三井の、なんのたしにもならないお話 その三

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和製語「べんちゃあ・びじねす」苦難の歴史


 いまをときめく、はやり言葉の一つが、「ベンチャー・ビジネス」であるのは、みんなよく知っていましょう。


 私は大学で「中小企業論」というのを講義していますので、聞いている学生諸君にアンケートなどとると、「中小企業」というコトバは、パッとしない、マイナー、うだつが上がらない、3Kなどと、ろくなイメージを与えていないと判明します。ですから、「時代のニーズにこたえる」べき「大学改革」のさなか、「中小企業」論もへたをするとリストラされかねません。

 ところが、ここで「ベンチャー・ビジネス」というコトバを持ち出せば、イメージは一変します。挑戦的、カッコいい、華やか、未来志向、やる気、なんでもありで、学生諸君の目が輝きます。おかげで、いまじゃあ「中小企業論」なんてパッとしない科目はこの際やめちゃって、「ベンチャー・ビジネス論」にしようなどという、「時代にマッチした」大学も出てきたようで、いよいよ私も失業の危機です。


 こういった「時流」に乗り遅れまいと、「ベンチャー論」研究やなにやらに飛びついていく、あるいは「ベンチャー」の語をうまく取り込んでいく、同業者も目立って多くなりました。私のような、アタマの固い人間には、こういったフレキシブルな対応がなかなかできないので、うらやましい限りです。私なんか、「ベンチャー・ビジネスと中小企業との違いはなんですか?」なんて、まじめな学生諸君に質問され、こたえに窮しているくらいですから。


 ただ、私のような者も、大学というところのおかげで、時流に乗り遅れていようが、「マイナー」と陰口をたたかれようが、給料はいただけますゆえ、「学問ちゅーのは、真理の探究であって、曲学阿世、阿諛追従の必要がないところに、存在意義がある」と、チョー古典的『学問の自由』論に必死にしがみついております。




 それでも、私は、「べんちゃあ・びじねす論」はやりませんが、「『ベンチャー論』論」はやっております。つまり、「ベンチャー・ビジネス論」とはなにか、その論理と、その登場の意義、社会的インパクトを研究している、ということです。


 これにかんする学問的な堅い話は、別稿を見て下さい。ここで私は、「ベンチャー・ビジネス」の語は、まったくの和製語であり、それは「発明者」の方々ご本人たちが言っているんだから、間違いないと、繰り返し申しております


 ところがまったくもっていやになることに、それをまるでご存じない、ニッポンの常として、アメリカあたりのはやりコトバを「輸入」したんだろと思っておられる方々が、実は世の完全な主流なのであり、私の「検証」など、誰一人として聞いてくれません。


 「発明者」の方々が、その「知的財産権」を主張されれば、こういった誤りも少しは正されるのでしょうが(実際には、『世界大百科事典』平凡社、を見れば、「発明者」自身の手になる解説がちゃんと載っており、「知的財産権」マークも掲げられています)、ご本人たちも、どうもその辺を曖昧にしておいた方が、「権威づけ」には得策だとお考えのようで、はっきりルーツを口にされないのです。ですから、マスコミ用語辞典では完全に、「外来語」の項に、「ベンチャー・ビジネス」というコトバが定着してしまいました。


 このばかばかしさ、それは、勇気ある方々、まじめな方々が「本場」へ行って、「べんちゃあ・びじねす」のコトバを口にしても通じなかった、そんな言葉をついぞ聞かなかった、そこで、「アメリカでは、ベンチャー・ビジネスという言い方はないようなんですが」と首を傾げて帰ってくる、という「笑い話」の数々で、証明済みです。困ったものです。



 なんでこんな笑い話が飽きもせず、繰り返されるのか、その根拠がだんだんわかってきました。

 以前にも書いたことですが、なんせこのニッポンでは、「英和辞典」に、「venture business」などと載せている、とんでもない代物が堂々と売られているのです。あえて再録しておきます、それは、小稲義男編集代表、『新英和大辞典 第5版』(研究社刊、1980年初版)です。そのせいかどうか、私が「経済英和辞典」、「経済・経営用語辞典」などと書かれたものをざっと調べてみたら(なに、立ち読みをしたんですが)、最近の版ではほとんどに、「ベンチャー・ビジネス(venture business)」などという項目があり、得々と解説が載っているのです。

 ですから、まじめな勉強家の方々が、こういった「エイゴ」がある、と信じるのは、ごく自然なことだったわけです。

 それどころじゃありません、最近の高校の教科書には、必ず「ベンチャー・ビジネス」の語が載り、「中小企業」との違いを説明したうえ、ご丁寧に「venture business」などと、ふりがなまで振ってあるということを、その辺に詳しい知人に教えてもらいました。もう唖然・ボーゼンです。

 文部省の○○役人ども、そしてそれに「抗しつつ」、良心的な教科書づくりを意図するはずの執筆者の方々、全員そろって、世界の恥です。




 本当にいやになりますが、venture business では、エイゴにはならないのです。英語には、venture capital の語があり、これと米国での「小企業」の語small business とを切り貼りして、「ベンチャー・ビジネス」という語を造語したと、「発明者」の方々がくり返し語っておられるのです。

 エイゴ的には、venture の語は、「冒険」(adventure の語から、アタマがとれたもの)の意味を持つとともに、転じて、「投機」「賭」「ヤマ」といった意味で(名詞としても、動詞としても)使われます。英国経済史上のMerchant Adventurers の勃興と活躍なども思い出されましょう。

 こういった経緯から、現在でも、Joint Venture という語はよく使われ、すでにこれもニッポンで「外来語」化しています。リスキーな事業を、共同して担い、そのリスクも分散するという意味で、ジョイント・ベンチャーなのであって、語源は、ニューディール下のフーバーダム建設工事に始まると言われています。一企業では資金上・技術上受注困難であるから、複数企業が共同して請け負う、ここから始まった形態であるというわけです。もちろん現在では、国際的な「合弁事業」も、joint venture と呼ばれます。


 また、venture capital という語がなぜ米国でできたのか、これはさらに、リスクとともに、賭という要素を伴った表現のようです。投機としたら幾分言いすぎでしょうが、投資先企業の成長可能性という、相当のリスクを持ち、確率的には低いチャンスに賭ける、そういったことにあえて挑戦する「資本」、これが「ベンチャー・キャピタル」なのです。実際にそれで「当たれ」ば、マイクロソフト社のように大化けして、投資したベンチャー・キャピタルは天文学的な大儲けができるのです。

 私がたまたま映画を見ていましたら、まさしく「賭け」という意味で、「venture」の語が使われていました。ずいぶん古い映画ですが、『Ben-Hur』(1959年)のなかで、復讐を誓うユダヤ貴族ベン・ハーを擁したアラブ系の族長イルデリムが、ローマ軍人メッサラらに、チャリオットレースを仕掛ける、そしてみずから乗り込んで「賭け」を挑む、ここで、「ローマの勇者の方々に、このレースに賭けようという声がありませんのですか?」というせりふ、これに「venture」の動詞が用いられていました。

 この原作でも同じせりふ表現があったのか、手元に原本がないので確認はできません(原作は100年前の米国製のものですが)。もちろん、2000年前の時代に、こういった会話があったわけじゃあありませんし、どちらかと言えば、映画の作られた1960年代ごろの米国の会話をうつしたものとすべきでしょう。


 ま、そういったわけですから、venture business では、ネイティヴスピーカーたちには、「ヤバい仕事」といった意味にしか聞こえないはずです。実際には、日本の影響もあってか、business venture、new business venture といった言い方は、最近よく耳にします。98年度ロンドンに滞在している間にも、そういった表現を聞くことが何度かありました。「リスクの高い新事業に挑む」といった意味表現で、もちろん必ずしも「新企業」ではなく、また大企業の活動についても使われます。joint venture の語も、厳密には、joint business venture のことだとも、なにかに書かれていました。



