論 文 の 書 き 方


<改訂新版二版>

(2005.7)


 
                        

横浜国立大学 三井ゼミナール

 
 
 
 論文の書き方については、一定のルールというものがあるし、またその書き方により、内容の良し悪しもある程度決ってくるものである。さらに、こうした論文の書き方は、将来さまざまな仕事の場においても必ず必要となる知識の一つでもあるから、しっかり身につけておくことが大切だろう。ここでは、そのために最低限必要と思われる事項を列挙してみた。

 なお、これは元来学部の卒業論文のレベルのものを念頭に置いて書かれているが、もちろんその考え方やルールは、レポート、大学院修士学位論文など、どのような場合でも同じである。それを前提に以下は増補拡充してある。

 
 
I.手順
 
(1)論の全体構想を立てる
 
@論文とは、自分でQ&Aをすること

 「論文を書く」というのは、「○○について」(つまり「対象」にして)何かを書くということではない。「対象」は不可欠でも、そこに自分で何かの「問いかけ」=Question (本来Research Questionと言う)を発し、それに対してまた自分なりの「こたえ」=Answer を導き出すことである。この「こたえ」を出すだしかた、そこにさまざまな材料が使われ、「検証」「証明」の方法がそれぞれ用いられ、自分としての「論理」=筋道が立てられ、納得のいくようなやり方で、自分の主張としての「こたえ」に行きつく、このプロセスを表現したものが「論文」なのである。

 だから、「自動車産業のマネジメントについて」書きます、「インターネットオークションサイトについて」研究します、というのでは、何ら「論文」に取り組んだことにはならない。その「自動車産業のマネジメント」のどこに「クエスチョン」があるのかが問題である。たとえば、「マネジメント」のうちでもサプライヤマネジメントが対象である、それについては「1990年代と21世紀とでどのような違いが生じたのか?」、「なぜ変化がおこったのか?」とか、「『モジュール化の展開』というのが、『日経』によく書かれているが、それは事実なのか、あるいは『経営学的に』意味あるもの、議論に耐えるものなのか?」といったように「論」をたててこそ、「論文」になるのである。同じように、「インターネットオークションというのは、これこれのものを言い、これから大いに成長が期待されるそうです」というのも、「解説記事」の単なる「受け売り」であって、研究「論文」ではない。少なくともまず、「本当にそうなるのか?」「それは経済社会的にどういう意味を持つと言えるのか?」と問いかけ、自分でいろいろ考え、主張をしてみる、これではじめて「論文」を書いた、と言えることになる。

 
A「問題意識」を鮮明に

 したがって、これが一番大変なのであるが、なにより大切なのは「問題意識」である。もちろん大げさなことを考えて息切れしてしまってもいけない。企業内などでのレポートのように、課題がはっきり限定されている場合はまだしもとして、自分ですべてを決めていかねばならないとなると大変迷うことが多いが、学部の卒論に求められるレべルから言えば、研究水準の高さや内容の緻密さよりも、この問題意識の鮮明であることの方が大切であろう。問題意識があってこそ、はじめて「何かを」「論じる」ということの意味も生れるのである。さらに大学院での修士論文、博士論文ともなれば、問題意識が鮮明であるだけではなく、学問的に意味がある、学問の進歩に貢献がなせるという先進性・独創性・新規性が不可欠である。そのためには、あとでも見るように、「先行研究のリビュー」をおこない、到達点を明らかにすることが前提となる。

 だから、学部の卒論研究に取り組むには、常に事実を耳や目にしたり、ひとと話をしていたり、講義を聞いたり書物を読みながら、あるいはTVニュースなど見ながら、「なぜなのだろうか」「果たしてそうなのだろうか」と考えていくことが大切である。いつもこういったアンテナを張っておく、自分の「問題意識」感性をとぎすませておく、これあってこそ、「論文」にしっかり取り組めるだけではない。人生のあらゆる場面で、より賢く生きる、よりしっかりと仕事に取り組む、それはあらゆるものごとへの「関心」と「問題意識」の強さ鋭さによっているのである。

 
B風呂敷は畳んでいくべし

 その上で、実際の論述をおこすにおいては、どこまで課題・問題を狭く絞り込んでいけるかが勝負である。1つのことをいろいろ考えたり、関係するさまざまな記述や資料を読んだりしていくと、自分の関心はどんどん広がり、また知識も極めて幅広くなっていくことに気づく。それはそれとして面白いのだが、そのままでは「論文」にはならない。その中から本当に自分の言いたい点、また整理されてきた点のみに論題を絞り込んでいくことが非常に重要なのであって、これなしには論述は必ず失敗する。「風呂敷を広げてはいけない」のである。

 こころざしは大きく、また知識欲は旺盛に、でいいのだが、それだけでは「論文」の完成には行きつけない。自分のノートや読書録、スクラップブックは大いに充実させるべし、何でも記しておくべし、でも「論文」は自分なりの「こたえ」を出そうというのだから、「あれもこれも」ではこたえの出しようもなくなってしまう。どんどん風呂敷は畳んでいき、「一点集中」的に自分の主張を示すべし、なのである。

