カンバセーション・ウィズ・トム・ペティ 2005年 トム・ペティ (完訳) Page 1 2 3 4 5 6
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Chapter 11 Somewhewe you feel free
Q:[Wildflowers]
は一番好きなアルバムだと言っていましたね。音楽的なソウルにもっとも肉薄したアルバムです。
TP:ああ、それが真実の表現だね。あらゆるジャンルの音楽が、ぼくに訴えかけてきたみたいな感じなんだ。
ちょっとしたロックや、ブルース、フォーク。それから、今までに作ってきたLP。ぼくはそれらの一部でしかなったのだけど。でも、全体的には、一つの長い音楽のようでもある。70分くらいだけど・・・でも、ぼくが聞いたときの感覚はそうだった。
それで思った。「ワァオ、よくやったもんだな。自分の思い通りにできたじゃないか」ってね。
Q:他のアルバムで一番好きなのは?
TP:挙げるとしたら。[Full
moon ferver]が好きだな。[Damn the
torpeades]。これはお手本的なアルバムだよ。いつでもそばにある。これが、サウンドや、音楽制作にある(限界とされた)レベルを数段階、打ち壊したんだ。いつ聞いても好きだね。
[Full
moon fever] は本当に良いアルバムだ。サウンドがとても良い。
それから、[Wildflowers]
。これはそれまでのものよりも、ずっと成熟したレコードだ。前のだって、ぼくらの作品に違いはないけどね。[Wildflowers]
の時は技術と直感が同時にぶつかり合って作用し、ぼくは絶好調だった。
だから、これが一番ハッピーなレコードなんだ。
Q:おそらく、あなたのほかのアルバムと比べても、[Wildflowers]は、より強くソングライターとしてのあなたの才能を反映していますね。
ロックあり、心優しい歌あり、おかしな曲あり、悲しみあり。すべてが素晴らしいメロディと歌詞を持っています。本当に驚くべきアルバムです。
TP:やたらと働いたからね。2年間だよ。それに、(次の作品)[She's
the one] はほとんど[Wildflowers
その2]だし。またしてもいくらでも出来てしまった。
そうだな、ちょうどポケットから取り出すように。まさにぼくは良いところにはまって、とても良い仕事が出来た。仕事を家まで持ち越すことなんて、限られていた。良い時代、良い時期だったね。
[Mary
Jane's last dance]
も書いていて、あの時期はほかの物も手がけていた。すべてをデモにしたんだ。8トラックの機械を使っていて、すべてものものをデモとして録音した。そして、自分がレコードにしたいと思い描いた物を、入れ込むことが出来た
"You
don't know how it feels"
は、まさにそうして出来た曲だ。ベース、リード・ギター、ハーモニカ、そのほか全て(をデモにした)。全てがなるようになっていた。ほとんどの曲をそうしたのだと思うよ。
8トラックから出来ているアルバムとして、興味深いね。8トラックの録音は、出来上がりに本当に近いから。
Q:[Woldflowers]
には、マイケル・ケイマンによる、味わい深いオーケストレーションが入っていますね。
TP:ああ、彼に神のご加護がありますように。本当に才能豊かな男だった。友達でもあったんだよ。
ぼくらは彼に、ストリングスのアレンジと、オーケストラを依頼した。本当に素晴らしかった。ぼくらが彼の家に行くと、キーボードでアイディアを聞かせてくれた。そして、ぼくらのアイディアを出すと、彼がしっかり作品にしてくれるんだ。
録音という段階になると、その場になって、いくらでも変更が出来た。うまく行っていること、いないこと、彼はうまく調整した。本当によくやってくれた。
最近亡くなったね(2003年11月18日、心臓発作のため死去。享年55)。残念だよ。最高のミュージシャンだった。
Q:オーケストラのセッションには同席したのですか?
TP:したよ。床に座り込んで。すごいスリルだった。オーケストラと仕事をするっていうのは、なんてことだろう、本当にスリルがあるんだ。
子供の頃は夢にも思わなかった。あんなすごい経験をするなんてね。あの楽器群の中に居ると、ものすごいサウンドなんだ。曲を書く上でも印象的だったし、とにかく、あの演奏に聞き入ったよ(笑)。
ともあれ、マイクとぼくは、ストリングスのセッションに行った。それほど変更しなきゃならないことも無かったね。本当にうまく行ったもの。(マイケル・ケイマンは)頭の中にあったものを、表現するのが得意なんだ。
Q:美しいアレンジメントですね。
TP:美しい。"Wake
up time"
とかね。ああ、なんて素晴らしいアレンジなんだろう。どこかに、ストリングスだけのテープがあるよ。よく、家で流していたんだ。
Q:オーケストラは、美しく、しかも繊細に、曲にミックスされていましたね。
TP:うん、ミックスにはすごく気を遣った。ぼくらはほとんどノイローゼだったね。
Q:アルバムの多くで、マイクがベースを弾いていますが。
TP:うん。ぼくも
[You don't know how it feels]
で弾いている。でも、このアルバムではマイクがメイン・ベーシストだった。
Q:曲作りのきっかけを掴む事について、話していましたね。そういうのは、ソングライターとして構えているときに沸くものですか?それともいつでも掴めるものですか?
TP:セッションをやっていて、しかもすごく調子が良ければ、うまく掴むことができるね。すごくアドレナリンが出るから。
特に歌っているときとか。ショーの時みたいに、すごくアドレナリンが必要なんだ。セッションから家に帰っても、すっかり興奮してしまっている。しばらく眠れない。セッションでものすごいエネルギーを発するからね。そういうときは、調子良く書ける。
そして考え始めるんだ。「これを明日やったら、楽しくなるぞ」ってね。どんなサウンドになるかさえ、聞こえてくる。このノリで書くことが多いな。
うまく行かないときは、うまくエネルギーを出せない。バンドでプレイしているときとか、リハの時は、曲をつくるためにいくらかインスパイアされて、家に帰ることが出来るね。
こういうのは、アドレナリンを出すにはすごく助かる。とにかくやり遂げなきゃならないんだから。しょうもないまま放り出すわけには行かない。
何か曲のきっかけを掴むためには、時間もかかる。すっかり疲れて、嫌になったりさえもしたよ。
どうにかするのに、また4時間はかかることが分かっているからね。結局はやり遂げるんだけど。だって、ミューズ(ギリシャ神話の、芸術の神。詩想。もしくは芸術的な思いつき)を無視するなんて、無礼千万だろう(笑)。
とにかく、疲れているときは余計に時間がかかるんだ。「ああ、またもう4時間かよ!」ってね。
Q:そういう時間の間に、エネルギーを得ることは出来ますか?
TP:うん。思っていた以上にね。うまく行けば、音楽がブンブン頭の中で鳴り続けて、しばらくはリラックスできないからね。
Q:ハートブレイカーズと一緒であるということは、多くの曲を書く上で、エネルギーになったり、インスパイアされたりしますか?
TP:ああ。連中、グレイトだから。あんなバンドと一緒なんて、ぼくは甘やかされているよね。長い間、自分でちゃんと分かっていたとは思えないんだけど、実のところ、ちょっと過剰なくらい、バンドは良過ぎなんだよ。なんでも与えてくれるんだから。
ハートブレイカーズとコード進行をやるとするだろ、ちょっとやってみるにしちゃ、過剰な展開になるんだ。それから、骨から贅肉をはがすようにしていくことになる。
30分で20バージョンは出てくるね。やるべきことは、それらから適当な物を選び出すこと。
「よし、これはすごいアイディアだぞ。こいつを録音しよう ー でも、あの時のもすごく良かったな。よし、あっちにしてみよう。こっちはそれほどでもないか」・・・って具合にね。
ベンモント一人だったとしても同じさ。ベンモントと二人きりで歌を5回演奏してみよう物なら、あいつは違った5種類の演奏をしてみせ、しかもそれが全部最高と来ている。どれもこれも、とっておきたくなるんだ。
だから、答えはイエス。バンドにはすごくインスパイアされる。ものすごく頼りにしている。
Q:歌作りのきっかけを掴み取るということは、マイクの曲を仕上げるのとは、異なりますか?
TP:全く違うというわけじゃないけど。結局は、なるような曲と同じように成るわけだから。良い歌に仕上がるだろ。
釣りの法則と同じだよ。「魚の話は出来ても、実際に釣り上げる訳じゃないなら、意味がない」ってね。
つまり、いかに歌が出来そうなんだって話をしても(笑)、要は作り上げなきゃ。一日中水辺で釣り竿を持っているにしても、魚は釣り上げなきゃ意味がない。
マイクと作るとなれば、そりゃ上手く行くさ。ぼくは(自分の曲と)同じようにエネルギーを傾けるよ。
Q:マイクは、全てのテープにたくさんの録音をいれてよこすと言っていましたね。そのテープの全てを聞くのですか?それとも、使えそうな物があれば、そこで止めますか?
TP:普段は、全て聞くよ。でも、良い物は一瞬でぼくの心を掴むね。まさに瞬時に、まるで元からぼくに関連していたみたいにね。
なにせあいつの作ってくる物といったら、凄まじいから。山のように作ってくる。ぼくのやり方とは、完璧に違っている。ぼくはあんなには作れないな。
それにぼくは、作った物があまり良くなければ、それにとらわれてしまう。ずいぶんそうなったってきたな。今日の午後に何か作っても、あまり良くなければ、それに一週間集中してしまう。
Q:でも、それを仕上げるわけですよね?
TP:まぁ、一部は。でも、場合によってはやっぱり上手くいかなくなる。
いつものことさ。スタジオに居れば、アイディアを一つ持ち込んで、丸一日この曲をいじり続ける。で、結局はだめだこりゃとなる。そういうのが、アウトトラック行き。
でも、やってみたことが上手くいかないこともあれば、上手く行くこともある訳で。だから、「OK、こいつはちょっと取っておこう。ふた節か、そこらのメロディはすごく良かったから。」って事になる。そこから、新しい道が始まるんだ。
本当に、本当に良い物を掴みとれる場所への旅がね。
ぼくはものすごく時間をかけて、強い自信のある曲ができるまでは、バンドにそいつを持って行かないんだ。
ほとんどの時がそうだね。スケッチみたいなのを持ってきたこともあるけど。でも、普段はバンドに持ち込む前にさんざん作り込んでおく。
Q:あなた自身の曲は、テープに吹き込みますか?
TP:いつもそうするよ。曲作りをしていないときはともかく、アイディアが沸けば、すぐに吹き込む。
特に最近、年を取って老いぼれてね。物覚えが悪くなってきたから。だからメロディやコード・パターンが思い浮かぶと、すぐに自分の小さなテープレコーダーに録音するんだ。
歌が出来たときもそうする。いつも録音するんだよ。翌日、歌そのものは覚えていたとするだろ。でも、そのときのフィーリングとか、空気とかまでは覚えていない。だから録音するのが良い手なんだ。
ただのカセットとか、なんでも構わない。好きな媒体で良いんだ。ぼくは夜なんかに書くときは、テープに入れるのが好きだ。そのときの自分を思い出させてくれるからね。フレージングなんかは、違うやり方になるかもしれないけど。
いつも、自分がやってみたことを録音するのは、良いルールだと言ってる。
ロイ・オービソンが言っていたんだよね。「きみが覚えられないものを、一体ほかの誰が覚えられるって言うんだい?」って。
でも、完全にその通りってわけには行かないな(笑)。ぼくだって、したことを忘れる。ほんとに、自分でやった事を忘れちゃうんだ。
Q:ランディ・ニューマンが、曲を書いている最中に、その善し悪しを判断するのは危険だと言っていましたね。制作者よりも上から目線の、評論家になってしまい勝ちだからとか。
TP:そうだな。ぼくはテープレコーダーを、記憶の道具としてのみ、使うことにしている。忘れたことを取り戻すためのね。
でも、いよいよ仕上げようと取り組む段階になると、テープは使わない。ランディ・ニューマンが言ったように、ソングライターが突如として、評論家になってしまうからね。しっかり腰を落ち着けて、曲を仕上げてしまうのが一番良いんだよ。
Q:歌詞もですか?
TP:全てさ。出来ること全てのうち、手近なところから、とりかかるのが一番だ。後回しにしたりすると、気が変わってしまっているだろうし、たとえば歌詞の3番を翌週に先送りしたりすると、どんどん難しくなってしまうから。
Q:ディランは私に、古いアイディアを練り直すのは、ひどく悲しくて、厳しいことだと言っていました。
TP:そうだろうね。往々にして。
上手くいったこともあるよ。"Mary
Jane's Last Dance"
は上手くいった。コーラスの部分を書いたのは、ずいぶん後のことなんだ。
Q:でも、希なことですね。
TP:希だね。それに、リック・ルービンがたきつけなきゃ、やらなかっただろうし。自然な流れだったとは思わないな。
とにかく、あれは上手くいった。
TP:[Damn
the torpedoes]
では歌詞を(ブックレットなどに)印刷しませんでしたが、多くのアルバムでは印刷していますね。
歌詞を印刷することについては、どう感じていますか?
TP:歌詞が載ってるローリング・ストーンズのアルバムって見たこと無いな。
Q:ビートルズのアルバムにはあります。
TP:確かに。
だいたい載せておきたいんだよね。ぼくは言葉の発音がはっきりしないから。しかもフレージングは言葉を引き伸ばし勝ちだし。だからぼくが歌うと、人によって違う解釈をするんだ。
リンダ・ロンシュタットが
"The Waiting" をカバーしたとき、彼女、なに言ってるか分からないからって、ぼくに電話をしてきたんだ。"No one could have ever
told me about this"
のところなんだけど。一体全体、ぼくがなんて言っているのか、彼女には皆目見当がつかなかったんだ。
だから思ったね。「やばい、もっとはっきり発音しなきゃ」って。
Q:あなたは、数多くの力強いメロディを作り出してきました。このようなメロディは、どのようなきっかけで出来るのですか?
TP:単純なことだよ。頭の中でハミングしてるってあるだろう?それって、今までにどこかで聞いたことのあるメロディだろうか?何かの役に立つだろうか?もう一度聞いてみたいだろうか?
そうは言っても、実際に探し出すのは難しいかもしれない。
かと言って、歌には必ずしもメロディが不可欠とは限らない。たったの一音でも良いわけだし。
もちろん、ぼくはメロディにするのが好きだけど。コードを掴む、リズムを掴む、こういうのがメロディのための助けになる。
曲作りに際して、まったく逆のやり方をすることもあるけどね。先にコード進行ができていて、後からメロディとか。
とにかく、コードやリズムはメロディ作りの助けになる。これはとても重要なことだ。
Q:[Wildflowers]
は2枚目のソロ・アルバムで、リック・ルービンがプロデュースしています。どうしてソロ・アルバムにしようと決めたのですか?
TP:リック・ルービンのせい。
Q:どんな経緯で彼と出会ったのですか?
