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 カンバセーション・ウィズ・トム・ペティ 2005年 トム・ペティ (完訳) Page  1  2  3  4  5  6

Contents:(目次のタイトルをクリックすると、その箇所に飛びます)

 acknowledgement / about the author / forword by tom petty / introduction
part one , life   part two, songs
 1. dreamville tom petty & the heartbreakers
 2. california you're gonna get it
 3. anything that's rock 'n' roll
damn the torpedoes
 4. tangles & torpedoes hard promises
 5. changing horses long after dark
 6. who got lucky southern accents
 7. don't come around here as much pack up the plantation :live!
 8. runaway trains let me up ( i've had enough)
 9. handle with care full moon fever
 10. into the great wide open into the great wide open
 11. somewhere you feel free greatest hits
 12. some days are diamonds wildflowers
 13. angel dream playback
 14. howie song and music from "she's the one"
 15. joe echo
anthology : through the years
the last dj
epilogue, highway companion


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 レスリーとジョシュアに愛を込めて

acknowledgments

 この本を上梓するにあたり、手をかしてくださった全ての方に、感謝を申し上げます。
 たくさんの方々に対してですが ― 特にメアリー・クラウザー、アンドレア・ロトンド、トニー・ディミトリアディス、クリスティーネ・カロ、バート・ゾロ、ロイス・ゾロ、ハワード・ディラー、ベン・シャファー、ジェフ・ゴールド、ジュディ・クローズ、ピーター・ゾロ、アンドリュー・カーツマン、アン・カーツマン、ペギー・ミラー、リサ・ミラー、キャシー・バフィントン、デイナ・ペティ、そしてとりわけトム・ペティに。
 さらに、オフィシャルBBSにコメントしてくれたファンたち、ハニービーズにも。

 オムニバス・プレスにおいては、広報のアリソン・ウォフォード、ディレクターのサラ・ネセニューク、制作ディレクターのダン・アーリー、校正のエイミー・ブランクスタインと、バーバラ・シュルツに感謝を申し上げます。


about the author

 ポール・ゾロはシンガーソングライター,作家,音楽ジャーナリストである。
 1987年から世界中の偉大なソングライターへのインタビューを行っている。1987年から1997にかけて、ナショナル・アカデミー・オブ・ソングライターの機関誌,[Songtalk]]編集に携わった。

 ゾロはシカゴに生まれ、ボストン大学で英語と音楽を学んだ。[The Beginning Songwriter's Answer Book], [Songwriters on Songwriteing], [Hollywood Remembered]などを著した。また、 [Performing Songwriter], [Acorstic Guitar],[Sing Out!], [Billboard],[Variety], [Musician] などの音楽雑誌でも執筆。
 ポール・サイモンや、ロウラ・ニーロ、ダン・フォーゲルバーグ、タウンズ・ヴァン・ザント、トム・ビショップなどのCDライナーノーツwo
手がけている。

 シンガーソングライターとしては、自らのバンドや、ソロa-tisutoとして活動し、セヴェリン・ブラウンや、ダリル・パーパス、スティーヴ・アレンなどとも共作している。


foreword

 ポール・ゾロが、私の音楽にフォーカスした一連のインタビューを行う、というアイディアを聞いたとき、悪くない話だと思った。私たちが送り出してきた音楽について、深く、詳細にわたって言及した資料がないと、長年にわたってファンたちは不満に思っていたからだ。
 この10年ほど、ポールとは何回かのインタビューを通じての知り合いだった。彼は一緒に居て気持ちの良い人だ。毎回のインタビューごとに、驚くほどしっかり準備をしてくる。彼の書いたものには、ソングライターや、彼らの手法に対する情熱がこもっている。インタビューもまた、例外ではない。

 私たちは2004年から2005年にかけて話しあうために頻繁に顔を合わせ、私の三十数年にもわたる音楽を聴き直し、ポールは自ら音楽を奏でながらその豊富な知識を披露してくれた。
 インタビューが進むに従って、音楽について理解するということは、私の人生についてよく知ることであり、それを詳らかにすることだということが分かってきた。
 確かにいえることは、この本は自叙伝ではないということだ。自叙伝は別の機会の、別の本に譲ることにする。ただ確かなことは、私たちの伝記としては最も詳細なものを、ポールが紡ぎだしてくれたということだ。
 ミスター・ゾロは記憶を覆っていたほこりを払いのけてくれた。この本を読んでくれた人々が、私がその場にいるかのように楽しんでくれることを希望している。それでは。
                                          ― トム・ペティ


introduction

 この本は、二つのパートに分かれている。トム・ペティの人生と、音楽についてである。しっかりとうまく分けられたと自負しているものの、これは身勝手な措置だ。トム・ペティの人生は音楽そのものであり、また彼の音楽は、人生そのものなのだから。
 従って二つのパートは、重複するところもあれば、繰り返しになる箇所もある。しかし、音楽に満ちた素晴らしき人生をとらえ、その一方で、人生が反映された音楽という観点も、同時にとらえることには成功しているだろう。

 この本に収められたインタビューを行っている最中、トムは実生活においても、精神的にも、ハッピーだった。
 私たちは2004年から2005年にかけて何ヶ月も、マリブにあるトムの二つの家で話し合ってきた。場合によっては、ギターやキーボード、マイク、その他たくさんの録音機材に囲まれた、自宅のレコーディングスタジオで話すこともあった。いつもコンガドラムを、テーブルがわりに使っていた。
 一緒に飲んだりもするが、アルコールであったためしはなく、昔懐かしい形の小さなボトルのコカ・コーラだった。トムはスタジオの冷蔵庫に、いつでも飲めるように大量にため込んでいるのだ。
 彼は様々な帽子を被っており、薄紫色のサングラスをかけていることもあった。トムのおとなしい大型犬のチェイスも入ってきたが、私たちが話している間は、ご主人の優しい指示にちゃんと従い、床にねそべっていた。
 また別の機会には、トムの愛する妻,デイナが入ってきて「ハイ」と挨拶をかわし、トムに何か家庭内のニュースを持ってきたりした。ある時、彼女は私たちに休憩が必要だと思い、フルーツ・スムージーを差し入れてくれたこともある。また、かなり長引いて骨の折れるインタビューになった時、彼女はキッチンで私たちに美味しいボウルいっぱいのチリをごちそうしてくれた。
 トムは普段からハッピーな人だが、デイナの存在は彼をさらにハッピーにしているのだ。

 このインタビューを行い、その記憶を編集してゆく作業は、名誉ある仕事である。これまでも何度かトムにインタビューする機会はあったが、彼は私が幸運にも会うことのできたソングライターの中でも、最高に心温かく、気持ちの良い人だ。優れたソングライターであり、ミュージシャン。その音楽は何十年にもわたって、多くの世代の人々にアピールし、そのサウンドにはいつでも初めて聴いたかのような、説得力がある。
 70年代、マッドクラッチから始まり、やがてそれは最も偉大なアメリカン・ロック・バンドの一つとなってゆく。トム・ペティは、我々の心と魂に訴えかける曲を作り続け、時を越えて何度も響いてくるのだ。そして、最初の作品を越えるものが作り出せなかった、多くの同世代のソングライターとは異なり、トム・ペティは30年以上にも渡って音楽世界の力強い主流あり続けるという、ごく少数の人しか成功できなかったことを、成し遂げているのだ。
 活発で、広範囲にわたるファン層を持っているということも、その理由の一つだろう。 不朽の名作,[Damn the Torpedoes]と同様、古典的かつ完璧なファースト・アルバムのように、彼はミュージシャンとして成長し続け、確固とした名作を作り続けている。これはソロとしても、そして彼のバンド,ハートブレイカーズとしても、両方で言えることだ。忘れ難き [Southern Accents], 魔法のような [Full Moon Fever], そして偉大なる [Wildflowers] などがそうだ。
 彼はその名声に甘んじることなく、バンドとともにチャレンジを繰り返し、それまでよりも、さらに素晴らしい音楽を作り出してきた。

 彼はとても多作なため、どのアルバムの場合にも、すべての曲を収録し切れない。なんらかの理由でアルバムにフィットせず、多くの歌がお蔵入りになってきた。ファンにとっては有り難いことに、それらのレアな未収録曲は [Playback] という大変こった6枚組ボックセットを作り上げたプロデューサー、ジョージ・ドラコウリアスによって、あらたな命を与えられた。
 これによって、素晴らしい楽曲の数々は、ペティのヒット曲だけではないことが、証明されたのである。[Playback]に収録された数多くの曲がそれまでにリリースされることこそなかったが、発表されれば簡単にヒットをとばしたであろうし、それほどにパワフルで、ヒット曲がこれまで得てきたような注目に値するものだったのだ。
 「ぼくらにとって最もヒットした曲が、必ずしも最高の曲とは言えないんだ」と、トムは一度ならず言っている。
 これは真実だ。これら、それまで数には入れていなかった曲でも、シングルとしてリリースされ、ミュージックビデオが制作されれば、いとも簡単にヒットしたであろう。
 しかし、彼は自分自身も、ハートブレイカーズも、幅を広げすぎないように気を配ってきた。そして多くの普遍的な歌を作り続けてきたのだ。

 「ぼくは、キャリアの頂点にいたと思う」と、彼はアルバム [Wildflowers] について述べている。
「作り上げる作業と、インスピレーションが同時にぶつかりあっていた。」
 これは、彼の多くの作品に適応される、自然法則であった。歌がいかにして出来上がっていたを理解しているのみならず、デリケートでありながら力強さのある、音楽と言葉の化学反応に、彼のあふれる愛情を注いできたのだ。
 そして50年代の偉大なるロックンロールや、彼の人生を通してインスピレーションを与えてきた音楽への愛情は、その音楽人生で、一番の刺激となった。

 この本に記されたのは、彼の人生と音楽、もしくは、その人生における音楽の物語である。両者は、はっきりと分けられるものではないが、ここでは分けさせてもらった。ロックンロール精神が両者を切り離すまいと抵抗をこころみはするのだが。このロックンロール精神こそが、彼の時を越えて、多様で豪華で、驚きに満ちた世界を作り出してきたのだ。
 「ぼくは成功を収めたのに、みじめな連中のようにはなりたくないんだ」彼は言う。
「ああいうのは、ぼくが人生に望んだ形ではない。」
 彼は、金銭的には莫大な成功をおさめ、ものの数に入っていない曲も含め、常に自分の過去の作品にチャレンジしなければならないことを自覚していながら、本物の幸せを見いだすことに成功した、数少ない人の一人だ。
 それだけではなく、彼はその仕事は楽しく、伸ばしていくものであることも分かっているし、その活動は一向に止む気配がない。
 「ほかの人たちは休暇をとってハワイに行き、ゴルフとか、ダイビングとかするんだろう。でも、ぼくがするのはこれ。歌を作り、録音する。」
 彼は何年にも渡って、その多作の才能を伸ばし続け、彼の愛する音楽そのものに、この才能を注ぎ込んできたのだ。

 彼は、1950年10月20日、フロリダ州ゲインズヴィルに生まれた。子供のころにエルヴィスに出会い、テレビでビートルズを見た。そして、ロックンロールこそが、彼をフロリダから旅立たせ、夢の人生をもたらす、確かで説得力のあるものだと確信した。
 後は、歴史 ― 彼の人生と芸術の歴史が語るとおりである。それは彼の言葉の中にこそあるのだ。

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Chapter 1 Dreamville

Q:あなたのおじいさんがジョージアである男を殺し、それで家族ともどもフロリダに移住したという噂があります。これは本当ですか?

TP:うちの父親が言っていた。父の最晩年になってからだけどね。ぼくらがツアーバスで移動中のことだった。ぼくらの一族がジョージアにいたのなら、どうやってフロリダに来たのか、父に尋ねてみた。それで分かったことなんだ。
 父の母親は、純血のチェロキー・インディアンだった。最近じゃ「ネイテブ・アメリカン」って言うらしいけど、ぼくら家族の間では「インディアン」で通っている。「ネイティブ・アメリカン」なんて言ったことないな(笑)。

 ことは、祖父が白人だったことに始まっている。祖母は、材木切り出し場のコックだった。その切り出し場で、祖父は働いていた。パルプ用材を作っていたんだ。祖父は祖母と結婚したわけだけど、当時は異人種間の結婚は一般的ではなかった。周囲には理解してもらえなかったんだ。
 それで、二人は逃げ出すことにした。馬と馬車で移動したわけだけど、祖父がそいつを盗んだのかどうかは知らない。
 祖父は道すがら、数人の男に行く手を阻まれた。インディアンを同伴していると言うことで、暴力沙汰になった。そして、二人を侮辱した男を、祖父は殺してしまったんだ。父はそう説明した。

 それまで、ぼくはこの話を全く知らなかった。二人はその男を殺し、フロリダに逃げ込んだ。フロリダに逃げ込んだとき、祖父は名前を変えなかったのかって、不思議に思ったよ。よく分からないので、父に祖父は名前を変えなかったのかと尋ねたけど、父の答えはこうだった。
 「さぁ。ずっとこの名前だったからな。」
 まぁ、よく分からないんだ。

 以上は、父から聞いた話。だから、噂は本当だと思う。たぶん。

Q:あなたが大人になるまで、知らなかったのですか?

TP:ああ、90年代になってからだ。たしか、ツアー・バスのベッドルームで、父と話していたんだと思う。
 ぼくは父に「なぁ、うちのご先祖さんはどういうわけでフロリダに来たんだ?」と尋ねた。それまで訊いたことがなかったのだけど。
 ぼくの親戚たちが、ジョージアに居るとは知っていたから。ジョージアの話もよく出てきていた。でも、だれもどうやってフロリダに来たのかを説明しなかった。

 祖父母はフロリダにくると、果実収穫の季節労働者として働き始めた。そしてそれ以上は移動しようとはしなかった。
 やがて、祖父はパルプ用材の仕事に戻るようになった。しかも、彼は「パルプウッド」って呼ばれていたんだ。「パルプ用材のペティ」からそうなったんだろうな。この話は本当だよ。
 ぼくはベックって名前の老人に会ったことがある。60歳か、70歳くらいだったかな。この老人がぼくを見ると、「おい、お前さんはパルプウッド・ペティの親戚か?」と尋ねたんだ。つまり、この人は祖父をどこかで知っていたんだ。
 彼はこうも言っていた。「あいつが、仕事に行くのに、道でヒッチハイクしていたのを、覚えているぞ。俺はよく乗せてやったもんだ。」

 ぼくは数度しか祖父に会ったことがない。あまり近くには住んでいなかったんだ。でかい帽子を被っていたな。どこかミステリアスな人だった(笑)。子供心に覚えているのは、茶色い帽子を被っていたこと。極端に無口だった。

Q:おばあさんの方はよく知っていましたか?

TP:ああ、けっこう知っていた方かな。祖父母は田舎のほうに住んでいた。田舎の人種なんだな。たぶん1エーカーぐらいのトウモロコシ畑を持っていた。それから、ニワトリを飼っていた。

 祖母は、自分がインディアンであることに関して、完全に否定的だった。インディアンであることを、表に出したがらなかった。そのことを話したがらなかった。今になると、分かるような気がする。本当に悲しいことだよ。
 インディアンのことは、一般的な話題ではなかったんだ。彼らも白人になりたがっていた。祖母と、その二人の息子が、って意味だよ。

Q:それはつまり、子供時代のあなたは、インディアンであるということから遠ざかろうとしていたということですか?

TP:そういう事じゃない。ぼくにはよく分かっていなかった。分かった振りみたいなものかな。悲しむべき事さ。
 どうしてやることもできないけど、祖母に会えば分かってもらえる。祖母がインディアンであり、他の人と違ったところは、ぼくにも遺伝している。みんなインディアンのようにまっすぐな髪や、鼻の形を受け継いでいるんだ。

 家族の中では、ぼくが唯一、金髪に青い瞳をしていた。ほかのみんなは、インディアンの肌の色をしていた。
 イングランド・フランス系の血を受け継いでいた母は、髪の色が明るかった。ぼくには、そっちが出た。弟とはちがってね。弟はインディアン系の肌色なんだ。

 でも、このことが話題に上ることもなかった。母がこういう話が好きじゃなかったんだ。ぼくらがインディアンだって話がね。
 今、特別保留地に暮らし、インディアンであることに誇りを持っているインディアンの家族たちとは、事情が違った。祖母は彼らと同じ事をしたいとは思わなかった。

 彼女は本当に細々とした農民だった。かなり貧乏な暮らしをしていた。家が新聞紙で補修してあったのを覚えているよ。壁の穴を新聞紙で塞いで、ニスが塗ってあったんだ。変な感じだったよ。何せぼくらは郊外に暮らしていたからさ(笑)。
 そんな訳で、ぼくは祖母のことは知っていたけど、よく知っているというわけではなかった。祖母に会いに行くのは、年に2,3回。クリスマスと、イースターだったかな。とにかくあまり会わなかった。

Q:ものすごく遠くに暮らしていたのですか?

TP:100マイルくらい離れていたのかな。僻地の方だよ。レディックという所が、小さいけど一番近い村だった。祖父母はそこに住んでいたのだけど、さらに森の方に移ったようだった。

Q:あなたには弟が居ますよね。

TP:ああ、ブルースね。弟は音楽はやらない。ぼくより七つ下だ。今、フロリダのタラハシーに住んで、会社勤めをしている。販売の仕事をしていて、まさにまともな仕事に就いている。
 弟は音楽が好きで、よく知っている。でも、自分でやりたいとは思わないみたいだな。ぼくなんかを見ていると、戦いじみているからだろうね、距離を置いているんだ。弟も音楽をやればな、と思ったこともあったよ。やってみろと、けしかけたもの。
「最高の仕事だぞ」ってね(笑)。でも、あっちはやろうとはしなかった。

Q:お家にピアノはありましたか?

TP:いや。欲しかったけどね。

Q:早いうちから歌は始めていましたか?

TP:うん。11歳から14歳頃に、耳から覚えて練習していた。後になって役に立ったね。あらゆるロカビリーのレコードから吸収していったんだ。実にべらぼうなほど、吸い上げていた。
 言葉の覚え方とかも、そこから来ている。どうしてこうなったんだろうな。父が言うには、3歳の頃には子供向けの歌を覚えていた。父がぼくに読んでやろうとしていた本があって、帰宅してみたらもうぼくが一部覚えてしまっていたので、驚いたなんてこともあった。
 だから、歌を覚えるっていうことは造作もなかった。

 ぼくがマイクロフォンを使って最初に歌ったのは、"High Heel Sneakers" (トミー・タッカー作)だと思う。この曲と、"Love Potion #.9"(ジェリー・リーバー&マイク・ストーラー作,ザ・サーチャーズ演奏)をやったのを覚えている。当時のビッグ・ヒットだった。
 ただマイクの前に突っ立って歌ったんだけど。音程をどうこうっていう頭はなかった。そういう知識もなかった。とにかく、ただ歌っただけ。ハーモニーに関しても分かっていなかったし。みんな一緒に歌ったから、うやむやだったんじゃないかな(笑)。
 やれ、ハーモニー・ラインがどうこう言い出す前の、良い時代だよね。無学だったころだ。

Q:歌を覚えたのはレコードからですか?それともラジオ?

TP:両方から。多くは、だれかのレコードだな。

Q:45回転の?

TP:そう、45回転の。あまり裕福ではなかったから。欲しいレコードがすべて手にはいるわけじゃなかった。
 時々、町へ出かけていって、レコードを持っている人を探すんだ。歌詞はそうやって覚えて、"Love Potion #9" をモノにするわけさ。出かけていって、借りても良いし。パーティとかも色々あるだろ。
 パーティで大量のレコードを持って来る女の子も居るだろうから、そこでまた大奮闘するんだ。「ねぇ、これを貸してよ。月曜日までには返すから。」(笑)

Q:そのころにはもう、ミュージシャンになりたいと思っていましたか?

TP:そうだな。これぞぼくのやりたかったことで、他のことは考えもしなかった。

Q:お父さんは何で生計を立てていたのですか?

TP:保険のセールスマンだった。それに、職を転々としていた。ぼくが本当に小さい頃、父はゲインズヴィルの黒人が多く住む地域に、ほんの僅かの期間だけ食料品店を持っていた期間がある。お客さんは全員黒人。
 そのころ、ご近所の人もそれぞれ離れていて、黒人たちの地域もしかりだった。父の店が、そこで唯一の食料品店だった。
 ぼくが本当に小さくて、4歳くらいのやっと覚えている程度の頃のことだった。この食料品店の裏で、近所の黒人の小さな子供たちと一緒に遊んでいた。ちょっと変わっていたよね、一日のほとんどを黒人の子供たちと過ごしていたのだから。そして、白人たちの地域の家に帰ってくる(笑)。

 しばらくはそんなんだったけど、思うにあれは破綻しちゃったんだな。
 父は小型トラックを手に入れて、「雑貨大売り出し」と称して、ハンカチやらライターとか、とにかくコンビニのカウンターの後ろにあるようなガラクタを積み込んだ。父はその物資を満載したトラックで、自ら開発した(笑)北中部フロリダを走り回った。そうやって移動しながら、品物を売って回ったんだ。
 うまく行きやしなかった。数年はやっていたけど。
 それから父は、保険のセールスの仕事についた。安定した生活のためだった。父の仕事で覚えていたのは、この三つだな。

Q:お母さんは働いていましたか?

TP:ああ。ゲインズヴィルの車両登録・免許管理事務を行う税理士のところで働いていた。そこにかなり長く勤めていた。
 両親とも少なくとも一日8時間は働いていた。父は子供たちが起きている時間にはめったに帰ってこなかった。眠ってから帰ってきていた。

 父はワイルドな人だった。いつも車を側溝にはまらしていた(笑)。だからぼくは、車輪を溝に落とすのは、ぜんぜん普通のことだと思っていたんだ(笑)。父はそれほどしょっちゅう、はまっていたからね。今となっては、「なんじゃそりゃ」だけど。
 それから、父はギャンブラーでもあった。とにかく賭け事が好きで、母が嫌がっていた。家族にとっての争いの元だった。実に迷惑なことさ。

Q:どうして側溝にはまっていたのでしょうね?飲んでいたのでしょうか?

TP:うん、かなり飲んでいたからな。父はワイルドすぎるぐらいワイルドだった。
 ぼくの子供時代はさほど悪いものじゃなかったけれど、このことは家庭においては悪い要素だった。喧嘩が多かったんだ。母と父がものすごく喧嘩をしていた。決して良いものじゃない。

Q:それで、あなたと弟さんは家では二人きりだったのですか?

TP:母が帰ってくる6時までは二人だけだった。祖母がよくぼくらの面倒を見てくれた。母の母親だ。彼女とはとても仲が良かった。
 祖母はぼくの人生に大きな影響を及ぼしている。彼女はほんとうにぼくを気に入ってくれていて、いつもぼくが自信を持てるように励ましてくれた。ぼくにとても優しかったんだ。そう遠くないところに住んでいて、ぼくらが幼い頃はよく来てくれた。
 でも、ぼくらが10歳か、11歳になるころには、二人きりで過ごすようになった。

Q:そんな時は何をしていたのですか?

TP:近所で遊んでいたよ。思い返してみると、あのころはみんな子供たちを暗くなるまで外で遊ばせていた。近所の他の子供たちと一緒に遊んでいたんだ。
 ぼくらはゲインズヴィルのノーズイースト・パークと呼ばれている大きな公園の近くに住んでいた。そこは、小さな森との境界線だった。弟とぼくはそこを駆け回って、カウボーイとかインディアンになって遊んでいた。
 思えばあれが大事だったんだな。カウボーイ道具がたくさんあってさ。帽子とか、ピストルとか。すごく小さいうちはそんなことをしていたけど、ギターを手にしてからは、そっちに時間を使うようになった。家に帰ると、ギターを弾いていた。

Q:母方のおじいさんのことは知っていましたか?

TP:一度も会ったことがない。祖母が嫌っていてね。
 こいつはおもしろい話なんだ。ぼくの父の名前はアール。母方の祖母の、別れた夫の名前もアールだった。ぼくの母とその姉(妹?)は二人ともそれぞれアールって名前の男と結婚した(笑)。しかもおばは2回も。おばの最初の夫がアールでこれがダメで、次に結婚した相手が、またアールだった。
 これはある種のジンクスだと、祖母は思っていた。祖母はぼくの父を「ペティ」と呼んでいたし、叔父のことは「ジェーニガン」と呼んでいた。アール・ジェーニガンって名前だったから。別れた夫が、アールだったから、叔父はジェーニガンに、父はペティ。

 祖母は父のことを全く好いていなかった。ワイルドで、ギャンブルをして、酒飲みだったからね。しかも、もう一人の娘はアールって名前の男と、しかも二回も結婚するし(更に大笑い)。

 ぶっとんだ事に、アール・ジェーニガンは実に興味深い人物だった。彼は南部人ではなく、家族の中で唯一の北部人だ。映画が大好きだった。しかも、彼は町で唯一の映画ビジネスに従事する人だった。映画を見つけてきて、買い付ける立場だった。
 100マイルほど離れたところで、よく映画の撮影が行われていて、叔父はよくそこに出かけていた。
 オカラのシルバー・スプリングスというところで、よく撮影をしていたんだ。大規模な地下水のあるところで、すごく水が澄んでいるから、船底がガラスになっている船はここが発祥なんだ。こいつに乗れば、ガラス張りの船底から、水中の魚が見られる。大きな窓もあるから、撮影も可能。

 叔父は、ここでの大がかりな映画撮影の仕事もしていた。そういう契約だったんだろうな。叔父はよく出かけていった。
 彼はぼくの家族のことがあまり好きではなかった。あまり共通点がなかったからだろうな。叔父はペティ一家と一緒に居るには、垢抜けすぎていた。叔父にしてみればイラっとしただろう。
 あのころ、ぼくは叔父がなぜ家族と一緒に居たがらないの分からなかったけど、今になれば分かる。でも、ぼくは叔父が [大アマゾンの半魚人 Return Of The Creature From The Black Lagoon] の仕事をやって、家にこのバケモノのゴム製着ぐるみを持っていたのを覚えている。
 イカしてる、って思ったよ(笑)。

 ぼくが11歳の時の出来事を、鮮明に覚えている。ぼくは松葉の山に座っていた。うちの家の庭に大きな松の木があったんだ。
 ぼくは「今日は何をしよう?」って考えていた。ただ座り込んで。11歳にもなると、これから何が起こるんだろうかと考えるようになる。
 すると、叔母のエヴリンが車道にやってきた。夫がアール・ジェーニガンである叔母だよ。
 叔母は車を止めて言った。「トミー、エルヴィス・プレスリーを見に行かない?」
 「もちろん行く」ぼくは思った。エルヴィス・プレスリーのことはよく知らなかった。5歳か6歳のころ、うちでちょっとした話題になっていたのだけど、ぼくはエルヴィスを「腰振り兄さん」程度に思っていた。
 そのとき、ぼくにとってのエルヴィスがうまく頭に浮かばなかった。ロックンロール・スターであることは知っていたけど。それまで、ロックンロールのことをあまり考えたことはなかったから。
 そのとき、週一くらいで、エルヴィスが見られる時期だった。叔父がエルヴィスの映画 [Follow That Dream] の撮影の仕事があったから。凄まじいタイトルだよね。

 叔母はぼくを車に乗せて、二人の従兄弟と一緒にオカラへ出かけた。30マイルぐらいはある。
 到着してみると、人だかりだった。あのオカラの通りにあふれた人混みは、それまで見た中では一番すごかった。車はその人だかりを通り抜け、セットの裏側に入った。
 撮影班は、エルヴィスが車を止めて、土手へ歩いてくるところを、通りから撮影していた。
 シンプルなシーンだった。トレイラーがたくさん駐車してあって、楽屋用には鎖で柵みたいなものを作っていた。
 すると、誓っていえるが、白いキャデラックが列をなしてやってきたんだ。確かに真っ白だった。しかもキャデラック。ものすごいエンジン音がしたので、ぼくは箱の上に立って、群衆の頭越しに眺めてみた。すると、それぞれの車から、モヘアのスーツを着て、髪をオールバックにした男たちが飛び降りてきた。
 ぼくは叔母に尋ねた。「あれがエルヴィス?」
 叔母が答えた。「違う、あれはエルヴィスじゃないわ。」
 突然、ぼくは気づいた「あっちがエルヴィスだ。」
 彼はまるで天使みたいに輝きを放ちながら降りてきた。地面の上を、燃え盛るが如き様子で歩いてくる。人生の中で、あれほどのものは見たことがない。50ヤード隔てて、そういう様子の彼を見て、ぼくらは呆気にとられてしまった。
 そして彼は真っ直ぐに、こちらへ向かってきた。エルヴィスの髪は真っ黒で、日の光を受けると、青く輝いていたのを覚えている。

 彼がやってくると、ぼくらは絶句してしまった。叔父が言った。「エルヴィス、私の甥、姪たちだよ。」するとエルヴィスは微笑み、頷いて見せた。そして自分のトレイラーに入っていった。突如、ぼくらは大興奮しだした。初めて有名人と接触したあの感覚だ。
 何百もの女の子が、鎖のフェンスに向かって、殺到していた。彼女たちは手に手にエルヴィスの写真やアルバムを持って、サインをもらおうとしていた。エルヴィスのメンフィス・マフィア(取り巻き)がその場に一人居た。女の子たちが、鎖越しに写真やアルバムを差しだし、取り巻きがそいつを持ってトレイラーに持ち込み、サインしてもらい、返すのだろう。
 子供ながらに、ぼくの頭にあったのは、「ちくしょう、レコード・ジャケットを持っていれば、サインがもらえたのに」って事だった。エルヴィスにサインしてもらえるような紙切れ一枚さえもなく、サインはもらえそうにない。どうにかしたかった。

 その日、ぼくらはその辺りをうろついて、エルヴィスが撮影するのを見物した。エルヴィスが車をとめるたんびに、群衆がバリケードを突破して、彼をとっ捕まえるのだから、なんだか滑稽だったな。
 エルヴィスが車を停めて、ドアの向こうへ行くだけで、何時間もかかっていた。スタッフが群衆を制御しきれなかったんだ。まったくイカれてるよ。
 ぼくはあの時思った。「こりゃ、すんごい仕事だな。エルヴィス・プレスリーってのは、まじで大したもんだ。」
 やがて、叔母は戻らないといけないと言い出した。ぼくは、戻ったらサインをもらうためにエルヴィスのレコードを手に入れようと心に決めていた。

 ぼくはすっかり入れあげて、醒めることはなかった。エルヴィスに関するものなら何でも集め始めた。
 近所に、いくらか年上のお姉さんがカレッジ進学のために家を出た、っていう奴が住んでいた。エルヴィスの全盛期は過ぎていたからね。1961年か、1962年ごろなんだけど。
 ぼくはその弟と取り引きして、自分のワム・オー(アメリカの玩具メーカー)のパチンコと交換して、45回転レコードの箱を譲ってもらった。
 その中にはエルヴィスのレコードが沢山あって、どれも素晴らしいものだった。ほかにも数枚、リッキー・ネルソンや、ジェリー・リー・ルイスなんかが入っていた。そういうのも良いものばかり。
 でも、ぼくが本当に興味があったのは、エルヴィスだけだった。

 あのころはエルヴィスに関する本とか、情報はぜんぜん無かった。情報と言えば、十代向けの雑誌だけだった。そういう雑誌も、写真ならあるんだけど、情報となると僅かなものだった。
 ぼくはある雑誌の後ろの方に、送付すれば、「エルヴィス・プレスリー・ハンドブック」なるものがもらえる広告を見つけた。こりゃ掘り出しもんだ。ぼくは11歳、5年生、完全にエルヴィスの虜だった。
 友達の中に、エルヴィスの話ができる者はまったく居なかった。でも、ぼくはエルヴィスと、ロックンロールこそがクールで、とにかくあの音楽に惚れ込んでしまっていた。ぼくは延々とレコードをかけ続けた。
 父はぼくが、一日中家でレコードを聴いて、外に出かけなくなったことで心配していた。ぼくはミュージシャンになりたいと思い始めていた。とにかく楽しかった。
 ぼくはイングランドへ、あの「エルヴィス・プレスリー・ハンドブック」のために1ドル送ってみた。家族は1ドルを無駄にしたと言って笑っていた。その本が到着するまでに1ヶ月かかったけど、届いたたその日は、まるでクリスマスだった。その本には、エルヴィスの事績に、録音したすべての歌のレビュー、レコードリリースのクロノグラフが載っていた。
 だからぼくは、自分が持っていないレコードを確認できるようになった。これによって、ぼくの音楽に対する愛情が駆けだした。
 それは十分魅力的な、追いかけるべき夢だったんだ。

 確か、2,3年してからだったかな、ビートルズがアメリカに来たとき、ぼくは彼らにとりつかれ、ギターを弾きたいと思った。
 ぼくはエルヴィスのすべての曲を覚えていて、それが(ビートルズの)ロックンロールの原点だったわけだから、多いに役立った。評価しようもないほどにね。だから、ぼくはエルヴィスに感謝しているんだ。

Q:その後、またエルヴィスを見に行く機会は無かったのですか?