 
C「リビュー」は大切

 あるいいはまた、そのせっかくの問題意識に関わる点について、すでに内外の多くの学者・研究者などがきわめて多くのことを調べ、述べていることを知り、いささかガッカリすることもある。その時にも、いたずらに素朴な「オリジナリティ」を求めてもあまり意味はない。学部卒論のレべルから言えば、こうした場合にはそれらの諸研究・諸見解などを自分なりにフォローしていき、自分できちんと整理し直し、あらためて論点や対立点、未解明の点などを鮮明にしていく、という、いわゆる「研究の整理」や、「リビュー」の形でまとめていってもよいのである。

 そうしたものは価値が乏しいどころか、むしろ非常に高く評価されるものでもある。もちろん、自分にとっては大変良い勉強になるし、優れた整理能力を身につけられる。欧米の大学などでの「卒業論文」「学位論文」の作成には、そのテーマや分野に関する基本的な必読文献のリビューが最低の条件であり、それなしに「論文」を書きましたなどということはまったく認められない。大学の場での「研究指導」というのは、大部分がこうした研究リビューの指導であり、多くの文献などを読みこなし、自分の頭のなかを整理し、これまでの研究状況と到達点を自分なりに描き出せることが要求される。それができたうえで、「これまでの研究を越えるものは何か」と、新しい「研究」とその成果としての「論文」作成の意味が、はじめて認められるのである。

 そこまでいかなくても、もっとリビューをだいじにした「論文」作成のスタイルが、日本の大学でも一般化されるべきだろう。

 ともかく、いくら学部の卒論であっても、ひとの研究や論文を下敷きにした盗作まがいの代物を書くより、ましてや、どこやらの「早わかり書」「入門書」の話を手っ取り早く受け売りするより、こうした「リビューにこそ力を入れる」展望で臨む方が、何十倍も良い論文となる。そして書ききれなかったこと、言い足りなかった点は、あとで述べるように、結論後の「残された課題」にしていけばよい。

 

 大学院での修士論文・博士論文研究においては、こうした「先行研究のレビュー」は当然の前提である。学問は積み重ねであり、これまで内外の学界でどのような研究がなされ、どのようなことまでが明らかになったのか、どのような考え方・主張がなされ、どのように議論が展開されているのか、これがすべての出発点である。「研究指導」の原則は、これを示し、学習と理解を促し、新しいリサーチクエスチョンのたつべきところ・位置づけ、ねらいと追求すべき方向を示すものである。

 もちろん、修士論文などがリビューだけで終わってしまっても困るのであり、そこに「新しいこと」が加わらなければ研究にならないのだが。

 
(2)研究の方法を定める

 「学問」の方法は単一ではなく、社会的研究でも、論理性研究(数学的手法を含む)、解釈論、統計・計量分析、数量的実証、比較制度論、システム論、歴史的資料研究、事例研究(フィールドワーク)など、さまざまなアプローチが考えられる。そうした方法的リベラルさも大事ではある。しかしそれにあぐらをかいて、いい加減な方法で批判に耐えないものは学問になれない。それはまた、単なる「読み物」や「記事」などとの決定的な違いにもなる。その意味では、「サーベイ論文」(きちんとしたリビューの積み重ねにもとづく、論点整理や研究の到達点明確化をねらいとする「学界展望」的な論文)もある程度ありだが、研究自体の「新規性」に到底適わないレベルであれば、それだけでは「研究論文」にはならない。

 したがって、「研究」の多くはこの方法の模索と確定、それを応用したさまざまな作業の積み重ねにあてられる。期待したような成果がただちに見られるとは言えず、ときにはその方法自体を問い直し、別の研究方法に転じることも必要になる。そうした困難かつ多大の労力と資源投入を要する作業が研究なのである。


 「研究方法」についてはここでは詳しく触れないが、哲学、学問的な見地や立場、科学観や世界観、価値観といった意味での「方法」と、具体的なメソッド、研究の手法や分析方法、調査方法、論述方法といった意味での「方法」の二つが考えられる(後者においてもさらに、研究自体の全体的な方法を確定するという意味と、個々に用いる実験・書面調査・統計数値・資料解読・面接聴き取り・参与考察などの手法、そしてこれらの結果の分析解明・記述法といった意味とに、区別も可能である)。いずれに関しても、学問は本来的にリベラルな存在であり、特定の方法以外の存在を拒絶するといったことであってはならないし、大学はそうした意味で「学問の自由」(academic freedom)のうえに成り立っている。しかし、どのような立場であれ、学問的な検討や批判に耐えない、論理性を示せない「主観」「独断」がすなわち「科学観」にとして受け入れられるものではないし、研究のメソッドにおいても、それだけの方法的明確さと首尾一貫性、客観性は要求される。そしてその方法は論文を読むものに理解可能な形で明示されなくてはならないし、関連する情報、たとえば数値の根拠・出所・計算方法といったものは明らかにされなくてはならない。 こうしたことは以下で見るように、論文構成の冒頭で、問題意識と研究対象、そして自身が焦点を当てるポイントである「視角」(viewpoint)などともに明記することが必要である。


