が発見されて話題になりました。

「驛長」と書かれた墨書土器がこの遺跡から出土したのです。驛長とは駅家を管理する長のことで、その驛長が使用した土器と思われるのです。

遺跡の調査範囲は狭いながらも土坑群・井戸・竪穴住居・堀立柱建物・柱穴列などが検出されています。奈良時代の土坑群から出土したのが「驛長」と書かれた土師器杯です。

その他にも開口部の直径が10メートルもある井戸跡では、出土遺物から奈良時代から平安時代までの200年間も使用されたことがわかり、この井戸からは関東ではあまり出土例が少ない木簡が検出されていて、この木簡は酒造りに係わる帳簿木簡という珍しいものだそうです。

ここは所沢市の東の上遺跡からおおよその距離で標準駅間の16キロのところに位置していて、「驛長」の墨書土器や大きな井戸など、この付近に武蔵国府から三番目の駅家があった可能性を暗示させてくれます。

女堀遺跡
八幡前・若宮遺跡から堀兼道の延長ラインをもう少し北へ延ばしてみると、今は宅地造成でなくなってしまっていますが、女堀遺跡という中世の堀跡へとつながるようです。

女堀は堀兼道の延長ライン上にかって存在していて、420メートルにわたり、上幅8〜9メートル、底幅1〜2メートル、深さ2.5メートルもある堀跡であったそうです。更にこの堀の東側に12メートル離れて並行する小溝が検出されていて、研究者によると女堀と並行する東側の小溝が古代道の側溝ではないかと考えられていうようです。

西側の側溝であったと思われる女堀は後の時代に拡大使用されたものと考えられ、同じような例が群馬県境町の牛堀が、古代道路の北側側溝を拡大したといい、また、これに連なると思われる新田町の新田堀用水が古代道の北側側溝を拡大したものだと考えられているようです。

東山道武蔵路のルートして現在までに研究者により想定されているのは、堀兼道とその延長ライン上の川越市の女堀遺跡までのようです。そこより北は坂戸市の勝呂廃寺や宮町遺跡などの古代の遺跡付近までは、その北への延長上にあることから、おそらくそれらの遺跡の近くを通っていたのではないかと考えられているようです。坂戸市より以北は数少ない資料を基に埼玉県北部ルートで説明したいと思います。ここでは川越市・鶴ヶ島市・坂戸市で発見されている古代の遺跡を参考までに簡単に触れておきます。

霞ヶ関遺跡
霞ヶ関遺跡は川越市上戸新町の入間川と小畔川に挟まれた地で発見されました。昭和40年代から発掘調査が行われていて、東山道が近くを通っていたと考えられていることから、陸路と入間川などの水路による交通の要衝であったと思われています。平成7年(1995)から実施された調査では大型の堀立柱建物跡と区画目的で造られたと考えられる溝や塀、柱跡等が確認されています。大型堀立柱建物跡とこれに並行に直行する堀立柱建物跡が調査され、建物群の溝と大型建物の柱穴から「入厨」の文字が書かれた平安時代初期の墨書土器片が発見されています。これら「入厨」の墨書土器や大型の堀立柱建物の規格的配置は、この遺跡とこの地域が入間郡の役所関連の施設が存在した可能性を伺わせてくれます。

光山遺跡群
川越市の西端の笠幡地区は鶴ヶ島市と日高市に挟まれ高速道路の圏央道が走っています。高速道路の建設にともない光山遺跡群の調査が行われています。奈良時代を中心とした遺跡で、竪穴住居跡や堀立柱建物跡に井戸や区画溝、そして多数の遺物が発見されています。馬具や「馬」の文字の書かれた墨書土器が出土していて交通や流通に関連した遺跡と考えられています。北側の鶴ヶ島市深山遺跡では9世紀後半頃の幅約10メートルの道路遺構も調査され、この付近には鎌倉街道などの中世古道の通っていたことも指摘されています。その他珍しいものとして鉄製の鍵が出土しています。また高麗郡との関連も注目されているようです。

入間川の八瀬大橋から的場方面を眺める   坂戸市の勝呂廃寺跡

若葉台遺跡
鶴ヶ島市と坂戸市にまたがる若葉台遺跡は旧石器時代から近代までを網羅した複合遺跡で、遺跡の範囲は36万平方メートルを越える大規模なものです。出土した遺物や遺構は奈良・平安時代のものが圧倒的に多く、この遺跡は一般に奈良・平安時代の遺跡と位置付かれています。若葉台遺跡B地点からは四面庇をもつ東西棟の大型建物とこれに直行する長大堀立柱を含む堀立柱建物群などが検出されています。出土遺物として青銅鈴、奈良三彩、円面硯、帯金具、「王」の焼印のある木皿などは一般集落には見られないものとして注目されています。若葉台遺跡は群衙説、豪族居館説、荘庁説、郡司居館説等が考えられていて、一般集落でないことは明らかではありますが、大型建物や規格的配置の建物が少なく郡家というよりも郡大領か郡小領の居館である可能性が高いとみられているようです。

宮町遺跡
宮町遺跡は坂戸市の北東部に位置する奈良・平安時代の集落跡と考えられている遺跡です。平成元年(1989)に発掘調査が行われていて竪穴住居跡や堀立柱建物跡などが発見されています。遺物として多数の墨書土器や金属器を模倣して作られた黒色土器の稜椀や、中でも奈良時代中期の住居跡から出土した釣鐘形の石製のおもりと、三個のリング状の金具は物の重さを計るのに用いられた「棹秤」の一部であることがわかり注目されています。墨書土器の中に「路家」と書かれたものが出土していて、この遺跡が主要交通路に関連した物資の集積・管理を行った「市」のような性格をもつ集落遺跡であることが考えられています。

勝呂廃寺
勝呂廃寺は7世紀後半に建立された埼玉県最古の寺院の一つと考えられていています。昭和54〜58年(1979〜83)に発掘調査が行われていて、基壇状の遺構、大溝や大型堀立柱建物跡などが発見されています。また塔の相輪の一部や多量の瓦が出土しています。基壇状遺構は堅牢な構築方法ではないため、金堂や講堂などの主要建物とは異なる寺院の関連施設と考えられています。大溝は寺の周囲を巡るように掘られていると考えられていますが、調査範囲が限られているため寺域の確認はできていません。大型の堀立柱建物跡は大溝同様に全体の調査が行われていませんが、四面庇の建物であったと確認されています。この寺の創建は渡来系氏族の勝氏が深く関わったものと考えられていて入間郡寺に比定され、堀兼道の延長ライン上にあるこの寺は駅路に近接して建てられたことが伺われます。