TP:なかった。

Q:お父さんは週末、家にいましたか?

TP:たまにね。父は狩りや釣りが好きだったんだ。

Q:一緒に行きましたか?

TP:強制されて行ったな。でも、ちっとも好きじゃなかった。父は厳しい人で、何に対してもそうだった。ぼくに対しても凄く厳しかった。
 父はぼくに、もっと男らしくなってもらいたいと思っていた。ぼくはおとなしくて、感傷的な子供だったから。狩りとかなんかより、もっとアートっぽいことがしたかった。
 日がな一日、父とボートで仕掛けを垂らしてなんていたくなかった。父は町では、一種の「伝説の釣り師」だった。腕が良かったんだ。働いていない時に父がやることといったら、釣りか狩りだった。

Q:魚は食べましたか?

TP:かなり食べた。魚のさばきかたもよく知っていた。いやになるくらい食べたよ。

Q:どんな魚をですか?

TP:父はバスだの、パーチだのマスだの、なんでも釣ったからな。バスやマスならおいしくて良いのだけど、パーチは不味かった。

Q:お父さんと、ボートで過ごすのは好きでしたか?

TP:いや、あまり一緒に居たくなかった。ぼくは四六時中父にびくついていた。人をびくっとさせるということに、父は無頓着だった。実際、人のケツを蹴ったりした(笑)。
 だからぼくは、実のところ父を恐れていた。父と二人でボートに居たくはなかった。父はピストルなんて持って歩いていたんだよな、本当にワイルドなキャラクターだよ。

Q:なにを狩ったのでしょうか?

TP:ウズラとか、ハトとか、シカとか。シカ狩りの季節になると、もっと大がかりな銃を使うんだ。

Q:狩りについて、あなたはどう思っていましたか?

TP:最悪だよ。ほんのちょっとだけ一緒に行ったけど、父はぼくが狩りにおいては役立たずだと悟った。野原に座り込んで、死ぬほど寒い中で、鳥を撃つ。ぼくにはバカみたいに思えた。ぜんぜん好きになれなかった。
 よく覚えているよ。撃った鳥は袋に詰め込んで、羽根を全部むしり取って、処理するんだ。グロくてさ。厭でたまらなかった。しかもそいつを食べなきゃいけない。ハトとか、ウズラを食べたものだよ。

Q:美味しかったですか?

TP:ウズラは良いんだけどさ、ハトって食べるもの?しゃぶるようにして食うんだけど、クソみたいな味だった。
 でも、父はそういうフロリダの低湿地に育ったわけだからね。

 ある日、小さなワニがボートのそばに近寄ってきた。実際この目で見たんだけど、父は人差し指と親指でワニを掴んで、その目にパンチを食らわせた。ワニをノックアウトするところを、ぼくに見せたのさ。親指と人差し指でつかめるようなワニをだよ。目をつぶして、ワニは水の中へ逃げていった。
 父がおかしくなったみたいだった。いや、実際おかしかった。とにかく、父は何物も恐れなかった。ある時なんて、父がガラガラヘビの尻尾を持って頭の上でグルグル回し、首に巻き付けたの見てしまった。
 とんでもないワイルドさだろう?だから、ぼくは父が怖くなってしまった。

 もう少し大きくなってからは、ぎこちない会話をするとか、同席はする感じにはなったけど。小さいころは本当に父を恐れていた。本当に近づくのも厭だった。
 父が家にいるときは、家に居たくなかった。実のところ、みんな父のことがあまり好きではなかった。父は家庭に波乱ばかり引き起こしていたからね。

Q:お父さんとお母さんは、よく喧嘩をしていましたか?

TP:うん。そうだと思う。父はほぼ毎日酔っぱらっていたし(笑)。毎晩飲んでは、消え失せていた。まったく、いかれてるよ。

Q:お母さんはあなたがたに味方してくれましたか?

TP:彼女はいつでもぼくらの側だった。偉大な母だよ。でも、いつも父のことを我慢していた母が、気の毒だった。別れるべきだったんだよ。どうしてそうしなかったのか分からないけど。母のことを尊敬しつつ、そのことが不可解だった。

 でも、父は翻って、優しくなる人でもあった。そういう二面性があった。父はぼくがバンドをやることに関しては悪態ばかりついていたけど、ある日は、ぼくにフェンダーのアンプを買ってくれたりしたんだ(笑)。「凄い、ありがとう!」ってね。
 だから、荒っぽい一方で、父には二面性があるんだ、って思っていた。人によっては、親切な面を見せることも出来たんだ。

Q:いつ、ギターを始めたのですか?

TP:ぼくが12歳の時、両親がギターをプレゼントしてくれた。良いものではなかったけど。ステラ(Stella)という安物のアコースティック・ギターだった。金属弦だったな。
 ぼくはチューニングの仕方を知らなかった。「メル・ベイ・ギターブック」を持っていてね。でも、こいつはどう弦を押さえるかの本だった。だからこのギターは何年か、家に置きっぱなしだった。
 たしかぼくが13歳の時だったと思うけど、ザ・ビートルズがやってきた。ビートルズ出現以降は、だれもが近所で小さなバンドを組みたがった。そして、父がケイ(Kay)のエレキ・ギターを買ってくれた。それから、まじめに取り組み始めた。

 母はぼくをギターのレッスンに通わせてくれた。2回だけ行ったよ。まず1回行ってみると、先生はチューニングといくつかのコードを教えてくれた。考えてみると、その音楽はぼくがやりたいようなものではなかった。
 この先生はクラシックの先生だったんだよ。ポップ・ミュージックをやらせる気はなかったんだろうな。
 この先生の言うことには、左手の親指は常にネックの後ろ側に位置していないといけない。でも、ぼくが大好きな誰かがテレビでギターを弾いているのを見たら、親指をネックの前に出している。だから、あのレッスンには戻るまいと思った。

 近所にギターの弾き方を知っている子が居て、そいつに会ってみると、いくつか披露してもらえた。だから、ぼくは友達からの方がより多くのものを得たことになる。そいつがコードを弾いて見せ、二人して座り込んで演奏を始めた。その方が早く覚えるだろ。
 最初に覚えたのはCで、それからFを覚えなきゃならない。Fっていうのは難しいもんだ。"Wooly Bully" をやったのを覚えているよ。最初にぼくがマスターした曲だ。自己流だったけどね。そこから始まったんだ。

Q:その子は何者ですか?

TP:実は、近所に二人居てね。一人は、リッチー・ヘンソン、もう一人は、ロバート・クロウフォードと言った。二人ともそう遠くないところに住んでいた。
 それで、ぼくらは演奏を聴かせあっていた。リッチーがバレー・コード(一本の指で複数の弦を押さえる)を教えてくれたのを覚えているよ。こんな感じのやつ。

Q:簡単に弾けるようになりましたか?

TP:そうだけど、練習は必要だった。でも、友達とベッドルームにこもって、本気で弾きたいって思えば、簡単なことだよ。いっしょにやっていて、楽しかったな。
 誰かが何かを誰かに聴かせて、さらに聴かされた方が誰かに演奏して見せるみたいなものだよ。「ほら、これが "I Saw Her Standing There" のソロだよ」なんて言って、どっかの少年が通りで人に聴かせる。そいつを真似るわけ。

Q:アコースティック・ギターを弾いていたのですか?

TP:いや、ケイや、ハーモニックのエレキを持っていたから。ロバート・クロウフォードんて、ギブスンSGを持っていたんだ。すごく良いギターだよね。
 リッチーは、ハーモニックのソリッド・ボディ・ギターを持っていた。だから、楽器はそれほどまずくはなかった。かなり練習したな。ほんと、弾くのが大好きだった。

Q:アンプは持っていましたか?

TP:うん、ぼくがギブスンの小さなアンプを持っていた。まだ持ってるよ。「スカイラーク」さ。すごく小さいんだけど。

Q:そのころ、自分で曲を書き始めていましたか?

TP:ああ、書き始めていたよ。どのくらいの曲が出来るのか分からなかったから、あいた時間に腰を据えて、自分が知っているコードで作った自分の曲を、書き出してみた。
 驚くほど簡単にできてしまった。いくつかコードを覚えて、弾けるようになるとほぼ同時に、曲を作り始めていたんじゃないかな。そういうのも一緒に演奏していた。

Q:歌詞も簡単に出来ましたか?

TP:そうだね。特に苦労はしなかった。とくに深刻に捉えもしなかったし。バンドの方は、そいういうオリジナルの曲はやらず、ヒット曲ばかり弾いていたけど。でも、ぼくは曲づくりが好きだった。

Q:最初の曲のタイトルは?

TP:"Baby, I'm Leaving" だったと思う。12小節のブルースみたいなものだった。キーはC。最初のコードは、C, F, G, Am。

Q:Amが入るところが良いですね。

TP:うん、Amはイカしていたな。

Q:新しいコードを覚えたら、自分の曲に組み込みましたか?

TP:そりゃもう、すぐに(笑)。

Q:曲は紙に書き留めていましたか?

TP:そうだな。歌詞を書いておいた。それでもすぐに思い出せた。

Q:お父さんは、あなたが演奏できるようなったことを喜んでいましたか?

TP:うん。喜んでくれた。父が友達と居たとき、「ギターを持ってきて、演奏してあげなさい」と言った。とても誇りにしていたんだ。

Q:お母さんのために演奏はしてあげましたか?

TP:たまにね。母はぼくが弾けるようになっていたことにびっくりしていた。驚きだったんだよ。
「大してレッスンも受けていないし、曲の作り方も知らないはずなのに、どうやってそんなことが出来るようになったの?」って言っていた。
 だから言ったよ。「さあね。友達から教えてもらったんだ。」

Q:ご両親に音楽の素養はありましたか?

TP:ぜんぜん。父にはまったくなかった。特に音楽好きでもなかったと思う。カントリーなら少し好きだったけど。
 母はそうだな、レコードは好きだった。ミュージカルなんかも好きで、口ずさんでいた。母が「ウェスト・サイド・ストーリー」のサウンドトラックを買っていたな。そういうのはぼくも好きだった。今もだけどね。実によく書けた音楽作品だと思うよ。ショー全体がね。
 母は蓄音機を使っていた。彼女はゴスペルとか、ああいうのも好きだった。でも、誰一人として楽器の出来るものは居なかった。

Q:あなたがが楽器を始めたとき、ご両親は励ましてくれましたか?

TP:ああ、音楽はいいものだと考えていたね。ただ、ぼくの髪の長さは気に入らなかった。髪にはショックを受けていた。64年においては、異常なことだったからね。
 ぼくらはビートルズみたいになりたかった。ぼくらのバンドではそうでなきゃと思っていた。夏休みの間にのばして、学校が再開すると、切ることになる。学校には規則があって、髪は伸ばせなかった。
 とにかく、ぼくは父と、髪型についてはかなり大喧嘩をした。ずいぶん長い間、父には理解出来なかった。まったく、完全にね(笑)。なんだってぼくらが髪を伸ばすのか。しまいには諦めたようだった。

Q:最初にビートルズを聞いたときのことを覚えていますか?

TP:いや、本当に一番最初っていうのは覚えていない。でも、時期としては覚えているよ。"I Saw Her Standing there" を、"I Want To Hold Your Hand" より先に聞いていた。B面曲だけどね。両面聴いていたのかな。良くは覚えていないけど、ぼくが先に聴いたのは "I Saw Her..." の方だった。
 それから、自分でシングルを買った。彼らが襟のないグレーのジャケットを着たピクチャー・スリーブのついた、素敵なシングルだった。本当にお気に入りだった。死ぬほど再生しまくった。

 ビートルズがテレビに出た時、ぼくはシングルを2枚持っていたんじゃないかな。"She Loves You" と、"I'll Get You" のやつだと思う。スワン・レコード・レーベルだった。黒いマークで「スワン・レコード」ってあったからね。これ以来、同じものは見たことがないな。
 あのころ、ビートルズのように、自作の曲をやるバンドは他になかった。しかも、(全員が)シンガーなんだ。それまでにぼくが見ていたバンドと言えば、ティーンエイジャーの暇つぶしのサーフ・ミュージックで、だいたいインストルメンタルだった。たぶん、サックス奏者なんかが時折歌ったりしたんじゃないかな。
 ともあれ、そういうポップスターは、自作の曲をやるわけじゃ無かった。

 ぼくにとっては、(自作の曲をやるなんて)夢にも想像できないことだった。ぼくはロックンロールスターになりたくて仕方がなかった。でもどうすればなれるのかは皆目見当がつかない。
 一体どうすれば、いきなりモヘア・スーツを着て、オーケストラをバックにできるんだ?

 ところが、ザ・ビートルズがエド・サリバン・ショーに出た瞬間、道が開けた。それこそ、何千人という若者にとっての、「その瞬間」だった。これこそ、やるべき事だ。友達と、自作曲を演奏するユニットを組むんだ。そして音楽を作る。しかも、それが大層楽しそうに見えた。
 これ(ビートルズの出現)は、ぼくが確信を得る出来事だった。
 ぼくはスポーツに入れ込むことは無かった。スポーツはぼくに何も訴えかけてこなかった。ぼくは草野球が好きだけど、本気でしっかりしたものとして好きな訳じゃない。テレビでも、あまりスポーツは見ない。アートの方が好きだからね。
 父みたいな人が不思議でならなかった。とにかく、ぼくはどの野球選手がどうこうって話には興味が無かった。

 でも、「こいつ」(ビートルズ)はぼくに訴えかけてきた。ぼくはエルヴィスの大ファンだった。でも、ビートルズを見たとき、ぼくに出来るのは「これ」だと思った。これをやるんだと、自覚した。
 あっちこっちのガレージで、バンドがニョキニョキ出現するまでに時間はかからなかった。

Q:あなたが曲を書いたとき、テープに録音はしましたか?

TP:いや、何年かたつまで、録音機は持っていなかったから。18歳のクリスマスに、母がアンペックスのリール・トゥ・リールのレコーダーをプレゼントしてくれた。最高だったよ。オーバーダビングができたんだ。
 「サウンド・オン・サウンド」ってあの頃は呼ばれていた。モノラルで、録音したものを残していけたんだ。ものすごく「スーッ」って音がしたけどね(笑)。一緒に「スーッ・・・」って歌えちゃうほどに。とにかく、どうしょうもなく楽しかった。あれが最初のレコーディングだった。

Q:ハーモニーはつけていましたか?

TP:もちろん。すべてやってみた。じゅんじゅんに積み重ねながらね。そうしたら(ホワイトノイスも重なって)「ズズズズズーーーーッ!」って感じになった(笑)。
 完璧にモノラルだったし。オーバーダビングするのに、ワン・トラックしかないんだから。でも、(オーバーダブは)役に立ったよ。これで録音ってものを学習したのだから。
 ぼくはベースを直接レコーダーにつないで、直接ベース音を録音した。楽しかった。本当に楽しかった。

Q:あの当時のゲインズヴィルでは、ザ・コンチネンタルズが人気のバンドではありませんでしたか?

TP:そう。町ではビッグなバンドだったね。イーグルズに入ったドン・フェルダーが、コンチネンタルズに所属していた。
 ぼくが最初に入ったバンドは、ザ・サンダウナーズだった。ぼくらは本当にまだ子供だったから、母親の車で移動しなきゃならなかった。でも、うまくいっていた。実にうまく行っていたよ。

Q:サンダウナーズはどのようにして結成されたのですか?

TP:デニス・リーって子と知り合いだった。あるダンスパーティで知り合ったのだけど、それが二人とも長髪だったからなんだ。ゲインズヴィルじゅうでも、耳を越えるほど髪を長くしていたのは、せいぜい4,5人程度だった。そういうわけで、お互いに目がいったというわけ。
 彼は「俺はドラマーで、ドラム・セットを持っているんだ」と言った。それで、ぼくはギターを持って、彼の家に行った。一緒に演奏したり、ただブラブラしているだけで、バンドにはなっていなかった。ほんと、ただブラブラしていたんだな。

 そのころ、ぼくが熱を上げていた女の子がいた。すごく可愛い女の子で。名前を、シンディ・クロフォードと言った(笑)。目立つ子で、とても綺麗だった。
 ある晩のダンス・パーティで、ぼくは彼女に話しかけた。そしたら彼女が、「バンドをやっているの?」みたいなことを言う。
 それでぼくは答えた。「もちろん。やってるよ」(笑)
 彼女は言った。「私、この学校のダンス・パーティの担当なんだ。DJはいるんだけど、休憩中にバンド演奏がほしいの。あなたのバンドなんて良いと思うんだけど。」
 突然巡ってきたチャンスだ。ぼくは答えた。「もちろん、出来るよ。」
 メチャメチャ急いで、一緒にギターを弾いていたリッキー・ヘンソンのところに行った。そして彼に言った。「バンドを組むぞ。」そうしたらリッキーが、ロバート・クロフォードを連れてきた。彼は少し年下だったけど、ギターが上手かった。それから、ドラマーのデニス・リー。
 そして、ある日の午後にうちの居間に集まって、プレイしてみた。その一瞬こそ、ぼくが人生で体験した最大の爆音だった。

Q:あなたもギターを弾いていたのですか?

TP:うん。ベースを持っていなかったから。ギター3本と、ロバートが持っていたシルバートーンの大きなアンプ。全部をそいつに繋いだんだ。6本分も入れられたんだ(笑)。

Q:それで、ギター3本にドラムですか。

TP:それから、サックスが吹けるやつがいた。でも、こいつは大きなギグで一度プレイしたっきりで、退場。大して出来ることもなかったから。
 ぼくらは4曲ほど練習した。すべてインストゥルメンタル。"House of the Rising Sun" とか、"Walk Don't Run"。
 全員で青いシャツにジーンズで、バンドらしくは見えた。実際、うまく行った。休憩時間に演奏し切ると、次の休憩時間に、また同じ曲を繰り返した。

 その晩のライブが終わって、機材を片づけていると、年上っぽい男がやってきてぼくらに尋ねた。
「きみら、学生クラブのパーティでプレイしたことある?」
 ぼくらは答えた。「いや、今回が初めてだから。」
 そうしたら、その男が言った。「他の曲も弾けるようになったら、いくつかのギグのセッティングをしてやるよ。」
 ぼくらは全員「ワァオ!」って思ったね。その夜が金曜日だったけど、早速翌土曜日にデニス・リーの家のガレージに集まって、他の曲を練習し始めた。延々とやっていたな。
 その(年上っぽい)男もギグに何度か来た。
 ムース・クラブでダンス・パーティがあった。ティーンエイジャーの大きなパーティでね。バンド・バトルが開催されたんだ。勝ったバンドが、その夏じゅう、金曜の夜演奏できるという契約ができる。ぼくらが勝った。

 一回のギグで、100ドルを手に入れた。毎週金曜にだよ。さらに、ぼくらは土曜日もギグを始めるようになった。これってエラいことだよ。だって、まだせいぜい14歳でしかなかったんだから。車さえ運転できない。さらに、高校でもギグを始めた。
 デニスのママが車を出してくれた。機材をその車に積み込んで、ギグが終わるまで待ってもらい、その車でまた帰るんだ。ほんと、ぼくはたったの14歳で・・・それ以来、ずっとこれを続けている(笑)。

 母が、「このお金をどこで手に入れたの?」と尋ねた。ショーで稼いだのだと言っても信じてもらえなかった。こう言うんだ。
「そう。それで、本当はどこで手に入れたの。どこかからとってきたなら、白状しなさい。」
 ぼくは答えた。「ママ、誓って言うよ。演奏をしてもらったんだ。」
 母はそれでも信じず、ムース・クラブに電話で問い合わせた。向こうの人が、言った。「ええ、契約して、そのお金は彼らが稼いだものですよ。」

 そんな訳で、その夏が終わる頃には、ぼくは100ドルもため込んでいた。14歳にとっては、大金だ。あの頃もね。
 ぼくはこのお金を全部使って、機材を買った。良いアンプを手に入れた。父は、親切にも本当に素敵なギブスンのベースを買ってくれた。良いベースを買ってあげれば、ぼくの助けになると思ってくれたんだろうな。

Q:いつからベーシストになったのですか?

TP:ずいぶん早いうちにだ。たぶん、(バンドを組んだ)次の週。ベースは必要だろう。
 まずギターを低くチューニングしてみた。でも、あまり上手く行かなかった。弦がゆるんでしまうからね。
 それで、父がベースを買ってくれたんだ。

 ぼくはシアーズのカタログを見て、シルバートーンのベースを見つけた。それで、ぼくはカタログを持って父のところに行き、「お金を貸してくれない?」と言ってみた。たしか、50ドルはしたと思う。
 父は「その値段じゃ、しょうもない音しかしないんじゃないか?」実際はすばらしい楽器だったけど、見た目は確かにしょうもなかったな(笑)。
 父は言った。「だめだ。そんなつまらない物に金は貸せない。」
 何日後かにぼくが帰宅してみると、父がギブスンのベースを買ってきてくれていた。それに、フェンダーのアンプも。ぼくは呆然としてしまった。今までに、父からそれほどまでの愛情を感じたことはなかった。父は、分割払いで購入してきた。その費用は、これからぼくがこつこつと返していく。

 でも、とにもかくにも、この出来事で何もかもぶっ飛んでしまった。そういうわけで、ぼくはベーシストになったわけ。

Q:お父さんは、どうしてギブスンが良いベースだと知っていたのでしょう。

TP:周囲の人に訊いたんだ。それで誰かから、一式を買い込んだらしい。ギブスンのEB-2ベース。今でも持っている。本当に良い楽器だった。
 それから、フェンダーの、トレマラックスと呼ばれている、ピッギーバックのアンプも。こいつは、フェンダー・ベースマンよりも小さかった。本当はベースのためのアンプじゃなかったから、音がゆがんでしまい、大きな音は出せなかった。
 それでも、ぼくは一人で天にも昇る思いだった。本当に信じられなかった。父は本当に応援してくれたんだ。
 ぼくらは働き始めていたので、分割でお金を返していくのは、そうそう大変ではなかった。とにかく、全部払わなきゃならない。ひと月に30か40ドルずつ返したんじゃないかな。

 それから、友達がぼくに音名を教えた。「このフレットはラの音、こっちのフレットだとシの音がでる」ってね。そうやってぼくはベースを弾き始めた。コードに合うように押さえながら。
 そのうち速弾きや、ベースパターンを練習し始めた。上手く行ったよ。ぼくはベースが得意だった。それで、ベースを弾きながら歌い始めた。

Q:リード・ヴォーカルをですか?

TP:うん、だいたいはね。

Q:歌とベースを同時にというのは、難しくありませんでしたか?

TP:そうだなぁ、難しいものだとは知らなかったからな(笑)。だから、それほどでも。それが「難しい」ってことが分かっていなかった。
 音程が分かれば、それほど難しくなかった。ネックから正しい音程を探し出したりして、それにリズム感も良かった。ともあれぼくには、ベースを弾くのに良い、それなりのセンスがあるってことにも気づいていなかった。

Q:ポール・マッカートニーがビートルズのベーシストだということは、認識していましたか?

TP:そりゃそうだ。みんな知っていたよ。それに、ビートルズが自作の曲を演奏していることも、みんな分かっていた。
 実際、ほとんどのバンドが、あの(ビートルズ)編成だった。キーボードが加わるようになるには、もうすこし後にならなきゃならない。ヴォックスのポータブル・オルガンがでるまでは、あまり持ち運び可能なオルガンはなかったんだ。

Q:お気に入りのビートルズ・メンバーは居ましたか?

TP:いや、全員が好きだった。彼らは全員が平等にやっていたからね(笑)。リンゴはジョンと同じように重要な存在だった。あの頃はその調子で、ビートルズのすべてが好きだった。

Q:自分のショーで、ビートルズの曲は演奏しましたか?

TP:いくらか。ビートルズの曲は、歌うのがすごく難しいんだ。ぼくらはあまり良いハーモニー・シンガーではなかったから、ストーンズやアニマルズに流れ勝ちだった。それから、キンクスやゾンビーズだな。
 ビートルズぼ曲はすごくハーモニーが多いから、難しかった。ぼくらはどうやればハーモニーが上手く行くのか分からなかったから、実際やるとなったら大変だった。

Q:あなたはストーンズのファンでしたか?

TP:もちろん。みんな大好きだった。ほんとうに、みんな大ファンだった。みんな音楽に関して醒めたところなんてなかったからね。
 なにもかもがお気に入りで、なにもかもを好きになりたかった。大変なのは、レコードを買うためのお金だった。ぼくにはそれほどお金がなかったから、膨大な量のレコードは持っていなかった。
 持っていたレコードを、死ぬほど聴き倒した。あれが大事な、大事な宝物だった。45回転にしろ、LPにしろ、持っていたレコードは全てね。ぼくはレコードを買うために、コーラの瓶を集めて、3ドルにかえてもらっていた。

Q:最初のLPは何でしたか?

TP:最初に手に入れたLPはエルヴィスだった。[G.I. Blues] って言ったな。たしか、ぼくが11歳か12歳の時で、自分で音楽を始める前だった。
 でも、あの [Meet the Beatles] のアルバムを手に入れたときのことを良く覚えているよ。ぼくと弟が、父に買ってくれと言ったんだ。もう、完全に頭がぶっ飛んでしまった。
 あの瞬間から、ビートルズやストーンズのものなら何でも手に入れようとした。

Q:エルヴィスの大ファンではあり続けていたのですか?