 そして、望ましくは学問の発展に寄与するという意味での方法面での斬新さやラジカルさも期待される。


◇「仮説」(hypothesis)の功罪

 欧米で「制度化された」経済学や社会科学の影響がグローバリゼーション下に広がり、あたかもそれが唯一「学問的」「科学的」なスタイルであるかのような幻想や偏見が振りまかれている。そういった「方法」からの一見「美しい」論文などが蔓延し、学界の「権威」とさえなる一方で、それらは結果的にはほとんど意味のあることを述べていない、ばかばかしくて誰もまじめに受けとめられない、「世の中」の多くはその「有用性」さえ認めない、こうした現実はまことに寂しいものである。

 そうした単純無垢な「形式合理性論」や「数量還元万能論」はまた、「論題→仮説→変数設定→計算・検定→仮説の採択ないし棄却」というかたちでないものには拒絶反応を示すといった「仮説主義」(森靖雄氏による)の流布も招いている。自然科学的な(それも実際にはその一部の方法論でしかないが)研究と推論と、純粋条件化・変数要素限定・実験・結論方法が社会的事象やそのしくみや人間行動などにもそのまま当てはめられるというような、悪しき「実証主義」の陥穽である。


 もちろん、そういった偏見をこえ、さまざまな研究対象に対し自由に迫るについても、「仮説」的な設定や、これを持てる想像力構想力は必要である。どのような「現実」を対象とするのか、なにをそこに見出すことができるのか、その背後にある諸要因や「現実」自体の客観性、その構造性、変化などをどのように論理構築できるのか、そしてさらにどのような「問題」に議論は発展しうるのか、こうしたことをみずから描き出し、自分の頭の中で組み立て、諸議論などを動員応用しながら、現実の中での検討と検証作業を積極的に推進する力が必要なのである。「仮説」はそうした知的な作用の重要な一部を構成するものである。



(3)「題名」を決める

 よい論文は、ほぼ間違いなくその題名を見るとわかる。題名がその価値の半ばを決めていると言っても言い過ぎではない。要するに題名というのは、その論文の問いかけている基本的なクエスチョンと、ねらいとするところを、一言で表現しているはずなのである。

 逆に、曖昧で漠然としたもの −−たとえば、「企業について」とか、あまりに一般的すぎてねらいのわからないもの −−たとえば、「経済政策」とか、なにを論じようとしているのか判明しないもの −−たとえば、「日本の自動車と世界」などといったものではよくない。執筆者の意図をすぐに理解できるものがよい。また、あまりに大袈裟で、「鬼面人を脅かす」がごときもの −−たとえば、「世界経済の危機における日本資本主義と資本賃労働関係」というようなのも、学部での卒論等としては考えもので、「羊頭狗肉」にもなりかねない。論文のための研究を進めていく中で、「風呂敷を畳んで」いけばこそ、論文全体のねらいは、より具体的で、よりはっきりしたものになっているはずである。

 題名のうちで、自分のねらいがはっきり示されるためには、どうしても相当長くなってしまう、そうでないと、非常に抽象的な表現の題名にとどまってしまうという悩みもある。そうした際には、サブタイトルをつけることで、二段構えで内容を示すというのも、一つの方法でもある。「戦後第一次ベビーブーム後におこった少子化と、近年の少子化の及ぼす影響についての比較」、これでは長すぎて、かえってよくわからなくなってしまう。「少子化の及ぼす社会的影響 −第一次ベビーブームと近年の比較検討」、こういった二段構え表記で、論文のねらいはわかりやすくなる。

 良い題名は、他の著作や論文などに学んでつけるのもよい。

 
 
(4)全体の編別構成を作る           

 論文の「骨格」にあたる全体構成(具体的には、目次)の組立てが、きわめて重要である。「骨格」なしには、「論文」は組み立てられないし、この構成こそが、自分の検証・証明の筋道と、論理を示すものである。極端な言い方をすれば、「題名」と「編別構成」がしっかりできあがれば、もう論文は半ば完成したようなものであって、あとはそれにどう「肉付け」していくかである。

 目次のつくり方は一般の書物などを参照して、これにならうとよい。大項目から組立て、中項目、小項日と細分化していく。そして、それぞれの中で書こうとする内容の概略を考え、メモしていくと、書き易くなる。それに合せて、自分のノ―トや下書きを整理していけばよいのである。      

 某大学経済学部の公定書式では、
 1.[章]                       
  (1)[節]
   (A)[項]
 といった項目の組方をしているが、これはあまり一般的ではない。

 一般には、
 I.[部or章]      
  1.[章or節]
   (1)[節or項]                
    a)[項or目など]
といった組み方が多い。しかしこれは好みの問題でもある。