 したがって、ちょっとはエイゴを知っているひとは、「ベンチャー・ビジネス」では通じないので、"venture business" firms などと、カッコつきで書き記したりしています(神代和欣氏)。ブームに乗って先ごろできた、「日本ベンチャー学会」(ごく月並みのチョービンボー学会「日本中小企業学会」(JASBS)とは違い、いっぱいスポンサーもついて、懐豊かなんだそうですが、老婆心ながら、「カネの切れ目が縁の切れ目」になりませんように)は、英語表記を「The Academic Society for Venture and Entrepreneur of Japan、略称 ASVE」としております。ここでも「ベンチャー・ビジネス」は名乗りませんが、ただ「venture」と呼んでも、なにか「冒険家」(そういった肩書きの「職業」もあるようですから)の研究でもやるのか、という観は拭えませんが。

 「第一次ベンチャーブーム」に乗って、政府の支援で作られた「財団法人研究開発型企業育成センター」も、エイゴ表記をVenture Enterprise Center とし、最近はそのまま団体名も「ベンチャーエンタープライズセンター」にしてしまいました(ま、「ベンチャーエンタープライズ」で十分通じるのかどうか、私も確認はまだしておりませんが)。これに準じてか、「ベンチャー支援策」に踏み切った政府も、あくまで「ベンチャー企業」などの、ちょっと曖昧な「日英組み合わせ」表現をもちいることで、「エイゴ的におかしい!」といった非難をかわしている観があります(それでもやっぱり無理があるのは、エイゴ的コンテクストでは、venturer とは、venture capital の方を指すと、もう定着してしまっているからです。ただ、日の本の国のマスコミ界では、「ベンチャー企業に投資するのが『ベンチャー・キャピタル』」なんていう、半可通も片腹痛いような「解釈」が普及していますので −これは某『讀賣新聞』に載っていた、れっきとした解説です−、あまり「ベンチャー企業」も困らずにすみましょう)。

 さらに、うえに書いたように、でたらめきわまる「経済用語辞典」がまかり通っているなかで、最近出されたものでは、「ベンチャー・ビジネス」の語は和製語と明記し、英語では、「新規創業」などの意味では、new business start-up 等と表現していると、詳しく説明した、非常に良心的なものもあります。


 もっともそういった「解説」自体で混乱しているように、「ベンチャー・ビジネス」の語は、「発明」以来一人歩き著しく、なにを指すのか、次第に百人百様になりつつあります。元来は、「研究開発集約型」ないし「デザイン開発集約型」の小規模「新規開業企業」だった、それが近ごろは、ともかく「新開業」一般の意味で使われたり、そうかと思えば、目新しいことをやっている企業という意味でどこででも名乗られたり、という具合に、際限なく広がっています。世の中では、「中小企業」を題名とした書は絶滅寸前なのに対し、「ベンチャー」の語をくっつけた書は洪水のように氾濫しておりますので。

 いま、「我が社は中小企業で」などと言っていたら、この就職難時代にも、誰も応募に来てくれません。ですから、必ずやみんな、自他共に、「ベンチャー企業」を名乗っています。「チューショーキギョー」とは、「謙譲語」ないし「差別表現」、あるいは「中小企業を救え!」という政治的スローガンに「固定化」されました。輝くため、人目を引くため、それには「ベンチャー」じゃなくっちゃいけません。「差別」じゃなくって、「差別化」しなくちゃいけません。ニッポンは言霊の国ですから。

 そうかと思えば、「ベンチャーをやろう!」なんて、よくわからない表現も登場します。よく聞いてみると、要するに「企業を起こそう」という、「創業のすすめ」のことのようなのです。どっかの大学の某学部では、そういったイベントまで企画されているようですから。




 このように記して参りますと、「なんでそんなコトバにいちいち目くじらたてているんだ?」、「ベンチャーはベンチャー、それでいいじゃないか」、「エイゴ表現がうんぬんなんてこだわるのは、要するにアングロサクソン文化がグローバルスタンダードだとする、西欧崇拝そのものだ」などといった、「反論」続出が予想されます。

 たしかに、コトバはコミュニケーションの道具なんですから、「お互いわかる」、それでいいんだ、こだわるほどのことはなにもない、そういうことならば結構なのでしょう。


 でも、ここにはいくつかの問題が残ります。まず、その「お互いわかる」というのが、閉ざされた言語圏・ニッポンの範囲であって、そこから一歩も外へ出られない、という現実の壁がありましょう。現に、「ベンチャー・ビジネス」では、日本の外ではほとんど通用しないわけです。ところが、なまじ英単語が並んでいるばかりに、「通じる」と日本語人たちが思いこんでしまう、この落とし穴に気づかなくっちゃ、と言いたいのです。

 私も過去に言及したように、「ベンチャー・ビジネス」に限らず、和製造語は数限りなくあり、ますます増え続けています。しかしそのおかげで、日本人の国際コミュニケーション能力は落ちる一方です。「エイゴはやさしい、私たちはエイゴのコトバに囲まれて暮らしている」、ところがその多くが、エイゴには実在しないもの、あるいはエイゴのコンテクストとは全然違った意味で用いられている、これはちょっとまずいのではないでしょうか。


 日本語人同士がそれで「意志疎通」できればそれでいいのでしょうが、少なくともそのソトの世界とコミュニケーションをするには、なによりも「違いがわかる」ことが必要です。ニッポンじゃあこんなコトバを使う、こう言っている、でもそれはエイゴじゃないので、エイゴで対話するには、違ったこういうコトバにしなくちゃいけない、それを知らないと、「全然通じない」ことになるのです。

 ですから、その「違いがわかる」ために、「べんちゃあ・びじねす」はニホンゴなんだと、みんな知るべきでしょうが。それを無視して、venture business などど、ふりがなまで振らせる、そういった文部省の小役人どもは○○を通り越して犯罪的です。それとも、文部省の「教科書」では、日本語表記にローマ字を公用語化すると、どこかで決めたんでしょうか?




 そして、ともかく「新しいイメージ」を振りまくには、カタカナコトバ、したがって「外国語」を持ってくるに限る、そういう「日本文化」の特徴をやはり問わねばなりません。「お掃除おばさん」じゃイメージ悪すぎだから、「クリーンレディ」にするとか、「店員」じゃなくて、「ショップアドバイザー」にするとか、このたぐいの数々です。もっともそれはもうそういった宿命なんだ、ニホンゴ2000年の歴史はその繰り返し、最近たまたまエイゴが主な「輸入先」になっているに過ぎない、これも間違いではありません。それに、もうエイゴもネタ切れで、近ごろはイタリア語やスペイン語がモテモテ、そのうちにはロシア語の順番もまた回ってくるかもしれません。

 また、これもニッポンに限った話でもないことも事実です。近ごろ欧米では、ニホンゴがモテモテで、やたらにニホンゴコトバが目につきます。そして、結局ニッポン同様に、日本語人なら目をむくような、奇怪珍妙な表現の数々にお目にかかるのです。

 「ソンジャ」というのがわかりますか?これは、「ニンジャ」のなかの最高の位、道を究めたものを言うのだそうです(「尊師」じゃなかったが)。そんなのあるかよ、と失笑するひとは、「べんちゃあ・びじねす」というのには同じ響きがつきまとっていると、自覚せねばなりません。「漸掌」なんて、あんまり聞いたこともない「漢語」を背景に書いた、ジュードー着姿の女性のポスターも目にしました(欧米ではこのように、日本語というのは漢字自体に意味を持っているので、その切った張ったで、いろいろコトバが作れる、と受けとめている向きがあります。でも、コトバはしょせん、「実際に使われているか」、「コンテクストの中で通じるか」がだいじで、勝手に「造語」はできないのです)。



 このように「閉ざされた」世界のうちでの表現だと割り切ってしまうとしても、「国際コミュニケーションについては、その際に考えればいい」と思うひとも、では、その際少なくとも、「べんちゃあ・びじねす」とはなんなのか、これが曖昧なままでもいいとまでは、言い切れますまい。