TP:64年まではね。それ以降のエルヴィスはダメになってしまった。(ちょっと考えて)ぼくらの世代の音楽には、なり得なかった。ぼくはエルヴィスに興味があるっていうので、少し変わった子供だった。やがて、ビートルズがやってきて、エルヴィスに興味がなくなってしまった。
 ビートルズはぼくの世代の音楽だからね。熱狂的なファンだった。
 それで、エルヴィスへの興味を失ってしまったんだけど、一種の忠誠心みたいなものは持っていた。しばらくは、あのアホみたいな映画も見に行っていた。
 でも、これらはかつて(のエルヴィス)とは違うと分かっていた。新しい(ビートルズのような)レコードのバイタリティがなかったんだ。

Q:弟のブルースに、音楽をやるように勧めたたそうですが、彼はあなたがずっと諍いをしていたのを見て、やりたいとは思わなかったそうですが。どのような諍いだったのですか?

TP:父とぼくは始終あらそっていた。髪を伸ばすことや、服装のことでね。バカバカしかっただろうな。
 あのころ、ぼくは本当にイカれた格好をしていた。ヒッピーが出現する前の事だ。かなり変わっていた。父がどうして嫌がったのかは分かるよ。ぼくや、一緒につるんでいた連中を見れば、レストランじゃ雇ってもらえないって分かる。ぼくらみたいのは好まれなかった。
 特にディープ・サウス(アメリカ最南部地域)ではね。場違いなところに行こうものなら、蹴り出されてしまう。

 だから父は恥ずかしかったんだろう。ぼくと一緒にはどこへも行きたがらなかった。今で言えば、ピアスを50個もつけた緑のモヒカン頭の子供みたいなものだからな。
 ビートル・スタイルの髪型に、ブーツに、ぼくらが着ていたようないで立ちだもんな。ぼくら自身は、超イケてると思っていたけど、ぼくらが好きになればなるほど、大人たちにはまったく理解されなかった。

 学校でも疎まれていた。ぼくの髪型のことで、ずっとつまみ出され通しだった。学校が髪を切ろうとするんだ。
 それで、グリースを使うことにした。一日中ヴァセリンを使って髪をなでつけておくんだ。そうやって、長い髪を耳の後ろにやって隠そうとした。そして週末がくると、そいつを全部落とすわけだ。

 そんなわけでが、父とぼくは始終、荒っぽい喧嘩をしていた。よく、ひどい蹴りを食らったものだった。
 だから、弟はまったく無意味だと思ったのだろう。たしかに、弟にトラウマになるようなインパクトを与えたと思うよ。弟は無難に過ごしたかった。髪は短くしていたね。
 それに、ぼくよりも運動向きだった。父は弟のそういう所を愛していた。ぼくは全然運動に向いていなくて、スポーツもまったくしなかったからね。野球選手の名前なんて一つも知らなかった。まったくクソくらえってな感じで。
 スポーツ観戦もしなかった。友達と遊ぶのは好きだったけど、ちゃんとしたスポーツをするというのは好きじゃなかった。ぼくには向いていなかった。別にスポーツは悪いもんじゃない。ただ、ぼく向きではなかった。
 ぼくは痩せっぽっちだったから、南部のアメフト魂にはついていけなかった。でも、弟はアメフトができたんだ。

 だから長い間、父はブルースの方が好きだったんじゃないかな。ブルースは父がこうだと思うタイプの子供だった。
 一方、ぼくは弱っちい感じの、小さな、痩せた子供で、しかも髪を伸ばしていた。

Q:それでも、弟に音楽をやらせようとしたわけですね。

TP:うん。弟はお手上げ状態だったよ(笑)。そのうち、(ぼくが)お金をどんどん稼ぐようになって、弟にも分かってきたらしい。
 でも、弟はぼくらがもっと清潔なイメージでいけば、もっと稼げると考えた。ぼくは「いや、それじゃダメだよ」って言ってやた。

 60年代は、ぼくと父にとって荒れた時代だった。父は長髪嫌いだった。心底嫌っていた。ぼくが髪を伸ばすのを嫌い、それが日常的な争いの元だった。
 70年代の最初、マッドクラッチだった頃、ダブズっていう大学生向けのバーで、週に5日間ライブをやっていた。
 そんなある日、リビングでセット・リストを書いていたときのことを覚えている。一晩に5セットもやっていたから、レパートリーは多かった。そうしたら、父が言った。「何やっているんだ?何を書いている?」
「ギグのセット・リストさ」ぼくは答えた。
「そんなにたくさんの曲を覚えているのか?」と父が尋ねたので、
「うん」と返した。
 すると父が言った。「なるほど、そうだろうな。お前が本当に小さいころ、子供向けの言葉遊びや、おとぎ話がたくさん入ったシリーズ物の本を、よく読んでやったものだ。2歳か3歳のお前は、それを全部覚えてしまっていた。それほどの曲を全部覚えてしまうという能力は、そこから来ているんだな。」
 父はぼくがそんなに沢山の曲を覚えていることに、すっかり驚いてしまっていたんだ。

 ダブズでのあるライブの夜、父の姿が否応なしに、目に飛び込んできた。部屋の後ろの方に、父が居たのが見えたんだ。父はしばらくぼくらのライブを見ていたけど、そのうち消えてしまった。それから何日かしたら、すごく良かったと、父が言った。
 「お前のバンドは本当にすばらしいよ。」
 70年代に入ったころの事だった。父もやっとある程度分かってきたようだった。

Q:サンダウナーズには、お揃いのユニフォームがあったのですか?

TP:ああ。ぼくらはセルフ・サービスの靴屋に行って、ビートルズ・ブーツを買った。ビートルズ・ブーツが買える、唯一の店だったんだ。キューバン・ヒールになっているやつ。ぼくらは毎日ビートルズ・ブーツを履いていた。

Q:学校へも?

TP:ずっとだよ。それから、細いズボンも。本当にタイトでね。それから、デニス・リーのママが最初のユニフォーム一式を作ってくれた。ビートルズが着ていたみたいな、襟なしのジャケットだ。でも、色がピンクだったんだよね。それに、黒のズボン。ぼくはすごく細く見えた。
 それから、ひだ付きのシャツを手に入れた。キンクスを見ていたからね。キンクスがそういうひだ付きのシャツを着ていた。これもデニスのママが作ってくれた。
 だからあの頃は、ぼくらは同じような格好をしていた。そうしないとバンドには見えなかった。

 あの頃のバンドでは、同じような格好をしていたんだよ。1965年ごろだな。
 ストーンズが、同じユニフォームを着なかった最初のバンドだ。彼ら自身がユニフォームみたいんものだった。彼らの言動がね。
 とにかく、みんなある一定の時期は同じような服を着ていた。

Q:ザ・サンダウナーズという名前は、あなたが作ったのですか?

TP:たぶんね。でも、ほかの誰かだったかも。とにかく、みんな気に入っていた。それで決まった。
 すばらしき日々だったよ。1965年、ビートルズは巨大な存在で、音楽は大爆発していた。
 ぼくらはいてもたっても居られずに、練習したり、プレイしたりしていた。

Q:サンダウナーズの構成では、あなたがベースで、二人のギター、さらにドラマーだったのですね?

TP:そう。それに、ぼくがリードシンガーだった。
 ぼくの家に、父が作りつけたちっぽけな貯蔵室があって、ぼくらはそこで練習した。本当に狭い所だった。ドラマーの家がカーペットを張りなおしたばかりだったので、古いカーペットをもらってきて、そいつを壁とかに、文字通り釘付けにして防音をほどこした。
 機材を詰め込むのに場所を取ってしまったので、ぼくらは何時間も突っ立ったまま演奏していた。毎日のように警官が来たよ。苦情が出てね。
 でも、警官たちはいい奴だった。こう言うんだ。「あと一時間だ。そうしたらやめるんだぞ。」これが毎日だった(笑)。
 今となってみると、あのころのご近所さんが、みんな誇らしげに「ええ、あの子たちはうちの向こうがわで練習してましたよ」なんて言うんだから、笑っちゃうよ。実際は警察に通報していたのにね。

Q:自分のマイクロフォンを持っていましたか?

TP:一つだけ。エレクトロ・ヴォイス664を持っていた(笑)。あのころは一般的なマイクでね。ぼくの最初のマイクは(笑)、後ろにコードのついたスピーカーで、譜面台にテープで貼り付けていた。みんなで、このスピーカー越しに歌っていた。このやり方じゃ長くは続かないと思っていた。
 そこで、ご近所の芝刈りを2ドルでやり、楽器屋でシュアのマイクフォロンを分割で買えるようになるまで、お金を貯めた。だから、実質的にはこれがぼくらにとって最初のマイクだった。
 それから、みんなで小さなPAシステムを購入した。立派でもパワフルでもなかった。アンプを通して大きな音を出すのが、バンドの常識になっていた。
 そのうち、ぼくらはもう一つマイクを買った。664を二つってことになった。それで、ハーモニーをやるとき、二人が一つのマイクを使い、ぼくがリードヴォーカルでもう一つのマイクを使った。

Q:ハーモニーの歌い方を、学習していたのですね?

TP:少しずつだけど。ちょっと難しかったよ。和音がどういうものかを、知らなかったから。とにかく、歌ってみることにした(笑)。
 場合によっては、ただ叫んでいるだけみたいになった。ぼくらは少しずつ、こいつはこのパート、こっちはこのパートって分けて、ハーモニーを形作っていった。自分自身の声は聞こえていない。モニターがないんだもの。歌っている人の前に立てば聞こえるとは思ったけど、とにかく自分たち自身では聞こえなかった。

Q:あなたの他にシンガーは居ましたか?

TP:他の連中は、バックとかハーモニーとかを歌おうとしていた。"Twist and Shout" とか、"Shake It up Baby" みたいな曲でね。一つのマイクを、ビートルズみたいに使って。

 ぼくらは継続的に仕事をこなしていた。毎週末に。夏になると、それ以上。学生クラブや、高校のダンスパーティ。週に少なくとも一つはギグがあったし、二つの場合もあった。三回って事もあったな。
 ゲインズヴィルにはそういう機会が豊富にあった。だからすごくたくさんのバンドがあった。

 学生会のパーティは、毎週金曜日か土曜日にあった。学生たちにはお金があったから、演奏もできる。
 それに学生たちには、午後になると演奏できる集まりなんかもある。せいぜい1時間ほどのギグだけど。運が良ければ、ぼくらもそういう午後の集まりに参加できたし、引き続き夜のダンスパーティで演奏ってこともあった。4、5時間は演奏することになる。
 ぼくらはよく働いたよ。四六時中、練習しているか、本番かだった。ぼくらはまさに取り憑かれていた。完全にね。

 ぼく自身は、一生のうちで一度もダンスパーティに参加したことがない。その点については、ぼくのガールフレンドが犠牲になった。彼女の名前は、ジャッキー・テイラーと言った。
 ぼく自身が、どこかのパーティで演奏しているから、自分で参加することができなかった。だから、ぼくにとっての唯一のダンスパーティは、ステージから見るものだったんだ。
 ダンスパーティに参加するような生活を、ぼくは送らなかった。そういう「高校生活」には関わらなかった。ぼくはバンドに所属しているのであって、高校の集団生活の中に身をおいていなかった。
 15にしてプロのミュージシャンになってしまうと、あの手の高校生活が無意味に見えてしまった。ぼくが16歳までは、いくらか年上の連中と一緒にプレイしていた。だから高校で大勢の中で過ごすのが、ばかばかしく感じられてしまった。

 このことに関しては、今になってみると悲しいことに思える。妻や、彼女の友達なんかは、高校時代のアルバムを持っていて、その時代の話なんかをする。でも、ぼくにはそれが出来ない。ぼくは高校生活経験に乏しいんだ(笑)。

Q:バンドに入っていたことで、学校でスターのような扱いは受けませんでしたか?

TP:受けたとも、受けなかったとも言える。そういう扱いをしてくれた女の子たちも居たし、そうでないのも居た。
 当時は「グルーピー」っていう呼び名もなかったけど、スター扱いしてくれる女の子は、そうだな、いわゆる「すすんでる子」で、マスカラをベッタリつけてるような女の子だった(笑)。アイライン引きすぎのタイプだね。

Q:お金をかせぐために、あなたがダンスパーティ会場前で、コサージュ(花飾り)を売っていたという話を聞いたのですが。

TP:一度か二度、フロリダ大学のフットボール会場でコサージュを売っていたんだ。スタジアムの外で、彼女に買ってあげる彼氏連中にのために、売っていた。
 たまに、コーラも売っていたな。コカコーラのケースを持ってスタンドを歩き回り、売っていた。でも、やったのは数度だけ。継続的にやっていたことはない。ぼくがやりたい事じゃなかったからね。音楽でもっと稼げたし(笑)。
 かといって、お金が十分あったわけじゃない。足りていたためしがない。

Q:何のためのお金が不足していたのですか?

TP:すべてにおいてさ。レコードとか、ティーンエイジャーにとってのすべてだね。

Q:女の子のために曲を書いてあげたことはありますか?ジャッキーのために書くとか?

TP:ないね。そういうことは思いつかなかった。ぼくは曲を書こうと努めていたけど、誰かのために曲を書きたい、みたいな発想は持ったことがなかった。

Q:そのころ、ディランは聴いていましたか?

TP:うん、聴いていた。でも "Like a Rolling Stone" が出るまでは聴いていなかったな。あの曲がぼくが聴いた彼の曲の最初で、シングルとして出ていたんだ。すぐに気に入ってしまった。ぼくらはこの曲を練習もしたけど、ショーではやらなかった。シングル曲をすべて練習した。
 でも、"Blond on Blond"(1966) までは、ディランのアルバムを持っていなかった。[Highway 61 Revited] は聴いていた。友達が持っていたんだ。でも、実際に買って手に入れたのは、[Blond on Blond] だった。本当の意味でボブに入れ込んだのは、このときだった。彼の作品にハマり始めていた。

Q:[Blond on Blond] の曲は演奏してみましたか?

TP:何曲かはね。

Q:ザ・バーズは聴いていましたか?

TP:もちろん。ディランの曲を聴いた最初も、バーズだった。バーズが "Mr. Tambourine Man" をやったときだ。ほかにもたくさん、ディランの曲をバーズがやっている。
 そういえば、ボブが "Like a Rolling Stone" を出してきたのと同時期だったな。それから、ヒット・シングルも出てきた。"I Want You","Rainy Day Women"。あとほかに、"Positively 4th Street"。おかしな事に、後々こいつをボブと一緒にやることになる(笑)。1965年にぼくらが演奏していたのと同じように、一緒に演奏したんだ。

Q:ボブ・ディランはあなたの曲づくりに影響を与えましたか?

TP:曲をつくるあらゆる人に影響しているよ。そうでないことなんて、あり得ないだろう。

Q:ディランの影響は、あなたの曲作りを変えましたか?彼は長い曲を作りますが、あなたも同様の曲を書きましたか?

TP:長い曲は書かなかったな。それまでの人は、ラブ・ソングの域からは出ていなかったし、叙情表現域からも出てもいなかった。だから、(その域から飛び出した)ディランはすべての人に影響を与え、尊敬されていると思うんだ。つまり、だれもがこれまでのもの(ラブ・ソングや叙情表現)以外の事を表現することができると、気づいたのだから。

Q:あなたはサンダウナーズから、ジ・エピックスに入りましたね。エピックスに入るために、オーディションを受けたのですか?

TP:何回かのギグで穴埋め的に参加したんだ。ベースでね。エピックスのベーシストが何回か出られなくて、ぼくが代わりに出たわけ。それで、エピックスの連中がぼくをバンドに入れようと、働きかけてきた。
 ぼくはサンダウナーズに一種の忠誠心みたいなものを持っていた。その一方で、サンダウナーズのドラマーとぼくの間には、大きな意見の食い違いがあった。お互いが好きでもなかった。
 それでぼくはサンダウナーズを抜けて、エピックスに入った。ぼくの16歳の誕生日だったことを覚えているよ。1965年の10月20日だ。最初に車の免許を取った日でもあるから、よく覚えている。しかも、エピックスに入った日だった。(訳者注:トム・ペティは1950生まれ。年数を勘違いしていると思われる)

Q:ベーシスト兼リードシンガーとして入ったのですか?

TP:エピックスには、リズムギターで、歌う人が他にいた。だから、ぼくらはリード・ヴォーカルを分け合った。

Q:みんな、年上でしたか?

TP:二人は高校を出てて、一人は二つ年上だった。ぼくが10年生だったとき、この人は12年生だったんだ。リードギターと、ドラマーは前の年に高校を卒業していた。だからみんな年上だったね。みんな、自分自身の車なんて運転しちゃってさ(笑)。

Q:このバンドにはいるという変化は、あなたにとって良いものでしたか?

TP:うん、一種の衝撃だったな。彼らはすでに、ちょっとしたツアーにも出ていた。フロリダ中を回って仕事をしていたんだ。フロリダっていうのは、大きな州だけどね。
 バンを持っていたから、それで出かける。そのころ、夜通しのライブを始めた。
 抜け出して、モーテルかなんかに泊まった方が良いんだよ。連中ときたら、ザ・フェイセズばりにイカれていた(笑)。マジで女の子たちが大好きで、裏の部屋に連れ込んでいた。ぼくはただ、そういうのを驚きで目をまん丸にして、見ているだけだった(笑)。

Q:あなた自身は、女の子たちを裏の部屋に連れ込まなかったのですか?

TP:ぼくは、ほんのガキだったもの。手が早いほうでもないし。ともあれ、学習はした(笑)。エピックスは、あの連中を観察して、成長する時期だった。あいつら、かなりイッてた。かなりね。完全にぶち切れてた。ワイルドで、パーティ大好きで、大酒のみ。完全にイカれていた。
 でも、ドラマーはすごく良かったな(笑)。賭けても良いけど、今でも良い腕をしてるだろう。ディッキー・アンダーウッド。こいつは最もカタいビートを叩いていた。しかも、一日中でも正確に刻むことが出来た。彼のプレイは最高だった。彼と一緒にプレイするのが大好きだった。

Q:他のメンバーは上手でしたか?

TP:とても良かったよ。でも徐々に、情熱を失っていったように思う。パーティがダメにしたんだ。練習よりもパーティってとこまで行っていた。
 だからぼくは彼らとは距離と取るようになった。彼らは、ぼくのようには音楽に集中していなかった。
「なぁ、俺は曲を書きたいし、レコード契約も勝ち取りたい。本物のプロになりたいんだ。」と言っても、彼らは取り合わなかった。連中はただ、パーティで楽しみたいだけだった。

Q:飲みパーティでしたか?

TP:うん。マリファナよりも前の時代だからね。まだマリファナはまだ身近ではなかった。ぼくが抜ける前に登場しては来ていたけど。ほとんど酒盛りだった。
 最初のドラッグは、アンフェタミンじゃなかったかな。スピードに、ダイエット・ピル。そういうのを使ってキメて、家まで運転する。6時間もだよ。でも、後年になるまで、マリファナやLSDは身近ではなかった。

 ぼくはバンドの連中に、子供のようにくっついているだけだった。バンドのジュニア的な存在で、やがて視野を広げられることになった。
 ぼくが加入して数年してから、バンドはもう一人ギターを入れた。トム・レドン。バーニーの弟だ。彼は実際には、ぼくより少し年下だった。ぼくらはすごく仲良くなった。バンドの中で一番若い二人だったからね。しかもトムは腕の良いミュージシャンだった。今もだけど。

 ぼくらはマッドクラッチ結成まで、一緒にバンド(エピックス)でプレイしていた。マッドクラッチを始めるとき、ぼくとトムが居て、ほかにもエピックスから2、3人入ったけど、彼らはやめてしまった。彼らはそれほど真面目にやりたい訳ではなかった。だからやめたんだ。パーティや、十代らしい生活の方が良かったんだ。
 彼らがやめてしまったので、トムとぼくは楽器店に広告を出した。ゲインズヴィルのすべての音楽活動の中心は、リパム・ミュージック(楽器店)だった。

Q:そこで働いていたのですか?

TP:一時的に働いていた。

Q:後にイーグルスのメンバーになるドン・フェルダーもそこで働いていましたか?

TP:ドン・フェルダーも働いていたし、バーニー・レドンも居た(フライング・ブリトー・ブラザーズや、イーグルスのメンバー)。

Q:ドン・フェルダーが、そこでピアノの弾き方を披露してくれたのですか?

TP:そう。店が忙しくないとき、ピアノの前にぼくを並んで座らせて、コードを弾いて見せてくれた。
 そこには、ものすごい量の楽器とアンプの在庫があった。北中部フロリダじゅうから、リパム楽器店にやってきた。あそこでなら、オールマン・ブラザーズにも会えたよ。誰にでも会えるし、その機材も目にすることが出来た。

 ぼくらはドラマー募集の広告を出し、ランドル・マーシュという男が応募してきた。それでぼくらはマーシュのところに出かけていった。ぼくはそこで、マイク・キャンベルと出合った。マイクはマーシュのルームメイトだったんだ。
 ぼくらはジャムを始めた。ぼくらがマーシュに「リズムギターが居ると良いよな」と相談すると、「俺のルームメイトはギターを弾くぜ」と言う。それで、マイクを引き入れた。
 マイクが日本製のギターを持っていたので、ぼくは言った。「俺、リッケンバッカーを持ってるから、使っても良いよ。」
 すると、マイクは「これでいいよ」と言った。
 マイクは "Johnny B Good" を弾き始めた。そして曲が終わるなり、ぼくらは言った。
「バンドに入れ!」
 マイクはバンドに入らなきゃならなかったし、バンドに入りたいとか考える必要さえなかった。マイクは(バンドに入っても良いかどうか)訊きもしなかった。なんとかして、ぼくらはマイクがバンドにとどまるように説得した。
 それが、ご存じのとおり、マッドクラッチになった。いまでも、あのころフロリダで一緒に過ごした人たちと、会うよ。そういう人たちはみんな、マッドクラッチを知っている。マッドクラッチはゲインズヴィルでは本当に有名になっていた。このバンドはすごくうまく行った。

Q:マッドクラッチのラインナップはどのようなものでしたか?

TP:ぼくら4人と、時々ベンモント(・テンチ)が加わった。ベンモントは後になって入ったんだ。
 彼は夏の間ぼくらとプレイしていたんだけど、ニューオーリンズの学校に行っていたから、戻らなきゃならなかった。そうすると、ぼくらはまた4人編成になる。ぼくらが本気でベンモントに大学をやめてしまえと説くまで、そういう調子だった。それから、バンドに長く居るようになったな。

Q:マッドクラッチという名前は、どこから来ているのですか?

TP:実のところ、よく覚えていないんだ。チョコレート・ワッチバンドとか、ストロベリー・アラーム・クロックみたいに、サイケデリックなネーミングの時代だったとは思う。意味を成さないんだよね。
 ある晩、誰かが思いついて、変な言葉だろ。そのまま定着した。

Q:ベンモントはバンドでオルガンを弾いていたのですか?

TP:最初はファルフィーサ・オルガンを持っていた。それからウーリッツァーの電子ピアノを手に入れた。

Q:最初にベンモントに会った時のことを覚えていますか?

TP:ぼくがベンモントに初めて会った時、ベンモントはまだ全然子供で、12歳か13歳そこらだろう。ある日、ベンモントがリパム楽器店にやって来た。そして椅子に腰掛けると、オルガンで古いビートルズのアルバムの曲を弾き始めた。たしか、[Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band] だ。最初から最後まで弾いちゃったんだ。鮮明に覚えているよ。
 何せベンモントはオルガンをやめたとたんに、ハープシコードで "Lucy in the Sky with Diamonds" を弾き始めたんだから。ベンモントを見ようと、ひとだかりが出来ていた。まったく、凄い光景だった。

Q:ベンモントは歌っていましたか?

TP:いや、完全にインストルメンタルだった。楽器だけで全て表現していたんだ。あいつ、何でも弾きこなすからね。たとえば、ぼくらが何もなくて退屈してたりすると、「ベンいじめ」みたいな遊びを始めるんだ。ベンモントが弾けないようなものをやらせるのさ。でも、弾けないなんてのは、まれ。とにかく信じられないほどの天才音楽家だからね。
 ベンモントほどミュージシャンに出会ったことが無いよ。彼は本物の名人さ。

 とにかく、ぼくとバイト仲間はベンモントが演奏するのを見ていて、言い合った「おい、あのガキ信じられるか?」ぼくはそのえらい演奏の上手いガキの姿が、記憶に焼きついてしまった。
 でも、しばらくぼくはベンモントに会う機会がなかった。そう…まさに1970年まではね。ある晩、ぼくのルームメイトが若い男を連れてきた。その男はひげを生やして、髪も凄く長かった。それで、腕にはレコードを抱えている。あの頃は、よくレコードを持って人に会いに行ったのさ。
 ぼくは段々、その男がベンモントだって気づいてきた。そう、「ああ!あのガキ!」ってね。
 そしたら、ベンモントが言った。「そうだよ。いま、ぼくはニュー・オーリンズでバンドをやっているんだ」
ぼくは即座に誘った。「明日の夜、ライブがあるんだ。一緒にやらないか?」
「自分のファルフィーサのオルガンしかないけど」
「オーケー、十分だ。」
 翌晩、ぼくらは一緒にリハーサルもなしに5セット演奏した。ベンモントは本当に凄かった。だから、バンドの連中はもう彼を入れるって心に決めていた。でも、ベンモントが大学を卒業するのを待たなきゃならない。しかしレコード会社との契約があってね、ぼくはベンモントのお父さんと談判しなきゃならなかった。ベンモントに大学をやめさせて、ぼくらと一緒にレコードデビューさせてくれってね。

Q:ベンモントのお父さんは、判事さんでしたよね?

TP:そう、判事だった。お父さんのオフィスに行くのがおっかなくてね、ベンモントをカリフォルニアに連れて行かせてくれって頼むんだから。でも、お父さんは許してくれた。多分、お父さんは自分の敷いたレールから外れてしまうとしても、何がベンモントにとって必要かを、ちゃんと理解していたんだな。とにかく、お父さんは許可してくれた。
 ところが、ベンモント自身は、まだレコード会社と契約するには年齢が足りていなかった。それで、お父さんがサインしてくれた。それで、ベンモントもバンドの一員になれたと言うわけ。

Q:ゲインズヴィルでは、芝刈りをしていたと言っていましたが。ほかに変わった仕事はしていましたか?墓掘りをしていたという話を聞いたのですが。

TP:短期の稼ぎのためにね。
 ああ、また髪型の話に戻った。長髪じゃ仕事にありつけないからね。墓掘りくらいならできる。こういうのは都市型の仕事だよね。髪を切れと強制できない法律のもとで、人は生活している。
 墓掘りはほんの少しだった。実際は、草刈りとかそういう仕事が殆どだった。あまり長くはやっていなかったけど、しばらくはやっていたかな。払いが良かったから。そのお金の必要があったんだよね。昼間はその仕事をして、夜はライブ。
 あの時期、クラブでの仕事があったと思う。墓場で仕事をすると、ギグに出かけて、演奏する。そして7時には起きていた。えらく時間を使ったもんだ。
 とにかく、長くは続かなかった。最低限を稼ぎ、ちょっとした蓄えを得るまでしかやっていなかった。
 実のところは、クビになったんだけどね。クビだよ。

 ぼくが17歳の時、高校を出て、もっと大きな町に行って、もっとビッグなバンドに入ろうと考えた。
 グレイハウンドで、フロリダ州タンパへ向かい、なんだかえらくヘンテコなホテルに入った(笑)。気味の悪い所でさ。部屋を確保して、バーベキュー・レストランで働き始めた。
 酷い仕事で、すさまじいことになっているトレイとか、ベットベトのゴミとかを片づけるわけ。床拭きもしたな。
 とっととクビになった。ぼくには上手くできなかったものだから。クビになるとすぐに、ぼくはゲインズヴィルに飛んで帰ったよ。もうタンパでできることは何もなかったからね。誰とも知り合いにもならなかった。

Q:ジム・レナハンはマッドクラッチに居たのですか?

TP:うん。彼はしばらくリード・シンガーだった。ぼくが彼に会ったのは、高校でだ。他の、ジ・エージェンツっていうバンドのドラマーだった。
 ジムも髪が長くてさ。町で5,6人しか居ない長髪の一人だった。仲間外れにされないですむから、仲良くなる。レッドネック(典型的な南部の労働者階級)につまはじきにされたら、マジで危険だからな。ジムはアイ・パッチなんてつけていた。ぼくはなんだかエキゾチックだな、なんて思っていた。

Q:それはわざわざ着けていたのですか?それとも必要に迫られて?

TP:わざとだよ(笑)。ぼくらは高校の美術クラスで出会った。ジムはぼくより二つ上だった。でも、同じ美術クラスに居たんだ。二人ともつまみ出されて、廊下に机を並べていたのを覚えている(笑)。

 ほんとうにジムのことが好きだった。ジムは運転ができる年齢になっていたから、長い間彼がぼくの移動手段だった。いろいろな所に連れていってくれた。
 そのうち、ジムは演奏活動をやめてしまった。それでしばらくの間、接触がなかった。エピックスからのメンバーがマッドクラッチから抜けたとき、ぼくらはジムとまた一緒にやろうとした。シンガーが必要だったからね。それで、ジムをバンドに入れた。彼は今、はぼくらのライティング・スタッフだ。あれからずっと一緒にやっている。
 歌うのはやめてしまっていた。実際は、バカみたいな事情で彼をクビにしていたんだ。レナハンをクビにしてから、ぼくが歌わなきゃならなくなった。

Q:あなたとしては、シンガーでいるのは構わなかったのですか?