 要はこの構成のしかたで、論文の内容は半ば決るのであり、もっとも大切なところであるということである。あとの肉付けは、どこの骨の部分から始めてもいい。骨格がしっかりしていれば、どこの途中から書き込んでいっても、完成すれば、きちんと筋の通った論文になるはずである(もちろん、以後何度も読み返しての話だが)。

 
 
(5)「起承転結」のある記述をしていく

@まず、「問題の所在」「研究の対象・視角・方法」を

 組み立て方にも関わるが、全体の書き方としては、おのずと流れというものがある。「骨格」としての「編別構成」は、この流れを表現しているはずである。

 初めには、研究の位置づけ、問題意識、当論文のリサーチクエスチョンの所在、そしてそれを取り上げ、議論検証するやり方、つまりこの論文で「何を、どういう立場から、どのようにして」論じようというのか、はっきりさせることである。これはよく、「問題の所在・限定」「対象と視角・研究方法」などどいう形でも用いられる。何を、どのように論じようというのか不明なまま始まってしまうというのは、許されないことである。またあまりに大きすぎることをいきなり取扱うわけにもいかない。

 この導入部が明快であると、おのずと結論のあり方も見えてくるものである。


*なお、ここで「起承転結」と言っているのは、小説のような流れと、やがて訪れる波乱、そして感動させる結末といったスタイルを指しているのではない。学術論文は当初の「問題の所在、対象と視角、研究方法」といったところで、なにを結論とするのか自ずと見えているものであり、ハラハラドキドキというものを期待させてはむしろいけないのである。そういった意味ではなく、基本的な組み立てと流れが当然必要であるという意味である。

 
Aストーリーが見える、つながりが見える

 次に、具体的な論述については、論旨をきちんと受継いでいきながら、一貫した流れをつくっていく(つまり、ストーリーがある)ことが必要である。この流れに対し、無駄なことはできるだけ省いた方がよい。どうしても別のことを差しはさんでいく必要のあるときは、そのことを明記し、また「補論」などという形ではさんでいくのもよい。そして各項目毎に締めくくりをし、場合によっては、要約的な記述や、「小括」といったものをつけていくのも読者に親切であるし、自分にも論旨を整理しやすくなる。

 また、各項目の間での記述のつながりを作っていく上で、「キーワード」(論中の手掛かりとなる重要な言葉・概念)をうまく活用していくのも工夫の一つである。

 それぞれの記述はわかりやすく、明快にし、なるべく「箇条書き」方式を用い、そのつど整理をしていくとよい。「論文」では美文が必ずしも必要なのではなく、わかりやすさ、曖昧な点のなさがだいじである。

 
B「結論」はとってつけるのではない

 Questionに対するAnswerとしての「結」論部分は、もっとも大切なところであることは言うまでもない。「結論」がなければ、何かを「論じた」ことにはならないのであって、どのような領域や分野の研究でも、「結論」がないものなどというのは認められない。小説や随筆とはそこが違うのである。

 しかしまた、それはそれまでの記述を整理し、明らかになったことを明示したものであってよいのであって、無理に「まとめて」しまったり、「とってつけたような」月並みなことを述べる必要もないのである。これまでの記述のなかでそれぞれ示されてきた結論部分をもういちど再構成したものが、論文全体の「結び」であって悪いことはまったくない。

 よく、必ずおしまいには「・・・・・・への展望」などと書かないと気の済まぬ人がいるが、これは悪い癖である。いい加減な「結論」は、逆に全体の価値を損なうものである。むしろここでの研究や論述で、何が、どこまで分ったのか、と明示する方がよい。そして、終りに「残された課題」を明らかにする、ということが必要である。自分のおこしたQuestionに一つの論文がすべてのこたえを出したものとは言えないのが通常である。きちんと研究に取り組めば、むしろ新たな課題や自分の研究の方法的な限界などははっきり見えてくるものである。何がまだ検討されていないのか、どのような方法を新たにとるべきなのか、といった点を明示するべきである。

 要するに、わからないことはわからない、というように示す方がよいのである。

 なお、場合によっては、最初に「結論」を述べてしまい、「その根拠は・・・」という形で論を展開していく「倒叙法」も考えられる。ただしこれはなかなか難しい書き方になる。

 ただ、多くの学術論文はその「要約」を冒頭に掲載することが必要条件となっているので、当然そこに「結論」も示されていることになり、一種の「倒叙法」となっているように見えないこともない。ただし逆に、「要約に書いてあるから」と、本来きちんと記されなくてはならない、問題の所在、対象と視角、研究方法、そして結論といったものを「省いてしまう」というのもルール違反である。

 
 
 
 

U.表記方法                           

 
 原稿用紙など(原稿用紙を用いるのが原則である。いわゆる「レポート用紙」などを用いるのは、読み手に対して失礼である。これでは非常に読みづらいし、字数などをきちんと計算することが全くできない)に書いていくについても、一定のルールがある。もちろんPCやWPで書く場合、こうしたルールが自ずと守りやすくなる機能があるが、ともかく原則は同じである。これは、編集・印刷・校正などの仕事のうえでの約束事でもあるので、しっかり守らねばならないのであるが、守っていない例が実際には少なくない。

