カンバセーション・ウィズ・トム・ペティ 2005年 トム・ペティ (完訳) Page 1 2 3 4 5 6
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Q:1984年に、あなたは [Southern Accents] をスタートさせませた。そのとき、南部を車で走り回り、曲のタイトルになりそうな言葉を書き留めていったそうですね。
TP:あれは、南部深部をツアーした時のことだ。単語一つでタイトルになりそうなものを書き留めるつもりだったんだ。"Apartment" とか、"Rebels" とか、"Trailers" とか、そんな調子でね。家に帰ってみると、欲しかったスケッチを手に入れたような感じだった。だから、それを形にし始めたんだ。ほんと、イカれたアルバムだったな。
Q:二枚組アルバムにするつもりだったのですか?
TP:うん、二枚組にするつもりだったんだ。それが一枚になった。それすらも仕上げられなかった。妙な時期だったよ。あれほど長い期間、ロードに出なかったことは無かったと思うもの。ぼくらが歩みを止めてしまった、最初だった。
それまではずっと、「それ行け、それ行け、それ行け!」って感じだった。それが急に、シーン・・・。突然止まってしまった。ロードに出なくなった。あれは83年のことだった。ぼくらは [Long After Dark] でヨーロッパ,アメリカ・ツアーを行い、そしてピタっとやめてしまった。
そんなものだから、成功という悪魔が初めて忍び寄ることになった。何せ、自分で自分の時間を手にしてしまったわけだからね。
ぼくらはロサンゼルスに住み、コカインやらポット(マリファナ)やらを、おっぱじめた。それに、飲酒も際立ってきた。コカインは80年代というあの時期、本当に身近だった。それまでは、あれほどやる事は全然なかったのに。何せ、そういう雰囲気には触れてきていなかったから。
だから、ドラッグの類がスタジオに入り込んで来た時、なにもかもが混乱してしまったんだと思う。ともあれ、コカインが身近になり、アルコールも大量になった。ぼくらはそれまでになく、ワイルドになった。プライベートでもね。ワイルドに、クレイジーになって行った。
何せ、時間が有り余っていた。そういう世界で、どう生活すれば良いのか、分かっていなかった。何をどうすれば良いのやら。
それまではずっと、ちゃんと決められたスケジュールで生活してたんだよ。4時にサウンドチェックがあって、6時に夕食、ライブをやって、移動する。家に居る時は、月曜日から金曜日まで、セッションがある。実に整然としたものだった。
それが突然、家にただ居るだけになった。(このバンドとして)8年も経過したのに、今度はどうすれば良いのか分からない。それまでは、ぼくにとってとても目まぐるしく、決して止まることのない時期だった。
やがてぼくは気づいた。「まずい、俺ってば、こういう普通の生活に向いてない。」
それから、この時期から、ぼくらは家のスタジオで録音を始めた。ぼくも自宅にスタジオを作ったんだ。こいつはとてもルーズなことになった。なんかパーティみたいになっちゃったんだ。いろいろな人がワラワラと現れ出てきた。
ハートブレイカーズっていうのはずっと、凄く仲が良かっただろう?(笑)とても結束が固かった。だから、セッションに部外者はあまり入ってこなかった。訪問者も多くなかったし。ところがこの時期になって突然、えらく沢山の人々が周りに居るようになった。
仕事は遅くなった。トラックからトラックへ、次々とは仕事をしなくなった。動きが酷くトロくなった。
Q:この時期のソングライティングについては、どうでしたか?
TP:そう、"Rebels" を書いた。この時期に書いた最初の曲だと思う。あの時期の一連の動きの始まりだな。とにかく、"Rebels" はうまく行かなかった。この曲には気が狂いそうだった。どうしても上手く行かないのだから。
ぼくはデモを作ってみた。自分の歌と、12弦エレキで。そのサウンドは最高だった。ところが、本番の録音がどうしてもダメだった。
Q:自分でプロデュースを?
TP:そう。やがて、デイヴ・スチュワート(ユーリズミックス)が登場した(笑)。彼はぼくが会った中でも凄いキャラクターの人だな。
彼とは、80年代に出会った。音楽が酷くつまらなくなって行った時代だ。みんな何かを成し遂げようとしていたけど、ウソ臭いキーボード・サウンドばかりだった。やたらと飛んだり跳ねたり、ポーズを取ったり。
そんな時、ジミー・アイヴィーンが、スティーヴィー・ニックス向けの曲を探していた。それでぼくの所に来たんだ。
ぼくは「何も残ってないよ。あげられる曲は全然無いんだ」と言った。
すると、ジミーが言った。
「俺、すごいフラストレーションが溜まってるんだ。ライターを探してるのに。だれが良い曲を書けると思う?」
ちょうどそのころ、デイヴが "Sweet Dreames (Are Made Of This)" を出していた。ぼくはこの曲は凄く良いと思っていた。ほかにも何曲か聞いていたのだけど、本当にすばらしかった。
それでぼくは言った。「あの、デイヴ・スチュワートにトライしたら?イングランドに住んでて、ぼくは知り合いじゃないけど。ライターとしては、かなり固そうだよ。かなり良さそうじゃないか。」
その後、何週間もしないうちに、起こったのは、デイヴ・スチュワートからぼくへの電話だった。彼はこう言った。
「やぁ、俺、こっちに来てて、ジミーから、きみが俺を勧めたって聞いたよ。スティーヴィーとか、ほかの人のために曲を書きに来たんだけど。来ないか?一緒にやろうぜ。きみにも会いたいし。」
ぼくらはハリウッドのスタジオで落ち合った。サンセット・サウンドだった。ぼくがそこに行って会ってみると、ぼくらは凄く気が合った。速攻で。
彼はLAが初めてで、しばらく滞在するつもりだった。ぼくらはすっかり盛り上がってしまった。それからつるむようになって。彼はエンシノのぼくの家にも来た。ぼくのスタジオでもつるんで、一緒に曲を作り始めた。そして一緒に "Don't Come Around Here No More" を書いたんだ。デイヴはプロデュースも手伝ってくれた。この曲の作業は、ひと月もかかりそうな感じだった。
Q:全体的に変わっていますよね。
TP:普通じゃないね。ぼくが過去に聞いたどの曲にもない。
Q:あのドラム・ビートと、シタールの音。
TP:アレンジの賜物だな。かなり変な曲だよ。
Q:どうやって書いたのですか?アコースティック・ギターで作ったのですか?
TP:そんなところだろ。デイヴが基礎になるアイディアを持っていた。あのコード・パターンだよ。それに、ぼくが幾つかコードを足したんじゃないかな。
さらに、あの倍速になるエンディングをくっつけた。スタンリーのプレイに細工したみたいな感じで。
Q:スタンは、あの曲の全体で叩いているのですか?
TP:デイヴが自分のドラムマシーンで、刻んでいたんだ。それを取っ払って、本物のドラムを全体を通して入れた。だからすべてにハートブレイカーズが関わっている。なかなかの演出だよね。
曲の出だしに、かなり速い、ちょっとしたベースが、スパイスのように利いている。これは、デイヴがテープをイングランドに送って得たものなんだ。あっちに、彼と仕事のしたことがある、凄いベース・プレイヤーが居て、デイヴはそのプレイが欲しかったんだ。
それでテープをイングランドに送ったんだけど、戻ってきてみたら、かなりヘンテコなジャズっぽいベースが入っていて(笑)、使い物にならなかった。でも、ひと節は曲の出だしに取っておいた(出だしを口ずさむ)。
ともあれ、かなりイカれた作業行程だった。曲の中間あたりには、ピアノの音を入れた箇所があっって、それを録音したテープを、バグズがキャプスタン(テープの走行速度調整装置)を手動で速めて入れ込んだ所なんかもある。そうしたら、ブィーン・・・みたいな変なサウンドになった。俺たち、かなりイカれてた。
ぼくらはこの曲を作るのに、町じゅうをかけずり回った。さらに、大勢の人が周りに集まってきた。 デイヴはすっかり気に入ってしまって、ぼくのところから一つか、二ブロック向こうに、家を買ってしまった。エンシノにね。今でもあるよ。
彼は家を買うや否や、増築を始めた。許可も何もあったもんじゃない(笑)。さらに、とてもすてきなスタジオも作った。後になって、なんとこの家はマイケル・ケイマン(故人。才能あるアレンジャー,作曲家。[Wildflowers" や、ピンク・フロイドの [The Wall] にも関わった)が買う事になった。デイヴはこの家でよく仕事をしていたし、ウィルベリーズの最初のアルバムもここだ。一部だけだったかな、とにかく。
ともあれ、ぼくらは楽しくやっていた。ぼくらはヌーディーズに行って、カウボーイハットを買った。グレン・パーマーっていう仕立屋が居て、ラインストーンと、ドクロ刺繍付きのカウボーイ・スーツを仕立ててくれた。それを二人して着て、くり出したりして。そういう時期を迎える前兆だったのかな(笑)。
とにかくぼくらは楽しく過ごした。いまでのよく思い出すけど、デイヴはよくパーティなんかを開いた。道化師なんかも居るような、かなりワイルドなパーティだった。ティモシー・リアリーなんかも居たな。それに、(ロジャー・)マッグインなんかも。まるであの時、LAに居た人が全員参加していたかのようだった。
ぼくらはしょっちゅうつるんでは、楽しく過ごしていた。あの84年という年は、ちょっとやらかし過ぎたにしては、クリエイティヴな年だったと思うよ。創造性に満ちていた。
ハートブレイカーズのほかのメンバーは、デイヴをやや警戒していたと思う。ぼくのようには、デイヴの事を受け入れてはいなかった。ハートブレイカーズという、少人数でとても結束の固いグループに、外部の人間が入り込んできた、最初だったんだ。
Q:でも、プロデューサーたちは外から来ていたわけでしょう?
TP:たしかにそうだけど、デイヴはそれとは違った。みんなが疑いを持っていたのは、デイヴがぼくと一緒に曲を書く点だった(笑)。
それにデイヴはかなりのキャラだったから。だからみんなは、デイヴに対して、ちょっと警戒心を抱いていたと思う。一旦知り合ってしまえば、みんなデイヴが好きになったと思うけど。
とにかく、楽しくやっていた。ぼくらはどこにでも出かけて行った。クラブやら、そういう色んな所に。そして一晩中そこで過ごしていた。とにかく楽しんだね。デイヴは、何年経っても、色んな事を思い出させてくれるよ。今でも会うし、友達なんだ。
それから、デイヴはアニー・レノックスを、イングランドからでてくるように説得した。それで、ときどき彼女とも一緒に居るようになった。あのころのこと、良かったなぁなんて、思い出すよ。
あれこそまさに、デイヴだった。デイヴはイングランドから飛び出しては、ぼくの家の門でベルを鳴らす。いかにも彼らしく、全く前触れ無しにだ。一ヶ月彼に会わなかったとするだろ。門のところでベルが鳴ると、デイヴが居るんだ。しかも、ボルネオかどっかのジャングルに行ってきましたみたいなサファリ・スーツなんか着込んでいる(笑)。そういう事があんだんだよ。
そしてただ、「よう、入れてよ」なんて言う。ノコノコ入ってきて、シリアルを食べているぼくの子供たちに、「それ、ちょっとちょだい。まだある?」とか言うわけ(笑)。そしてただ子供たちと一緒に座って食べ始める。食べ終わるや否や、(機材の)ブラグを差し込む。
とにかく、いつやって来るか分かったもんじゃないんだ。でっかいハーレー・デイヴィッドソンに乗ってくるんだよ。それから、60年代物のボディが長く、大きなフィンのちたキャデラックも持っていた。ものすごくド派手だった。
デイヴは、有名人で居ることが好きなタイプの人だった。実際、有名人であることを楽しんでいた。どんどんビッグになっていった。ぼくなんかは、そういう事からは離れようとしていたのにね。彼は心から楽しんでいた。大したものだよ。ぼくらは楽しくやっていた。
Q:"Don't Come Around Here No More" で使っているのは、本物のシタールですか?
TP:いや、あれはコラール・シタールなんだ。60年代に作られたものだ。すごく格好良い楽器さ。ギターでありながら(共鳴弦が鳴っているような)自動演奏装置もついていて、ヘッドの裏側はプレキシガラスで出来ている。こいつを弾けば、たっぷりとした共鳴音が得られるし、自分の好きな音程をモノにできる。それに、本当のシタールみたいな音がするしね。ギターの音一つ一つが、シタールのように鳴るんだ。
だからこの楽器は、60年代頻繁に用いられた。ザ・ボックストップスの "Cry Like A baby" みたいにね。あれはその例だ。ぼくもこの楽器を一つ購入して持っていたので、こいつがメインのリフを担うことになった。
それから、もちろんあのビデオだよね。あれはデイヴとぼくのアイディアだったんだ。デイヴはまさにこう言ったんだ。
「よし、この曲にはすげぇビデオができるぞ。」さらに、「俺は、シタールを持って、マッシュルームの上に陣取ろう。」と来た。オーケー(笑)。そんな具合で話が始まった。
ともあれ、かなりイカれた時代だったからね。あの "Don't Come Around Here No More" の録音には、チェロも使われている。ぼくが「チェロなって良いじゃないか」と言うと、デイヴが「心配するな、俺が良いチェリストを連れてきてやる」と言った。
そしてデイヴがセッションに来て、「おい、ロサンゼルス・フィルハーモニックのチェリストをゲットしたぞ。」と言った。
かくして、その人がやって来た。デイヴとぼくは、キラッキラのラインストーン付きのカウボーイ・スーツを着ていた。あのチェリストは、ぼくらにちょっとビビったんじゃないかな。
彼が来たので、ぼくらは「やぁ、入って。それから、こいつにプラグを差し込んで。きみのために、良いのを準備してあるから。」と言った。
するとチェリストが言った。「あの、楽譜が必要なんですけど。」
そりゃもちろん、デイヴは音を譜面に起こした事なんてありやしなかった。それでぼくが言った。
「俺たちがテープを流すから、好きなようにジャムって欲しいんだ。その中から良いのを選ぶから。」
そしたら(笑)チェリストがこう言ったのを覚えているよ。「あの、まったく楽譜無しで弾いたことって無いんですけど。」
それって、ぼくにとってはすごく不思議なことだった。楽譜に書かれていない事を演奏したことがないって。そしたらデイヴが言った。
「あの、お名前は?」
ラリーとかそんなような名前だった。デイヴが続けた。「ラリー、今夜は思いっきり楽しい思いをすることになるぞ。」(笑)
そして、この人とジャムることになった。満足そうだったよ。とても良かった。ぼくらはどうプレイのきっかけを掴むか、彼に教えてやった。そして演奏を編集して、あれこれと使うことにした。
これはデイヴの典型的な仕事だ。ああいうのがデイヴのやりかただった。本当にイカれた奴だったけど、同時にとても優しい人だった。本当に親切なんだ。それと同じように、ぶっ飛んでいた。
Q:ほかにもストリングスが鳴っていませんか?
TP:ほかのストリングスは、ストリングスの音をサンプルリングした鍵盤を、ベンモントが弾いているんだ。あれは全部ベンで、中間部のアレンジには、ベンが登場する。
作ってて、長い作業だった。ぼくらはこの曲をシングルにしようとしていた。ぼくはそうしたかったし、それ用に作った。実際、ぼくらは2週間か3週間かけたと思う。最後までやり遂げようと、トライ・アンド・エラーを繰り返した。
Q:あなたがメロディを書いたのですか?
TP:うん。デイヴも頭の中ではいくらかメロディを描いていた。
Q:私は、"Stop!" のところで、一瞬止まるのが好きです。
TP:あれはデイヴのアイディアなんだ。"Stop!" って言うアレ。女性コーラスを使ったんだけど、あれは偶然だった。
ぼくらが最初にサンセット・スタジオで仕事を始めたとき、同時にスティーヴィー(・ニックス)もこのスタジオを予約していた。でもスティーヴィーはセッションをキャンセルした。そしてコーラスの女の子たちが残ってしまった。
そこでデイヴが言った。「あの子たちを入れて、どうなるか試してみよう。」それであの部分をやってくれたんだ("Ah ah ah ooh ooh" を口ずさむ)。
その中にステファニーって子が居て、あの最後のところの、ものすごい声の高い、叫ぶようなパートをやってもらった(笑)。
彼女は、どう歌えば良いのか、少し苦労していた。そうしたら、彼女が歌っている最中に、デイヴがパンツ一丁で録音している部屋に飛び込んでいった。そしたらすごく上手く行った。彼女は音域を掴んで、あの音程に到達したわけだ。それから吹き出してしまった。
とにかく、デイヴはそういう男だった。彼は彼女の、いわゆるはっちゃけた部分を引き出したんだ。
そんなわけで、ぼくらは仕上がりには満足していた。レコード会社の人にこの曲を聴かせると、当惑しているみたいだったな。ぼくのそれまでの曲とは全然違っていたから。会社の人たちにしてみると、この曲はちょっと素っ頓狂に思われたんだろうね。
でもあの頃、プリンスの "When Doves Cry" が出ていた。ぼくには、やり方こそ違えど、同じようなモノなんだと思えた。だからこう言ったのを覚えている。
「プリンスのレコードを聞いてみなよ。あれもかなりぶっ飛んでいるけど、大人気じゃないか。」
それで連中も分かって来たんじゃないかな。特にぼくらがビデオを作ると、こいつはイケると思ったらしいし、実際にそうなった。
Q:ハートブレイカーズのメンバーは、この曲が好きでしたか?