TP:ずっと自分は、シンガーとしては良くないと思っていた。ずっと、もっと良いシンガーが必要だと思っていたんだ。ぼくの声は特別で、型があるだろ。あのころに比べれば、今じゃ明確に、トーンやら何やら、マシなシンガーになったけど。
 とにかく、ぼくは「本物の」シンガーが必要だと思っていた。結局、ぼくこそがシンガーだったんだ、って気づくのに時間がかかった。いつも思うんだ、ぼく自身が、ぼくらが求めていたシンガーだったんだ、って(笑)。

Q:そのころには、自作の曲を演奏し始めていましたか?

TP:ああ、もちろん。ばっちりね。ジム・レナハンに感謝しなきゃいけないな。彼こそ、曲作りについてぼくを励ましてくれた最初の人だ。寂しいクリスマス休暇に会っていたりしていてね。ぼくはあのころ、暖房もない掘っ建て小屋に住んでいたんだ(笑)。

Q:両親の家からは出ていたのですか?

TP:17の時にね。出ていくのが待ちきれなかった。どうしようもうない貧乏暮らしだった。

Q:その掘っ建て小屋にみんなで暮らしていたのですか?それともあなた一人で?

Q:みんなと一緒には住んでいなかった。ぼくが住んでいた掘っ建て小屋は、ボロい複合アパートみたいな所だった。
 ランダルとマイクは、マッドクラッチ・ファームとぼくらが呼んでいたところに住んでいた。これまたボロいブリキ屋根の家だった。5エーカーか、6エーカーはあるような所に建っていた。昔は牧場か農場か何かだったんだろうな。かなり荒れ果てていた。

 ぼくはしばらくアパートに住んでいて、たぶん1年後ぐらいに、家に戻った。でも家では寝るだけで、ぜんぜん居なかった。
 マドクラッチ・ファームでずっと過ごしていたんだけど、ぼくが寝る場所がなかった。だから夜になると、寝るために両親の家に帰っていた。でもそれを誰にも見られていなかった。夜の間に帰ってきて、誰も起きてこないうちに、ぼくは起きていたから。

Q:あなたのそういうライフスタイルで、家族は構わなかったのですか?

TP:たぶんね。ぼくがブロンコ(フォード社の大型車)を壊すまでは。どうしようと構わなかった。
 家族は、ぼくの好きなようにさせるしかないと考えるようになっていた。自分で自分の払いはしていたからね。その点は尊重してくれていたと思う。実によく働いて、稼いでいた。
 母は、うまく行かなくなった時のために、何か習い覚える方が良いと言い続けていた。ぼくは「そうはならないよ」と言った。
「きっと落とし穴がある」母はそんな風に言っていた。でもいつもぼくはこう返した。
 「そんな物には落ちないさ。そんな気もしないんだからさ?」(笑)

Q:車は持っていましたか?

TP:いや、ぼくは持っていなかったけど、ジムが持っていた。バンを持っていたんだ。彼が車で来てくれるので、それに乗り込んでワインを飲んだり話したり。
 ぼくは自分の曲をジムに聞かせた。言ったように、ジムはこのことについて、すごく熱心だった。曲を書けって励ましてくれた。だからジムに聞かせるために書いていたようなものだな。
 だからジムはバンドに居るべきだって、みんな心を決めていた。ジムがけしかけて作った曲を歌うんだから。

Q:自作の曲を、マイクには聞かせましたか?

TP:マイクがバンドにいるときにはね。リハーサルではいつもオリジナルの曲をやっていたから。ぼくらはオリジナル曲に熱心だったよ。これ以外に道はないって分かっていたから。ストーンズのカバーをしているだけじゃ、レコード契約の道はひらけない。

Q:曲は五線紙に書き留めていましたか?

TP:いや(笑)。「こんな感じで、コードはこう」なんて乗りだったから。今もそうなんだよね(笑)。「ここのコードはこうで、このあたりから入って」なんて。

Q:その時もベースを弾いていたのですか?

TP:うん。まだベースを弾いていた。でも、60年代か70年代には、アコースティック・ギターを買っていた。6弦のリッケンバッカーを、アコースティックのギブスン・ダヴと交換したんだ。こいつは今でも持っているし、1990年頃までは殆どの曲をこれで書いていた。実際にね。

Q:自作の曲、"Up in Mississippi" を録音していますが、すばらしいサウンドですし、良い曲ですね。

TP:たしかに良かったね。つまり、あの頃にしちゃ、ってことだけど。初心者にしては。あのとき、まだそれほど沢山は曲を作っていなかった。それで、うん。ちょっと録音して、45回転にしたんだ。
 ゲインズヴィルではけっこう流れたよ。みんなで友達を買収して、リクエストしてもらっていたから。実際、ゲインズヴィルのトップ10に入った。これはぼくらのギグの凄い助けになった。レコードを作ったことで、さらに引きが来たし、良いお金を取れるようにもなった。

Q:この曲には二つのギター・ソロがありますが、両方マイクが弾いているのですか?

TP:いや、一方はトム・レドンで、一方がマイクだ。

Q:ライブ録音したのですか?

TP:ヴォーカルはオーバーダビングした。アコースティック・ギターもそうじゃないかな。8トラックあった。

Q:録音は楽しかったですか?

TP:そりゃもう!恋に落ちたね。すべてが気に入った。スタジオで録音して、でかいスピーカーで聞くっていうことに、惚れ込んでしまった。サウンドは本当に良かったからね。
 でも、このセッションのための払いは、現金じゃなきゃならなかった。

 ぼくらには、コショウ農場をやっている友達がいた。こいつがある年、すごく豊作でかなり稼いだんだな。それで、この友達にレコーディングのために投資してくれって持ちかけたんだ。そんなもんで、こいつがペッパー・レコード・レーベルになったというわけ(笑)。
 今になって、そんなレコードを持ってもって、ぼくの所にサインをもらいに来たりしたら、かなりおかしな話だよね。このレコードは希少だよ。それでも、持っている人はいるはずだと思う。どうやって手に入れたんだか見当がつかないけど。
 ぼくらはレコード屋に言って話した。「あの、このレコードを棚に置いてくれないかな。売り上げは良いからさ、とにかく棚に置いて欲しいんだ。」
 そうしたら、店が置いてくれてね。ラックの良いところに配置してくれた。「ゲインズヴィルのマッドクラッチ」ってね。それほど沢山売れたわけじゃないけど、ラジオで流れたのは助けになった。

Q:ラジオから自分たちの曲が流れたのを最初に聞いたときは、どんな気分でしたか?

TP:そりゃもう、大興奮だったよ。まじで最高だった。いつも5時から番組が、リクエストを受け付けていた。みんながその日のトップ・テンを、電話で投票して決めるんだ。
 6時なると、そのランキングを流す。そこで、ぼくらは知り合いを総動員して投票してもらった。そうしたら、毎日ぼくらがトップ・テンに入るようになってきた。すごく沢山人が電話してくれたからね。トップ・テンに入るように。

Q:マッドクラッチは、レイナード・スキナードと一緒にプレイしましたか?

TP:何回か。あのころ、とても良い関係だった。あのギグを見られたら最高だったのにな。
 けっこうバンド対決があってね。まだどっかに、マッドクラッチ対レイナード・スキナードのポスターを持っているよ。実際、マッドクラッチの方がポスターの上の方に名前がある。レイナード・スキナードは、ジャクソンビルから来ていた。ぼくらがプレイするとき、来てくれた。

 いろいろな人が、いろいろな所から来たよ。デイトナ・ビーチや、マイアミからもね。まさに、フロリダ中の人が、演奏するために、ゲインズヴィルに集った。
 たくさんのライブが開かれたし、そういう機会も多かった。60年代のバンドブームが起こり、ヒッピー文化が発生し始めていた。野外コンサートも沢山あったし、そういうのを、「ラブイン」なんて呼んでいた、そういう時代だった。そうして、いろいろなところから人が集ったんだ。

Q:あなたが過ごすのに、ゲインズヴィルは良い場所だったということですね?

TP:信じられないほど良いところだった。沢山のミュージシャンを輩出したよ。ゲインズヴィル出身の二人は、LAにでてザ・モーテルズってバンドを始めた。バーニー・レドンと、ドン・フェルダーの二人もここからでてイーグルズになったし。本当にすばらしいミュージシャンたちだよね。
 (ゲインズヴィルでは)すばらしいミュージシャンばかりを聴き比べなきゃならなかったんだ。
 ショーのための、かなり凄いバンド対決があった。ぼくらは実によくやったよ。それが全てだった。

Q:マッドクラッチ・ファーム・フェスティバルと呼ばれるお祭りをやったというのは、本当ですか?

TP:うん。これぞぼくらの切り札だったね。いわゆる「ばっちりはまる」ってやつの一つだろう。
 (マイクやランダルの)小屋の裏側は、だだっぴろい野っぱらだった。それで誰かが、ポスターを貼りだして人を集め、その野原でやってみようじゃないかと言い出した。
 それから、知り合いのR&Bバンドである、ザ・ウェスタン・プライム・レビューを連れてきた。一緒に演奏したり、ぼくらだけで演奏したりした。そしたら、凄い人数が集まった。簡易トイレどころじゃなかった。ほかに何があるわけじゃない。ショーだけが初々しくあるだけだった。

 その後、大学から本物のプロモーターなんだろうけど、なんか怪しい連中がやってきて言った。「ほかでもやらないか、手助けするからさ」
 それで、次の機会は、もっと大勢のバンドが出演することになった。正確にはどんな面々だったのかは思い出せない。でも、誰かはアトランタから来たことを覚えているよ。

 ほんとうに、べらぼうな群衆が押し寄せたんだ。何千もだよ。ご近所さんにしてみれば迷惑この上ない。
 今となっちゃ、あんな組織もへったくれも無くやってやろうだなんて、思いつきもしないだろうね(笑)。
 かくして、警官のお出ましとなった。彼らが言うんだ。「こんなに大勢の人が居たんじゃ、こちらとしても中止にもできない。やめさせようものなら、大騒ぎになるだろうからな。」
 それから、土地の所有者たちはランダルとマイクが追い払ってしまった。
 所有者たちは言っていたよ。「出ていくんだ、こんなことはあり得ない」ってね。ぼくらは、連中がぼくらを追い出そうものなら、またやってやろうって思った。連中にそんなこと、できやしないだろう?

 このフェスティバルの3回目をやったころには、大きな契約につながるほど、ぼくらの名を引き上げることになった。これが、ぼくらの成功への鍵だった。町中で有名になっていたし、演奏すれば大勢が集まった。

 フェスティバル以前、ぼくらはダブズで演奏していた。週に6日は演奏し、一晩で5セット演奏した。一週間に100ドル札の束を稼ぐようになっていた。
 こうして、ぼくらはバンド活動について学習していった。これほど過密に演奏するのは、きついことだ。これは、本当にぼくらがやりたい事ではなかった。
 ぼくらがやりたかったのは、オリジナルの曲をもっと演奏できるコンサートだった。クラブの人たちは、オリジナル曲が好きではなかったんだ。よくこう言われていた。「サンタナを一曲」それでもぼくらのオリジナルをやる(笑)。

 フェスティバルをやってからは、大きなホールで演奏できるようになって、ものすごい人を動員したことを覚えているよ。そう何回もではないけど、とにかく出来たんだ。
 フロリダ州じゅうを回り、名前が知られるようになっていた。
 そのうち、プロモーターたちが、プラザ・オブ・アメリカズという、(フロリダ)大学の巨大な野外会場でのライブを計画した。ショーをやって、数千人が集まった。ところが、観客たちは料金を払っていなかったけどね。

 それほどまでに、マッドクラッチの評判は高くなっていた。そしてぼくらは、あそこでたどり着ける目標には、全て達してしまっていた。ぼくらは何十回ともなく、あらゆる所へ通うようになっていた。
 それで、気づいたんだ。メリーゴーランドに乗っているようなものだって。同じバーで同じ演奏をし続けているだけで、結局どこへも行けていないんだとね。

 こうして、ぼくらの考えの中にカリフォルニアというものが浮かび始めた。バーニー(・レドン)が、カリフォルニアに行って大成功を納め、イーグルズを始めていたから。彼は時々戻ってきていた。ぼくらはよく彼と話した。
 そのうち、バンドをやめていたトム・レドンが、ベース・プレイヤーとして、リンダ・ロンシュタットと仕事を始めた。ぼくらは、「ワオ、ライブかよ!」って強烈に印象づけられた。
 実際、トムはいくつかのバンドで、ヒットシングルを出していた。どれかのバンドは、シルバーって名前だった。完全に忘れられちゃいそうなシングルだったけど、とにかくヒットは飛ばした。これは本物だった。
 よし俺たちもカリフォルニアへ行こう。それが成功への道だ。ぼくらはLAを目指すことにした。バーズが居た場所だ。

 何せ南部はオールマン・ブラザーズっぽいもので溢れ返っていたからね。
 ジ・オールマン・ブラザーズ・バンドはビッグな存在で、あらゆるバンドがあれを真似した。まさに、ぼくら以外はみんな真似していたんだ。そういうのは、ものすごい長い曲や、ジャムをやっていた。
 ぼくらはああいうのが嫌いだった。オールマン・ブラザーズは好きだったけど、あのモノマネ・バンドの全てが嫌いだった。バカみたいって思ったよ。
 ぼくらは3分程度の曲をやる手のバンドなんだ。だからぼくらは(その環境に)合わなくなっていた。
 そして、これ以上ここには居たくなかった。LAへ、いつもその地とつながっているような気がした、LAへ行きたかった。

Q:ゲインズヴィルはあなたにとって最高だったけれど、離れるべきだと思ったんですね。何千もの聴衆が居てもですか?

TP:いつでも何千もの前で演奏できていたわけじゃない。千人の前でプレイすることもあったし、月曜の夜なんかは、どこかのビアー・バーで、200人を相手に演奏することもあった。
 巡回コースはやりつくしてしまっていた。ぼくらは食べるのと、家賃を払うために、どこへでも行って演奏しなきゃならなかった。だからどんな感じのライブでもこなさなきゃならなかった。
 カントリー・バーで、ワイアット・アープみたいなタイをするとかね(笑)。
 どこかのポップ・フェスティバルに出た次の日の晩か、翌週だったかには、そういう生活に戻っていた。そして、いつも家賃分を稼ぐ程度の演奏を保つように、仕事を続けられる程度になっていた。

 でも、このままじゃどうにもならないと、分かっていた。ゲインズヴィルに居て、どの程度のことが出来るんだろう?
 あそこでは、コンスタントにヒットチャートのトップにはなっていた。ゲインズヴィルでは、たぶん一番有名なバンドだったと思う。そうだと思うよ。今でもね。未だにマッドクラッチを見たって言う人に会うよ。そういう人たちはマッドクラッチのファンで、いつもぼくらを見に来てくれていたんだ。
 とにかく、それでもぼくらはこの状況を打破しなきゃいけないと分かっていた。

Q:ニューヨークに行くことは考えましたか?

TP:ニューヨークは、ぼくらには冷たい(寒い)だろうと思えた。ぼくらはマンハッタンにいるようなタイプじゃないと分かっていたし、実際そうじゃない。
 ぼくら自身がLAにいる図を想像していた。でも、ニューヨークじゃ生き残れないだろう。

 ぼくらはバーズが大好きだったし、ビーチ・ボーイズや、バッファロー・スプリングフィールド、ブリトー・ブラザーズが大好きだった。
 そして、ぼくらはLAにつながっていると思った。いまだに「LAのバンド」とは紹介されないけど、とにかくLAにつながっていると思う。ずっと南部のバンドって紹介されているけどね。
 でも、実際のところはぼくらが作り上げてきた音楽の部品は、LAでのそれなんだ。もう30年以上LAに居る。ぼくらはロサンジェルスのバンドなのさ。

 でも、最初はいろいろな所に行ってみた。アトランタでプレイすることもあった。どこででも、プレイできた。

Q:自分で自分のギグをブッキングしたのですか?

TP:うん。マネージャーと名乗る連中がゾロゾロやって来たけど、ろくな連中じゃなかった。それでもぼくらのブッキングをして、仕事を得ようとしていた。ぼくらは、そういう連中を無視していた。

Q:最初にレコード契約を取るために、ジョージア州メイコンへ行ったのですか?

TP:そう、オールマン・ブラザーズが居たところだ。カプリコーン・レコードがあってね。一番近い所だったんだ。
 あちらの人たちには、ぼくらは「英国的過ぎる」と言われた。あっちはいかにもっていう南部のサウンドに入れ込んでいた。ぼくらは思いっきり却下された。
 とにかくぼくらは、メイコンの雰囲気は好きじゃなかった。あそこでは少し過ごして、ギグもやった。なんだか崩れかけた家でバーベキューでもしているみたいだった。ぼくらがしたかったのは、これじゃない。ぼくらは全然違う方向を目指していた。

 とにかく、これはぼくらにとって良い経験だった。
 これはぼくらが掴もうとしているものじゃないって、すぐに分からせてくれたから。メイコンで契約しなかったのは、運が良かったよ。

Q:高校は卒業しましたか?

TP:やっとのことでね。ぼくは夏の間に6週間の補講を受けなきゃならなかった。そうして、学校はぼくを卒業させた。でも、ぼくのクラスと一緒に卒業した訳じゃなかった。出席が全然足りなかった。1年間に42日も欠席していた。

Q:演奏活動をしていたから?

TP:そう。それで両親はえらく怒っていた。いつもこの言い争いだった。

Q:ベンモントがバンドに居ないとき、あなたのギグを見に来ていましたね。あなたが書いた "Unheard of King Hero" を聴いて、あなたが書いたという事に印象づけれています。

TP:そう、ベンモントがぼくらを見に来ていたのを、覚えているよ。フロリダのレイク・タウンっていう、典型的な南部のレッド・ネックのバーだった。
 それこそ、ワイアット・アープみたいなタイをしなきゃならなかった所だ(笑)。でも生活のためには、そういう所にも行かなきゃならない。演奏できるカントリーの曲も十分知っていた。でも、聴衆はいつもぼくらを気味悪がっていた。長髪なのにカントリー音楽だもの。あのころは、そんなの全く聞いたこともなかった。
 ベンモントが来て、ボックス席に座り、ぼくらのとことを見ていたのを、覚えているよ。

Q:ベンモントは、マイク・キャンベルの演奏に印象づけられています。彼は、派手だというのではなく、面白かったと言っていますね。

TP:マイクは本当に素晴らしかったよ。今と同じくらい素晴らしかった。ほんと、まじで、ものすごかった。

 マイクはギターを弾くために生きているんだ。一日中弾いているんだから。
 早いうちからぼくらのローディーとして一緒に居てくれるバグズ(アラン・ウィーデル)にも言ったんだけどさ、マイクが住んでいた家の外にあった、ひろい裏庭の中にマイクが座り込んでいた事があってね。あいつが一人っきりでアコーステイック・ギターを持って、座っているのを見たことがあるんだ(笑)。誰にともなく、弾いていた。
 でも、マイクはそれが好きなんだよ。今でも四六時中、弾いている。
 弦楽器ならなんでも演奏できる。ある日なんて、スタジオにえらい大量の楽器を持って来て。琴なんてのも持ち込んできた。なんかヘンテコな楽器なんかも持ってる。
 実際、あいつはそれらを弾きこなせる。弦楽器だったら、フィドル以外なら弾けるんだな。しばらく、フィドルも練習していたけど、ありゃ聞いてるのが苦痛だった。弓をうまく扱えなかったみたい。

Q:デモはベンモントのお父さんの家のリビングで録音したのですね?

TP:そう。リック・レイドっていう男が町にいて、最初に出たころの移動レコーダーを積み込んだバンを持っていて、こいつにはアンペックスの2トラックレコーダーが搭載されていた。
 この男はステレオ・ショップに勤めていて、彼ごとまる一日借りることができる。それで来てもらって、録音したんだ。実際、すごく良い録音をしてくれた。
 ボックスセット[Playback]を聴けば、"On the Street" っていう、ベンモントが書いて、ぼくが歌った曲があるよ。実際、これは2トラックで録音してある。ベンモントの家のリビングルームで録音した。
 聴けば、なんてサウンドが良いんだろう、なんて結束が堅いんだろう、って驚くよ。ハーモニーもバックで歌っている。完璧にうまく行った。今までに録音したなかでも、ぼくのお気に入りの曲なんだ。
 あのリビングルームの録音で、上手く行った。7曲か8曲はオリジナルを録音したな。
 それから、リール・トゥー・リールのコピーをこしらえた。それを最初のLA行きの時に、持っていく事になった。リール・トゥ・リールのダビングができる機械を持っていたからね。カセットテープはまだなかった。

Q:1973年に録音した45回転の "Up in Mississippi" はどうしましたか?

TP:ぼくらは、まだこの曲に関しては時期尚早だと考えていた。それで、この曲のプレゼンはしなかった。
 それでも、ぼくらはこの曲よりさらに良くなっていると思っていた。実際、そうだったと思うよ。

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Chapter 2 California

Q:そして、契約を勝ち取ろうと、カリフォルニアへ向かったのですね。

TP:そうだ。ぼくらはフロリダからLA(のレコード会社)へテープを送っておいた。ほとんどが却下、却下だったけどね。ぼくらはみんな、レコード会社の住所を知っていた。ローリング・ストーン誌に載っていたから。その住所に送りつけたわけだ。

 あの頃、「プレイボーイ(雑誌)」も、「プレイボーイ・レコーズ」というレコード・レーベルを持っていた。ぼくらは、ここのピート・ウェルディングという人から、返事をもらった。ぼくは後で知ったのだけど、この人は尊敬を集めるライターだった。彼はジャズの分野において尊敬を集めていて、プレイボーイのA&R(新人発掘・育成担当者)だった。
 彼もぼくらを却下したんだけど。とても良い人で、一曲一曲について、なぜ却下なのかを解説してくれて、もっと良くなるから、がんばれと書き送ってくれた。ぼくはとても勇気づけられた。それで、LAでピート・ウェルディングに会いに行った。

 あっちにはぼくと、ぼくらのローディだったキース・マカリスターが行った。ダニー・ロバーツがバンを持っていて、そいつを運転した。トム・レドンはもう居なくて、バンドを抜けていた。LAでは彼や他の人にも会おうとか考えていた。
 本当に、ぼくの人生の中でも最高の旅だったな。国を横断しての、エライ旅だった。ぼくはミシシッピーから西へ行ったことがなかった。やおらサボテンなんか目撃しようものなら、車を止めて飛び出し、「わぁ、見ろよあれ!」なんて言ってた。感受性豊かだったんだな。

 ぼくらはLAにたどり着くと、友達のまた友達の家の床で眠らせてもらった。ぼくには歓迎されていないことが分かっていたけどね(笑)。実に居心地が悪かったよ。連中はぼくらが本気でくるとは思っていなかったんだ。でも来ちゃった。それで、二、三日は泊めてもらった。リビングルームの床にね。
 ぼくらはハリウッドへ車で行った。ぼくにとっては簡単だったよ。サンセット・ブルバードを使ったからね。あの頃は、そこいらじゅうにレコード会社があった!ちょっと見渡せば、レコード会社が目に入る。もちろんMGMや、キャピトルもあった。ぼくは思ったよ。「よし、とにかく一つ一つ出かけていって、契約を取るぞ」ってね。

 ぼくらは1時間かそこらで、LAに恋をしてしまった。天国に思えたね。ぼくらは言っていたよ。「おい、そこらじゅうで、みんなが音楽で生活している。まさにここしかない」ってね。

Q:ハリウッドに魅力を感じてやってきた多くの人が、ハリウッドの現実に失望するか、拒絶されるものです。あなたにとっても同様でしたか?

TP:いや。ぼくにとっては、全てがぼくが思っていたとおりだった。サンセット・ブルバードは文字通り、ズラリと並んだレコード会社だらけだった。会社の名前が並んでいるんだ。A&Mに、MGM、RCA。道路沿いに見えた。
 ぼくらはテープを持ってそれらの会社の受付に行って、「ハイ、ぼくらはフロリダから来ました。このテープを聞いてもらえますか?」と言った。ぼくらはどうすれば良いのか分かっていなかった。ただ、ぼくらの曲をたくさんの人に聞いてもらえる催しをすれば良かったんだな。

 ぼくらが知っていたレコード会社の住所は、ローリング・ストーン誌の広告に載っていたものだけだった。それで、もっとたくさん探そうと思って、たしかベン・フランクスっていうサンセットにあった食堂に行った。
 そこの電話ボックスに入って、レコード会社の住所を探そうとした。その電話ボックスの床に、紙が一枚落ちていた。それを拾い上げてみると、それは、電話番号や住所つきの、20ものレコード会社リストだった。同時に、ぼくは「参ったな、同じ事をしているやつが大勢居やがる」と思った。とにかく、そのリストがそこにあったのは間違いない事実だ。
 そういう訳で、ぼくはシェルター・レコードの番号を手に入れたわけだ。ここは、ハリウッド・ブルバードの東の外れにあった。そこへ、車でテープを持って行った。

Q:他のたくさんの人とレコード契約を争わなければならないと言うことに、やる気が萎えませんでしたか?

TP:いや。ぼくらは若かったし、世界は自分中心だったから。あの世代にとっては、何事も不可能じゃなかった。却下されても、ほかがいくらでもあるし、契約してくれるどこかと、どかで必ずつながっていると思っていた。実際に、そうだった。

 ぼくらはMGMに行き着いた。彼らはシングルを出したいと言った。初日がそれだ。次の日はロンドン・レコード。こいつは大きなレーベルだ。彼らはぼくらと直ぐにでも契約したがった。
 それから、キャピトル・レコードもかなりぼくらに興味を持っていた。しかも、スタジオでぼくらにデモンストレーションをさせたがっていた。ぼくらも馬鹿で、デモなんてやりたくないって怒っちゃったんだ。レコード会社によって、違いがあるということを分かっていなかった。
 まったく青かったよね。レコードさえ出してもらえれば、ぼくらはそれで良かったんだ。シェルターやら、キャピタルやら、レコード会社の違いは分かっていなかった。
 ああいう、国中、世界中にレコードを送り出している会社が、ぼくらに興味を持ってくれたんんだ。

Q:キャピトルは今でも、ヴァインに大きなビルを持っていますね。ビートルズのレーベルだったのですが、その点には惹きつけられましたか?

TP:そうだな、惹きつけられたよ。ロンドン・レコードも同様だ。あそこはローリング・ストーンズを持っていたから。「あれらのどれかにしよう」って、あの時ぼくらは思った。
 デモンストレーションをしたくないからって、キャピトルはやめた。今になって、あのときキャピトルを取っていたらどうだったろうかと思うんだ。キャピトルを取って、デモンストレーションをしていたら。
 でも実際は、ぼくらと契約したがっている他のレーベルを取った。そういう所があるのに、どうしてキャピタルでデモンストレーションをしなきゃんらないんだろうって思ったのさ。ぼくらは違いに気づいていなかった。
 それに、音楽出版についても分かっていなかった。どういうものかも知らなかったし。まぁ、ソングブックみたいなものかと思った。本当に分かっていなかったな。

Q:みんな揃ってテープをレコード会社に持っていったのですか?それとも誰かが代表して行ったのですか?