TP:彼がトニー(・ディミトリアディス。マネージャー)に電話してきたんだと思うよ。もしぼくらに興味さえあれば、一緒に仕事がしたいって言ってきたんだ。
それである日、リック・ルービンをスタジオに招待した。それからつるむようになっって、すぐに仲良しになった。
リックとぼくの両方が、5人組に縛られるよりも、自由にやってみたいと考えたんだな。やりたいことをやりたいようにしてみたかった。この人やら、あの人やらを連れてこようとかね。
ハートブレイカーズのレコードだと、ほかのベーシストや、ドラマーを連れてくるわけには行かない。
でも、ぼくは自由に、違ったミュージシャンたちとプレイしてみたかった。たくさんのミュージシャンたちを試してみて、上手くいかなかったり失敗したりもしたし、録音のためにオーディションをやったりもした。
あれは最高もレコードで、最高の時代だった。しかも、すごい仕事量だった。
Q:偉大な作品ですね。
TP:全ての作品の中でも、お気に入りだと思う。ぜーんぶの中でも一番だ。
2枚組アルバムにするつもりで、ほとんど2年間もレコーディングしていた。作曲もしていたし。とにかくべらぼうな曲数を書いたな。
それで、21か22曲も録音した。バグズがぼくらのリハーサル・ルームの壁に、大きなチャート表を貼り付けたんだ。
そいつを取っておいて、スタジオでも使い、それぞれの歌のタイトルと、仕上げに必要な事項をリストアップした。ベースは完了、済み印。それから、あれと、これ。オーケストラ。済み印。
しかしスタンは、ぼくのこのやり方に合わなかった。スタンが抜けたのはこの時だ。
スタンはこのレコードが好きではなかった。実際、あいつがぼくにそう言った。また一緒にプレイすることになったとき ー ニール・ヤングのブリッジ・スクール・ベネフィットで、2回演奏することになっていたんだ(1994年10月1,
2日 8年目のブリッジ・スクール・ベネフィット。カリフォルニア州マウンテン・ビューにて)。悲惨だった。本当に悲惨だった。
スタンと決定的な決裂になったのがこの時だった。スタンは不機嫌で、まったく楽しめなかった。もうおしまいだった。「オーケー、そう来るのなら、スタンにはやめてもらう」ってね。
20年を経て、行き着くところまで来てしまっていた。
スタンは、[Full
moon fever]
の曲をプレイしたがらなかった。実際、ぼくに言ったんだ。「(録音では)叩いていないのだから、これじゃカバー・バンドみたいだ。」それにしちゃ、ぼくら素晴らしく演奏してたもんだよね(笑)。
スタンはほかのバンドをオーディションしていた。マスコミにもしゃべったりもしていたし。ビルボード誌には、スタンからの視点で、はっきりとしたスタンの話が載っているよ。いろんな事が同時進行だった。
さらなる問題として、スタンはLAを離れて、フロリダに戻ってしまっていた。だから一緒にプレイしたい時は、スタンがフロリダからLAに来るために、手配しなきゃならなかった。実にバカバカしいほどの苦痛だった。
そうして、スタンはぼくらとは付き合わなくなった。だからぼくらがスタンに頼らなくなったのは、自然なことだった。
彼は
"Mary Jane"
セッションから、さよならも言わずに居なくなってしまった。ぼくらはただ、スタンが行ってしまうのを見送るだけだった。彼はフロリダに戻った。
でも、[Wildflowers]
セッションに戻ると、とても楽しかった。あれほどの長時間、スタジオに籠もったのは、初めてのことだった。
スタジオのぼくの部屋に小さな8トラックの機材を持っていた。ぼくは曲を書いちゃこの8トラックにデモを吹き込んだ。ぼくらはそれをスタジオに持ち込み、録音にかかった。
Q:実際本番のの録音には、あなたのデモ録音は用いましたか?
TP:いや、それはしなかった。いくつかは、本当にただのデモだったから。
"You
don't know how it feels"
とかね。ただ、音符がちょこっと、みたいなデモだった。より良い物で、より良いミュージシャンとプレイして、録音するんだ。もの凄いことだった。スティーヴ・フェローニに出会ったのは、この時だった。
Q:リック・ルービンが連れてきたのですか?
TP:いや、マイクが連れてきたんだ。
ジョージ・ハリスンはエリック・クラプトンと、彼のバンドと一緒にツアーをしていた。その後、ジョージはイギリスのロイヤル・アルバート・ホールでショーをすることになっていた。
エリックはこのショーには参加できなかったけど、彼のバンドはジョージのバックを務めた。それで、ジョージはマイクにエリックの代わりにリード・ギターを引いてくれないかって頼んできたんだ。それでマイクはそのショーでリード・ギターを弾いた。
そこでマイクは、フェローニに出会ったんだ。フェローニはエリックのバンドに居たからね。ちょうどドラマーをどうしようかと考えていた頃で、マイクがこう言った。
「いいか、一緒にプレイしたスティーヴ・フェローニって男、俺はものすごく好きだ。試す価値があるに違いないぞ。」
笑っちゃうよね、ぼくらはにはドラマーが居なかったんだよ。それなのにバンドには(ライブ演奏の)予約があった。スタンが抜けてから直ぐに、サタデー・ナイト・ライブに出ることになっていたんだ。
それでぼくはデイヴ・グロールをつかまえて、叩いてくれってことになった。"You
don't know how it feels" と "Honey Bee"
をプレイした。デイヴとのプレイはイカしていたね。
デイヴと、バンドに入らないかって話し合いもした。彼はそうしたかったけど、ちょうどあの時、後にフーファイターズになる、自分自身のソロの話が進行していた。もちろん、デイヴはこの(FFの話)を優先した。
そこに、フェローニが入ってくる。彼のオーディションは、アルバムの
"Hold on me"
のためのものだった。
彼は1テイクでやってのけた。ぼくは即座に言った。「オーケー、きみで決まりだ。今までたくさんのドラマーを検討したけど、きみこそ、このレコードを作るための男だ。」
それ以来、彼と一緒にやっている。何せ、本当に、本っ当に素晴らしいドラマーなんだから。最高だった。
デイヴ・グロールとサタデー・ナイト・ライブをやった次の月曜日、ぼくらはレターマン・ショーでスティーヴ・フェローニと一緒にプレイした。("You
wreck me" を演奏)
Q:スティーヴはライブと同様にスタジオでも優秀ですか?
TP:スタジオでも、もの凄いよ。すごく集中するんだ。その点が凄いね。プロであり、優秀なプレイヤーなんだ。
ヘッドホンについて文句を言うのさえ聞いたことがない。どんなことについても、いかなる要望も言わない。「この録音に関する責任があるのだから、ただ叩くだけ。」
「スエティーヴ、違うドラムで叩ける?」
「もちろん。」
「スティーヴ、これを片手だけで叩ける?」
「もちろん。」
実際、彼が「片手で叩いてくれ」って頼まれているのを見たことがあるんだ。
Q:どうしてでしょう?
TP:さぁね(笑)。ある時、リックが頼んでいたんだ。そしたら、やってのけたんだよね。特に質問もせずに。思ったね。
「うわぁ、なんて懐が深いんだろう!」
あのアルバムは、長いプロジェクトになった。ずいぶん長時間を費やした。でもすごくやりがいがあった。結果も良くなった。
残念なことに、すべての曲は収まりきらなかった。約70分、1枚のCDにするには、削らなきゃならなかった。LPでは実のところ2枚組になった。多くを網羅したけれど、それでもたくさんの素晴らしい作品を、削らなきゃならなかった。
でも、今になって思い返せば、もっとも満足すべき作品になった。そりゃ、ほかの作品だって好きだよ。とても好きな作品もある。でも、[Wildflowers]は最高の1枚だ。あれこそがぼく自身なんだ。音楽に生きる自分の所在こそが、あれだ。
リックも素晴らしい仕事をしてくれた。最高のサウンドのレコードだよ。実際、グラミーでエンジニアリング賞を取っている(1995年)。本当に素晴らしいサウンドだよね。ぼくらはこの作品のためによく働いた。
マイクも、よく働いてくれた。
Q:バンドメンバーのほとんどと一緒にやっていますね。マイクや、ベンモントなど。
TP:ああ、ハウイもちょっと。ハウイはあまり多くはスタジオに居なかったんじゃないかな。ステージでは、ベンのほうがずっと多く一緒に居た。それどころか、ぼくらはベンのプレイするのに合わせているんだよね。
ハウイは、ぼくらとはすこし距離を取りつつあったような気がする。そうだな、ちょっと不在気味になりつつあった。あの頃に、ハウイ自身の大問題が始まっていたんだ。
そういう訳で。ぼくにとってはそれまでで、一番のソングライティングであり、ぼくらにとっては作った中でも最高の録音になった。
Q:非常に幅の広いジャンルを網羅していますね。"Wildflowers"
や "Crawling back to you" のように優しげな曲や、"You wreck me"
のようなロックなどです。
TP:うん。フェローニが叩いた "You wreck me"
にはぶっ飛んでしまった。つまりさ、ドラムマシーンじゃこうは行かないってことさ(笑)。あのハイハットは、かなり存在感があるよね。それに、凄く早くて演奏が難しい。
ぼくなんて未だに、ラジオでこの曲を聞くとびっくりするもの。「うわぁ、これって俺たちか?本当に俺たちがやったのか?」
Q:リックは、それまでのあなたとは異なるアプローチをスタジオで試みましたか?
TP:うん、そうそう。リックはぼくらよりだいぶ若いんだよね。なのに、やたらとぼくらを酷使するんだ。ものすごくやらせて、チャレンジさせるんだ。
Q:どのような事をですか?
TP:とにかく、「もう一回。」
だから言い返した。「どこかまずかった?」
「いや、どこも悪くないよ。もう一回。とにかくやってみて」って言うんだ。ものすごくぼくをプッシュした。そうやってぼくからベストを引き出したんだと思う。
時々、彼はあからさまにぼくを怒らせようとした。そうやってもの凄いテイクを録る。
さらに、「書け、書け、もっと書け!」と、来る。さらにぼくの家に来て、すべてのデモを聞きたがった。そして言うんだ。「オーケー、これは良いぞ、これは駄目だな。これの半分は良いから、仕上げて。こっちは本当に良い。あっちは捨てちゃえ。」
リックはこの調子で、曲本意志向なんだ。
しかももの凄く知的。頭がいい。だから彼の仕事は楽しんだよ。いまでも良い友達だ。あらたな友情だった。
良いレコードを作るときは、いつも同じ状況になる。だから、素晴らしい時期だった。ぼくにとってね。
大好きなアルバムだ。すべてが大好きなんだよ。とても長くてきつい仕事だった。でもぼくらには、傑作を作っているって言うことがわかっていた。だから時間がかかることは、苦にならなかった。
仕事の半ばで、ぼくとMCAは契約切れになった。ぼくらは最後にグレイレストヒッツを出す予定だったけど、会社はもう一曲欲しがった。新しい曲をね。しかも、ハートブレイカーズの曲でなきゃならない。
それで、スタンがやってきた。ぼくは
[Wildflowers] からの曲は、グレイテストヒッツに提供したくなかった。MCAに曲はやらないぞ、って断固として決めていた。[Wildflowers]
から何かをグレイテストヒッツに入れるなんて、考えていなかった。
Q:曲はたくさんあったのにですか。
TP:うん。そのつもりはなかった。だから、グレイテストヒッツ用に、"Mary
Jane's last dance"
を書いた。
それから、リックと一緒に、スタンも加わって録音した。スタンと、ハウイだね。
Q:"Come on down to my
house"
も同時に?
TP:そう、同じセッションだった。あのセッションで一連の曲をやったな。ずいぶんたくさんやった。とても創造的な一日だった。12曲か13曲はやったかな。その日、何曲やったかは分からないや。
そのうちの何曲は、未だに公表されていない。ともあれ、ものすごく創造的な日だった。中でも、"Mary
Jane"
は一番だった。この曲に集中したんだ。
Q:ほんとうに素晴らしい録音の、名曲ですね。
TP:ハウイが特に良かった。ハーモニーが素晴らしい。
ぼくらがハーモニーを録音しているときに、ジョニー・キャッシュがスタジオに来ていたことを思い出すよ。もの凄く緊張した(笑)。
長い間、ハウイとカーレン・カーターは一緒に住んでいたから、ハウイはジョンと親しかった。だから、ジョンはハウイを見に来たんだと思うな。とにかく、(ハウイは)凄かった。(ジョニーは)ずっと、「素晴らしいぞ、続けなよ、もの凄く良いから。」って言っていた。ハウイとぼくはハーモニーを歌い、ジョニーたちを楽しませたことを覚えている。
Q:[Wildflowers]
制作中に、ほかの曲を書くのはきつくありませんでしたか?
TP:ネタはあったんだよ。[Full Moon Fever]
の頃に作っていたんだけど。ある晩に、マイクの家で思いついたんじゃないかな。たしか、スタンも居た。それで、ぼくとマイク、スタンが ー
マイクがベースを弾いたんだけど、大まかなこの曲のアイディアを録音した。ぼくは即興っぽく詞をつけていた。
だからあのときに、元になったネタはできていた。それで、改めてコーラスを作ることになった。
最後の最後まで、詞を仕上げるのには苦労した。ヴォーカル録音の段階になっても、まだ、「いや、待った」とか言っていた。それから座り込んで詞を書き直し、磨きをかけ続けた。
本当に仕上がるまで、混乱しどおしだった。それから、うまく行きますようにと願うのみ(笑)。
Q:詞は後になって書いたというのは、興味深い話ですね。コーラスとヴァースはとても力強いコントラストを成していますから。
TP:そうだな。コーラスは、ほぼ2年後にかかれたんだよ。
Q:ライブでもやりましたか?
TP:したよ。それが最後だった。スタンはセッションを抜けてしまい、それ以来ぼくは、ホール・オブ・フェイムまでスタンに会うことはなかった(2002年3月18日、バンドはロックの殿堂入りを果たした)。
これでおしまいだった。あれが、オリジナル・グループ最後のレコーディングになった。
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Chapter 12 Some Days Are Diamonds
Q:[Wildflowers] の後、次のアルバムとして、1996年の映画[彼女は最高 She's the one] のサウンドトラックと、曲を制作しましたね。しかし、その前にハートブレイカーズと共に、偉大なるジョニー・キャッシュのアルバム [Unchained] を作っています。この経験はどんな展開を見せましたか?
TP:ぼくが離婚したちょうどそのころ、電話がかかってきたんだ。ぼくはあまりあれこれ立ち働くことなく、とにかくリック・ルービンからお呼びがかかったんだ。ぼくらは前もって、何度かジョニー・キャッシュと夕飯を共にした。
ジョニー・キャッシュは、ぼくが20年くらいつきあいのある人の一人だ。
ずいぶん前に、友達のニック・ロウを通じてジョニー・キャッシュとは知り合いになっていた。ニック・ロウはそのころ、カーリン(・カーター)と結婚していた。ある時、ぼくらはナッシュビルの彼ら(ロウとカーター)の所に行く機会があって、一緒にランチとか食べているうちに、ジョニー・キャッシュに会うことになったんだ。
この人はぼくにとって、もの凄いアイドルだ。本当にジョニーが大好きだった。彼はすばらしい仲間であり、賢明な人物でもあった。彼はありとあらゆる事を知っていて、それを話して聞かせるのが好きだった。
それから時々、ショーを見に来てくれた。マディソン・スクェア・ガーデンでやったある時なんて、まじでびびった。何せ左側を見やると、ステージすぐ左のボックス席に彼が座っているのだから。暗がりの中でもその姿が見えるんだ。それほどエラい存在感だった。
とにかく、ぼくは彼(キャッシュ)、リック・ルービンと一緒にディナーを取った。リックはレコード・レーベル(アメリカン・レコーディングズ)を持っていて、ぼくにこう尋ねた。
「俺はジョニー・キャッシュと契約するべきかな?」
ぼくは答えた。「冗談言ってんの?」
リックが続けた。「そうじゃない。上手く行くと思うか?」
「おいおい、そりゃ上手く行くよ。彼は偉大な男なんだから、契約するべきだよ。」
「なるほど、俺もそうだと思う。あんたがそういうなら決心がついた。」
彼ら(ルービンとキャッシュ)はアコースティック・アルバムを作っていた。それは [Wildflowers] の時期だった。リックは時々、ディナーの時なんかにそれをぼくらに聞かせてくれた。ぼくらはすっかり気に入ってしまい、これは凄いと思った。
そして次のプロジェクトとして、(キャッシュは)バンドと一緒に演奏しようと決めていた。それでリックがぼくに電話してきて、ぼくがベースを弾けるかどうか尋ねた。リックは、ぼくが難しい時期にあるって事を分かっていたんだろうな、ぼくに忙しくさせたかったんだ。それにぼくはベースを弾くのが好きだし。
そんな訳であっと言う間に、ぼくは行ってベースを弾くことになった。
ぼくは何もしていないけど、リックがあれこれ工作したんだろうな、ぼくがスタジオに行ってみると、そこには殆どのハートブレイカーズが揃っていた。フェローニに、マイクに、ベンモント。さらに、マーティ・スチュアートっていう男で人員が増えていた。この人は、ナッシュビルの素晴らしいギター,マンドリン・プレイヤーなんだ。
こうして、後に [Unchained] となるレコードを作るためにぼくらが揃った。この上ない経験だった。最高だった。ぼくらはすごく自由を感じたんじゃないかな。ジョン自身の曲は数曲しかなくて、ほかの殆どは人が作った曲だった。そしてぼくらは、これらの曲をよく理解していった。
それから、ぼくらはいつもの楽器をやる必要はなかった。ぼくは殆どベースを弾いていた。あと、メロトロンか、オルガンを弾くことになり、マイクはマンドリンだった。
やっていて凄く楽しかった。実際にアルバムに入るよりも多くの録音をした。そういう録音は最近、[Unearthed] っていうボックスセットに納められた。
ある晩、(ジョニー・キャッシュのセッションに)カール・パーキンスがやって来て、すっかりぶっ飛んでしまった。ぼくらのアイドルと話せたのだから。
カール・パーキンスは正に巨人だった。彼は長い間、リード・ギタリストとしてジョンのためにプレイしていたんだ。カール・パーキンスが加わった時は、ぼくの生涯の中でも最高の瞬間だったな。とにかく、最高の中の一つだったよ。あれほど笑ったことはなかった。お腹が痛くなるほど笑っちゃうって感じ、分かる?