 実際、現実はあまりに混乱しているのです。その最大の原因は、今日の日本語文化の中にある、「フーリング性」にあります。要するに、難しいことは言わない、というより、難しいことを嫌悪するがため、「フーリング」(「フィーリング」とも言う)に逃げる、この得意技なのです。もちろん、「新語」が生まれるとき、この語はこれこれということを指す、などと厳密な「定義」から始まるわけではありませんし、言葉はある意味できわめて感覚的なものであり、だからコミュニケーションの道具になれる、とも言えましょう。でも、いつまでも「フーリング」一本で使われているのもまた、いろいろ不便を来す、だから少なくとも、学問とか、法律制度とか、コンピュータ言語とか、そういった用語法に入れられる際には、相当に「統一された」定義法をあらかじめ共有する作業をせざるを得ません。


 不幸にして、「ベンチャー・ビジネス」の語は、単なるフーリング表現・気分の問題として生み出されたのではありませんでした。それなりの「コンセプト」として提示されたはずでした。それがその後、一人歩きを続け、いまじゃあまったくのフーリングとして「定着」してしまっています。

 しかもその一方で、いよいよ政府も「ベンチャー支援策」を公式にいろいろ実施し、あまつさえ最近では、不況対策、構造転換策の目玉に、めったやたらに「ベンチャー支援策」が出てくる始末です。それこそ、「カラスの鳴かない日はあっても、『ベンチャー』の語が新聞に載らない日はない」状況でしょう。それにもかかわらず、その「ベンチャー」とはなにを指しているのか、使っているご当人たちだれ一人として、厳密な定義などということは眼中になく、それこそフーリングに乗っているだけなのです。これはかなりまずいのではないでしょうか。




 そして、近ごろは「中小企業、ベンチャー企業」などと二本立てで取り上げられる、書かれることがやたら多くなりました。ですから、はじめに書いたように、「中小企業とベンチャー企業とはどう違うんでしょうか」と聞くとか、「ベンチャーの本場のアメリカには、ベンチャー・ビジネスというコトバがないようなんですが」と首を傾げるとか、まじめな方々を当惑させているのです。


 私のこたえはただ一つ、「違いは、フーリングの問題だ、ベンチャー企業とは、自分が、あるいはまわりが『ベンチャーだ』と思っているものを言う」、こう言うのみです。なぜって、「中小」企業とは、少なくとも端的には「企業規模」の概念で、客観的に定義可能だし、世界中共通のものさしで存在を確認比較もできるけれど(SMEとして)、「ベンチャー」企業の共通定義なんか、いまじゃあどこにもないからです。「どう違うんですか」と聞かれたって、困るのです。

 比較に困るどころか、結局フーリングの問題から、語感著しくクラい「中小企業」の語は、いまや抹殺されかねません。「中小企業対策なんて後ろ向き、構造転換を妨げるもの」とされ、「これからはベンチャー支援策よ」なんて、気分でやられちゃあ、たまったものじゃありません(もっともその「先端」を行っているのは、「政府寄り」ばかりじゃあありません。木下滋他著『統計ガイドブック』大月書店刊、1992年、という書は、統計情報等の活用方法を詳しく説明したハンドブックですが、ここでは「いち早く」、「ベンチャービジネス」という項目を設け、資料を解説しております。もっとも「統計学者」(御園謙吉・市橋勝)の方々だけあって、ベンチャービジネスとは、「小規模な資本金によって、独自の技術や新製品の創造をめざす研究開発型企業のことを指す」などと「規定」しておりますが、「解説」の中味はVECの「ベンチャービジネス動向調査報告」をそのまま並べただけで、じゃあ、その対象はどういうかたちで区分調査されたんだろうなどといった「テキスト・クリティーク」は、いっさいなされておりません)。


 まあ、「中小企業」の語が「差別語」として抹殺されたら、みんな一斉に乗り換えればいいのです。みんな、「我が社はベンチャーだ」と名乗り、「中小企業庁」や「中小企業政策」「中小企業診断士」はすべて「ベンチャー企業庁」「ベンチャー企業政策」「ベンチャー診断士」に読み替え、「中小企業論」は「ベンチャー企業論」に看板を変える、これで万事落着です(「日本中小企業学会」は、商標登録の関係上、ちょっと困りますが、「日本ベンチャーエンタープライズ学会」にでもしましょうか)。小難しい「学問」の理屈に拒絶反応をもつ、ニッポン社会らしい「解決方法」となりましょう。



 ただし、これは世界ではやはり笑いものです。ニッポン以外の全世界は、あげて「チューショーキギョー」の研究や政策論議、経営論に邁進している、そしてそこでは、「べんちゃあ・びじねす」の語は(今のところ)通用しないからです。どだい、「フーリング」一本槍では、異文化間対話もできっこありませんし。


 「べんちゃら・ビジネス」というシャレを記した、短編小説を目にしました。現代版「たいこもち業」というところでしょうか。「べんちゃあ・びじねす」は違うんだ、と主張される方々、ぜひともこんな揶揄には負けないよう、がんばっていって下さい。

 私?「中小企業」の語が禁止され、「中小企業論」が一掃されたら、潔くこれと運命をともにしましょう。


*今朝の某新聞には、けしからんことに、「弁当とお茶を売る」ニュービジネスが、「だからベンチャー・ビジネスだ」などと落ちをつける4コママンガが載っていました。



 

補遺(ほい)

 どーでもいい駄弁に、もっともらしく、「学問的な」注釈やら解釈やらを加えちゃいけないのですが、一応、「例証」として。

 一方では、確かに、わが国での「ベンチャー支援立法」の先駆けともされる、「中小創造法」(1995年)では、その対象となるものを、「研究開発費(試験研究費)対売上高比率が3%を超える中小企業者」、「創業5年未満の中小企業者(製造業、印刷業、ソフトウェア業及び情報処理サービス業に属するを行う者に限られる)」、「同法に基づく認定研究開発等計画に従って研究開発等事業を実施する中小企業者等」と規定しています(その後拡大)。つまり、やはり「研究開発型」の企業というところに力点があり、それらを(都道府県が)認定するというプロセスに、主な手続きがあてられているのです。これに、創業間もない企業、あるいは創業前の個人までも含められるとしたところに、この法の「創業支援性」の特徴があると考えられてきました。


 しかし、時間がたつにつれ、そのへんはますます曖昧になってしまってきています。

 労働省(なぜか)が音頭をとって、通産省、中小企業事業団、文部省などを巻き込んで、「支援」情報の提供を意図している「ベンチャー支援ネットワーク」というのでは、「ベンチャー企業」の規定として、「いわゆる研究開発型ベンチャー企業に限定せず、新分野展開等(創業、異業種への進出、新製品、新商品の開発、高付加価値化、販路の拡大等)を目指す活力ある中小企業を含めたものをいいます」と、記しております。

 要するに、なんでも入っちゃうわけで、この厳しい時代に、なーんもしないでぽかんとしている企業はまずない以上、「活力ある中小企業」は全部「ベンチャー企業」となるわけです。語るに落ちていますな。



 追記.

 もっとすごいのをついに発見してしまいました。  T大学(とーだいじゃない)のM教授(私じゃない)という人が、「ベンチャー企業論」を地元紙にとくとくと展開、冒頭に、「ベンチャー企業とはなにか」と題し、その「位置づけ」を試みながら、なんと「ベンチャー企業は英語で「スモールビジネス」と訳されます」と記しているのです。

 かんげきです。ついに日本人は、英語でないエイゴ=何語?を発明したのです。

 ま、ですから、ヤッパ「べんちゃあ」企業なんですな。よく納得がいきました。

*これと同じデンで、本名が「small business」と名乗っている国際団体の「日本支部」を、「ベンチャー企業」と「意訳」(?)してしまったところがあります。



 追追記.