TP:(ちょっと考える)さぁね。マイクは最初、好きじゃなかったと思う。ある時、あいつがぼくの所に来てこう言ったのを覚えている。
「家でこいつを流してみたけど、みんな、こいつが嫌いだったぞ。」
ぼく自身は嫌いじゃないと思ったけどね。すごく良いし。その点には確信がある。この曲はとても好きだ。今でも聴くと好きになる。
たしかに、ぼくらがそれまでやってきたのとは、多くの点で異質ではあるだろ?ただ、ぼくらがやってなかった、っていうだけなんだ。ぼくは、あたらしいページへの新たな発見を切望していた(笑)。それまでには無い、何かへだ。あの時期にとって、それが助けになった。この録音については、誇りを持っている。本当に上手く行ったよ。
Q:またデイヴと仕事をするつもりはありますか?
TP:どうかな。しばらく会ってないんだ。彼はイングランドに住んでいるから。彼は突然訪ねて来たりする。いつも予告無しに。デイヴがいつ出没するか、誰にも分からないんだ。
ぼくがイングランドに行くと、よく彼に会った。デイヴはジョージ(・ハリスン)のことも良く知っていて。ぼくがジョージの家に行くと、そこにデイヴがしょっちゅう現れた。ぼくらはとても仲が良かった。ぼくの子供たちは、デイヴのことをちょっと変わった人だと思っていた。同時に、デイヴのことが大好きだった。いつでもちょっと変なんだよね。
あの人、何でもビデオで録画するんだ。一度デイヴの家に行ってみたら、何だかで病院に行っていたとか言って、そこでもビデオでを回していたらしい。全部録っていたんだ。
ぼくが子供たちと一緒にデイヴの家に行ったら、こう言って見せるんだ。
「おーい、これこれ、これ見ろよ。病院でナースが俺に浣腸してるところ!」
「いや、あの・・・子供が居るんですけど。」
「何も見えやしないって。俺の顔だけだ。」
「デイヴ。俺、あんたが浣腸されてるところ、見たくない。」
とにかく、ぼくらの録音はとても良かった。
デイヴは一時期、イングランドで色んな人と録った短いビデオの番組(Byond the Groove)を持っていた。ぼくとやった回はとても素晴らしかった。一度だけ見たことがある。実際のところ、ジョージの家で見たんだよ。夜に偶然やっていて、一緒に見たんだ。
撮影は、ハリウッドのグリフィス・パークでやった。あそこには、よく撮影で使われる洞穴があるんだ。
Q:ああ、ブロンソン・ケイヴスですね。
TP:そうそう、そこで録ったんだ。キャンプファイアーのそばでちょっとした即興をやった。第三次世界大戦後の、世の終末っぽい感じなんだろうな。全部ぼくに任されていて、そのシチュエーションから、自分で即興をやらなきゃならなかった。うまくやったと思うよ。
一番すごかったのは ー ああ言うのは、ハリウッドならではなんだろうけど、ー シーンの半ばで、西部劇の騎馬連隊がまるごと、乗り込んできたところだ。出来の悪いセットに乗せられててね。方向を間違えてセットからこぼれてしまった。
でも流れを止めることなく、ぼくは即興をやり続けていた。かくして、騎馬連隊はお役御免。
ほかにも良いのがあったな。映画の撮影で、どう車をトレイラーの上で引っ張るか知ってる?実際の車の車輪は回っていないんだ。実際は車がトレイラーに載っていて、カメラも一緒に載っているんだよ。
デイヴはぼくをキャデラックに乗せると、町中を連れ回した。マルホランドやら、ヴァレーやら。ぼくはその間中、即興でやっていた。なかなか見れないだろうな。ぼくらのビデオ・コレクションに入っている。20分くらいのクリップだ。実際どれほど使われているかは知らないけど、とにかく楽しかった。
その数週間後、ライトを満載し、後ろにデイヴを乗っけたトレイラーが走っていくのを目撃した。まぁアレだ、イカれてる(笑)。まともだったことがない。一度に色んなことをやらかそうとするから、とんでもないことになる。
Q:音楽についてもですか?
TP:何についてでもだよ。時々、デイヴは自分自身をぺちゃんこにしてしてでも、手を広げ過ぎなんだと思う。でもそれで何か良いものを掴むと、それは本物なんだ。
彼はジャンルにとらわれないギター・プレイヤーだし。でも、彼がギター・プレイヤーとしてライトを浴びたことはないんじゃないかな。色々弾くからね。多くの人は、デイヴのことをキーボード・プレイヤーだと思ってるんだろうけど、実際はそうじゃない。
とにかくさ、ぼくらは楽しく過ごしていた。デイヴがしたことでただ一つ気に入らないのは、その後すぐのロードで、ホーンと、女性コーラスを連れて行けとぼくを説得したことだった。
Q:あなたは乗り気ではなかったのですか?
TP:乗り気じゃなかった。でも何でだか、絶対に良いアイディアだ、って言うデイヴの言うことを聞いた。
ぼくは管楽器奏者と話したことすらなかった。彼らとの最初のリハーサルが始まっても、何がどうなるのか想像もつかなかったし、女性コーラスがどう歌うのかも分からなかった。バンドの連中は嫌がっていた。ぼくらはすぐに省くことにした。
でもこの時期、ぼくらはライブ・レコードを作っていた。そんなこんなで、(ライブ・)レコード全般にホーンが入っている。これに関してはお気に入りというわけにはいかない。
長く生きてると色々学習るすもんだねぇ。とにかく、全部デイヴのせいだから(笑)。
Q:[Southern Accents] では数曲、ホーンを取り入れていますね。
TP:あのアルバムを作り、プロデュースし直す段階において、ホーンや女性コーラスを入れれば、アルバムの性格がはっきるするというのも、一つの考え方だった。
でもぼくらは、外部の人をたくさん参加させるようなタイプのバンドではなかった。だからこのアルバムが、ハートブレイカーズのアルバムでありながら、ハートブレイカーではない人が多く参加する、最初のものになった。スティーヴィー(・ニックス)みたいに、ごく少数の人しか、それまでハートブレイカーズには加わってこなかったと思うよ。
そんなわけで、ぼくらは女性コーラスを使い始めた。それから、ホーン。デイヴが言った。
「金管。管を入れなきゃだめだ。管が居なきゃ、何も出来ないぞ。全然違うノリになるんだ。」
それで、ぼくらは使ってみることにした。ホーンは数曲にしか使っていない。でも問題は、アルバム全体に影響したと思う。"Don't Come Around Here No More" に関しては、素晴らしいシングルが出来たと思う。でも、アルバムにとってはマイナスになった。アルバムのコンセプトからは外れていたから。"Don't Come Around Here No More" っていうのは、南部的な言い回しだとは思う。でも、このアルバムにおいてそれほどの意味を持たなかった。
一方で、B面に格下げとなった "Trailer" みたいな曲が重要だった。そういう意味で、このアルバムはきつかった。それに、このアルバムは結局仕上がり切れなかったとも思う。
とにかくぼくは疲れ切っていて、やり遂げることが出来なかった。あのころ、バカみたいなパーティばかりだった。ぼくの家も滅茶苦茶で。ありとあらゆる人で溢れていた。真夜中に録音したりしていた。
これはちょっとイカれた生活だった。ぼくには導きと助けが必要だった。だからジミー(・アイヴィーン)を呼び戻した。彼は賢明にもこう言った。
「まず俺がすることは、お前を家から出すこと。」
そしてぼくらはヴィレッジ・レコーダーへ行き、アルバムを仕上げた。それでもなお、ぼくらは "Rebels" を仕上げていなかったんだ(笑)。
Q:この曲にホーンを入れたかったのですか?
TP:うん、取り込みたいとは思っていた。ぼくはすべてのプロデュースをしていた。そのことはいつものことだった。
ぼくらはミキシングをしていた。そして、ぼくはほかの部屋へ行った。そこでデモを聞いてみた。デモの方が、今ミキシングしているものよりも良かった。
ぼくはデモほどに良いトラックが録れないことに心底イラついてしまい、壁をぶん殴った。手は完全に砕けた。まさにやっちまった。木っ端微塵。
Q:どちらの手ですか?
TP:左手。今でも縫合した後があるよ。複雑骨折していた。
Q:壁は壊れましたか?
TP:いいや(笑)。壁は平気だった。突如、ぼくの手ははミッキー・マウスみたいな大きさに腫れ上がった。ひどく恐ろしかった。ぼくは病院に行った。すると向こうは「こいつは、専門家が必要です。」と言った。
そこで専門家の所に行ったのだけど、この時点で手はますます大きくなり、ひどい腫れようだった。ぼくとトニー(・ディミトリアディス)が居たのだけど、その専門家はすぐにこう言った。
「あの、そうですね・・・あなたが大工さんとか、配管工なら別に良いのですが。あなたの指をもとに戻せるかどうかについては、何とも言えません。」
みんな噂した。「あいつ、手を怪我して、もう二度とギターは弾けないないって。」ぼくは真に受けなかった。「また弾けるようになるさ」と思った。
そんな訳で、ぼくは手の大手術を受けた。それは骨のないところを、金属の鋲で補っていくというものだった。そしてこの医者は完璧にぼくの手を作り直した。
ぼくはしばらく病院で過ごした。レコーディングは中止し、8ヶ月もの手の治療に入った。さらに訓練もあった。電気治療なんてのもあって ー 自分の脳の預かり知らぬで指を動かされるってのは、ひどくキツかった。電気ショックを与えて、指を動かすんだ。
あれはかなりの体験だった。長い間、手を使えない生活を送った。ぼくはアルバムを仕上ている途中だった。ダブル・アルバムの最後にきていた。「オーケー、残りを仕上げるぞ」っていう段階だった。ぼくはその先に進めなくなった。
この状況が、ぼくを我に返らせた。パーティは終わり、バカなまねはもう止めだ。完全にだめになってしまう寸前だった。だからもう止め。
ぼくはジミー・アイヴィーンを呼び戻して、[Southern Accents] を完成させた。
Q:良いアルバムですよ。
TP:うん。良くはなったと思うよ。でも心の中ではいつも、やりそこなったと思っている(笑)。いつも、ぼくではやり切れなかったことを、やろうとしていたと思うんだ。コンセプト・アルバムとしての出来が良かったとは思わない。ちゃんとカバーし切れなかった。でも、聞いてみると良いアルバムさ。
Q:"Rebels" の仕上がりについて満足はしましたか?
TP:いや。
Q:ヒットはしましたよ。
TP:うん。ぼくはいまだに、もっと良くなったはずだと思う。ヴォーカルも良かったとは思えない。もっと上手に歌えた。はっきりせず、混乱している。もっとはっきりと歌えたはずなんだ。
Q:事故(手の怪我)の後で歌ったのですか?
TP:覚えてない。今だったら、デモからヴォーカルを取って、それを中心に録音を構築する。でも、そういう手法はとらなかった。それほどスマートではなかった。もう一回やりなおさなきゃと、ずっと思い続けていた。ちゃんとは録音されていないんだから。いまなら、同じような方法を取ったり、元のヴォーカルの周りに構築したり、どっちの手法も使えるんだけどね。
結局、デモで録音したほどには、上手くは歌えなかったんだと思うよ。
ぼくのローディ、バグズ、知ってるだろ?ぼくらが車で走っている時のことだ。バグズがこう言った。
「未だにあのレコードは聞けないよ(笑)。"Rebels" を聞くと、あのころの毎晩、毎晩、毎晩のことを思い出してしまう。ひどいフラストレーションだった。」
Q:手を怪我してから、またギターでコードを弾けるようになるまで、時間がかかりましたか?
TP:だいたい8ヶ月かかった。そのときに、実際コードを押さえられたかどうかははっきりしないな。とにかく、手を器用に使いこなせるようになるには、8ヶ月かかった。でも、あれはぼくにとって、なるべくしてなったんだと思う。
Q:手の機能を失ってしまうのではないかという恐怖はありませんでしたか?
TP:もちろん、多少は怖かった。でもいつも、大丈夫だと思っていた。たとえ、以前にくらべて多少限界があるにしてもね。
ぼくの手は、まったく同じレベルの機能を持っているとは思っていないんだ。人差し指を動かすと、小指がちょっと引っ張られるみたいな感じがするんだよ(笑)。だから少し障害があると思う。
Q:ギターの演奏には影響しましたか?
TP:少しね。新しい弾き方を学習しなきゃならなかった。すごく練習が必要だったし、限られた中でのやり方を探さなきゃならなかった。だから、やっぱり手を怪我するってのは良くないね(笑)。
Q:かなりコカインをやっていたと言いましたが、ソングライティングに影響しましたか?
TP:いや。単に手を怪我するのに役立っただけさ。
Q:[Southern Axcent] 向けに、デニー・コーデルと録音したのですか?
TP:うん。でも、使われなかった。すごく良い録音だったよ。ボックスセットに入っている。"The Image Of Me"って曲だ。コンウェイ・トゥイッティの歌でね。ぼくらは全然違うアレンジでやってみた。今まで録音した中でも、お気に入りの一つだ。とても良かった。
まだアルバムを二枚組にしようとしていた頃だった。ぼくらはしばらくデニーとは会っていなかったのだけど、あるとき彼がひょっこり現れた。それで、ぼくの家で録音したんだ。彼が曲を持ち込んでぼくにあてがい、やってみることにした。
デニーときたら、おかしいんだよ。ぼくらに途中からは絶対にやらせないんだ。途中をちょっと録るみたいのはないんだ。最初のゴーサインから全部録音する。
もしボーカルがミスれば、途中まで戻って、そこかれやってみるなんてのは、よくある事だ。でも、彼はそれを駄目だと言うんだ。デニーは、完璧なライブ録音が欲しかったんだ。
Q:この曲は、二枚組のアルバムを一枚にしたことによって、カットされたのですか?
TP:そう。入れられる曲は限られていた。いつも、アルバムが仕上がっても、すごくたくさんの入りきらなかった曲が残るものなんだ。いつもはたくさん余るけど ー [Damn the Torpedoes] までの頃ははそうでもなかったな。[Torpedoes] の時は、余りは無かった。あのときは文字通り、全てをやり尽くした。でも、[Hard Promises] の頃からは、入りきらない曲がたくさん残るようになった。
Q:この時期に後にドン・ヘンリーの曲になった "Boys Of Summer" をマイクが出してきたものの、あなたが却下したと私は理解していますが、本当ですか?
TP:うん。あいつはあれを持ち込んできたけど、ドン・ヘンリーの曲になった。でもマイクは、ほとんど全部を録音していたんだ。ぼくはあいつに、コーラス部分が良くないって言った覚えがあるよ(笑)。コーラスは良くなかった。メジャーではなく、マイナー・コードが使われていた。ぼくはピアノの前に座り、コーラスのところでメジャーを入れれば、もっと効果的だって、マイクに聞かせたんだ。バックビート以外は何もなかった。
ぼくがコーラスを書けば良かったんだろうけど。でもぼくには無理だったか、あまり気が向かなかったんだな。
Q:曲作りには関わったのですか?
TP:ちょっとだけ。ぼくにしてみると、この曲は [Southern Accents] にはちょっと違う曲だという感じがしていた。
だからマイクが来て「なぁ、ドン・ヘンリーがこの曲をすごく欲しがっているんだ。あげちゃっても構わないか?俺、この曲はどうにかしたいんだ。」と言ったとき、ぼくは「うん、いいよ。やって」と答えた。
ぼくは "Don't Come Around here No More" をシングルにしようとしていた頃だったし。("Boys Of The Summer")に関しては、マイクが一人で録音したんだと思う。その上に、ドンが歌ったんだ。こうして彼は、[Southern Accents] と同時期に、ビックヒットをモノにすることになった。
ぼくは良かったなと思ったよ。彼の為になれたんだから。
Q:曲の仕上がりは気に入りましたか?
TP:うん。定番曲だよね。良く出来ている。
Q:そして最終的に、コーラスではメジャーコードを使ったわけですね。
TP:そう、そういうわけ(笑)。
Q:マイクがあなたに曲を渡すとき、彼は歌っていますか?それとも完全に楽器だけなのですか?
TP:全部楽器だけだね。
Q:彼の録音に、あなたがメロディと、歌詞をつけるのですね。
TP:うん。たまに、ぼくがブリッジを書いたり、あれこれとコードを変えることもある。
Q:テープを使うのですか?
TP:マイクはぼくにテープをくれるんだけど、ピアノかギターで聞かせてくれるくれる方が好きなんだ。それにぼくが付け加えていく。このやり方はぼくにとって、贅沢で良い手法だろ。テープだけだと、単純作業になってしまう。"Refugee" なんかはテープでの作業だったけど。結局、録音したときはそれとまた違った。ぜんぜん違うアレンジだった。
Q:あなたがマイクの曲に詞をつけるときは、あらかじめ頭のなかにある詞をあてはめるのですか?それとも曲そのものに沿った形の詞を考えるのですか?
TP:まっさらな状態から始める。自分をまっさらにするんだ。ぼくが何かを感じ取って思い浮かべたところから、全てが始まる。なにも感じなければ、あまりこだわらない事にする。
Q:マイクの曲の中で、採用しなかった物もたくさんあるのですか?
TP:だって、あいつべらぼうな量を作ってくるんだぜ。まじかよ、こんなに作ったのかよって。テープをくれると、20曲は入っている。その中からぼくがどうにか出来そうだと思うのは、一つか二つだな(笑)。とにかく、マイクは大量に書くんだ。次から次へとね。
"Refugee" に関しては、あいつのテープを聞いて、かなり早く書けたことを覚えているよ。詞はあっと言う間にできた。ブリッジはテープに入っていた。あとは、本当にぼくがメロディをつけるだけだった。コーラスがどうなるかに関しては、あいつがぼくと同じ見方をしていたとは思わないな。それでも、ものすごくうまく行った。
ぼくらはこんな風にして、一緒に曲を作っていくんだ。決して一緒に座り込み、顔を突き合わせているわけじゃない。マイクはいつもテープをくれて、その中からぼくがやれそうな曲を選ぶ。ぼくはそれを取り上げてよく考え、自分自身で仕上げてみるんだ。
そして一緒にスタジオに入ったときに、デモのを参考にしたり、しなかったり。場合によっては、デモとは全く異なる仕上がりになることもある。また別の場合では、テープを参考にして、「こいつが良いよ、こういう風にやってみようぜ」とか言ったりするのさ。
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Chapter 8 Runaway
Trains
Q:1985年、アルバムを制作すると、[Southern Accent] ツアーを行い、ライブアルバム、[Pack
up the plantation
]をリリースしました。そしてボブ・ディランと出会い、ファーム・エイドで一緒にプレイしましたね。
TP:あの後すぐだったと思うよ。ベンモントがボブ・ディランとセッションをしていたから、彼はボブの事を知っていた。でも、実はもぼくはその前にボブに会っているんだ。
Q:いつですか?
