東海道五十三次を歩き続ける(2)

全行程の3分の1を歩き終わりました。 ここから先が正念場です。



後期高齢者は肩ひじ張らずにゆったり歩きます



目次

府中宿→岡部宿  岡部宿→六合駅前  六合駅前→金谷宿
  金谷宿→掛川宿  掛川宿→袋井宿

 日本橋から箱根三枚橋まではこのページに戻ってご覧下さい。
箱根三枚橋から府中宿まではこのページに戻ってご覧下さい。  袋井宿から先はここをご覧下さい。

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第16日
2008年9月22日(月曜) 府中宿→岡部宿 男2名+女1名 天候:雨のち曇り時々小雨



 今日の行程は府中宿 ( 現在の静岡駅前 ) からとろろ汁で有名な丸子の宿を経て、宇津ノ谷 ( うつのや ) 峠を越えて岡部の宿までの約14kmです。 途中の宇津ノ谷峠は標高こそ172mしかありませんが、後述するようにちょっとした難所ですので、これを越えることを勘定に入れると実質15km以上でしょう。 途中2回ほど道を間違え、戻って歩き直したので、16kmは歩きました。

 JRが人身事故の影響で途中1時間近く停まり、その上静岡に着いたら豪雨。 傘を買ったり、スタートの際、道を間違えたりで、本当に歩き始めたのは11時半になってしまいました。

 前回の江尻宿 ( 清水駅前 ) 同様、静岡駅前の府中の宿場町の通りもクランクしています。 今日の静岡駅前の旧東海道と前回の清水駅前の旧東海道とよく似た形をしています。 ここを通り過ぎ、12時に安倍川の橋に差しかかった時、早くも昼食時間になってしまったので予定を変更して有名な安倍川餅を食べました。 前回の所に載せた広重の浮世絵でもわかるように、この川には昔は橋はありませんでしたが、今はもちろん鉄橋を歩いて渡ります。



 やがて国道1号線に合流し、左に入るとそこはもう丸子の町です。 さらに歩を進める上の広重の浮世絵にも描かれている 「 とろろ汁の丁子屋 ( ちょうじや ) 」 が、昔風の姿で現れます。 この建物は広重の絵を参考に近年建てたそうですが、とにかく創業1596年というから、もう400年以上続いている店です。 松尾芭蕉の 「 梅わかな 丸子の宿のとろろ汁 」 という有名な俳句の石碑もありました。 丁子屋はこの俳句によるPRの恩恵をどれほど受けていることでしょうか。 ついでながら申し添えますと、丸子は 「 まりこ 」 と読み、当時は鞠子とも書かれたようです。



 もちろん、とろろ汁は食べずに丸子の宿をあとにしたのち、旧東海道は国道1号線に沿って 「 付かず離れず 」 の状態で進んで何kmか歩くと、やがて国道1号線の宇津之谷トンネルの入り口にさしかかります。 宇津ノ谷峠を抜けて静岡市から岡部町に行くため、東海道はここから以下のAからFまでの6本のルートに順次分かれて行き、岡部町で再び合流します。  千年以上にわたり順次作られ使われてきた近接する6本 ( @を含めれば7本 ) の道がすべて現存し今も通れるというのは驚くべき事です。 では、宇津ノ谷地区での東海道の千数百年にわたる変遷をご紹介しましょう。

@ 古代:日本武尊が東征 ( 4世紀±2世紀頃と推定されている ) の際にも通ったと伝えられる万葉時代の道で、現在の東名高速道路の日本坂トンネルの真上より少し北、海岸からは1.5kmほどのあたりで、静岡市の小坂と焼津市の花沢の間の日本坂峠 ( 海抜310m ) を越える経路です。 平安時代初期 ( 9世紀 ) までは東海道はここを通っていました。 現在も細い道が通じています。

A 平安時代中期 ( 10世紀 ) 以降、鎌倉、室町時代にかけての約700年間は、これより4km以上も北の宇津に迂回するが、越える峠の高さ ( 172m ) はずっと低くて済む 「 蔦 ( つた ) の細道 」 という経路が使われました。*1  それでも、ここは東海道の難所の一つでした。 この細道も現存して地図上に存在しています ( 後述参照 )。

B 豊臣秀吉が小田原城攻め ( 1590年 ) のために、これよりさらに1km近く北側に作らせたという道が現在の「宇津ノ谷峠」を通る道で、江戸時代にはこれが東海道の本道となりました。 但しAも江戸時代は共に用いられていました。

