源道済 みなもとのみちなり 生年未詳〜寛仁三(1019)

光孝源氏。公忠の曾孫。信明の孫。従五位下能登守方国の子。子に大宮禅師懐国がいる。
長徳四年(998)、文章生より宮内少丞に転任。長保三年(1001)、蔵人に補せられる。寛弘元年(1004)式部大丞。長和四年(1015)、筑前守兼大宰少弐となり、寛仁三年、任国の筑前で没した。最終官位は正五位下。
長保三年(1001)の東三条院詮子四十賀屏風歌、同五年の道長家歌合などに出詠。一条朝頃の代表的歌人の一人で、花山院のもと、藤原長能とともに拾遺集撰集に関わったらしい(『和歌色葉』は道済を同集撰者とする)。赤染衛門能因法師藤原高遠和泉式部などとの親交が窺われる。大江以言の弟子で(『江談抄』)、詩文にも優れ、『本朝麗藻』『和漢兼作集』などに作を残す。
家集『道済集』、歌学書『道済十体』がある。拾遺集初出。後拾遺集の主要歌人。勅撰入集五十六首。中古三十六歌仙

  4首  2首  4首  2首  3首  4首 計19首

東三条院の御屏風に旅人山桜を見る所をよめる

散り果ててのちや帰らむ古郷も忘られぬべき山桜かな(後拾遺125)

【通釈】すっかり散り果てた後、ここを立ち去ろう。懐かしいはずの故郷も忘れてしまいそうな程の山桜であるよ。

【補記】藤原兼家の娘で円融院の女御、東三条院詮子(962-1001)の邸の屏風絵に添えた歌。画中の人物の立場で詠んでいる。「ふる郷」は住み馴れた都を指す。

おなじ御屏風の絵に、桜の花おほくさける所に人々のあるをよめる

わが宿に咲きみちにけり桜花ほかには春もあらじとぞ思ふ(後拾遺126)

【通釈】桜の花が私の屋敷に咲き満ちた。ここ以外の所には春などあるまいと思うよ。

【補記】これも東三条院邸の屏風歌。

屏風絵に、桜の花のちるををしみがほなるところをよみ侍りける

山里に散りはてぬべき花ゆゑに誰とはなくて人ぞ待たるる(後拾遺135)

【通釈】この山里に咲き、やがて散り果ててしまう花ゆえに、誰をと言うのではないが、人の訪れが待たれてならないのだ。

【補記】これも屏風歌。桜の花の散るのを惜し気な表情で見守る画中人物の心になって詠んでいる。

藤の花を

山たかみ松にかかれる藤の花空よりおつる波かとぞみる(新拾遺183)

【通釈】山高く、松の木に掛かった藤の花――あたかも空から落ちて来る波かと見るのだ。

【補記】松の高木に這いまつわる藤の花を詠む。『道済集』の詞書は「見藤花」、『続詞花集』の詞書は「山里にて藤花をみてよめる」で、実景に即しての歌と思われる。

【他出】道済集、続詞花集、雲葉集、夫木和歌抄

五月、うのはな

卯の花に咲きこめられて山里に恋ひし都も忘られにけり(道済集)

【通釈】咲いた卯の花に取り囲まれて、山里で恋しく思っていた都のことも忘れてしまったよ。

【補記】ある年の五月、「卯の花」を題に作った歌。卯の花が咲きめぐる垣根は、鄙びた景として都人に賞美された。

春をおくりて昨日の如しといふことを

夏衣きて幾日(いくか)にかなりぬらむ残れる花は今日も散りつつ(新古178)

【通釈】夏衣に着替えて幾日になるのだろう。咲き残った花は今日も散り続けているけれども。

【補記】「残れる花」は遅桜。更衣をしても、桜が残っている間は夏の気分になれない、という季節感のずれを詠む。

題しらず

いとどしくなぐさめがたき夕暮に秋とおぼゆる風ぞ吹くなる(後拾遺318)

【通釈】夕暮、ただでさえ慰め難い思いでいたところへ、ああ、秋なのだと感じる風の吹く音がする。

【補記】夕暮は逢瀬の時。しかも恋の季節である秋には「飽き」が掛かるので、恋人に飽きられて逢うことができない女の寂寥が暗示される。「いとどしく」は「そうでなくてもひどく…」程の意。

長恨歌のこころをよめる

思ひかね別れし野辺を来てみれば浅茅が原に秋風ぞ吹く(詞花337)

【通釈】恋しさに耐えきれず、あの時死に別れた野辺に来て、その場所を見ると、浅茅が生い茂った野原に秋風が吹いているばかり。

【語釈】◇浅茅が原 アサヂは丈の低いチガヤ。庭や野原の荒廃した様をあらわす語。

【補記】白楽天の長編叙事詩「長恨歌」を題に詠んだ歌。楊貴妃が殺された場所に戻り、立ち去りかねたという玄宗皇帝の思いを詠む。王朝人に愛された悲劇的な物語を和歌に移して淀みなく、きわめて高い評価を得た。『道済集』には「長恨歌、当時好士和歌よみしに、十首」のうち「不見玉顔」の題で詠んだ一首として見え、第二句「わかれし人を」。

【他出】道済集、金葉集三奏本、玄々集、俊頼髄脳、新撰朗詠集、奥義抄、宝物集、定家八代抄、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院・家隆・定家撰)、時代不同歌合、色葉和難集、別本和漢兼作集

【参考歌】白居易「長恨歌」(→資料編
馬嵬坡下泥土中 不見玉顔空死處(馬嵬坡下 泥土の中 玉顔を見ず 空しく死せる処)