TP:ああ、ぼくがメッセンジャーだった(笑)。ぼくらはピート・ウェルディングに会いにプレイボーイ・レコーズに行ったのだけど、彼はもうそこでは働いていなかった。
 ぼくらは入っていって、これこれこう言う訳でと説明し、テープをかけた。するとそこにいた男が曲を全部聞かずに30秒でテープを止めて、こう言った。「だめだ。パス。」ぼくは思ったよ。「ちぇっ、こりゃ思ったより難しそうだ」ってね。この男は歌さえも聞かなかったんだ。

 それで、ぼくらはレコード会社を訪ね回り続けた。昨今とは事情が違ったんだ。ぼくらはレコード会社に乗り込んで、こう言うんだ。「やぁ、フロリダからはるばる来ました。このテープを聞いてくれませんか?」
 何人かは聞いてくれたよ。それでこう言う。「OK、聞いてみよう。」

 最初の日に、MGMが録音を気に入ってくれた。そこの男が言った。
「なるほど、最初にシングルを出すという契約をしたい。」
 ぼくらは有頂天さ。さらに彼は言った。
「マネージャーは誰だい?」
「マネージャーは居ません。」ぼくらは答えた。
「なるほど、担当弁護士は?」
「弁護士?弁護士も居ません。」
 すると彼は言った。
「OK、それらは手配してあげよう。さてと、さっそくシングルをつくりたいと思う。」
 ぼくは彼に、シングルはぼくらが本当に作りたいものじゃないんだと言った。アルバムを作りたいんだ、ってね。
 彼はこの(持参したテープ)曲には興味があるけど、アルバムについては何とも言えないとのことだった。

 その後、ぼくらはロンドン・レコーズへ行った。担当者は本当に興味を示してくれた。この人は、「うん、君の歌には、実に興味をひかれたよ。」と言った。
 それが、ぼくらがLAに来た、第一日目だったんだ。ぼくはその夜にマイクに電話して、こう言ったことを覚えている。
「よう、お前は信じられないだろうけど、俺たちレコード契約が獲れたぞ。」
 あいつが信じたとは思えないな。マイクは返した。
「ふざけてんのか?」

 ぼくらはあと数日LAに居た。その最終日、シェルター・レコーズまで行ってみた。そこで、アンドレア・スターって女の子にテープを渡した。彼女は、ぼくにとって生涯の友達になる。彼女がドアをあけてくれたんだけど、ぼくらのことを「かわいい」って思ったと、後になって言っていた。
 彼女はぼくらのテープをA&Rだったサイモン・ミラー・マンディに渡した。

 ぼくらは(フロリダの)家へ帰った。それから、持ち物を片っ端から売り飛ばし、カリフォルニアへ行く準備を始めた。
 そしてまさにリハーサル中、電話が鳴った。ぼくがでてみると、デニー・コーデルからだった。ぼくは売り出し中だった車の電話かと思った。
 それはデニー・コーデルで、彼はこう言った。
「きみらのグループと、契約したい。本当に素晴らしいと思うんだ。きみたちこそ、次のローリング・ストーンズだ。」
 ぼくは、「何だこれ?」ってな感じだった。

 それでも、ぼくらはデニー・コーデルが何者かは知っていた。"A Whiter Shade of Pale" や、ジョー・コッカーの作品を手がけたことを知っていたからね。電話で話したこの人が、すごい大物だってことは分かっていた。
 でも、ぼくはこう言わなければならなかった。
「ああ、本当にすみません。でも、もうロンドン・レコーズと契約するって、約束しているんです。」
すると彼は言った。
「いいかね、こっちに来るのであれば、オクラホマのタルサに、私のスタジオがある。通り道からは遠くはないだろう。タルサに立ち寄って、会おう。こちらがどうか、分かるじゃないか。」

 レオン・ラッセルはタルサに住んでいて、シェルターはレオンを中心に結成された。ここには、タルサのミュージック・シーンのすべてがあった。J.J.ケールにカール・レイドル、ジム・ケルトナー。大勢の偉大なミュージシャンたち。
 それで、ぼくらはタルサに寄ることにした。そして強風の吹き荒れる道の真ん中でコーデルと対面した。彼はぼくらを小さなカフェに連れて行き、話をした。
それから、教会の中に作ったスタジオにも連れて行った。チャーチ・スタジオと呼ばれていた。すごく良いスタジオだったね。コーデルは言った。
「じゃぁ、夜の間にここを使って。明日から私らも加わって、セッションしようじゃないか。きみらがどんなものか見せてもらうよ。」
 ぼくらは、「ワオ!このスタジオでセッショんだってよ!おい、今夜使って良いってよ!」ってな感じだった。
 ぼくらは夜を過ごし、次の日はレコーディングとなった。するとコーデルが言った。
「これだ。気に入ったよ。きみらのバンドと契約したい。」
 ぼくらは、いかにも管理職風のロンドン・レコーズの人よりも、コーデルの方がずっと好きだった。とにかくデニーが好きだからということで、「オーケー、一緒にやろう」と答えた。

Q:どんな歌を録音したのですか?

TP:デニーが特に気に入っていた曲に、"Making Some Noise" と言うのがあった。後々、[Into the Great Wide Open] でやったのとは違ってね。タイトルは同じだけど闘鶏を見に行くみたいな内容の、別の曲だった。
 デニーは、闘鶏ってモチーフを気に入ってくれた。

 そんな訳で、彼はぼくらと契約した。ぼくらときたら、現金に飛びついちゃったんだな。彼は「オーケー」と言って、ゲンナマの束を渡した。そして、LAにあるシェルターのオフィスに来るように言った。ぼくらは文字通り高速道路をかっ飛ばして、シェルターのオフィスに乗り込んだ。「とうとう来たぞ」なんて言ってね(笑)。

 でもぼくらは文無しだった。シェルターはぼくらにいくらかの金を与えて、ハリウッド・プレミア・モーテルという所に滞在させた。ハリウッド・ブルバード沿いなんだけど、ウェスタン・アベニューの東、すごい外れの、かなり怪しげな場所だった。シェルターのオフィスもそこにあったんだ。

 翌日、ぼくらはシェルターへ行った。そしてこのシェルター通いがぼくらの日常になった。そこはハリウッド・ブルバードにある民家だった。そこに大きなオフィスを構えていて、ぼくらは毎日そこへ通った。
 今とはずいぶん違っていたんだ。シェルターはぼくらに谷間の家を二軒あてがった。それで、そこに引っ越した。プールつきの、素敵な家だった。
 カノガ・パークにあったんだけど、それがどんな事か、ぼくらには分かっていなかった。それが普通だと思っていたんだよ。ぼくらはこの谷間がどうなっているのか、分かっていなかった。

 ぼくらは言われた所へ行くだけだった。家が二軒だけあった。ぼくらの数人しか居なかったからね。みんな連れの彼女や、犬やら全てを連れて行った。おおごとだよね。
 家にプールがあったんだよ?ウケるだろう?でも家具は無し。ベッドもなにも無し。家具としては、庭用椅子があっただけ(笑)。あとは、寝るためのマットレスがいくらか。
 とにかく、エライことで。ぼくはこう思ったことを覚えているよ。「俺ってば、プールつきの家に住んでるんだぜ!」ってね。

Q:ハリウッドから離れたところに居ることは、気になりませんでしたか?

TP:うーん、それほど遠いとは知らなかったから!(笑)分かってなくてね。確かにハリウッドまでは車でずいぶんかかるなとは思った。
 でもLAの道路をたどたどしく行っていたわけで。今となっては当然のことも、あの頃は分かっていなかった。ぼくらは今でも、いくらでも移動しちゃうから。

 あの時期、ぼくらはライブ演奏をしていなかった。ライブをやっていない時期が、2年ぐらい続いた。演奏する場所がなかったからね。
 ウィスキーやスターウッドはあった。でも、まだレコードを出していないと、ああいう所では演奏できないんだ。それでぼくらもやっていなかった。
 あのころ、小さいけど演奏ができるクラブとかは、今のようにたくさんは無かった。70年代中盤まではね。エルヴィス・コステロとか、ああいう人たちみたいに、もっとライブをやりたかったとは思う。
 クラブとかがたくさんできたのは、ニューウェーブが流行り始めてからだった。でも、74年ごろはまだ数えるほどしかなかった。そういう所で演奏するするには、アルバムを出すとか、そういうことが必要だった。

 それで、ぼくらは完全にレコード制作に集中することにした。だからアルバムを作るまでは、ライブ活動はまったくストップしていた。

Q:その谷間の家にはどのくらい住んでいたのですか?

TP:しばらくの間。ぼくはバーバンクの小さなゲストハウスに引っ越した。文字通り、部屋二つにバスルームつきのゲストハウスだよ。ぼくと最初の妻と一緒に。
 ぼくらはそっちに引っ越して、エンシノにあったレオン・ラッセルの家へ通った。レオンがツアーにでているときは、ぼくが彼の家のルスを預かるために、移ったんだよ。だからぼくは二部屋の家から、大きなお屋敷に通ったんだ。
 ぼくとレオンの出会いはそんな具合だった。彼がツアーにでている間、ぼくが彼の家を維持するのさ。悪い仕事じゃなかったね。

Q:前の奥さんのジェーンとは、LAで出会ったのですか?それともフロリダで?

TP:ジェーンとはフロリダで出会った。彼女に最初に出会ったのは、彼女がトム・レドンとのデートでライブに来た時じゃないかな。彼女とはこっち(LA)に来た年に結婚した。74年だ。ぼくらはカリフォルニアに来る1週間前に結婚したんだ。
 ロサンゼルスに移ってから、彼女に妊娠したと言われた。ぼくの最初の子供,エイドリアが生まれたのは、9ヶ月後。ぼくらが結婚したのはジェーンが妊娠したからだと思っている人が居るけど、そうじゃないんだ。ぼくらは妊娠を知らなかったんだ。
 ぼくらの結婚生活は長く続き、82年にはもう一人、キムが生まれた。
 家族が一緒にすごすのはとても大変だった。ぼくは出かけてばかりだったからね。あのころ、ぼくは本当に多忙だった。

Q:長い間ツアーに出て娘さんたちと離れるのは辛くありませんか?

TP:ぼくはすごく若かったから、どうすれば良いのか分かっていなかった。その場しのぎでどうにかしていた。
 ぼくはラッキーだよ。あれほど素晴らしい子供たちを得たんだからね。あの子たちはいつも陽気で明るく、良くしてくれる最高の子供たちだ。とても助かっている。
 ぼくは長い間不在でも、できるだけ良い父親であろうとした。しかし、かなり大変だよ。結婚生活の継続と、ロックンロール・バンドの両方は、特に成功したバンドともなると難しい。

 ぼくは完全に機能不全に陥ってしまった家庭で育ったから、家族って言うものを熱望していた。マイクも同様だと思うな。マイクもぼくも、子供の頃、本物の家族ってものを持っていなかった。マイクは壊れてしまった家庭から出てる。あいつも、ぼくと同じ年に結婚したと思うよ。今でも、その彼女と一緒だ。
 ぼくは一種の、誰かが家に居てくれる、安定感のようなものを求めていた。

 レオンの家で過ごした後は、元来た道を戻った。トラベロッジ・ホテルの一室に住んでいたんだ。そのころには、赤ちゃんが生まれていた。ぼくはエイドリアを実際に、引き出しに入れていた。引き出しを引っ張りだして、そこに彼女を寝かしていたんだ。
 しばらくジェーンとエイドリアがフロリダに戻っていた間、ぼくは一人で過ごして、うちひしがれていた。それからウィノナに越したんだけど、それこそ、ハリウッド・ブルバードのどん詰まりだった。シェルターとは道を挟んだ反対側で、ぼくはそこにしばらく住んでいた。

Q:(ジェーンとエイドリアの)二人は、どうしてフロリダに戻ったのですか?

TP:金がなかったからさ。ぼくは家族を養えなかった。子供も居るのに。ぼくには金がなかった。ぼくはこんな状況では暮らしたくなかった。モーテルなんかでさ。どうやって食えば良いのかさえ分からない。
 それで二人はフロリダに戻って、ジェーンの家族としばらく過ごすことにした。長期間ではないけど、しばらくぼくはこっちで一人で働いていた。

 少し金ができると、レオンの家から遠くないところにアパートを借りた。エンシノにね。レオンが住んでいたから、ぼくはエンシノには詳しい。あそこを拠点にしていれば、レオンの仕事場にも行きやすい。
 小さなアパートを借りたのだけど、とにかく金はない。でも悪くない人生だと思った。ぼくは文句は言わなかった。

Q:レオンはあなたを、歌詞制作として雇ったのですか?

TP:うん。ぼくは彼の出版部門と契約したんだ。彼はぼくの曲を聞いて、曲作りの時はいつでも歌詞を書くためにぼくを呼び出せるようにしたかったんだ。
 レオンは自分自身のスタジオで毎日たくさん録音しているような生活を送っていた。レオンにはものすごく感謝している。彼がぼくに、ありとあらゆるものを観察する機会を与えてくれたのだから。たくさんの人たちが働く姿をね。いろんな人に会ったよ。
 その中の何人かはすごい有名人たちだった。そういう人たちの仕事を観察できたんだ。
 ぼくはあそこで、それほど曲づくりをしていないと思う。何度も仕事をするために一緒に座ったなんてこともなかったと思うし。ごくたまにはしたかな。
 でも、結局はなにも出来なかった。成果は何もなかった。1時間は座り込んで詞を書いていたんだけど、何も出来そうになかった。
 むしろ、ぼくはずっと家を眺めていたんじゃないかと思うんだ(笑)。

Q:そういう期間は、どれくらい続きましたか?

TP:1年。それくらいかな。

Q:レオンのことは好きでしたか?

TP:ああ。ぼくが住んでいたハリウッドの小さなモーテルに、車で拾いに来てくれたんだ。

Q:ウィノナに?

TP:そう。これまた売春宿みたいなところなんだ。レオンはぼくをロールス・ロイスで迎えに来てくれた。ロールス・ロイスなんて乗ったこと無かった。そんなことがしばらく続いた。
 レオンはアルバムの曲それぞれを、違うプロデューサーで作っていた。ぼくはその人たち皆に会えたよ。ブライアン・ウィルソンにも会ったし、家にも行った。それから、テリー・メルチャー。そしてジョージ・ハリスンに、リンゴ・スター。

Q:ジョージとリンゴに会ったのですか?感動したでしょう?

TP:そりゃもう、ぼくはゲインズヴィルから出てきたばっかりのおのぼりさんで、それがあのビートルズと同じ部屋に座っているんだから!ジョージは本当にぼくに良くしてくれた。ずっと後で会った時と同じようにね。ぼくにダーク・ホースTシャツをくれた。とにかくあの時は、心躍ることだらけだった。

Q:そのうち、車が必要になってきましたか?

TP:そうだな。ぼくはレコード契約をしたときに、車を買った。ぼくらみんなが買ったよ。全員で1万ドルもらったから。ぼくは2000ドルもらって、オパルGTを買うのに、1800ドル使った。とても古い車だったけど、ぼくにはそれが精一杯だった。マイクはカルマン・ギアを買った。あれらがぼくらにとっての、最初の車だった。自分の車が持てて本当に嬉しかったな(笑)。

 そのうちシェルターは、マッドクラッチをビレッジ・レコーダーに連れて行って、そこでレコードを作ることにした。
 あのとき、ぼくらはレコーディングについて何も分かっていないと思い知った。ライブではどうすれば良いか分かっていたけど、録音に関してはぜんぜん分からなかった。ぼくらが思うほど、簡単につかめるものではなかった。
 コーデルはぼくらに対して、とても辛抱強かった。彼はぼくらに練習をさせてから、連れて帰った。
 こうしてとても良く録音できたものが、シングルとして出ることになった。"Depot Street" と、"Wild Eyes" がそれだ。すごく良くできた録音だったよ。

 でもシングルが出る前に、コーデルはぼくらををタルサに送り返した。
「タルサに行かせるから、2週間スタジオにエンジニアと籠って、学ぶべきことをしっかり固めてこい。」ってね。
 それで、ぼくらはタルサへ行った。そこでエンジニアと何週間かとどまった。そして、どのようにして録音をするのか、勉強したんだ。

Q:タルサに戻るのは、嬉しかったですか?

TP:いや、そうでもない。あまりタルサには行きたくなかった。でも、毎日スタジオに行くことに集中した。それがやるべきことだった。
 そして、コーデルがぼくらをチェックしに来るんだ。ぼくらを観察し、ぼくらのレコード作りのプロセスを見ていた。彼はぼくらぼやり方を気に入ってくれたよ。

Q:タルサに行ったときは、自分で録音を学んだのですか?

TP:エンジニアが居たんだ。スタジオ付きのエンジニアがね。彼はぼくらに、どうすれば良いのかをたっぷり教えてくれた。このサウンドはどう作ればよいのかとか、あれやこれや。
 オーバーダビングもかなりやったな。自分の声をオーバーダビングするのには、いわゆる「技」を要するんだ。役者みたいなことをするのさ。そういうときに、自分をしっかり保ち、自分を再構築していくんだ。

 勉強のために、トライ・アンド・エラーの連続だった。そういう機会を与えてくれたコーデルにはとても感謝している。多くのバンドにはそんなチャンスはないからね。普通は、スタジオにただ放り込まれて、6週間で出来ることをやるだけ。
 でもぼくらは、しっかりトレーニングされたようなもんだ(笑)。きちんと勉強できるけど、特に金になるわけではない。かと言って費用がかかるわけでもないので、時間をたっぷりかけてもらえるチャンスを得たんだ。素晴らしいことだよ。

Q:では、タルサに戻ったのは、良いことだったのですね?

TP:そう、最高だった。スタジオはレコード会社が所有していたから、ぼくらのために金を使うこともない。違う町に行ってそこで生活するというのも、またちょっとした冒険だったね。

Q:2週間のタルサでの仕事で、レコーディング技術をマスターしたわけですか?

TP:「マスター」っていうのは、大袈裟だな。ぼくらは「成長した」ってところだよ。長い過程を経てね。いつでも、レコーディングに関しては何かしらを学び取るものだ。
 今じゃすっかり熟練しているね。録音っていうのは、ちっとも難しいことじゃない。ぼくらはスタジオでどうすればよいのか、きちんと分かっている。

Q:でも、最初は大変だった?

TP:そうだな。あっちからこっちまでの間隔で、どうサウンドをものにしていくのかを学び取らなければならない(笑)。
 たいていの人は、ライブでの演奏とレコーディングは違う種類の芸術だってことを、理解していないんだ。ちょっとした挑戦だった。実際は、かなり大がかりな挑戦だったのかな。でも、ぼくらは楽しんだよ。
 ぼくなんかは、いかにして録音するのか、それ(プロセス)にすっかり魅了されてしまった。いったん、録音作業をやめたとしても、あまりの事に、またインスパイアされて、もっと何かを作りたくなってしまう。
 でも、録音をしたり、それを良くしていく作業の最中は、きついものだった。

Q:いかにしてモノにしていったのですか?何が問題だったのでしょう?

TP:レコーディングをすると、マイクロフォンからのノイズをうまく扱わなきゃならいって思い知る。大きなアンプを通して演奏すれば、ライブで演奏しているようになるし、そういうときはたいがいマイクをオフにする。
 レコーディング技術の多くは、アレンジをするのにどうスペースを使うか、どう演奏を休むかを学習することなんだ。
 ライブの時は、録音の時よりも、余計に演奏しがちだ。音楽にひと呼吸持たせたり、ダイナミズムさを持たせるために、間を空けることも必要なのさ。
 それは、過剰な演奏をするよりも、必要のない物が何かを学び取るようなものだ。
 もしくは、真にポップな物を作り上げるためのアレンジであったりもするかな?何せライブとはまったく異なる技術だから。別物なんだよ。その点では、ぼくらは上手くやった。
 でも、いかにしてスピーカーから思い通りの音を出すかに関しては、僅かしか分かっていなかったんだ。

Q:タルサにはどのくらい居たのですか?

TP:たぶん、2週間かな。そんなに長期間ではなかった。このときはまだマッドクラッチだった。ハートブレイカーズ結成は、マッドクラッチ解散後の、翌年だった。マッドクラッチは魅力を失っていた。アルバムも作ったけど、発表されることはなかった。

Q:全曲あなたの曲のアルバムだったのですか?

TP:何曲かはベンモントのだった。レコードは作ったけど、完璧にハッピーではなかった。
 それで、まずはシングルを出そうって話に戻った。それで、そのシングルでいくらかの手応えがあれば、アルバムを作ろうと。でも、シングルでは何も手応えをも得られなかった。

Q:それが"Depot Street"ですか?(1975年発売。B面 "Wild Eyes")

TP:うん。そしてぼくらはすっかり幻滅してしまっていた。ぼくにはこれ以上、どうにもならないと分かっていた。ものすごくフラストレーションがたまった。
 それでぼくは宣言したんだ。「俺はもうやめる」ってね。
 ぼくはマイクの所に行って言った。
「俺がバンドをやめたらお前、俺と一緒に来てくれるか?」
 するとあいつは「うん」と答えた。それで、(マッドクラッチを)やめたんだ(笑)。

Q:マイクと一緒に新しいバンドを作ると言うことを意図して言ったのですか?

TP:うん。はっきりしていたわけじゃないけど。ともあれ、コーデルはぼくにレコードを作らせたがっているのは分かっていた。
 それに、ぼくはマイクには一緒に居てほしかった。ともあれ、ぼくがソロ・アーチストになると言うのも、一つのアイディアでもあった。

Q:そのアイディアは良いと思いましたか?

TP:いや。ぼくはずっとバンドに所属していたからね。グループの一員であり続けたんだ。ぼくらは互いにサポートし合ってきた。今でもそういうのが好きなんだ。これまでやってきた事の全てが、バンドの仕事だったと思っている。
 バンドを雇った、独りぼっちのアーチストにはなりたくなかった。一緒に行動する、バンドの一団の一人でありたかった。
 だから、ソロアーチストになるというアイディアについては、決して居心地の良いものだとは思っていなかった。長くは続かなかった。何回かセッションはしたけど、気に入らなかった。
 来てくれたのは、みんなすごいミュージシャンばかりだったけどね。ドラムにジム・ゴードン、オルガンにアル・クーパー、そから、マイクがギター。すごく格好良かったよ。

 でも、ぼくはローリング・ストーンズや、バーズのようなバンドが良かった。いつでも一緒に仕事をする顔ぶれが欲しかった。ソロとしてのシチュエーションになった事もなかったし。ずっとバンドの一員だった。
 だから他のやり方はまったく理解していなかった。それで良かったんだと思うよ。一人っきりでやり通すアーチストじゃなくて良かったんだ。一緒にいてくれる友達がいるって事が嬉しいのだから。

Q:方向性を見いだすのは困難でしたか?ソロ・アーチストになる関して、シリアスな考え方をしていたのでしょうか?

TP:そうだな。マッドクラッチが解散して、次のことを始めたとき、ぼくは思った。「クソっ、俺は何年もマッドクラッチにエネルギーを注いできたんだ。バンドが解散して、俺には何もできやしない。俺が何者かも、誰も知りやしないじゃないか」ってね(笑)。
 デニー・コーデルは、ぼくをソロアーチストにしようと、せっ突いていたと思う。何回かセッションをしたことについては、オーケーさ。素晴らしいミュージシャンたちとセッションをして、それはそれで良かった。
 でも、ぼくがなじんできたやり方とは違った。

 ある日、ぼくがビレッジ・レコードにやってくると、ハートブレイカーズが演奏していた。ベンモントが連中を集めていたんだ。(ラインナップは、キーボードのベンモント・テンチ,ベースのロン・ブレア,ドラムのスタン・リンチ。同じくドラムのランダル・マーシュ。ギターのジェフ・ジョウラード)
 ぼくはたちまち魅了されてしまった。そうさ、これこそ我が家だ。ぼくが居るべきは、このバンドなんだ。それでぼくは大急ぎで、連中に一緒にやろうぜと、一席ぶった(笑)。そう、ぼくの演説はこうだった。
「俺にはレコード契約がある。みんな、レコードレーベルを探しているんだろ。それなれなら俺と一緒にやろうぜ。」
 みんな、ぼくのことを知っている連中だったし、即決で一緒にやることになった。

 ベンモントはソウル・バンドのいくつかにも所属していた。あいつはビレッジ・レコーズで躍起になっていて、自分自身のデモを作ろうとしていた。それで、ハートブレイカーズ ― みんなゲインズヴィルから来た連中と一緒にやろうとしていた。
 スタンはゲインズヴィルから来ていたし、ロン・ブレアやランダル・マーシュも然りだった。全員かどうかは覚えていないけど、とにかくハートブレイカーズはそこに存在していたんだ。
 実際、ぼくが興味をそそられたのは4人、ベン、マイク、スタン、ロンだった。それで、ベンはぼくをハーモニカ要員として呼び寄せたんだ(笑)。ぼくはここ(マリブ)のすぐ外に住んでいて、そこはデニーの家とは通りを挟んだ向かい側だった。
 奇妙なものだよね。デニーがぼくに、連中がサンタ・モニカに居るから、あっちにとどまってハーモニカを吹かないかと言う。そりゃ行くさ。

 そんなわけでぼくは車で駆けつけて、自分のハーモニカ・パートを演奏した。それからハートブレイカーズの演奏を聞いた。思ったね。「畜生、こいつは最高だ!」
 ぼくはデニーの所に行って、ゲインズヴィルから来た連中のバンドはマジで最高だと言った。そうしたら、デニーが答えた。
「オーケー、じゃあ連れてこい。見てやろうじゃないか。」

 ぼくらはおっかなびっくりだった。最初のセッションをしたけど、その時はスタンではなくて、ジム・ゴードンがドラムを叩いた。ぼくらはファースト・アルバムに入っている "Strangered in the Night" をやった。それから、ぼくらはスタンリーを入れてやった(笑)。
 コーデルがバンドの演奏を聞いたとき、彼は全てが気に入ったようだった。
 ぼくらはルックスも良い子揃いだったし、ぼくらをその線で売り出せると考えた。実際にそういうことになった。それ以来、ぼくらはずっと一緒にやることになる。

Q:あなたはソロとしてのアルバムを偉大なミュージシャンと一緒に録音したわけですが、サウンドは凄かったことでしょうね。

TP:うん。ボックス・セットにちょっと入っている曲なんかが、それにあたるね。"Louisiana Rain" なんかは後になってやったけど、歌詞が少し違っている。
 サウンドは素晴らしかったけど、ぼくは根っからのバンドマンだった。ずっとグループの一員だったし、5人一緒にやるほうが、やる気をそそられた。
 それに、その5人とずっと一緒に続けて、どんな物が作り出せるのかに興味があった。その方が、良いミュージシャンをかき集めて、プロジェクトごとにバンドを作って録音をするよりも面白いと思えた。
 多くのひとがそういう手法を取っているけど、ぼくには5人の異なったキャラクターが、ある一つの枠組みのなかで取り組む方が、よりやりがいのある創作に思えた。良し悪しはあるだろうけどね。

 何事につけても、誰にとっても弱点というものはある。ジム・ケルトナーを呼び寄せてドラムを叩いてもらうようには、上手くは行かないようにね。
 でも、それとは別種の魔法を起こすことだってできる。本当に親しいひとが一つになって一緒にやる時なんかにね。

Q:コーデルはこれで固まったとは思っていなかったのでは?

TP:ぼくらはまだしっかりしていなかったし、まだまだ小僧っ子だった(笑)。それにコーデルは一流の連中とずっと仕事していたからね。ぼくらはまだガキで、子供の遊びみたいに見えたろう。
 ぼくらがダック・ダンにベースを弾いてもらって、"Hometown Blues" をやっている時なんて、ちょっとおかしな感じだった。コーデルはそうやってぼくらに、ダック・ダンやアル・ジャクソンのような偉大なリズムセクションの仕事を聞かせようとしていた。チャーリー・ワッツに、ビル・ワイマンだろ、そりゃものすごいリズムセクションさ。

 ぼくらはコーデルと一緒に、たくさんのセッションを聞いた。セッションはまず、1時間ほどレコードを聞くことから始まった。
 コーデルが言うんだ。
「この人の演奏をよく聴けよ、こいつに耳を傾け、どうプレイしているのかを聴け。それに、どうアクセントをつけているのか、良く聴くんだ。」
 こうやってぼくらは学習していった。たぶん(笑)。

Q:ベースにロン・ブレアが居ましたね。ベース・プレイヤーとしての彼は好きでしたか?

TP:ああ、ずっと大好きだったよ。ロンのベースはすごく良かった。今と同じようにね。よく練習して、曲をよく勉強するんだ。
 ロンが、状況に興醒めして、身を引いてしまうまでは、本当に素晴らしかった。あの当時のことは、ロンにとっては凄まじ過ぎたんだよ(笑)。彼が望んだ人生よりも、荷が重すぎた。

Q:そして、ドラムにスタン・リンチ。

TP:そうそう(笑)。

Q:スタンに対する第一印象はどんなものでしたか?

TP:スタンね。スタンの印象だけで、本が一冊書けるよ。
 スタンは別の、知り合いのまた知り合いみたいなバンドに居た。ぼくらよりもやや若くて、ジェフ・ジョラードの弟である、マーティ・ジョラードのロード・ターキーって言うバンドで、こいつは後にザ・モーテルズに入った。
 ロード・ターキーって言うバンドはマーティ・ジョラードとスタンのバンドのことで、よくマッドクラッチと一緒にギグを設定されていた。ある夏の間中、(ゲインズヴィルの)ザ・ケグっていう所でマッドクラッチと一緒に彼らのギグもやっていたことを覚えているよ。双方とも、夜に2セットやったんだ。
 それで、そのころからぼくはスタンを見知っていたんだ。

 スタンはぼくらより少し年下だった。でも凄く良いドラマーで、しかも熱心によく働く男だった。でも癇癪を起こしやすい性格で、よく消え失せてしまうことがあった。
 ぼくはずっと、スタンは何事にも情熱的なんだと考えていた(笑)。あいつも優しく接したし、愛情も持っていたし、同時にバカなこともした。でも、全てに情熱を持って取り組んでいた。

Q:彼のドラミングが好きだったんですね。

TP:そうだな、スタジオでよりも、ステージ上のスタンのドラミングが大好きだった。彼はまさに、ステージ上の発電所だった。今でもステージで、たまに彼が恋しくなる。それほどパワフルだった。あいつには5速ギアがあって、なにもかもをぶっ飛ばしてしまうと、ぼくはよく言ったものだった。
 その点でスタンは素晴らしかったし、歌をよく理解していた。そして、より良くしようとしていた。

 凄くチアリーダー的でもあった。スタンのパーソナリティーが、ハートブレイカーズにとって大きな要素だった。バンドには、ぼくが居て、そしてスタンが居る。この二者がバンドのメイン・パーソナリティーだった。ほかのみんなは、ぼくら二人とうまくやっていこうとした。でも、スタンには進行中のことに、もの凄い批判をするところがあった。

 スタジオに居るときは、スタンと一緒にやるのは大変なことがあった。厳密には、スタンはスタジオ・ドラマーではなかった。スタンは、プレイを録音から削られるようなことが気に入らなかったから。そんなものだから、まるで子供みたいに、ぼくらはスタジオで喧嘩をした。
 ぼくらは仕事熱心だったし、時々リズムトラックを録音する場合なんかには、熱くなり過ぎたと思う。スタンがすっかり気難しくなってしまったからね。
 でも、言うなれば、ぼくらはガキだったんだよ。今みたいに、完全なるプロではなかったんだ(笑)。ぼくらは(喧嘩をしながら)同時に成長していたんだ。

Q:スタジオでのスタンは「やり過ぎ」だったのでしょうか?

TP:場合によっては、やり過ぎだったかな。

Q:でも、ビートを保つには、しっかりしていたのではありませんか?