 このネタは、「現在進行中」でありますゆえ、次から次へと、面白いのが出てきます。やめられません。

 うえにも記したように、「日本ベンチャー学会」というのがあります。なんせ政府やら大手新聞社やら有力企業やらが「全面支援」しているのだそうで、大変に懐も豊か、なかなか活発なもようで、結構な限りです。

 私は、「ベンチャー・ビジネス論」はやりませんが、うえに書いたように、「『べんちゃあびじねす論』論」はやっておりますし、もちろん今日における「企業家」論、「創業」論や中小企業「経営革新」論には大いに関心があり、私なりにささやかながら調査研究にかかわったり、ものを書いたりもしております。まして、私の信念としては、「なんでも学問」です。「Jリーグ」だろうが、「AV産業」だろうが、立派な研究対象です。ですから、学生諸君も含め、世の中や人間のあらゆる事象・できごとを「学問する」、これがだいじと考えます。「ベンチャー学会」大いに結構、頑張ってください、ただし「カネの切れ目がエンの切れ目」とはなりませんように、息長く、着実に「学問」していってくださいと願っております。

 しかし、ご本人たちは必ずしも「べんちゃあ精神」(世の中で思われているような)に満ちた方々ばかりとは限らないようです。この学会のWEBサイトを見ていたら、すばらしいものを発見し、思わず爆笑してしまいました。例によって、いろいろリンクページなどあり、サービス精神旺盛でいいのですが、そのなかに、「大学・大学院」というのがあり、これが実にいいのです。私が余計なことをぐだぐだ書くより、是非ご覧下さい。

 どうやら、日本における「企業家精神」の源は、大学を「序列化」することから始まるらしいのです。「帝大」を頂点にいただき、以下有象無象に至るまで、権威と既成の秩序、これをまず大事にすることこそ、「べんちゃあびじねす」のみなもとであるとは、さすがの私も気づきませんでした。「『べんちゃあびじねす論』論」の研究に新しい1頁を画してくれました。

 この手のリンク集・一覧は、マニアックなのも含めて、いろんなとこにあります。インターネットの利点の一つです。そして大学リストは受験関係や研究情報源等々で、大いに役立ちます。でも、寡聞にして、私はここまで見事な「序列」リストはいままで見たことがありませんでした。それが「日本ベンチャー学会」のサイトを飾っているとは、感激するしかありません。  そして、悲しいことに、どんなに目を皿にして探しても、この一覧のうちに、私の勤務先校はありません。「有名私大」にも入れてくれなかったわけです。序列にも入れてくれない大学の一教師としては、当然ひがみます。ま、うちの大学の「べんちゃあ度」はそんなもんよと自嘲しても、それにしたって、かのK大先生を学長に迎え、矢継ぎ早の新機軸で注目を受けているC商科大学の名もないところなんか、どうして?という思いもします。

 この辺で、「落ち」をつければ、要するに日本の「べんちゃあ学」というのは、「帝国の逆襲」、または「帝大からも企業家が生まれる!(官僚や大企業幹部だけじゃなく)」というところに意義があるのかも知れません。


 まだまだネタは切れなくて、楽しいですなあ。





 蛇足

 世の中には、まじめな方もいて、「べんちゃあ・びじねすってニホンゴだったんだ」と発見、その発明者から確認をして、以来和製語を振り回すことには慎重であるべきだと述べておられます

 その方は、日本型シンクタンクの草分け、大変な権威です。





 歴史

 ここに記したことも、もう一年以上前なので、どんどん古くなってしまいます。まさに「歴史」の過去になりそうです。

 ただ、いくら「過去」でも、地層を掘り返せば後世「発掘」は可能な、「歴史の事実」ではありますから、私が「にせものの石器」をこっそりあとから入れたんじゃない、と書いておかないとまずいでしょう。

 うえの、「日本ベンチャー学会」のサイトの、「大学・大学院一覧」は、さすがにこれはちょっとまずいんじゃないの、と考えるひとが中にもいたのか、いつしか、現在「調整中です」という表示のみになって、記載が消えてしまいました。残念なことです。

 ですから、もう「検証不可能」になってしまったのですが、「歴史的事実」は、ともかく、「旧帝大」、「有名私大」、なぜか「東京六大学」、はたまた「地方国立大」、「単科大」などといった『分類』のもとに、”整然と”各URLが並べられていたので、大学の権威や評価を率直有り体に知る上で、なかなか便利なものでした。ここにノミネイトされたところをたどるだけでも、「べんちゃあ度」をはかるのにはよい手引きであったでしょう(そうか?)。

 いまとなってみると、引っ込められたのはちょっと残念です。



 この「序列」は、もっぱら「既成の権威」と「世間のブランド評価」に依存していたようなので、実用性には問題ないこともなかったのですが、相変わらず新設大学・学部ラッシュが続く全国「ダイガク」天気概況を見ていったら、ジョーダンでなしに、「ベンチャー・ビジネス論」とか「ベンチャー企業論」といった科目がやはり激増していることがわかりました。新設にあたっては「人気のチョー目玉」講義になれそうです。その一方、当然「中小企業論」なんて減り気味ですが、文部省(今度は「文部科学省」か)のお役人にはまだ頭のカタいひともいるようで、「中小企業論」も懸命に踏ん張って残っている、また新設校・学部においてさえも「中小企業論」を設ける傾向もある、と判明しました。

 こういった、「天気図」ないし「分布図」をつくってくれると、とても有益なんですが。






  おまけ

 某『にっけい新聞』(株やのマッチポンプないし市場操作のツールともいう)では、「インパク」(インパクトないなあ)に参加し、わざわざ「べんちゃあって?」というクイズまで、手の込んだ画像で提供してくれています。

 ぶんやさんたちがいかにアタマが悪いか、いや、いかにアタマを働かせることがきらいか(アタマを働かせて、まじめに考えると、たぶん脳がフリーズしちゃうんでしょう、かつてはぶんやさんの得意技は「足を使った情報」であったはずですが、いまはきっと、もっぱら使うのは胃袋なんだと思います)、よくわかるので、さすがハクランカイにふさわしい見せ物と言えましょう。

 ま、「べんちゃあ」なるコトバの創生ならびに数次にわたるその普及努力にかかわった新聞としては、もうちょっとマジに「ルーツ表示」に努めてもらった方が「学問的に」よかったと思うのですが、しょせん「インパク」じゃあ。

 ともかく、森喜朗の顔を立てるためにも、ハクランカイの見せ物は一度見に行ってみてください


*なお、この某『にっけい新聞』では、いまじゃあ「VB」という記事欄まで設けていますが、それはセカイじゃあ「Visual BASIC」のことだよ。





補遺補遺(ほいほい)

 このようにいかに私がごまめの歯ぎしりのようなことを書こうとも、洪水のごとき「世の流れ」にはまったく太刀打ちもできず、今日も今日とて、「べんちゃー」の語が至る所に氾濫をしております。各大学での、「ベンチャー企業論」だの、「ベンチャー経営論」だのという科目担当者「公募」の知らせもやたら目につきます。「ベンチャー経営論」教科書決定版なんていうのも出たそうです。もっとも近ごろは、「中堅企業論」とか、「スモールビジネス論」なんていう科目も登場したらしいのですが(後者はきっと、「これは日本語では『ベンチャー・ビジネス論』と訳します、なんて解説付きになるのでしょう)。

 ま、そんなこたあどーでもいいんですが、この洪水の中、ふと気がつきました。いまじゃニッポンでは、「ベンチャーをやる」とか、「ベンチャーをめざす」という表現イコール「起業する」、「企業家をめざす」という意味になりかけていますが、うえにしつこく記したように、米国文化と言語のコンテクストでは、venture とは、capitalのこと、つまり投資家なり投資機関の姿勢と戦略の問題なんです。venturerと言おうが、ventureと言おうが、それは多大のリスクをおかし、あえて新事業や新分野にカネを投じようという、カネを出す側の「冒険精神」なのです。ところがいまニッポンでは、カネを持っている方は冒険どころか、いかにリスクを避け、損をしないようにするか、そればっかし、しかも昔も今も銀行などはそんなもんよ、とで済まされないくらい、「健全企業」からまでゼニを引き上げる、一方的に手を切る、これも「不良債権処理」や「ペイオフ解禁」のおんためだ、という「恐慌状態」です。アブなさそうな事業にびた一文出すどころか、我が身かわいさばっかし。それでいて、バブルに踊って土地や株さえあればいくらでも貸しまくった、そのデベロッパーやらゼネコンやらには大まけの「徳政令」連発、「ベンチャースピリット」ゼロがニッポンの「金融機関」や「投資家」じゃないですか。