C 明治に入るとBの頂上付近に我が国最初の有料トンネル ( 当初大人2厘、子供1厘 *2 ) が2年がかりで完成し、明治9年 ( 1876 ) に開通します。 海抜115m、全長270m、幅5.4mの木造合掌造りで、峠越えの苦労がだいぶ緩和されました。もちろんすべて人力 ( のべ15万人 ) による掘削で、測量技術が低かったため途中で 「 く 」 の字に曲っていました。 明治29年に火災のため一部が崩壊した後、36〜37年にかけて改修され 「 く 」 の字もなくなって内部は煉瓦貼りとなりました ( 全長203m )。 現在は車止めがされていて自動車は通れませんが歩行者や自転車は通ることができます。 宇津ノ谷隧道 ( 通称明治トンネル ) という名前で国の有形登録文化財です。

D 更に、国道1号線の交通量増大に対応すべく、少し北側を迂回して作られた広い道路の途中に、大正の末に着工され昭和5年に完成したのが、全長230mのコンクリート製の2車線の近代的トンネル ( 通称大正トンネル:実際は昭和初期 ) で、現在も使われています。 もちろん現在は国道1号線ではなく静岡県道208号線なりました。

E その後昭和36年に完成したのが現在国道1号線の下り線用として使用されている全長881mのトンネルです。 長さが長いことからもわかるように、それまでのトンネルよりずっと低い所 ( 最高地点でおよそ海抜70m ) を通っていますし、静岡市側と岡部町側とを最短距離で直線的に結んでいます ( 通称昭和トンネル )。

F 平成2年になると、交通量の増大に対応して上記のEのすぐ横に平行に新しい2車線のトンネルの掘削が始まり、同9年、国道1号線の上り専用のトンネルとして開通しました ( 通称平成トンネル )。 このとき、それまで上下線用として使われていたEが2車線の下り線専用のトンネルになりました。

 以上の経緯から分かるように、@が比較的海に近いが海抜の高い峠を越えていたのに対し、A以降はこれより4km以上も内陸部にいったん迂回しなくてはならないが、越える峠の高さ的には半分から3分の1で済む場所を選んで越すようになったのでした。 そして、江戸時代の旧東海道を引き継いだ国道1号線は、技術の進歩により次第に低い所に長いトンネルを造って通るようになってきました。

 以上のA〜Fの道路を図示すると下記のようになります。 この図は ある方のサイトから写させて頂きました


 話がそれますが、全く新規に敷設された東名高速道路はというと、再び古代に使われた海岸近くの道@の日本坂峠の下を3本の長いトンネル ( 2370〜2555m ) で抜けるように作られています。 この方が当然ですが静岡市と焼津市とを最短距離で直線的に結べるからです。

 さて、Aの蔦の細道とBの旧東海道とは、当然のことながらCの明治トンネルの開通以降は誰も歩かなくなり、草木が生い茂って通れなくなり、消えてしまったのです。 Aの蔦の細道は、昭和35年から約10年かけて 丸子町の長田西小学校の春田鉄雄さんという先生 がPTAや地元の人たちの協力も得て復元し通れるようにしてくださいました。

 また彼は、この復元作業の間も、江戸時代の旧東海道Bはこの蔦の細道Aとは違うという確信を持ち、昭和42年から45年にかけ、同校のPTAの方たちの協力を得て明治トンネルCの上部の藪を調査し切り拓いて江戸時代の幅2間の旧東海道Bを発見、復元したのでした。 この過程で多くの江戸時代の石碑や松並木の切株などが見つかり、このルートBこそが江戸時代の旧東海道であったと証明されました。

 さて、本論に戻り、我々はどこを通るかです。 当然、江戸時代の本道を通るべきです。 この本道Bは、Cの明治トンネルの上を通って山を越えて行く、6本のうちでは最も長く高く険しい行程です ( F内にある立派な歩道を歩けば僅か10分で岡部側に出られるのですが・・・ )



 雨で滑りやすくなっている結構険しいこの山道を歩いてみて、改めて50年前の春田さんほかの地味で立派なご努力の成果に感謝一杯でした。 あの当時のご努力がなかったら、私達のような旧東海道ウォーキングの人たちは、明治時代に出来たトンネルを抜けることでお茶を濁すしかなかったのです。 現在でこそ、この種のウォーキングは大流行で、インターネット上には検索しきれないほどの 「 旧東海道歩き 」 の情報が流されていますが、50年前、まだ日本人にそんな余裕も興味も全くなかった頃、故郷の歴史を掘り起こし確認しようという情熱で10年以上も地味な努力を続けた彼らは本当にすごいと思いました。 静岡県の小学校の道徳の副読本に彼らの業績が取り上げられているのも、誠にもっともな話てす。