音楽はすべて最高だったし、楽にできた。後になって、[Unearthed] のライナーノーツで、キャッシュがあの晩について示唆しているのを読んだときは嬉しかった。彼の生涯の中でも最高の瞬間の一つだったと言っている。だから、嬉しかった。ぼくにとっても同様だったから。
ぼくらはさらに、カール・パーキンスと他にも録音をすることになった。
これはハートブレイカーズであることに対する、ご褒美だった。こんな経験をすることにもなれば、そりゃぁね。あの人は、本当にぼくらが心から愛していた人なんだから。本当に深く愛していた。
このレコードは間違いなく、ハートブレイカーズ最高のものだ。ぼくら自身のレコードじゃないっててことろがおかしいけど、あのアルバムをすべて聞けば、ぼくらがバンドとして演奏しているのが分かる。ぼくらはあのアルバムで、最高の演奏をしている。
このアルバムは、1998年のグラミー賞で、「最優秀カントリー・アルバム」を受賞した。ロックンロール・バンドにとっても、喜ばしいことだね(笑)。
Q:この仕事のあと、映画「彼女は最高 She's the one」の歌とサウンドトラックに集中する事になったわけですね。どうしてこの仕事をしようと決めたのですか?
TP:ぼくも不思議に思う(笑)。ぼくは離婚したところだった。つまり、何もすること無しに、独りで生活していた。突然、独身に戻って、奇妙な立場に立たされたわけだ。
Q:家から引っ越したのですか?
TP:うん。離婚協議の条件で、詳しくは話せないことになっているんだけど。だからあの時、単に引っ越したとしか言いようがないんだ。
Q:どこへ移ったのですか?
TP:パリサデスに家を借りた。鶏小屋みたいなところ。ピーコック・アレイと呼ばれていて、サンセット・ブルバードの外れだ。家と言うよりは小屋に近いかな。すごくイカしててね。庭にニワトリがいるんだよ。ぼくはこいつが気に入った。緑がいっぱいで、ぼうぼうに生え放題。家は本当に小さくて、ぼくはそこに独りで住んでいた。
すごく良い所だったと思うな。奥の寝室に小さな8トラックのスタジオを作った。そこでぼくは [She's the One] に収録されることになる新曲を作った。"Walls" や、"Angel Dream"。
そこには何年か暮らしていた。丸太小屋みたいな所で、実際ニワトリなんかも居て。LAにしちゃえらい田舎っぽい感じだった。
この時期、ハートブレイカーズとしては何もしていなかった。ただ、長く、断続的な [Wildflowers]ツアーをしていた。
あまりこの時期の事はよく覚えていない。ぼくはグラミー賞を受賞したんだけど("You Don't Know How It Feels"で1995年最優秀男性ボーカルパフォーマンスを受賞)、受賞式にも行かなかった。庭に突っ立っていたら電話が鳴って、「グラミー賞を獲りました」って言われたことしか覚えていない。
やることが何もなかった。
エド・バーンズっていう映画監督がいて、これが凄く良いヤツだった。非常に才能があるし、「マクマレン兄弟」という小さなインディペンデント映画を制作していた。この映画はとても良いと思っていた。
彼のエージェントから電話がかかってきて、彼の映画にぼくが音楽をつけることに関して、彼が興味津々だとのことだった。バーンズはぼくに映画を送ってきて、ぼくはこいつをとてもチャーミングな小品だと思った。どえらいこともないし、叙事詩的なものでもないけど。ちょっとした作品だよ。
それでぼくはエドに会って、彼のことが気に入った。そうこうしているうちに、このプロジェクトに一役買うことになった。別に瞬く間にそうなった訳ではないけど。もともと、きっかけはあったんだな。
まずは、何曲かやってみるところから始まった。ぼくは音楽監督となり、他に人をサウンドトラック制作のために集めた。
そういうわけで人集めを始めたのだけど、二つの問題があった。まず何と言っても、誰も良いアイディアをぼくに出してくれないってことに気づいた。みんな実力を発揮できないでいたんだ。
第二に、この仕事はぼくに向いていなかった。この仕事に友達を呼び寄せる役割は、気持ちの良いものじゃない。うまく行かないんだ。この手のことはやりたくない。
それで、この問題について、ぼくはジミー・アイヴィーンに話した。そしたら彼は言った。「おいおい、そりゃちゃんとやるべきだよ。」
それで考えたのだけど、よし、アルバムにしちゃえば良いんだと思った。ぼくらは [Wildflowers] の余りが何曲かあって、どれも出来あがっているか、ほぼ出来あがっているかのどちらかだったからね。そこに、ハートブレイカーズが乗り込んできて、穴を埋めるために何曲か作った。
それから、ルシンダ・ウィリアムズと、ベックのの曲をカバーした("Change the Lock", "Asshole")。あまり手持ちの曲がなかったからね。それがアルバム [She's the one] になった。
ぼくらにとっては、かなり混乱したアルバムになった。サウンドトラックとして録り溜めたからね。いかにも、ハートブレイカーズのアルバムって感じにはならなかった。
だからぼくらでアルバムを作り上げたとい実感がなかった。このアルバムのためのツアーとか、そういう物はまったくやらなかった。とにかくただ録音しただけ。
ぼくにとって、これはムラのある作品だ。実の所、ちゃんとしたアルバムですらないから。ただみんなでいっぺんにやってみたものを、束ねただけみたいなものだ。
Q:でも、アルバムということになっていますね。
TP:そりゃ結構。嬉しいよ。このアルバムは長い間聞いていなかった。曲のいくつかは大好きだったけどね。"Hung up and Overdue" が好きだな。リンゴと一緒にやったんだ。ビーチ・ボーイズのカール・ウィルソンがハーモニーを歌っている。カールはぼくとって、最上級のアイドルの一人だ。
それから、ぼくは映画のための編曲もした。この映画にはそれほど多くの音楽は使われていないけど、とにかく編集はしたんだ。
おもしろいプロジェクトだったし、良い映画だったと思うよ。
Q:私は最近、1997年、(サン・フランシスコの)フィルモアでストーンズの "Time Is on My Side" をやっている素晴らしいブートレグを聞きましたよ。
TP:ぼくは聞いたことない。フィルモアでは、二十夜にわたってやった。この20回の公演で、100曲もの異なった曲を演奏した。
ぼくが演奏していて、もっとも楽しかった時だったね。どの夜も、やたらと長い時間、演奏していたから。一晩に何セットかやったし、毎晩他の偉大なバンドとも共演した。
前座をやってくれた人たちのリストを見たら、驚愕モノだよ。カール・パーキンスに、ジョン・リー・フッカー、それにロジャー・マッグインとか、色々。毎晩、一緒にプレイしていて最高に楽しい最高の人たちの目白押しだった。
そして、ぼくらはやってみたいことを全てやってのけた。
ある夜なんて、4時間も演奏していた。本来はハートブレイカーズらしくないことなんだ。でもぼくらは本当にノリノリで、実にうまく行った。アンコールだけで、1時間半もやっていた。
とてもリラックスしていたから、出来は最高だった。
それにサン・フランシスコの聴衆も素晴らしかった。ぼくらがやりたいようにさせてくれるような、オープンな聴衆だっし、良いリスナーでもあった。だから、環境が良かったんだな。
何年か前(2003年4月)、ぼくらはシカゴに行って、VICシアターで同じようなことをした。七か、八晩やったんだ。それでフィルモアの時と同じように演奏した。
とても楽しかった。のびのびやらせてくれるんだ。同じところで連続して公演しているうちに、ぼくらがやっていることを、オーディエンスが実によく観察できるようになるもんなんだ。
こういう事は、小さな劇場だから出来るのであって、大きなコロシアムでは無理だ。解放されたみたいなものなんだ。
Q:演奏するためにカバー曲を選ぶのは楽しいですか?
TP:もちろん。何百曲とカバー出来る曲を知っているもんね。リハーサルではカバーを延々とやっている(笑)。うん、実際のショーより、リハが好きだったりする。何だって出来てしまうから。ショーでは決してやらない曲だとは分かっていてもやるんだ。ちゃんと分かっていながら、自分たちの楽しみとか、技術維持のためにやっている。
カバーっていうのは、すごく楽しいからね。バンドとしてもとても上手くまとまる。ベンモントなんてありとあらゆる曲を知っている(笑)。あいつには勝てないよ。
Q:同時に、あなたはべらぼうな歌詞を覚えていることになりますね。
TP:そう、ぼくは使えない無駄情報の引き出しを持っているんだ(笑)。その手の音楽にぞっこんなんだ。よく練習もするし、それを楽しんでいる。
Q:[Wildflowers] 制作の期間、ボックス・セットの制作のために、ジョージ・ドラコウリアスが起用されましたね。彼はどんな人ですか?
TP:とても才能のある男だよ。彼とはリック・ルービンと一緒に会ったんだ。ジョージとリックが親しくて。ぼくらは良いチームになったよ。
ジョージの仕事で最初に世間に知られたのは、ブラック・クロウズだろうな。ブラック・クロウズの最初の数枚のアルバムを、ジョージは手がけている。いろんな異なったアルバムの仕事をしているんだ。スクリーミング・トゥリーズ,ザ・ビースティ・ボーイズ,プライマル・スクリームとか、色々。
ぼくがはっきり言える事は、ジョージがやってきただけで、すぐに良い友達になれるということだ。それで、彼をボックス・セットのために選んだ。
これはどえらいプロジェクトになる見込みだった。そのプロジェクトに彼が加わって、引き受けることになった。ぼくも思うのだけど、とにかく素晴らしいボックス・セットにしてくれた。CD6枚で、そのうち2枚は未発表音源。
ジョージはそれらすべてをミックスしたのだから、素晴らしい仕事ぶりだよ。すべてをしっかりとはめ込んでくれた。実際にこいつは、プラチナ・レコードになった(アメリカにおいて100万セット以上の売り上げ)。
そんな訳で、ぼくらは彼の仕事ぶりには強い印象づけられた。それでぼくは彼に、いつか何かの形で一緒に仕事をしようと、言ったんだ。
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Chapter 13 Angel
Dream
Q:Chicken Shackに住んでいる期間に、奥さんのデイナに出会ったのですか?
TP:いや。それよりもかなり前に出会っていた。最初にデイナに会ったのは、1991年、テキサスでのショーの時だった。ぼくはいわゆる「一目惚れ」ってやつは信じていなかった。ところが、彼女に会ったときは、皮肉にもこいつをやらかした。一目で、恋に落ちてしまった。どうやらお互いにそうだったらしい。二人の間に、一瞬にして電流のようなものが走ったんだ。
そのとき、彼女は結婚したばかりの夫と一緒だった。ぼくらは会うと、話をした。みんなと一緒に、ホテルのバーに居たな。たくさん話して、すぐに彼女に夢中になってしまった。でもふたりとも、明らかにこいつはどうにもならないと分かっていた。双方とも結婚していたからね。だからぼくは引き下がらなきゃならなかった。それ以上、どうこうとは考えなかった。どうなるとも思っていなかった。
それから、テキサスに行くと毎回、ぼくは彼女に会うことになった。彼ら(デイナとその夫?)は、毎回ぼくらに会いに来ていたんだ。決して口には出さなかったけど、ぼくは彼女に夢中だった。彼女も、同じだったと言っている。とにかく、そのことは決して口にしていなかった。言うべきじゃなかったからね。ぼくらは決して、馬鹿なことはしなかった。ほったらかしにしていたんだ。
Q:彼女には子供がいましたか?
TP:最初に会ったときは居なかったけど、そのうち、ディランという息子ができた。それで、しばらく彼女と接触することがなくなった。
ぼくら(TP&HB)はジョニー・キャッシュのコンサートのために、LAに戻った。場所は、ハウス・オブ・ブルース。ぼくはこのころまでは、Chiken Shackに住んでいて、ひどく落ち込んでいた。
ショーでは、ジョニー・キャッシュとプレイした。ショーの後は、色々と大勢のひとがごったがえしていた。バックステージには、プライバシーも何もあったもんじゃない。楽屋がバーと化して、人で溢れてしまっていたからね。自分ののショーでもないので、ぼくはぶらぶらしていた。そうしたら驚いたことにほかでもない、デイナがやってきた。わぁ!人生における愛そのものが、歩いてきたんだ。彼女は友人を尋ねて、LAに来ていたんだ。父親もLAに住んでいたし。彼女はよく、父親を尋ねに来ていたんだろうな。
彼女が夫と離婚し、別れていなかったら、もう最悪だったろうな。こんなすばらしいことを、ぼくは知らなかったんだ。すぐに、ぼくらは急接近した。でも、彼女は仕事や息子のために、テキサスに戻らなきゃならなかった。悲しかったよ。でも、彼女は言った。「こっちにはしょちゅうくるから。数週間後にはまた会える。」実際、彼女はそうしたし、ぼくらはデートするようになった。何週間に一度か、彼女に会った。時間があれば、来てくれるようになった。
お互いにすっかり夢中だった。ぼくはそれまで、これほどの愛情が分かっていなかったんだ。そう思ったよ。自分を本当に幸せにしてくれる人を愛するってことは、実に満たされた気持ちになるもので、まさに居るべき場所に居るっていう感じなんだ。それまでの自分はその感覚を分かっていなかった。
ぼくらは、しばらくデートをしていた。それからぼくはすごくせき立てるように、彼女にこっちに移るように説得した。道理に叶っているものもの。彼女の兄弟だって、仕事でこっちに来ていたし。母親も一緒だったんだ。そうやって彼女の家族が、続々とこちらに住み始めていた。みんながそうしているんだから、宇宙の真理とでも言うべきさ。
ぼくらは一緒には引っ越さなかった。ぼくがそうしたくなかったんだ。ぼくはまだ離婚の手続き中だったから、そうしたくなかった。
それに彼女には小さな子供が居たし、ぼくはこの子をとても愛していたけど、まだズカズカとこの子の家庭に踏み込むべきじゃないと思った。だからずっと、デートしていたんだ。
その後、ぼくがこのマリブに引っ越した時、彼女に一緒に越すように言ったんだ。
Q:あなたが先に一人で移ってきたのですか?
