指揮者、エルネスト・アンセルメ

 スイスのオーケストラと言えば、真っ先にでてくるのがスイス・ロマンド管弦楽団です。
 このオーケストラを一九一八年に創設した指揮者が、エルネスト・アンセルメという人です。
 彼は、ディアギレフのロシア・バレエ団の専属指揮者として、モントゥーらと共に活躍、今世紀初頭の最も重要な作曲家たちと、親交を結び、彼らの作品を世に送り出す仕事を行ったのであります。

 彼が世に送り出した作品は、プロコフィエフの「道化師」、サティの「バラード」、ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」に「兵士の物語」など、すでに古典となっている作品ばかりであります。
 ラヴェルやドビュッシー、自国のオネゲルやマルタン達の作品もその多くは、アンセルメが初演のタクトを振っています。

 また彼は、ピアニストのディヌ・リパッティクララ・ハスキル、そして、ストラビンスキーといった、亡命者を保護し、家の相談にまで乗り、職を紹介し、自分のオーケストラの演奏会に出演させるなどして、経済的な支援を続けました。
 まさに、スイス楽壇の大親分といったところだったのではないでしょうか。

 一九四五年にスイスに亡命してきたフルトヴェングラーを物心両面で助けたのもアンセルメその人でありました。

 このあまりにも対照的な二人の音楽家の指揮者としてのルーツは今世紀初頭に活躍したベルリン・フィルの指揮者、アルトゥール・ニキシュであったというのも面白いことだと思います。
 それでというわけではないのでしょうが、戦前フルトヴェングラーはよくジュネーヴやローザンヌを手兵のベルリン・フィルと共に訪れています。

 その辺は戦前のフルトヴェングラーの項を参照していただくことにして
 エルネスト・アンセルメは、一八八三年十一月十一日レマン湖畔のヴェヴェイに生まれたそうです。ヴヴェーの中学を卒業した頃は音楽よりも数学の方が好きで、ローザンヌの高校を卒業してパリのソルボンヌ大学とパリ大学で数学を学び、数学者として郷里に帰り、ローザンヌの大学で数学の教鞭をとっていたとありますから、音楽家としては随分変わった経歴の持ち主でした。
 そのかたわらジュネーヴのコンセルヴァトワールユダヤ人の大作曲家ブロッホなどについて音楽の勉強をしていたそうですから、大変な良い頭を持っていたようです。

 音楽家としてのデビューは一九一〇年。モントルーだったそうで、ひょっとすると焼失する前のカジノのホールだったのではと考えているのですが、この時はベートーベンの「運命」を振ったそうで、大成功だったと、私の持っている資料には出ています。

 その後、徐々に認めら、一九一〇年、ディアギレフの主宰するロシア・バレエ団(バレエ・リュス)に指揮者として参加。一九一八年の秋には、前述のように、ジュネーヴにスイス・ロマンド管弦楽団を創設しました。
 産声をあげただけでは単なる地方の三流オケでしかありません。彼は自分のオケの技術を磨き、世界一流のオーケストラにまで育て上げたのです。

 コンマスのメンバーの中にはミシェル・シュヴァルベの名前も見えます。ユダヤ人で、ポーランドから逃れて来たシュヴァルベが、ここスイス・ロマンドでの仕事で世に再び出てきたのです。
 彼のスイス・ロマンド管とのメンデルスゾーンなどの協奏曲録音が聞けますが、このスイス時代のものにしか本格的なソロ録音がないのですから、極めて貴重です。(あっ、ちょっと脱線しましたね。)

 アンセルメは、戦後、その膨大なレパートリーをデッカ・レーベルにステレオで再録音するようになり、彼の芸術はその全容をCDに復刻され、今も楽しむことができます。

 ベートーヴェンの交響曲全集やブラームスの交響曲全集などという、レパートリーも今聞き直してみると、原典に忠実な、楷書の力強いベートーヴェンでありブラームスとなっています。
 もちろん、彼が得意とした、バレエ音楽やロシア音楽、特にドビュッシーやラヴェル、ストラビンスキーといった作曲家たちの作品、オネゲルやマルタン等の自国の作品み皆素晴らしいものであります。

 それらは、ジュネーヴのヴィクトリア・ホールの音響が極めて優れていることによるのでしょう。

 来日した時に、残響の少ない日本のホールでは、スイス・ロマンド管弦楽団の真価を伝えられないと言って、「ぜひヴィクトリア・ホールで聞いてほしい」と言ったそうですが、このホールは響きの良いことで知られ、バックハウスがピアノ・ソナタ全集を録音する際にもこのヴィクトリア・ホールが選ばれていますが、ホールがオーケストラを育てるということは、実際まちがいないと思います。オーケストラにとって、ホームグランドのホールの特性が、そのアンサンブル、音色に大きく影響するからであります。

 このヴィクトリア・ホールは録音のためのホールとしては、大変使いにくいホールで有名だったようで、録音用の部屋(調整室)にできる所がなく、レストランかなにかの調理室を使っていたというようなことを読んだことがありますが、そんなに不便でも、何としてでもここでと思わせるだけの音響が得られるホールなのかも知れませんね。

 アンセルメは「真実の道」という調性音楽の信奉者でもありました。したがって数多くの初演を任されてきたのですが、シェーンベルクに始まる無調の音楽に対しては、反対の立場をとり続けました。このことにより、盟友ストラヴィンスキーと訣別してしまいます。
 が、ストラビンスキーの音楽をこよなく愛し続けたことは確かで、その多くの作品をスイス・ロマンド管弦楽団とともに録音して残しています。

 アンセルメはスイス・ロマンド管との来日のあとすぐ、一九六九年二月、ジュネーヴにおいて、心臓麻痺のため、八十六歳の生涯を終えました。
 彼が亡くなった後、スイス・ロマンド管弦楽団はクレツキ、サヴァリッシュ、シュタインとドイツ系の指揮者たちがその素晴らしい伝統を壊すことに協力し、更にヴィクトリア・ホールが火災にあい、アンセルメ時代の音を失うということまでおこり、散々でありました。録音もほとんどなくなり、長い低迷の時代に入ったことからも、いかにアンセルメの存在が大きかったか、理解できると思います。