鎌倉街道とは何か。

 鎌倉街道についての関連書を見てみると共通してだいたい次のような説明になるようです。
 中世において鎌倉から関東諸国をとおり信濃や越後、そして陸奥などの地方を結ぶ交通路で、いわゆる鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と馳せ参じた道であり、 鎌倉時代から戦国時代までの関東武士の栄枯衰退の歴史を物語る道である。しかし実態としては詳細な道筋や姿はあきらかでなく「幻の道」と呼ばれている。
 とまあこんな具合である。

 鎌倉街道とはいっても一つの道ではなく、広い関東地方だけでも現在までの研究等でわかっていることは 主要幹線としての三本の道「上道」「中道」「下道」と呼ばれている道が存在したということです。上道、中道、下道という呼び名の由来は、ハッキリしたことは解っていないようですが、古代の都のある奈良盆地に、これと同じ呼び名の道が存在するそうで、そこから名ぞらえて来ているとも言われています。
 それから鎌倉街道というこの道の呼び名ですが、 これも関係書等で共通して説明していることは、江戸時代の文政年間に編さんされた『新編武蔵風土記稿』に「鎌倉街道跡残れり」とか「鎌倉古道と唱る所あり」などと書かれていて、 どうやらこの頃からそう呼ばれるようになったようです。それは又江戸時代には江戸を中心とした五街道が整備され鎌倉街道はすでに主要幹線路ではなくなり古道化していたと言えましょう。

 それでは鎌倉街道が主要道として機能していた鎌倉時代や室町時代の中世にはこの道は何と呼ばれていたのか。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には 「奥大道」「下道」というのがでているそうです。又南北朝の『太平記』には「上道」「下道」、『梅松論』では「武蔵路」「下道」、などと書かれているそうです。 しかしこれらの史書の呼び名はそれぞれ共通の道筋を指していないようで例えば『吾妻鏡』の「下道」はその道筋から後の「上道」と考えられています。 そしてこの「上道」「中道」「下道」のような呼び名は鎌倉とその周辺部あたりにかぎられて呼ばれていたようで、それ以遠は『吾妻鏡』の「奥大道」のような 呼び方が使われていたのではないかと考えられているそうです。又「大道」という呼び方は、 古くは「日本書紀」にも見られるそうでこれはつまり鎌倉街道のさらに古い元の道は古代からの主要道と繋がりがあると言えるのではないでしょうか。

 次に鎌倉街道で今回ご案内する「上道」以外のだいたいの道筋をあげてみましう。
 (上道の説明は左をクリックしてください。 上道について )
埼玉県内を通る「上道」以外の鎌倉街道としては「中道」が鎌倉の巨福呂坂を越えた後、大船、横浜市の戸塚あたりを通り、鶴峰、中山、荏田、 二子玉川、渋谷、新宿、王子、岩淵(赤羽)、旧入間川を渡り川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻、幸手、栗橋、利根川を渡り古河、小山、宇都宮を経て奥州へ向かい、 この道は「奥州道」とも言い一部近世の日光御成街道として使用されていたようです。
 また埼玉県内にはこれらの道以外にも飯能から秩父を通り上州へ抜ける「秩父道」や「上道」の所沢から富士見、浦和、大宮、上尾、白岡、加須を通り 「中道」に繋いでいた「羽根倉道」という連絡路もあったということです。又これら以外に枝道、脇道など至るところに通ていたようです。
県外では「下道」が鎌倉から 金沢を通り都内・千葉県を東京湾沿いに下総国府方面に向かいその後常陸の国へと繋がっていたようです。
それら以外にも注目されている道筋として古代「東山道武蔵路」を踏襲したと思われる「堀兼道」や神奈川県相模原市橋本から都内の町田市相原町を通り八王子市片倉町に至る「御殿峠古道」はその先秩父道へと続く道と考えられ、この方面には羽村の「まいまいず井戸」などがあり埼玉県の奥武蔵の山ふところを北上する「山辺の道」と呼ばれる古道とも繋がりそうです。又都内の府中から中道・下道への連絡路とも思われる稲城市百村から川崎市麻生区に続き荏田・中山付近で「中道」に合流したと思われるルートは途中大規模な遺構が存在し注目されています。その他にも鎌倉街道と呼ばれる注目すべき道筋が幾つか有り、最後に京都と鎌倉を結ぶいわゆる東海道も鎌倉街道であったわけです。


埼玉県内の主な鎌倉街道



次に鎌倉街道の特徴あげてみましょう。

鎌倉街道は名称の由来のところでもちょっとふれたように、鎌倉時代以前から使用されていた官道や各地域を結ぶ郡衙路などを鎌倉幕府の成立後に整備・編成された道と 考えられていて、古代或いはそれ以前にこの地域を通る重要路の前身があって、そういった古代の道との比較を考慮して検討していかなくてはならないと思われます。
鎌倉街道の特徴として高橋源一郎氏の『武蔵野歴史地理』に説明されている内容と多くの研究されている先生方の資料を 基に簡単にまとめてみるとだいたいこのようになるようです。

  1. なるべく平坦で最短距離を結びそして高低差の少ない坂道を選んでいて部分的には曲がっていても全体としてみれば直線的な道である。
  2. 尾根や坂道では掘割状の凹道となり、台地や原野では道の両側に土手を築くことがある。
  3. 二里から三里の間に宿をもうけ、宿のあった辺りには社寺が多い。
  4. 宿の近辺以外は台地・微高地の尾根を多く通り、又河川流域の段丘を多く通っていることからおのずと村と村の境界を通ることが多い。

● 鎌倉街道は道としてどの位の幅員があったのでしょうか。

 埼玉県教育委員会の歴史の道調査報告書に次のような内容のもんがありす。
 寄居町赤浜から荒川を渡河した地点で、そのまま花園村を南北に縦断して深谷、岡部、 本庄方面に向かう鎌倉街道は花園村内では通称「榛沢瀬」(はんざわせ)と呼ばれる道である。 伝承によると、 榛沢瀬の名の起こりは、建久四年三月、征夷大将軍頼朝が下野那須野、信濃三原に大巻狩りを行った際、 その威光の誇示と道中の安全を計って榛沢瀬左衛門なる人物に 築かせたことに始まるといい、 瀬左衛門は沿道の住民を駆使して荒川の河岸から岡部町榛沢村の辺りまで両側に七、八尺の高土手を備えた道幅三間、 土手敷各三間、総幅員九間ほどの道を築いたと伝えられる。
 以上の内容からこの道は相当大規模であったことを物語っている。この榛沢瀬の街道遺構は戦前まで 山林として旧状を留めていたそうであるが、戦後の土地解放や圃場整備事業等で 僅かに一部の遺構を留めるのみであり、 しかしその僅かな遺構を調査してみると県内の代表的な遺構である毛呂山町市場や小川町伊勢根とほぼ一致することがわかったそうです。



 ところで現在残っている街道跡と呼ばれる道は、私が県内の街道跡をいろいろ見てまわって来たところ、だいたい道幅は 二から四メートルといったところでしょうか。とにかく鎌倉時代初めから数えて八百年たってるわけですから、 作り変えられたり、廃道化して山林の中に埋もれたりしているもので、道として残っていても農道や小道となり、なんとか道として使用され続けているものがほとんどですから。