 あべこべに、ゼニはないが新しい事業にチャレンジしようという、使命感や挑戦精神に満ちた起業希望者側にだけ、「ベンチャースピリット」を期待する、期待だけして、散々ぱらおだてて、あとはハシゴを外してしまう、そんなインチキくさい仕組みのニッポン的表現が、日本版「ベンチャー企業家」おおはやりの風潮ではないでしょうか。だいたい、ひとに向かって、「挑戦せよ」「リスクを恐れるな」なんて説教たれる人間のほとんどは、自分は「安全第一」、「寄らば大樹」、最後は親方日の丸が助けてくれると期待している、このへんにこそ、venture capitalの語がニッポン版「べんちゃあびじねす」に化けて根付いてしまった、その安っぽいトリックの筋書きそのものに見えて仕方ないのですが。


 ささやかではあるが、社会的使命に燃えた起業家たちにおカネを出そうという「市民バンク」を支えてきた、永○信用組合が、ペイオフ目前で政府金融庁の手により強制的につぶされた、このひどすぎて言葉も出ないようなできごとに、世の「べんちゃあ精神」に燃えたマスコミやジャーナリストや評論家の方々で、一人として疑問の声を挙げた人がいるのでしょうか。このできごととともに、ニッポン版の「べんちゃあ精神」もジエンドとなった、そう申してこそ、時代の真実を語ることになるというものです。


 まあ、こんど出された『2002年版 中小企業白書』はめずらしく、べんちゃあだ、チャレンジ精神に目覚めよ、自立独立だ、華々しいサクセスストーリーだ、という絶叫調は影を潜め、欧米では華やかでもイノベーティヴでもない「まちの起業家」が多数生まれ、経済を活性化したと説いています。それも、きちんとしたサーベイやデータにもとづくもので、説得力もあります。対照的に「べんちゃあびじねす」の語はほとんど出てもきません。ようやく(大惨事、じゃなかった第三次)「べんちゃあブーム」も終わったんだと思うと、その点だけではやっと安心して眠れましょう。



補補遺之補遺(ほほいのほい)


 最近、TVの「英語番組」でおもしろいのを偶然見ました。


 英会話で、一定ストーリー性のあるような場面を流し、その組み立てをキーワードのネットワークで確認、理解するという方法で、まあ今風語学「教育方法」なのでしょう。


 その中で、いまの職場とボスに不満な青年にまわりが「起業」をすすめるという展開、entrepreneur、start own business、riskなど、いかにものキーワードが続出しますが、その一節で、舞台であるバーのオーナー兼マスターが自分の商売を語り、「It's not just a business venture, but an investment in my dream!」と述べるのです。この「venture」もキーワードとして紹介されますが、当てはめる日本語訳は、「単なる金儲けじゃない、自分の夢のためなんだ」となっていました。


 調べてみるとこの番組はあくまで日本での製作、しかし主なスキットはネイティブアメリカンで、いま日本の大学で教えているひとの手によるようです。もちろんしゃべっているのは生粋の米国人俳優です。

 このスタッフや関係者が和製語「べんちゃあびじねす」が日本の「英和辞典」にまで載っているというのを果たして知ってか知らずか、それこそわかりませんが、この使い方はあくまでアメリカンカルチャーのコンテクスト下にあるというのは間違いないでしょう。

 もちろんそれは「venture business」なんていう珍語(誤植?)を使わないというだけじゃなく、この文脈下では、「business venture」にはやはり「賭け」とか「一攫千金的金儲け」といった、かなりネガティブなニュアンスが暗黙のうちにあり、それだから「夢の実現」と対比されているのだということに注目できます。


 「起業のすすめ」によく出てくる、「自分の夢を実現するんだ!」という思いが、「べんちゃあ」と対極に扱われては、「ベンチャーをやろう!!」とあおってきた人たちはいくぶん鼻白むでしょうが、しかたないですね。それが「もとの意味」なんですから。



 こういった具合で、英語のカルチャーの持つ個々の言葉の意味が、日本では違った方向に理解され、それが定着してしまっているのは数多くあります。この番組中ではわざわざ、「challenge」という言葉について注釈を加えていました。それは「困難、難問、課題」といった意味であって(あるいは「異議申し立て」でも)、なにか積極的主体的な意味があると思っているにっぽんのカルチャーは違っていると。


 私の印象では、もっと遙かに違った理解をされている典型例として、「fight」という語があると思います。にっぽん人は「ファイティングスピリット」だのと、「敢闘精神」、あるいは「もっとがんばれ」というかけ声、そんな風に理解をし、日常的に濫用をしていますが、どこまでいっても、「fight」とは「けんか」や「争い」、「戦闘」なのでして、そんなに振り回してはいけません。「がんばれ」なんていう意味で、「ふぁいと!!」と言っている図なんか、日本の高校野球などでは当たり前でも、そんなことにっぽんの外でへたに使うと、「けんかになるよう煽っているのか?」なんて誤解されかねません。


 この間違いのもとはたやすく想像がつきます。この語はボクシングなどから入ってきたのです。これは正真正銘の殴り合いなんですから、観衆が「もっとやれ!」「やっちまえ!」という意味で「ファイト!!」なんて連発しているのを見聞きして、何ごとにも拳闘「道」化するにっぽん人としては、「もっとがんばれ」と、敢闘精神を注入しているんだろうと理解した、こんなところでしょう。さらに戦争の記憶は、「fighter」=戦闘機という名前を焼き付けられました。「zero fighter」零戦は、かっこいいにっぽんの戦力技術力の象徴ですから、「ファイター」にネガティブな印象なんかあるわけがありません。


 近年の米国映画「ファイトクラブ」なんていうのも原題のまま上映されたので、「ファイト」クラブって、やる気のある人間たちの集まりじゃなく、殴り合いのけんかを商売にする人間たちのことなんだと、いくらか悟った人たちも出たのでしょうが、映画自体そんなにメジャーなヒットにもならなかったので、それどまりでしたな。


 かくして、至るところで「ふぁいと!!」のかけ声が飛び交い、ガイジンたちを一瞬おびえさせている今日この頃です。


 「ふぁいと」に他意なし、敵愾心も殴り合いもなし、「べんちゃあ」の語もそんなところと、皆さん理解してくれるといいんですが。



business ventureは当たり前の米語

(2020.03.06)

 これを記しだしてもう20年以上が過ぎてしまった、出し遅れの古証文どころか古文書の仲間入りですが、その今さらながらの発見。

 1959年制作の映画『ベン・ハー』だけじゃなく、1954年のアメリカ映画『エデンの東』(East of Eden)のなかでも、「business venture」のセリフが多数語られていたのです。

 今さらながら、気がつかずにおりました。もう何十回見たことか。それどころか、映画のビデオやディスクが手に入るようになる以前、発売された音声のレコードも持っていたのに、ですよ。もちろん全編ではありませんでしたけれど。

 基本的には、父アダムが試みた、レタスの冷蔵輸送が鉄道事故で失敗、つぎ込んだ財産を失ったとき、息子キャルはこれを取り返してあげようと、米国の第一次大戦参戦を見越して、大豆の栽培に投資し、結果多くの利益を稼ぐ、この際に「business venture」と、キャル自身も語るのです。カネを貸してくれとせびる、生き別れの実の母ケートに対し。