TP:一日か二日ばかり先にね(笑)。そんなに長い間一人じゃなかった。彼女はまだ自分のアパートを手放していなかったんだけど。実は、このそのほんの数ヶ月前に手放したばかり何だよ(笑)。彼女が越してきて、ぼくらはさらに愛が深まったし、今もそうだ。ディランも一緒に越してきた。
素晴らしかった、本当に素晴らしかった。片時も離れなかった。一緒に住む前だって、互いの顔を見ずに過ごす夜なんかなくて、一緒に過ごしていたんだけど。一緒に住むようになっても、四、五日だって離れなくなった。今となっては、彼女はぼくんぼ一部だよ。誰かに出会えば、その人になってしまうのさ(笑)。
とにかく、彼女は素晴らしいよ。ぼくに合っているし、ぼくの人生にも完璧に合っている。
Q:彼女はあなたの音楽も好きですね。
TP:まぁ、そうでなきゃね。身近に居る人はそうでなきゃいけないだろう?彼女は音楽が大好きなんだ。
音楽を愛してる。以上。
すごい音楽ファンなんだ。アーチストでもあるんだよ。しかも優秀な。ぼくらにはたくさんの共通点がある。同じ好みなんだ。ふたりとも、古い映画が好きだ。特に40年代のとかね。うん、ほんとうにしょっちゅう、ぼくは40年代の映画を見て過ごす。
そんなわけで、二人とも入れ込んでいて、一緒になることは幸せなものだった。ずっとハッピーだったね。結婚そのものに関しては、そうしようと決めるまで、やや時間がかかった。ぼくの離婚手続きが延び延びになっていたからね。解決するまでに長く、醜い手続きが要った。(離婚)以外の手段は考えられなかった。人生をデイナと過ごしたいという事は、間違いないのだから。ぼくは強く結婚したいと思っては居なかった。ぼくらが再会してから、結婚しようって決めるまで、6、7年は経っていたと思うよ。それからは幸せそのものだよ。
Q:式を挙げたのですか?
TP:ここで盛大にね。結婚はラスベガスで(2001年6月3日)。こっちだと、血液検査だなんだとなるだろ、ぼくはマスコミに邪魔されたくなかった。だから、ツアーがラスベガスで終わると、すぐにあっちで手続きをした。それから4、5日後に、こっちでパーティを。
リトル・リチャードが挙げてくれた。彼は牧師さんだからね。子供たちや友人たちが勢ぞろいした。リチャードが素敵なスピーチをしてくれた。素晴らしかったよ。大きなマリアッチのバンドも居た。素敵だったね。本当にハッピーだった。
この間の夜、考えたんだ。ある部屋で仕事をしていて、世界で最も愛している人が、隣の部屋に居ると分かっている。それって凄いことだよ。しかも、彼女はツアーも好きなんだ。彼女にとっては新しいことだけど。ツアーをするなんて、彼女にとっては新世界だ。だから、こういう生活を彼女に教えるのは、楽しいね。「ああ、まったく体験したことのないことがこんなに!」って彼女は言うだろうね。
まるでぼくと、走行中の電車に飛び乗るようなものだよ。普通の市民生活からすれば衝撃だ。彼女はこう言うだろうさ「あなたって、何者だっけ?ドアから出て、歩き始めるまで、何が起こるか分かりやしない。」でも、彼女はそれが嫌じゃないって、ぼくには分かっていた。それに、同時に彼女はこの上ない、もっとも親しい友人でもあるんだ。親友を得たみたいなものさ。ぼくらはとても幸福だ。
それから、ぼくはディランを我が子のように育てている。
Q:彼と一緒に暮らすのは良いものですか?
TP:ああ。ぼくには男の子供が居なかった。(ディランは)今でも、父親に時々会っているけど、いつもはぼくと一緒に暮らしている。ぼくも同じように彼を愛しているよ。今や家族は一つだ。娘たち(エイドリアと、キム。最初の結婚での娘たち)も、デイナとディランを愛してくれている。本当の家族みたいにね。とても幸せだよ。
それにぼくは、デイナの方の家族を得ることにもなった。彼女の母親はぼくのために働いてくれている。こちに居を構えて、ぼくのアシスタントを務めているんだ。ぼくらは本当にうまくやっているよ。いろいろ面倒を見てくれてね。家族の誰かがあの手の仕事をこなしてくれるって言うのは、本当に良い(笑)。家族以外の人がやるよりもね。
それから、デイナの兄弟とその家族もLAに住んでいる。おじいさんもそうだ。そんなわけで、今や大家族だ。それまでの人生で、ほしいと思いながら叶わなかったものだよ。本当にうまく行っている。
Q:デイナは曲作りのきっかけになりますか?
TP:そうだな。"Angel Dream" の歌詞は、彼女がインスパイアしたんだ。最初に彼女に会った頃のことで、よくは彼女のことを知らなかったけど、床につき夢に彼女の顔を見た。宇宙的な巡り合わせだよね。あり得ない状況だけど、人生はには驚きに満ちている。まさにそいつが起きたわけだ。そういうわけで、彼女には本当にインスパイアされた。
ぼくの作品のなかには、彼女にインスパイアされたものがたくさんあるよ。しかも凄く励ましてもくれる。ぼくが曲作りにフラストレーションを感じて落ち込んでも、彼女はとてもポジティブなんだ。だから、またやる気にさせてくれる。素晴らしいよね。
ぼくが曲を書くとき、下に降りてドアに鍵をかけ、周りに誰もいないようにしていた。だから完成するまで誰も曲を聞けない。デイナの場合は、彼女が同じ部屋に居ても気持ちよく曲作りが出来るんだ。
最近、曲を作っているときに最後のヴァースで、何語か必要になった。
彼女が「どうかした?」と言う。
「このヴァースがうまく行かないんだ。」
「どうな感じにしているの?」
それでぼくは「こんな感じ・・・」って言うと、彼女は2行ほどはめ込んでくれて、完璧だった。それで、いただき、ってことになったけど、著作料は入らないよ、って言っておいた(笑)。
ともあれ、幸せな結婚だった。まじでラッキーさ。これがありきたりのこととは思えないね。
Q:(アルバム)[Echo] の時も彼女と一緒だったのですか?
TP:うん。
Q:しかし、非常に悲しげなアルバムですよね。
TP:そう、矛盾しているね。ぼくは幸福だったけど、おなじくらい苦しんでいた。離婚という大障害の中にいたんだ。人生の大壁を突き崩すみたいなものだったな。うまく行くとは分かっていたし、本当の愛も見いだしては居たけれど、大量の重荷も背中に背負っていた。
ああ言うことが起こると、色々とより分けることになる。たくさんの責任がえぐり出されるんだ。俺は善人か、悪人かとか。すべてが浮き彫りになったと思う。それへの癒しが、あのアルバムの中にはあるんだ。
デイナはとても助けになってくれたし、ぼくの困難な作業も理解していたと思う。きつい時期ではあった。彼女は高速で走り去る列車に飛び乗ったようなものだった。ぼくが背負っている全てと一緒にね。彼女の人生も変わった。シングル・マザーだったのが、ぼくの人生に飛び込んで、ものすごいあれやこれやに、関わる事になったんだ。でも、ぼくは言ったものさ。本当に信じなければ、本当に不思議で素晴らしい事は起きないんだってね。
ある日突然、ある人に出会って、その人が人生を共にする人だと知ってしまったこと、それを信じなきゃ。とにかく、ぼくは彼女と一緒になって、毎日幸せいっぱいで目覚めるわけさ。
Q:彼女は、あなたの古いアルバムをかけるのが好きだと言っているそうですね。彼女にとっては、あなたの過去の作品と、これからのやろうとしていることが一緒になったりするものでしょうか?
TP:いくらか、そうとも言えるな。一緒に過ごすようになった頃、ぼくが「トム・ペティを聴くのは止してくれ。それは再生しないで。」ってぼくが言ったのに、彼女は驚いていた(笑)。
彼女は言った。「それは困ったわね、私はこの音楽が大好きなのだから、かけるわよ。」
それでぼくは答えた。「そう、じゃあ俺が居ないところでだけかけて。」彼女には、ぼくが自分の作品を聴きたがらないのか、理解できなかった。
さらにぼくは言った。「自分の作品が嫌いだという訳じゃないんだ。自分の作品には、かなり長い時間つきあってきたから。そういうのを聴くと、適当に流すことが出来なくて、聴き入ってしまう。そうすると録音したときの事を思い出して、ああすれば良かったとか、こうすれば良かったとか、思案してしまう。ひとたび聴くと、分析しにかかっちゃうんだよ。」
デイナは今でも、音楽を聴くときにぼくと話すのに苦労する。一緒に車に乗っているときにラジオが鳴っているとするだろう。ぼくが興味のある曲がかかると、聴き入ってしまって、ほかのものは耳に入らなくなってしまう。そうなると、彼女はこう言う。「ちょっと!あなたに話しているんだけど。」
ぼくは「ああ、ごめん。こいつのベースを聴いていて・・・」と答えるわけ。
ともあれ、彼女は時々こう言うよ。「いい?あなたは、これ(TP自身のアルバム)を聴くの。私たちはこれをかけるの。」
まぁ、こういうのは良い経験でもあるな。自分で作ったアルバムを、時期をおいてから聞き返すのさ。次の曲がどうなのかとかは念頭に置かず、一リスナーとして聴くんだ。正直言って、自分で驚いたりするんだよね。そうしたら、「うん、こいつは時間の無駄じゃないな。俺たち、かなり良い物を作ったじゃないか」って事になる。
デイナはぼくのためにそうしてるんだ。ぼくを現実に引き戻すためにね。このことに関しては、彼女は上手い方でね。こう言うんだ。「ねぇ、すごいじゃない。本当、あなたの仕事って素晴らしいわ。」
Q:それは、あなたの作品に関する広い意味での評論になっていますか?
TP:そうだと思う。彼女は、これまでの人生で、ぼくに起こったことがありきたりで、当たり前の事だとは思わないように、させているんだ。これは簡単は事ではないよ。
ぼくの人生は、ほかの人と比べて、平坦だったとは言えないと思う。ある意味ではね。成功って言うのは、全て自分だけで成し遂げることが出来るものではないからね(笑)。成功って言うのは実は、人生そのものを変えてしまうものではない(笑)。
そういう意味で、この事は全ての人に関わってくることだろうな。だからいつもそばに、じぶんらが無事で、愛し合っていて、みんな健康で、支払いは全部完了しているってことを確認させてくれる人が居るっていうのは良いことなんだよ。心配無用だろう。
Q:デイナはいつでもハッピーで、朗らかですね。
TP:本当に、ハッピーで朗らかな人柄だね。このことについては、魔法使いみたいだよ。 しかも、ビッグなハートを持っている。ぼくはいつも、誰かが彼女を利用するんじゃないかって、心配なんだ。とてもオープンで人を悪く思いたがらないから。彼女は何事も良い方に解釈するしね。ぼくの人生(経験)からすうれば、もうちょっと人に対して保守的だし、シニカルでもある。ぼくはすぐに、そんな(警戒する必要のない)人なんてそうそう居やしないと考えるからね(笑)。
彼女はぼくに、そんな風に人生を送るなんて良い事じゃないって教えようとしている。実に賢明だよ。よくかわいい女の子は頭が良くないって思われるけど、彼女は本当に賢明だ。彼女がそれほど賢明でなければ、ぼくらは一緒になれないだろうね。彼女は最高さ。彼女無しじゃやっていけない。
Q:お二人は高速列車から降りて、静かな生活に逃れることは出来そうですか?
TP:これまでより多く、そうしたいと思っている。これまでもそうして来たし、これからももっと努力しようと思う。そりゃ、これまでの事を全部忘れることだって出来る。ぼくらの人生で、有名人であることなんて大事でないって事になって、静かに過ごすことも出来るだろうさ。
実際、生活の大部分はふつうの家族と同じさ。ぼくは働き、12歳の男の子を育てている。夜、長い時間をかけて(息子の)ディランの宿題を手伝ってあげるのなんて、別に珍しい事じゃないよ(笑)。
Q:アルバム [Echo] 制作の話に戻りましょう。
TP:良かったとも言えるし、そうでなかったとも言える。ぼくはまだ、新生活の地に足を着けようとしていた頃だった。デイナに出合ったのだから幸せではあったし、本当の幸せにたどり着こうとしていた頃でもある。
でもぼくの人生にはまだ困難が待ちかまえていた。ほんとう、みじめな離婚手続きだったんだ。
[Echo] はハートブレイカーズのアルバムだね。ぼくらでアルバムを作ろうとしていた。スタジオに行っては一曲録音し、家に帰っては曲を作っていた。また一曲出来ればまた録音。まるでスイッチを入れたり、切ったりの繰り返しだ。
かなり長い間、ぼくはこのアルバムが好きではなかった。ぼくが半分も参加していないような、サーカスみたいな生活だったからね。リック(・ルービン)だって、ぼくが半分も居なかったように感じたんじゃないかな。実際は居たんだけど。
長い間、ぼくはこのアルバムが好きじゃないと思っていた。その後ある時、デイナと車に乗っていたら、CDチェンジャーが、[Echo]を再生し始めた。ぼくは「やばい」と言ったが、デイナが「聴いてみましょうよ」と言った。かなり長い時間のドライブだったのだけど、その間中聴いていて、ぼくは本当にこのアルバムが好きになった。言ったよ、「参ったな、悪くないじゃないか。なぁ?」
どういう訳だか、ぼくは頭から好きじゃないって思いこんでいたんだよ。それが、車の中で聴いたときから、本当に好きになった。
Q:ある意味、あなたの曲の特徴はその短さです。いつもは短い曲を作るのですが ー つまり、"Echo" の話です。これは長すぎると言っていましたね。
いくつものヴァースを重ねて、曲を長くしていくディランやジョニ・ミッチェル、レナード・コーエンなどとは対象的に、曲を短くする方が好きなのですか?
TP:うん。ここはこうして、ああして、形をしっかり作る方なんだ。AMラジオを聴いて育ったせいだろうな。AMでは、曲は3分かそこらだったからね。
先日ビートルズのアルバムをかけてみたけど、2分40秒以上の曲がなかった。[Yesterday And Today] だな。3分の曲がないんだよ。ある曲なんて2分もなかった。長くする必要がなかったんだ。たいていは、3分か3分半で十分だ。4分ともなると、どうかなって思う。「こんなに必要か?」ってね。
たまには4分以上は必要になるんだろうけど。ほんと、ごく希にだよ。5分にもなると懐疑的だ。5分もやるなら、余程でないと。
Q:あなたの場合、ビートルズのように、どんなに短い曲でも、すてきなギターソロを入れますよね。
TP:リッキー・ネルソンもいつも凄いギター・ソロを入れるだろう。偉大なテレキャスター・プレイヤーの、ジェイムズ・バートンだ。リッキー・ネルソンのシングルを聴けば、常にあの凄いソロを聴けるよ。どれも短いけど、アレンジにばっちりフィットしている。ほんとうに、感動的だ。だから、ギター・ソロを入れるのが好きなんだ。
Q:マイクに関しては、彼がその場でやるのですか?それともあなたが前もって決めるのですか?