 
1.本文の書き方

          
@文頭は1マス空ける。

 
A「、」「。」「・」は、文字と同様1マスずつに書き入れる。

 
B「」、『』、()、[]、<>などもそれぞれ1マスずつ用いる。    

 
C「注」は、マス外の該当個所のうえに、(1)などのように書き込んでいく。通し番号で示しておき、文末、章ないし節末、あるいは本文の各ページの下の欄外などに、一括して示しておくのが通例である。

 
D「、」「。」が改行した次の行の行頭にいってしまう場合には、特例として前行の終わりの欄外に付けておくことができる。これを、「禁則処理」の原則にもとづく、『行頭禁則文字』の「ブラ下げ処理」という。印刷物において、これらははみ出して印刷されるのである。

 」、』、]、> なども、『行頭禁則文字』に入っているが、原稿のうえでは必ずしも実行されず、印刷段階では字詰めにより前行内に納められることも多い。

 『行末禁則文字』として、逆に次行に送られて付けられる原則のもの −−「、『、[、< などもあるが、原稿の中では必ずしも守られてはいない。

 なお、こういった「禁則処理」は、WPソフトなどでは通常オプション指定ができるようになっており、機械やソフトが自動的に処理してくれるようになっている(印刷上がりと同じように仕上がる)。

 
E図、表などには通し番号を打ち、必ず本文とは別の紙、ページに貼り込みないしは書き込みをする。そしてその通し番号で、本文中に表記または引用する。本文と同じ紙のなかに貼り込んだりしてはいけない。これは、その原稿で印刷をする際には、文章(文字)部分と図表部分では、違った作業処理をするためで、それが一緒くたになっていると、取り扱いに非常に困るのである。

 現在のWPソフトでは、文中に自由にレイアウトが組め、図表などのグラッフィックデータを文字ページ中に貼り込むなどの作業が、画面上でできるようになってきた。「版下」作成に至るまでの印刷会社の作業と同じようなことが可能になってしまったのである。ただしこれは、そのプリントアウトそのままをひとに見せる目的とか、それをもう直接版下にして、印刷をしてしまう場合には適しているが、あくまで印刷のための原稿として取り扱う場合には、原稿用紙の扱いと同じ問題を生じる。やはり、文字ページと図表ページとは別々にし、印刷会社の処理と割付・レイアウト作業に任せるべきである。そうでないといろいろ混乱や誤解を生じることになる。

 なお、数表類は通常「表T−2」などと記し、グラフ、チャートなどの図は、「図T−4」などと、別々に通し番号を打っている形式が多い。英語では、前者はTable と言い、後者はFigure と言うのである。

 図表の紙にも、ページナンバーは入ることに注意(文章ページとともに、すべて通しで打つ)。図表のページは、該当個所近くの本文ページの間に入れたり、あとに一括して並べたりする。印刷会社にとっては、レイアウトを組む関係上、図表をおくべき場所がわかるので、前者のやり方の方が楽だが、複雑なレイアウトを各ページに組むのは手数がかかるため、印刷コストを安くあげるには、後者のやり方にしておき、文章部分はそのままとするという考え方もある。

 
F文の段落(U−E参照)では、空きマスを残して改行をし、改行後の文頭を再び一マスあける。これは大事な原則である。

 逆に、段落でもないのに、意味もなく、「。」後を空けてあったりするのも誤りである。こういうことをされると、印刷会社では非常に困るものである。

 
G英文、数字などは、必ずしも1マスに1文字としておく必要はない。これらの文字を印刷する場合、かな、漢字より狭い巾の書体を用いるからである。1マスにつき、1.5〜2文字くらいの見当でいいだろう。

 これについては、WPソフトの使用で一気にことがすすんでいる。WPの書体では、かな漢字は「全角文字」、数字やアルファベットは「半角文字」という区別(文字コードのビット数を含めて)が定着したのである(もちろん、「全角文字」というのは、日本語WPによる「創造」であったのだが)。今ではこの字巾にあわせて、字詰め・文字送りも自動調整されているので、文を作成するうえで気にする要素はだいぶ減った。ただし、全角の数字やアルファベットを用いる際には、気をつける必要がある(これを一般の写植オフセット印刷などで仕上がった状態で見ると、ずいぶん間延びしてしまう)。また、「半角カナ」の使用は、気を付けなければならない。インターネットの世界では、半角カナの文字コードは国際共通性がないので、「使用禁止」であり、また一般の印刷物でも、写植などでは通常用いられる書体ではなく(写植だから、作字は可能だが)、混乱するおそれがあるからである。

 
H原稿用紙には必ず通し番号でページナンバ―を打っておく。図・表、注、文献表などの紙もこの勘定に含まれ、やはりページを打つ。ページを打つというのは、原稿の枚数と順番をはっきりさせるとともに、間違って漏れるページ、こぼれたページがないかどうかの確認にもなるので、だいじな作業である。