TP:おかしな話なんだけど、77年か78年だよ。ぼくはボブのコンサートを見に行ったんだ。ぼくとバグズ(TP&HBのローディー)と一緒に。ぼくらはシェルターのスタジオを出発して、ユニバーサル・アンフィシアター
に向かった。ところが、途中でタイヤがパンクしてしまった。それで二人でタイヤを換えてさ、すっかり油だの埃だので汚れてしまった。
やっとアンフィシアターにたどり着いて自分の席を見つけたとき、ちょうどライブが始まった。
ライブの半ばになると、ボブは観客の中に居る有名人の紹介をした。いつもの事さ。「ジョニ・ミッチェルが来ています」みたいにね。それで、拍手が起こる。
すると突然、ボブが言った。「トム・ペティが来ています。」そして拍手。その時になって初めて、観客たちはぼくが誰だか認識した。だって、ぼくはまだレコードを2枚出しただけだったからね。
そうしたら、スタッフがぼくらの席に来てこう伝えたんだ。「ボブがあなたに、楽屋に来て欲しいと言ってますよ。」それで、ぼくらは楽屋に向かった。時間も短かったし、お互いをまだ知らなかったから、特に何があったわけじゃない。とにかくぼくはボブに紹介された。数年後、ベンモントとマイクがボブのセッションに加わる事になる。
ボブはあのころ、あまりツアーをしていなかった。
ちょっと驚いたことに、エリオット・ロバーツ(ハートブレイカーズの元マネージャーの一人)が、ぼくにこう言った。「今日、ボブと話したのだけど。彼、きみらにファーム・エイドでバックバンドをやってほしいってさ。」
あのとき、ライブ・エイドがあったばかりだった。あれは凄いショーだった。
(ライブ・エイドは1985年7月13日、ロンドンのウェンブリー・スタジアムと、フィラデルフィアのJFKスタジアムで行われた。この同時進行のベネフィット・コンサートには数十のアーチストが出演し、エチオピア飢饉の難民のための資金を得た。このイベントは、ブルームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフの提唱にによって、行われた。)
トレイラーの楽屋が、ステージから何マイルも離れていたのを覚えているよ。ぼくらの場所は、ボブ・ディランにキース・リチャーズ、ロニー・ウッド、レッド・ゼッペリンと一緒だった。
バックステージでぼくらは、ピクニック・テーブルを囲み、テレビでショーを眺めていた。
ボブはトリの前に、アコースティック・ギターだけを持って出ていった。でも、観客たちは、背後のカーテンを見上げていた。ありゃ最低なセットだったな。
ボブはコンサートの間、農業従事者のための資金を集めるコンサートは悪くないって話していた。それをウィリー・ネルソンが聞いて、ボブに言った。「おい、その農業のためのやつ、やろうじゃないか。」
だからファーム・エイドの時、ボブはアコースティックでプレイしたがらなかった。バンドが欲しかったんだよ。バックを務めてくれるエレクトリック・バンドがね。
それで、ぼくらが行って、リハーサルをした。何回もリハをした。何曲も何曲もやったね。
ボブはハートブレイカーズを愛してくれた。速攻で気に入ってくれたんだ。すぐに、とてもたやすく、上手く行った。ボールを投げれば、ハートブレイカーズはとてもうまく捕球して、続けることができるんだよ。
ぼくらはリハーサルを繰り返し、ショーに必要以上の曲数を練習した。
Q:ディランがリハーサルをリードしたのですか?
TP:そうさ。彼が引っ張った。やりたい曲の断片だけを、ぼくらに聞かせるんだ。
彼がギターでやるのを見て、ぼくらは曲がチェンジしたことを見極めるんだ。そうしてぼくらも演奏を始める。どこでもやりたいところで、そうしていたな。
そしてイリノイ州シャンペインに行った。おおきなフットボール場だった(イリノイ大学メモリアル・フィールド)。
とても楽しかったね。ぼくにとっては、ライブ・エイドよりも良かったから。
ライブエイドでの単独演奏を見てみると、あまり好きになれない。ダメダメでさ。ぼくが悪いんだろうけど、とにかく気に入らなかった。
レッド・ゼッペリンが良かったよ(笑)。実は、ジミー・ペイジがぼくの腕を取って、ぼくらを彼らの演奏するステージ脇に連れていったんだ。彼らのステージを楽しんだよ。
でも、とにかくあれはぼくら向きのショーでも、聴衆でもなかった。
ファーム・エイドは、(ショーのタイプとして)合っていた。みんなクールだったね。ロイ・オービソンに、ジョニー・キャッシュ、ビーチ・ボーイズ、ランディ・ニューマン。思いつく名前はみんな居た。信じられないショーだった。
とにかく、ぼくらはファーム・エイドに参加して、自分らの短いセットをやった。それからディランが出てきて、彼のバックを務めた。もの凄く上手く行ったよ。
その後、(楽屋になっている)トレイラーにボブが戻ってきて言ったんだ。
「なぁ、一緒にツアーをするって言うのはどうだ?オーストラリア・ツアーがあるんだ(1986)。俺はやりたいけど、みんなはどうだろう?」
ぼくらは全員、超ディラン・ファンだ。このボブとやるというアイディアには、えらくそそられた。それで行くことになった。2年間も一緒に。最初は一部だけ、そのうちに追加、また追加。まさにボブと一緒に世界を巡ることになった。
Q:彼の曲の合間に、あなたの曲を織り交ぜたのですか?
TP:最初のうち、ぼくらの曲はあまり演奏しなかった。一つのショーで、4,5曲だった。ボブがしたい時に、ぼくらの番になる。ボブがこう言うんだ。「では、ハートブレイカーズのナンバーをやってもらおう」ってね。それで、ぼくらが何曲かやる。そんな具合だった。
たしか、また後で何曲かぼくらのセットがあった。
それが1年ほど。
ツアーの後半では、ボブは聴衆がもっとハートブレイカーズの曲を聞きたがっていると考えた。それでぼくらは、45分のセットをやることになった。
さらに、ロジャー・マッグインがショーに加わった。彼はアコースティックでショーの口火を切る。それから、ぼくらが自分たちの曲をやって、休憩後にボブが出てくる。そのとき、ぼくらはボブのバックを務める。
でもさ、わかるだろ。ぼくらはマッグインの超ファンでもあるんだぜ。もうお菓子屋さんの子供状態だよ。それにロジャーとは前からの知り合いだったし。
ロジャーがショーに加わって、ぼくらは彼がバーズ時代の曲をアコースティックで弾くのを、座って見ていられなくなったんだ。
だから、ぼくらはロジャーのバンドの早変わり(笑)。もの凄いスリルだったよ。それで、バーズの曲を演奏した。
それから、ハートブレイカーズのセットをやる。
その後、休憩が入ってボブとのショーだ。場合によっては2時間にもなる。
その夜のおしまいともなると、やれやれ、べらぼうな数をこなしていた。ボブが4,5曲を一人で演奏するとき以外は、ぼくらは最初から最後まで出ずっぱりだった。ボブは素晴らしかったよ、本当に。
Q:ディランのバックの時、彼の曲をオリジナルのアレンジでやったのですか?
TP:ボブと一緒に演奏するとしたら、まるでジャズ・プレイヤーとの演奏のようになるよ。即興演奏が入るだろう。
最近はどうしているか知らないけど、あの頃ボブは、即興をやっていた。もしくは、ぼくらは知らなくても、ベンモントとはやっていた歌とかね。ボブはベンモントを信頼していたんだよ。
ある夜、ボブはベンとインクスポッツの曲をやったけど、あれはすごく良かった。でもぼくらは知らなかったから、演奏のしようがなかった。
Q:(ディランの)歌い方は毎回同じでしたか?
TP:リハーサルでやっていたとおりに演奏していたと思うよ。何度もリハしていたし。
TP:驚きですね。ディランは何度もリハをするのが好きではないとも思われていますから。でも、彼はリハを厭わなかったのですね?
TP:ぜんぜん。やたらリハしたもの。本番でやらない曲もたくさんリハした。とにかく、ぼくらは良いユニットだったよ。(演奏可能な曲の)ストックがたくさんあった。
ボブにはたくさん曲があるし、ぼくらもたくさん知っていた。
何回かは、違うショーもやったよ。毎回のショーでは、普段やったことのない曲を入れた。
ボブは変人だから、一緒にプレイ出来ないなんて聞いたことがあるけど、そんなんじゃなかった。そんな事ないよ。ボブはプロだもの。彼はショーってものが何たるか分かっていたし、ぼくらも同じさ。
Q:あなたは、終演後のバックステージでは歓談しているのではなく、すぐにでも会場を後にするのが好きだと言っていましたね。ディランも同じでしたか?
TP:うん。そうだと思う。ボブはものすごくプライバシーを大事にしている。大事に守るのはものすごく大変そうだけどね。とにかく、ボブはおなじだった。
ぼくは、そうするのが好きなんだ。そりゃ、ぼくらも(バンド活動の)はじめのうちはそうでもなかったけど、[Damn the torpedoes]
の頃までには、(終演後)すぐに会場から出ているようになったね。ショーの後でウダウダするのって、好きじゃないんだ。
中には、全員がいなくなるまで残っているって人も居るらしいけど。どれほど良かったかを聞くためにね。
でもぼくは、ショーが終わったすぐ後に、そこらに居る、あれやこれやの人と会話するのって、無理なんだ。自分のアドレナリンを聴衆に振り向けてしまっているからね。
ぼくだってニコニコしたり、頷いて見せたりはしているかもしれないけど、そんなの本心じゃない。人が色々言っているのなんて、聞こえていやしないんだ。
レコード会社は、ぼくのそういう所を嫌がっている。ぼくが人に挨拶もしないって。打ち解けないとか、横柄だとか言われているのも聞いたことがある。
でも、そんな事ないよ。頭がついて行かないんだ。無理なものは無理。虚弱体質でね(笑)。ショーの前とか後に、人と交流って出来ないんだ。
病気の子供たちとか、面会しに来た得体の知れない連中に会うって言うのも、一苦労だ。愛想良く挨拶しなきゃだよね。
とにかく、いつものようにする方が、うろうろして話したりするよりは好きなんだ。
でも、仕事としてやらなきゃならない事もある。そのほんの少しの時間でも、自分の気持ちをしっかりさせなきゃならない。でも、最終的には長時間もたせるんだけど。
ショーの後にすぐに、色々な課題をどうにかしようとしたり、まずかった点について話し合うのは、良くないってことを、ぼくらは早いうちに学習していた。
だって、みんなそれぞれの見方でショーに来るだろ。悪かったことについて夜じゅう言い争うことも出来るけど、それは見方の違いを収拾することにはならないんだ。もう終わってしまったことなんだから(笑)。
それに、聴衆が何一つ喜びもしなかった事など、ないのだから。ぼくらのお客さんはいつも素晴らしいよ。だからぼくらも、素晴らしい演奏が出来る。
そういう訳で、お客さんたちがゴキゲンでさえいれば、討議するほどのことは、さほど存在しないと、思っている。
だいたいはショーの翌日のサウンドチェックで、実際にお互いの音を見直すことにしている。「ここはもっと良くなるんじゃない?」とか、「ここは変えた方が良さそうだ」とかね。すべて、翌日に持ち越すんだ。
ぼくらは部屋籠もって、話し合ったりはしない。ほかのグループがたくさん、そうしているのを見たことはあるけどね。
Q:ディランはミステリアスな人です。あなたが一緒に仕事をしたとき、彼はミステリアスなままでしたか?それとも彼を良く知ることになりましたか?
TP:ボブは自分自身のことを、何もかも話すような人ではないんだ。
でも、彼がいい奴だってことは分かった。大好きだよ。あのときも、今現在もね。本当に良いミュージシャンだし、偉大なソングライターだ。
ボブの一番良いところは、誠実な男だってこと。本当に、本当に誠実な人なんだ。嘘をつくような人じゃないし、自慢話をする人でもない。
あの、ボブと一緒にしごとをしていた数年の間じゅう、ぼくらは純粋な友情で結ばれていたと思う。今も変わらない。
ぼくらはたくさん、たくさん話をした。ボブはたくさんの音楽を知っていた。
Q:どんな音楽ですか?
TP:シー・シャンティ(漁師の労働歌)なんてものが歌えた。フォークとか。すごい量のフォーク・ソングを知っていた。
それから、初期のリズム&ブルースや、ロックン・ロール、ぼくのぜんぜん知らないような珍しい曲とか。ボブとのリハーサルで、お気に入りだったこととして思い出すのは、彼がぼくらの知らない曲をやり出す事だった。そうして、新しい発見をするんだ。
ボブのような成功を収めた、史上最高のソングライターともなると、多くの伝説ができあがってしまう。毎日のように、でっち上げられていくんだ。
でも、ぼくが感嘆するのは、結局ボブがいい奴であり、誠実な人だったことなんだ。
たとえば、ぼくは、ボブの周囲で、うろうろしている人をよく見たんだけどね。ボブの事を恐れているか、自分が思っている事を口にするのを恐れているような人たちだ。
一方、ぼくはいつも、ボブに対してダイレクトに質問をすれば、ダイレクトに答えててくれるってことが分かっていた。ぼくは、ほかの人たちと同じようにボブと接することにしていたからこそ、ぼくらの友情はたやすいことだったんだ。
ぼくは実際、彼の才能に対しては畏怖の念を抱いていたけどね。でも、人間は人間に違いないだろう(笑)。だから、ボブがぼくの質問にダイレクトに答えなかった記憶がないんだ。
ボブは、自分の世界観を明確に述べることが出来る。それを、詩的に表すことが出来るんだ。これは才能だね。学習して得られる事ではないし、マニュアルにもできない。才能あるのみだ。
だから、ぼくはそんなボブのそばに居ることができて、ラッキーだった。世界での巨匠と、一緒に仕事を出来たという事が、あたりまえの事だとは全く考えていない。でも、ボブが自分についてシリアス過ぎるだとも、思わなかった。彼はプロなんだよ。遅刻もせず、ショーをこなしていた(笑)。
ボブは、家族の事を一番に考えていた。特に、子供たちのことはとても気にかけていた。プロのミュージシャンであると同時に、家庭人でもある。真の感性を持つ、吟遊詩人さ。
Q:ツアーのある時期では、あなたの曲がちりばめられましたね。どんな気分でしたか?
TP:びびったよ。だって、この世で一番のソングライターと一緒なんだぜ(笑)。でも、その事は考えないようにすることだ。観客は、ぼくらの曲でも喜んで聞いてくれたから。有り難いことにね。
最初のうちは怖かったとは思うけど、何度かショーをこなしているうちに、慣れてしまった。
ボブと演奏するっていうのは、本当にもの凄いことだった。ハウイがラップ・スチールをやる時、ぼくがベースを弾かなきゃならなかった。とても自由にできたな。ぼくらはちょっとした事を勉強できたと思う。
ぼくにとって、一歩下がって、誰かのバックアップに回ることは、良い事だった。どれほどダイナミックな仕事なのかを観察するのは、興味深いことだった。シンガーとして、どんな事に注意を払うべきなのかとかね。
フロントに立っているのとは、まったく異なる見方なんだ。あの経験から、ぼくらはより良いバンドとなりつつあった。
Q:バンドの全員が楽しんでいましたか?
TP:もちろんさ。偉大な、素晴らしく偉大な歌を演奏したのだから。ワァオ。曲はどれも凄く良かった。
しかも、とても楽しかった。"Like
a rolling stone"
をボブとプレイするのは、スリル一杯だった。ぼくとボブで、マイク一つでハモったんだ。フォーク・ミュージック時代からのセオリーでね。みんな、一つのマイクで歌って、ハーモニーのバランスを保つんだ。
それにしてもさ、なんて楽しかったんだろう。
そして、ボブは良い友達でいてくれた。ぼくらに良くしてくれたし。本当に、本当に良くしてくれたんだ。ものすごく名誉なことだ。そして音楽的にもやりがいがあった。
Q:バンドに変化はありましたか?