TP:決めないことの方が多いな。はじめからマイクの頭の中で形作られているか、何回も繰り返しているうちに、あいつが発展させるかのどちらかだ。
マイクが一通りのプレイしかしないのは、希だと思うよ。時々、ぼくもソロをやることがある。ぼく自身のバージョンをね。そうするとマイクがぼくのに乗って即興をやる。そういうのが、あいつのプレイの基本になたりするんだ。でも、ほとんどはマイクの頭からでてくる。一人でやり進めていくうちに、プレイがはっきりしてくるんだ。
Q:マイクは本当に優秀なソリストですね。時々、一音を強調して引き延ばすことがありますが、本当に素晴らしい。
TP:うん、実に経済的だよ。実際は速弾きができるのに、それをしないんだから(笑)。しかも、速弾きをしなきゃいけないとも思っていない。必要以上の音符を入れ込まなきゃいけないんて、考えないんだ。そんなもんだから、経済的で、しかも自然なプレイヤーなんだ。マイクにとっては、とても自然な事なのさ。
Q:あなたのソロ・アルバムでさえ、いつもマイクのプレイが入っているのですから、あなたがどれほど彼の演奏を愛しているか、分かりますね。
TP:そうさ。少なくともギターに関しては、ぼくらは同一人格だ。ぼくらがよし、こういう曲をやろうとなったら、一緒にプレイするだろ、ほかの誰かとやろうだなんて、全く思わないんだ。
あいつがぼく抜きでプレイする時は、まったく騒音なんてことにはならない。即ち、こんどはぼくがマイク抜きでプレイすると、(逆に)本物のサウンドにはならないんだ。
ぼくは実に長い間一緒にやってきたから、お互いにちょっと引くところとか、スペースを空けるところを、お互いにどう埋めてゆくべきか、ほぼ心が読めてしまうんだ。
Q:ロン・ブレアはどんな感じでバンドに戻ってきたのですか?
TP:じつに上手く行ったね。マイクが、ロンと録音した、"Can't stop the sun" のデモを持っていたんだ。[The Last DJ] では、ぼくがほとんどのベースを弾いていたのだけど、ぼくらはロンがとても良くやってくれるんじゃないかと思ったんだ。
それで、"Lost Children" でロンに弾いてくれないかって頼んでみた。やってみたら、凄いんだよ。それに、ぼくらはベーシストを探していた。それで、そろそろスタジオ仕事もおしまいだって頃に、ぼくはもうすぐツアーに出ることを思い出して、ロンにその話をした。さらに、彼にバンドに戻ってきたらどうだろうかってて、尋ねた。
ロンは言ったよ。「うわぁ、凄いよ!」それで、本当に彼が戻ってくることになった。それ以来、まったく上手く行っている。
ロンはとてもリハーサル熱心で、自分のベース・パートに、とても打ち込んでいる。とても前向きなところがあって、周りにそういう良い影響を及ぼしている。
これって、ぜんぜん知らない人が入ってくるよりもずっと良いよね。元々知り合いで、ずっとどうして来たかも知ってる人なんだから。そもそも、ロンはハートブレイカーだったんだから。運命が彼を導いたんだろうな。ぼくはそう思っている。こういうことは本気で信じる質でね。運命がロンを連れ戻したんだって思ってる。
Q:スコット・サーストンは歌にハーモニカ、キーボード、ギターを担当していますね。どうして彼を入れたのですか?誰かの交代要員というわけでは無かったですよね?
TP:スタンが連れて来たんだ。ぼくがもっと人手を欲しがっていたから、スタンが連れて来てくれたんだよね。
だから、[Full Moon Fever] のあたりから、より良いレコードを作り出せるようになった。アコースティック・ギターを重ねるだろう。ぼくは歌とギターで助けてくれる人が欲しかったんだ。それでスコットが注目されてね。素晴らしかったんだ。一緒にはまだ数曲しかやっていなかった。でも、まるでずっと一緒にやってきたみたいに、もの凄く良かった。
ぼくらとやる前は、アイク&ティナ・ターナー・レビューや、70年代にはイギー・ポップ&ザ・ストゥージェス、その後はザ・モーテルズや、ジャクソン・ブラウンとやっていた。
彼も、本当に偉大なミュージシャンだ。キーボードも凄いし、ギターも凄いし、ぼくらのバンドではベースも弾く。もの凄いシンガーでもある。まるで、スイス・アーミー・ナイフみたいだよ。
ハウイがアコギを弾いているときは、スコットがベースを弾いていた。それ以外のこともしてくれた。
ほんと、大好きだよ。大親友なんだ。ぼくらは凄く仲良しでね。すごくチャーミングな人柄なんだ。誰でも、彼を好きにならずには居られない。きみだって彼に会えば、恋に落ちちゃうだろうね。正真正銘のいい奴なんだ。しかも才能豊かなミュージシャンだし。偉大なスライド・ギタリリストでもある。ぼくらは、彼ほどのことが出来ないでいる。彼が居てくれれば、それ以上ハートブレイカーズに必要な物はないな。
それでいて、スコットにはエゴがない。チーム・プレイヤーなんだ。それで、いつもリズム・セクションをやってもらっている。しかも良いハーモニカ・プレイヤーでもある。ぼくらのブルースを聴くいてみると、彼のハーモニカが凄いんだよね。
ぼくもいろんな録音でハーモニカを吹いている。"Mary Jane's Last Dance" とか、"You don't know how it feels"とかね。でも、ライブではそっちにかまけたくはない。ハーモニカ以外でいっぱいいっぱいだから。それで、ライブではスコットが吹いている。ハーモニカは全部彼にお任せさ。
Q:スコットは今でも「サイドブレイカー」でしょうか?
TP:ぼくにとっては、「ハートブレイカー」だな。彼抜きでは演奏しないもの。
Q:1992年に、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンで、ディランのデビュー30周年のコンサートに出演しましたね。エリック・クラプトンにジョージ・ハリスン、ジョニー・キャッシュ、ニール・ヤングなどと一緒でした。"License to kill" と、"Rainy days woman" を演奏しています。
TP:あれはすばらしい夜だったな。ぼくにとっては、絶好調の時だったよ。あのショーにでたすべての人を崇拝しているからね。友達みんなと、すごく楽しんだ。ずっと尊敬していた人たちも居たし。ブッカー・T& The MGs
とかさ。
最後に、みんなで "My back pages" と、"Knockin' on the heaven's door" を演奏した。みんなで少しずつ歌いながらね。
Q:スタンがドラムを?
TP:スタンと、ジム・ケルトナー。両方一緒だった。ジムも居たからね。それから、ベースのダック・ダンも。ハウイがギターで、ダック・ダンがベースだったんだ。ハウイは、ロニー・ウッドともプレイした。
リハーサルはメチャメチャ楽しかったし、本番も最高だった。すごくよく録画されてて、DVDとCDになっている。このあいだの夜、バグズと二人で聴いたんだよね。うちに帰る途中車で聴いたのだけど、このコンサートでの、ぼくらバージョンの "Rainy day woman" が流れたんだ。ぼくが歌い出す前のところで、二人とも口を揃えて言った。「これ、俺たちかなぁ?」すると、バグズは「さてね。」それでぼくらはもう暫く聴いてみた。そしてボーカルが入ってきて、二人していったよ「やっぱ、俺らだ。」とにかく、あのショーは楽しかった。
あれほど印象深いことっていうのは、そう多くはないな。「コンサート・フォー・ジョージ」もその手のライブだった。ぼくは死ぬほど恐ろしかったよ。
Q:そうなんですか?
TP:そうさ、まじで緊張した。「コンサート・フォー・ジョージ」なんて、どえらいメンバーの目白押しだろ。ぼくらもしっかりやりたかったし。でも、それほど十分にはリハーサルが出来なかった(笑)。何回かしか練習できなかったんだ。ぼくらは輝くような演奏がしたかったけど、じっさい上手く行った。
こういう思い出って幾つかあるだろう。このあいだの夜、ザ・フォーラムでライブした時のこと(Full Moon Feverツアー LAにて)を思い出したよ。ぼくらがアンコールのためにステージに戻るとき、ボブ・ディランも居てさ。彼も一緒にプレイしたがっていたんだ。それで一緒に出ていったんだけど、気がついたら今度は、ブルース・スプリングスティーンが出てきたんだ。それで三人一緒にプレイすることになった。観客のみんなは、熱狂していたよ。まじで、大熱狂だった。
Q:何の曲を演奏したのですか?
TP:アニマルズの "I'm Crying"。それから、ブルースが歌ったと思うけど、CCRの "Traveling Band"。そして、ボブが "Leopard-Skin Pillbox hat"。でも、こうなるとは予想していなかったから、リハは全くしていなかったんだ。だからぼくらは文字通り密談し(コソコソ打ち合わせて)、ゴチャゴチャしながらも歌いだした。一曲終われば、また密談。
この時のことはしばらく忘れていたんだけど、このあいだ何かの拍子でふと思い出してね。思ったよ。「参ったな、お客さんにとっちゃ、まじで超ビックリだったぞ。」
ぼくらは素晴らしい経験をしてきたし、素晴らしい思い出もいっぱいある。でも、ぼくがお気に入りなのは、いろいろな人が出てきたショーなんだ。ああいうのって大好きなんだよ。まさに友情の賜物だろう。
しかもそれまで知らなかった人とも、知り合える。プリンスと一緒にプレイしたときみたいにね。それまで、プリンスと一緒にやったことはなかったんだ。彼が(ぼくの)ファンだとは知らなかった。しかも、ぼくも彼のことはとても尊敬していた。彼と会い、一緒にプレイして、本当に素晴らしいひとときを過ごしたよ。
(2004年、ジョージ・ハリスンのロックの殿堂入りセレモニーにおいて、プリンスはトム、ジェフ、ダーニ・ハリスン、一部のハートブレイカーと共に、"While my guitar gently weeps" を演奏した。)
Q:あの夜の彼のソロには、度肝を抜かれましたね。
TP:まったくだ。まじでぶっ飛んだよ。ぼくがもの凄く楽しんだって、分かるだろう。あの競演はすごかった。かといって、回数多くやりすぎるって言うのも良くない。ぼくはハートブレイカーズとのプレイを愛してないっていうんじゃないんだもの。時々やる程度が良いんだ。
ともあれ、ああいう凄い人たち大勢とプレイするのは大好きだよ。本当におもしろい人たちなんだ。
Q:2000年には、ホワイトハウスで、スティーヴィー・ニックスと一緒に、ビル・クリントンや、その家族の前で演奏していますね。どんな感じでしたか?
TP:ウケるよね。いったい誰が、ゲインズヴィルから出てきたガキどもが、大統領の前でプレイするなんて想像した?大統領と、ファースト・レディが最前列に並んでいるんだぜ。
ぼくは数度、ホワイトハウスに行ったことがある。大統領に会って、執務室に入れてもらった。ゴキゲンだった。子供の頃はこんなことになるだなんて、想像もできないだろう。単にバンドが好きで、ギターを弾いていただけなんだから(笑)。それがノコノコと執務室に入っていくのだから。
そうしたら、アル・ゴアが言ったんだ。「大統領と、トラベリング・ウィルベリーズをやろうじゃないかと、話し合ったんですよ。」(笑)でもウィルベリーズは却下されちゃった訳で。とにもかくにも、どえらい事がやたらと起こったものだった。
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Chapter 14 howie
Q:ハウイは、悲しいことに2003年2月23日にヘロインの過剰接種のために47歳で亡くなりました。彼が衰えていったことについて、話してもらっても構いませんか?
TP:ハウイはずっと、バンドの中では孤立を好むタイプだった。一匹狼でね。ぼくらと親しくなかったという訳じゃない。仲が良かった。ハウイは距離を保っていた。
ベンはハウイとすごく仲が良かったね。ベンはハウイととても良く合っていた。ハウイの家なんかに行ったりして。ぼくは実際のところ、あまり行ったことがなかった。ぼくがハウイに会ったのは仕事の時だけだった。しょっちゅうは会わなかった。
ぼくはヘロインが身近にあるってことは分かっていた。[Southern Accents] ぐらいの早い時期から、スタジオにヘロインがあるのを見たことがあったよ。
Q:やってみましたか?
TP:ハウイが勧めたときに、一度みんなで試したんじゃないかな(笑)。みんな、少しだけって感じだった。
Q:好きになれなかった?
TP:みんなかなり気に入ったと思うよ。同時に、ぼくらはどっぷりはまりこんでしまうことも分かっていたから、それ以上はやらなかった。
Q:注射を使ったのですか?
TP:いや。吸っただけ。ハウイも注射は使わなかったと思うな。針が嫌だったんだと思う。ともあれ、ぼくにはハウイがキメている日は、一緒に居れば分かった。
ヘロインっていうのは、良いもんじゃない。かと言って、ぼくは説教もしなかったし、人に対して、どう生きるべきかとか説くタイプでもなかった。今思うと、ちゃんとすれば良かった。でも、あの時は人にどう生きるべきかとかあれこれ言いたくはなかった。今ではぼくも色々口うるさくなったけど。
でも、これはハウイ自身の問題だった。彼にしっかり仕事ができるかどうかが、ぼくの関心ごとであり、だからこそぼくは何も言わなかったんだ。
だからぼくは、ハウイがヘロイン常習者になっても気づかなかった。でもそのうち、表に現れ始めた。数年もすると、ぼくも、みんなも、ハウイがヘロイン中毒になっていると、気づいた。
そして全員が自分なりにハウイと話すようになった。「やめなきゃ駄目だ。取り殺されちゃうぞ。ヘロインなんか、なんにもならない。死ぬか、ムショ行きかだ。その中間なんて無いんだ。他に選択肢はないぞ。止めるしかないんだ。いいな。」ってね。
ハウイはいつもよく聞いてくれていた。多くのジャンキーがそうであるように。連中はだいたい、ちゃんとするって言うんだ。
そうして、やがて嘘をつくようになる。本当に、嘘を言うようになるんだ。もう手がつけられない。ジャンキーたちは、自分の生活を取り繕うために、プロの嘘つきになってしまう。
ぼくらはハウイを深く愛していた。でも、ハウイはリハーサルに2時間も遅刻してくるようになった。ジャンキーはだいたいそうだ。遅刻するんだよ。そしてハウイの演奏や歌も、危なっかしくなってきた。
Q:ヘロインは彼の演奏能力に影響しませんでしたか?
TP:しばらくは影響しなかった。ヘロインっていうのは、音楽的でいられるらしい。そのせいで、多くのミュージシャンたちがヘロインで命を落としたのだと思う。長時間、音楽をやっていられるようになる物だからさ。
でも次第に、例外無く(ヘロイン使用者たちは)何もかもが壁にぶち当たり、創造力を失ってしまう。
ぼくらにも、ヘロインが身近にあることは分かっていた。ぼくらは長い間、ハウイにいかに生活するべきかを、積極的に説かずにいた。ぼくらはするべきだったんだろう。やがて状況が変わってきて、問題を口に出して言うようになった。
週末にハウイが何をしているのかは把握していなかったので、彼が実際にヘロインを止めたのか、やり続けていたのかは分からなかった。ハウイは自分の世界の中に生きていた。彼は自宅にスタジオを持っていた。自宅で多くの時間を過ごし、夜に起きて、昼間に眠っていた。
あの家に頻繁に行った唯一のメンバーは、ベンモントだと思う。ハウイのガールフレンド、カーレン・カーターはハウイのプロデュースでレコードを作っていた。ベンも参加してくれたから、彼らはとてもハッピーだった。
そうして、ベンも参加した、カーレンのヒット・ソングができあがった。それを何年か続けて、じつに良くやっていた。二人とも、とてもノリノリだったし、ハッピーだった。
Q:ベンはハウイの抱えている問題について、勘付いていたのでしょうか?
TP:間違いなく、勘付いていただろう。でも、だれも問題がいかに深刻な事態かは、分かっていなかった。
やがて、ハウイの容姿が、事態の深刻さを語り始めた。見た目から悪くなっていった。実に具合が悪そうだった。
Q:ひどく痩せたとか?