 のちのち、NHK語学番組でも出てきたように、こうしたリスキーな事業を試みる、ただどうも金儲けの匂いが強い、それこそ「ベンチャーをやる」なのでしょう。


 なお、なんで今頃気がついたかといえば、この50年代あたりの映画を意識して見る機会が多い上、このごろ主には「セントウ状態」のスポーツジムで、身体動かしながら、映画など見るからなのです。こうした際は、MP4化しているのをPCで見る、そういったスタイルになっています。もう何度も見たものをまた見るのも、あまり気を入れず、「ながら」で流せるものに傾きがちであり、おかげでセリフがイヤホンではっきり耳に入りました。

 ただ、この映画の原作、ジョン・スタインベック著(1952)にもこうした表現が出てくるのかどうか、確認はしておりません。もちろん、物語の舞台である1910年代に、この語が会話に当たり前に出ていたのかどうかも。

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 このこと、ホント半世紀も前に気がつくべきでした。

 実は、あったのです。映画East of Edenの音声レコードが。
 その頃、のちのビデオカセットやLD、いまのDVDやBDというようなホームビデオといったものは世の中になかったので、映画などの映像作品を個人で見るには、上映中の映画館に行くか、TV放映の機会をとらえるかしかあり得ませんでした。まれに、「市販版」や「上映用レンタル」という形になったものもあることはあったのですが、そのような扱いで公開されたのは数少ないし、35mm版か、せいぜい16mm版でしたから、映写設備を使えなければ、もちろん見られませんし、レンタルを含めて価格は相当なものでした、「個人」とか「家庭」といった場はまったく想定外だったのです(それでもこういうかたちで、私は高校の学園祭で『七人の侍』を見ているんですけどね。学園祭準備委員会が、東宝のレンタルの16mmフィルムを借りてきたんでしょう。私自身も、レンタルフィルムで16mmの上映会を開催した経験もあるんですが)。


 さて、そんな時代ですから、映画の記憶を頭の中だけではなく、「手元に置きたい」「所有したい」際には、「音声」という手は残されていました。映画館などで勝手に録音することはもちろん許されませんが、これまたテレビ放映のものの音声だけ、録音した記憶は私にもあります。音からだけででも、画面の躍動を含めて追憶想像ができるのが、映画マニアたるゆえんでしたでしょう。音楽も聞こえてきますしね(いわゆる「映画音楽」の世界)。

 まあそういったマニアックな願望にこたえるために、映画会社などでも公開映画の音声だけを市販レコードにするなどという商売を若干やっていました。これで私が70年代あたりに手に入れた中には、『第三の男』(The Third Man *これは市販シナリオ本のおまけソノシート)や『ジェームスディーン全集』なんていう、ある意味非常に不思議なものもあったのです。
 その一つが、Warner-Pioneerから発売された、『JAMES B.Dean 1931-1955』というレコードです。P-8563Wというナンバーがふられ、1975年発売、定価2300円、当時にしてはかなり高かったでしょう。

 これにはジミーの出演3作品、『ジャイアンツ』(Giant)、『理由なき反抗』(Rebel without a Cause)、そして『エデンの東』の、それぞれごく一部のサウンドトラックがそのまま記録されています。ジミーの、独特な声としゃべり方、それだけでも記憶したい、手元にとどめて聞きたいというマニアの願望に応えるものだったと言えましょう。


 そして、驚いたことに、この中にケートとキャルの会話、実の母にカネを無心し、これで儲けて、父の損失を埋めてやりたいという意図が語られるシーンが記録されているのです。ご丁寧に、収録された各場面のシナリオのセリフと、その日本語訳の書かれたシートまでついています。それがここにあげたコピーなのです。

 私、キャルの語るbusiness venture 「もうかる話しだよ」というのを、半世紀近く前に知るべきでした。


 このレコードを今更のように聴いてみて、思い出したことがあります。
 単に、映像としての映画の記憶を音だけでも「所有したい」という願望だけではなく、この映画のメインタイトルミュージックを、「もとのままで」聞ける唯一のソースだったのです。

 映画公開当時から、「ビクターヤング楽団」の名で演奏されたレコードが世に広まり、もちろんベストセラーになっただけでなく、何年間もラジオ番組の「リクエスト曲トップ」を飾り続けました。ために半世紀後の今日も、これが映画のミュージックなんだという「誤解」が世間には完全に定着しております。しかし、私の印象では、このビクターヤング楽団なるものの演奏は殆ど別物といった方が正しいでしょう。スローテンポで、ひたすら甘く、情緒的な代物で、映画の意図した描写とはまったく違います。それだけ、「大衆受け」を狙ったとしか申せません。

 これに対し、映画の音楽担当はLeonard Rosenman で、そんなにメジャーではない、映画音楽の職人的なひと(『理由なき反抗』の音楽担当も彼)のようですが、メインタイトルから始まり、エンドタイトルに至るまで、いくつかの旋律を巧妙に用い、通奏低音のような雰囲気を造り上げています。この映画の音声を聞くだけでも、巧みさと鋭さがわかります。まさに音楽もドラマを構成していると理解できましょう。ただ1950年代当時は、「オリジナルサウンドトラック」としてのレコードを出すという発想は基本なかったのか、いまに至るまで、世の中にはビクターヤング楽団演奏なるものだけが跋扈しているのです。


 Victor Young自身は実際に映画の音楽担当を経験しており、その数ではむしろローゼンマンをしのぎましょう。特に日本でもよく知られた『誰がために鐘は鳴る』(For Whom the Bell Tolls)の音楽など、若干通俗的ではあるけれど、映画の物語を飾るにふさわしいものだと実感します。しかし、「エデンの東」はいけません。おそらく、スコアだけを貰って、「テキトーに」自分のフィーリングでアレンジ演奏したことが見え見えです。そんなものが末代まで残るのは、映画史上の大問題でしょうが。

 ですから私、ローゼンマンの原演奏が聴ける唯一のレコードとして、これを買ったのでした。いまは、DVDが簡単に入手できますけどね。しかも原フィルムのシネマスコープ・ステレオ録音で。



 なお、後年「オリジナルサウンドトラック」のレコードも出ました。映画から取ったものではないので、演奏だけです。当然、映画制作時ないしはのちにそうしたものが準備されていた、それをレコード化したのでしょう。

 実は私、これも持ってるんですよ。といっても発売はおそらく70年代末頃でしょうが、私が手にしたのはごく最近のことです。某中古レコード店で買いました。レコードというものが世の中からほぼ絶滅したのち、近年のリバイバル機運で、こうした店も増えています。そこで発掘をしていたら見つけたのです。状態は良好でした。CBS-Sonyの「エデンの東/理由なき反抗 ジェームス/ディーンに捧ぐ」というタイトルで出ています(CBSSony25AP804)。

 これもよく見ていくと、いろいろなことがわかります。日本で発売されたものですが、レコード自体やジャケットは英語表記のみで、米国製造と思われます。それに日本語解説の帯やライナーノートシートを入れたのでしょう。この中には、『エデンの東』『理由なき反抗』のほか、『ジャイアンツ』の一部の曲も入っています。有名なタイトル曲ではないので、ほかのと同じ演奏者で別途録音をしたもののようです。
 その意味、『エデンの東』『理由なき反抗』の音楽も、映画用の完全なオリジナルではなく、レコード用に別録りしたもののようです。Ray Heindorf指揮のワーナーブラザースオーケストラ演奏と記されていますが、『エデンの東』の「序曲」はない上、モノラル録音なのです。現在市販公開されている『エデンの東』映画は復元版のようで、このかなり長い「序曲」場面があるうえ、映画全編を含めてステレオ音声なのです。モノラルをのちに疑似ステレオ化したようには聞こえませんので、当時としてはかなりカネをかけ、シネマスコープ・立体音響で作られたのでしょう。ですから、映画編集用の録音テープもステレオだったはずです。