【主な派生歌】
くちにける長柄の橋を来てみれば葦の枯葉に秋風ぞ吹く(藤原実定[新古今])

題しらず

心こそあくがれにけれ秋の夜の夜ぶかき月をひとり見しより(新古406)

【通釈】我が身は地上にありながら、心はさまよい出てしまったよ。秋の深夜の月を独り眺めてからというもの。

【語釈】◇あくがれ 心魂が身体を離れてさまようこと。

【補記】家集では題「深山月」。

八月十五夜、左衛門督殿にて

大空のつねより広く見ゆるかな散れる雲なく照りみてる月(道済集)

【通釈】大空がいつもより広々として見えるようだな。ちぎれ雲もなく、一面遍く照りわたる月よ。

題しらず

朝ぼらけ雪ふる里を見わたせば山の端ごとに月ぞのこれる(後拾遺406)

【通釈】ほのぼのと朝が明ける頃、雪の積もった里を見渡すと、どの山の端にも月明りが残っているのだ。

【補記】曙光に映える山の端の積雪を有明の月明りになぞらえた。

【他出】道済集、後六々撰、定家八代抄

雪中鷹狩の心をよめる

ぬれぬれもなほ狩りゆかむはし鷹のうは毛の雪をうち払ひつつ(金葉281)

【通釈】雪にまみれても、なお狩を続けて行こう。箸鷹の表毛(うわげ)の積雪をうち払いながら。

【語釈】◇ぬれぬれも 雪に濡れながらも。◇はし鷹 狩猟につかう小型の鷹。◇うは毛 表面の毛。

【補記】鷹を用いた狩は冬の行事で、平安中期頃から歌題として好まれるようになった。掲出歌は勇壮な狩のさまを髣髴させ、かつ細やかな観察眼をきかせている。鷹狩を題とする代表作として王朝人に愛誦された一首である。

【他出】後六々撰、和歌一字抄、定家八代抄、八代集秀逸、時代不同歌合

【主な派生歌】
あけばきてなほ狩りゆかむ小塩山小松が原の雪の夕暮(藤原家隆)
ぬれつつもなほ狩りゆかむ桜花春もいくかの夕ぐれの雨(太田道灌)
そなたにと猶かりゆかむ箸鷹の外山に移る村鳥の声(武者小路実陰)

題しらず

しのぶれば涙ぞしるきくれなゐに物思ふ袖はそむべかりけり(詞花219)

【通釈】恋の辛さを堪え忍べば、涙にはっきりとその思いが顕れる。物思う人の袖は紅の色に染めるべきものだったなあ。

【語釈】◇しるき はっきりと見える。◇くれなゐに… 血涙によって恋が人に知られてしまうから、袖は最初から紅に染めるべきだ、と言うこと。

【補記】金葉集三奏本には「恋の歌とてよめる」として掲載。

題しらず

人しれぬ恋にし死なばおほかたの世のはかなきと人や思はむ(後拾遺780)

【通釈】誰にも知られていないこの恋のために死ねば、世間一般のはかない死であったと人々は思うだろうか。

【語釈】◇おほかたの世のはかなき ありふれた、現世のはかなさの一例。「おほかたの」は世間一般の、普通の、などの意。

夏恋

衣手のかわくまもなきいにしへの五月雨よりや恋ひはじめけむ(道済集)

【通釈】袖の乾く間もなかった、遠い日の五月雨のような涙――あの時から恋し始めたのだろうか。

【補記】『万代集』にも入集。

比叡(ひえ)の山にのぼりて、ふるさとを思ふ心を

ある時は憂きことしげき古郷にいそぐや何の心なるらむ(道済集)

【通釈】ある時は辛いことがたくさんあった、我が生まれ故郷なのに、これほど心がはやるのは、どういうわけなのだろう。

【語釈】◇比叡の山にのぼりて 延暦寺に参詣したことを言う。◇うきことしげき つらいことが沢山あった。◇故郷 ここでは都を指す。

【補記】『続詞花集』雑下に入集。第四句は「こふるや何の」。

山家月をよめる

さびしさに家出しぬべき山里をこよひの月に思ひとまりぬ(詞花296)

【通釈】寂しさの余り、家出したくなるのも無理はない山里であるが、今宵の月の美しさに思いとどまった。

【補記】歌の主人公は、出家して山里の庵に住んでいる。「家出」の家とは、山家のこと。

月のあかかりける夜、あひ語らひける人の、「このごろ月は見るや」といへりければよめる

いたづらに寝ては明かせともろともに君が来ぬ夜の月は見ざりき(新古1516)

【通釈】空しく寝て夜を明かしてしまえというのでしょうか、月は出ているのにあなたは来てくれない――そんな晩の月は見ませんでしたよ。

【補記】明月の夜、睦まじくしていた人が「この頃月は見ますか」と言ったので詠んだという歌。共に賞美してこその月、あなたが来ない夜の月は見なかった、と答えたのである。恋歌めかしてはいるが、友人に贈った歌と見え、新古今集も雑の部に載せている。詞書は家集もほぼ同じ。

【本歌】凡河内躬恒「古今集」
かくばかりをしと思ふ夜をいたづらにねてあかすらむ人さへぞうき

河原院の古松をよみ侍りける

行末のしるしばかりに残るべき松さへいたく老いにけるかな(拾遺461)

【通釈】将来、ここに河原院があったことを証す僅かな跡として残るだろう古い松の木――この松さえもがひどく老いてしまったものだ。

【補記】「河原院」とは、もと左大臣源融の風流で聞こえた邸。のち寺となり、安法法師が住んで、歌人たちの溜まり場となった。


更新日:平成16年11月14日
最終更新日:平成22年09月01日