TP:極端に痩せ始めた。顔かたちまで変わってしまった。もはや同一人物にも見えなかった。鼻の形も変わってしまって。以前と、その後の写真を見比べても、同じ男には見えないよ。
そのうち彼がセッションに来ても、ヘロインをうやっているなと、ぼくらに分かるようになった。臭いで分かるんだ。ヘロインを吸引すると、独特な臭いがする。ハウイは裏の方の部屋とか、どっか別のところでやっては、戻ってきていた。
影響は、音楽にすぐ出た。スタジオにずっとは居られなくなった。そのうち、ミスをするようになる。スタジオでは、ちょっとした不具合が、大きな事になってしまう。ぼくらは、ハウイの体重が元に戻らないことを、ひどく心配し始めた。
ぼくらはみんな、一度ならずハウイと話し込んだ。ヘロインを止めなきゃということと、いかに事態が深刻かについて。この問題が、ハウイのバンド内の立場を危うくしていた。
だからぼくらは、ハウイと何度も何度も話し合った。そして、いかにヘロインを止めなきゃいけないかという事に、長い時間をかけた。いつも返答はこうだった。
「うん、完璧にその通りだよ。やめる。」
そんな事が何年も続いた。ハウイが死んだのは2003年だけど、80年代の半ばから、問題は続いていた。
あのころ、ぼくらの中の何人かは、ドラッグや飲酒の問題を抱えていた。そしてそれを乗り越えてきたんだ。全員がじゃないけど、とにかく何人かはそうだった。確かに乗り越えてきた。ハウイにこう言ったのを覚えている。
「出来るよ、きっと乗り越えることが出来る。」
その点にハウイはどっちつかずの気持ちだった。場合によっては真剣に考えているようだったし、場合によっては、色々言われることに苛立ったりしていた。
そしてとうとうある日、大きな警報が鳴らされた。ハウイが逮捕されたんだ。ニュー・メキシコで御用になった。
ぼくらはペンシルベニアからツアーを開始しようとしていたところだった。森とかの、野外コンサートだった。演奏をする日の朝に、LAから飛行機で向かう事になっていた。ぼくらは飛行場に集合して飛行機に乗ることになっていたのだけど、そこでハウイが一緒に行けないという、知らせを聞いた。
話によると、ハウイは前の晩にカーレン・カーターと一緒に逮捕されていた。そして大量のヘロインを所持していた。ツアーに備えた蓄えだったんだろうな。しかも二人は、盗難車に乗っていた。今でもここが良く分からないんだけど。ハウイは運転はしなかったんだよ。運転免許も持っていなかったんだから。だから、どうして盗難車になんか乗っていたのか、未だに理解できない。
とにかく、二人は逮捕され、牢屋に入れられた。バンドの弁護士が人をニューメキシコに派遣して、対処させた。ぼくらはどうにかなるだろうと聞かされた。その晩の9時までには、ハウイを連れてくると言うんだ。すさまじかった。
とにかくぼくらはペンシルベニアに向かった。飛行機内でも、話し合いの話題は、このことで、みんなすっかりうんざりしてしまっていた。みんな既に、リハではハウイには遅刻されどおしだったから。いつもぼくらは、ハウイを待っていた。
ぼくらはギグの準備を始めたが、ハウイは居なかった。ハウイ抜きでサウンドチェックをした。スコット・サーストンはいつも、べースをやらなきゃならない事態に備えているように言われていた。ハウイが本当に来れるのかどうか分からないし、来たとしてもどんな様子かも分からないので、スコットは楽屋でベースの練習をしていた。
開演の20分前になって、やれやれ、ハウイが到着した。連れてこられたんだ。ものすごく具合が悪そうだった。いかにも薬抜きで牢屋で過ごしたって感じだった。ハウイは靴さえ履いていなかった。
見るからに最悪だった。ぼくらが思いのすべてでもって愛した男が、この有様だった。こんなトラブルは御免だった。ハウイは実に大きなハートの持ち主であり、実に心優しい男だった。
飛行機の中で、シートベルトだけに体を支えられるようにして居るハウイの姿を見るだけで、ぼくらは死ぬほど辛かった。ぼくには彼が、押しつぶされてしまいそうに見えた。ずっと体の平行を保つために悪戦苦闘しているようだった。ぼくには一体どうなっているのか分からなかったけど、とにかく彼を見ていると、とんでもなく悪いことが進行しているのだとははっきりと言えた。
ぼくはショーの後、ハウイと話した。
「ハウイ、分かっただろう。こは明らかに警告なんだよ。本気で変わらなきゃだめだ。ツアーが終わったら、リハビリしなきゃ。さもきゃ、本当に駄目になっちまう。」
すると、彼は答えた。「分かってる。その通りだと思う。だから、リハビリをするよ。」
ツアーはニューヨークに移った。ニューヨークを起点にして、あの地域で何回かのギグをこなした。つまり、出かけていってはショーをやって、夜にはニューヨークに戻っていたんだ。ぼくらは飛行機とバスを使って移動していた。ジェット機をチャーターして、短い距離の移動の時は、バスを使うことにした。
ハウイは、自分自身のバスを持っていた。これは良くなかった。ぼくらが飛行機を使っても、時々彼は移動の全行程を誰とも一緒になることなく、バスで移動していたのだから。バスの中で何が起こっていたのかは、分かっていた。バスで移動していたのだから。バスの中で何が起こっていたのかは、分かっていた。
翌日、ニュージャージーへバスでぼくらが移動してみると、ハウイのバスがついて来ていなかった。ぼくがツアー・マネージャーにどうしたんだと尋ねると、彼が答えた。
「それが、ハウイの具合が凄く悪いんだ。サウンドチェックには参加できそうにない。正直言って、本番さえやってくれれば良いと思う。本当に最悪のコンディションなんだ。」
薬が切れたんだろう。それで具合が悪くなっったんだ。
再び、この問題に関するディスカッションを長々と行った。そして今回も、ショーの30分前になって、ハウイが到着した。実に見た目にも最悪だった。もともと良くはなかったけど。
ハウイがどうやって演奏をやり続けたのかは、分からない。実際、どう切り抜けたのか、皆目見当が付かない。苦痛を沢山抱え込んだ男になってしまった。
そして、ぼくはハウイが可哀想でたまらなかった。だからぼくは彼を慰めるに最善を尽くし、きっと大丈夫だと言い続けた。それが彼を支えることにもなっただろう。
ぼくらはツアーを続けた。ハウイはどうにか演奏をしていた。観客たちは、まずい事が進行しているとは、気づいていなかった。でもぼくらはそうは行かない。ハウイがひどく苦しんでいるのは分かっていた。だから、あまり上手くは演奏できていなかった。
Q:ハーモニーは歌えたのですか?
TP:上手くは歌えなかった。実際は、スコットがハウイのパートのほとんどを歌った。ハウイはすっかり衰弱していた。見ればそれは分かった。彼がショーを何とか乗り越え、終えたとき、ぼくはまるでそれが救いであるかのように見えた。でもハウイはほとんど折れてしまったかのようで、痙攣を起こしていた。
悲しかった。とにかく、ひどく悲しかった。
当然、ぼくは報道陣に対応しなきゃならなかった。ハウイの逮捕はもう知れ渡っていた。ハウイ自身は何も語らない。だからぼくが彼のためにコメントしなきゃならなかった。でもぼくにはなんと言えば良いのか分からなかった。
それで、ぼくはこの状況を彼の部屋へ伝えに行った。
「なぁ、自分がしたことを分かっているんだろ。今こそ、その時なんだよ。具合はひどく悪そうだし、変わらなきゃだめだよ。さもなきゃ失業だぞ。そうしたら一体どうするんだよ?」
最後のショーの後、ハウイはフロリダのリハビリ施設へ行くことに同意した。飛行機はぼくらをLAで降ろして、燃料を入れ直してからハウイをフロリダへ連れて行くことになっていた。
まずLAへの帰り道、ハウイは施設に行く前に、LAで何日か過ごす時間が欲しいと言い出した。今やぼくらはそれを真には受けなかった。ぼくがこう言ったのを覚えている。
「ハウイ、俺がOKだなんて言おうものなら、バンドにとって俺なんてただのバカだぞ。」
でも彼は、家の事とか、用事をすませる必要があると言う。でもぼくは信じなかった。ぼくらはすっかり懲りていたし、第一、ハウイの家のことをするのなんか、いくらでもどうにかなるだろ(笑)。でもハウイは家に一旦戻ることにこだわった。もうどうしようもないだろう?ハウイは飛行機を降りると、行ってしまった。それっきりだった。
ハウイはニューメキシコへ行ったんだ。ニューメキシコに農場を購入していて、多くの時間をそこで過ごしていた。そこでぼくらは信頼できるローディーをニューメキシコへ送り込んで、ハウイを飛行機に乗せ、強制的に施設にやった。
あれやこれやとあった末に、ハウイはマイアミ行きの飛行機に乗せられた。そしてマイアミに行き、施設に入った。
数週間後、ハウイがぼくに電話してきた。とても楽しそうで、デトックスできたと言っていた。すっかりクリーンになったから、大丈夫になったと。
ぼくは言った。「誇りに思うよ。」
そうしたら、ハウイが「家に帰りたいよ。家に帰るために、ぼくに飛行機をよこしてくれる?」と言う。
ぼくは答えた。「だめだよ。」ぼくらはみんな、デトックスはすべての戦いの内の、一部にすぎないと分かっていた。だから施設で、さらなるリハビリと、治療が必要なんだ。ぼくは言った。
「だめだよ、そこにとどまって、全てをこなさなきゃ。どっちにしろ、飛行機を派遣するなんて、よくある話じゃないし。とにかく、プログラムをやり遂げるんだよ。」
でも、そうはならなかった。バグズがLAXへ迎えに来てくれとハウイに頼まれたと、聞かされた。ハウイは普通の便で帰ってきてしまっていた。
これには、バグズもぶち切れてしまった。バグズだって、やっぱりハウイをすごく愛していたのだから。最後のショーの日、バグズがハウイの襟を掴んで揺さぶりながら「しっかりしろ、バカ!」とか、そんなような事を言っていた。愛しているからこそだった。
とにかく、バグズはハウイを迎えに行かなきゃならなかった。しかも、ハウイは家には行きたがらず、モーテルに行きたがったとのことだった。ぼくには何故か分からない。
後でバグズが、ハウイはちっとも良くなったようには見えなかったと、ぼくに報告した。バグズは、もう逆戻りが始まったんだと思ったのさ。
こうなったらどうする?ぼくらはみんな、もうどうすれば良いのか分からなかった。ハウイに尋ねるわけにもいかない。またぼくらはこの問題に関して、話し合いを持った。
ぼくらは、ハウイをバンドの一員にしておくことが、ハウイのドラッグ使用の財源になっていると感じていた。バンドから追い出さなきゃならない。彼のを目を覚まさせる以外の、何の為でもない。でも、ぼくらには出来ないでいた。
そのころ、ぼくらはロックの殿堂入りすることになっていた。殿堂入りするとなると、みんな、バンドのオリジナル・メンバーを集めてセレモニーで演奏したいものだ。ぼくらはスタンとは長い間会っていなかった。でも、ぼくらは二日間のリハーサルをLAで設定して、スタンも来ることになっていた。
"American Girl" をロン(ベース)と、スタンと一緒にやることになっていた。それから、ハウイ,スタンと一緒に "Mary Jane's Last Dance" を。ハウイが録音の時に弾いていたのだからね。
ロンとも、ずいぶん長い間演奏していなかった。リハの初日に、ロンやスタンとやったのだけど、これがもの凄く楽しかった。サウンドも素晴らしかったし、オリジナルの5人が同じ部屋に集って演奏するのには、懐かしさも一杯で、素敵だった。サウンドも最高で。
そして翌日。ハウイが加わると、カードを裏返しにするように状況が変わった。しかも、ハウイは大遅刻していた。ぼくらは集まって、待ちに待った。そしてハウイが現れた時、スタンはハウイの容姿に酷く動揺した。
スタンがぼくに言った。
「お前ら、どうにかしてやらなかったのかよ?」
ぼくは答えた。「あのな、俺たちだって出来ることは全てやったんだ。ほかにどうしろって言うんだ?」
「ありゃ最悪だぞ。」
「分かってる、分かってる。最悪ってのは分かってる。」
演奏を始めても、状況は悪化し、サウンドも最悪だった。まったく良くなかった。
前日には絶好調で、その日の演奏も最高だった。
でも今度のリハは、20分や30分も続かなかった。前の日は一晩中やっていた。たった1曲のためのリハなのに、プレイするのが楽しくて仕方がなくって、ずっと演奏し続けていたのに。次の夜になると、1曲を2回ほどやっただけだった。
Q:あなたがそうしようと決めたのですか?
TP:いや。良い感じに聞こえなかったから。それから、ぼくらはセレモニーのためにニューヨークへ向かい、ショーをやった。テレビでの放映では、ハウイとやった曲はカットされて、ロンとやった曲が放映された。
とにかく、ハウイの様子は最悪だった。しかも殆ど喋らなかった。あまりぼくらとも一緒に居なかった。きっと、ハウイがぼくらに約束したことをちっともやってないことを、恥ずかしいと思っていたんだろうな。
ショーが終わってから、ホテルのぼくの部屋に移動した。デイナや、娘たち、バンドの何人かが集まった。それにスティーヴィー・ニックスも居て、すごく良い雰囲気だった。懐かしさもあって、そんな感じの時ってあるだろう(笑)。ぼくらは歌ったり、ステレオに合わせて演奏したり。それに楽しくおしゃべり。
そのうち、誰かが言い出した。
「ハウイを呼ぼう。ハウイに来るように言おうよ。」
誰かが連絡したら、なんと本当にハウイが来た。彼は微笑みを浮かべていたけど、ひどく静かな感じだった。しばらくは部屋に居たけど、そのうち行ってしまった。
ぼくは座り込んで、心の中で感じていた。ハウイにはもう二度と会えないだろうって。
Q:予感したのですか?