TP:そう思うよ。言葉にするのは難しいのだけど。でも、ぼくらはレコードにした曲をやるだけのバンドでは、なくなっていた。ぼくらはその瞬間にふさわしい、表現が出来るバンドになった。
そのことが、今でもぼくらの骨格となっているし、すべての仕事に影響している。ぼくらの視界を広げることになったんだ。
自分たちで、より良いバンドになったと認識していた。誇りに感じたよ。
Q:ディランの自伝Vol.1
に、あなたとのツアーのことが書かれています。彼は、あなたについては「絶好調」で、彼はその逆だったと言っていたのには驚きました。
TP:うん、ぼくも読んで驚いたよ。あれが彼の絶不調だとしたら、最低ラインが高レベルだとしか言いようがないね。
だって、何回かの彼は、魅惑的でさえあったのだから。最近、あるショーのブートレッグを見たのだけど、ボブがあまりにも凄いものだから、のけぞっちゃったよ。
つまりさ、アーチスト自身というのは、時として自分のパフォーマンスの良い判定者になり得ないということだよ。
ぼくが良くなかったと思った夜があっても、そのショーを見に来た人たちは、もう夢中だったって言うんだ。
あのツアーの時、ボブは何かを探しているという感じがしていた。説明するのはとても難しいんだけど。
ぼくらは長い飛行機での移動時間に、たくさん話をした。とくにこれと言って、ボブが明言したわけではないけど、ぼくはボブがキャリアにおける、次のステップを模索しているんだという感覚がしていた。
ボブは、観客のほとんどがぼくを見に来ていたと、あの本で言っていたけど。あれは違うと思うよ。みんな、ぼくらが一緒にやるって言う、組み合わせを見に来ていたのだと思う。
音楽的にも、素晴らしい夜がたくさんあったよ。たぶん、ボブは精神的な動揺みたいなものがあったんだろうな、だからそういう良かった夜の事を、覚えていないんだ。
確かに、ぼくは絶好調だった。でも、ボブが絶不調だっっとは思わない。彼の言う最低ラインが、低いものだとも思わない。ボブはいつだって良かった。誰にでもあることだろうけど、それぞれの夜に、違った判断基準があるんだろう。
あの本には、スウェーデンのマルマスについての記述があった。ボブがステージ上で、彼のキャリアにおける次のドアへと通じる何かを、ステージ上で閃いたところだ。
ぼくは何が起こったのか、確かに覚えている。ボブが頭で何を考えていたのかは分からないけど、とにかくボブが歌いだそうと一歩前に出て、でも何も出てこなかった。ぼくは声が出なくなったか何かかと、彼のことが心配になった。すると、彼はため込んで・・・バーン!飛び出してきた。
その数秒でボブは新しい彼になっていた。あのとき以来、残りのツアーでは、ショーがまさにグンとグレードアップした。エネルギー・レベルが跳ね上がり、ボブはまるで刷新されたかのようだった。
だからあの本を読んだとき、ぼくはあのときのことを思い出したよ。あのとき起こったことを、確かに覚えているんだ。
とにかく、ボブは偉大なアーチストだよ。思うに、かれはいつもお金を払って見に来るのにふさわしいアーチストであろうとしているんだろう。アーチストっていうのは、そういうものなんだよ。ベストな仕事をしているときでも、必ずしも自分ではそう見なさないのさ。
とにかく、あの本は大好きだよ。長編詩のようだったね。
Q:彼のアルバム、[Oh
Mercy]
を録音していたとき、彼がひどく自信を喪失していたことに驚きました。歌詞だけ作ってメロディなしでスタジオに行き、スタジオでメロディを探そうとしてました。
TP:あの本の良いところは、ボブも他のみんなとおなじように、不安なこともあるんだということを、明かしている点だ。
あれほどの有名人ともなると、物事を好意的に解釈してもらえなくなる。偉大な人間のままであるであるには、どうすれば良いか理解していると、思い込まれるんだ(笑)。
でも、実際は有名人といえども、人に過ぎない。人間としてやり遂げるように、すべてをやり遂げるだけなのさ。
Q:あなたの家が燃えてしまったのは、この時期でしたね。
TP:妙な時期だよね。86年だったか、87年だったか。(1987年3月17日)色々なことが起こった頃だ。そういう時期に、家が燃え落ちてしまった。
Q:放火だったのですか?
TP:うん。放火だった。捜査員たちが、誰かが裏手の丘にあったフェンスに穴をあけて、家を監視していたという証拠を見せた。たぶん、一定期間そうしていたんだろう。
ある早朝、放火犯は家に火をつけた。木造の家だったから、火はすぐに燃え広がった。まるでマッチ箱みたいに、あっというまに家中に燃え広がった。
Q:奥さんとお子さんが居たのですね?
TP:うん。実際はぼくの子供のうち、一人だけが居た。そして、火元は娘の部屋のすぐそばだった。
(声を潜めて)あのさ、このことは今まで全く話さなかったんだ。ひどくショックだったから。誰かが君を殺そうとしたなんて考えるだけでも、最悪だろう。
ぼくは、あの時の詳しく話すのが、本当に嫌だったんだ。ぼくを恐怖のどん底に追いやったのだから。'fire'
って言葉を使うのさえ嫌だ。それほど恐ろしかった。
犯人は、ぼくを殺そうとしただけじゃない。ぼくの家族全員をも消し去ろうとした。
最悪の日だった。妻の誕生日だったんだ。午後にはバーベキューの予定だった。そうしたら、お客さんたちが来る前に、家が燃えてしまった。
Q:全員、家からは無事に脱出できたのですか?
TP:できたけど、本当にそれだけ。
ぼくは家族を外へ出した。ものすごい煙がたちこめて、下の方だけ、煙がなかった。家の内側が、どれほど真っ黒になったか、想像もつかないだろうな。窓が瞬く間に、全部煤で真っ黒になったのだから。光が外から差し込まないんだ。だから何も見えやしない。でも、地面に近いところだけは、見通す事ができる。
最初にしたことは、妻と娘をドアの外に押し出して、プールに行くように言った。飛び込め、って。そこなら燃えない。
それから、裏口から飛び出して、ホースをつかみ、火を消そうと中へ戻った。そうしたら、ホースはぼくの手の中で溶けてしまった。ほんとうに、まさに溶けてしまったんだ。
すこし火傷をしてしまった。まるで太陽の中にとびこんだみたいなところに、長く居すぎたんだ。ぼくは家から出なきゃと思った。もう家じゅうに火が回っていると覚悟した。
ぼくは地面に伏せると、腹ばいになって移動した。ホテルの防災ビデオでよく知っていたからね。煙を吸い込まないように、地面に伏せるんだ。
ぼくは煙の下を這って、ドアから外に出た。そこで、50フィートぐらいむこうに、ホースを持った家政婦さんが居たが見えた。
彼女には火が燃え移っていた。髪の毛が燃え上がっていた。そこで、ぼくは彼女に怒鳴った。「火がついてる!」彼女は手に持ったホースで頭の火を消した。そうして、命が助かったのさ。
それからぼくは、プールに飛び込んで妻と娘を引き上げ、それから車道を駆け降りた。
その時、報道陣がやってきた。一番最初に来たのが連中だ。無線を傍受していたからね。だから、連中が消防よりも先に来たんだ。本当だよ。まじで腹が立った。ニュースのスタッフで、そこらじゅう撮影し始めた。気が狂うかと思った。なんだってこんな事になるんだって。
あの時は、放火だなんて夢にも思わなかった。何かが起こったんだとはおもった。すごく大きな家だったから、はっきりとは分からなかったけど。とにかく、どこかが火元になったんだと思った。
文字通り、ぼくは全てを燃やし尽くされてしまった。
たしか、家の一角のほんの一部だけが燃えなかった。幸運なことに、そこには数本のギターとかが置いてあった。それ以外は駄目だった。全てが燃えてしまった。
Q:残ったのが
"ダブ"ギターだったわけですね。
TP:そう、ダブだった。家のはずれの隅っこにあったんだ。でもその他はね・・・(しばし沈黙)
あんな事ってあるんだろうか。靴さえなかった。ぼくはジーンズとTシャツだけで家から逃れていた。
アニー・レノックスが助けてくれた。彼女が視界の隅にあったのを覚えているよ。色んな人が沢山あつまっていたから、ぼくはその間を駆け回っていたのだけどね。彼女には一生感謝するよ。
ぼくはとにかく、すぐに家族をホテルにやった。
それから、ぼくは現場に止まった。夜も更けて、家から離れて、ホテルに行くと、アニーはぼくらに必要なワードローブ一式を買いに出かけていた。それが、それからの数週間の衣服になった。彼女は靴も買ってきてくれた。
実際、とてもすてきな物だったよ。本当に賢明で ー 彼女は何もかもが必要だって言う状況を把握していたんだ。それで彼女は買い物に出かけて、ホテルに運んできてくれた。本当に素晴らしい人だ。
それから、アニーは家族と一緒に居てくれた。ぼくらは酷くショックを受けていた。とにかく凄いショックだった。
消防士が車を2台、出してきたのを覚えているよ。一台はメルセデスで、鍵にはゴムの部品がついていた。
消防士が車を出した後、その鍵をかえしてくれたのだけど、ゴムの部分が溶けて、細長いプラスチックみたいになっていた(笑)。彼はぼくに鍵を渡して言った。
「こんなんですよ。」
スタジオではスプリンクラーが稼働して、全ての機材を駄目にしてしまった。でも、テープは運び出した。スタジオにあったんだけどね。
その後の事は、ぼくにさらに破壊的な効果をもたらしたね。捜査員が調べ上げて言うんだ。
「これは放火です。誰かがあなたの家に火を点けたのです。」
ぼくは到底それを受け入れられなかった。「違う、そんなの間違っている。」と言い続けた。
そこで、捜査員たちはぼくを家の裏手に連れて行き、だれかがライターの燃料缶に火を点けた跡を見せた。それは、間違いなく放火だった。
ホテルに帰ったとき、誰かがぼくらを殺そうとしたした事実に、震え上がっていた。
ぼくの生活は変わった。突如として、警備員が一日中つくことになった。一日か二日後には、リハーサルに行くことになっていた。実際、ぼくらはリハーサルをしていた。
絶対に忘れられないんだけど、一番驚きなのは、自分でリハーサルに行ったこと。それから、さらにショックなことがリハーサルの後に起こった。ぼくは燃える前からあった、門のところに行ってみた。その門を引いてみたら、(倒れてきて)ぼくにしたたかに当たったんだ(笑)。
火事のことは、ほとんど話してこなかった。(一瞬の間)
有名人であることを考えてみるとするよね。それは良いことであり、同時に悪いことでもあるんだ。実に正気の沙汰ではないことが起こる。人を狙ってくるやつらが居るんだから。それが連中の気休めなんだか、妄想なんだか。
Q:愛し過ぎたからでしょうかね。
TP:もしくは憎んでいるからかも。どうでも良いけど。
Q:しばらく、ホテルに住んでいたのですね?
TP:そう、ホテルに住んでいた。そして即座に、警備員がぼくらの周りを固めた。ぼくは警備やら、取り巻きやらを従えて歩くのなんて大嫌いだ。召使いみたいなのなんて、まっぴら御免だよ。
そんな風に、ぼくの生活は変わってしまった。そういう人たちが必要だったんだ。
ぼくらはそれから数週間、ホテルに住んでいた。それから、スティーヴィー(・ニックス)が住んでいたマルホランド・ドライブに家を借りた。
そしてすぐに、ぼくはディランと一緒にエジプト,イスラエル,ヨーロッパへのツアーに出た。持ち物なし。何も無し(笑)。
Q:ギターは持っていたのですか?
TP:家にあった唯一のギターが、ダブだった。ほかは全部、機材と一緒にロードに出る準備に入っていたんだ。だから自分のギターは失わずに済んだ。
それ以外のものは多く失ったけどね。それまでの一生分の写真とかさ。持っていたもの全てさ。それまでの生涯で得た全ての物。それが全て失われた。完全に。家もろとも、灰になった。
Q:家族はひどくショックを受けましたか?
TP:そりゃもう。何年も衝撃が続いた。ぼくの想像だけど、レイプされたみたいなものじゃないかな。ひどくショックは長引いた。誰かの仕業だったって言うのだから、更に10倍もひどかった。
誰かがきみを殺そうものなら、いろいろな感情が沸くだろう。怒り、混乱・・・。
ロードに出るのは、良いセラピーだったと思うよ。家族全員で出かけた。しばらくの間ね。それから、家族はLAに戻った。そして、ぼくはツアーを続けた。
でも、こうしたことが、ぼくを救ったんだ。忙しく、何かする事があるんだからね。自分ですることな無いって、変なことだろ(笑)。
だからさ、「よし、このコートを持ち上げるぞ。今は持っていないからな」って具合さ。ぼくはもう一組、靴がほしかったし。こうして、人生を作り直すんだ。
Q:家も建て直したのですか?
TP:建て直したよ。これまた抜群のセラピーだった。ほかに住みたい場所なんてありゃしなかったからね。
マルホランドに引っ越して、何年かはそっちに住んでいた。それかあビバリー・ヒルズに移動した。そこにもう一軒借りたんだ。
デイヴ・スチュワートが火事の日に会いに来てくれて、言ったんだ。
「ほかには移らないだろう?だってさ、きみがご近所さんだからって、俺の家をあそこに建てたんだぜ。越さないよな?」
ぼくは、家を建て直すのは良いセラピーだと考えた。だから、いろんな人に言った。「何はともあれ、俺は1インチもここから動かないからな。俺はまだ生きているんだ。だからここに家を取り戻すんだ。」
そして、ぼくはもっと立派な家を建て直した。家を広げてね。こうして家を取り戻した。何年か、かかったよ。
Q:マルホランドに住むのは、好きでしたか?
TP:うん、すてきだったよ。あの時期はまだ、ショックから脱していなかった。(しばし沈黙)
本当にショックだったから。燃えてしまった家から、マルホランドのシャロの家に引っ越した。シャロは、ラス・ベガスのエンターテイナーだ。ザビエル・キューガットの奥さんだよ。キューガットは、40年代か、50年代にビバリーヒルズにこの大きな家を購入していた。
それで、ぼくがツアーに出ている間の家族は、こっちに越していた。家が再建するまでは、ぼくも住んでいた。それから、元の場所に戻ったんだ。
Q:お子さんたちは大丈夫でしたか?
TP:ああ、大丈夫だったよ。キムは数年間、舌打ちで音を鳴らす癖が抜けなかったけど、しばらくして直った。もう大丈夫さ。
みんな一緒に励ましあった。そして、結束が固くなった。一緒に乗り越えたんだ。ほかにしようがないだろう?
ぼくの中では、物事が起こった順番が、少し混乱している。
火事はボブ・ディランとのツアーの間に起こった。ツアーの最後に、イングランドに行って、ボブに言ったのを覚えているよ。ぼくらはこの辺で終わりにしなきゃ、って。彼のバックを務めるのはね。
ぼくは立ち戻って自分の生活と、家族の元に帰らなきゃ。そして家を取り戻すんだ。そして、ぼくらはただのハートブレイカーズに戻る必要があった。
ぼくらはとても楽しんできた。そして今、ボブにはボブ自身のバンドが必要なんだ。ハートブレイカーズも、自分自身のツアーに戻らなきゃならないもの。
そうしたら、ボブが言った。
「そんな、やめににするなんて、嫌だろう。だって、ものすごく素晴らしいじゃないか。」
それでぼくは返した。「本当に、本当に素晴らしいよ。でも、こっちに関わる前に、ぼくら自身の予定もあったもの。」
ボブは、ぼくらは両立できると考えていた。たしかに出来ただろう。でも、ぼくらはすっかり疲れていた。ぼくらはまだ、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズであろうとしていたのだから。
ボブとのツアーの間には、ハートブレイカーズ自身のツアーをやっていたし、レコードも作った。[Let
me up (I've had
enough)](1987)(笑)。このタイトルが、あの時期を語って余りあるね。
そんなこんなで、ぼくの中で順番が狂っているんだ。ちゃんと分かっているのは、1987年のおしまい、クリスマスの頃だったってことだけ。
そしてぼくは戻ってきた。とても疲れていたけど、満ち足りていた。ビバリーヒルズの新しい家に住み、しばしの間、足を地に着けていられた。もちろん、それまでそんなこと一度もなかったね(笑)。
それからまた、次の人生の章が始まろうとしていた。
Q:次のアルバム、[Let
me up (I've had
enough)]は、マイクとあなた自身でプロデュースしたのですね。自分自身でプロデュースした最初のアルバムですが、どんなものでしたか?
TP:このアルバムは、ディランとのツアーの合間に作った。イスラエルやヨーロッパに立つ前だよ。アルバムを作り上げると、すぐに、ぼく自身の、アメリカ・ツアーがあった。それからまたボブとの仕事に戻った。
思うに、ぼくらはちょっと、プロデューサー無しで、自分たちだけでやってみたかったんだな。上手く行ったとは言えない。もう二度とやるべきじゃないと、学習したよ。
ぼくらは二人とも、やるべきことをやるように、自分の尻を叩くタイプじゃないんだ。
あのレコードを聞けば、二種類のレコードで出来ていることが分かるよ。ぼくの作品と、マイクの作品だ。マイクの作品は全部、ぼくのとは全然違うのだから(笑)。
あいつのは、"Runaway
trains"
みたいに、ちゃんとプロデュースして作り込んだ感じ。一方、ぼくの方は全然、素のままなんだよ。
ぼくはやたら沢山の曲を書いて、出来るとすぐに、スタジオで録音した。
"The
Damage you've done" は
文字通り歌を聞いた時のことだ。ぼくらは自発的にやるのに、自信を持っていた。
ある程度は上手くは行ったけど、それ以上ではなかった。
=========================================
Chapter 9 Handle with
care
Q:1987年、ディランとのツアーの間に、ジェフ・リンがプロデュースしたジョージ・ハリスンの[Cloud
Nine]のデモを聞きましたよね?