TP:うん。スタジオ・ドラマーで居るって言うのは、難しいことなんだ。本当に、本当に難しいことでね。録音作業って言うのは、ドラマーにとっては一番きつい作業だろう。ライブで演奏するのは違うんだ。録音っていうのは微に入り細に入りの作業だから。
 バスドラムのペダルがキーキー鳴ろうものなら、それが大きな音になってしまう。とても込み入った事になるから、ドラマーにとってはハードなんだ。
 それに速さはキープしなきゃいけないし、同時に音楽を感じて、いったんやり損なうと、おじゃんになる。全部がだめになってしまう。

 でも、ぼくらのサウンドはとてもユニークなものだった。思い返してみると、ぼくは何かを変えてしまったとは思わないんだよね。ぼくらのサウンドそのものだったのだから。
 つまり、"The Waiting" だって、スタン以外の誰にもプレイできなかったのさ。誰にもあれほどの演奏はできなかった。同じようにはできないんだよ。
 だからスタンにはスタン自身のスタイルがあるわけで、ぼくらは20年もそれと格闘していたわけだ(笑)。

 とにかく、ぼくらは同時に、兄弟のように互いを愛していたと思う。それでもかなり喧嘩をした。実際には、全員がスタンとは喧嘩になった。

Q:音楽作品についてですよね?

TP:何もかもに関してさ。何を食べるのかとか(笑)。スタンはありのままの言動と、いろんな事に関して混乱気味の男だった。異なる二つの方向に、実に情熱的な人だった。
 スタンと一緒に居ると、なんだか訳がわからなくなってくる。スタンのパーソナリティーって言うのは巨大で、起きることに対してやたらと責任を感じずにはいられなかった。チアリーダーでもあるんだからね。
 誰も悪さはしたがらなかった。スタンに断罪されちゃうからね。だからギグをうまくやってのけるのさ。

 スタンとぼくはステージ上では、素晴らしくコミュニケーションが取れていた。あいつはぼくの肩の動きを読むことができたんだ。ぼくが持っていきたい方向に、向かわせることができた。
 決してぼくから目を離さなかったんだ。今でもスティーヴ・フェローニ(現在のハートブレイカーズのドラマー)とやっていることなんだけど。スタンは決してぼくから目を離さなかった。ぼくがするあらゆる事は、すべてドラム上のアクセントになった。ぼくの動きの全てがだよ。
 ぼくが振り返ってスタンを見たときは、最高のアイコンタクトをしていた。スタンには、まさにぼくが望むことが分かっていた。
 一方、フェローニは、まったく異なるタイプのドラマーだ。今では、ショーの間はぼくから目を離してはいけないって学習してくれている。状況は変化するからね。

 だからさ、とにかくスタンは素晴らしかった。レコードを作る上でとても助けになったけど、それでもあの頃のぼくは全員、今ほどうまくレコード作りが出来ていたとは思わないんだ。
 今ではレコードをどう作れば良いのか分かっている。今だって、実際つくろうとなれば難しいんだ。それでも、今ならレコード作りはそれほど酷く困難ではない。

Q:つまり、スタンはライブ・ドラマーとして、ステージ上の方が良かったということですね?

TP:ああ、まったくさ。まったく。ものすごくパワフルだった。ある意味、キース・ムーンみたいな感じがするね。
 それに歌も上手かった。ハーモニーを歌っていたんだ。ハウイが入る前は、ぼくらのメイン・ハーモニー・シンガーみたいなものだったね。そうさ、ハウイが来る前は、あれほど歌えたのはスタンだけだった。それでたくさんハーモニーを歌っていた。

 スタンについてずいぶん話したね。でも、ぼくがいつでも付き合いやすいタイプの人ではなかったって事を、はっきりさせておきたいんだ。
 人に対して、過剰な要望をすることもあった。人に対して、ステージ上でも、ステージ以外でも、スタジオでもね。今思うと、ぼくは酷くぶっきらぼうだった。すごく感情的だったと思う。自分が馬鹿だったとは思わないけど。ただ、熱くなり過ぎたとは思う。もの凄く。
 どんな場合にしろ、誰が悪いっていう訳じゃないと思う。起こったことに関しては、ほかの人と同じように非難は甘んじて受けるよ(笑)。

 とにかくぼくは熱心になり過ぎで、しかもすごく真面目でもあった。ぼくらはやり遂げなければならなかったんだ。凄いことやってのけなきゃ。そうなると、熱くなり過ぎると言うことも、必要になる。
 とにかく、ぼくが原因だったとは思う。今ではまったく変わってしまった。あの頃に比べると、ぼくは人変わりしてしまったと思うよ。今じゃすごく穏やかだもの。

Q:それは経るべきプロセスだったいう訳ですか?

TP:まぁ、年齢と共にね。少しずつ賢くなっていくもんさ。作品に関しても、少しずつ上手くなっているわけだし。かつてほど、乱暴なやりかたはしていない(笑)。
 娘たちは、この点に関してぼくのことを笑うんだ。あの子たちと過ごしていると、ぼくのイメージについて、笑うのさ。
「世の中の人はパパを穏やかで簡潔な人柄だって思っているけど、実際は今まで会った中で一番強烈で、ノイローゼ気味の人だ」ってね(笑)。

Q:スタンがロン・ブレアを連れてきたのですか?

TP:ぼくらはみんな、ゲインズヴィル時代からの知り合いなんだ。でも、あの場にあのメンバーを集めたのはベンモントだと思うな。

Q:ギターに、ジェフ・ジョラードが居たのですか?

TP:ほんの一瞬だけね。彼もゲインズヴィルから来た。でも、早いうちにこれじゃギター過多だって分かっていたから(笑)。

Q:それで、ハートブレイカーズはあなたがレオン・ラッセルの家に居た頃に集まったのですね?

TP:たぶん。少しの間、ぼくは片足ずつ両方のグループに属していたんだな。でもひとたびハートブレイカーズが結成されるや、ぼくはこっちに専念した。
 レオンとの仕事は自然消滅したようなものだ。ぼくにとって、収穫になるものは、もはや何もなかったからね。レオンのアルバムは仕上がって、またツアーに出ていったし。プロジェクトが完了すれば、ぼくには何も残らない。だから抜けたんだ。

Q:モーテルへ逆戻りですか?

TP:(笑)モーテルへ逆戻り、文字通り(笑)。

Q:すでにザ・ハートブレイカーズという名前はついていましたか?

TP:いや。コーデルが名付けたんじゃないかな。自信ないけど。ぼくが考えたんじゃないと思うよ。あのころは、べつにどうって事も無いって思っていた(笑)。
 ぼくは、「ザ・キング・ビーズ The King Bees」にしたかった。でもキング・ビーズは気に入ってもらえなくて。ぼくは良いと思ったんだよ。ずっと、スリム・ハーポの歌が好きだったからさ。
 「ザ・ハートブレイカーズ」がどこから出たのかは、良く分からない。マイクはコーデルが言い出したと思っているな。
 「ハートブレイカーズ」が出ると、みんな「キング・ビーズ」よりも気に入ったので ― いや一部の連中だけかな。とにかく、そのままになった。

Q:はじめからずっと、「トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ」だったのですか?

TP:「トム・ペティ」で行くことになっていた。マッドクラッチの二の舞にはしたくなかったんだ。あのやり方だと、誰もぼくが何者か分からない。
 でも、ぼくの名前を冠することによって、少なくともみんなぼくが何者かは分かるだろう。ぼくはバンドの前面に立つ。ぼくは言ったんだ。「いいか、俺の名前なしではやる気ないからな。こうでなきゃいけない。俺の契約なんだから。」そうしたら、みんなはそりゃそうだと考えた。
 ロジャー・マッグインが、すごくスマートだ、って言っていた。
「バーズでもそうすりゃ良かった」とね。「ロジャー・マッグイン&ザ・バーズにしていたら、ぼくのキャリアもずいぶん違っただろうに。」
 ぼくは「ザ・バーズ」だって十分クールだと思うけど。それなりの理由があるんだろうし、みんなそれで納得していたんだ。とにかく、(このバンド名は)ぼくがシンガーであり、ライターであることが良く分かる。

Q:コーデルがあなたに音楽についてたくさんのことを教えてくれたそうですね。

TP:うん。毎日6時なると、ぼくはシェルターのオフィスに行った。あそこの仕事は6時に終わる。それから、コーデルは自分のレコードを持ち出して、ぼくに音楽の歴史を教えてくれた。
 ぼくらは夜通しレコードをかけたよ。毎晩ね。あらゆる種類の音楽だ。ロイド・プライスから、ボ・ディドリーまで。ぼくはあまりレコードを持っていなかった。買えなかったから。レコード・プレイヤーさえ持っていなかったので、コーデルがぼくに一つに買ってくれた。それでたくさんのレコードをかけさせたし、貸してくれもした。
 そんなことが2、3年続いた。ぼくらは毎日6時に会ったんだ。それから日曜日なると、ここマリブにあった彼の家に行って、コーデルと長い時間を過ごした。そしてやることは同じ。一日中レコードをかけるんだ。

Q:全くをもって、教育そのものですね。

TP:まったくさ。コーデルは素晴らしい人だよ。彼には何かがあった。英国紳士であり、その一方で海賊みたいな一面もあった(笑)。
 そして、彼は音楽ってものをよく理解していた。実に正確にね。コーデルはぼくの全人間性の形成にすごく影響を及ぼしていると思うよ。

Q:コーデルが、あなたをアート・ショーに連れて行って、アートと音楽の関連性を考えろと言ったのは本当ですか?

TP:ああ。参っちゃうよ。スタジオ仕事を休んで、アート・ショーに出かけたのを覚えている。
 ぼくにはうまく考えをまとめることが出来なかった。帰って録音作業に戻りたかったよ。そうしたらコーデルが言うんだ。
「だめ、ここに関連性があるんだ。よく考えてみろ」ってね。彼は凄く謎めいた人だった。とても謎めいた話し方をする。彼が言わんとすることを理解するために、ちょっと考えさせる(笑)。
 コーデルはハートブレイカーズの全性格を作り上げたのだと思う。ぼくらに巨大な影響を及ぼしたに違いない。だからぼくらは、彼に大きな借りがあるんだ。

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Chapter 3 anything that's rock 'n' roll

Q:最初のアルバムが、[Tom Petty & The Heartbreakers](1976)で、次のアルバムが [You're Gonna Get It](1978)です。あなたとマイク・キャンベルはそのとき一緒に曲を書いていたのですか?それとも、もっと後になってのことですか?

TP:もっと後のことだ。マイクはずっと、自分の演奏するバッキングパートを作っていたし、テープに合わせて演奏していた。
 (デニー・)コーデルが、マイクとぼくに一緒に曲を作ってみろと提案したのだと思う。それがうまく運ぶようになるのには、時間がかかった。最初のアルバムには、ぼくらが一緒に書いた曲は一曲しか入っていない。"Rock' Around (With You)" って曲だな。あれはマイクが作った短いリフが元になっている。それでぼくがあとの歌の部分を作った。ともあれ、マイクがこの曲のインスピレーションをもたらしたんだ。
 それから、次のアルバムには、マイクのが一曲か二曲入っているんじゃないかな。でも、本当に彼の才能が花開いたのは、[Damn The Torpedoes]だ。これぞ、マイクが信じられないほど素晴らしい曲を持ち込んだ瞬間だった。"Refugee", "Here Comes My Girl"。あれが、彼の才能の開花期だった。

Q:ベンモントも曲作りを続けたがっていましたか?

TP:そうだな。ただ、合うような曲を持ち込むことは出来なかった。でも、良いライターだよ。ベンモントはいろいろな人に、たくさん良い曲を提供している。でも、ぼくらが一緒に曲作りをするということはなかった。

Q:最初のアルバムを作るのには、苦労しましたか?

TP:アルバム作りのために、良い曲を十曲選び出すのに、時間がかかって大変だった。試行錯誤だったな。かといって、[Damn The Torpedoes] のように苦労したという感じはしない。[Damn The Torpedoes]は本当に、本当に形にするのが大変だったから。最初の二作品はそれほど大変ではなかったと思うよ。

Q:あの二作品のプロデュースは、デニーですね。

TP:あの二作品は、雰囲気があったね。両方とも、かなりファンキーな、シェルター・スタジオで録音した。ジミー・アイヴィーンと仕事をするようになってからは、サウンド・シティに移動した。ぜんぜん世界がちがった。ぼくらはなにかでかいことをやってやろうとしていた。いままでに、だれもやったことのないような事を、やってやりたかったんだ(笑)。

Q:最初のアルバムには、いくつか素晴らしい曲が入っていますね。"American Girl" に、"Breakdown" が入っています。

TP:両方とも、長年にわたって生き続けている曲だなんて、奇妙だと思わないかい?ぼくはこんなことになるだなんて、夢にも思わなかった。
 録音していたあの頃、三十歳以上のロックスターなんて多くはなかった。それほど長続きするものとは思わなかったろう。
ぼくの夢と言えば、レコード・プロデューサーになる勉強が出来れば良いな、程度だった。すっかりやり尽くしてみたら、ぼくはプロデュースができるようになっていた。ほんとうにこれは、ぼくにとって最終目標だったんだ。レコード・プロデューサーになるか、ソングライターになるのがさ。
 ぼくらの活動が長期にわたることになるだなんて、全く考えていなかった。あの頃は、五年も持てば、上々だと思っていた。年を取ってからも続けるとは思わなかった。あの頃の曲が今も生きているし、未だに聞くたびに凄いって思う。こうなるとは、夢にも思わなかった。ぼくのコントロールの限界を超えていたよ(笑)。

Q:ファースト・アルバムには "Hometown Blues" が入っていますね。

TP:うん。ぼくがレオン・ラッセルのエンシノの家の管理をしていたときに、彼の家で録音したものだ。曲を書いて、ぼく一人で録音した。たしか、マッドクラッチのドラマーのランダル・マーシュにきてもらって、刻んでもらったんだと思う。ぼくがシンバルを少し叩いているんじゃないかな。
 想像できるかい?エンシノのばかでかいお屋敷のばかでかいスタジオに、ぼくらが居る図なんて。そこで、使い回しのテープか何かを使って、何か曲を作ろうとしていたんだ。

Q:エンジニア仕事のやり方は分かっていましたか?

TP:よく分かっていなかった(笑)。でもどうにか録音して、ドラムを入れたんだ。その後、この曲はハートブレイカーズができるまで放置していた。マイクとぼくがギターを弾いている。
 ある晩、ぼくらがサウンド・シティ・スタジオで作業していると、デニーがダック・ダンと、スティーヴ・クロッパーを連れてきた。それでこう言ったんだ。
「やぁ、入って。これを聞いてくれ。」
 それでデニーが録音を流した。あの二人はとても気に入ってくれた。そしてダックが座り込んで、ベースパートを弾き始めた。それから、クロッパーが変わったコードで引っ張っていった。「戻って、先へ!」…みたいにね。そうして、ダックがベースパートを入れて、一緒に全体を作り上げた。それ以来、ぼくらは良い友達になった。そう、ダックは、ぼくにとって最高のアイドルのひとりだ。今までに会った中でも、最高のミュージシャンの一人さ。それから、ブッカーTや、その仲間も大好きだ。こうして、この曲はできあがった。

Q:最初のアルバムをリリースして、ツアーに出たのですか?

TP:そう。ぼくらはイギリスに行った。ファースト・アルバムは、最初にイギリスでヒットしたからね。アメリカが追いつくには一年かかった。ぼくらには長く感じられたけど、今にしてみれば、それほど異常なことでもなかった。
 それでも、あの頃は、失敗したんだと思った。アメリカではウケなかったから、失敗だと思ったんだな。都会ではウケていた。サンフランシスコや、ボストンとかね。その人気が広がるには、時間がかかった。でも、イギリスでは、いきなり大ヒットになったんだ。
 それでぼくらはイギリスに行った。あっちでは、飛行機でも報道陣に囲まれたりして、まさにロックンロール・スターだった。ほんとうに、どえらい騒ぎだった。ぼくらは呆然としてしまったよ。ツアーをしたら、女の子たちはキャーキャー言うし、イギリスではヒーロー扱いだった。
 その後、アメリカに帰ってくると、突如そのレベルから突き落とされたわけだ。

Q:イギリスでは、"Anything That's Rock 'n' Roll" が大ヒットしたのですね。

TP:うん。「トップ・オブ・ザ・ポップス」にも出演したよ。あれは凄かった。それから、あっちではニルス・ロフゲンのサポート・グループもやった。そんなわけで、彼とはイギリスに居る間、しばらく一緒だった。それで、帰国するまで、ぼくらがヘッドライナーをつとめた。だからイギリスにいる間中、ずっと一緒だったな。
 帰国してから、「メロディ・メーカー」の表紙になったり、そういうのがあったので、イギリスでのヒットの影響がこっちにも出始めたんだと思う。それで、サンフランシスコや、ボストンあたりで、ヒットし始めた。かなり熱かったよ。

 イギリスに行く前、アル・クーパーがソロ・アルバムを作っていて、彼のクラブ・ツアーの前座をやらせてくれた。その時にフロリダにも行って、バーとか何軒かで演奏した。さらにサウス・カリフォルニアに行き、キッスの前座もした。なんだか変だよね。さらにアル・クーパーのツアーに合流して、六、七都市を回った。真冬だった。自分のことは自分で、っていう感じのツアーだったな。
 四つめのギグは、ボストンだった。ポールズ・モールという場所だったんだけど、お客さんはバーに九人か十人程度しかいなかった。ラジオ曲のWBCNがこの時のギグを録音し、さらにライブで放送していた。それを元に、ブートレグが作られた。すごく良いんだよ。今、聞いているんだけど最高だ。笑えるのは、最高に興奮した曲の演奏が終わるとこんな…(ゆっくりと手を叩く)まばらな拍手しか聞こえない(笑)。でも聞いたときには、大昔の音とは思えなかったな。参ったな、俺ら最高じゃんって思ったよ。あの頃のぼくらは本当に良かったから、それにみんなが気付き始めたのは、当然だよ。

 ツアーに出る前、ロサンゼルスだとリハーサルをするにも高くつくから、フロリダに移動した。フロリダでアパートを二軒借りて、全員でそこに住んでいた。それから、倉庫も借りていた。毎晩その倉庫に通って、練習した。だからツアーに出るまでに、ぼくらはどんどん結束が固くなっていった。
 でもそれはイギリスに行く前の話。イギリスに行ってから、大ヒットになった。そうして、LAのラジオ局KROQで、ぼくらの曲が流されるようになった。ぼくらは言わば地元バンドだった。そのころ、ニューウェーブは起こり始めていた。KROQでは、”American Girl” が流れた。それから、ウィスキー・ア・ゴーゴーでギグをやった。ウィスキー・ア・ゴーゴーではかなり頻繁にギグをやった。ここから大爆発したわけだ。ロバート・ヒルマン(ロサンゼルス・タイムスの音楽評論家)が来ると、ウィスキーでのショーを見て、良いレビューを載せてくれた。ここから、本当に始まったんだな。
 ツアーにもいくらか出たよ。ロジャー・マッグインが持ってきてくれたツアーもある。彼はすぐに ”American Girl” をカバーしてくれて。それで、一緒にツアーをすることになった。一緒に大学ツアーをしたんだ。ニューヨークでは、ボストンラインで演奏した。それから事がうまく運ぶようになった。それから立ち止まることはなかった。

Q:ニューウェーブの時代でしたね。でも、あなたはニューウェーブのいかなるスタイルにも追随しませんでした。

TP:ニューウェーブはぼくらが発明したようなもんだろ(笑)。1977年のイギリスでは、ちょうどパンクがはやっていた。ほんとうに、まさに盛り上がっている最中だった。ザ・セックス・ピストルズとかね。ライブを見に来たザ・セックス・ピストルズに、会った覚えがあるよ。それから、エルヴィス・コステロも。
 でもぼくらはそういうジャンルじゃなかった。かなり混同されたけど。時々、「パンク・グループ」なんて分類されて。そういう人たちは、ぼくがレザージャケットを着ているのを見たのがまずかったんだ。それに、フリートウッド・マックみたいに大きな編成のロック・バンドじゃないと、みんなどんな事をしているのかも分かってもらえない。とにかくぼくらは小編成だ。でもパンクでもない。だからみんな、ぼくらをどう分類すれば良いのか、分からなかった。しばらくは、「パワー・ポップ」って呼ばれていた。
 とにかく、あの頃ニューウェーブはとても人気があって、ぼくらも多分その上に乗っかっていたのだと思う。ぼくらにはぼくらのアイデンティティがあった。実際、ただのロックンロール・バンドだった(笑)。でも、当時の聴衆にとっては、シンプル過ぎたんだ。
 スカンジナヴィアに行ったとき、あるアルバムを目にした。一方の面はザ・ラモーンズで、もう一方の面がぼくらだった。そして、ザ・ラモーンズや、ブロンディ、パティ・スミスと一緒にショーをやった。1978年にツアーをしたときは、ザ・キンクスと一緒だった。いろいろと違うグループと。ぼくらはたくさん前座をこなしていた。

Q:パンク・ミュージックは好きですか?

TP:一部は好きだよ。家で流したいって程じゃないけど。ザ・セックス・ピストルズは好きだ。今になって聞いてみると、なんというか脱力系で笑えるけど。あのころは、あれが最先端だと思われていたんだ。ぼくらは古い音楽の方が好き。カール・パーキンスとか(笑)。

Q:ロサンゼルスに帰ってきたとき、あなた達を真似たバンドがいくつもあったそうですね。

TP:そうなんだ。あれこそびっくりだよ。自分の真似をしている連中を目にするなんて、変な気がする。とにかく、そういうことになっていた。

Q:ファースト・アルバムがヒットするに至るには一年ほどかかったようですが?

TP:うん。発表したのが1976年の暮れで、1977年に ”Breakdown” が最初にトップ40に入った。それからレコードが売れ始めて。あれは凄かったな。そのころ、すさまじく忙しかった。ほんと、まじで忙しくて。ツアーが。
 あの頃は、写真撮影も多かった。まだMTVとかそういうのが無い時代だったから。撮影はぜんぶ、音楽雑誌向けだった。そんなこんなで、べらぼうに忙しかった。ぼくが覚えているのは、ずっとかけずり回っていたって事だ。とにかく超ギュウギュウのスケジュールをこなしていたんだから(笑)。

Q:その状況を楽しんでいましたか?

TP:うん。好きだったよ。ぼくは受け入れていたな。疲労困憊にはなるけど、若ければすぐに回復するし。それに凄いことだったし。ぼくらはいつも夜じゅう働きづめだった。

Q:1978年にセカンド・アルバム、[You’re Gonna Get It] を出したとき、何か違うことをやりたかったそうですね。ファースト・アルバムのフィーリングをそのまま繰り返したくはなかったのですか?

TP:ぼくらは本当の意味で成功したかった。その一方で、すこし手を広げてみたくもあった。何度も同じ事を繰り返すタイプのバンドではなかったからね。だからちょっと違うことにトライしてみたかった。それでも、アルバムはかなり早くできあがり、それがセカンド・アルバムになった。
 実のところ、アルバムを出す必要は無かったんだ。どうしてあんなに焦っていたのかな。同じ曲ばかり演奏するのに、退屈していたんだと思う。セカンド・アルバムを出す頃になっても、ファースト・アルバムはよく売れていたから。それで、ぼくらはもう一枚アルバムを作らなきゃって焦って、ものすごい勢いで作り上げた。曲を書くのも早かったな。いま振り返ってみると、もっとちゃんと時間を掛けるべきだった。

Q:でも出来はとても良いですよ。

TP:確かに、その点についてはそうだ。たったの28分しかないと思う(笑)。最初に書いた10曲だけ。それを超高速で録音した。

Q:デニー(・コーデル)と作業は出来たのですか?

TP:デニーはあの頃、ぼくらをノア・シャークっていう男と一緒にして、放りっぱなしだった。ノアは共同プロデューサー兼エンジニアみたいなものだった。デニーが彼を連れてきて、置いていった。
 そして週に二回ほどデニーに会うと、彼は座り込んでこう言うんだ。「オーケー、これをああして、あれをこうしよう。」そしてデニーはぼくらを置いて行ってしまう。だから彼とはあまり一緒に居なかった。彼はそうだったね。ともあれ、そんな感じで、このアルバムは自分たちで作りあげたっていう印象だ。
 コーデルに関しては、上司みたいな位置づけだった。彼はレコード会社も運営していたし。とても忙しかったんだ。そういう状況で、三枚目のアルバムにはジミー・アイヴィーンが参加することになる。デニーには時間がなかったんだ。

Q:曲を書くのも、早かったですか?

TP:”Listen To Her Heart” と、”I Need To Know” は、録音を始める前に、書き上がっていた。だからこの二曲はもうライブでも演奏していたし、良い曲だって認識していた。そのほかの曲もすぐに書けたな。あまり時間はかけなかったから。十曲できた時点で、曲作りは止めてしまったと思う。だから未収録曲っていうのは無いんだ。何も残らなかった。
 ああ、そっか。一曲だけあった。”Parade Of Loons” っていう曲。でも録音がうまく行かなかったって思い込んでいて、アルバムに入れる気はしなかった。

Q:(「狂気の行進」という)タイトルは面白いですね。

TP:悪い曲じゃなかったよ。ありとあらゆるモノ狂いが出てくるような感じで。ぼくらの周りには、異なった環境から、異なった目的を持った連中が出没するようになっていた。

Q:モノ狂いどもですね。

TP:そう、しかも大量にだ。でも、この曲は収録されなかった。

Q:どういう経緯で、”You’re Gonna Get It” がアルバムのタイトルソングになったのですか?

TP:プロデューサーのノア・シャークが、ぼくをある晩座らせて、これに決めつけてしまったんだ(笑)。

Q:抵抗しなかったんですか?

TP:したよ。コーデルはアルバム・タイトルを [Terminal Romance] にしたがっていたけど、ぼくはこれのほうがマシだと思った。
 カバージャケットのこともあった。アニー・リーボウィッツが撮影した良いショットがあったんだけど。あの頃、ぼくらに対して多大な力を振るっていたノア・シャークはどういう訳だか、この写真が気に入らなかったし、(コーデルの)アルバム・タイトルも嫌いだった。それである晩、彼はぼくを座らせ、彼の意見が正しいと納得させた。それで、あの陰気なカバーを使うことで落ち着いた。
 でも、アニーのカバーの方が良かったな。それに、[Terminal Romance]ってタイトルの方が良かったと思う。でも当時、アニーはそこら中で使われ過ぎという面もあった。他の使い方をしたったな。

Q:”Restless” というあなたの曲には、ヒップなドラムとベースのグルーヴがありますね。

TP:それだけだけど(笑)。この曲に関しては、その点がすべてだ。このアルバムをほぼ完成させようとしていた頃だったんだと思う。バグズは、この曲をもう二度と聞きたくないって言っていた。ぼくが一晩中歌っていたから。べつに大した曲じゃない。もうすこし日数をかけてアルバムを作っていたら、ほかにもっと良い曲を入れたと思うよ。

Q:ローディにして、ギターテックのバグズは、セッションの間、ずっと居たのですか?

TP:うん。ぼくらのどのセッションにも一緒にいた。機材を揃えたりして。アンプや、ギターのセッティングも。バグズは最初のアルバムの時から一緒で、それ以来ぼくの全ての仕事に関わっている。ウィルベリーズも含めてね。いつも機材を携えて、ぼくの面倒を見て、一緒に夕食をとり、どこへ行くのも一緒。バグズは、物事に対してかなり鋭い批評家だ。

Q:そして、彼はあなたの曲についてどう感じているかを、教えてくれるわけですね。

TP:うん。バグズはぼくがどこに行くにも、車を運転してくれる。いまでもそうなんだ。だから、バグズとぼくは二人きりで、多くの時間を車の中で喋ったりして過ごすことになる。だから、彼はローディでありながら、手厳しい。
 ぼくらのスタッフはみんな大の音楽ファンだ。音楽好きの人に囲まれて過ごすのが好きだからね。彼らはとても誠実でもある。いいかげんなことはしない。しかも、とてもピュア(笑)。ぼくよりもピュアだな。”Restless” は、バグズが「この曲を二度と聴かないで済めば、ぼくはひと安心だ」と言った曲の一つだという記憶がある(笑)。
 バグズのことをとても愛しているよ。ぼくらにとって、兄弟以上だ。ぼくらのことを、もう三十年以上も面倒をみてくれている。バグズは決してインタビューは受けようとしない。プレスには二言以上は話さないな。彼には向いていないんだ。バグズにはしっくりこない。
 彼は何がどこにどうあるかも、何もかも把握している。すべての歴史を、ぼくも含めて誰よりもよく分かっている(笑)。彼はみんなの色んな考え方、見方を聞かされているからね。

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Chapter 4 Tangles & Torpedoes

Q:デニー・コーデルと仕事をするのをやめることになりますが、この大きな決断を促したのは、デニーがあなたのすべての稼ぎをカットし、そのことについてあなたがフェアではないと感じたからなのですか?