 この別録り録音を市販レコードにする際、亡きジミーの記念として『ジャイアンツ』の曲も入れることにし、別テイクした、これは十分に想像できますね。ただ、そちらの作曲者Dimitri Tionkinや映画製作者でもあったGeorge Stevensらからの許可が得られず、『ジャイアンツ』のタイトルミュージックなどを載せることはできなかったのでしょう。確か、この有名な『ジャイアンツ』メインタイトルは単独でレコード化されたはずですし。


 さて、このCBS-Sonyのレコード、中古ですが状態はよいものでした。しかも買って帰ったら、中から『エデンの東』の映画のプログラムが出てきたのです。持ち主、想い出とともに大切にしていた、そして映画を「所有する」ことはあたわない時代だったので、レコードを買っていた、そんなところが十分に想像できます。
 ただ、実は私もまったく同じ映画プログラムを持っていたのです。同じリバイバル上映時のものです。ですから、「もうかった」ともいかず(「儲かった」んじゃなく、「もう買った」)、これはお返ししたいと思っていましたが、その店の方がなくなってしまいました。中古レコード販売が不振だったというより、店の入っていた建物が取り壊し予定で閉じられてしまったのです。いやはやのスピンオフエピソードです。

 


 しっかし思うのですが、こういった映画などから10年ほどののちに、「ベンチャービジネス」の語を造語した一人、清成忠男氏は英語ドイツ語に堪能で、博識です。おそらく、どこかで「business venure」の語を目に、あるいは耳にしていた可能性があります。
 けれども、それをそのまま日本語になかに持ち込んでは、あまりにリスキー、あまりに金儲け的なニュアンスを避けられない、むしろ投資機関としてのventure capitalの連想で、small businessの語と組み合わせ、ベンチャー・ビジネスとした方が受け入れられやすいと考えたのではないでしょうか。新事業の挑戦性や革新性を強調するものとして。


 これはぜひ、ご本人の「証言」をいただきたいものです。私は清成氏と仲が悪いわけでも何でもなく、一緒の部屋に泊まったこともあるくらいですし、近年は同氏の後釜として、ある選考委員会の委員長を務めさせていただき、その表彰式でご一緒したりしているくらいです。その前は、別の組織の評議員会で同席していました。

 ただ、清成氏は私に対し、ある恨みを持たれている恐れがあります。これは多分に誤解、ある曲折の経緯からであり、決して私のせいではないのです。責任逃れなどではありません。これをぜひ清成氏にご理解いただきたいのですが、無理なことかも。
 私としては、どうしても経過を書き残しておきたい事実ですね。




べんちゃあからすたあとあっぷへ

(2021.05.12)


 「べんちゃあ」談義ももうネタ切れ、打ち止めかと思えば、最近また、別の傾向に気がつきました。
 それは、「スタートアップ」なる表現です。「ベンチャー」ではもうイメージが固定化されすぎ、またいかにもリスキーなニュアンスが拭えないのか、新たに誕生した企業に「スタートアップ」なるカタカナ語を冠する、という傾向です。

 いや、世界中で通用しない「べんちゃあ」に比べ、この方が通じますよ。ウン十年も前から、新たに生まれた企業、ないし起業すること自体をstart upと表現するのはごく当たり前の英語表現だったんですから。ですから、私としてもまあ安心かな、と思えば、どうも微妙に違うらしいのですな。

*私が80年代英国での「中小企業熱中」の機運、それに伴って強力に推進された、「失業者に起業を促す」政策(主には、EAS: Enterprise Allowance Scheme「企業開設手当」制度)の動向と実態を調査研究して記したのが、'First Impressions: A preliminary report on a research into small business policies in Britain'(『駒沢大学経済学論集』第20巻2号、1988年)、および 「英国における『中小企業政策』と『新規開業促進政策』」(1) (2)(『駒沢大学経済学論集』第20巻4号/第21巻1号、1989年)、でした。これらをお読み頂ければ、当時start-upの語がごく当たり前に使われていたことがわかりますし、後者の論稿の英題は、On British small business policies and new start-ups in the 1980s と記しました。拙稿依拠で恐縮ながら、これがフツーの言語感覚だったのです。


 辞書を引いても、start up とは、「始める、始動する、作動する、エンジンをかける/操業を開始する、開業する」といった訳語が載っており、さらにハイフンが入って一語になると、start-up:「開始、起動、始動、立ち上げ、新興企業、新規事業、成金(産業)」といったところで、それ以上でも以下でもありません。私が事例研究したのは、英国政府の支援を受け、失業状態から起業した人たちでした。



 ところがこの頃、どうもまた、「和製語」すたあとあっぷというのが誕生したらしいのです。

 ググってみると「日本ではスタートアップを「比較的新しいビジネスで急成長し、市場開拓フェーズにある企業や事業」として使われています。つまり、「非常に高い率で成長し続けるビジネス形態」であれば、会社の規模や設立年数は関係なくスタートアップと言えるようです。また、スタートアップする起業家は“今までに無いイノベーションを起こし世の中を変える事”を目的としていることが多いです。」てなことが書いてあるのです、堂々と。


 え、え、えええええ?ですな。またも和製造語の登場です。だから、ろくに職もないので、とりあえず食べるために起業しました、なんちゅーのは、まちがっても「すたあとあっぷ」ではありません!!???
 ただ、さすがに「べんちゃあ」との区別に困ったか、べんちゃあは新技術新製品をもとにした急成長新規企業、またベンチャーキャピタルなどからの投資を受けている、等々で「差別化」を試みているようです。でもやっぱし、判然とはしませんが、それ以上に「設立年数は関係なく」となれば、創業百年のスタートアップだの、なんやもうわけわからしませんわな。


 ま、世間では例によって、どっかで仕入れてきたカタカナ言葉でエラソーなもの言いし、「カリスマ」だの権威にだのなる、ただしそれには賞味期限あり、まあそれでもいいのでしょうが(その典型は「ノマド」騒動ですが、2021年のアカデミー賞受賞をもって、騒動には終止符を打たれてしまいました。「ノマド」って、一つの職場にとらわれず自由にいろんな場に行き、PC一つで仕事するかっこいい働き方じゃなくって、さすらいの放浪プロレタリアート(プレカリアート)たちだった!?)、呆れるのは、「学問してる」はずの学会誌掲載論文等に、こういった「スタートアップ」を冠するご高説が堂々と載るようになっている現実です。もちろん、「単なる」起業、新規開業の意味じゃなく「スタートアップ企業」=「ひと味違う」急成長、新市場開拓などで注目される存在をとらえている、位置づけている(つもりな)わけですよ。


 正直言って、引退した老研究者としては、まさに絶望あるのみです。またやるんですかね、おーべいに行って、「にっぽんのスタートアップはかくも優れた経営で成果を着々とあげている、この数字でそれが証明される」なんてぶち上げ、「え、にっぽんではそんな企業ばっかし新たに生まれているの、まさに恐るべしだ、でもどうもマクロな数字には全然表れないし、開業率は低いまんまとも言われるけど、どうなってんの?」なんて突っ込まれたりしてね。


 ともかく、カタカナ言葉はなんか「新しい」、そういったイメージが先行し、内輪で再生産されていく、それが「閉ざされた世界」ニホンゴの中でだけならいいんですが、なまじ「国際化」に向けて乗り出すとなると、コミュニケーション障害の壁にぶち当たる、まあそうなれば、「それってこういう意味だったんだ」とか、あらためて自覚ができていいのかもね。
 だあるまさん、だああるまさん、にらめっこしましょ(悪意ある誹謗中傷です)。



*ちなみに、上記の「失業者にお金を出して起業させる」EASの後継として英国政府が90年代に設けたのは、Business Start-up Scheme「開業手当制度」であります。こんどは支給対象は失業者に限定されませんが、支給額は週£20〜90でした(すたあとあっぷにはしょぼすぎ!)。詳しくは三井稿「今日の英国中小企業政策」(『駒沢大学経済学論集』第30巻2・3合併号、1999年)。