TP:そう。あれは大好きだ。ぼくらはボブとイギリスのバーミンガムで、何週間後かにロンドンで何回かライブをやった。ウェンブリーで3回か4回。バーミンガムでの最初の夜に、ジョージとジェフ・リンが訪ねて来た。ボブはあまり気分がよくなかった。ライブの前からそんな感じで、終わってからもあまりゆっくりしていなかった。
本当に ― 本当におかしな夜だったよ。ぼくらが初めてロンドンで会った夜は、物凄い嵐が直撃していた。ロンドンじゃぁ、気象台も全然予報していなかった。ぼくはいつも思う。あの嵐は、ぼくの人生を変えるものだったんだ。文字通りの嵐さ。
ヒンドゥー教では、本当に親密な,重要な誰かに出会うという事は、前世でもやっぱり出会っていたと考える。それがまさにジョージだった。ぼくらは会ったとたん、すぐに仲良しになれた。本当に速攻で親友になったんだ。それに、ジョージがこう言ったことをよく覚えている。
「ねえ。今やぼくの人生、君なしには考えられないよ。」(苦しい翻訳。原文
You know, I'm not going to let you out of my life now,
)
ビートルズとかそういう事は関係ない。ぼくらはすごく気が合った。ユーモアのセンスも一緒だった。そして物凄く親しい友人同士になったんだ。ジェフもだよ。
まぁとにかく、ぼくらはそうやって本当に楽しい時を過ごした。ライブの後は、ジョージやリンゴ、デレク・テイラーと一緒だった。それからそれぞれの奥さんもね。楽しくやっては、大笑いさ。次の日の晩はぼくの誕生日だった。写真を持っているよ。ぼくにバースデー・ケーキを持って来てくれたんだ。写真にはジョージ、(ロジャー・)マッグイン,ボブ,マイク(キャンベル。ただしこれはペティの思い違いで、写真に写っているのはベンモント・テンチ)が映っていて、楽屋で大騒ぎ。ちゃんと綿密に計画していたらしい。ボブのローディの、Victor
Maymudesも居たよ。本当にゴキゲンだった。それから、ジョージはぼくに(Cloud
Nineの)カセットをくれて、言った。
「(新しい)アルバムなんだ。気に入ったら教えてよ。」
それでぼくはそのカセットを家に持ち帰った。あれはロンドンでの、ツアー最終日だったな。あの時、ぼくはボブに言った。家に戻って、(生活を再建するから、このツアーは続けられないって。家が燃やされて、すべて無くしてしまったからね。だから自分の生活に立ち戻るために、ここでおしまいにしなきゃならなかった。ボブは分かってくれたと思うけど、悲しそうだった。
そして家に戻り、あれは感謝祭の日だった。沢山の人がビバリーヒルズのぼくの家に来ていた。それでぼくはソフトボールをしようと思った。好きなんだよ。でもミットとかボールが足りない。それでぼくは車でビバリーヒルズのサブ・オンに出かけて、道具を一式買い揃えた。感謝祭だから、その店しか開いていなかったんだよ。
ぼくが信号待ちをしていると、ちょうどぼくの左隣の車が見えて、それがジェフ・リンの車だった。このあいだ、イギリスであったばかりじゃないか。
ぼくはクラクションを鳴らして合図すると、ジェフも気づいた。それでぼくらは車を降りた。まずぼくが
「わぁお!ここで何をしてるの?!あのアルバム(Cloud
nine)、凄く良かったよ!」と言うと、ジェフは
「今、ブライアン・ウィルソンと仕事をしているんだ。きみ、何所に住んでいるんだい?」と尋ねた。
それでぼくは住んでいるところを言うと、「不思議だな。今、そこの凄い近くに居るんだ。一緒に何かやろうよ。」とジェフが言った。
「オーケー、やろうよ!」なにせ、ぼくはジェフの事が大好きだったからね。本当に凄い男さ。それに温かくて、ユーモア感覚もあるんだ。
それで、ぼくらはちょこちょこ一緒にやりはじめた。たしか、ジェフは翌日か二日後かにぼくの家に来たんじゃないかな。
あの頃は、ぼくの人生の中でも、まったく魔法みたいなことばかり起こっていた。ぼくは娘のエイドリアと一緒に、クリスマスの買い物に出かけた。車でStudio
Cityまで出かけたのだけど、VenturaにLe
Seurという、レストランがあった。本当に良いフランス料理屋でね。特別な夜に行きたくなるような、素敵な店だ。つまり取っておきの店ってこと。
ぼくはエイドリアに楽しい午後を過ごさせてやりたいと思っていたんだ。二人でクリスマス・プレゼントを買い込んで、車でLe
Seurの傍を通りかかった。そうしたら、エイドリアが「ねえ、ちょっとLe
Seurでお昼でも食べていかない?」と言うんだ。
ぼくが「勿論!さあ行こう!」と応えると、彼女は「子供みたい!」だってさ。
ぼくらは駐車場に車を停めて、店に入った。席に着くと、ウェイターが来て言うんだ。
「あちらに、あなたのお友達がいらしています。テーブルに来て欲しいと仰っていますよ。」
それしか言わないから、ぼくは「ああ」と立ち上がって行って見た。そこは個室だったんだけど ― 入ったらジョージが居たんだ。彼は昼食の最中で、ワーナー・ブラザーズの人と一緒だった。それから、ジェフも。ぼくが部屋に入ってきた時、ジェフはジョージのためにぼくの電話番号をメモっていたところだった。
ジョージが言った。「不思議だなぁ。いま正に君の電話番号を教えてもらおうとしたら、誰かが君が同時にこの店に入ってくるのを見たって言うんだ。」
ぼくが「やぁ、思いもよらないことだね。」と応えると、ジョージが尋ねた。
「どこに行くんだい?」
「ああ、ここにお昼を食べに来たんだ。」
「食事の後はどうする?」
「家に帰るよ。」
「一緒に行っても良い?」
「ああ、もちろん!ぜひ!」
そしてジョージがこう言った。「ぼくらは自分の車で来ているんだけど、君の家まで後ろを付いていくよ。今はベル・エア・ホテルに泊まっているんだけど、遠くも無いからね。よし、楽しくやろうよ。オーケー?」
「オーケー!」
ジョージはぼくの家まで付いてきて、その日の午後はずっと一緒に居た。まったく不思議なことさ。ぼくがジョージについて語るとすれば、彼は超有名人で、シンボル的存在だ。でも実際の彼は、相手にそんなことは忘れさせて、本当に良い友達として、楽しく過ごさせてしまう。ぼくらは大笑いをしながら、やたらとギターを弾いていた。
翌日、ぼくの家の呼び鈴が鳴った。そこにはジョージが家族と一緒に戻ってきていた。ぼくらはクリスマス・イヴを一緒に過ごした。実際、クリスマスが来るたびによく共に過ごしたよ。ジョージはいつもクリスマスはハワイで過ごすのだけど、LAで途中下車して、ぼくのところに寄ったんだ。そんな訳で、ぼくら家族同士は凄く親しくなった。ダーニとエイドリアは友達になって、今でも仲良しさ。
Q:ジョージはロスアンゼルスが好きでしたか?
TP:いや、そうは思わない。ジョージはよくスモッグに文句をつけていたし、人が多すぎるのも嫌だったから。でも、ここにはジョージの友達が沢山居て、しょっちゅう会いに来ていた。ジェフ・リンに、ジム・ケルトナー,モー・オースティン・・・そのほかにも大勢、ここには友達が居た。だからよく、ここに来て友達とつるんでいたよ。
ぼくが書いていた曲
"Yer so bad"
をある夜、ジェフに聞かせたのはこの時期だった。ただ、Bセクションの断片は、どう進めれば良いのか、はっきりしていなかった。そうしたらジェフがEコードをやってみせた。それが道を開いた。さらに彼は短いパートをやって見せた。Eマイナーから、Cへ、そして言った。「これならいけるだろう。」ぼくは、「すげぇ!」本当に勢いづいたよ。何日もこの曲にかかっていたけど、詞をコーラスに持って行けずにいたのだから。さらに彼は弾いて見せたので、ぼくは言った。「すごいよ!こいつをプロデュースしてくれる?」
すると彼は答えた。「もちろん、やろう。どこで録音すれば良いんだろう?」マイクは自分の家にスタジオを持っていたし、ジェフはスタジオよりも家で仕事をするのが好きだと言っていた。
それで、翌日またジェフが来た。それまではまだ、マイクの家には行っていなかったんだ。その夜に
"Free Fallin'"
を書いた。あれはすごい勢いだったな。ジェフが帰ってから、ぼくは最後のマルホランドとかのヴァースを書きあげた。そのまた次の日にジェフがやってくると、書きあげた歌を聞かせた。すると彼はすっかりはしゃいで、こう言った。「さぁ、録音しに行こう。」
それで、ぼくはジェフをマイクの家に連れて行った。レコーディング・コンソールがっあて、ぼくら3人が入れるだけの部屋があったんだ。もとは小さな寝室で、実に狭い。色々な録音機材や、コンソールやらがギュウギュウに詰まっていて、バグズはドアの外のホールに居なきゃならなかった。とーにかく小さいんだから。あまりにもファンキーで、だれも信じてくれないだろうな。
ぼくらはマイクロフォンのケーブルを、ガレージの外に張った。こいつは本当のガレージだ。車は出しちゃった。そうやって、録音した。最初のトラックは、"Free
Fallin'"だった。
Q:録音するのに、どのくらいかかりましたか?
TP:一日。二日かも知れない。
Q:フィル・ジョーンズがドラムを叩いている?
TP:そう。彼とは長いつきあいだ。ドラマーで、ぼくらの良い友達でもある。それから、多くのアルバムでパーカッションを叩いているし、81年のツアーでも一緒だった。
Free
Fallin'"
は一日か二日で録った。クリスマスだったので、バンドの連中がどこに居るのかは知らなかった。スタンリーはフロリダに居たんだと思う。そんなわけで、ソロ・レコードになることになった。実のところ、ぼくにとってはちょドキドキする感じだった。これはハートブレイカーズにとって重大なことだったから。
ハウイを呼んだのを覚えているよ。できるだけハートブレイカーズを入れた方が良いかと思ったから。もう録音はできていたし、ベースも済んでいた。でも、たぶんハウイに来てもらえば歌えるだろうし、そうすれば傷ついたバンド連中を癒すことになるかなぁと。それに、連中がもうお互いに話していて、憤慨しているだろうと思ったし。これはただ、ぼくだけの推測に過ぎないけれど、とにかく話し合っているだろうと思った。スタンシーと、ベンと、ハウイ。波風が立ったと思う。
さて、ぼくはマイクの家に居て、ハウイは寝室の外に座っていた。ハウイはなんだか上の空だった。まるで医者の待合室で待っているみたいだった。そして、ぼくに言ったんだ。「本当は、ぼくは必要ないんじゃない?この曲、好きじゃないな。」
ぼくは言った、「そう。好きじゃなければ、必要じゃないかも。」
ハウイは、「オーケー。じゃぁ。」と言って、行ってしまった。
そしてまた、ぼくは「トム・ペティのソロ・アルバム」の作業を続けた。気に入っていたから。この波風を放っておく気はなかったけれど、どちらにせよあの部屋には、あれ以上人が入らなかったし。マイクが録音エンジニアを務めていたから、ほかにエンジニアは居なかった。
Q:誰がベースを弾いているのですか?
TP:ジェフ。
その翌日、"Yer
so bad" を録音した。それから、2曲のミキシングをした。"Free Fallin'"をミキシングしている間に、ぼくらは "I won't back
down"
を書いていた。本当に楽しかった。音楽的には、全く何の問題もないように思えた。やるべきこと全てを、推し進めて言ったんだ。
同時に、ぼくは心配もしていた。ジェフが言っていたから。「アルバム全曲はどうかな。ぼくはイギリスに帰らないといけないから。」
そこで、ぼくは急いて言った。「一日に一曲書いて、一日で録音しよう。そうすれば、七日で出発できる。」ぼくはジェフに、一緒にアルバムを仕上げてほしくてたまらなかった。それで、本当に一日で曲を書き、翌日に録音した。ほとんどそうしたんだ。9曲はやってのけたな。
最後の曲は、"Runnin'
down a dream"
だった。ぼくらは、マイクの(下降旋律の)リフにあわせて、書いていった。録音は本当に早くできた。しかも、ミキシングも早かった。
Q:そういう仕事のしかたは、楽しい経験でしたか?
TP:本当に最高だったよ。とにかく楽しんだ。
Q:ドラムのための部屋はあったのですか?
TP:ガレージだったよ。ガレージで歌ったり、すべてを行った。寒いところでもあったけど。たまに、歌うと息が白く見えたりして(笑)。
ジェフはずっと言っていた。「ロイ・オービソンが町に来ているんだ」って。彼はジェフの大ヒーローだった。ロイ・オービソンとデル・シャノンは、彼の二大お気に入りだった。ロイとデル・シャノンをアイドル視していた。これがまた、奇妙なつながりだった。ぼくは以前、一緒にレコードを作って、デル・シャノンと知り合いだったのだけど、ジェフも同じだった。それで、ジェフはずっと言い続けていた。「ロイ・オービソンがこの町にくるんだ。ロイ・オービソンと何か一緒にできるんだぜ。」
そのうちロイがやって来た。ロイはこのマリブあたりに住んでいたんじゃないかな。それで合流したわけだ。
ジェフは、ぼくの家から遠くないところに住んでいた。ある日の午後、電話が鳴り、それはジェフで、こう言った。「ロイ・オービソンが来ているから、こっちに来て、彼の曲を書くのを手伝ってくれ。」ぼくは車に飛び乗った。新しいコルベットを持っていたんだ。それでジェフとロイに会いに行ったら、車を見て、幌を上げることにした。ところが、ぼくらは全くの音楽家集団で、メカニックじゃない。つまり、幌を車の後ろに倒すことさえできなかったんだ(笑)。ロイに初めて会った時の事を思い出すな。どうにかして幌を倒そうとあれこれしていたところに、頭をぶつけちゃったんだ。
それから、ぼくらは
"You got it" を書いた。♪Anything you want, you got
it...♪
Q:3人一緒に書いたのですか?
TP:ああ。それがまさに一日目だった。そういう具合に、続いたんだと思う。また翌日にも集まって、ロイのアルバムに入った、
"California Blue"
という曲を一緒に書いた。まるで友達のサークルみたいになっていた。
時々ロイと夕食を取ったりしていたけど、同時にジョージも町に来たり、出たりしていた。ジェフとぼくは本当に仲良しになっていた。ご近所さんだったからね。まさに、トラベリング・ウィルベリーズの「兆し」だった。
Q:ロイはミステリアスな人でしたね。いつもサングラスをかけていましたが。
TP:決してサングラスを外さなかった。でも、すごく陽気だった。すごく面白くて。ぼくが会った中でも、一番に面白い人の一人だな。ぼくの大事な人だよ。彼を愛さずには居られないんだ。いつもジョークを言っていて、最高の笑いの伝染源だった。
ぼくがロイを思い出すのは、彼の笑いだ。とにかく笑いがひろがるんだ。彼が笑っているのを聞くと、一緒に笑わずにはいられない。
ロイはぼくらより少し年上だった。だから、ぼくらよりは賢明に思えた(笑)。とにかく、彼が大好きだったよ。その人と、あの年のクリスマス、一緒につるんでいたんだ。
そんなことがあって、ぼくらはみんな仲良しになっていた。ジョージはハワイから戻ってきていて、3月ぐらいまでは(LAに)居たと思う。確か、ロックの殿堂入りのセレモニーに出席しなきゃならなかったからね。セレモニーの前にLAに滞在していたと思うよ。(ビートルズは1988年にロックの殿堂入りを果たした。)
Q:ジョージは「静かなビートル」として知られていましたが、どうも違うようですね。
TP:ああ。
Q:面白い人でもあった?
TP:物凄く面白い男だった。表現しようの無いくらいさ。ぼくが出会った中では一番に面白い人だな。あんな可笑しなユーモアセンスなんて。やったら面白かった。それでもって賢い人なんだ。
ジョージは本気で物事すべての意味を知りたいと思っていた。ところが同時に、輝くばかりの心と、ものすごく可笑しな感覚の持ち主(笑)。本当、途方も無く可笑しいんだから。ぼくらは益々仲よくなって行った。実際、ぼくがジョージの事を思わない日はない。沢山の出来事がどんどん続いた。
Q:いつか、ギターについてジョージが「いたずらっこのコード(naughty
chords)」と呼ぶものをプレイしたと言っていましたね。ディミニッシュのようなものでしょうか。
TP:そう。うん、彼はあらゆるコードを知っていた。本当に沢山。ジョージは偉大な、偉大なミュージシャンだった。ジェフもね。二人とも本当に凄かった。ぼくは余りの凄さに、怖いくらいだった。それに、何て「音楽的」な連中だったことか!それでもって、「より良くなりたい」とか、「最高傑作を作ろう」なんて変な気概はないんだ。だからぼくらは良い仲間になれたんだろう。
ぼくはほとんどのハートブレイカーズのメンバーがその頃どこに居るのか気にしていなかった。もちろん、マイクとはずっと一緒だったよ。ぼくのFull
moon
feverを一緒に作っていたのだからね。
Q:でも、ハートブレイカーズを解散させたくはなかったのですよね?
TP:バンドから抜けるなんて、考えたこともない。ぼくは抜ける気はないって、ずっとバンドの連中を安心させようとしていた。でも、彼らの気持ちの中では、疑う気持ちがあったのだと思う。
Q:
[Full Moon Fever] というタイトルは、どこから来ているのですか?
TP:ある日、頭に浮かんだんだ。[Full Moon
Fever]
は今夜、何かが起こるぞって感じさ。満月だもの、そうだ!満月フィーバー!あれが最初のソロ・アルバムだったから、おおごとさ。いつも、満月の夜は月から何かの力をチャージしてもらえると思っていた。ともあれ、音の感じが良かっただけなんだ。
Q:あのアルバムの曲はすべてジェフと一緒に描いたのですか?何か前もって書いていた曲はありましたか?
TP:
"The Apartment Song"
だけだね。
Q:二人は本当に、互いにインスパイアーされたのですね。
TP:そりゃもう。ある日、ずいぶん長い間会っていなかった、デニー・コーデルがやってきた。ぼくらはアルバムのタイトルを、
[Songs from the garage]
にしようとしていた。カバーのも撮影してあったんだ。ぼくがマイクの家のガレージで、楽器やら、何やらに囲まれ座っている写真だ。
それで、コーデルがレコードを聴いてくれた。気にってくれたよ。デニーは、そう簡単には褒めてくれない人だから、安心した。それで、カバーも見せたら、こう言った。「ダメ、ダメ、ダメ、これはまずいよ。このアルバムは、[Songs
form the garage] にしておくには、良すぎる。ちゃんと名前をつけろよ。」(笑)
それでもう一度考え直して [Full Moon
fever]
になった。まぁ、良いアドバイスだったね。カバーは全部おじゃんにして、やり直したたわけ。
Q:MCAは最初、このアルバムが気に入らなかったというのは本当ですか?
