三井の、なんのたしにもならないお話 その二十四

(2009.2オリジナル作成/2024.3サーバー移行)


 
「クリントイーストウッド」は「クリント氏」?

−文化としての「英語」からますます遠ざかるニッポン



 日本人の「エイゴコンプレックス」は相当なもので、ついには「小学校で英語の授業」なんて酔狂なことを文科省が命じました。あるいはまた、「中学だか高校だかの英語の授業は原則英語のみ使用」なんだそうです。これで日本人の英語力はますます低下すること必定ですので、誠にめでたいと申すべきか、あるいは憂うべきことと思います。

 
 「言語は小さいうちにやるほど身に付く」という思い込み、また「文法や読解ばかりで、役に立たない、使えない」、「中学、高校、大学と10年近くもエイゴをやらされたが全然ダメ」、「もっと会話中心の授業を」、「エイゴによるコミュニケーション自体を重視」などという、負け犬の遠吠えのようなジョーシキも、基本的に間違い、ナンセンスなのですが、「床屋談義」ですべてが左右されるニッポンの公教育は崩壊へまっしぐらですので、ま、どうでもいいんです。

 
 私の信念は単純、「言語は必要あってこそ身に付く、だから『必要ない』ものはムリ、ムダ」、だから「英語を学校の必修科目と入試科目から外す」、これが正解に近いと思っております。そうでなければ、水泳の練習同様に、いきなり「欧米の水に放り込んでほっておく」のが正解でしょう。だって英米では、「三歳児も英語しゃべっている」んですから。でも、ニッポンで生きていくには「エイゴ力」ないし「外国語力」は基本的に要らないし、「こんびにえんとあめりか」=ネズミーランドヘ足をはこぶだけでみんな感激できるくらい、この国では日本語以外知らなくてもなにも困らないのです。

 その根拠となる、私個人の「恥ずかしい経験」については、もう10年前にここに記しました

 
 それは別としても、「国際化」の中では、少なくともニッポンのジョーシキとほかの文化圏の間には多々ずれがあることは知らねばなりません。その一端は、「べんちゃあ・びじねす」という和製語と英語とのズレというかたちでも、既にこの「お話し」シリーズの3にも記しました。どっちかが正しいかというような不毛な論争をする気もありませんが、「違いがわかる」のでなければ、英語などの外国語ができるようになんかなるわけないと、当然考えるべきでしょう。文化装置としての「ニッポンゴで押し通す」のなら、別に「外国語を習う、身につける」必要は本来ないわけですから。



 
 ところが、懲りることなく、ニッポンの文化とジョーシキにこだわる流れは広まる一方です。その一端を最近偶然に、インターネット上で発見してしまいました。

 インターネット上で公開されている映画に関するデータベース、海外ではIMDbというのが相当有名で、充実しています。こうしたものをいつでも見られる、検索できるというのは誠にありがたい、インターネット時代の恩恵です。もちろんそこからさらに、なんでも載ってる不特定多数の「合作」化した巨大「百科事典」ウッキィとかいうのになると、相当に問題もあり、その一人歩きには私もある程度危惧感をもっているのですが、そして「匿名の特権」ないしは「卑怯」を「匿名文化」などと勘違いし(「便所の落書き」とどこが違うのでしょうか)、独断と偏見どころか、精神的暴力すら自由なんだと思い込む輩の跋扈で、ますます危ういと思っているのですが、まあそういった代物に比べると、もう少し責任もあり、間違いもただすこともあり得るので、有益なものと考えております。

 
 日本でも以前から映画のDBをつくろうとしてきた動きがあり、一時はそれをCD化して売っていたのですが、いまはビジネスモデルを変え、インターネット上でアクセス自由にし、広告収入などで維持するというかたちになっております。ま、そのほうがいつも新情報を加え、更新ができますし、個人的な「感想」の書き込みなどもその限りで、それなりに面白くもあります。映画の見方って、ひとによりこんなに違うんだと知るのも一興でしょう。私もよく見ています。

 
 これの向こうを張ったか、別の映画DBが出てきたのを、最近知りました(以前から公開されていたのかもしれませんが、私は最近まで見たことがありませんでした)。これは某映画雑誌の全面協力でつくられているようなので、内容紹介などはむしろ正確です(それでももちろん間違いもたまにありますが)。

 ところがびっくりしたのは、このDBにおける人物(日本人以外の出演者、スタッフなど)検索機能ではそれぞれの名前が全部、「ファーストネーム」のアルファベット順で出てくるという仕掛けです。つまり、「クリント・イーストウッド」は「Eastwood」ではなく、「Clint」 のCなのです!