 というわけで、今日も無事に岡部の宿に着いたのはなんと午後4時。 地元で得た情報による食事どころで、遠州 森 産の 「 究極の森町こしひかり 」 8月末刈りたての新米を釜で炊いたという美味し〜い炊きたてのご飯 ( 到着予定時刻を予め携帯で知らせて炊いて頂いた ) で遅い昼食を食べ、帰途につきました。 帰りは静岡行きのバスに乗ったら、4時間かけて歩いた往路とほとんど同じ道を通って ( もちろん宇津ノ谷トンネルはEをくぐりました ) たった35分で静岡駅に戻りました。 正規の料金は¥570でしたが、敬老の日の週ということで、65歳以上は一律¥100でよいということでした ! ! !  心優しい静鉄バスに深く感謝。 小田原からはだいぶ遠くなってきたので、帰宅は8時半になりました。 数回後には日帰りはもう無理になることでしょう。

*1: この時代の多くの歌や物語にこの淋しく険しい 「 宇津 」 の名がしばしば出ています。 「 行き行きて駿河の国に至りぬ。 宇津の山に至りて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つた、かへでは茂り、もの心細く…… 」 ( 伊勢物語 )。 「 駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり 」 ( 在原業平 )。

*2: 若い方が厘 ( りん ) をご存じないといけないと思い、念のため:1円は100銭、1銭が10厘です。 例えば、はがき料金は1899年 ( 明治42年 ) から38年間にわたって ( 昭和12年 ) まで1銭5厘でした。

第17日
2008年10月9日(木曜) 岡部宿→六合駅前 単独行 天候:晴

 仲間の皆さんと一緒に行く事が決まった10月第4月曜日は、あいにく他の先約が入ってしまっていたので、今回は皆さんよりもひと足先に単独行です。 前回までのより30分以上早い電車に乗って静岡に着いたのが9:20。 更に、前回帰路に乗った路線バスに40分ほど乗って再び岡部の宿場跡に着いたのは10:10頃でした。 なんとも無駄な話ですが、岡部の町 ( ということはこの地域では旧東海道や現国道1号線 ) が、JRの線路からは遠く北の山側に離れているので、こうせざるを得ないのです。



 上の写真の 岡部宿大旅籠 ( おおはたご ) 柏屋 の建物の前から歩き始めたのが10:15。 海の方に向って続く平坦な道を歩き、今日は藤枝の宿場 ( 藤枝駅の北1kmのあたり ) を抜けて島田の宿場を目指しますが、島田まで行くとちょっと距離が長くなるので、途中のJR六合駅までの14kmです。 六合の駅は旧東海道 ( ここでは現在の国道1号線と同じ ) 沿いに在るので好都合です。 次回は六合からあの 「 越すに越されぬ 」 大井川 を越して金谷の少し先まで歩くことになるでしょう。


江戸時代、庶民の男性は太腿やへそを人前で露出したが、女性は決してそんな事はしませんでした。 現代は全く逆です。

 話がそれますが、事前に藤枝宿についていろいろと予習していた時、ふと池波正太郎の 「 仕掛人・藤枝梅安 」 シリーズの事を思い出し、本棚の奥を探して見たら梅安針供養、梅安最合傘、梅安針地獄の3冊が出てきました。 10数年前、日本から米国の家に帰るまでの長いフライトの間、暇つぶしに鬼平犯科帳をはじめ、池波正太郎の文庫本を片端から読みまくっていたのでした。 予想通り梅安は藤枝の生まれという設定になっていました。 パラパラとめくると、三島、由井、江尻、岡部、島田、金谷など、最近通ってきた宿場やこれから通ろうとする宿場の情景が次々に出てきます。

 登場人物たちは1日に九里 ( 36km ) から十四里 ( 64km ) も速足で歩いていますが、これは決してフィクションの世界の出来事ではなく、江戸時代の多くの実録を見ると、若い健康な男性の旅人達は、実際一日にこのくらいは歩いていたのです。  たとえばこのページの下の方に掲載されている図 をご覧下さい。 などと書いていたら偶然、緒方拳が亡くなったというニュースが入りました。

 ウナギのように延々と細長く続く藤枝の町 ( やその付近 ) には、樹齢500年の須賀神社のクスの巨木 ( 左 )、日蓮上人お手植えという樹齢700年の大慶寺の松 ( 右 )、形の良い樹齢300年の正定寺の本願の松 ( 下 ) など、素晴らしい樹が多くあります。 それらをじっくり拝見しつつ歩を進めて行来ます。 が、藤枝宿を抜けた後は、国道1号線とJRの線路に挟まれた何も見るべきものがない退屈な道路となり、そしてついに六合の駅に到着です。




 ところで、今日の経路の途中にも、旧東海道の真上に住宅が建ってしまいて迂回せざるを得ないとか、旧東海道が国道を横切る部分に信号がないばかりか国道の中央に分離帯が構築されていて横断しにくいとか、旧東海道がひどく 「 虐待 」 されている部分がありました。 こういう部分には、毎回1カ所くらいは出会います。 我々の立場からすれば 「 信じられな〜い 」 という情けない思いです。  昔は国有地だったはずの旧東海道はいつ私有地になってしまったのでしょうか   素晴らしい史跡をこうも簡単に無視してしまってよいものでしょうか   ともあれ、今日は49里、50里、51里の3つの一里塚跡を通過しました。 そう、私はお江戸日本橋からもう200kmほどを歩いたことになるのです。

