ジュネーヴとシュヴァルベ

 皆さんはオーケストラのコンサート・マスターという仕事がどんなことをしているのか、あまりご存じないかも知れません。「えっ?コンサート・マスターって指揮する人?」なんて言ってる人もいるかも知れません。これほどわかりにくい仕事はありませんからねぇー。

 コンサート・マスターというのはオーケストラの中でヴァイオリンを弾く人の中でトップに座って弾いている人のことで、指揮者の左手、最前列に座っている人のことです。
 このコンサート・マスターというのが、オーケストラの弦楽器のボウイング(弓の上げ下げ)から(実際に全ての弦楽パートの弓の使い方を決定するのは、ほとんどコンサート・マスターです)、アンサンブルの要の役割を担います。指揮者と楽員の間に立って、指揮者をたてて、かつ楽員の言い分も指揮者に伝え、当日のコンサートでオーケストラがうまく演奏できるようにするのが、コンサート・マスターです。
 晩年のカール・ベームのウィーン・フィルとのコンサートで、実際に音楽を作っていたのは、夭逝した天才コンサート・マスターのヘッツェルだったというのは、公然たる事実ですしね。

 このコンサート・マスター(長いので以下コンマスと呼びます)が、オーケストラの音を作ると言っても過言ではありません。
 実際コンマスが変わって、そのオーケストラの音が随分変わったなと思わせられることがあります。
 例えば、ヘルマン・クレバースが抜けたあとのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は随分変わりましたねぇ。偉い指揮者になれば、コンマス帯同でオーケストラを渡り歩くなんてこともあると聞いたことがありますが、話の真偽はともかく、気心の知ったコンマスとやりたいと願う指揮者の気持ちはわからないでもありません。

 カラヤンのベルリン・フィルの音がシュヴァルベの時代からブランディス、シュピーラー、安永徹へと変わっても、大きな変化が無くやって行けたのはベルリン・フィルの音を守るという、伝統の音というものがあったことと、それぞれに師弟関係にあって、独特の音を伝えてきたことにもよります。そうそう、ウィーン・フィルもそうですよね。

 さて、こんなにコンマスという仕事について、長い前振りで触れたのも、今回の主役がカラヤンのベルリン・フィルでコンサート・マスターとして活躍したミシェル・シュヴァルベのお話だからです。

 ミシェル・シュヴァルベはポーランド生まれのヴァイオリニストで、ヴィニャフスキー国際コンクールでオイストラフやヌヴーと競いディプロマを得るなど、若い頃から将来を嘱望されたヴァイオリニストだったようです。
 不幸なのは、ユダヤ人であったため、戦争中、両親とお姉さんを収容所で亡くしているそうです。この間の経歴はレコード芸術の先月号の特集記事によると「ごっそり抜けている」そうで、シュヴァルベ自身、人に容易には語りたくない(語れない)重いものをこの時代に対して持っていたのでしょう。

 一九四四年にスイスにたどり着いたシュヴァルベは、アンセルメによってスイス・ロマンドのコンマスの職にありつき、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の演奏でデビューしたそうです。
 同時に、ジュネーヴ音楽院でリパッティ等と共に、教鞭をとるようにもなっています。。ハスキルともコンサートをした記録があるそうですから、聞いてみたかったと思います。(録音なんて残っていないのでしょうかねぇ)
 ルツェルン音楽祭管弦楽団のコンサート・マスターは戦後、ずっと続けていたようで、有名なリパッティとのいくつかの録音の時には、シュヴァルベがコンサート・マスターの席についていたようですし、フルトヴェングラーのルツェルン音楽祭でのブラームスの交響曲第一番でソロ・ヴァイオリンを聞かせていたのもシュヴァルベだったようです。