TP:うん。ぼくには分かった。もうハウイには何日も残されていないと。
かくしてハウイは行ってしまった。ぼくらが帰宅すると、それまで誰もが臆病で出来なかったことだけど、ぼくはトニーに、ハウイは解雇だと伝えるように言った。バンドはその方針に決していた。こういうのを「超法規的措置」とでも言うのだろう。ぼくらはこれを行使して、ハウイのライフスタイルをどうにかしようとした。そしておそらく、これが、彼の目を覚まさせるための、最後の手段だった。
ハウイは、「もし、まともな、素面な状態になったら、帰っておいで。ただ、今はこれ以上どうにもできない。私たちはみんなきみのことを愛している。だからこそ、きみがきみ自身を破壊するのを見ていられないんだ。」という言葉でもって、解雇された。
クビになったわけだ。そして、ぼくは二度とハウイに会うことはなかった。
ハウイはディンゴって名前のジャーマン・シェパードを飼っていて、とても仲良しだった。ハウイは何年も何年も、この犬と一緒だった。犬ととても親密で、ツアーにも連れて行っていた。犬と離れてはいられなかったんだ。
ぼくが噂で聞いたところによると、ハウイはカーレンとは別れて、ずっとニューメキシコに居た。そして、犬が死んだ。その翌日に、ハウイが死んだ。
その知らせがどんなだったのか、思い出せない。デイナがぼくに言ったんだろうな。彼女が電話を取ったんだろう。なにが起こったのか、それは把握できていた。でも、詳しい状況を完全には把握しなかった。
ハウイは自宅に居たのではなかった。なんらかの薬を接種し、それがハウイを死に至らしめた。信じ難いことだった。こうなる事は分かったし、それを知らされただけなのに。でも、実際に起こってしまうと、未だに信じられない。
ぼくらは、LAのマカベで、追悼の会をした。小さな楽器屋で、こじんまりした部屋で地元のコンサートなんかが開かれていた。
とても温かい雰囲気で、ハウイが大好きな場所だった。何人かのインディアンが来て、場を清めてくれた。ハウイの友達も来た。みんなでハウイのことを語り合った。とても盛り上がって、笑いが絶えず、良い終わり方だった。
ぼくらはあの夜を経て、「オーケー、休息は取った。これからまた前に進める」って感じたんだと思う。
でも、今でもぼくはハウイが死んでしまったなんて信じられない。
サタデー・ナイト・ライブの再放送を見たら、ハウイが居て、とても格好良く、健康的で、ぼくの中にあるハウイの記憶そのものだった。
ハウイはこの上なく心優しい人だった。ハウイの口からポジティブじゃない発言を聞いたことがない。決してネガティブにならなかった。そしていつも物事を良い方向に見ていた。
変だよね。ぼくにとって、ハウイは写真の中の人のようにはなっていないんだ。ぼくにとってハウイは、未だに3Dの存在なんだ。
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Chapter 15
Joe
Q:2002年に録音した次のアルバムが [The Last DJ] です。あなたとマイク、ジョージ・ドラコリアスとの共同プロデュースですね。
TP:[The Last DJ] が始まった頃、ぼくはジョージに接近したんだ。「こういうのに興味ある?」そうしたら興味を示してくれて、実に熱心に打ち込んでくれた。
とても素晴らしい仕事をしてくれたと思うよ。ほんとうに良いヤツでね。しかも凄く才能がある。それでこのレコードでは、とても良い仕事をしてくれた。彼がぼくらをひと所に集め、ぼくのベースと一緒に、ライブ録音したんだ。
Q:そうそう、その録音を含めた二曲以外のすべてでは、あなたがベースを弾いているのでしたね。
TP:そうなんだ。ロン(・ブレア)がレコーディングの最後になって、戻ってきてくれた。ハウイはそれどころじゃなくて、このレコーディングではまったく姿を見せなかった。それでぼくがベース・プレイヤーになった。
ぼくも好きなんだ。何年もベースは弾いていなかったけど。それで、ロンが加わってくれた。一緒に、ライブで録音した。そういうわけで、ぼくはギターに復帰したというわけ。
Q:ライブでもベースを弾いたのですか?歌いながら?
TP:うん。そう、ガイド・ボーカルを歌っていた。口ずさんじゃうんだよね。マイクにそういうのをけっこう拾われている。素人からすると、その音はボーカルマイクからドラムが響くように聞こえる。
すごくダーティなサウンドになる。一度か二度は、そういうライブ録音でのボーカルを取ってある。でも普通は、後でボーカルをオーバーダビングする。
[The Last DJ] は本当に素晴らしいと思うよ。ぼくらにとっては変わったものだったけど、前進だったと思っている。誇りに思っているよ。ずっとそうだろうね。中傷するひとたちが思うよりも、ずっと長く聞かれると思う。
Q:パワフルなアルバムですね。
TP:野心的さ(笑)。
Q:コンセプト・アルバムでもある。
TP:緩いコンセプトだけど、確かにね。
(このアイディアは)ラジオ局の掲示板に「喋るな」って書いてあるのを見ていたときに、思いついた。思ったよ、なんてこった、悲しむべきことじゃないかって。「話すな」って言うんだぜ。流れている曲が誰のものかも言わないって言うわけさ。
ぼくが子供の頃、ディスク・ジョッキーは知り合いみたいな存在だった。そういうジョッキーたちが、番組を作り上げていた。彼らがありとあらゆる音楽流してきた。ラジオは実にマジカルで、魅力にあふれていた。ラジオはぼくの人生のなかで、実に大きな役割を果たしていた。
それでもって、「喋るな」っていう張り紙を目にしたわけ(笑)。
ぼくは、こいつを今世界で起こっていることと、似たような比喩表現としてとらえた。そして、モラル的な表現にしてみることにした。
もしレコードが何事かを表現するとしたら、この場合、モラルについてだ。そして、お金ってものの下で、ぼくらにどれほどのことが出来るか。何を得て、何を失っているか。
それで、ミュージック・ビジネスについてのアルバムを作ろうと決心したんだ。自分の比喩表現に使おうってね。それは、地域によっては高くついた。
Q:どんな風に?
TP:そうだな、最初にレコードが出たときに禁止されたり。いくつかのラジオ局では禁止されたんだ。
Q:「アンチ・ラジオ」だと、とらえた人もいたんですね。
TP:しかも正真正銘のプロのラジオ制作がだよ。それでも、アルバムはビルボード・ロック・チャートのナンバー・ワンになった。タイトル曲がね。それなのに禁止されちゃった。
このアルバムについての論評も、すごくたくさん見た。一部の人は、ぼくが冷淡になったと考えていた。もしくはこうだな。「彼はどこを目指しているんだ?ロック以下なのだろうか?これはロックから遠ざかろうとしている。」
そうだなぁ、ぼく自身がロック以下ってことになった事はないけど、確かに(音楽がロックから)遠ざかろうとしているな。しかも、もっと状況が悪くなろうとしている(笑)。
とにかく、ぼくはこのアルバムが冷淡なものだとは思わない。このアルバムには、救いがあり、希望があると思っている。
曲は上院の記録で読み上げられた。クリア・チャンネルや、ラジオ・ビジネスの独占状態についてとして聞かれたんだ。
それに、ドン・ヘンリーがこのアルバムをワシントンに持ち込んで、上院で聞かれるに至ったってことも知っているし。このアルバムはちょっとした波風を立てた。そのことについては、ぼくは少し誇りに思っている(笑)。
Q:多くの人は、あなたがクリア・チャンネルや、連中の独占状態について書いているのだと思いこんだようですね。
TP:ぼくはそうした訳じゃない。ただ、クリア・チャンネルについて、あまり多くを知らずに、絵空事のような世界で生きることになることを、恐れてはいるけどね。信じようが信じまいが、とにかくぼくがクリア・チャンネルについて知っているのは、彼らがコンサートの主催をしている、ってことだけだ。クリア・チャンネルよりもでかくなってやろうとしている、対抗馬を見たことがあるけど。
ぼくは特に、音楽やラジオ局のことを語ろうとしていたんじゃない。この国と、世界について語ったんだ。モラルというものが失われたこの世界をね。世界がいかに、どんどん、どんどん、どんどんどんどん、下らないものになり下がっているのか、悪いものを賞賛しているのか。それこそが、ぼくが言おうとしたことだった。
このアルバムについて、一番悲しいのは、音楽が見過ごされ、歌詞ばかりが注目されたことだ。このアルバムには、素晴らしい「音楽」があるんだよ。美しい演奏も、素晴らしいメロディも。
そういう歌のために、すごく時間もかけた。でも、ぼくが読んだもの(評論)は、どれも歌詞についてだった。
Q:セールスがふるわなかったのは、プロモーションが良くなかったからだとは思いますか?
TP:さぁね。でも、このレコードは生き続けるものだとは思うよ。しぶとく残り、それはまた大きな勝利だと言える。良いアルバムだもの。
それにぼくは、ずっとたくさんの人に、どれほどこのアルバムが好きかを言われ続けているし。ボブ・ディランまでもが最近、ぼくにこのアルバムが大好きだと言ってくれた。すごく嬉しかったよ。
たぶん、ぼくはやろうとした以上の事を、やってのけたんだと思う。それが、これほどのおおごとだとは思わなかったし、人の怒りを買うことになるとも思わなかった。
ぼくはただ、何事かを言おうとするのに、楽しい手段だと思ったんだ。エンターテインメントの手法さ。エンターテインメントでありつつ、何かの主張でもある。一部の人は、これをまともに受け止め過ぎたんだろうな。
Q:このアルバムのアート・ワークは、お嬢さんのエイドリア・ペティが手がけていますね。
TP:うん。エイドリアにはとても才能があるんだ。実際、映画製作者でもあるし。ビデオを何本か制作している。
あの子があるアーチストのプレス・キットを見せてくれたんだけど、素晴らしかった。本当に誇りに思うよ。まったくのアーチストであることを証明してみせたんだ。
エイドリアは29歳で、もう一人の娘、キムは22歳。この子も同じようにアーチストなんだ。大きな化粧品会社と契約していてね。その会社のロゴや、そういうものを制作している。それから演劇の勉強もしているんだ。
だから二人ともアートに関わっている。しかも二人して成功しているわけだ。本当にあの子たちを誇りに思う。それから、エイドリアは、可愛いらしくて、不思議な人柄だ。実に素晴らしい才能を持っていてね。
Q:[The Last DJ] の制作期間は、あなたにとって楽しい時期でしたか?
TP:うん。家をもう一つ購入してね。大きな家を持っていたけど、海の近くにコテージみたいな家を買ったんだ。そこで、何度も何度も過ごした。
この家からは引き払って、出かけたんだ。この家に居ると忙しくなってしまうし、色々な人が出入りしたりするからね。すごく大勢の人がこの家では働いているんだ。ぼくの個人事務所もここにあるし。そうなると忙しいだろう。
あちらに行って、自分で自分のベッド・メイキングをしたりすのは、たまには良いものさ。一種の逃避行動だな。だからあっちで、多くの時間を過ごしたんだ。海があってさ、海っていうのは偉大なものだよ。ぼくらは二人とも、海が大好きなんだ。それもあっちへ行く理由。
ただ出かけて、ビーチを散歩なんて毎日できるし。実に牧歌的。素晴らしいことさ。あの時期は、実に多くのことを成し遂げたと思う。クリエイティブで、やる気もあった。あの時期については、いかなるストレスも思い出せないな。
Q:一部の人は、このアルバムを怒りのアルバムと、とらえています。だからあなたも怒りを抱いていたと考えていますが。
TP:いいや。ハマグリ並みにハッピーだったよ。
ただ、いうべき事はあった。このコンセプトは、長い間ぼくの頭の中にあったんだと思うよ。誰もが考えているけど、口に出しては言わないことを書いたアルバムを作りたかったんだ。
一部の人は、いまだにぼくが言ったことを非難している。でもぼくは主張する価値があると思ったし、そういう(非難する)連中はそれが嫌なんだろう。とにかく、ぼくは自分がしたことに満足だ。ぼくらの仕事の基本としては、良いことだと思う。ちょっと変わったアルバムっていうのも良いものだと思うし。
アルバムはただの歌の寄せ集めじゃないんだから。
Q:最近、あなたは自分のラジオ・ショーを持っていますね。XMサテライト・ラジオの「トム・ペティズ・バリード・トレジャー」。チャンネル50のディープ・トラックスにて。どのように流す曲を選ぶのですか?選曲は楽しい作業ですか?
TP:ゴキゲンだね。もう夢中だよ。大好きなんだ。ぼくの膨大なCDコレクションを持ち出すのさ。そこからぼくのコンピューターのiPodライブラリーに、ものすごい量の曲をダウンロードしてある。何千曲かね。それからパソコンの中に自分でファイルを作るんだ。けっこう簡単だよ。
これが、ぼくをコンピューターに向かわせる唯一の時間だね。それまでは持っていなかったから。これは自分の番組を構成していくには、良い方法だ。曲を移動させたり、時間オーバーした分とかも分かるし。そうやってライブラリーの中を見渡して、好きなものをピックアップする。それをまたファイルにまとめるんだ。一緒にぶっ続けで聴いたら楽しいだろうな。
それから、うまくバランスを取るようにもしている。多くの場合は、ファイルの中身が1時間を越してしまう。それから、ぼくが音楽を入れ込むときに、ここにプロデューサーが来てくれる。スタジオ録音するんだ。プロデューサーは少し話しながら、ぼくを先導してくれる。曲紹介とか、そういうものをね。ちょっとしたジョークを入れたり、架空のメールなんて読んだりして(笑)。すごく楽しいよ。
ラジオ番組が大好きなんだ。番組自体も、とても良くできていると思うよ。みんな気に入ってくれているし、週に3回は聞ける。最高だよ。
最近の音楽はあまり流さないな。少ししか入れない。この番組の目指すものは、リスナーが聞いたことのない音楽に、興味を向けることなんだ。だからあまり単純な選曲はしないことにしている。
50年代や60年代にとどめて、70年代を少しだけ。R&Bと、ロックンロール。あの時代は、選ぶに値する偉大な曲が大量にあるからね。それで番組15回分をやることで同意したんだよ。はりきらないとね。音楽で、てんやわんやさ。CDも売らなきゃいけないし(笑)。
でも、長いあいだこれほどまでに楽しくはやっていなかった。だからこのラジオ制作が大好きなんだ。ぼくはいつも、深夜ラジオ番組のディスク・ジョッキーになれたら素敵だろうなって、頭のどこかで夢見ていたんだ。
Q:ザ・ラストDJというわけですね。
TP:そう、ザ・ラストDJだね。でも、この手のショーは難しいんだ。専門的なショーだからね。みんな気に入ってくれると良いんだけど。実際、好きだとも言われたよ。
でも、うしろめたさもあるかな。ぼくは自分自身のた楽しみのためにやっているから。
Q:コンサートの前というのは、いつも緊張するものですか?
TP:ああ。だって、2万人の群衆の前に立つとしてみなよ。緊張しなかったら、そいつはおかしいんだ。そうだろう?緊張しないなんて、どっかのネジが抜けているんだ。
Q:結束が堅く、支えとなってくれるバンドと一緒でもですか?
TP:しかも、お客さんがみんなぼくらのことが大好きで見に来てくれているとしてもね。それでもある程度は緊張するんだ。アドレナリンが溢れてくる。ぼくはずっとそうだった。
Q:ギグの時は何か決まり事などありますか?「待つことが一番つらいことだ」(The Waiting)と書いていますが。ショー始まるまでは、ひどく苦痛ではありませんか?
TP:ツアーに出ているときは、決まり事で進むね。ツアーはとても組織だって進むから。すべてが型どおりに進行する。
前夜に翌日のある時刻にどこにいて、その日は何をどうするのか書いてある紙を一枚渡されるんだ。
正午までに荷物をまとめて、2時にホテルを出る。3時、サウンド・チェック。5時、食事。7時、前座。9時、本番。
ショーの後は、警察に先導されて空港に移動。飛行機の時間がああでこうで。次の町にこれこれしかじかの時間に着いて、これこれしかじかのホテルに車で連れて行かれる。寝て、覚めたらまたその日はどうするか書いてある紙を渡される。こういう生活。
Q:ショーのある夜に備えて、日中はどういう準備をするのですか?
TP:一日のほとんどを、のんびり過ごすね。集中するのは、サウンド・チェックの時だ。本番では、良い音で臨みたいから。だから上手く行くんだよ。その会場に合った、良い音も出したいし。
午後の一時間かそこらは、こういうふうに、すべてが上手く行くようにしっかり働く。
それから、普段は食事になるんだ。バックステージで、クルーやバンドのための食事が用意されるんだ。それから、ハートブレイカーズとか、ほかの人たちークルーとか、周囲に居る人と過ごすんだ。
デイナとはいつも一緒だ。ツアーで、彼女は実にぼくの面倒をよく見てくれる。それから、ショーの1時間前になると、ぼくは独りになる必要がある。それか、ぼくとデイナの二人きりに。それでも、ショーの前30分になると、デイナも離れるんだ。彼女は「じゃぁね、私は行くから。しっかり集中して。また、あとで。」と言って、ぼくを置いて行く。
その後の30分、ぼくはこれからやろうとすることに集中する。
Q:ギターを持って?