 ただし、最初におく「目次」や「まえがき」については、本文と別のものと見て、別個にT、U、Vなどの数でページを打つこともある。

 
I訂正などの書き込みには、挿入箇所がよくわかるようにし、原稿用紙のマスの上下の欄外や、両側の空所などを用いる。また、削除したところ、空きマスとなったが詰めるべきところなどは、その旨印刷作業の際にわかるように、つぶしておかなくてはならない。印刷会社では、空いたマスはともかく原稿通りに空けておく、というのがルールだからである。もちろん、清書した文中では、書き込み・訂正はなるべく少なくして、読み易いようにありたい。

 これもPCやWPの利用で、状況は大きく変わってきた。一度作った文をあとからいくらでも訂正、変更できるのがWPの利点の一つであり、最後に完成したものを清書プリントアウトすれば、完全なものができあがる。ただし、こうした作業を繰り返しているうちに、どれが訂正済みか、あるいはどこを直したのか、各ファイルや文章の扱いに混乱が起こることもある。直したところも、きれいさっぱり、訂正の跡かたもなくなってしまうのが、WPの特徴だからである。うっかりすると、訂正前のファイルをプリントしてしまったりする間違いもある。よく気をつけないといけない。



 
 
2.注・文献などの表示

 
a.注の表記

 先にも書いたように、脚注は通し番号を付けたうえ、通常、文末、章・節末などに一括して示すか、あるいは各ページの下の欄に「追い込む」組み方をする。その番号は、全編同じ数字で通すか、章などのごとに改めて、(1)から始めるかは、それぞれやり方がある。これもWPソフトなどでは、「注作成機能」で、表記方法の条件を指定することができるようになっている。

 注は印刷されると、本文よりも一〜二字分くらい頭を下げ、文字も小さいものにすることが多い。それで原稿中でも、1マス下げたりしておく。

 WPソフトの注作成機能は便利だが、これを用いた原稿をデータで印刷に入れると、編集作業の際に、注部分は読み込めないこともある。各WPのデータ形式と、独自規格の問題を見落とせない。

 
b.引用参照文献の表記

 書名などの引用表記方法は必ずしも統一はされていないが、学術論文として用いられる方法としては、下記のような「ハーバード方式」と言われるものが一般化してきている。引用・参照文献の表記について、脚注などにそのつど入れていくのをやめ、別に一括して『参照文献』(英文では、ReferencesないしBibliography)の形で示すのである。この方式は、作成するのがちょっと大変だが、読者が文献資料等を確認するのに見やすい。また、論文の本文が簡潔になり、やたら長い注などを多用することもなくなる。

 まず、必要な記載情報として、
a)著者(編者)名
b)発行年
c)文献名
d)文献の発行元・所収元 (欧文文献ではしばしば、+発行地)

 これらを明記する必要がある。

 そしてこのやり方では、文献類を著者名で整理し、これを順番に並べ(多くは姓のアルファべット順、同一人物については発行年次順)、一覧表にして後に付けておく。そして本文中で引用・参照する場合、直接あるいは注の中で、

  著著名(年次)   の形で取り上げていくのである(著者名 [文献番号]という引用表記方法もあるが、現在は一般的ではない)。

 
               《参照文献》
[1]秋田成就(1969)『労働法講義』青林書院。
[2]Dore, R.P.(1971), Japanese Management, London, Macmillan.
[3]Dore(1974a),"Industrial relations in Britain and Japan", Hitotsubashi Review of Economics, Vol.21, No.3.
[4]Dore, (ed.)(1974b), British Workers and Japanese Workers, Cambridge, Cambridge U. P.
[5]藤田至孝(1980)「日本的労使関係と賃金決定」『日本労働協会雑誌』第25巻8号。

 
本文中では、
 ……Dore(1974a)
      秋田(1969)
   …… Dore (1971: p.730)

 このようになる。

                                             
 日本での出版上の表記もこれにならう傾向にあり、すでにハーバード方式を指定している学術雑誌も多くなっている。



書名などの表記法


◎日本語文献・論文等の表記では、

 単独著作      :著者姓名(発行年次)『書名』発行所、ページ
 
 共著、主著の一部  :執筆者姓名(発行年次)「論題名」、書の著者・編者名『書名』発行所、掲載箇所(第 章)、ページ。
 雑誌掲載文     :執筆者姓名(発行年次)「論文名」『掲載誌名』掲載誌(第 巻第 号)、引用ページ。
 といったように示す。

 うえにもあげたように、発行年次の記載はきわめて重要である。省略してはいけない。

◎欧文著作の場合、
 著者、執筆者等の名前は、最近では日本語同様に姓を先にして、

 Family Name, First name(Initial),
 
と書かれるようになってきている(欧米文化が必ずしも優れていないことを示唆している)。そのfamily nameを明示するため、これを大文字で書くといった方法も最近用いられる。この方法は、日本人著者の名前を欧文表記する際に、間違いを避けるに便利でもある。また、編者の場合は、その名の後に、(ed.) ないしは(eds.) (複数の編者の場合)と書き添える。