 しかし日本人の場合は違っていて、「黒澤明」は「アキラ」ではなく「クロサワ」で検索されるのですから不思議千万です。ま、世界広しといえども、ファミリーネーム=姓ではなく、ファーストネーム=名で個々人を確認したり、検索区分したりするのはなかなか珍しいことでしょう。その労と先進性を多としますが、ヒジョーに使いにくいのも事実です。

 
 にんげんなどの名前というのはまさしくそれぞれの根の深い文化性を象徴しています。日本だって少し昔には(私の先祖のように)多くのにんげんは「姓」をもっていなかったくらいですし、この「姓」と「名」の並べ方にしても、日本や中国のように「姓・名」の順とするか(ハンガリーなども同じ)、「欧米」的に「ファーストネーム・ファミリーネーム」の順とするか、それだけでも大違いです。しかもこれはどっちかが「正しい」というような問題ではもちろんなく、背後には基本的な文化性とそれにもとづくそれぞれの考え方があるわけです(キリスト文化圏ではこれに、「クリスチャンネーム」も入ってくるので、もう何が何だか)。

 私は「欧米文化」における秩序観は、この人名の示し方にあるように、「小さいものから大きいものへ」というのが基本になっていると思います。ですから、住所の表記や年月日の表記も、「日本国神奈川県横浜市保土ヶ谷区常盤台79番地」ではなく、「Tokiwadai 79, Hodogaya-ku, Yokohama City, Kanagawa-ken, Japan」であり、「2009年2月14日」ではなく、「14th February 2009」とするのが「英語的には正しい」のです。私の専門分野である「中小企業」も、英語として一般化普通名詞化した表現は「Small and Medium-sized Enterprise(SME)」で、日本語とは逆のならびです(これをそのまま日本語にまた訳すと、「ショーチューキギョー」になってしまって、酔っぱらいそうというのが、十年一日のごとき、私の担当講義の最初の「うけない」ジョークですが)。こうした秩序意識は英語という言語の一環をなしているのですから、単語を日本語から英語に置きかえても、それで「英語表現」になるわけではありません。言語表現は「暗号解読」ではありません。



 
 ただ、現実にはこの「欧米的秩序観」が万能かというとそうではなく、むしろ近年はその不便があちこちに出ています。たとえば人名を整理表記する場合には、日本語などは最初に出ている「姓」を用いてソートすれば簡単にいくのに、英語などではもちろんそういかず、ためにわざわざ、「ファミリーネーム」と「ファーストネーム」を”倒置”記載せねばならなくなるのです。欧米などでもはや一般化した、学術論文や書籍での「reference」や「appendix」で広く用いられているいわゆる「ハーバード方式」では、「familiy name, first name (year) title」というような表記方法を一般に用い、その「family name」のアルファベット順でこれを整理記載することになっています。しかし考えてみれば、こうした「倒置」をわざわざせねばならないのは本来不便でありましょう。

 どっちが便利かというような不毛な論争はさておき、せめてファミリーネームとファーストネームの違いくらいは知っといてよねなどど、ニッポンジンに説教する必要は本来まったくありません。だって日本の皆様は「外国」に出ると、「あいあむタロー・アソウ」と、わざわざ自分たちの文化を否定し、「欧米にならって」ファーストネームを先に持ってくるものと決まっていますから。ところが中国や韓国の人たちはどこへ行っても頑固に、「ペ・ヨンジュン(Bae, Yong Joon)」???や「チャン・イーモウ(Zhang Yimou)」張芸謀で押し通します。むしろ(卑屈なくらいに)日本人は欧米に合わせようとするわけです。

 もっともそのおかげで、欧米の人は中国人日本人などの東洋系の人間の「姓」と「名」を判別するに困り、間違った引用は日常茶飯事です。「Taro(2008)によると、」なんて書かれているのです。でも日本人が「欧米姓名表記」にあわせたところで、この間違いを最小化できているわけでもなく、なおのこと混乱を増幅している向きもなきにしもあらずです。

 これを回避する方法は、「ASO Taro」と、ファミリーネームを大文字で記すくらいであると思います。本来、「名・姓」順の欧米人がハーバード方式などで倒置をする場合には、正常な語順を変えたことを示すために、「Bush, Geroge」と「,」を打つ習わしですが、その意味では日本人は「Taro Aso」と書いたら、「,」を打った方がよいのかも知れませんが、混乱に拍車をかけること必定です。また、ハーバード方式の記載中で「Aso Taro」と書けば、前に置かれた「Aso」は姓なんだとストレイトに理解をしてくれればよいのですが、これをわざわざ「Taro」氏だと誤解をしてくれる人が少なくないのです。

