冷泉為相 れいぜいためすけ 弘長三〜嘉暦三(1263-1328) 号:藤谷(とうこく)黄門

藤原為家の息子。母は阿仏尼。初名、為輔。為氏為教・為子(後嵯峨院大納言典侍)ほかの弟。為守の同母兄。右兵衛督為成・権中納言為秀・久良親王母の父。冷泉家の祖。御子左家系図
文永二年(1265)、従五位下に叙せられる。建治元年(1275)、十三歳の時に父が亡くなると、播磨国細川荘の領有などをめぐって母阿仏尼と兄為氏の間で争いとなり、弘安二年(1279)、母は幕府に直訴するため鎌倉へ下向。相続問題は未解決のまま、母は弘安六年(1283)に亡くなるが、細川庄地頭職の件は正和二年(1313)に至り為相側の勝訴が確定した。この間、為相はたびたび鎌倉に下向し、武士達に和歌連歌を教授して、関東歌壇の指導者と仰がれた。鎌倉の藤谷(ふじがやつ)に住んだため、藤谷(とうこく)殿などと称される。
官職は左少将・右中将・右兵衛督などを歴任し、花園天皇の延慶元年(1308)二月、従三位に叙せられる。同年五月、参議に就任。同年十二月、侍従を兼ねる。同三年三月、参議を辞し、右衛門督に還任。文保元年(1317)六月一日、権中納言に任ぜられるが、同年十二月に辞した。元亨三年(1323)十月、花園天皇に暇を乞い東下。晩年は多く関東に過ごし、嘉暦三年(1328)七月十七日、鎌倉にて薨ず。最終官位は正二位。六十六歳。墓は鎌倉市浄光明寺の裏山にある。
嘉元元年(1303)の嘉元百首、同年閏四月の伏見院仙洞歌合、同年か翌年の持明院殿における京極派の歌合(群書類従には「謌合永仁五年当座」とある)、文保三年(1319)頃の文保百首などに出詠。鎌倉では執権北条貞時や娘婿にあたる将軍久明親王の開催した歌会にたびたび参加している。私撰集「柳風和歌抄」「拾遺風体和歌集」の編者。後世の他撰家集「藤谷和歌集」、「為相卿千首」(真偽不明)などが伝わる。新後撰集初出。勅撰入集は計六十五首。

「藤谷和歌集」 続群書類従431、私家集大成5、新編国歌大観7
「為相百首」 中世和歌集(小学館日本古典文学全集49)

浄光明寺
浄光明寺 鎌倉市扇ガ谷。為相の墓がある。
為相邸はこの付近にあったという。

  7首  3首  4首  3首  1首  7首 計25首

文保三年百首歌奉りける時、春歌

玉藻かるかたやいづくぞ霞たつあさかの浦の春の明ぼの(新千載13)

【通釈】海人たちはどこら辺で海藻を刈り取っているのだろうか。見渡す限り霞が立ちこめている、浅香の浦の春の曙。

【補記】「玉藻」は海藻を讃美して言う語。新春、玉藻を刈って神への捧げ物とする習俗があった。「あさかの浦」は万葉集に由来する歌枕で、大阪住吉あたりにあった入海。文保三年(1319)の百首歌は、続千載集撰進の選歌資料とするため後宇多院が召した百首。為相はこの年五十七歳。温雅な風格ある詠風を見せる。

【本歌】弓削皇子「万葉集」
夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅香の浦に玉藻刈りてな

嘉元元年百首歌奉りし時、梅

さそふべき風はかすみに隔たりて梅が香しらぬ窓のあけぼの(藤谷集)

【通釈】香を誘い寄せるはずの風は霞に隔てられていて、梅の薫りを知ることができない、この曙の窓辺…。

【補記】立ちこめた霞の濃密な物質感を感じさせる。嘉元元年(1303)の百首歌は、新後撰集撰進の資料のために後宇多院が各歌人に詠進させたもの。四十一歳であった為相は、京極派の影響が窺える清新な秀歌を並べて提出した。この百首歌が歌人為相のピークをなすとして過言ではあるまい。

嘉元元年百首歌奉りける時、柳

岸とほき川瀬の霞すゑはれて柳にみゆる春風のいろ(藤谷集)

【通釈】岸をはるかに隔てる川瀬には霞が立ちこめているが、その末は晴れていて、なびく柳の緑によって春風の色が知られる。

【補記】「川瀬」は川の水深が浅くなっていて、人が歩いて渡れるところを言う。「すゑはれて」は、川面に立ちこめた霞が、向う岸近くで途切れている様。

嘉元元年百首歌奉りけるに、春雨

ふかくたつ霞ばかりに雲とぢて見えぬ空よりそそく春雨(藤谷集)

【通釈】目に見えるのは深く立ちこめる霞ばかり――雲も閉じこめられて、見えない空から降り注ぐ春雨。

【補記】『嘉元百首』では第二・三句が「霞ばかりのなかぞらに」。

山里は窓のうちまでかすむ夜に月の色なる春のともし火(文保百首)