追記

 こっから先は、私の空想(妄想)の産物です。


 単に「起業、開業」の意味しかないstart upに、「新しいビジネス」「急成長」「市場開拓」だのといった形容詞三乗くらいを重ねるに至った、その経緯には、やはり「あっぷ」とか「すたあと」といった語の及ぼす語感、フィーリングがからんでいるのではないでしょうか。なんせ、「アップ」ですよ、とりあえず食べていくためなんて、淋しさそのものじゃいかんわけで、「上げ潮」の象徴じゃないといけません。もちろん「スタート」である以上、華々しくすたあとを切っているのじゃないと、様になりません。

 かくして、「すたあとあっぷ」の和製造語が半世紀ぶりに誕生したわけですが、まああっぷあっぷしなくても、エイゴ文化との「カルチャーギャップ」にまたも苛まれる定め。



 たまたま、チャネルザッピング(古い)していたら、日本を代表する国営放送局えんえっちけいとかいうところの「ワールド」放送チャネルで、みごとに「start-up venture」とやっていました。なにか、この国で新たなビジネスを起こした実例の話しのようでした。
 いよいよ、世界をリードするニュービジネスとイノベーションの国らしく、新旧合成語を全世界に発信しているようです。なんせ、エイゴ放送チャネルなので。




(2022.3.22)

追々記

 ご存じの方は当然ご存じなのですが、世界中で「起業」というのはstart-upと英語表記されてきております。にっぽんももちろん例外ではなく、2002年に中小企業庁が出した、起業支援のためのパンフレット、『創業支援のエッセンス』には「The Essence of Start-up Support」が副題に記されているくらいです。

 これは私もそうで、当時担当していた非常勤科目「起業論」(専修大学大学院商学研究科)で、用意した授業資料等にも「スタートアップ」と記しておりました。履修した学生諸君の作った授業用提出物にも、「スタートアップ企業のパフォーマンス」という、調査データ資料の分析が掲載されております。このくらい、当たり前の言葉だったのです。

 実はこれ、紙屑とゴミの山と化している身辺整理、処分の中で、たまたま発掘をいたしました。まあ、たまにはゴミの中からなにか役に立ちそうなものも出てきます。

 にしても、ですねえ。「べんちゃあ」以来、なぜかカタカナ言葉で、もっともらしい「新語」を用いないといけない、不思議なこのクニです。「グローバルスタンダード」にそれだけ逸れている現実を立証するものでもありましょう。「起業する」のがそこまで特異かつ突出した出来事であるという。



 おりしも、マスメディアを賑わしたものが、某保険会社の実施した「青少年の意識調査『大人になったらなりたいもの』結果」でした。要は、小学生から高校生まで、圧倒的に首位を占めるのが「会社員」だったそうな。どだい、これ自由記入じゃなくて予定用意された選択肢項目を選ぶ方式と思われ、そこに「社長」もあったのかどうか甚だ疑問である上、「会社員」なんて「職業」なのか、仕事内容なのか、「業界」なのか、まったく意味不明でもあります。順に「会社員 、YouTuber/動画投稿者、サッカー選手、ゲーム制作、野球選手、鉄道の運転士、警察官、公務員、料理人/シェフ、ITエンジニア/プログラマー、教師/教員」などの順番だなどとされれば、もうハチャメチャ、「鉄道運転士」は会社員だよね、「ITエンジニア」もだいたいそう、などなど突っ込む気力も失せる、いい加減ぶり。
 よーするに、昔の言葉で言えば「サラリーマン」、ただ、これだと男女均等原理にもとるだけじゃなく、どうも手垢つきすぎの古語にもなっているので、無難と考えて「会社員」にしたんでしょう。けれども、それで「公務員」だのは入らなくなってしまいました。「会社」に雇われていないとね。

 しっかしまた、「社長」と「社員」は排反事象であるだけじゃなく、「ゆーちゅーばあ」だの「野球選手」だのの多くは、実は「自営業者」なんだという、統計上の分類、また法制上の扱い、どこまで意識されていたんでしょうかね。しかもいま、「フリー」ないしは「ギグワーカー」で、被雇用者ではないが、実質的にもほぼそれに近い立場の人々が世界中で著増している、明白な現実があるのです。雇用関係を持たず、賃金を支払われているのではなくても、現実には一つの事業体からの仕事に完全従属して働き、その報酬で生きている、でも「会社の一員」とはされない、そんな立場の人たちが、デリバリーやらIT分野やらで多数おり、被雇用者数に匹敵する存在になりつつあります。EU欧州連合では、こうした人々を「プラットフォームワーカー」と呼び、労働者の権利保護に近い対応をすべく、強制力ある「指令」(Directive)を出しました。


 そんな「世界の現実」とかけ離れたところで、若い世代が「将来は会社員」と見通し、それを目標に生きているクニ、まあそれじゃあ、べんちゃあだろうが、すたあとあっぷだろうが、出てくるわけはないですな。




 ただ、どうして「スタートアップ」なる言葉がこの国で一人歩きを始めたのか、おのが手持ちの資料などをひっくり返すうちに、その経緯がわかってきました。

 ルーツは2005年制定の「中小企業新事業活動促進法」に遡ります。これは、以前からある「中小創造法」(1995)、「新事業創出法」(1997)、「経営革新支援法」(1999)を統合し、新事業の推進のための「新連携」(諸方面からの多角的な連携・支援と、コア企業の存在を重視した有機的連携体制構築)を主眼としたことが看板でした。他方で、ここでは創業塾開設、「ベンチャーフェア」開催、「ベンチャーファンド」設立、また「1円創業」から「企業組合設立」、無担保無保証の「新創業融資」など、ハードソフトいろいろ取り混ぜ、幅広いメニューと支援対象を取り込んだことが特徴となっています。それとともに、「スタートアップ支援事業(中小企業・ベンチャー挑戦支援事業)」というのが設けられ、「優れた技術やアイディアを持つ中小・ベンチャー企業に対し、コンサルティングとともに事業化・実用化までを一貫支援する」政策が打ち出されたのです。これに初年度、42億円の予算がつけられました。

 この「新事業活動促進法」によって、「スタートアップ」の言葉が新たな意味を与えられることになったのは、想像に難くはありません。ただ、なぜ「すたあとあっぷ」なのか、その説明はありません。想像可能なのは、「ベンチャー企業」なる言葉がすでに一人歩きをしている以上、それだけ、じゃあない、既存の「中小企業」も新技術やアイディアに挑戦をするのを期待しますよ、とした、そうなれば新しい表現が要る、ということで、役所のなかだか、ブレーンだかから、「すたあとあっぷ」がいいんじゃないでしょうか、というご注進ご提案があったのでしょう。


 しかしながら、start-upとは新規開業すべてを指す、ごく普通の表現なんだという世界公準をなんであえて無視したのか、あるいは知らなかっただけなのか、その辺はなんともわかりません。けれどもともかく、これを嚆矢として、以降「スタートアップ」の語が一人歩きを始め、ついには上に指摘したように、「創業百年のスタートアップ」なんていうのが可能になってしまった次第です。そして、「新市場開拓」とか「急成長」などというのがもっぱら強調されるに至ったわけ。でもね、まあ英語の試験だったら、私はそんな「訳」には×をつけますですよ。それはにほんごだもんね。

 ま、こんな私のつぶやきぼやきもむなしく、いまや「すたあとあっぷ」の言葉が至る所に氾濫をしております。

 経済同友会というところは、「スタートアップ企業での労基法・残業時間制限を緩和しろ」と叫んでいるんだそうな。それが開業促進に何の関係があるのか、すたあとあっぷで働く人間は24時間仕事するスーパーマンかリゲインマンだという新定義が生物学生理学的に認められたのか、寡聞にして知りません。要するに「あれも例外、これも例外」と、カンワカンワの突破口にしたいわけ(SDGs・ダイバーシティの時代に、2周遅れの猛者ぶり)。なんとも凄いクニだね。



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