 なお、なにを間違えたのか、欧文の著者名をfirst nameで並べている表記がたまにある。それは「あり得ない」ことである。
 欧文の著作の日本語翻訳をならべる際にも、この原則を用いるべきである。

 
 その他の書き方は、日本語の場合に似ているが、書名・掲載誌名は、印刷した場合イタリック(斜め字体)で表記する習わしになっている。そのため、原稿中ではイタリック指定として、その下にアンダーラインを引くことになっている。また欧米では、発行所名の他に、その所在地名まで記すことが多い。

 ページ表記については、英文の場合、単一のページはp. で、複数のページにわたる際はすべて、pp. で表す。

 

 以下は注などでの「そのつど引用」の旧方式の書き方に関してである。

 
@同一文献などが繰り返しでてくる場合、すべてを表記する必要はない。その場合、引用する同じ著者の書ないし論文が一つに決まっていれば、

 著作      :著者名、前掲書、 (引用ページ)。
          (姓だけでもよい)
 論文など    :筆者名、前掲論文、 (引用ページ)。
のみで済ませられる。

 
 同一著者の著作が複数出てくる場合も、その『書名』ないしは「論題名」だけの表記で済み、発行所、発行年次、掲載誌名などまで繰り返し書く必要はない。

 さらに、続けて同じ文献などが出てくる場合は、著者名も略し、
         同上
のみで済ませられる。

 
A本文中でも同じであるが、欧文では一つの単語を書き記しているうちに改行になってしまう場合、"-" ハイフンを行末に付けておき、次の行の文字とつながっていることを示す。ただし、これはシラブルの切れ目を用いるとか、原則として語頭より三文字以内は避けるなどのさまざまなルールがあり、やっかいである。

 数字の場合も同じであるが、改行が困る場合、その行末を空けておいて、次の行から単語を書いてもよい。

 こうしたルールは、欧文WPが持つ、ワードラップとか、ジャスティフィケーション、オートハイフニングなどの機能で、自動的に調整され、気にする必要がなくなってきた。

 
B欧文文献での繰返し表記では、日本語の 前掲書・前掲論文 に当る語として、
 
  0p.cit.
 
が、また 同上に当る語として、
 
  ibid.
 
が用いられる。



V.文章の書き方

                     

 
a.文章には「主語」「述語」がある

 日本語はあいまいな言語なので、特に話し言葉の場合、主語がなくなってしまったりしても意味は通じるものである。書き言葉でも似たようなものだし、そうした書き方で効果をねらう場合もあるが、少なくとも論文ではそれは感心しない。必要なかぎり主語は示すべきである。

 また、「主語」と「述語」の対応関係がきちんとしていないものも見受けられる。とりわけ、一つの文章が長くなってくると、それが起こりがちである。そうしたことを防ぐには、今一度主語と述語部分を直結してみればよいのである。間違いにすぐ気づくであろう。

 
b.「文体」を統一する 

 一つの文章で、文体(語尾)が統一されていないものがよく見られる。一般に、「・・・です。」「ます。」、「・・・・・・である。」、「・・・・・・だ。」といった文体が区別されて用いられており、他からの引用でない限り、地の文でこれらが混合されてはいけない。語尾以外でも、代名詞(私、自分、僕、我々、筆者など)や固有名詞、略称など、文章が長くなってくると不統一になる恐れがあり、注意が必要である。

 
c.「俗語」「流行語」を乱発しない、「幼児表現」を使わない

 好き勝手なことを書くとか、あるいはシナリオや文学的表現に工夫したものというならいざ知らず、学術論文や一般の文書、報告書などにおいては、用いる語彙にもおのずと節度があり、意識しないで流行語や俗語を濫発した文章では顰蹙(ひんしゅく)を買う。また、幼児的な表現に気づかない人もいる。

 「そいでもって」だの、「・・・・・・みたいな」とか、「・・…・だよね」などという文を読まされる方にもなってみよ。「というか」、「ぜんぜん」、「だけど」、「すごく」なども大学生の用語とは言えない。「ダサい」だの、「うざったい」などという言葉も困る。(これらは、皆、実際にあった例である。)

 よくある間違いで、「以外と」と書く例がある。これは「意外」の間違いであるばかりか、「意外に」の俗発音でもある。この手の助詞の誤りがしばしばある。

 
d.同じ接続詞や、形容、語尾表現の反復使用を避ける

 良い文章というのは、気をつけて読んでいると分るが、表現に工夫がある。逆に工夫のない、読んで幼稚ないしは不快に感じさせるのは、同じ言葉、形容、語尾の繰返しである。

 非常に多く見られるのが、「思う」の濫発で、ひどい時にはこれが終始続くものもある。或いは「そして」や「それから」「だから」の連続、「してほしい」の濫発なども見られる(どうもとんでもない「作文教育」「論文指導」があるらしい)。