【通釈】春の山里では、家々の窓の内までぼんやりと霞む夜に、燈火が朧月の色に映えている。

【補記】文保三年(1319)から翌年にかけ、後宇多院に詠進した百首歌。勅撰集には漏れたが、南北朝時代、由阿が撰んだ私撰集『六華集』に採られている。

嘉元元年百首歌奉りし時、花

暮れぬ間はなかなか霞む山のはに入日さやかに花ぞいろづく(藤谷集)

【通釈】暮れない間はかえって霞んでいた山の端――そこに入日が射して、鮮やかに花が色づく。

【補記】「さやかに」は、山に沈む陽がきわやかに照る意と、その光に桜が鮮やかに反映する意と、両義を掛ける。

為兼、いへに歌合し侍りし時、春夜を

花かをり月かすむ夜の手枕にみじかき夢ぞなほわかれゆく(玉葉212)

【通釈】花が煙るように匂い立ち、空には月が霞む春の夜、手枕をして見る短い夢――やがて目が覚めてしまって、夢に見た人の面影も去ってゆく。

【補記】乾元二年(1303)、配流地の佐渡から帰京してまもない京極為兼が為相・為子・平経親らを自邸に招いて催した歌合での作。新古今風の濃厚なロマンティシズム漂う佳詠だが、のち風雅集に採られた為子の秀作「花白き梢のうへはのどかにて霞のうちに月ぞふけぬる」と合わされ、負となった。なお為兼は、為相にとって年上の甥にあたる。

文保百首歌たてまつりける時

卯の花のさきちる(ころ)や初瀬川しらゆふ波も岸を越ゆらむ(続後拾遺161)

【通釈】卯の花が散る今頃には、初瀬川に立つ白木綿のような白波も岸を越えて寄せているだろう。

【補記】初瀬川は古代大和政権の中心であった聖地初瀬(泊瀬)を流れる川。卯の花との取り合せは珍しい。「しらゆふ(白木綿)」は楮(こうぞ)の樹皮をはぎ、その繊維を裂いて糸状にした物。榊などに垂らし、神事に用いた。

【参考歌】藤原為家「貞応三年百首」
はつせ川しらゆふ浪にすずみしてかげ立ちならすふたもとの杉

嘉元百首歌たてまつりけるに

みなと河うは波はやくかつこえて潮までにごる五月雨の比(新後拾遺236)

【通釈】湊川では、水面を打つ波が激しく次から次へと重なって海へ流れ込むので、海水までが濁ってしまう五月雨の頃よ。

【補記】五月雨によって増水した湊川(六甲山から大阪湾に注ぐ)の河口付近の情景。精緻で動感ある描写。

【参考歌】作者不明「為忠集」
みなと川岸うつなみのあらくして塩さきにごるさみだれの比

嘉元元年百首歌奉りけるとき、夕立

はるかなるながめもすずし難波がた生駒の雲のゆふだちの空(藤谷集)

【通釈】ここで雨が降っているわけではないのだが、遥かに眺めやるだけでも涼しげなことだ。難波潟の彼方、生駒山に雲のかかる夕立の空よ。

【補記】生駒山は摂津・大和国境の山。難波潟は河内平野を満たしていた広大な潟湖のなごり。かつては生駒山の麓を難波潟の波が洗っていた。

嘉元元年百首歌奉りける時、初秋

さきだつはいづれともなし草の原つゆと風とのはつ秋の空(藤谷集)

【通釈】先に立つのは、どちらとも言えない。草原では、初秋の空から、露が降りるのと、風が吹くのと……。

【補記】『嘉元百首』では結句「初秋のころ」。

嘉元元年百首歌奉りける時、初雁

霧のうへにあまた聞きつる声よりもみればすくなき雁の一つら(藤谷集)

【通釈】霧の上にたくさん鳴いているように聞こえた雁の声――やがて霧の外へあらわれた姿を見てみれば、思ったよりも数が少ない雁の一列であった。

【補記】鳴き声が霧に反響したかのよう。聴覚と視覚での、認識の落差に着目したのは珍しい。

嘉元元年百首歌奉りし時、月

暮れぬより月のすがたはあらはれて光ばかりぞ空に待たるる(藤谷集)

【通釈】日が暮れないうちから月の姿は現れて、あとは陽が沈み、光が輝きを増すのばかりが空に待たれることだ。

院百首歌の中に

風すさむ垣ほの草の下葉までおつれば露をしたふ月かげ(柳風抄)

【通釈】風が吹きすさぶ垣根の草、その下葉にまで露がこぼれ落ちる――と、その露を慕って宿る月の光。

【補記】垣根の草の露に宿っていた月の光は、風で下葉に落ちた露にも同じように映っている。これも後宇多院に詠進した『嘉元百首』。

冬歌の中に

しぐれ行く雲まによわき冬の日のかげろひあへず暮るる空かな(風雅734)