TP:次の大ショックだったな。レコードを持って行ったら、気に入らないんて言うんだから。まったく予想していなかった。ポカンとしちゃったよ。気に入らないだなんんて。
Q:何がまずかったのでしょうか?
TP:シングルが見当たらないって言うんだ!
Q:"Free
Fallin'" と、"Runnin' down a dream" があっても?
TP:それに、"I won't back
down"もだ。それでも、シングルが見当たらないって言う。これじゃ、音楽ビジネスが嫌になるってもんだ。
Q:気にいらないと言っていたのは、一人ですか?それとも何人もでしたか?
TP:たしか重役の全員だったな。連中はリリースしたくないって言うんだ。ぼくに、アルバムをうっちゃって、シングルを作ってほしかったんだ。
ぼくはすっかり途方に暮れてしまった。それで、ぼくはアルバムを後回しにしてしまうことにした。すっかり落ち込んでしまっていたんだ。
マイクとぼくは、"Alright
for now"
を録音した。あの状況での、ララバイのようなものだった。ジェフ抜きで録音した。ジェフは町に居なかったんだ。それで、ジェフが戻ってきたとき、彼に言った。「連中は、レコードを出したくないってさ。」
短さのこともあった。9曲しかなかったから。もうCDが(レコードにかわって)ポピュラーになっていたから、会社はもっと長くしてほしかったんだ。それで、ぼくはザ・バーズの曲を録音した。"Feel
a whole lot better"
が、あのアルバムを長くするために加わったんだ。
Q:ジーン・クラークの曲ですね。
TP:うん。彼は永遠の偉人だね。その後、レコードをもう一度聞かせた。その時にはMCAでの状況は変っていた。それで、ぼくは全く同じレコードを持って言った。そして気に入ってもらえた。
Q:その時は、シングルを見出してもらえましたか?
TP:ああ。でもまぁ、これがレコード・ビジネスってもんだな。ある人物がいなくなり、誰かがやっ来ると、両者の視点がまったく違う。慈悲深い人に当たれば良いけど、程度にもよる。
Q:あなたのようなレベルの人には、起らざるべき事ですね。あなたが発表したければ、出せれば良いのですが。
TP:だから、あっけにとられてしまったのさ。信じられないを通り越して、呆然だ。あんな体験は初めてだった。
Q:あれほど素晴らしいアルバムなら、なおさらですね。
TP:ああ、想像もしなかったほど素晴らしかった。でも(レコード会社の人間は)聞いていなかった。どうしてかは分からないけど、とにかく彼らはまだ聞いていなかったんだ。それで、(Full
moon feverは)後回しにされた。トラヴェリング・ウィルベリーズが降って沸いてきたからね。ウィルベリーズのアルバムが出るまでは、Full moon
Feverは発売されなかった。
でも、実際にはウィルベリーズよりも前に完成していたんだ。「Full moon
feverは、ウィルベリーズ・サウンドだ」なんてレビューを見るもんだから、がっかりしたよ。とにかく、本当はウィルベリーズより先に出来上がっていたんだ。
Q:でも、トラヴェリング・ウィルベリーズのアルバムでは、喜びを共有できたことは明らかですよね。
TP:あの頃の毎日には、本当に喜びがあふれていた。ぼくらは幸せ一杯の集まりだったよ。
Q:だれがトラヴェリング・ウィルベリーズという名前を言い出したのですか?
TP:ジョージ。
Q:あなたとしては、いい感じでしたか?
TP:ああ、ぼくは可笑しな名前だと思ったね。ジョージはクラウド・ナインを製作していた時に、この発想を思いついたんだ。
Q:あなた方みんなが一緒にやるという発想ですね?
TP:一緒にトラヴェリング・ウィルベリーズなるバンドを、組むという発想をね。クラウド・ナインの製作中に、ジョージとジェフがよく話し合っていたんだ。ジョージの発想っていうのは、バンドのメンバーでありたいという事だった。彼はビートルズ以来、バンドには所属していなかったんだ。
Q:良いバンドでしたね。
TP:(笑)ああ、良いバンドだったね。ジョージはバンドに入りたがっていたけど、バンド特有の落とし穴は避けたかった。彼は真面目にやりすぎて、苦痛になるようなことは望んでいなかった。それにマネージャーも欲しくなかった。ジョージはそういうのは通り越して、楽しい思い出ばかりのバンドにしたがっていた。でも、ジョージは賢明にも、バンドとして良くないと、楽しいバンドにもなれないと分かっていた。「良いバンド」にしなけりゃならなかったんだ。
彼が大好きな人たちでバンドを組むというアイディアは、イカしていた。ウィルベリーズを始める前から、ジョージがそういうバンドについて話していたと思うよ。それに、彼の頭の中ではそのバンドでエンジニアにも挑戦してみようと考えていただろう。
ジョージは長きに渡る庭仕事を終えると、レコードを作ったんだ。本当に素晴らしいアルバムさ。充電していたんだろうと思うよ。レコード(Cloud
nine)は、ナンバー・ワンになった。ぼくは彼のアルバムがナンバー・ワンになった時、すごく幸せそうな様子でやって来たのを覚えている。ジョージは音楽をずっと続けたかったんだ。
(ジョージとジェフは)クラウド・ナインからもう一つシングルを出す事になっていた。それで、発売するにはB面用の曲が必要になった。あの当時、ジョージはいつもぼくの家にギターを二本置きっぱなしにしていた。町に来る時はギターを持っていたからね。
Q:アコースティックですか?
TP:グレッチのエレクトリックだったと思うな。1本はアコースティックだったかもしれない。いつもぼくのクローゼットにしまっていたんだ。ジョージはLAに来ると、そのギターを使うわけ。飛行機からギターをずるずる引きずって来るのは、嫌だったんだ。
ジョージは(Handle
with
care録音の)前の晩に、ジェフとロイと一緒に夕食に出かけた。そして「みんなで、自分のB面曲を仕上げるのに力を貸してもらう」というアイディアを思いついた。一同は大賛成。それからジョージはボブに電話をした。ボブは自宅にスタジオを持っていたからね。ジョージは業務用のスタジオは使いたくなかったんだ。それでボブの家で使わせてもらえるように頼んだ。
そして、その夜ジョージはぼくの家にギターを取りに来た。そして自分の計画を説明し、ぼくにこう尋ねた。
「一緒に来て、リズムギターを弾いて欲しいんだ。来るかい?」
ぼくは答えた。「もちろんやるよ。逃がしてなるものか。」
それで翌朝、たしかジョージが彼の車で、ジェフと一緒にぼくを拾いに来てくれた事を覚えている。それでぼくらはマリブのボブの家に行った。ジョージは前の晩にHandle
with
careの、コード進行をほんの少しだけ作っていた。ベル・エア・ホテルの自分の部屋で作ったんだ。ぼくらが到着した時、ボブは家に居た。そして、ジョージはぼくらにそのコード進行を、聞かせてくれた。
ジョージがこう言った。「ロイが歌う箇所が出来れば、凄く良いと思うんだ。」
ジョージはロイの声を無駄にはしたくなかったんだ。それで、たしかジェフとジョージがボブの家の芝生に座って、中間部分を書いた。♪I’m
so tired of being
lonely…♪メロディとコードを書いたんだ。でもまだ歌詞は出来ていなかった。
そんな所からぼくらは作業を開始した。ジョージがボブとぼくに言った。「お二人さん、ちょっと考えていてよ。」彼は勢いづけが欲しそうだったからね。それでぼくらは♪Everybody
needs somebody to lean
on…♪の所を作り上げた。そして録音したんだ。ぼくらはまずリズム・パターンを録音したんだ。ぼくら全員でアコースティック・ギターを弾いてね。いっぺんに5本のアコースティック・ギターが鳴っていた。
それから、ジョージはボブのガレージを見回して箱を見つけ、こう言った。「Handle
with care」。彼は続けて、「これは良いぞ。Handle with
careにしよう」
ぼくらは一休みして、食事を取った。夕食を食べている間も、歌詞を書いていた。ぼくら5人全員でだよ。言葉を言っていくのが、ウィルベリーズ流だった。皆が良いと思うと、「イェー!」。ウケなきゃ「駄目!」。そのうち、ぼくらは一定量になるまで、言葉を投げ込み始めた。なにせ、やたらとやる気はあるのだから、すぐに上手く行った。とくに「あの連中」ならね。
何時だってアツくて良い感じだった。いかした感じで、しかも笑いが絶えなかった。シリアス過ぎないんだ。それでも、素晴らしく美しい曲が出来上がり、しかも素敵で意味深い詞が実現した。
一体どうやってそうなったのか、想像もつかないよ(笑)。とにかく、出来上がっちゃったんだから。その夜までには殆ど出来上がっていた。ぼくらはヴォーカルを入れて、ジェフがドラムを叩いた。
Q:私はロイが自分自身の箇所を書いたと思っていました。何せ彼の声にぴったりでしたし、様式もとても良かったですから。
TP:彼は詞を作ったんだと思うよ。
Q:詞についてですが、”I’ve
been robbed and ridiculed / In day care centers and night schools“
の所は、誰が書いたのですか?「ディラン風」に聞こえますが。
TP:“day care centers and night schools”
はぼくだと思う。“Ah, the sweet smell of success”
もぼくだったと思うな。これはジョージを凄く喜ばせた。そんな調子だったね。歌詞のどこを誰が作ったのは、正確には思い出せない。おおよそは「ジョージの」歌だったけど、ぼくらは喜んで一緒に歌ったんだ。
それでジョージはそれ(ディラン宅で録音したHandle
with
Care)をワーナー・ブラザーズに持っていった。ジョージがワーナーの人たちに聞かせると、彼らはこう言った。
「何てこった。B面にするにはヘヴィ過ぎる。どうにかなるはずだ。」
でも、ぼくはジョージがジェフに(レコーディングの)前の晩に、「ジェフ、これこそトラヴェリング・ウィルベリーズだ」って言っていた事を覚えているからね。ぼくにも、彼の持っていたウィルベリーズのコンセプトを既に説明していたんだ。
録音した歌をワーナーの人に聞かせた翌日の午後、ジョージはぼくの家に凄く興奮してやって来た。飛んだり跳ねたりして、大騒ぎさ。「バンドだ、バンドだ!バンドをやるんだ!」
ぼくは言った。「オーケー。やろう。」
「ボブとロイも入れなきゃ」と言うと、ジョージはぼくの家の電話機を取って、ボブにかけた。ボブと話して、電話を置くと、「ボブもやるってさ」。
次はロイだ。「ロイをどうやって入れよう。加わってくれるように頼まなきゃ。ロイはアナハイムでコンサートだ。」
それでぼくらは車を借りて、ジェフとジョージ、ぼくとそれぞれの奥さんが乗り込み、アナハイムに向かった。ぼくらは公式文書用の便箋を持っていた。ジョージが、アナハイムへの行き帰りに見聞きした面白い言葉を、書きとめて欲しいって言うからさ。それでぼくら全員でやってみた。いかしてたり、笑えたり、面白いと思ったりする言葉を言っては、ずうっとそれを書き留めていた。
たしか、ロイのライブが始まる前に、彼に会いに行った。それでぼくらはロイに話を持ちかけると、ロイはこう言った。「もちろん、もちろん!やるよ。バンドに入るよ。」それでぼくらは、帰り道は凧みたいにハイさ。ナチュラル・ハイってやつだ。「ロイ・オービソンがぼくらのバンドにだってよ!」ってね(笑)。
Q:最初から、すべての歌を一緒に作る事にしていたのですか?
TP:実際にそう示し合わせた訳じゃない。でも結局は、本当に一緒にバンドをやる事になってから、そういう話になった。他の事もそのときになって決まった。初日にそこから始めた。まず最初の曲を書き出した訳だけど、やり方はすぐに固まってしまった。ぼくらはソングライティングの共同体を作っていたのだからね。
Q:歌詞と曲が同時に出来上がるのですか?
TP:いつも、タイトルか歌詞の断片ができていていた。それからメロディに取り掛かり、順次録音して行く。すべてEncinoのデイヴ・スチュアートの家で録音したんだ。
Q:デイヴも巻き込んだのですか?
TP:いや、デイヴはアメリカに居なかった。だけどぼくらに家とスタジオを貸してくれたので、そこで作業を開始した。ぼくらは演奏の録音を終えると、いつも夕食にした。この夕食が、今度は作詞の開始だった。それで歌詞が出来上がると、今度は歌を録音するという段取り。時々、誰が歌うのが一番良さそうか、オーディションみたいなものをしたんだ。
「ちょっとだけ…きみ、歌ってみてよ。なんか違うな。よし、オッケー。ここはロイが歌うのが一番良さそうだ。」…とか、何とかね。
ジェフとジョージがプロデューサーだった。凄く良かったよ。ぼくらにはちょっとした自信があったからね。こんなエライことを引っ張っていく誰かさんがいて、ぼくらはそれを一緒になって押し進めるわけだ。こうしてぼくらはグループとなり、それは二年間続いた。
Q:ジョージがあの素晴らしいギター・ソロを演奏しようとする時は、音を前面に押し出したり、後ろにひっこめたりでしたか?
TP:ああ。ジョージはいつもテープを流しながら練習していたと思うな。練習してから、録音にとりかかっていた。
Q:独特の素晴らしさを持ったプレイヤーでしたね。
TP:ああ、信じがたいほどのプレイヤーだった。彼のスライド・ギターは、すごくユニークだ。音の高さが物凄く正確なんだ。最近は多くのギター・プレイヤーがピッチに気を遣わないようだけど。でもジョージはまさに音の高さピッチを正確に弾いていた。
Q:まるで歌うように・・・
TP:ああ、ジョージのスライド・ギターは、同時に殆ど歌声と同じように聞こえた。だからさ、ぼくらは「五人の少年」であるのと同じように楽しくやれたのさ(笑)。
(注:この「五人であるように」というのは、ロイが亡くなってウィルベリーズが4人になってしまっても、「五人のようだった」という意味と思われる。)
Q:ディランは桁違いの歌詞職人ですから、歌詞作りは彼がリードしたように思えるのですが。でもほとんど全員参加型だったのですか?
TP:そう。誰一人として蚊帳の外ってことはなかった。グループ作業だよ。もっと良くしようと思ったら、何でもぼくらの掘り下げ方を多数決に掛けたんだ。でも、言い合いなんて微塵も無かった。ぼくらはいつも良いと感じるもの、よくないと感じるものについては、ほとんど意見が合っていたんだと思うな。
Q:聴いていて楽しいのですが、あなた方はみんなおふざけをやっているように聞こえますね。
TP:(そぉっと)実際全員ふざけているからね。誰もがそうであるように、ぼくらにも遊び心があるのさ。あの日々がどんなに可笑しなもんだったか、説明不能さ。
ぼくはずっとポラロイドカメラを持っていた。それでバグズ(TP&HBの古くからのローディ)が沢山の写真を撮った。バグズはウィルベリーズのローディでもあったのさ。ぼくはすべての写真を一冊のアルバムに収めてある。ジョージが「そいつをアルバムに入れておいたほうが良いよ。引っかいたり何かしないようにさ」って言うからさ。それでバグズがドラッグストアーに行って、小さな写真アルバムを買ってきたんだ。ぼくは撮った写真を全部そのアルバムに、ストックしておいた。
あるとき、ジョージがそのアルバムをイギリスに持っていった。何かに使おうと考えていたからね。ぼくがフライアー・パークに滞在するたびに、ジョージは言ったもんだ。「ああ、きみの写真アルバムを持っているんだった!」でも、ぼくはいつもそのことを忘れちゃうんだ。
そうしたら今から1週間ほど前に、オリヴィアがぼくに写真アルバムを送ってくれたんだ。彼女、表紙にウィルベリーズのロゴ入りの素敵なアルバムにして、送ってくれた。写真を見ると、すべてがそこにある。ぼくらが楽しんでいた事が分かるよ。
Q:誰がウィルベリー一家のファースト・ネームを思いついたのですか?(ウィルベリーはそれぞれ、架空の名前がある。トムはチャーリー・T.ジュニア,ジョージ・ハリスンはネルソン,ジェフ・リンはオーティス,ロイ・オービソンはレフティ,ボブ・ディランはラッキー)
TP:全員が自分で名前を決めたのさ。「クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング」みたいには、したくなかったからね。弁護士団みたいじゃないか。
ぼくらが全員それなりのキャリアを持つ個々であることが、なんらかの議論を起す事は目に見えていた(超意訳。原文:We
knew there’d be a lot of heat on it because of who we
were.)。それを少しでも軽減できるようにと、違う名を名乗る事にしたんだ。バンドの正体のせいで、音楽を二の次にはしたくなかったんだ。本当に良いバンドなんだから。正体に注目点が移るのは嫌だった。それは必然でもあった。ぼくらが誰かであるかを前面に押し出さず、ユーモアのセンスも持っていたかった。
Q:スタジオでロイ・オービソンの歌声を聞くのは、どんなものでしたか?
TP:ああ、彼の声を聴くなり、肩辺りにぞくぞくっ、と何かが走る感じだな。まったく役得さ。マイクの周りに立って、歌うと同時にブレンドされたあの声を聞くんだぜ。肋骨まで電撃が走るね。まったく美しい音色の持ち主だった。
Q:オービソンは一発で歌の録音を決めていましたか?