 一九四八年にオランダのスヘヴェニンゲン国際ヴァイオリン・コンクールを受けて、優勝しています。入賞者の中にはフランスの名ヴァイオリニストのクリスティアン・フェラスがいます。充分なキャリアのもう持っていた筈のシュヴァルベですが、何故、このコンクールを受けたのでしょうか?
 本当は、オーケストラの仕事よりもソリストとしての仕事に、自分は向いていると、考えていたのではないのでしょうか。その方面でのキャリアをもっと積みたいと思っていた所で、ルツェルン音楽祭管弦楽団の仕事で、カラヤンに見いだされ、何度も固辞した末に、ベルリン・フィルのコンマスに座ることになったのも随分皮肉な運命ではなかったでしょうか。

 このことについては、彼の残したスイス・ロマンド管弦楽団とのメンデルスゾーン、サン=サーンスの第3、ヴィニャフスキーの第2といった協奏曲の録音を聞き、その実演の凄さに接して、本当にソリストとしてやっていても超一流であったろうにと、思います。ヴィニャフスキーの第2などは実に名演であり、ハイフェッツなどの演奏よりも、格調も、音楽への情熱も一段上だと思います。

 アンセルメやフルトヴェングラー、カラヤン、ベームといった巨匠たちからも、大変に尊敬されたヴァイオリニストだと、しみじみ思います。

 戦中の大変な時期に手を差し延べたエルネスト・アンセルメとの兵士の物語の演奏は現在二種類、手に入ります。即ち一九五二年のスイス・ロマンド放送の録音(当時シュヴァルベはスイス・ロマンド管のコンマス)と、一九六一年の英デッカへの録音(すでにベルリン・フィルのコンマスとして活躍中)の二つです。
 どちらも実にいい演奏なのです。全曲に渡って大活躍しなくてはいけないパートなので、実際ヴァイオリンの出来が大きくものを言う曲なのですが、水際だった演奏といえると思います。自分の所を去ったコンマスをアンセルメがわざわざ呼び戻して、友人のストラヴィンスキーの全集の録音にあたったことの、重み、わかって頂けるでしょうか。

 先の放送録音の協奏曲のCDが同じ六〇年代初頭だったので、一九五七年からベルリンに赴いたシュヴァルベも当初はまだそれほどコンマス業も多忙で無かったのかも知れません。

 いずれにせよソリストとしてのシュヴァルベを聞くには、後はベルリン・フィルの録音でコンマスがソロをとるパートのある曲を探すしかないのですから、残念なことです。カラヤンの指揮したリムスキー=コルサコフの「シェラザード」(なんて美しいヴァイオリンなんでしょう!!)やR・シュトラウスの「英雄の生涯」、マーラーの交響曲第4番、サン・モリッツで録音されたヴィヴァルディの「四季」(華麗なソロが堪能できます)が代表的なところでしょうか?チャイコフスキーの「白鳥の湖」やブラームスの第1(先のフルトヴェングラーのルツェルン音楽祭管弦楽団もすごいのですが)もまた、シュヴァルベのソロを聞くことのできる作品です。そうそうベームの四季したR・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」でも聞けますね。

 第二次世界大戦によってもたらされた数奇で悲劇的な運命を辿ったヴァイオリニストに、戦後の胎動期、ジュネーヴがその舞台を提供し、ルツェルンがその飛躍のきっかけを与えたことは、記憶しておきたいことだと思います。

 四〇年代後半、戦後処理が進むヨーロッパで、ナチに協力したということで沈んだメンゲルベルクやコルトーたち、そして、やっとスイスに逃げていた人たちのスクランブルに、チェコ動乱によってクーベリックが逃れてくるのは、まもなくであります。
 そして、シュヴァルベはユダヤ人として恐らくは辛酸をなめながらも、元ナチのカラヤンの招きでベルリンに赴くのです。そして、かつてコンクールで自分より下位だったフェラスらの伴奏にまわることになるのですから、運命というのは実に皮肉にできていると思います。

 英ビダルフから出ているCD(服部セイコーの息子さんがお弟子さんで、お金を出してCD化したそうです。エライ!!)を、興味をお持ちの方は聞かれてみられては?コンマスの凄さがわかると思います。ただのヴァイオリン弾きではないのです。