TP:普段は、心の中で持っているな。ショーの15分か20分前に、のどのウォームアップをする。だいたいは、大きなロッカールームにシャワーがある。何台かね。エコーがかかるから、そこに言ってアップするのが好きなんだ。
スロート・コート(訳者注:トラディショナル・メディシナル社の商品名。ハーブティー)を飲んで。それから喉をウォームアップする段階に入り、声の調子を整える。喉を作り、着替えて、出番を待つんだ。
ところが、あるときエマーソン・フィッツパルディというレーサーに会った。ロング・ビーチ・グランプリの日でね。ぼくはレースとは無関係だったんだけど、ジョージが大好きで。レース命だったんだ。それで、ジョージはよくぼくをレースに連れて行ってくれた。
それで、エマーソンに会った。レースの後に会いに行って、ぼくは彼に尋ねた。
「レースの時、どんな準備をする?」
ぼくらはパドック・ガレージにいて、ずっと彼を観察していたんだ。レーシング・スーツを着て、出るのを待っていたのをね。あのスーツ、重いだろうなと思った。あのスーツで長時間のレースをしなきゃならないんだから、普通は死んじゃうだろうね。
それでぼくは「どう準備を?」と尋ねたんだ。すると彼は答えた。
「出る前は、レース全体ののことを考えているね。コースは分かっているし。どう展開して、自分はどうなるかとか、思い浮かべるんだ。」
良いアドバイスだと思って、それに従う事にした。セットリストを見て、どうするのか、ぼくらがどうプレイするのか、思い浮かべてみるんだ。
「よし、やるべき事は分かった。うまく行きそうだ。今はすべてを忘れてリラックス。それからステージに行って、最高の時間にしよう」ってね。
これは秘密なんだけど、一番な大事なこと。それは「楽しむ」ってことだ。深刻になり過ぎちゃいけない。自分が深刻に考えすぎると、実際に深刻な事態になってしまう。
かといって、すべてを投げやりにする訳じゃない。あれやこれやっと、ほっぽり出してしまうことは出来ない。観客のみんなが見に来ていることを忘れちゃいけないよ(笑)、好きだから来ているんだし、歌を聴きに来ているんだから。
そういうレベルでしっかり気持ちを持っていれば、楽しむ事ができるし、観客のみんなも楽しめるんだ。
しかし、アリーナの真ん中に歩を進めて、みんなの注目を一身に集めなきゃならない。一種の芸術的な行動だよね。それをどうやってやるのか、学習しなきゃならない。
でも、ぼくがその立場になったら、自分でも楽しむね。一種の旅みたいなものだよ。その場の一番遠いところにあるものを取りに行くみたいなものかな。
大きな場所で演奏することにも慣れなきゃいけない。クラブで演奏するのとはまた違うんだ。何年かかけて、ぼくも上手くできるようになってきた。自分で言うのもなんだけどね。楽しんでいるよ。
時として、旅し続けることや、40日もぶっ続けで(笑)歌わなきゃかならないことに疲れ、それを克服しなきゃならなくなる。
でも、いつでもそれを楽しもうとしている。オーディエンスがぼくを励ましてくれる。これは事実だよ。
とにかく、そういう訳で、本番前は自分の頭の中ですべてを想像するんだ。
Q:すべての歌をですか?
TP:うん。これから起こること全てだ。そのとき、どんな気持ちでいるのかを思い浮かべる。実際はなるようになるのだから、科学的な方法ではないけどね。
実際は、びっくりするような事が起こるものだ。でも、自分の中にしっかり、基礎となるものを持っていれば、どうにかなるものさ。
おかしな稼業だよね。ぼくら、この年になるまでこれをやっているとは思っていなかった。ぜんぜん計算に入っていなかったよ。ぼくらが50代半ばにもなっても、女の子たちがパンティを投げてくるんだから。
Q:ショーの流れとうのは、アルバム録音の流れとは、大きく違うものですか?
TP:ショーは、アルバムの流れとは、完全に異なる芸術分野だね。アルバムではバラードを2曲目に持ってくるとか出来るだろう。これはショーとは違う気構えだし、聴いている方もまた、また異なる精神構造をしている。
それに対して、ショーではエネルギーレベルが違う。聴衆をどんどん盛り上げて、むこうもそれに応える。ステージに出てきて最初と二番目の曲を聴衆と一緒にバラードにしたら、熱心に聴いてはもらえないんじゃないかな。
これはぼくにとって、本当に流れの問題なんだ。聴衆にどうぼくらの音楽を聴かせるという事であり、みんながどこでノって来て、どう受け取るかという事だ。
何年もかけて、ぼくらはどんどん上達してきていると思うよ。だからぼくらはとても流れの良いショーをしていると思うんだ。
Q:自分一人でそうするものですか?それともバンドと一緒になって?
TP:ぼく一人だろうな。ぼくが歌うんだから。シンガーがやらなきゃならないんだ。それぞれのミュージシャンは違うことを考えている。
マイクがいろいろ文句を言うんだよね。「あ、またこの曲はやりたくないな。こっちにしようぜ」とか、「あれにしよう」とか。でもあいつは全体のことを視野に入れているんじゃないから。自分のギタープレイのことを考えて言ってるんだ。
でもぼくは自分が「歌う」ってことを考慮に入れなきゃんらない。2時間あるし、その間歌っていなきゃならない。どうペース配分する?
だから、結局はぼくに任される。
Q:最初の一曲を選ぶのは難しいですか?
TP:いや、それほどでも。出だしに良い曲っていうのは、だいたい大ヒットしてテンポが良くて、エネルギーがあって、それ以外がオープニングにはなりそうにないって感じの曲だ。
でも何年かすると、別の曲で始めたいと思うようになる。最初の一曲から、二、三曲目っていうのはとても重要だと思う。
Q:バンドとは、流れ通りにリハーサルするのですか?
TP:まれにね。ぼくらは練習しなきゃならない曲を、ツアーの最初の方にリハするんだ。それから、流れの確認は少し。ベースになる曲を合わせると、ほかの曲をリハしたとしても、そういうのは本番ではあまりやらない。気になる曲をリハするんだ。
運動みたいなものだよ。筋肉をつけるみたいにね。
ぼくは自分の手をどうするということを考えずに、頭に集中するようにしているんだ。手は色々考えなくても、動くようにしているからね。そうすれば歌うことに集中できる。
1年くらい休んでから、ツアーに戻ろうとすると、コードの動きを忘れちゃうだろ。そうすると頭で手の動きを考えてしまう。最初に手の動きを考えて、それから歌いだしのことを考えると、歌い出し損ねてしまう。「じゃぁ、両方いっぺんに考えよう」なてことになったら、てんてこまいになってしまう。
Q:コードを押さえることに関しては、ほとんど「体で覚えること」という訳ですね。
TP:まったく、体にものを言わせることだな。ぼくらのショーときたら、肉体労働だよ。ものすごくエネルギーを消費する。ショーをやると、いくらか体重が減る。
体の調子を整えて、コンディションを調整しなきゃならない。前の晩には、しっかり寝溜めておかなきゃならない。起きて本番の時はすっきりしているようにね。
Q:ロードに出ている間は、たくさんの大きなショーの後に、十分な休息をとるのは実に難しそうですね。
TP:確かに。難しいよ。でも、長くやっているうちに慣れてくる。ぼくらはもう30年もやっているからね。
だからもう、どのくらいせっつかなきゃいけないかとか、どのくらい寝るべきかとか、喋りすぎたとかが、分かるようになってきた。療養プログラムが進行しているみたいにね。
Q:喋りすぎというのは、ステージ上でという意味ですか?
TP:いや、ステージ外で。夜通し喋ってるのはまずいだろ(笑)。でも、アドレナリンが出て興奮しているものだから、夜通し起きて話しているのなんて、簡単に出来てしまうんだ。スイッチをオフにして、眠らなきゃいけないって分かっているけどね。
Q:ハートブレイカーズ相手に話すのですか?ショーの後も一緒に居るものなのでしょうか?
TP:場合によってはそうだね。それぞれが他にすることがあるだろうし。多くの場合、ぼくらはショーの後に移動するんだ。すぐにね。 最後のコードが鳴りやむと、ぼくらは移動用の車の中だ。普段、ステージから空港へは、警察の先導がつく。それから離陸だ。飛行機が着陸すると、また別の車に乗って、ホテルに連れて行かれる。
そんなわけで、多くの場合ショーの後は移動に費やされるんだ。せいぜい同じところに滞在しても二晩だな。
Q:アンコール前の休憩の時、ステージを降りてから何をしているのですか?歓声を聞いているのですか?
TP:そうだね、だいたいはステージからあまり離れていないところに居るから、歓声は聞こえるよ。ぼくらは、いつもしっかり呼吸を整えている(笑)。たばこ吸ったり。冗談言ったり。
Q:普段、二回目のアンコールはやりませんよね?
TP:やらないな。いつまでも出たり入ったり、出たり入ったりしている連中って好きじゃないんだ。聴衆のみんなには「戻ってくる」って分かっているんだろう。ぼくらだって14回くらいアンコールに応えられるんだろうね、みんな引き上げないから。ぼくらがステージに戻ると、2曲か3曲やるだろ、でも聴衆はまたやってくれると思いこむわけだ(笑)。さもなきゃみんながっかりだからね。
Q:でも、一回はやる。
TP:うん。ワン・セットはやる。それが最後のセットだ。アンコールでぼくらがステージに戻ると、何曲か演奏する。これからが、その晩のエネルギーが最高潮に達するときだ。
アンコールは楽しいよ。グルーヴにノっているからね。少しだけ休憩して、それから正にガツンとぶちかます。5速にギアが入る。
それで(アンコールの前は)何をしているっけ?まぁ、ただ一緒に突っ立って笑ったり、たばこ吸ったり、それからステージに戻る。
Q:ショーの前にスロート・コート茶を飲むと言ってましたね。
TP:ニレの木エキス入り。ニレの木の樹皮から取れるんだ。根っこをかじっても良いのかもね。喉を保護して良いんだ。別に奇跡のようなことが起こる訳じゃないけど、喉を保護して、すこし強くなったりする。
Q:ツアーでは膨大な量の歌を歌わなきゃなりませんからね。ずっと喉の調子を保っているのは難しいことですか?
TP:あまり神経質にならなければ、そうでもない。病気になったりしたらきついね。これ以上つらい事はない。具合が悪くなったりしたら、悪夢だよ。まさに悪夢だ。
Q:ライブをキャンセルしてしまうよりは、やってしまいますか?
TP:やらなきゃならないだろう(笑)。あまりにも具合が悪くて声が出なくなったとき、キャンセルしたことがある。
微妙な線の具合の悪さの時がが、悪夢なんだよね。いくらかはショーをこなせるけど、全部できるかどうかが何とも言えない。いつ声が割れてもおかしくない。綱渡りだよ。
病気っていうのは御免被りたいよね。でもひどく気にしていなければ、普段は大丈夫なのさ。いったん心配しはじめると、かえって病気になったりする。
ぼくは少しだけ気にしている。エアコンの利きすぎのところには行かないとかね。寒いくらいの車とかには、乗らないんだ。良くないから。汗をかいてるとか、水に濡れた状態でそんな車に乗り込もうものなら、凍えてしまうよ。シンガーにとっちゃ、まずいことだ。
ホテルも窓が開けられるところに泊まる。いつも窓をあけておくように意識しているんだ。パイプを伝ってきたのじゃなくて、本当の外の空気を取り入れる。習慣づけている細々としたことは、色々ある。
でも、実際のところはあまり着にし過ぎないことが一番良いんだ。たかがロックンロール・ショーなんだから(笑)。
Q:あなたの "Most things that I worry about, never happen anyway"(Crowing back to you) という歌詞を思い出しますね。
TP:まったくだ。それこそ、ぼくにとってのマントラ(真言)だな(笑)。そのことを心に留めているし、それがとても役に立つ。
Q:ショーの歌の間に、時々トークをしますよね。まったくしないこともありますが。ステージ上でトークをするのは好きですか?
TP:何か言いたい気分のときは、トークをするのも構わない。もっと遊びを入れたい気分の夜なんかは、よく喋るな。
Q:今日はジョン・レノンの誕生日ですね。彼が撃たれて亡くなった時、その知らせをどこで聞いたか、覚えていますか?
TP:ああ。ぼくはハリウッドのチェロキースタジオに居た。妙な事だけど、あの時ジミー・アーバインと仕事をしていたんだ。ジミーはジョンの友達だったんだ。ジョンの
[ Walls and Bridges ] や、[ Rock ‘n’ Roll ]
で一緒に仕事をしたからね。それから、ちょうどその時リンゴが隣りで仕事中だった。ジョンも来て、リンゴのアルバムで歌ったりもしたって話だった。だから、ぼくらもジョンに会えるじゃないかって、活気付いていた。
電話が来たのは、たしか夜だったかな。電話がかかってきて、ジョンが撃たれたって言うんだ。ぼくらはバカンバカしいって思った。それから15分ほどしたらまた電話がかかってきて、ジョンが死んだと知らせた。だから、ぼくらは作業を止め、それぞれ帰宅してしまった。
その時、“
A Woman in Love”を録音していた。歌を録っていたんだ。アルバム [ Hard Promises ]
のビニール・コピー版があったら、溝の間にメッセージが書いてあるのが見えるよ。“ We love you,
J.L.”ってね。プレスの原盤に入れてあるから。
あれはまったく酷い日だった。だって、信じらんないだろう?あんな事、想定も出来ない。
おかしな話だよね、ビートルズは多大な犠牲を払ったんだ。ビートルズは出来る限りの事をやってのけ、いつも素晴らしい選択をしてきた。
その一方で、ジョンは殺されてしまった。ジョージは自宅でとんでもない目に遭って、何度も刺されてしまった。ぼくは動転してしたよ。あの事件は、ジョージの死に影響しただろう。ぼくはそう思う。ジョージはジョージの自身の人生を送っていたのに、あの事件がその航海に暴風をもたらしてしまったんだと思うんだ。
ジョージが色々な事に幻滅していたことを、ぼくは知っていた。だから、ぼくは悪意のしっぺ返しがあるって事を、いつも自覚していなけりゃならなくなった。
Q:あなたは今も、護衛をつけていますか?
TP:必要なときはね。でも、でっかいゴリラに囲まれて歩くのって、好きじゃないんだ(笑)。ちょっとは必要だろうね。安全のために。
Q:世界中に、幅広い層のファンのあつまりがありますよね。そういったファンたちは、あなたの曲を編集したCDを作って、一所に集まってリスニング・パーティを開いています。ほかにも、インターネットを介して話し合ったり。こういった膨大なファンのネットワークは、あなたの支えになりますか?
TP:ああ。そりゃもう、ありがたいものだよ。いつでもそういうみんなの愛情を受けているのだから。 これまで、ファンレターとか、そういうものに返事を返したことはないと思うけど(笑)。
ショーに行けば、そういうファンのみんなは、もう大興奮さ。当人たちが自覚しているかどうかは知らないけど、まったくの興奮状態だね。静かな曲の時は、そういう連中の大声で、聞こえなかったりするんだ。実に騒々しい。場合によっては、ぼくらが負けちゃうぐらい。
本当に、みんなには感謝している。ライブ・ショーっていうのは、完全に観客のみんなに依存しているんだからね。観客のみんなのしていること以上に、みんなは楽しむことが出来る。
観客のみんなが今でもいてくれていることが、驚きだよ。しかも、一定人数以上がだよ。凄まじいことだよね。
ああ、なんてすばらしい贈り物なんだろう。最高さ。観客のみんなは、本当にぼくらの支えになってくれる。
ツアーっていうのは、とても疲れる。ものすごく消耗するんだ。ただ信じて、自分を奮い立たせる。観客みんなの方は、誰もが、24時間前までに何をどうしていたのか、いろいろと思い出すことが出来る人なんていないだろうけどね。ツアーの三つ目の町に行ったとして、ステージに上ってどうなるかなんて、誰にも分からない。
でも、観客のみんなが盛り上がり始めると、こっちも気分が盛り上がってくる。何もかもを忘れて、その一瞬に集中する事が出来る。これは魔法さ。
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PAUL
ZOLLO / Conversations with Tom Petty / 2005
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