TP:だいたいそうだね。ウィルベリーズのレコードでは、必ずしも書いた人が歌うって言う訳じゃなかった。時々、ジョージはオーディションみたいな事をしていた。
曲が出来ると、三人か四人かでリード・ヴォーカルを歌わせるんだ。それで、ジョージが誰が歌うのが一番良いか判断する。そうやって決めていた。
ロイが先に歌っちゃうと、そりゃもう次の人にはプレッシャーが掛かるだろう?そうすると、あの連中、次をぼくにするんだ!(笑)。でも実際の話、ロイよりもぼくの歌を採用してくれる事もあったよ。歌がぼくに合っていればね。ジェフの場合だって、ボブの場合だってある。とにかくシンガーだらけなんだから。
Q:ウィルベリーズのセカンドアルバムを作る前,1988年12月6日にロイ・オービソンは亡くなりました。彼なしで製作するのは辛くありませんでしたか?
TP:そうだな。本当に寂しかった。ぼくらはは成功したグループになったわけだから、セカンド・アルバムはまた別物だった。ノリが悪かったって言う訳じゃない。ただ、多少の変化はあった。(1枚目が)売れたのだから。とにかく、ぼくらは二枚目でもやっぱりとても楽しんだ。
Q:素晴らしいアルバムでしたよ。
TP:ぼくも本当に良く出来ていると思う。一枚目とは、また違うんだ。ぼくらは前に進んだんだ。ロイは死んでしまった。友達を失うだなんて、本当に悲劇だ。
Q:彼はレフティ・ウィルベリーでしたね。
TP:そう。後で、レフティ・フリッツェル(Lefty
Frizzell)になった。ぼくはチャーリー・T。デレク・テイラー書いた膨大な量の「ウィルベリー一家の歴史」によればそうなる。アルバムには入れられなかったけど。たしか、マイケル・ペイリンが解説を書いているんだよね。でも、デレク・テイラーは本当に膨大な「ウィルベリーズ顛末」を書いていたんだ。
それによると、ウィルベリー一族の父親の名前はチャールズ・トルスコット・ウィルベリー
Charles Truscott
Wilbury(笑)。それで、ぼくはチャールズ・トルスコットにしたら面白いだろうなと思って、チャーリー・Tになったわけ。
二枚目を作るまでには、レコード会社の人とか、マネージャーとかが絡み始めたと思うよ。ちょっとした緊張感があったな。あり過ぎではないけどね。
ぼくらはロイの代わりなんて全然考えていなかった。「誰が後釜に?!」なんてマスコミは大事にしてたけどロイの代わりなんて、思いもしなかったな。誰がやってきたって、次のウィルベリーとみなされる。もし、ロジャー・マッグインが来てウロウロしてれば、ロジャーが入ったって記事が出るだろう。デル・シャノンがそうだとか、随分言い立てられた。でも実際は、ぼくらは誰かを入れようなんて思った事は無かった。ぼくらは、ただ四人で続けようって決めただけさ。
Q:ウィルベリーズとレコーディングすると言うのは、どんなものですか?面白いセッションでしたか?
TP:そりゃもう、誰もが認めざるを得ないくらい面白くて、楽しかった。ぼくの人生の中で最高の時期だったと、断言できるよ。本物の「歓喜の時」だった。全員が俄然やる気だった。創作意欲と独創力は最高潮に達していた。しかもやたらと楽しいんだから。色々な事が、誰か一人の肩にのしかかるような事が無かったから、全員が楽しい思いをしたのだろう。ぼくら全員がやるべきことの全てをやるポジションに居たんだ。
ウィルベリーズの一員であるという事は、全員が等しく貢献者であり、時として助けとなる事なんだ。実際、全員が心から楽しんだと思うよ。
あのバンドを経て、ぼくらは真に良い友人になれた。永遠に持続する友情だ。だからこそ素晴らしいひと時を共に出来た。今になって思うのだけど、セッションをした日と、しなかった日を別物と考え事って、出来ない。仕事だろうが、そうでなかろうが、ぼくらはずっとつるんでいたんだから。
ともあれ、セッションそのものは最高だった。ジョージがぼくらのリーダーであり、マネージャーでもあった。でも、ジェフは実際プロデューサーも兼ねていた。
あの二人は良い仕事をしたよ。何せ、デイヴ・スチュワートの家で録音したものだから、そこそこ基本的なレコーディング環境しかなかった。デイヴは裏庭の向こうに、スタジオを持っていた。でもコントロール・ボードは昔のやつでね。小さなサウンド・クラフト・ボードと、小さな24トラックものがあっただけ。それで全部。効果音とか(笑)、みんながよくやる凄い仕掛けなんて、あったもんじゃない。それでも録音はやってのけてしまう。しかも何でもないような感じでさ。
最初のアルバムでは、まずデイヴの家で録音をする。それからぼくらはイギリスの、ジョージの家フライアー・パークに飛んで、オーバーダブとか、ミキシングをする。二枚目も同じようなパターンだった。
二枚目の時は、ビバリーヒルズの高台にある、凄い邸宅を使った。それはウォレス・ネフ
Wallace
Neffの家だった(カリフォルニアでもっとも有名な建築家)。ネフはその家を20年代に建てたんだ。いわゆるスペイン風の大邸宅でね。山の上の16エーカーもの敷地だった。ぼくらはその家の上に、ウィルベリーズの旗をなびかせた。丘の下から見上げると、旗が見えるんだ。それで、邸宅は「ウィルベリー屋敷」と化したわけ。
ぼくらはスタジオを図書室に移した。馬鹿でかい図書室だった。それからマシーンや机を借りてきた。たしか、A&MのHerb
Alpertからだったな。図書室に据え付け、48時間後には仕事に取り掛かった。
ジム・ケルトナー(ドラマー)は、ウィルベリーの一人とみなされていた。何せ彼はずっと一緒に居て、全ての曲で叩いているのだから。ジムは自分を「サイドベリー
Sidebury」なんて呼んでた(笑)。でも実際は、本物のウィルベリーなんだ。みんなジムの事が大好きだった。本当に愛すべき男なんだ。ぼくは彼とは随分長い知り合いだった。ぼくがまだ全然駆け出しで、町に出てきたばかりの頃からさ。ジムはいつもそこらに居た。気が付くと、ジムが居るってノリだ。
“Refugee“を録音した時の事を思い出すよ。ぼくら(TP
& The
Heartbreakers)がチェロキー・スタジオでオーバー・ダビングをしていた時、ジムは廊下で小さなシェイカーを持っていた。ぼくが廊下に出てみると、彼が”Refugee”に合わせてシェイカーを振っているんだ。彼は、「シェイカーを入れなよ」って言った。それでぼくらはシェイカーをオーバー・ダビングしたんだけど、ものすごく良い感じなった。演奏したのはスタン(heartbreakersのオリジナル・ドラマー。後釜がSteve
Ferrone)だと思うな。何せ、ジムが振ってたシェイカーは、スタンの物だったんだから!(笑)
ジムはまさに魂の人だ。深い、深い精神性を持っているんだ。ぼくが出会った中でも、もっとも偉大なミュージシャンの一人だろう。無条件にね。ぼくが思うに、本当に良いミュージシャンを探そうと思ったら、LAよりはイギリスに居たりするんだ。そういう連中が、ジムを心から尊敬している。ジムは精神的な導き手なんだ(笑)。みんなの導師なんだよ。
Q:ベースは誰が演奏したのですか?
TP:ジェフ。全部ジェフだと思う。ぼくら全員がアコースティック・ギターを弾いて、そのほかの事はそれぞれ後回しにした。広く、大きく作っておくみたいな感じかな。ジムのドラムが別に録音されて、ぼくらはドラムの前にソファを置いた。それから。一方でぼくらはソファ側でウィルベリー・アコギ演奏団をやる。どの録音にもアコギが四本入っていて、そこから曲を作っていくんだ。
それにしてもまぁ、何て言うんだろう。とにかく楽しいセッションさ。楽しくならないはずがないのさ。セッションが終わっても、誰も家に帰らないんだもの!(笑)ぼくらは昼夜問わず、ぶっ続けでつるんでた。何所へだって一緒に出かけた。楽しくて、楽しくて、楽しくて、どうしょうもなかった。
Q:ボブ・ディランとスタジオに居ると言うのは、どんなものですか?
TP:良かったよ。すごく冴えてて。良いアイディアを沢山出した。
Q:彼はあの手の事を、ましてやスタジオでなんてしないと、もっぱらの評判ですよね。
TP:まぁ、大体の人がそう言う。
Q:違いますか?
TP:その手の伝説が本当とは思わないな。ぼくはずっとボブが熱心に仕事をするのを見てきたけど。録音もしたし。でも人々の間で伝説はどんどん形作られる。それはボブ自身のレコードで、彼が自発的に事を運ぶからだと思う。ぼくの経験上の話だけど。彼はレコードで彼らしい自発性を出すのが好きなんだ。でもボブという人は、状況判断もきちんとできる人だ。
ぼくは”Band
on the
Hand“という、ボブのレコードをプロデュースした事がある。オーストラリアでやったのだけど、いまやレア物のシングルだよ。映画の為に作ったんだ。その話をぼくは飛行機で聞いた。ぼくらはシドニーに到着すると、またボブがぼくのところにやって来ていうんだ。
「今夜、セッションをするんだけど、君プロデュースしてくれる?」
まさに着陸したばかりだというのに、スタジオを予約して、機材をそろえた。ぼくらの機材は他に行っていたからね。それでハートブレイカーズがスタジオ入りした。ぼくらは録音を始めたのだけど、そりゃハードな仕事だった。ぼくらはその歌にほぼ一晩かけた。実際のところ、ぼくには誰がどうしたのかも分からなかった。
Q:ウィルベリーズのコンサートについては、考えましたか?
TP:分からないな。やろうと思っていたかもしれない。やれたと思うよ。ジョージはいつもそんな話をしていただろう?特にちょっと飲んだりすると、彼はまた色んな突飛な事を思いつくんだ。でも翌日になると、夕べほどハイではなくなってしまう。
ぼくが思うに、一応はやってみたかったんだと思う。出かけていって、ステージをやる(笑)。そして旅して回って、ちょっとしたサーカスみたいなノリになるんだ。
ウィルベリーズのライブは実現しなかった。でも、最終的にはやってのけたんだ。ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの、「コンサート・フォー・ジョージ」で演奏出来た。ジェフとぼくがウィルベリーズの歌(Handle
with
care)を、ハートブレイカーズや、ダーニ…ジョージの息子と歌った。出来たんだよ。それから、ロックの殿堂でも再演した(ジョージ・ハリスンは2004年2月に、ロックの殿堂入りを果たした。トム・ペティとジェフ・リンがセレモニーのプレゼンターを務め、プリンスをくわえてWhile
my guitar gently
weepsを演奏した)。
ぼくはそのとき気づいたよ。「ああ、何てこった!ジョージなら本当に楽しんだだろうに!」ってね。ジョージは実際にウィルベリーズを再結成して、コンサートをやる計画を立てていたと思う。結局は出来なかったけど、1回だけのショウと、その録画を考えていたんだ。アルバムも出来ただろう。でもぼくら五人全員のツアーは ― 叶わない事だった。
Q:どうしてアルバムのミキシングに、イングランドのジョージの家を選んだのですか?
TP:居心地が良いからさ。イギリスとアメリカに住んでいたジョージとジェフが、そうしたかったんだろう。ジョージにはアメリカに決まった家がなかった。それで、彼は家に戻りたかったんだと思うな。
「オーケー。ここでの仕事は上手くいったから、家に帰ってまた良い仕事してくるよ」みたいな感じでね。それに、ジョージは素晴らしいスタジオを持っていた。ミキシングに必要な付属品が全て揃っているんだ。それから、なんと言ってもジョージはイギリスに居たかったみたいだ。
楽しかったよ。フライアー・パークに住み込んでレコーディングっていうのは、素敵なものだよ。本当に、素晴らしい、美しい所だから。
Q:素晴らしい庭園があると、読んだことがあります。
TP:ぼくが知る限り最高の庭さ(笑)。そりゃもう!ジョージは実際庭仕事をしていたんだ。本当に庭が大好きでさ。伝統的な、素晴らしく、美しいイングリッシュ・ガーデンをね。例外なく、完璧だった。
Q:ジョージは、自宅の敷地の中に居れば我が家に居ると実感できるが、ひとたび外に出ると、現代の世界に居る事が分からなくなると、述べた事がありますね。
TP:うん。すさまじく複雑なことさ。
あの庭が一体何エーカーあったのか知らないけど、歩いて回ったら何日もかかる。美しい庭が次々に現れるんだ。湖もあった。ぼくらはよく手漕ぎボートや、小さなエンジンつきのボートに乗って湖を巡った。それから、地下に洞穴があって、その洞窟をボートで抜けたりした。それが普通なんだ。沢山のこじんまりとして、きれいな家や、小屋があって、突然の雨のときなんかに使うんだ。雨宿りによく使ったものだよ。
本当に素敵なひと時だった。ぼくはフライアー・パークに何度も何度も行った。録音するにも良いし、ただ滞在するだけでも最高の場所だ。
Q:セカンド・アルバムの曲を書くプロセスでは、また歌詞のやりとりをしたのですか?
TP:ああ、よくやったよ。最初のアルバムの時もやりとりしたり、もしくは誰かがまとまった歌にして持ち込む事もあった。ボブが”Congratulations“を持ってきた時をよく覚えている。彼が持ってきた時には大体出来上がっていた。それは例外的だ。
“End
of the Line“なんかは、ジョージがコーラスの所を持ってきた。♪It’s
alright...♪他のところはぼくらが一緒に歌詞を書いた。たしか、ボブとぼくがあのヴァースを作ったんじゃなかったかな。皆で作ったピースのよせあつめみたいな感じさ。いつも歌詞についての相談をしていた。
あんなのは二度と見る事は出来ないだろう。ありえないプロジェクトだった。その一員で居られたなんて、本当にラッキーさ。
Q:ウィルベリーズ3枚目のアルバムを作ろうと思った事はありますか?
TP:あるよ。でもぼくら全員がひと所に集まる事が出来なかったんだ。とくにボブは、長いツアー生活を始めていたから。みんなそれぞえに良いレコードを製作して成功したりもしていたし。(ウィルベリーズの)ソロ・アルバムだな。
ぼくにはハートブレイカーズとしての責任もあったし。随分ほったらかしにしてしまっていた。ぼくはもっぱらウィルベリーズと、ソロのアルバム(Full
Moon
Fever)にかまけてしまっていた。そろそろ戻らなきゃと思っていた。そしてボブはツアーへ出発した。
ジョージは死ぬまで、いつも言っていたんだ。
「やぁ、今度はいつやる?また一緒にやるだろう?」ってね。悲しいけど、決して実現しなった。
ジョージが刺されて入院していた時でさえ、唯一のコメントがこうだった。「まあ、あいつはトラヴェリング・ウィルベリーズのオーディションに来たわけではなさそうだな。」
ジェフとジョージとぼくは、いつでもずっと仲良しで身近にいて、一方ボブはいつでも旅しているようだった。
Q:あれは特に傑出したメンバーで構成された、スーパーグループ中のスーパーグループでしたね。今でも暖かさと、ユーモア、そして友情があふれています。
TP:そうだな。理想の一つの形だった。常にそれを掲げていた。ぼくらのそれまでのキャリアは別として、やってみたかったんだ。どんどん醜く、平凡になっていくこの世界に、すこしでも素敵なものを作り上げてみたかった。
ウィルベリーズは素晴らしき友情の賜物だった。ぼくがその一員だったことを本当に誇りに思っている。だって、この世界にすこしでも太陽のような光明をもたらす事が出来たんだからね。
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Chapter 10 Into the great wide
open
Q:ウィルベリーズの後、ハートブレイカーズに戻り、ジェフ・リンがプロデュースした、アルバム
[Into the great wide
open]を制作しましたね。リンと、ハートブレイカーズのコンビネーションはどうでしたか?
TP:悪いアルバムではなかった。でも、ハートブレイカーズとの仕事で、あれがベストのやり方だとは思わない。
Q:ある時、「大混乱」と言っていましたね。
TP:ああ、そうだったね。良いアルバムではあるんだけど。ぼくはウィルベリーズ流の仕事のやり方をしていた。ハートブレイカーズを、このやり方に当てはめてみようとしたのは、ぼくなんだ。バンドが楽しめないとは考えていなかった。
Q:ハートブレイカーズとの、いつものやり方とは、どう違うのですか?
TP:そうだな、オーバーダビングの多様だ。バンドはライブみたいにして、録音するのが好きなんだ。でも音の積み重ねや、オーバーダビングをやってみた。ジェフは巻き込まれたんだよ。
どこかで、「ハウイが『トム・ペティとジェフ・リンのアルバム』で、平手打ちされたような気分だった」と語ったいう記事を読んだことがある。ある意味、その通りなんだろうな。バンドが音のインプットのために使われたんだとは、思っていない。ジェフはものすごい存在なんだよ。バンドのみんなは、ただこれはハートブレイカーズのやり方ではないと感じたのだと思う。
だから、あのレコーディングの間は、仲良くやってはいけなかったんだ。でも、ぼくは今でもこのアルバムの出来は良いと思うよ。
Q:あなたは、「ハートブレイカーズに言うべきことを十分言わなかったのは、間違いだった」と述べていますね。
TP:たぶんね。たぶん、ぼくらはハートブレイカーズの仲間だけで、言葉を尽くして話すべきだったんだ。でも、ぼくとジェフは本当に親しくなっていたから、毎日一緒に過ごしていた。本当に仲良しだったんだ。一緒にレコード制作で、たくさんのことをやった。ぼくにとっては、ジェフ抜きで仕事をするのは、不自然に思えたんだ。
ぼくはもっと全体を見渡すべきだった。それに「よし、ハートブレイカーズでやるようにするよ」と言うべきだったんだ。でもぼくはこの仕事はうまくいくと思っていた。バンドのみんなは抑圧されていると感じていた。みんなは、ライブ録音して、ぼくら自身の方針でやるべきだと感じていた。それまでコーデルや、ジミー・アイヴィーンなどのプロデューサーたちとの仕事でも、打ち込みはしていた。バンドのみんなが、多くの打ち込みもこなしたんだ。
でも、ジェフとの仕事では、それまでのような打ち込みではなかった。ジェフが悪いんじゃない。彼はできる限り良いレコードを作りたかっただけだからね。これは仕事のやり方の違いなんだ。ポラロイド・カメラのかわりに、油彩画を描いていたのさ(笑)。仕事のしかたの違いだ。
Q:あのアルバムでも、ジェフと多くの曲を書いていますね。共作とは、どのようなやりかたをするのですか?