 
 欧米の文化のうちには、「ファーストネームで呼び合う」のが親しさを示すというものもあります。敬称では「ミスターレーガン」つまり「レーガンさん」、「ナカソネさん」ではなく、「ロン」、「ヤス」と呼び交わすのが個人的親密関係を象徴しているというわけです。ただ、これはやはりなかなか日本には浸透しません。私も自分の学生に、いきなり「イツトモ」などと呼びかけられては抵抗あります

 その日本で、なんでこの映画DBは「ファーストネームで検索する」仕掛けを作っちゃったのか。これは単なる錯誤やケアレスミス以上のものがあるとは想像できます。ニッポンのファンにとっては「クリント名」の、姓は「イーストウッド氏」ではなく、「クリントイーストウッド」で一つの「記号」なんですから、「クリント」で検索する方が楽だろうという「親切心」がありましょう。また実際に、たとえば最近の「CD店(昔のレコード店)」に行くと、「欧米アーチスト」として、「ブルース・スプリングスティーン」は「ハ」行の、「マイケル・ジャクソン」は「マ」行の棚に並んでいるものとほぼ決まっています。「スプリングスティーン」を「サ行」で探そうなどという「クウキ読めない」客はいませんし、またミュージシャンには「マドンナ」のように「姓抜き」で公称にしている人も少なくないので、それはどうするんだ、バンド名の場合はなどと「混乱」をするよりは、ま、「通し」でアイウエオ順の方がやはり楽だろ、となったのでしょう。

 
 しかし、それでほんとにOKなんでしょうか。少なくとも、「Mr. Clintクリント氏」という呼び方はありえないでしょうし、「洋画」のデータベースで、人名のファーストネームのアルファベット順で検索する(カタカナでさえありません、念のため)というのは、はたして「国際化」なんでしょうか。それでもって、「エイゴをもっと早くから勉強させよ」「エイゴ力がこれからは決め手」などと騒いでいる国って、なんなんでしょう。

 もちろん、「ファミリー」、つまり「イエ」をどこまでも背負っている古典的な人間観をこの機会に一挙打開・脱構築し、「ファーストネーム」、つまり個々人存在そのものだけに注目し、位置づけ直すという画期的・脱近代的な「思想的実験」がここで無意識的にすすみつつあるなんて、カッコのいいことを仮託するのも自由ですが、まあ関係はないでしょう。それよりも、「クリント氏」同様に、わが日本国の(いまの)首相、それが「Taro」氏の名で検索され、「ウラシマタロウ」や「モモタロウ」(ちょっと違うか)、はては「アサシオタロウ」「バンドウタロウ」などと並んで出てくるという図の招く、じゃっかんの困惑と相当の混乱の方が、まずは問題のはずでしょう。


 「エイゴダメです」「日本から出たことありません」という大先生が、世界一の権威(と少なくとも信じられている)ノーベル賞を受賞した、この事実はあまりに皮肉なものです。ま、ノーベル賞は取れそうもない、一般人凡人は英語が、できないよりはできた方がいいだろうと、私は思っていますが、その道はおおかたの信じているところとは逆である、少なくとも「違いがわかる」とこから始めないと無理、と申さざるを得ません。

 

追 加


 うえのお話し、載せたとたんに追加の件を加えねばならなくなりました。

 実はくだんの映画DB、貴重な「ファーストネームアルファベット順」というソートの記載をやめてしまったのです。それに代わり、ファーストネームだろうが、ファミリーネームだろうが、それどころか名前の一部やらででも、サイト全体の情報を検索可能な(アルファベットでも、カタカナででも)、強力な「検索エンジン」が搭載されています。これは確かに便利でありますし、もちろんそれで、私の指摘した「奇妙な配列」は消えてしまったことになります。正確には、「ファーストネームのアルファベット綴り」からも検索はできるわけですが、それは一部の機能でしかありません。

 それでは私の記憶違いか、どうもそうは思えません。正確に記録を取っておかなかったのですが、まちがいなく、「C」の頭文字項目で並んだ人名に、「Clint Eastwood」氏はありました。こういった「人名のABC順」という単純な索引のみしか以前にはついていなかったのです。

 実は私、この疑問をこのDBの運営主体とおぼしきところにまずメイルで送っています。そのこたえは、あんたの見方は誤解、勘違い、というものではなく、「一つの意見として今後の参考にさせていただく」というものであったのですから、やはりこの「奇妙な配列」は実在していたのでしょう。それを、私の意見により急遽変更したとはさすがに思えず、実際にこの新しい強力な検索エンジンの搭載使用にはかなりの手間を要したと考えられるので、以前から改良向上の準備をしていた、あるいはその前から、「変な配列じゃない」という指摘があちこちからあがっていた、それをたまたま私は変更改良の直前に発見してしまった、そんなところが真相かも知れません。

 ま、改良向上はけっこうなことです。私にも使い勝手がよくなって、有り難いことです。

 



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