 後半は単独行の気やすさで、黙々と速足であるいたので、14kmを4時間で済ませ、六合駅には14:15に到着しました。  気がついたら昼食を未だ済ませていません。 六合駅前は淋しいので ( 失礼 )、10分間隔で走っているJRで静岡まで戻り、駅近くの地下街にある沼津港 「 丸天 」 の静岡店に直行。 いつもは長い行列ができていると言われるこの超有名B級グルメ店も、中途半端な時間 ( 15時 ) なのですぐに座れゆっくり食べられました。 早速、昼夕食兼用の生シラス+巨大なかき揚げ+ウニ・イクラ・マグロぶつ丼を生ビールのジョッキ片手に堪能 !   でも、これではせっかく歩いたのに体重が増えること必定です。  今日は今回のウォーキングでは初めて、新幹線を帰りだけ奢って小田原に17:50に帰着。

第18日
2008年11月26日(水曜) 六合駅前→金谷宿 男3名 天候:晴

 「 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 」 と昔から言われてきた難所の大井川は、県道381号線 ( 旧国道1号線 ) に架かる鉄橋が1000m以上もある広い川です。 前回の終点のJR六合駅を出発し、途中島田の宿では大井川の川渡しの歴史を伝える「 島田宿大井川川越 ( かわごし ) 遺跡 」 ※2を参観し、大井川の鉄橋を渡り、JR金谷駅のそばに在る旧金谷宿までの約9kmを歩くのが今日の計画です。 これだけでは距離的に もの足りない のですが、次の日坂 ( にっさか ) 宿まであと6km 歩くと、そこは山の中なので帰りの交通が不便です。 その先の掛川迄歩かないとJRに乗れないのですが、そこまでは更に8kmあり、平成時代の後期高齢者の脚では合計23kmの山道は到底歩けません ( 金谷・日坂間には、箱根峠、鈴鹿峠とともに旧東海道の3大難所とされてきた小夜の中山 ( さよのなかやま 佐夜と書く場合もある ) があるのです )。


左は大井川東岸の島田の宿、右は同西岸の金谷宿. とにかく川一つ越すのも、昔は大変でした。

 というわけで、今日は金谷止まりとし、金谷駅からタクシーに乗って 蓬莱橋 ( ほうらいばし ) のたもとまで ( 約8km ) 行き、歩いてこの橋を渡って島田の駅まで戻ると、合計で12kmほど歩くことになるので、そういうプランにしました。

 旧東海道とは関係ない蓬莱橋をなぜ歩くかというと、この橋は 「 世界一長い木造の歩道橋 」 として平成9年にギネスブックに認定された有名な橋だからです。 蓬莱橋は、江戸時代には橋がなかった大井川に、牧之原と島田の間の交通の便のために明治12年 ( 1879 ) 作られた橋で、全長897.4m、幅2.4m、通行料は¥100です。 木造なので、増水のたびに被害を受けてきました※1 が、昭和40年 ( 1965 ) に橋脚のみ鉄筋コンクリートに変更されました。 それ以降も何度も被害をこうむり通れなくなったりしています。 最近も平成19年の7月に台風4号の影響で一部が壊れ、このほどようやく復旧工事が完成したばかりです。 この地方の有名な観光資源であることは確かで、我々もこの珍しい橋を、幸い壊れていない今、自分の足で是非一度渡って見たかったのでした。


人足はとてもよくできている。 予算がないのかも知れないが皮膚の美容補修をしてあげたい。

 話を戻します。 2回もJRを乗り継いで六合駅で下車したのが小田原を出てから何と2時間と8分後の9:44。 金谷駅北側の前回歩き終えた地点で1号線からすぐに右に分かれて細い旧道を歩きます。 やがてまた広い1号線に合流したかと思うと今度は左に分かれ、歩き始めてかれこれ約3kmほど歩くと島田の宿に達します。 私は知らなかったのですが、日本髪の 「 島田 」 というスタイルは、江戸中期に東海道島田宿の遊女が結い始めたことから名づけられたのだそうです。 のちには一般の女性も結うようになりました。 花嫁の文金高島田も、この流れだという説があります。

 蓬莱橋と共に島田の町でぜひ観るべきものは、大井川の左岸の旧東海道沿いに再現されている上記の 「 島田宿大井川川越遺跡 」 です※2。 ここでは当時の旅人が現在の切符に相当する 「 川札 」 ※3を買った 「 川会所 」 をはじめ、川越人足 ※2 が集合していた 「 番宿 」 や 「 札場 」 など当時の町並みが立派に復元されています。 驚いたことに、これらの江戸時代を模した家々の一部では実際に人が居住していますが、これらをゆっくり拝見しました。