TP:そこが彼の欠点だった。ビジネスなんだよね。彼は、「アーチスト自身はは本当に大きな金は手に出来ない」という、古い60年代流のやりかたの人なんだ(笑)。
 ぼくらは酷くふんだくられているんだということに気付いてからと言うもの、ほとほと嫌になっていた。出版権も持って行かれ、しかもロイヤリティと来たらマッドクラッチ当時の歩合のままだった。レコード1枚に、1ペニー。無いも同然だ。
 いわゆるビジネス界の人 ― マネージャーってやつだな、連中が周りに居て、ぼくに言った。「おい、お前さんの契約はひどいもんだぞ。ヒット・レコードを出したんだから、再度契約交渉をするべきだよ。」一方で、デニーはそれに応じたがらなかった。

 [Damn the Torpedoes] によって、事はさらに大きくなった。セカンド・アルバムはゴールドになったし、ぼくら自身が、すごいアルバムを作り上げたことを自覚していた。ぼくらはアルバムを作れば、それはビッグ・ヒットになる。ぼくらはそういう位置に居た。このことは大きな法廷沙汰を引き起こすことになった。これだけでで、もう一冊本が書けるよ(笑)。
 とにかく、デニーと法廷で争う価値はあるし、もっとぼくら自身のためになるレーベルを作るべきだと決断する時期に来ていた。

Q:あなたのキャリアの始まりを手助けしてくれた人と争うのは、辛くありませんでしたか?

TP:とても辛かった。でも奇妙なことに、ぼくらは友達ではあり続けた。デニーはぼくにフレンドリーなままだったけど、法廷ともなると、まるでトラのごとしだった(笑)。ぼくは自由のために、躍起になって戦わなければならなかった。

Q:今のマネージャー,イースト・エンド・マネージメントのトニー・ディミトリアディスとは、いつ出会ったのですか?

TP:最初のアルバムをリリースするときには、もうトニーは居たな。

Q:どのように出会ったのですか?

TP:LAじゅうを探しても、ぼくらをマネージメントしてくれる良い人が見あたらなかった。ファースト・アルバムを作っても、マネージャーは居なかったし、やりたがる人も居なかった。でも、コーデルの友達で、ジョー・コッカーのマネージャーをしていた、イングランド人がいた。
 その人の名前は、レギー・ロッケといった。ぼくらはこの人に、莫大な恩義がある。

 このレギーっていうのが、困ったことに、実はビジネスマンとしては全然だめで、そのくせマネージャーとしての情熱はふんだんだった。彼はグループに惚れ込み、その音楽に惚れ込み、非常な熱意を持っていた。
 そのレギーがやって来て言った。「この連中を俺がマネージするぞ」
 同時に、彼はかなりのチアリーダーだった。「全員が勝者だ!」とか、よく言っていた。
 レギーは、正直に白状した。
「いいか、俺はビジネスも、金の話も、からっきしダメだ。まったく苦手で。でも、イングランドから来てる、友達がいる。元弁護士で ―」・・・ソリシター(solicitor 事務弁護士)って言葉を使ったな。・・・「トニー・ディミトリアディスって言うんだ。俺は、こいつがパートナーになるべきだと思うんだ。彼はツアー会計にも強いし、俺よりは全然、金のことをわかってる。俺は金に関しちゃ責任持てないんだ。」

 そんなわけでトニー・ディミトリアリディス登場。
 ファースト・アルバムが作られ、トニーがやってくると、彼はグループを気に入ってくれた。トニーは、エースっていうバンドのマネージメントをしたことがあった。(歌いながら)"How longhas this been going on?" ってシングルを出している。ポール・キャラックが歌っていた。これがトニーにとって、唯一の音楽の仕事だった。エースのマネージャーをしていたけど、これは解散してしまった。
 そこで彼は、ぼくらがたむろしている所に来た。それは、ぼくらがレギーのやる気を買って、マネージメントを始めてからそう時間の経っていない頃のことだった。ぼくらはイングランドで大ヒットして、いろいろなことが起こり始めていた。

 ところが、レギーは金に関してはひどく危なっかしかった。彼がバンドから離れたのが、イングランドに行く前だったか、後だったか、よく覚えていないんだ。前だったかもしれないな。
 ぼくらはかなり悲惨なツアーをやっていたのだけど、それでも構わなかったんだ。だって、アル・クーパーと一緒のツアーなんだぜ。 あれがぼくらにとって最初のツアーで、ボルチモアとかに行っちゃぁ、金がないからモーテル暮らしをしていた。次のギグになっても、まだ金がない。ぼくらは完全に金欠になっていた。そこでぼくらはトニーに電話した。
 すると彼が言った。「そりゃ、レギーが金を使っちゃってるんだろ」(笑)「言わせてもらうけどさ、俺は辞めざるを得ないぞ。こんなバカなことのお仲間になんて、やってられないからな。レギーは金にルーズ過ぎる。」
 レギーは、金をすべて使い果たしていた。そこでトニーは、レコード会社からいくらかの金を引き出す契約を取り付けて、ツアーを無事に終えるに十分な資金を捻り出した。

 このことが、レギーが少なくともマネージャーではなくなるきっかけになった。
 それでも、ぼくらはいまだにレギーのことが好きなんだよね。いつ彼に会っても嬉しくなるし、彼もそのことを分かっているんだ。彼はぼくらを世に送り出すために実に様々なことをしてくれたし、ぼくらの自信をしっかりとしたものとしてくれた人だ。実に情熱的なイングランド人で、ロックンロールを心から愛し、ぼくらを本気で信じてくれていた。

Q:ともあれ、それ以来トニーとともにあるというわけですね。

TP:うん。

Q:そのとき、トニーのパートナーである、メアリー・クラウザーはもう居たのですか?

TP:いや。彼女が来たのは、1978年ごろだ。トニーには2、3人のアシスタントが居たけど、ぼくらは連中が大嫌いだった。それから、トニーはあの頃まだ、自分のアパートのベッドルームで仕事をしていた。ぼくらにはオフォスってものが無かった。だからトニーのベッドルームを使わざるを得なかった。

Q:トニーはどこに住んでいたのですか?

TP:ハリウッド。雑居ビルみたいなアパートだった。
 後でメアリーに言われたんだけど、彼女が来たとき、最初の仕事はぼくを行き先から家まで送ることだった。そしてトニーはこう言ったそうだ。
「いいかい、もし彼が何も喋らないとか、きみに意地悪をするようでも、真に受けるなよ。彼は誰のことも好きじゃないんだから。」(笑)それが彼女への最初の指示だった。
 すぐにぼくは彼女のことが、とても気に入った。家への帰り道はとても楽しかった。それ以来、彼女はずっと一緒というわけだ。彼女はぼくら全員一人一人の面倒を見てくれる。ぼくらのライブでも、ずっと世話してきてくれた。彼女は十分な評価を得ていないかも知れない。でも彼女こそが要なんだ。彼女はライブの時も、ぼくらが家を離れれば、いつ、いかなる時も面倒を見てくれる。
 メアリーは全てのことをしっかりセッティングして、あらゆることがスムーズに進むようにしてくれる。全スタッフを動かしているんだ。彼女は本当にすばらしい人だよ。それに人とうまく付き合える。
 それに、ぼくの扱いについてもうまく、スムーズにやってのけるんだな。活動初期のあのころ、ぼくはえらく感情の起伏が激しかったから。

Q:え、そうだったのですか?

TP:うん。かなりとんがっていたし、それでひどく人を困らせた。しかもかなり、カッカしていた。
 彼女はその辺に関して、バランス感覚があったんだと思う。彼女はぼくを地に着けてくれたし、ぼくにそのつもりはなくても、怒らせてしまった人にとりなしてくれたりもした。
 本当に驚くべき人だよ。つまり、最近でもぼくらが家を離れてどこかへ行こうとすると、彼女から地図と、これから行こうとするところには誰々が居るとかいう情報付きのファックスが送られてくる。彼女はこういうのに関して、実に気が利く。

 そして、ジミー・アイヴィーンが(プロデューサーとして)登場する。後は歴史が語るとおり。彼はジョン・レノンともエンジニアとして仕事をしていた。ジョンの "Walls and Bridges" って言うアルバムがあるけど、このアルバムでジミーは一役買っている。ぼくはあのレコードが好きなんだ。
 実際にジミーを見いだしてきたのは、コーデルだった。彼がジミーのことを言い出した。ジミーは実際には、パティ・スミスの曲(ブルース・スプリングスティーンが書いた "Because the Night")以外はプロデュースをしたことがなかった。そのほかでは、ブルースの "Born to Run" のエンジニアをしていた。
 だから、実際のところぼくは彼をエンジニアとして雇おうとしていた。ところが、ジミーが来てみると、彼自身のエンジニアとして、シェリー・ヤクスを連れていた。これは予想外だった。

Q:次のレコードを自分でプロデュースすることには興味がありましたか?

TP:デニー(・コーデル)がプロデュースするんだと思っていたよ。ジミーはデニーとぼくらのつなぎ役みたいなものになるんだろうって。ところが、ジミーとぼくが一緒にプロデュースすることになった。
 ぼくらはすぐに友達になったよ。とても仲が良く、うまく事が運んだ。ぼくらはやる気一杯の若造で、この仕事をうまくやり遂げようと意気込んでいた。実際、やり遂げたよ。でもそれは、血と汗と涙の結晶だった。

Q:カウント抜きのテイクを練習したり、ドラム・サウンドをものにするのに時間をかけようと言い出したのはジミーだったのですか?

TP:そうなんだ。それ以前のぼくらだったら、思いつきもしなかった。ジミーは、より洗練された形の録音をしたがっていた。あのアルバムでは、ぼくらは大きなドラム・サウンドを打ち出した。後になってみると、色々なところで真似されたよ。あのレコードは、その後のドラム・サウンドを変えたんだと思う。

Q:ミックスでより(ドラムが)大きくミックスされていますね。

TP:ああ、大きく、どんどん大きく、さらに大きくなっていった。馬鹿でかいドラムっていうのは、ぼくの好みではないんだ。あんまりドラムが大きいと、ほかの音の扱いがとても難しくなる。ギターとか、ほかの楽器の音をどうするか、苦労する。
 でも、この大きなドラムが、ジミーのビジョンだった。何回も何回も、ドラムの皮を変えていたよ(笑)。スネアドラムの音を録るだけで、一日かけるだなんてこともあった。
 ぼくらにとっては、狂気の沙汰だった。ドラムの音に丸一日だよ。ひどく退屈だし、とても理解し難かった。それでもやったんだ。

Q:あなたとスタンの間は大荒れだったと言っていましたね。この "Damn the Torpedoes"(1979) の録音中は、そういう大荒れ状態がよくあったのですか?

TP:ぼくらが1978年頃にジミー・アイヴィーンがやってきて、彼がスタンに対してかなりキツかったという覚えがある。本当にキツかった。あの二人の仲はうまく行かなかった。

 それにスタンっていうのは、自分に注目してもらうために、騒ぎを起こす手の男だった(笑)。もしスタンが困っていたりすると、人を混乱させ、どうなっているんだと思わせるために、一騒ぎ起こしてしまう。それでも、スタンにみんなを注目させるってことにはならない。
 本当はぼくだって、スタンリーを責めたくはなかった。実際、あいつはグレイトだったんだから。ぼくらはみんな、人生のなかで最高の仲間だった。あいつ無しで、ぼくらが掴んだような成功はあり得なかったはずだ。理由やらなんやらはともかく(笑)、ぼくはスタンのことが大好きだった。ぼくらは良い友達だったし。だからあいつのことを責めたくはなかった。
 ともあれ、スタンはハートブレイカーズの中で一番の問題だったし、あいつ自身もそれは認めると思う。

 ぼくが思うに、あいつは色々な面で、たくさんの不安を抱えていたんだろう。
 これはゲインズヴィル時代にさかのぼると思う。スタンリーとぼくが初めて会ったとき、あいつはまだ高校生だった。ぼくらの方がスタンよりもいくらか年上だったので、ある意味であいつはぼくらに憧れていたんだろう。だからゲインズヴィル時代ですら、彼にとって、ぼくらと一緒にプレイするのはおおごとだった。スタンはぼくらのことをトップ・バンドだと見なしていたから、とても不安に思っていたんだろう。
 そうなると多くの人は問題を抱えるし(笑)、扱いが難しくなる。ちょっとでも不安がっている人っていうのは、大概そうしたものだ。
 だから、あれはスタン自身の問題だったと思うんだ。ただ、一つ言うべき事があるとしたら、ぼくらはガキだった、ってことだ(笑)。まだ大人になり切れていなかった。ぼくらはまだまだ子供で、本当の意味での人生の厳しさを経験する前だった。

Q:そういった苦労の末、できあがった "Damn the Torpedoes" はすばらしいヒットを獲得しました。多くの優れたヒットソングが含まれています。"Refugee", "Don't Do Me Like That", "Even the Losers", "Here Comes My Girl". これらの内いくつかは、スタジオで書いたのですか?

TP:おもしろいことに、ほとんどの曲は先に書きあがっていたんだ。レコーディング中に書いたのは、一曲だけだと思うな。B面の "You Tell Me" がそうだ。
 レコードには、9曲しか収録されていない。"Refugee", "Here Comes My Girl" はもう書きあがっていたし、"Even the Losers" もだいたい出来ていた。
 "Don't Do Me Like That" は、このレコードで最初にヒットした。この曲はマッドクラッチの頃の曲で、彼(デニー・コーデル)がぼくらをタルサに戻して録音させた時のものだ。それを入れることにした。"Louisiana Rain" は、ぼくのソロ・プロジェクト向けに録音していたものだった。
 ジミーはそういったシェルター時代のテープに立ち返り、ぼくが録音したもの全てに耳を通して、これらの曲を見いだした。そしてもう一度録音したがった。そんな訳で、曲はほとんど先にできあがっていたんだ。
 "Century City" は録音中に作ったんだっけな。あのころ、弁護士のところとか、法廷沙汰でよく行っていた場所なんだ。そういうような事の歌だ。

 このレコードに関しては、同じようなことは二度と起きないだろう。事態はえらい事になっていた(笑)。とんでもない事にね。

Q:良い意味で?前向きだったという事ですか?

TP:そう、前向きだった。ぼくらは四六時中野蛮人みたいにかけずり回っていたのと同様にね。違いと言えば、大金が入ってくるようになった点だった。つまり、金持ちな若造の始まりってわけ(笑)。
 それでも、ぼくにとって本当の夜明けという風には行かなかった。ぼくにはどういう訳か、これが現実とも、意味のある事とも思えなかった。注目が集まり、大勢の観客が来てくれることの方が、すごい事だった。そのことこそ、ぼくらは嬉しかった。

 あの頃のことを思うと、たとえばそうだな、八千ドルと、八万ドルの違いですら、まともには分かっていなかったんだ。八千ドルだってぼくには大金で、ゼロの数が覚えられなかった。そんなもんだから、会計士がひどくショックな顔をして、こう言った。
「違う違う、八万ドルですってば。」
 えらい大金が入ったものだ。でもそれはただ銀行に預けられただけだった。とある日ふと気が付くと、かなりの金持ちになっていた。

 でもぼくの生活そのものはあまり変わらず、その日暮らしみたいなものだった。ずっとツアーを続けて、ホテルを転々とするのには変わらなかったから。
 これは本当の話だけど、ぼくらはホテルの部屋をシェアしていた。二人で一部屋だったんだ。ぼくとロン、マイクとスタン、それからベンとロードマネージャー。ぼくらは三部屋に分かれていた。
 1978年の終わり頃、ぼくらは新しいロードマネージャーを雇った。この男は自分一人の部屋に泊まっていた。すると、ベンがシングル・ルームってことになる。そこでぼくらは、何日かに一回は、それぞれがシングル・ルームになれるように、ローテーションを組むことにした。
 マイアミに滞在したある夜、ぼくらがホールに降りて行ってみると、ロードマネージャーが自分の部屋に入ろうと、鍵を差し込んでいるところだった。ぼくが言った。
「どうして一人の部屋になっているわけ?」
彼は答えた。「そう希望したから。」
ぼくが言った。「ちょっと待て、俺がシングル・ルームを希望したらどうなるの?」
「シングル・ルームが良いの?」
「そりゃ、全員そうさ。」
 彼は答えた。「オーケー、シングル・ルームを取るよ。」
 その時以来、ぼくらはそれぞれ自分の部屋を取ってもらえるようになった。オフィス連中は誰も、ぼくらがそれぞれの部屋が取れる経済状態だとは知らせてくれなかったんだ。あの連中、ぼくらが自分で気づくまで放っておいたんだな。
 そういう調子で、ぼくらには以前よりも金があることに気づくようになったわけだ。誰もそれを教えてはくれなかった。ぼくらには偶然知るしか他に手がなかった。

Q:あなたのお父さんは、この成功について、どう言っていましたか?

TP:父は、実に人を誉めるのが下手な人だった(笑)。父は死ぬ少し前にぼくに言った。
「なぁ、おまえは本当によくやったよ。人生を成功させた。言ったろう、おまえがやっていることで1ドルたりとも稼げるはずがないって(笑)。そんな事ができるとは、夢にも思わなかった。お前はそれをやり遂げたのだから、誇りに思うよ。」

Q:長い時間がかかった後にそれを聞いた時は、うれしかったでしょう。

TP:父はぼくらが若くして大金持ちになったことにご満悦だった。そしてものすごいハートブレイカーズ・ファンになった。ハートブレイカーズ・ジャケットを着て、フロリダのギグには毎回来てくれた。
 しかも、家に次から次へと押し掛けてくるファンたちを、誰でも家に招き入れた。中には、何週間も滞在する連中も居た。ぼくだったら、ぞっとするけどね。
 ともあれ、父はかなり派手にトム・ペティの父親役をやってのけた。インタビューなんて受けたりして。
 ぼくはうんざりだった。父に会うと、「どうだ、元気だったか?」の代わりに、「ああ、これこれにサインしてくれるか?」とか、「あっちにも」、「これにも」、「あのファンの人と話してくれ」とか言われるんだ。
 それでもって、絶対に「ああ、そういえば元気にしていたか?」とは言わない。「元気だった?」とまた言ってもらえるようになるまでは何年もかかった。

 何せ「トム・ペティ」の父親っていうのが、彼のアイデンティティになっていたから。だから調子に乗って、派手に馬鹿をやっているのを見るのは、ぼくにとっておかしなことだった(笑)。
 実に興味深い男だったね(笑)。かなり変わっているよ。

Q:お父さんはいつ亡くなったのですか?

TP:1997年。

Q:では、あなたの成功を見とどけたわけですね。

TP:うん。ぼくは、父にキャデラックを買ってあげた。とても気に入っていたよ。

Q:それから、トラックもですね。

TP:そう、トラックもだ。新しい家も買ってあげるつもりだったけど、父は親しいご近所さんのところに留まりたがった。そこで、ぼくは父のために家を立て替えた。最新式に。
 実際のところ、父のほしいものはすべて買ってあげたし、面倒をみていたのはぼくだった。ぼくの周囲の何人かは、「どうして?」なんて言ったけどね。

Q:お母さんは、あなたの成功についてどう言っていましたか?

TP:母は(父とは)違った。彼女はいつもぼく自身のことを気にかけてくれていた。
 70年代の後半、母はファンの女の子たちがぼくに危害を加えるんじゃないかと心配していた(笑)。ぼくに飛びかかってきたりする女の子たちもいたからね。母はギグも見に来ていたし、ぼくらの行くどのステージにも女の子たちが群がっていたから。特にゲインズヴィルでは若い子たちに追いかけ回されたし、家もファンに完全に包囲されてしまっていた。さらに撮影班だの、テレビ局の人だの。ゲインズヴィルでは家に近づくのも不可能だった。
 だから両親に会うのに、ほかの場所を決めておかなきゃならなかった。両親は小さな4部屋の家に住んでいた。メディアや若い連中は、ぼくが来るってわかっていたから、両親の家を急襲してきた。だからいつも別の場所で会わざるを得ない。なんだか改まった感じだった。
 そんなわけで、母はファンの子たちが、ぼくに危害を加えるんじゃないかと心配していたんだ。

 ある晩、ぼくはステージで、本気で八つ裂きにされそうになった。サン・フランシスコのウィンターランド(・ボールルーム)で、観衆のまっただ中に引っ張り込まれてしまったんだ(1978年12月)。音楽雑誌のどれかに、ぼくらがもみくちゃにされて、八つ裂きにでもされそうな写真が載ったんだと思う。ぼくの記憶ではそうだな。
 あの夜は、観客がステージに近くて、ほとんど足下まで迫っていた。そんなところで、ぼくはステージの端を歩いていたんだ。そしてぼくが少し前のめりになった時、誰かがぼくの足周りを掴んだ。そしてぼくは人混みの中に落っこちてしまった。まるで人間の湖に落ちたみたいな感じだった。どんどんと床に向かって沈んでいった。でも、床にぶつかりはしなかった。ただ人波の上に浮いたみたいな感じだった。
 やがてどんどんぼくの上に人が折り重なっていった。そして彼らが文字通りぼくを掴み回した。ぼくは首にバンダナを巻いていたのだけど、引っ張り回されるうちにお腹のあたりまでずり落ちてしまった。後になって分かったことだけど。ぼくのシャツは破れて、はだけてしまっていた。着ていたベストも背中から破れて脱げてしまった。
 ぼくはまじめに、これは死ぬかもしれないと思った。何せ空気が吸えないのだから。しかもぼくは何も見えなくなった。何もかも真っ暗になってしまったかのようだった。
 すると頭上に突然小さな穴が開けた。そこから、バグズの姿が見えた。彼はステージから見下ろしている。そしてバグズは文字通りダイブして来た。プールに飛び込む時みたいに、手からダイブしたんだ。人混みの穴に飛び込んで、ぼくの上に落ちてきた。そしてぼくの肩に手を回して掴んだ。その時、ほんの一瞬ぼくらは互いの顔を見て、同時にもうダメだと思った。この群衆のまっただ中で、今すぐ二人とも死ぬんじゃないか、って。
 やがてセキュリティ・スタッフがどんどん飛び込んできて、人の鎖みたいなものを作り、ぼくらを引き上げた。やがて一番上までたどり着いた。上に戻ってきたとき、ぼくは呆然としていた。唇が切れて血が出ていたし。ぼくはまさに傷だらけで、ボロボロだった。

 それ以来、ステージの端に近づくときはちょっと緊張する。観客の上にダイブしてぐるぐる回ってくるバンドなんて見たこともあるけどね。ぼくの方の観客ときたら、八つ裂きにしかねないよ。
 おかしいよね、この事が未だに頭から離れないんだ。ぼくらの上には、6フィート幅もの人間が折り重なっていたんだから。そんな人の層の下で吸う空気なんてありゃしない。
 ぼくとバグズそんな状況で目が合った。あいつの顔には「俺が助けてやる」って書いてあったけど。でもぼくは瞬時に、二人ともこの場で死ぬに違いないと悟っていた。
 ロックンロール・ショーをやるとなったら、次には生命の危険にさらされるってわけ。あんな目に遭ったのは、あれっきりだと思う。でも、あのことが頭にこびりついて、いつも心のどこかに引っかかっているんだ。

 ステージから、その様子を誰かが写真にとっていた。それが雑誌に載ったんだ。母がその写真を見て、ひどく心配した。ぼくが安全な環境にはなく、ガードもしてもらえないって事だったから。
 そんな訳で、母はぼくの安全についてひどくナーバスになったんだろうな。
 ともあれ、母はぼくの成功について、とても誇らしく思っていた。ぼくはゴールド・レコードやら何やらを、母の名前入りで贈った。母はそれをみんな壁に飾っていた。

Q:お母さんとお父さんは一緒に暮らしてはいたのですよね?

TP:うん。でも、母は1981年に亡くなった。母はぼくらの大きな成功のすべてを見とどけたし、ぼくはもう大丈夫だ、って思っていただろうと、信じているよ。彼女はぼくのことをとても気にかけていたから。
 母は「トム・ペティ」についてはどうでも良かった。母は昔と変わらなかった。母はぼく自身を気にかけていた。
 母のためにもっとたくさんのことをしてあげたかったというのが、ぼくにとって最大の後悔だし、悲しみだ。でも母は死んでしまった。ひどく辛いことだった。それでも、ぼくは母に良い人生を贈ることができたと、思っている。

Q:以前、「ヒット・レコードを作ることほど素敵なことはない」と言っていましたね。

TP:(笑)とてもやりがいがあるんだから。とても素敵な気分になれる。すべての仕事は無駄にはならない。物事が、きちんきちんと運んでいく。どこをどう見ても、何もかもがうまく行き、ハードワークをこなした甲斐がある。
 ([Damn the Torpedoes] の成功は)それまでの3年間の成果でもあった。ぼくらは出来ることすべてをやり尽くした。しっかりした物を作り、そこから勢いがついた。まさにその頂点に達したとき、それまでの苦労が一気に報われた。

 ただ、あの成功の前の時期だって、ぼくにとっては良い思い出だ。どっかのオタクなバンドみたいに、ビッグでも何でもなかったけど、でもぼくにはすてきな思い出なんだ。もっと成功したいって、しゃかりきになっていたにしても、とても居心地の良い時代だった。
 重苦しいビジネスも関係なかったし。ぼくらはただただ若く、バンドをやっているのが、ハッピーで仕方がなかった。ああ言うのは、本当にすばらしいことだって、思い出したりするんだ。

 [Damn the Torpedoes] によって、次のアルバムを作るまでには、状況がシリアスになっていた。あれほどの成功をまた達成しなきゃいけないとなると、すごいプレッシャーだった。それまでに直面したことのない環境。状況は変わってしまっていた。

Q:自分の曲をラジオで聞くというのは、どんな気分ですか?

TP:どえらい事だよ。あの頃LAには、三つか四つのロックンロール・ラジオ局があった。想像してみなよ。自分の部屋にこもって、ラジオのでっかいダイヤルを回しては、局から局へと、渡り歩いていた。そうやってできうる限りを聞き倒したんだ。
 時々、違う複数の局が、同時に同じ曲を流すのにも出くわしたことがあった。まるでラジオ狂にでもなってしまったみたいで、「うわぁ、すげぇ!」なんて感じだった。
 マイクが電話してきて、「おい、ラジオつけろ!」って言ってきたのを覚えているよ。
「この局にしてみろ!」ってね。ぼくらはずっと、ありとあらゆるラジオを聞いていたから。バカみたいに聞きまくっていた。あれって、どこに居ても聴けたものなのかなぁ?とにかく、聴けたんだろうけど。

Q:多くのソングライターが、とんでもない成功を収めると、その後から来るプレッシャーに耐えられないと言いますね。

TP:それは分かるよ。かなり恐ろしいものなんだ。それまでは思いもしなかったことなのに、急に「どうしよう、あれをまたやらなきゃならないなんて。出来なかったらどうしよう」なんてことになるんだから。

Q:あなたはどう対処したのですか?

TP:すごいプレッシャーではあったよ。したことと言えば、ただひたすら働くこと。
 ぼくが「オーケー、ツアーはしばらく休みだ。とにかく頑張って、何曲か書いてみるよ」と言う時期にきていた。多くの人は、そうはしなかったんじゃないかな。(ツアーで得られる)お金はとてもの魅力的だからね。でも、ぼくはそれがまともな解決策にはならないってことを理解できる程度には、利口だった。問題は厳然として残っている。
 だからぼくらがやるべき事は、ツアーを一旦止めて、曲作りに集中することなんだ。そうやってぼくらは良い曲をモノにしてきた。そうすれば、すべてが上手くいく。

Q:あなたのマネージメントやレコード会社はその事については同意してくれましたか?

TP:笑っちゃうんだけどさ、いったん大成功を収めると、いつでも自分がやりたいことにみんなが賛成してくれるようになるんだよ(笑)。突如、ぼくらを全然違う扱いにするようになる。古い言葉にあるだろ、「人は変わらずとも、周囲のすべてが変わる」って。周りは全て変わり、自分は全然変わらないんだ。当人はまったく同じ人物なのに。周りの扱いが全然変わってしまう。
 だから連中も変わってしまった。みんなの認識が変わってしまうというわけ。だから自分がやりたいことに対して、周りが同意しないなんてことは、あまり起きなくなる。
 でも、少なくともトニー(・ディミトリアディス)だけは冷静で、決してイエスマンにはならなかった。彼は、誰か一人だけのために働くべきではないと、分かっていたんだ。.
 人生においてこういう事に関してうまく対処する秘訣は、なにを、どの程度やり過ぎないでいるか、自分に問いかける余裕を持つことなんだ。自分のことは自分でしっかりしないとね。

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Chapter 5 Changing Horses

Q:あなたがたはシェルターに所属していましたが、MCA/バックストリートに変わりましたね。どうしてこのような変化が起きたのですか?

