ジュネーヴとハスキル

 ある逸話があります。名指揮者のジュリーニがロンドンのロイヤル・フェスティヴァルホールに、ショパンのピアノ協奏曲第二番のリハーサルのため訪れた時のことです。まだ時間も早くだれ一人いないはずの舞台で、一心にピアノをさらっているピアニストがハスキルでした。
 彼が入ってきたことに立ち上がったこの小柄で、繊細すぎる精神のピアニストに対して、ジュリーニは「まず最初に何をしたらいいでしょう」と尋ねました。

 そこで、ハスキルは「では自分がまず全曲を弾くので、後で意見を言って下さい」と言ってショパンの協奏曲をオーケストラのパートまで全てを、最初から終わりまでピアニッシモ(最弱音)で弾き通したのです。ジュリーニによると、ダイナミクスレンジは狭いのだが、音楽に込められたあらゆる思い、情感が全て完璧に表現されていたそうで、それは正に奇跡のような体験だったと、後に自分自身の音楽体験の中の最高の出来事として述懐しています。

 このような逸話がそれこそ数限りないほどあるピアニストがハスキルです。最後の十年が、彼女のキャリアの最高のものでした。
 彼女は万事控えめで、人を押しのけてでもということとは、全く無縁で、わずかなサークルでの演奏が彼女のキャリアのほとんどでした。

 しかし、本当の天才には、彼女の素晴らしさがわかるようです。チャップリンは、自身が生涯に会った三人の天才のひとりにクララ・ハスキルをあげています。
 えっ?あとの二人は誰って? あとの二人はチャーチルにアインシュタインです…。

 クララ・ハスキルと言えば、ルーマニア出身のピアニストです。その彼女が何故スイスに来なければならなかったのかと言えば、ナチスによるパリ侵攻がきっかけでした。

 一九四一年の春、占領下のパリから非占領地区のマルセイユに向けて、国立管弦楽団のメンバーと共に逃避行の危険な旅を決行したのでした。夜、モンパルナスの駅を列車で出て、夜明け前にアングーラムでおりて、ほとんど徒歩で森の中を、ドイツの秘密警察の目をくぐり抜けてリモージュを経由してマルセイユに着いたのでした。

 そこで、知り合いの伯爵夫人の招きでリサイタルなどに出演していたのですが、ドイツの秘密警察に捕まるという事件に巻き込まれたりします。
 運良くドイツに送られるのを逃れたのもつかの間、偏頭痛と視力障害に悩まされることになります。
 そこで、彼女に治療を受けさせようと、スイスの友人たちが高額の医療費を負担し、パリから高名な外科医ダヴィド博士が秘密裡に呼ばれました。
 彼女の偏頭痛の原因は脳に出来た腫瘍でした。これを手術で取り除くという、大変な危険を乗り越えた三ヶ月後、彼女は演奏会に復帰しました。モーツァルトのニ短調のピアノ協奏曲などを弾いたのですが、それは素晴らしいものだったことでしょう。

 しかしドイツ軍がフランス南部まで占領すると、危険は更に身近なものになってきました。またまた、スイスの友人(ヴィンタートゥーアのヴェルナー・ラインハルトではないでしょうか?)たちが、彼女のためにスイス入国のためのヴィザをとれるよう奔走して、スイスへやっとたどり着いたのでした。

 彼女はヴェヴェイの楽器店でピアノを練習させてくれることになり、このレマン湖畔に身を落ち着けたのでした。彼女の最大の保護者はヴィンタートゥーアのヴェルナー・ラインハルトでした。彼が主催するヴィンタートゥーアの演奏会に招かれています。(小さいものですが、オーケストラもあり、LPの初期にいくつかの名盤を残しています。)ここには、今世紀最大のチェリスト、パブロ・カザルスも招かれていて、ハスキルの演奏を聞いて、山のような賛辞を残しています。 
 数ヶ月の間、ここでコンサートに出演したりして滞在した時、ロッシェ夫妻や天才バイオリニスト、ベーター・リバールとも交友を結び、スイスのショロスブルク・トゥールガウにある音楽学校の創立者でピアニストのアンナ・ヒルツェン・ランハンゲンとも交流を結び、ここの古城コンサートに出演し続けています。

 このスイスで、同郷のリパッティにも会い、彼の演奏会が開けるよう手を貸したりもしています。ピアニストで名教師のマガロフやチェリストのフルニエ、ピアニストのゲザ・アンダもこのスイスにいました。
 多くの音楽家に故郷やキャリアの中断を余儀なくさせた、戦争の時代のことでした。そして、戦争が終わっても、彼らは、苦しい時代に助力を惜しまず、世界の宝のような音楽家たちを保護したスイスを立ち去ろうとはしませんでした。

 そして、彼らの死後もクララ・ハスキル国際ピアノコンクールなどを開催し(ヴィヴィイ)その業績を記憶していこうとしています。