 ここにあった筈の当時の渡し場よりも、現在の鉄橋はだいぶ上流側に架けられているので、致し方なくいったん川沿いに上流に進みます。 それにしても、1000m以上もある鉄橋を渡ってみると、越すに越されぬ大井川が、いかに難所であったかがよく理解できます。 速足で歩いて渡るのに15分もかかったのです ( 1,440歩でした )。 もっとも、 「 暴れ川 」 だった大井川の河口付近は江戸時代は今の位置よりもずっと東を流れていたこともあるようで、現在左岸にある志太郡大井川町が、大井川の右岸 ( 西側 ) に在ったことさえあったと聞きます。 川幅だって現在とは違っていたことでしょう。 ともあれ、大井川を境に東が駿河の国、西は遠江 ( とおとうみ ) の国 ( 遠州 ) ということですから、私たちはようやく駿河を抜け遠江に入ったというわけです。 それにしても、伊豆、駿河、遠江と続く静岡県はとても横幅の広い県ですね。


左は金谷側のたもと。 ここから遠江の国。 右は橋の真ん中から。 川の水量は意外に少ない。

 さて、大井川を渡ってしばらく歩き、今度は金谷の宿場跡を拝見した後、駅前からタクシーに相乗りして一面の茶畑の中を通り10分ほどで蓬莱橋の牧之原側のたもとに行きました。※4 通行料百円也は島田側の出口で後払い、幼児の遠足のように胸をワクワクさせながら蓬莱橋を渡りました。
 
う〜ん こんな景観が今の日本にあったのか


左は橋の真ん中から見た牧之原台地 ( 右岸 )。 右は同じく島田市 ( 左岸 )。

 この橋は欄干が低いわりに水面からは高いので、高所恐怖症の人は途中で足がすくむかも知れません。 牧之原台地は現在静岡茶の主要産地として有名ですが、明治のはじめに大井川右岸にある牧之原を開拓してお茶を作り始めたのがその始まりと言われています。 この人たちが島田の方へ生活用品を買いに行くのに大井川を小舟で渡らなければならず、大変危険だったので、当時の静岡県令 ( 現在の知事 ) に橋をかける願いを出し許可され、明治12年に完成したものだそうです。

 その後またテクテクと歩き、島田駅前に到着したのが13:40。 JRで静岡まで戻り、前回と同じ店で旨い魚料理で遅めの昼食。 冷えた生ビールに喉を鳴らしたのはついこの間のことだったのに、私は何と熱燗。 あまり夕方遅くならぬように鈍行のJRをつかまえ、またもや2時間かけて小田原に帰りつきました。 いよいよ次回からは一泊二日+一部新幹線利用になることでしょう。

※1: 江戸時代の東海道では、次回ご紹介する掛川の浮世絵にもあるように、多くの小さな細い川には木製の橋がかけられていましたが、大きな幅広い川には橋がなく、舟渡し、徒歩 ( かち ) 渡し、馬渡し、蓮台渡しなどにより川越しをしていました。 橋がなかった理由については、敵の軍勢が一気に攻めてこられないようにする関所的な機能のためだとする理由をよく聞きますが、築橋技術が低かったので、木造の橋は架けても架けても大水のたびに毎年流されてしまうからだという理由、橋ができたら両岸の川越人足や宿場の旅籠などで働く人々の生活が脅かされるので、その生活保護のためという理由なども挙げられています。 私は個人的には3つとも本当だと思いますが、現代の土木建築技術を一部利用した蓬莱橋でさえ、ときどき大水で壊されているのを見ると、「 暴れ川 」 として有名な大井川の増水した濁流に耐えるだけの築橋技術がなかった為というのが最大の理由だった様に感じられてなりません。

※2: 江戸時代は川を渡る、つまり川を越すことを 「 かわごえ 」 ではなく 「 かわごし 」 と言っていたようです。

※3: 旅人に川札を買わせる方式にしないと、不心得な人足が高値を吹っかける事があったからだそうです。 なお、川札の値段は、その日の川幅と水深を測った上で、役人と人足の代表が協議して毎日決めたそうです。 詳しくはここをご参照下さい