TP:いつも顔と顔をつき合わせて書いていた。二つのアコースティック・ギターでね。徹底的にそうした。座るやいなや、仕事が始まる。まったく、うまく機能したよ。ぼくらは良いソングライティング・チームだった。
思い返してみて思うのだけど、たくさんの良い音楽が出来上がったのだから、後悔はしていない。何人かの気持ち的には、辛いこともあっただろうし、ハートブレイカーズにいることがストレスだったろう。でも、結局は成功したレコードだった。みんなが本当に楽しんでくれいている。あれは、ぼくらの本のなかにある、違ったもう一つのページだった。何かほかの道へと導いていたんだ。
Q:力強さがあり、また
[Full Moon Fever]
の延長のようなスピリットがありますね。
TP:そうだな。たぶん、そいつがハートブレイカーズには気に入らなかったんだろう。みんなは思ったんだ。「あれは良いソロ・アルバムだ。それはお前のものであって、俺たちのものじゃない。」
あの時、あまりにも沢山のことを試そうとしていたんだと思う。たしか、ウィルベリーズの2枚目のアルバム制作中だと思うけど、ぼくはハートブレイカーズに、ぼくはまだ、同時にバンドのレコードを作れるって言ったんだ。ぼくらたちだけでね。それでセッションをやろうということになった。マイクとぼくがプロデュースして、セッションを行い、
"Travelin'"
という曲を録音した。この曲はボックス・セットに入っている。みんな、この曲が大嫌いだった。嫌い、嫌い、嫌いの大嫌い。それっきりのセッションだった。だから、「このことは忘れて、ロードに出よう。そのうちまた上手く行く。」って感じになった。
ぼくは、あの録音は素晴らしいって思っている。そして、あれがハートブレイカーズであり、ほかの何者でもない。でもみんなは、ぼくが望むようにはやりたがらなかった。ちっとも乗れなかったんだ。マイクはどうだか知らないけど、とにかく他の連中には好きになれなかった。こう言っていたよ。「これは好きじゃない。俺たちらしくないよ。」ってね。何もかもが悪いってわけじゃない。ぼくは思ったよ。「これだって俺たちだ。」今になってレコードを聞いてみると、"Travelin'"
をアルバムに入れなかったのは、ひどく残念だったと思う。
ボックスセットのプロジェクトが始まるまで、存在さえ認識されていなかったんだ。それからやっと、その価値がわかってきた。(プロデューサーの)ジョージ・ドラコウリアスが見つけて言ったんだ。「うわぁ、すげえ!」って。それでぼくも言った。「な、そうだろ?」(笑)
Q:誰かが、「3人か4人のハートブレイカーズが部屋に居ると楽しいけど、5人全員が揃うと、仕事になる」と、言っていましたね。
TP:(さらに大笑い)そうだな。5人全員いると、シリアスになってしまう。5人が一所にいると、本当にまじめな感じになってしまうんだ。3人とか、2人とかなら、問題ないんだけど。前にもったとおり、ぼくらは若造の頃から、一緒に成長してきたんだ。場合によっては、高校時代にまでさかのぼる。みんなが同じ場所にいたら、どんな感じか?そりゃ仕事モードにもなるさ。お仕事中そのもの。ここに揃えば、意味することは明白だ。
でも、ぼくらの間には、深い愛情がある。あのオリジナル・ファイブにはね。ぼくらは本当に仲が良かったんだ。どんなに喧嘩をしても、ぼくらの間に、敬意が存在することは確かだ。それに、お互いに対する愛情がある。悪意なんてものは存在しなかった。酷なこと、卑劣なことなど、一つもない。
ただ時として、多くのストレスを抱えていた(笑)。だから時には事がシリアスになってしまう。そうなると事態は重大だ。だから、ああいう状況のグループが、いろいろな人の個性やエゴにつきあわなければならないと言うのは、事実だと思うよ。いつでも、その手のバランスは要求される。他のロック・グループもそうしてきたように、ハートブレイカーズもうまくやってきたのさ。
Q:あなたがたは、本質的には一緒ですものね。
TP:そうだな。まだ4人が一緒にやっているのだから。素晴らしいことだよ。
Q:主役級のミュージシャンが揃ったグループ(ウィルベリーズ)から、ハートブレイカーズに戻ってくると言うのは、どんな感じでしたか?ハートブレイカーズでは、あなたが主役ですが。
TP:大違いだったよ。ハートブレイカーズはウィルベリーズほど、ご陽気ではないからね。ノリも違う。ぼくがあの社交的なグループから戻ってくると、ハートブレイカーズは内向的で、いい加減さのない集団だった。でも、帰ってきたのは良かった。まるで、着慣れた服を着るような感じだった。連中は、本当にすごいバンドだよ。まじで、参ってしまう。こう思うんだ。「なんてこった、こいつらすげぇ最高だ。」バンドに戻って、またロードに出られたのは、本当に良かった。
楽しかった。本当に楽しい時を過ごしたよ。戻ってきて、本当によかった。ぼくが戻ってきて、バンドのみんなも嬉しかったと思う。ぼくが戻ってくるかどうか、不確かだったからね。彼らは疑っていたのだと思う。口に出してぼくに言ったことはないけど、他の人から、ぼくが戻ってこないじゃないかという疑いを、伝え聞いていた。でも、ぼくは常に戻ってくるつもりだった。
Q:彼らにそう言いましたか?
TP:ああ、いつも彼らを安心させようと、「なぁ、俺は戻ってくるから」と言っていた。でも、連中はぼくがどこかでやたらと楽しんでいたことに、不安を感じていたんじゃないかな。でも、ぼくは彼らを非難することはなかった。ぼくだって同じように考えるだろうから。とくに、ソロアルバムなんてくっついてこようものならね。
でも、ぼくにはそれで良かった。ハートブレイカーズから離れる必要があったんだ。長年にわたって、得ることのできなかった自由が必要だった。何をするにしてもね。何曲かできると、ハートブレイカーズのところに持っていき、練習して、録音して、その後ツアーをして、そのサイクルの繰り返し。それが何年も続いた。
だから良い休憩だったんだ。ハートブレイカーズに戻ってきたとき、バンドを離れている間に得た沢山のものを、持ち込んだ。新しい録音技術もそうだし、ぼく自身ソングライターとして大胆になっていた。だから、バンドを離れた事で、多くのものを得たんだ。
バンドのみんなも、同じように得たと思う。みんな、寝てたわけじゃない。いろいろな事をしていた。スタンとマイクは、ドン・ヘンリーと仕事をしていた。マイクは(ヘンリーと)一緒に
"Boys of summer"を書いたし、スタンは一緒に "Last worthless evening"
や、ほかにも数曲をドンと一緒に書いている。ドンとは長いつきあいの友人だったからね。あの年のグラミー賞の最優秀アルバム賞ではウィルベリーズのアルバム[Vol.one]
、[Full moon fever] ,それからドン・ヘンリーのアルバム([Building the perfect of
time])、ーハートブレイカーズが勢ぞろいだった。さらに、ボニー・レイットもあった([Nick of
time])。
思うに、ぼくらはみんなパスしたんだな。ボニー・レイットが受賞したよ。彼女の受賞を妨げるものは何もなかったね。彼女は本当に才能豊かだから。とにかく、ぼくは誇りに思ったよ。こう思ったね。「この5人野郎ときたら、べらぼうな音楽を作り出したもんだな!」それと同時に、ハウイがジョン・プラインのアルバム(The
missing
years)がグラミー賞を獲得した。ハウイがプロデュースをして、最優秀フォーク・アルバムを獲得したんだ。
だから、みんな手をこまねいていたわけじゃないんだ。彼ら自身も色々なことをしていたのさ。
だからぼくらがバンドに戻ってきたとき、こ本当に良かったと思った。みんなそう思っただろうし、良さを認識したんだ。
Q:ベンモントも忙しくしていたのですか?
TP:ああ。ベンモントはセッション・ワークをこなしていた。ドン(・ヘンリー)と何か少し書いたと思うよ。あの時期、いくつものアルバムでプレイしていた。U2ともやっていたな。
バンドのみんなは、ロイ・オービソンのアルバムでも仕事をしていた。マイクは、一部プロデュースもしている。だからみんなが、参加しているんだ。スタンは、ロジャー・ッグインのアルバムに参加していた。みんな友達同士の、入れ替え可能なグループだったんだ。でも、同時に音楽を沢山作りすぎでもあった。ぼくら、ハートブレイカーズにとってはね。創造的なドタバタだった。許容範囲を越えた制作過多に陥っていた。
ジェフとぼくは、一緒に色々な人のレコードで歌っていたし、ランディ・ニューマンのアルバムでも("Falling
in love" [Land od
deams])歌っていた。ジェフがプロデュースした曲で、ハーモニーをやったんだ。ロイ・オービソンのアルバムにも参加して、シングル曲 "You got it"
を書き、録音と歌にも参加した。ぼくらはみんな、その類のことをしていた。サックス・プレイヤーのジム・ホーンはウィルベリーズで多くの演奏をしていて、ジェフとぼくは彼と一緒にやったことを覚えているよ。デル・シャノンとの仕事の時だ。
ぼくらは忙しかったけど、同時にハッピーで、いつも友達と仕事をしていた。みんな素敵な人たちだよ。
Q:あなたは、マイクと沢山の曲を書いていますね。でも、スタンもまたソングライターです。彼が曲を持ち込んできたことはないのですか?
TP:スタンが曲を出してきたっていう記憶はないな。
Q:どうしてでしょうか?
TP:さあ。スタンはかわった性格でね。彼は、一緒にいるときに彼にとっての自分がどんなものなのかが直ぐにわかるようなタイプじゃないんだ。スタンに関しては、彼にとってぼくがどうであったのか、理解できているとは思えない。
ともあれ、彼がぼくに曲を持ってきたことは無いよ。実のところ、ぼくは沢山の曲を書いていて、何かを持ち込むには、敷居が高かったんだろう。
Q:でも、マイクはその敷居を何度も越えていますよね。
TP:ああ。でも、あれはずっと以前からのパートナーシップだから。それに、マイクの曲だって、アルバム1枚に、2,3曲だ。とにかく、ほかのみんなが、ぼくのところに何かを持ち込んだことは無いな。たぶん、ぼく自信がいろいろ持っていたからだろう。それに、正直言ってぼくがそれを受け入れたかどうかは分からない。
ベンとぼくは、カントリーチャートでナンバーワンになった、ロザンヌ・キャッシュの曲、"Never
be you"
を書いた。
Q:あなた方自身では録音しましたか?
TP:したけど、リリースしなかった。あれがぼくら二人が書いた唯一の曲だな(笑)。もっと書けたのかもしれないけど。でも、やりたいと思ったときには一杯一杯になっていた。でも、いつでも歓迎だよ。もし誰かが、すっごい良いアイディアを持っていれば、それをやるだろうね。
ハウイに関して言うと。ハートブレイカーズでベースを弾いていた男だな。ジョン・プラインのレコードを聴くまでは、ハウイが何をしていたのか知らなかった。何せ彼はとても無口だったから。自分の言いたいことを声高に言うようなタイプじゃなかった。でも、すさまじい才能の持ち主だった。あれは、もの凄い、ほんとうに凄いアルバムだった。
そうだ、あの時どんな事が起こっていた?彼らはハウイのガールフレンド、カーレン・カーターとアルバム
[I fell in love, 1990]
を制作していた。それがヒット・アルバムになった。たしか、ベンも関わっていたんじゃないかな。それで、ハウイがプロデュースし、ベンとハウイは他にも彼女のためにカントリーのヒット曲を作った。それが
"I fell in love"
だ。あの二人はベンは、ハウイの家でつるんでいたんだと思う。ハートブレイカーズは自宅スタジオでも、ビッグだった。
本当に色々な音楽制作が行われていた。そして沢山の成功を得た。ハートブレイカーズっていうのは、本当に才能あふれた人の集まりだ。そのバンドの連中ができることをすべて、一つのアルバムの枠に入れ込むのは、不可能なことだ。だからあの時期、バンドを離れるのは、悪くないと思ったよ。ぼくらはバンドを始めたときよりも、より幅広くなって戻ってきていた。
Q:ジェフはもう一つソロ・アルバムを作ろうと、たきつけましたか?またはバンドで何かするのが気に入っていましたか?
TP:こんな風だったな。「こうしなきゃいけないんだよ、ジェフ。ずいぶん長い間、バンドのみんなを放ったらかしにしてしまった。だから今は、みんなとやらなきゃいけない。みんなとレコードを作らなきゃ。でも、ぼくは君に加わってほしいんだ。」
彼は本当によくやってくれた。特にソングライティングの面でね。
Q:彼のプロダクション・スタイルのようですね。
TP:まったく、その通りだね。「ジェフ印」みたいなものだよ。でも、それがアルバムに傷をつけているとは思わない。ぼくらは良いアルバムを作り上げたと思う。
結局、最後にはバンドのみんなも、出来に誇りを持っただろう。ぼくらにとっても良かったし、その後ライブでのパフォーマンスへと進んでいった。みんな、"Learning
to fly" や、"Into the great wide open"
なんかをやるのは、ハッピーなのだって分かるよ。
だから、どうみんなが時間を過ごしても、レコードは作れるんだ。だから、ライブでやるのが良い感じにもなる。
Q:[Full
moon
fever]のサウンド・マジックが続いているようですね。
TP:ああ、顕著にね。あの時点ですでに、ずいぶん色々なサウンドをやっていた。ウィルベリーズの2作品や、ロイ・オービソンのレコードも入れれば、ぼくらは本当に沢山、一緒に仕事をしていた。
だからしばらくして、ぼくらはお互いに休みをあげなきゃいけないって事になった。でもさ、なんて長く、素晴らしき音楽の時代だったんだろう。
Q:まったくですね。このアルバムのセッションが始まる前に、すべての曲を書いてありましたか?
TP:そうだと思う。セッションが始まる、少し前に書き上げたんだと思う。
Q:アルバムのタイトル曲と、"Learning
to fly"
は、何事もも不可能ではないということを、示唆していますね。これは、どんな感覚なのですか?
TP:うん、「大いなる、広き、開けた所へ」という感じだな(笑)。とてもポジティブで、気持ちの高まるアルバムだ。あの時、上手く行く、ハッピーなタイミングだったんだ。潜在的な、何かをやりたいという気持ちの反映なんだろう。
人は、頭の中にあるものがすべて、認識できている訳じゃないんだ。そうなったら、もう書くしかない。それが、自分の気持ちを思い返すための、唯一の手段になることもある。でも、あたまが一杯になって、手に余ってしまうときは、立ち止まって頭を冷やすしかない。もし、「ああ、楽天的なアルバムを書いているんだ」・・・なんて考え始めたら、ブーン!立ち止まらないと。
そうやって、やり過ぎにならないようにして、考え、そして次の段階に進むんだ。
Q:私は、"King's
highway"
が大好きです。これもまた、楽天的な歌ですね。
TP:録音通りに演奏しているね。ぼくも好きだ。
Q:ボックス・セットに入っているアコースティック・バージョンも素晴らしいです。
TP:両方とも良いね。良い曲だよ。やりたいように演奏して、上手く行く曲だ。どっから浮かんだかは知らないけど、出来た時はとても嬉しかった。録音するには、手強い曲だった。思うようなサウンドにしようと、何度か変更を加えた。良いアレンジメントにするためにね。
でも、マイクのソロで、素晴らしくなった。とても感情のこもった、感動的な演奏だった。そういう感覚がこのレコードにはある。
Q:もちろん、彼のソロが感動的ではないといえるような曲は、あまりないですよね。彼の演奏は、驚異的です。
TP:(笑)そうだな。確かにそうだよ。マイクはなんでも、素早く質を上げることができるんだ。そういうソロはいずれも感動的だ。もう一つの「声」のようなものだな。本当に素晴らしいプレイヤーだよ。
Q:あなたは、彼がソロをどうするか、任せておくのですか?それともどう演奏するか、指示したことがありますか?
TP:ぼくらは時間をかけて、お互いの顔を見ながら、相談するんだ。それでジェフとぼくが、アイディアをマイクに投げかける。「こんなのはどう?」ってね。
そうしたら、マイクが言う。「こういうのならどう?」
そして、ぼくらは大抵こう言うんだ。「ああ、そいつは俺たちが考えていたのよりも良いな。」
とにかく、ぼくらはみんな頭を突きあわせて、ソロに勢いをつけるんだ。でも、マイクみたいな人と一緒だと、彼のやるようにしておくのが良いんだ。自分たちの最初のアプローチからは外れるけど。マイクのやりたいようにやらせるんだ。そして、元よりも良くなる。
Q:あなたとジェフは、同等にプロデュースをしたのですか?
TP:ぼくらは一心同体だったから。それに、マイクも一緒だった。
Q:スタンとジェフは、アルバムの制作中、一緒にいましたか?
TP:うん。みんな、とても率直ではあったけど、彼らはとっても上手くやっていたと思う。
誰がなんと言おうと、みんながどう感じていたかは、分かっている。みんなが、恐れをなしていないかとか、ぼくの乗る船に、みんなを引きずり込んでしまったとか、そういう心配をしていたのは、ぼくの方なんだ。これは事実だ。
ぼくは仲間をぼくの船に引きずり込んだ。でも、バンドにとっては良いことだったと思うよ。
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PAUL
ZOLLO / Conversations with Tom Petty / 2005
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