TP:この移籍劇が起こったのは、ぼくらが最初の2枚のアルバムを作った後、シェルターがABCレコーズ傘下に入ってしまったからだ。しかも販売元をMCAに戻したときに、連中はぼくらには何も言わずに、ぼくらの契約をMCAレコーズに売却してしまった。
 ぼくらは呆然としてしまい、同時に恐ろしかった。自分の知らないところで自分たちがたらい回しにされて、何の関連も無くなってしまうのだから。
 しかも、ぼくらのレコード契約はかなり酷いものだった。マッドクラッチと同じ契約だったのだから。本当に酷かったよ。最初の2枚のアルバムでちょっとした幸運を掴み、ぼくらはもっと良い契約を得るに値すると思った。会社の方はもちろんそうは思わなかった。だからぼくは自分の意見を曲げず、契約を改善しなければ働く事を拒否しなければならなかった。
 会社はぼくの出版権も所有していた。ぼくは契約をしたそのときにさえ、これはフェアじゃないと思っていた。音楽出版のなんたるかも分かっていなかったけどね。ぼくは騙されたみたいなもので、こいつはどうにかしなきゃならない。

 でもぼくらは孤立無援で、ダニー・ブラムソンという男が登場して、やっと解決することが出来た。彼がMCAと話し合ってくれた。彼はMCAが所有していたユニバーサル劇場で働いていたんだ。彼はそこを利益の出せる会社にしていた。彼はMCAトップ連中の情報に通じていた。
 ダニーの解決策は、MCA内にダニー自身が自分のレコードレーベルを持つのはどうだろうかと、トップ連中に頼んでみることだった。そこでぼくと新しい契約を交わす。ぼくはMCAには留まるつもりではあるけど、 バックストリート・レコーズ傘下で、創作については完全に自分でコントロールすると言うことにした。ぼくの出版権はぼくに戻る。
 だから、ダニー・ブラムソン以外の誰にも報告しなくても、ぼくは仕事ができた。

 こうして、MCAに留まりつつも、問題をうまく解決することができた。ぼくは互いに良く知っていて、信頼できる人と一緒にできて良かったと思っている。ダニーはぼくに創作上の完全な自由を与えてくれたんだ。
 ぼくは自説を曲げずにがんばり、5,6ヶ月は粘った。頑として譲らなかったな。ぼくらは "Why MCA" って名づけたツアーもやった(笑)。何せ会社がぼくを訴えたから。それがしばらく続いた。でも最終的には終結した。多くのグループが経る過程では無いだろう。レコードが売れ始めると、ふつうこういう状況になって、契約を改善するものなんだ。

 そんな訳で、ぼくらの次のアルバム [Damn the Torpedoes] はバックストリート・レコーズから発売された。

Q:新しい契約をしても、1981年にMCAはあなたの4枚目のアルバム [Hard Promises] の値段を、9.98ドルに上げようとしましたね。あなたは8.89ドルをキープしたかったのですが。あたなにとってこれは、戦いでしたか?

TP:まさに戦いだった。あのことは、ぼくに多大な苦痛をもたらした。ぼくには、アーチストとしてどうするべきかという前例がなかったから。今のアーチストたちなら、ぼくらのことがあったからそうそう悪いことにはならないだろうね。
 ぼくは、一般の人の手が届かないような値段なんてつけられないって、思ったんだ。大事なのは聴衆であって、ぼくじゃない。

 ぼくが気づいたときには、もう事は進行していた。MCAは自社レコードの値段を上げると、もう広告に出してしまっていたんだ。でも、本来なら最初にぼくに知らせるべきだ。ぼくがレコードを出そうとしていたことは知っていたわけで、会社はぼくを最初の9.98ドル・アーチストにしようとしていた。
 だからぼくは言ったよ。
「だめだ、そうは行くか。俺のレコードでそんな事はさせないからな。」
 それこそぼくが立ち上がり、公に宣言した時だった。
「自分にはそのつもりはないし、許可もしない。」

 妙なことに、ぼくは値上げを阻止しただけではなく、何年もレコードの値段を押さえ続けたことになった。そのことに関しては、誇りに感じている。本当に会社が値上げができる状況になるよりも、実は何年か前の出来事だったんだよ。
 ミック・ジャガーがぼくに言ったんだ。あの時、(ぼくのしたことが)ストーンズのレコードの値段も押さえたんだ、ってね。ストーンズの会社も、値上げをしようとしていた。そんな時に、ぼくがローリング・ストーン誌の表紙になって(1981年3月19日)、1ドル札を二つに切り裂いていた。
 それで彼(ミック)は会議で会社の連中の前で、テーブルの上にこの表紙の本を投げ出して言ったんだ。
「値上げなんて出来るか。あり得ない。」

 ぼくはこの件について見事にやり遂げたことに関しては誇りに感じているけど、[Damn the Torpedoes] に関する法律上の問題があって、ハッピーではなかった。気がつけば、会社との闘争に逆戻りだ。
 あのころ、そういう悪いことが、ぼくには続いていたと思う。

Q:時を同じくして、1981年の秋、扁桃腺の具合が悪くなり、切除する必要に迫られましたね。

TP:いずれにしても楽しめなかったね。扁桃腺の具合が悪いままロードに出て、ギグをキャンセルしなきゃならなくなった。
 ホテルの部屋に籠もって、なんとかしようとしたのだけど。誰も慢性的な扁桃炎だって分かっていなかったんだよ。だからみんな、ぼくは良くなると思っていたんだ。
 ステージには出るけど、うまくは歌えなかった。みんなかなり長い間、ぼくのメンタルの問題だと思っていた。ぞっとしたよ。ステージに出ても、うまく歌えないだなんて。
 今でも、ある程度は影響があるんだ。ぼくにとってがトラウマになっている。まぁそんな訳で、とうとうツアーの最中に病院に入って、扁桃腺を切除することになった。

 レコードの値段騒動の時、ぼくは有名になるということは、かなりきついことなんだと思い知った。報道で誰かがしたこととか、巻き込まれていることとかを知る。それが自分自身のことだったりしたら、最悪だろう?(笑)自分自身の話題であり、巻き込まれているのは自分なんだ。新聞小説なんかじゃなくて、自分自身の人生だなんて。
 話はセンセーショナルにされて、雑誌の売り上げを伸ばす。そういう事がぼくの身の上に降りかかってきたんだ。
 ぼくはもうこれ以上、論争に巻き込まれるのはごめんだと思っていたんだろうな。実際、嫌になっていた。疲れてしまっていたんだ。
 ぼくはただ、レコードを作りたいだけだった。

Q:しかし、あなたの中のソングライター魂は息を潜めなかった。法律上の問題や、健康状態の悪化にも関わらず、傑作を書き続けたわけですから。

TP:この分野はいつでもぼくの聖域だったからね。いつでもぼくは音楽の中へ避難できた。子供の頃からそうだと思うな。音楽の中へ逃れていたんだ。音楽の世界へね。そこは素敵で、安全で、素晴らしい世界だった。
 だから、このことがぼくの人格を形成し、いつでも音楽の中に入り込めるようにした。自分の洋服一式に袖を通すようなものさ。
 誰だって曲作りの世界へ入り込むことは出来るし、それが心の慰めになり、必ず報いてくれるんだ。

 [Hard Promises] は良くできた仕事だと思う。成るべくして成った作品だよ(笑)。そういう意味でピンと来た最初の作品だった。
 作品として作り上げなければならず、しかも良い作品で、成功を納めるはずなんだ。本来はそういうやり方ではないはずだろうけど だから、前のアルバムほど、仕事が楽しいってわけには行かなかった。

Q:[Damn the Torpedoes] は楽しかったけど、[Hard Promises]はそうは行かなかったといことですか。

TP:そうだな、[Dame the Torpedoes] もすごくきつかったけど、それでもまだぼくらは楽しんでいた。
 でも、[Hard Promises] のころには、状況が厳しくなっていた。ぼくら自身が深刻に受け止めていた。
 でもぼくは曲作りに没頭した。長い時間を独りで過ごした。孤独な作業だろう(笑)?そして、自分自身でスケジュールをきちんと決めて仕事をした。毎日起きるとランチを食べて、ミュージック・ルームに入り、時によっては真夜中までそこに居る。
 とにかく仕事、仕事、仕事。でも、仕事は実を結んでくれる。

Q:素晴らしい曲ができたわけですね。

TP:ラッキーだね。

Q:"You got lucky" というわけ。

TP:"I got lucky" というわけ。

Q:1981年7月、スティーヴィー・ニックスとデュエットした "Stop Draggin' My Heart Around" がリリースされました。これについて多くの人は、あなたが二人のヒット・シングルを作ったと思っていますが。

TP:スティーヴィーの為に作った曲ではないんだ。ボックス・セットのオリジナルを聞けば、そのオリジナルにスティーヴィーがオーバーダビングしているって分かるよ。

Q:驚いたことに彼女がメロディを歌っているように聞こえますが、本当はハーモニーを歌っていて、あなたがメロディを歌っているのですね。

TP:そう、コーラスではぼくがメロディだ。彼女の歌はヴァースでメロディになっている。でもコーラスでは実際ぼくがメロディを、スティーヴィーはハーモニーを歌っているんだ。
 スティーヴィーとは、1978年頃に出会った。彼女はぼくらの超ド級のファンだった。彼女にとって、ぼくに曲を書かせるのが、人生の使命のようだった。
 ぼくらの方は、スティーヴィーに対して、やや慎重だった。自分たちがスティーヴィーの事が好きかどうかもはっきりしなかった。フリートウッド・マックのことを、でっかい会社ぐるみのロックバンドだと思っていたから。でもそれは正確ではなく、実際はアーティスティックな連中だった。
 あのころは、みんなこの手の事に関しては懐疑的で、ぼくらも「彼女は俺らから何を得ようとしているんだ?」と勘ぐっていた。
 もちろん結局、彼女はぼくの生涯にわたる大大大親友になった。

 ともあれ、スティーヴィーはぼくに、歌を作れと言って譲らなかった。
 1978年の後半くらいだったと思うけど、彼女はぼくに、最初のソロ・アルバムのプロデュースをしてくれと持ちかけていた。スティーヴィーときたら、セシル・B・デミル監督作品級の、ゴージャスな存在だ。これぞ、百もの人生よりも多彩な人柄。
 ぼくは彼女の声が大好きだった。あの歌は凄いと思っていたんだ。それでぼくはオーケーして、彼女のレコードをプロデュースするためにセッションに加わった。
 行って一曲やってみたけれど、それまでぼくが見てきたのとは、全く違う世界だった。女の子たちを扱うって言うのは、まったく違うことだったし、スティーヴィーの居た世界は、ぼくらのそれとは、まったく異なっていた。

Q:エモーショナルな意味で?

TP:(笑)そんなようなものかな。彼女はとても素敵な人で、ぼくらはみんな大好きだった。でも彼女は仕事に関しては、ぼくらとは全く異なった倫理感を持っていた。
 しかも周りには大勢の人が居た。大勢の取り巻き連中だ。いわゆるエルヴィスが引き連れていたみたいな、大随行団みたいな連中さ。ぼくらはああいうのが絶対に良いものだとは思えなかった。

 だから1曲仕上げてから、ぼくは言った。
「俺には無理だよ。時間がないし。忙しすぎるし、きみの助けになれるとは思えない。ジミー・アイヴィーンって言う、ちょうど良い男が居るよ。」

 とにかくまぁ、そういうことがあって、ぼくらはつるむようになった。そうして、彼女をよく知るようになった。そのうち彼女は家にくるようになって、レコードを聞いたりとか、なんやかやで一緒に過ごすようになった。
 よく歌いもしたな。一緒に座り込んでギターを弾いたり、歌ったりしたものだった。

Q:ハモりながら?

TP:そりゃ、なんだってやったよ。

Q:彼女はハーモニー・シンガーとしてもすばらしいですからね。

TP:スティーヴィーはもの凄いよ。ぼくらは素敵なサウンドを作り上げることが出来た。アコースティック・ギターに合わせながらね。
 最終的には、"Insider" という曲を彼女に書いてあげた。ジミーのところに持っていくと、彼はホイっと仕上げてしまった。これは超名曲だと思ったんだな。実際に良かったし、ぼくもとても気に入っていた。誇りに感じたよ。

Q:それまでに誰かのために曲を書いたことはありましたか?

TP:ない。

Q:この曲は彼女の声を念頭に置いて書いたのですか?

TP:うん。とてもお気に入りだった。あの時点では、自分の最高傑作の一つだと思い、ギターを弾きながら録音した。それから、スティーヴィーがぼくと一緒に歌った。さらに、バンドを加えた。
 そのうち、ぼくはなんだか、この歌を人にくれてやるのが嫌になり始めた(笑)。

Q:スティーヴィーとのデュエットがなければ、あなたのシングル "A Woman in Love" はもっとヒットしたと感じていたそうですが。

TP:確かに。この2曲が、無頓着にほぼ同時に発表されてしまい、スティーヴィーの方がもの凄いヒットになった。この状況はぼくらバンドにとっては、微妙だった。
 スティーヴィーの曲の方は、「スティーヴィー・ニックス with トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ」って事になっていて、多くのラジオ制作者が、同時期にトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの曲を2曲も流したがらなかった。とりわけ、一方がべらぼうにオン・エアされまくればね。そんなわけで、ぼくらにとってはまずい状況だった。

Q:ロン・ブレアは、正確にはいつバンドをやめたのですか?

TP:[Hard Promises](1981)と[Long After dark](1982)の間だ。[Hard Promises]のツアーの後。あれは凄く長いツアーだった。ロンはあのころに、やめたいと思い始めたんじゃないかな。
 彼がこう言っていたのを覚えているよ。「ぼくがやりたかったことより、おおごとになり過ぎだよ。契約以上だ。」(笑)今じゃ戻ってきた訳だけど。
 ロンは本気だった。音楽業界から完全に身を引いたんだ。荷が降りたんだか何だか、全く音楽を演奏しなかった。出ずっぱりを忌避したんだろうな。または、バンドで全然楽しめなかったのか、よく分からないけど。
 ロンは結婚してベンチューラ・ブルバードにビキニ・ショップを買い、座って女の子たちがビキニを選ぶの眺めていられるわけだ(笑)。その仕事がうまく行ったのかどうかは知らないや。あとで離婚してしまったから。実のところ、ロンがどんな仕事をしていたのかは、知らないんだ。
 でも、時々会っていた。ロンはマイクと仲良くし続けていたから。それで、たまにリハーサルとかしていたんだよ。

Q:ロンの代わりに入ったハウイ・エプスタインは "Runaway" で有名なデル・シャノンと一緒にベースを演奏していましたね。どのようにして彼のことを聞いたのですか?

TP:デル・シャノンがぼくに彼のことを話したんだよ。[Hard Promises] の後、ぼくがデルのアルバム([Down and Get Me] ハートブレイカーズが参加している)をプロデュースしていた時、ぼくらのバンドにはベースが居なかった。それでも、ぼくらが演奏をすることになっていた。
 そうしたらデル・シャノンがぼくに言ったんだ。
「わたしの所のぼうやは、すごく良いベース・プレイヤーだよ。シンガーでもある。彼を連れてくれば良いだろう。」
 ぼくは言った。「そりゃいい。」

 そんなわけで、ハウイが加わった。彼が部屋に入ってきた時のことを、鮮明に覚えているよ。何せ見た目でぐっと来る感じだったから。キューバン・ヒールを履いて前髪を盛り上げ、でっかい金のピアスをしていた。
 しかも録音では、すばらしいベースの演奏をした。そして、さらにぼくの興味を引いたのは、彼の歌声だった。ハウイはデルと一緒にハーモニーを歌った。
 ぼくは思った。「これだ」って。この男は本当に素晴らしい高音ハーモニー・ボイスの持ち主だった。これこそが、ぼくはハートブレイカーズに夢見ていたことだった。
 もし望むものが何でも手にはいるのであれば、ああいうテノールを歌える人こそ欲しいを思っていた。

 だから、要するにぼくはハウイを盗んだんだな。
 ぼくはライブをやっていたデルのリハーサルに出かけて行った。アリゾナ州のフェニックスで演奏していた。デルがぼくにバンドと同席してほしいと希望していた。それでぼくはリハーサルを眺めていたんだ。
 そうしたらぼくはすっかりハウイにノック・アウトされてしまった。何せセットの最初から最後まで見ていたわけだからね。彼の歌い方たるや、最高だった。
 それでぼくは、彼のことを知ろうとしてみた。ぼくがホテルでハウイと話したのはフェニックスでのことだった。
 ぼくはこう言った。「ハートブレイカーズに入るってのはどうだい?」
 するとハウイは言った。
「喜んで。だって、ぼくはハートブレイカーズの大ファンだもの。実際、レコードも買ったし、このグループが大好きなんだ。それにデル・シャノンとずっとプレイし続けるつもりも無いし。うん、喜んで入るよ。」

 それでぼくはバンドのところに戻って、ハウイのことを話した。最初はみんな、ちょっとピンと来ていなかったようだな。ギグでのハウイは、ベーシストというよりはむしろギタリストだったから。でも、素晴らしいベースプレイヤーだった。
 とにかく、ぼくはむしろハウイの歌に興味を引かれていた。彼がベースを弾けるということは分かっていた。でも、彼の声こそが凄いのであって、ぼくの声とばっちりブレンドされるはずだ。
 こんな情景を思い浮かべて欲しいんだ。ある時、ぼくらがどこかの空港で乗り換えたときがある。ぼくらが空港の中を移動していると、デル・シャノンのバンドも同じく移動中だった。ハウイも居た。それでみんなで話し始めた。
 ぼくはハウイに言った。「俺らのバンドに入るだろう?」
 ハウイは答えた。「うん、入るよ。」

 デル・シャノンがもの凄く怒って、夜に電話してきた。こう言うんだ。
「いいか、ハウイは駄目だからな。」
 まずいなと思った。デルは続けた。
「あのな、ハウイをさらうなんて駄目だぞ。あいつは私の右腕なんだ。私にはツアー・メンバーが揃っているし、誰を連れ去ったって構わないが、ハウイだけは絶対に駄目だ。」
 ぼくは言った。「デル、愛してる。ハウイはいただくよ。」
 とまぁ、そういう事になった。

Q:デル・シャンノンは許してくれましたか?

TP:徐々にね。うん、許してくれたよ。彼が死ぬまでぼくらは友達だった。でも、多少の期間は、彼がぼくと居て、上機嫌だったとはちょっと思えないけど。
 実際のところ、ぼくはデルの晩年、彼とすごくよく会っていた。
 ある時はジョージやジェフと一緒に、デルの録音にボーカルで参加したりした。折に触れて、一緒に過ごしていたな。ジェフとぼくはデルに曲を書いてあげたし、ジェフはプロデュースもしていた。ぼくは自分の小さなレーベル「ゴーン・ゲイター」をはじめる事になっていて、その最初のアルバムが、デルのレコードになるはずだった。ジェフがシングルのプロデュースをして、マイクが他の曲のプロデュースをする事になっていたんだ。

 あの時(1990年2月8日)、ぼくはツアーの移動中だった。バスに分乗して夜間移動をしていた。ぼくはバスの中で寝ていた。オハイオか、トレドあたりの、アクロンみたいな町で、休憩を取るためにバスを止めた。
 外に出ると凄く寒かった事を鮮明に覚えている。そうしたら、マイクがやって来て言った。
「お前のバスに無線で知らせようとしていたんだ。デルが死んだって。銃で自殺したんだ。ラジオで聞いた。」
「バカな。デマだろう。そんなはずない。」ぼくはそう言って部屋に行き、CNNを点けてみた。もう、それで十分だった…。
 これで、レコード会社を作る話が消えてしまった。ぼくはレコードを作って出したけど、もう気持ちよく出来なくなっていた。
 ぼくはいまだに、あの時なぜ、デルが自殺なんてしたのかが理解できない。でも、たぶんぼくが知っている以上の何かが沢山、彼の人生にはあったのだろう。
 彼は素晴らしく才能のある男だった。長いつきあいだったし、今でも彼が恋しいよ(シャノン、1990年2月8日死去)。

 とにかく、ハウイを奪い取ってしまったわけだけど、デルは許してくれたと思うな。

Q:ハートブレイカーズは長い間、隙のない、結束の堅いバンドでした。ハウイが入ったとき、バンドはすんなり彼を受け入れましたか?

TP:バンドは喜んで彼を受け入れたよ。ハウイはとても格好良かった。
 ぼくが強く印象づけられたことの一つは、ハウイが名声にはまったく興味がないと言うことだった。皆無なんだよ。生涯のなかでも、ごくわずかしかインタビューを受けていない。いつも注目はされていたけど。ハウイは話したがらなかった。その手のことはしたがらない。
 彼はミュージシャンでありたかった。ぼくはハウイのそういう所が好きだった。

 しかも凄まじい歌唱力だった。実に美しい声をしていた。今でもなつかしい。ハウイの歌は、ぼくらのハーモニーの幅を広げてくれた。ハウイとスタンがいることで、出来たことなんだ。後々になってからは、スコット・サーストンとハウイによってね。
 とにかく素晴らしかった。本物の歌を歌うことが出来た。ぼくらは実に多くの歌をこなした。それこそ、ぼくがずっと望んでいたものだった。ハウイはすごく自然だった。音程も正確だし、様々な歌声の表現が出来た。
 しかも、ぼくとじつに上手く合わせられた。ぼくのフレージングを的確に捉えられたんだ。とにかくハウイは最高だった。
 ベースもよくカバーしてくれたし。
 今でもハウイのことが恋しいよ。あの声が恋しい。彼はぼくのシンギング・パートナーだった。ハウイこそが、ぼくと一緒に歌うべき男だった。だからあの声が恋しくてたまらない。とにかく頼りになった。
 ハウイのブレンドはいつも完璧だったし、音程もいつも素晴らしかった。ぼくとまるで同じように歌うことが出来た。ぼく本人みたいにさ。
 ぼくら二人でリード・ボーカルを歌っている、"Something in the Air" っていう曲がある。ユニゾンで同時に歌っているんだ。ぼくの声の多重録音じゃないだなんて、ぜんぜん気づかないよ。でも実際は、ハウイとぼくが同時に歌ったんだ。

 それからハウイの良いところは、音楽的な趣味もぼくらと同じことだった。バックグラウンドもね。
 ハウイは十代でバンドを始めた。彼もバーズやビートルズ、そういう辺りが好きだった。そういうものの良さを理解していた。これは実にクールなことだった。ぼくらは、彼がぼくらとおなじ趣味かどうかは分かっていなかったから。

 とにかく、彼はうまくフィットした。
 ハウイはバンドの中で、政治的に誰の側につくこともなかった。スタンの側にもつかなかったし、ぼくの側にもつかなかった。中立を保っていた。
 それがハウイのやり方だった。実に、実に心優しいよね。そして大きな心の持ち主だった。すごくいい奴だった。

Q:ハウイはスタジオではいかなるエゴも無かったと理解していますが、それは他の誰かがとても良いベースプレイをしても、気にしなかったということですか?

TP:ハウイはその手のことを口にしなかったから。ハウイにはちゃんと理解できていたと思うな。誰でもそういう置いてけぼりと食らうっていうのは、気に入らないものだけど。
 とにかく、ハウイはあまり気にしなかったと思うな。どちらにせよハウイはレコーディングには参加していた。ベースを弾かないにしても、歌うことになるのだから。
 ハートブレイカーズの良いところは、そういう点だ。もしぼくがすごく良いギターソロを弾くと、マイケルが言うんだ。「それ、いいじゃん。」
 もしくは誰かが良いキーボードパートを弾けば、ベンが言う。「ああ、それ凄く良いな。もっと続けろよ」ってね。

Q:1981年に [Hard Promises] を制作したとき、もっと新しいもの、さらに前進した音楽を作りたいと思っていたと言っていましたね。このアプローチに、ジミーは同意していましたか?

TP:ジミーは、ぼくらがちょっとルーズに演奏していると感じていたんじゃないかな。それまでのように、もっときちんとした演奏を持続するべきだとね。
 でも、ジミーは同時にこう考えることも出来た。
「うん、俺はみんながこうやりたいって物の中で最高のものを録るためにここに居るんだ。同時にみんなをリードし、出来る限るのことを尽くしてテープに落とすよ。」
 ([Hard Promises]に関して)ジミーが [Damn the Torpedoes] がそうだったようなロックンロール・アルバムではない、というような事を言った会話もあっただろう。たぶん、自説は曲るもんじゃない。
 それでも、ジミーはぼくらに合わせてくれた。いつも思うのだけど・・・口に出したことはないけど、とにかく思うのだけど、ジミーはぼくらをちょっと軽薄だと思っていたのかもしれない。
 でもぼくは何かをつかもうとしていたんだ。ジミーは理解してくれた。大きな議論にはならなかった。彼もいっしょにやってくれたよ。

Q:マリファナはビートルズに多大な影響を及ぼし、彼らのソングライティングや、レコーディングを変えました。あなたや、ハートブレイカーズにも同様の影響を与えましたか?

TP:(笑)たぶん、それはないな。確かに、身近にマリファナはあった。ハートブレイカーズの全員がマリファナを吸っていたとは思えない。ぼく自身は大酒飲みでもないし、ぼくには何の影響も与えなかった。
 ちょっとは、魅力的ではあった。グルーヴを感じるような、また別世界をもたらすからね。でも、今じゃ嫌いだな。マリファナは強すぎる。そのうち、マリファナからLSDへと行きついてしまう(笑)。
 スタジオでぼくらもマリファナを吸ったものだけど、今じゃ想像だに出来ないね。セッションが完全停止してしまうもの。
 とにかく、あのころはマリファナをやって、インスパイアされることもあった。曲づくりが楽しくなるような別世界を体験するとかね。

Q:曲作りに影響しましたか?

TP:ドラッグが何か良い結果を生み出すとは思わない。助けになると言うよりは、むしろ有害だよ。でも、集中するとか、何か曲を書く気分になるという意味、助けになったこともあった。
 でも、まじめな意味で得るものはなかった。ぼくらはドラッグを信じてはいなかった。ハートブレイカーズに関しては、ドラッグの使用は少ない方だった。誰も大酒飲みでもないし。
 ベンモントはある時期、かなり飲んでいたことがある。想像できないだろうけど、長い間べらぼうに飲んでいた時期があった。でもそのうちにその悪習も止めて、まったく手を出さなくなった。
 だから、ドラッグがぼくらのソングライティングに影響を及ぼしたとは思わないな。

Q:ハウイがバンドの中では政治的に中立だったと言いましたが、ベンモントもまた中立でしたか?

TP:ベンはいつも何らかの意見を持っていた。今でもそうだ。沢山の意見を持っていて、ぼくはベンモントのそういうところを尊敬している。ものすごく純粋主義なんだ。サンプリング・サウンドとか、その手の物を使うのは嫌い。そういうのはあっと言う間に排除してしまう。
 ぼくらが彼に「世界中のみんなが、サウンドをゲットするために、サンプルを使っているんだぞ」と言っても、
「だめだめ、俺らはやらないの」と答える。「俺らは俺らの音でやるんだ。」
 ベンモントはいつも沢山の意見を持っている。すごく物知りだし、ミュージシャンとしてのみならず、音楽そのものと、音楽の歴史や、発展についても熟知している。そういう分野のことを話すのが、ベンモントには楽しいんだよ。
 そして、すごく情熱家でもある。一歩下がることもあれば、ぼくの味方になったり、時としてはスタンの味方になったりもした。だからさ、うーん、そう、ベンモントはいわゆる一言居士だと思うんだよ。

Q:よく、あなたがいかにザ・バーズから影響を受けたかということが語られますが、いつか自分がどれほどビートルズから影響を受けたかを、みんな理解していないと、言っていたことがありますね。
 ビートルズは、間違いなく、アルバムからアルバムへと、どんどん進化していきました。それが、あなたのそれぞれのアルバムで新たな段階へと進もうとする考えの理由の一つですか?

TP:そうだな。ビートルズは多くの人に影響を及ぼした。だって、ビートルズ以前だったら、ロックスターが進化していく姿なんて、見られなかっただろう。ビートルズはヒット曲があってすごく幸せだった。追随者たちも、おなじようにまた然りだ。
 ぼくがいつも驚かされるのはー、ビートルズは信じがたいほどの成功を納め、何でも出来たこと、そしてそれもまた、ヒットし続けたことだ。でも、彼らは彼ら自身の考えをしっかり持っていて、周囲には惑わされず、音楽そのものに集中していたんだ。
 彼らが、ぼくらのモデルだと思う。うん、そういう意味では、ぼくらはビートルズみたいになりたかった。
 ストーンズも同様のことをやり遂げたと思うよ。正直言えば、ストーンズもビートルズをしっかり観察していたんだろうな(笑)。でも、ストーンズも独自の作品を作り、進化していったんだ。

 今でも、ぼくはそういう「磨きをかける」みたいな考え方は好きだ。ぼくらも、自分たちの作品に磨きをかけ続けている。そうやって、リリースをするたびにより純粋なものになっていくんだ。

Q:より純粋なものですか?

TP:そうだよ。長い間気づかなかったけど、それこそがいつも追い求めているものだと思っているんだ。とにかく、ぼくは純粋さを求めているのさ。純粋主義者なもんでね(笑)。音楽の中の純粋さを求めているんだ。
 マディ・ウォーターズや、スリム・ハーポが歌っているのを聞くと、ああいうのはとても純粋なんだ。信じられないくらいまっすぐだよね。純粋さを作り出すには、多くの楽器は必要ない。音楽というものに関して言えば、シンガーを信じてさえいれば、その歌はうまく行く。
 すべては信じることなのさ。シンガーを信じれば、すべてうまく行く。だから、ぼくらは純粋さを追い求めているんだ(笑)。

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 acknowledgement / about the author / forword by tom petty / introduction
part one , life   part tow, songs
 1. dreamville tom petty & the heartbreakers
 2. california you're gonna get it
 3. anything that's rock 'n' roll damn the torpedoes
 4. tangles & torpedoes hard promises
 5. changing horses long after dark
 6. who got lucky southern accents
 7. don't come around here as much pack up the plantation :live!
 8. runaway trains let me up ( i've had enough)
 9. handle with care full moon fever
 10. into the great wide open into the great wide open
 11. somewhere you feel free greatest hits
 12. some days are diamonds wildflowers
 13. angel dream playback
 14. howie song and music from "she's the one"
 15. joe echo
anthology : through the years
the last dj
epilogue, highway companion


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PAUL ZOLLO / Conversations with Tom Petty / 2005



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