※4: この地点の約2km南に、あの評判の悪い 「 富士山静岡空港 」 が完成しつつあります。

第24日
2009年6月18日(木曜) 金谷宿→掛川宿 単独行 天候:曇のち薄曇

 金谷の宿場から日坂の宿を抜けて掛川の宿までの約15kmの山越えは、いちいち述べませんが、いくつかの理由で私は後回しにしていました。 本来なら第19回目に歩くはずだった区間です。 ようやく時期が到来し、今日歩くことになりました。 順序が大きく狂ってしまいましたが、致し方ありません。 今回のコースは箱根ほどの難所ではありませんが、旧東海道歩きの先輩たちが書いた記録には 前半の小夜の中山峠の登り部分に 「 地獄の登り坂 」 とか、それに類した形容詞が必ず出てきます。 どれほど急かは下右の浮世絵をご覧下さい ( もちろん、広重による芸術的誇張はあるでしょうが )。

 私が歩きながら茶畑で働く方々に聞いたら、何度も削って整備したおかげで、現在の勾配は昔よりずっと緩くなったそうですが、たいていの坂道はトップのままで登れる私のアリスト ( 3000cc ) だってセカンドにしなければ上がれないだろうと思うほどの勾配でした。


 「 小夜の中山 」 という名 ( 小夜は現在はさよと読み、昔はさやと読んだ ) で昔から有名な (*1) この山越えは、景色もよく標高差も250m程度ですが、決して侮れないと私は思います。 箱根、鈴鹿と共に古来旧東海道の3大難所とされてきました。 最近はハイキングコースとしても知られ 説明資料 もありますのでご覧下さい。

  16日の火曜日の天気予報が、終日曇りで降雨確率0%、気温も23度くらいと絶好だったので、用意を整えていたら当日朝になり 「 曇時々雨、雷も・・・ 」 と変わってしまい急きょ中止、今日になりました。 今日はと言うと、終日薄曇りという予報で出かけたら午後は薄日がさしました。 気温も23度くらいで、日傘をさせば何とか歩ける程度の暑さでした。 午後はところにより雷雨も・・・という予報だったので急きょ出発を早め7時前に家を出ました。 金谷の駅から歩きだしたのが9:10、数百m戻り、前回 ( といっても昨年の10月 ) の終着点の金谷の一里塚の所でJRのガードをくぐり、いよいよ出発です。

 やがて 有名な石畳の登り道 に入ります。 平成2年に430mにわたり復元されたものです。 石畳茶屋、鶏頭塚、すべらず地蔵・・・と過ぎて行くと、有名な牧ノ原台地の広大な茶畑が左右に一望できる地帯に入ります。 折しも新茶の季節ですから、その新緑、美しくないわけがありません。 下りの新幹線で大井川の鉄橋を渡った後、通過する車窓からなだらかにうねった丘陵が両側に眺められますよね。 あたり一帯が茶畑ですが、あの美しい地域が実はこのあたりなのだと気づきました。


右および下の写真の石畳は9年前に発掘調査、整備された江戸時代の旧東海道。 その周りは美しい現代の茶畑

 登り切ってからしばらく平地を歩くと今度は菊川の石畳の下り道です。 この菊川坂は平成12年の地元の方々による発掘調査により江戸時代後期のものと判明したものです。 私はそこを転ばぬよう注意深く下ります。 この石畳の道は、私が歩いた今までのどの区間の道より美しいと思いました。 やがて昔、間宿 ( あいのしゅく ) があった菊川の里に出ます。 ここを通り過ぎ左折するといよいよ小夜の中山峠へと続く急な 「 地獄の登り坂 」 が約1km続きます。


  「 雲かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ有明の月 」 という阿佛尼の紀行文 「 十六夜日記 」 にある歌の碑が途中にありました。 そういえば、先週歩いた新居宿と白須賀宿との間にも阿仏尼の歌の石碑がありましたし、私の家の近くの箱根路 ( 湯坂道 ) も彼女は通っています。 あんな昔 ( 13世紀 ) に京都から鎌倉まで、か弱い女性の身で こんな急な坂道を含む長旅をした のでした。 その事だけでもただただ尊敬の念に駆られるのに、歌を詠んだり日記を書いたりもしたのですから、すごい方です。


左は阿仏尼、右は紀友則の歌碑

 地獄の登り坂は覚悟していただけにそれほど苦労も感じず登りきれました。 峠の頂上には古いお寺 「 久延寺 」 があって、ここでひと休み。 山内一豊が家康を接待した場所と伝えられています。 夜泣き石と家康お手植えの五葉松 ( 2代目 ) を見てさらに歩くほどに、西行法師歌碑、芭蕉句碑、子育て飴の伝説で名高い扇屋、佐夜鹿一里塚碑、紀友則歌碑などが次々に現れ、道沿い一帯は史跡にこと欠きません。 ふと気がつくと、車のナンバープレートが静岡から浜松に変っています。 島田市から掛川市に入ったのでした。