【通釈】時雨を降らせてゆく雲の絶え間に、弱い冬の日がほのかに射すかと思ったけれども、結局そのいとまもなく暮れてしまう空だなあ。

【補記】「かげろふ」は光がほのかに射すこと。「〜あへず」は、「〜し切れずに」「〜しおおせずに」程の意。冬の太陽が雲間から射しそうで射さず、結局曇ったまま日が暮れてしまう景。

題しらず

梢には残る色なき冬がれの庭にのみ聞く風のおとかな(新後撰457)

【通釈】梢には紅葉の色も残っていない、冬枯れの庭――そんな庭にだけ聞こえる、寂しい風の音だなあ。

庭朝霜といふことをよみ侍りける

朝まだき日かげをさふる庭の松のえだのすがたにのこる霜かな(柳風抄)

【通釈】朝早く、日影を遮る庭の松の枝のかたちそのままに、地面に残っている霜だなあ。

【補記】霜は朝日にあたって殆ど融けたのだが、松が日影を遮っていた部分だけ、その枝の形のままに消え残っている、という景。

題しらず

誰が契り誰が恨みにかかはるらん身はあらぬ世のふかき夕暮(風雅1403)

【通釈】私の死後、誰との契りに、誰への恨みに、この思いは変わるのだろうか。我が身はもはや存在しない世の、我が転生の身が迎えるだろう、あわれ深く業深き夕暮――。

【補記】輪廻転生ののちもこの恨みは消えまい、との凄まじい恋情。乾元二年、為兼家歌合への出詠歌。

雑歌に

谷かげや木ぶかき方にかくろへて雨をもよほす山鳩のこゑ(風雅1741)

【通釈】谷陰の、木が深く茂っている方に隠れて、雨を誘うように鳴く山鳩の声。

【補記】「山鳩が鳴くと雨が降る」といった諺があり、昔から山鳩(キジバトか)と雨は縁の深いものと思われていたらしい。

嘉元百首歌の中に月を

ながめこし身はいたづらに秋をへて行末おもふ月ぞかなしき(玉葉1988)

【通釈】飽きずに月を眺めてきた我が身は、いたずらに幾年も秋を経て――将来を思いつつこうして見る月は悲しいものだ。

嘉元百首歌に山家を

(いほ)ちかきつま木の道や暮れぬらん軒ばにくだる山人のこゑ(玉葉2206)

【通釈】日が傾いて、我が庵から程近い、爪木を運ぶ道は昏くなってしまったのだろうか。軒端近くを下ってゆく、山人たちの声が聞こえる。

【補記】夕暮、人家の明りを慕いつつ家路を急ぐ山人たち。「つま木」は、薪などに用いるため、手で折り取った木の枝。

嘉元元年百首歌奉りける時、田家

山もとの竹よりおくに家居して田面(たのも)をかよふ道の一すぢ(藤谷集)

【通釈】山の麓の竹林より奥に家住いをして、道と言えば田んぼの中を通る一本道があるだけだ。

【補記】題の「田家」は田舎の家。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」「玉葉集」
里びたる犬の声にぞ聞こえつる竹よりおくの人の家居は

雑歌の中に

これのみぞ人の国よりつたはらで神代をうけし敷島の道(玉葉2538)

【通釈】これだけは他国から伝わったものではなく、神代より代々受け継いで来たものである、和歌の道。

【補記】「敷島」はもともと「しきしまの」で「やまと」に掛かる枕詞であったが、のち「しきしまの道」で「和歌(やまとうた)の道」を意味するようになった。

雑歌に

憂しとても憂からずとてもよしやただ五十(いそぢ)ののちのいくほどの世は(風雅1862)

【通釈】辛くても、辛くなくても、もういいや。五十路の後の、幾程もない人生なのだから。

【補記】当時は五十を過ぎれば余生という考え方があった。因みに為相は五十五歳で辞職引退し、六十一歳の時鎌倉に隠遁した。

前中納言定家はやうすみ侍りける嵯峨の家の跡を、右大臣つくりあらためて、かよひすみ侍りけるに、八月廿日定家卿遠忌に仏事などして、人々に歌よませ侍りけるに、秋懐旧といふことを

めぐりあふ秋のはつきのはつかにもみぬ世をとへば袖ぞ露けき(玉葉2600)

【通釈】巡り合わせた秋八月二十日の忌日、わずかにもお会いしたことのない祖父定家卿の世を弔い偲べば、私の袖は涙の露でびっしょり濡れます。

【補記】かつて定家の別荘であった小倉山荘を、右大臣二条道平が改築して別邸としていたが、遠忌の日の仏事のついでに、参集した人々に歌を詠ませた、その時の作。延慶三年(1310)、定家七十年忌の催しかという(岩佐美代子『玉葉和歌集全注釈』)。「はつか」に「二十日」「わずか」の両義を掛けている。


公開日:平成14年10月16日