道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆ 入間市・野田・円照寺  ◆◆◆◆◆

円照寺

円照寺は入間市野田の西武池袋線元加治駅の南側で入間川の左岸上にある寺院です。ここは鎌倉街道から外れた位置であるように思えるところですが、埼玉県の鎌倉街道上道を語るためには是非とも紹介して置きたい場所なのです。それはこの円照寺に国指定重要文化財である鎌倉幕府滅亡に関係した板碑があるからなのです。
円照寺は寺の縁起によると、加治豊後守家茂が、元久2年(1205)に畠山重忠と北条方との二俣川の戦いで戦死した、父家季の菩提を弔うために、円照上人を開山として建立し、以後加治氏歴代の菩提寺となったそうです。加治氏は武藏七党の丹党に属し、飯能市中居には加治氏のものと思われる館跡が伝えられています。

入間市野田の円照寺

胎臓界大日三尊種子板石塔婆

この円照寺には国の重要文化財になっている板碑があります。その姿かたちといい、また板碑に刻まれている紀年銘や偈の内容の重要性から、埼玉県内の板碑の中でも最高傑作に分類されるほどのものです。高さ137センチメートル、幅38センチメートル、厚さ約5センチメートルで、胎臓界大日如来(アークン)の種子が蓮花座に乗り、脇侍にウーンとキリークが刻まれています。注目すべきこととして偈に執権北条時宗が南宋より迎えた名僧の無学祖元臨剣頌という七言絶句が刻まれていることです。臨剣頌は祖元が中国にいた頃に元兵を避けて福建省の能仁寺に独坐していた時、元軍の兵士に斬られそうになった際に唱えたもで、祖元はそれにより死を免れたと伝へられているものです。

板碑についての詳しい説明はこちらへ

円照寺本堂

この板碑に書かれている偈の内容は次のようなものです。

天地で一本の竹杖を立てる余地も無し
ただ喜ばしきこと、人は空、法もまた空なることを悟る
珍重する元兵の三尺の剣
その剣にて、おのれの首をはねたところにて
稲妻のごとき瞬間に、春風をさくがごとし

無学祖元が説いたこの句に、元兵は一礼して立ち去ったと伝えられるそうです。

祖元は弘安3年(1280)に日本に渡来し鎌倉に入り北条時宗に尊崇されたといい、時宗が弘安の役を乗り切ることができたのは、祖元の力があずかっていたといわれています。その後時宗は元寇の際に亡くなった多くの霊を弔うために円覚寺を建立し祖元を開山としています。円覚寺舎利殿の後方にある開山堂には祖元の像が安置されているそうです。

円照寺南を流れる入間川

供養者名に道峯禅門とありますが、『太平記』に「加治二郎左衛門入道」として登場する加治左衛門入道家貞の法名で、家貞は鎌倉幕府最後の執権北条高時に仕え、新田義貞軍を討つため鎌倉方の武将として小手指ヶ原久米川の合戦に参戦し最後は北条一族と運命を共にしたと考えられています。元弘三年五月二十二日は鎌倉東勝寺で高時をはじめ北条一族が自刃して鎌倉幕府の滅亡の日付にあたります。
この板碑は加治左衛門入道家貞の菩提を弔うために子孫が祖元の偈を添えて造立したものと一般に考えられているわけですが、そこで問題になるのが供養者名に道峯禅門の名が刻まれていることです。そのまま受け取ると道峯禅門の供養の板碑を道峯禅門自身が造立したということになるわけです。そのことから道峯禅門が北条一族と運命を共にした加治一族の菩提を弔うために、高時が帰衣した祖元の偈を刻して造立したという説もあるようです。
円照寺はその他五基の板碑があり嘉元3年(1305)の『碧巌録』から引用改作した詩偈が刻まれたものなどがあり、加治氏の仏教的信仰をうががうことができます。

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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