左は久延寺の夜泣き石、右は菊川石

 そのあと、緩やかな下り坂、次いで急な下り坂を下りてから1号線との交差をくぐると日坂 ( にっさか ) の宿場跡です。 ここは古くは入坂、西坂、新坂など様々な字で書かれていたそうで、もともとは小夜の中山の西に在ったので西坂と呼ばれたとか。 この宿場跡には、幾つか古い史跡が保存復元されていましたし、古い立派な神社もいくつかありますので、それらを眺め、写真に撮って、また歩き出します。


日坂の宿場跡にて・・・左は高札場跡、右は古い旅籠跡

 ここから先は時々国道1号線 ( と言ってもこの辺りでは上下各1車線 ) に合流したり、また離れたりしながら、前半とはうって変った退屈な道が8kmほど続きます。 ほぼ平らとは言え、伊達方、葛川と一里塚跡を更に2つも通り過ぎ延々と続くのですから、私にとっては今日午前の登り同様、やはり難所であることに変りありません。 最後に、敵軍の殺到を防ぐために作られたと思われるややこしい七曲がりの角を注意深く通ってやっとのことで掛川の宿場跡にたどり着いたのは14時でした。 16km近い急な登りもある道を昼食休憩も含め4時間半、まあ良しとしましょう。 ともあれ、これで先週6月8日に三河の国の二川宿まで歩いた中でたった一つ抜けていた区間が埋まり、日本橋から二川まで297.2km全部が目出度くつながりました。 残りは198.9kmですからちょうど60%踏破です。


左は伊達方、右は葛川の一里塚跡の碑です。

 今日の行程は金谷から日坂はバスの通らぬ狭い急坂の難所ですし、日坂から掛川も近くを通るバスは2時間に1本しかない道なので ( この点では前回歩いた新居宿→二川宿と似ています )、今回もカホルは私と一緒には歩かず、遅く家を出て、有名な 可睡ゆりの園 や可睡斎 ( 三尺坊大権現 ) を観たあと、掛川駅で14:50にピッタリ私と合流しました。 駅の売店でうなぎのかば焼きを買い、家に帰って夕食となりました。


この2つの写真は、もちろん、カホルが撮ったものです。

 それにしても、今日私がやったことと言えば、掛川駅からJRに乗り¥320払って13分かけてトンネルをいくつかくぐり、2駅先の金谷まで行き、今度は山坂をいくつも越え、ハァハァ言いながら4時間半歩いて元の掛川駅に戻り着くということでした。 他の人から見たら何ともバカげて見える、エコの見地から見てもまるっきり無駄な行為でした。

*1:  上記の十六夜日記の歌のほか、たとえば西行法師の 「 年たけて また越ゆべしとおもいきや いのちなりけり さやの中山 」 など、古来多くの歌に詠まれています。 また道のあちこちに芭蕉の句碑などがあります。

第19日
2009年4月23日(木曜) 掛川宿→袋井宿 単独行 天候:晴

 昨年の5月、10人ほどの仲間と始めたこの 「 旧東海道歩き 」 でしたが、毎月1回十数km歩いて18回、大井川を渡って金谷に達したところ ( 2008年11月26日 ) で、残念なことに一旦解散という事になりました。 大井川より西を歩くとなると、もうJR普通電車での日帰りウォーキングは無理です。 往復新幹線で日帰りと言うのもお金がかかり過ぎる割に効率が悪いので、途中1泊も必要になるかと思います。

 しかし、家庭の主婦や家族の介護が必要な男性など、泊まりがけで家を留守にはしにくいメンバーも多く、こういう結末になってしまいました。 昨年の12月9日に箱根湯本で忘年会を兼ねて今までの仲間たちとは解散会を行ったので、今後、私は独りで歩き続けなくてはなりません。 とにかく、一旦やり始めたことですから、なんとかやり終えてしまいたいのです。

 実は昨年の12月以降、単独行でこの 「 旧東海道歩き 」 を続けるはずでしたが、ちょうどその頃に98歳の老母が倒れ、以来、入退院と介護の日々が続きました。 明けて今年の1月19日に母は亡くなり、そのあと葬儀、埋葬その他が続いて、結局4月前半までは何もできませんでした。 そういうわけで、満を持して4月下旬に再開したという次第です。 再開の最初のコースは、順番から言えば金谷宿から掛川宿までですが、ここは箱根、鈴鹿と並んで旧東海道の3大難所と言われる 「 小夜の中山 」 の山道14kmです。 最近は長い距離を歩いていないので、いきなりここを歩くことは止め、次の掛川宿から袋井宿までの平らな11.6km ( 宿場と宿場の間は約10kmですが、JRの駅と駅の間はこの距離になります ) を歩くことから再開することにしました。


掛川宿の辺りは、特に冬は強い空っ風が吹きます。 橋の上の旅人は今にも吹き飛ばされそうです。 タコが揚がっていますが、現在でもこの地方の冬1月から5月にかけてのタコ揚げ
大会は有名です。 これは倉真 ( くらみ ) 川の大池橋から見える秋葉山の図です。 橋を渡ると秋葉山の一の鳥居があります。 この絵は冬ではなく、田植えの時期のタコ揚げですね。
右の絵ですが、通常、宿場の出入り口には旅人、人足、飛脚などが休憩できるように茶屋があるものです。 本格的な茶屋がないような場所には、この絵の題名にもなっているような
葭簀 ( よしず ) 張りの簡単な休み所 「 出茶屋 」 がありました。  

 今後について大まかに計算すると、金谷から先、京都まで残りがおよそ200kmありますので、挽回の意味をこめて毎月3回 ( 1回14km平均で ) 歩ければ、9月末か10月初めには京の三条大橋に到着できることになります。 単独行なら天気や体調の良い日を選んでいつでも出掛ける事が出来ますから、これは多分達成可能でしょう。

 今日は小田原駅を9:07発のこだまに乗って掛川に着いたのが10時過ぎ。 途中で見た富士山はこのところの温暖な陽気のせいか、冠雪の減り方が早いように思いました。 身支度を整えて歩き始めたのは10:20。 そうそう、大事なことを忘れていました。 妻のカホルは、体力的にとても15km前後を歩くことはできませんが、今後はその内の一部でも一緒に歩いてもらおうと考えました。 今日は、掛川駅から3kmほど歩いたところにある天竜浜名湖鉄道の西掛川駅まで一緒に歩いてもらい、そこから電車で一旦掛川に戻って、掛川城を見学したりして時間つぶしをした後、JRで袋井駅に行き、私を待ってもらうという計画にしました。


 掛川の宿場は掛川駅より江戸側に在るので、あとで金谷→掛川を歩くときに見物する事にし、直ちに袋井方向に向かって出発です。 1kmほど進むと右側に 「 十九首塚 ( じゅうくしょつか ) 」 があります。 平安中期に平将門 ( たいらのまさかど ) の乱を治めた藤原秀郷 ( ひでさと ) が、将門とその一党合わせて十九の首を手厚く葬った跡と言われていますが、平将門の首はその後平安京まで送られ都大路で晒された後、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたという伝説があります。 その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町にある首塚で、私も訪れたことがあります。 まあ、どちらが本当だって構いませんが、とにかく一度ここも見ておこうと立ち寄りました。


 再び東海道に戻り、歩き続けます。 さきほど浮世絵についてのコメントでも述べましたが、今日は穏やかな春の晴れの日というのに、帽子を何度も吹き飛ばされそうになったほどこの辺りの風は強いのです。 カホルが西掛川駅から掛川に戻って行ったあとは、この強風の中、もう私一人ですからサッサと速足で歩きます。 大池の一里塚跡は、目を皿のようにして探しましたが見つからず、近所の人に尋ねても知らないので、諦めて先に進みました。  やがて仲道寺 ( ちゅうどうじ ) に着きます。 私も実は最近まで知らなかったのですが、袋井は宿場の数で数えても ( どちらから数えても27番目 )、距離的に計っても、お江戸日本橋と京の三条大橋とのちょうど中間なのです。 この寺の名もそこから来ているらしく、江戸時代の測量ではここがちょうど中間地点だったようです。 ともあれ、私は2年近くもかかかってようやく旧東海道の中間点に達したということです。

 

 このお寺から先、今までに見た旧東海道の松並木のうちでは最も美しいと思った松並木の街道を歩いて行くと、周りの田ではもう田植えが済んでいました。 4月23日というのに、随分気の早いお百姓さんがいるものです。

 

 久津部 ( くつべ ) の一里塚 ( 60里目 ) が袋井市立東小学校の敷地内に可愛らしく再現されていました。 この小学校の門には 「 東海道五十三次どまん中東小学校 」 という看板が掛けてありました。 そうこうしているうちに袋井の宿場跡に入ります。 所々にある説明板などを読み、「 どまん中茶屋 」 を過ぎ、有名なクリーニング屋さんに立ち寄って 「 東海道袋井宿通過証明書 」 を頂いて、袋井宿跡に入り今日の行程はちょうど3時間歩いて終りとなりました。 短い距離でしたが、5カ月ぶりの旧東海道歩きは無事に済みました。

 

 更に700m程歩いて袋井駅に着いたら、ちょうど電車からおりてきたカホルと合流し、静岡までJR普通列車で戻ってそこでまたまた沼津港 「 丸天 」 の静岡店に直行。 今やそれほどお気に入りの店というわけです。 午後3時だというのにたっぷりの新鮮な魚料理を食べてから小田原に戻りました。 昼食はバナナ1本を歩きながら食べただけでしたから、夕食をごく軽く済ませればこれでも肥らずに済むことでしょう。

 この続きは毎回書き加えて行きます。

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