 そうしたことはまずあり得ないことであるし、またいかにも知恵がない。どうしても同じような表現になる時でも、工夫すればさまざまな言葉や言いまわしに置きかえられるものである。たとえば、「思う」の他に、「考えられる」「思われる」「受止められる」「印象である」「判明する」「理解する」等々、更には「であろう」、「と言えよう」など、実にさまざまな形容が可能である。

 韻を踏もうとでもいうのでなければ、やたらの繰返しは見苦しい。文をよく練ってこそ、小学生の「作文」から大人の文章になれるのである。ただし、学術論文ではあいまいな形容方法もよくない。だいじなことはむしろ、はっきり「断定調」で書かなければならず、遠回しな言い方は避けないといけない。

 
e.文は出来るだけ短く、分り易く

 何かのことをきちんと述べようとすると、どうしても文章が長くなりがちである。ひどい時には原稿用紙1枚位が一つの文章で、切れ目なくつながっているなどということさえある。そうした文は甚だ読みづらいし、初めと終りがつながらなくなったり、主語と述語が矛盾してきたりする原因でもある。

 こうした場合、2〜3行程度に切っていくことができないものかといえば、何度も読み返し、接続詞、代名詞などを工夫していくと、まず間遠いなく区切っていけるものである。短い文のほうがはるかによく、簡潔に意図を伝えられるものでもある。

 
f.段落を1枚に一個所はつける 

 文には、内容の切目毎に「段落」をつけていくのが原則である。いくら個々の文を「。」で区切っても、それがビッシリとつながっていたのでは、内容が整理されているとは言えない。人間の話に一呼吸があるように、あるリズムで文の内容は切れていくものである。

 大雑把に言えば、原稿用紙1枚で最低一個所は段落があって、文が切れていく、言いかえれば一段落毎の字数は最高400字位と見てよい。そうならなければ、よく読み直してみるべきである。

 WPやPCの普及によって、文の並び方の様子を画面上で、たえず客観的に見られるようになってきたので、こうした段落の置き方状況などには気を配るようになってくる傾向にあるが、それでも気をつける必要はある。

 
g.「引用」は明記する、盗作厳禁

 「学生のレポ一ト位だから」という気持からか、公然たる盗作がまかり通っていることは悲しむべきことである。ましてや第三者の目にふれうるものに盗作を行えば、下手をすれば著作権法違反の犯罪で、訴えられても文句は言えないのである。

(薯作権を侵害した者は、「三年以下の懲役又は30万円以下の罰金」である。)

 それでは、実際に引用や参照を行う必要のある場合、どうすればよいのか。それは、著作権法第32条、48条にあるように、正当な範囲内で、かつ「出所の明示」をすることである。具体的に言えば、その引用であることを明示し、そしてその出所をはっきり書き記すことである。(それでも、全文ぜんぶ引用とか、書き写しなどというのはダメである。)

 通常そのために、まず本文中で引用した部分を「」内に入れ、わかるようにする、または自分の記述と区別する。そして、それ以外の参照をした場合も含め、そのつど、原出所を何らかの方法で、どこかに明示することである(その書き方については、うえの引用参照文献の表記を用いる)。

 こうしたことは、単に法律問題であるというだけのことではなく、文化の進歩への責任でもあり、さらに読者にも自分にも親切な方法と言うべきである。誰が、どのようなことを言っているのか、どんなことを調べているのか、明らかにするとともに、それらが嘘偽りでないことを示し、ひいては再確認もできる手引になるのである。

 あるいはまた、自分の主張の援軍を得るという意味にもなる。社会科学などの研究とその論文作成においては、自然科学とは違い、「実験」などによる検証ができない(だから、自然科学の研究論文においては、実験などの材料や方法等を詳細に明記し、第三者がそれにもとづいて「追試験」を行い、同じ結果が得られるものでないと、客観的な「成果」とは認められないルールである)ので、なおさら、「根拠」「出所」を示すことは欠かせないものである。

 

 この「盗作は避ける」ということについて、依然として誤解されている向きもある。それは、「書き写し」でないにせよ、自分の「論文」であるはずなのに、その重要な論旨や主張、あるいは取り上げた事実や事例、データなどについて、自分自身が直接調べたり、独力で考え出したりしたものではないにもかかわらず、それぞれの典拠・出所が明記されていない、というやり方である。これもやはり「盗作」(盗用)なのである。論文の終わりに、「参考文献」としてあげてある、その中のものから引いたのだからいいじゃないか、という言いわけは、この場合通用しない。これは言うなれば、「他人の頭脳を無断借用する」、「他人の努力を自分のもののように示す」ということである。これでは詐欺に近い。

 だから、直接「引用する」ものではなくても、他の著作や資料などにもとづく考え、事実検証などがあるのであれば、それは本文中でそのつどはっきりと、「○○氏の主張によれば」、「『○○』の書で取り上げられた事例から引用すると」などと、典拠を明記せねばならない。あるいは少なくとも、その箇所に「注」をつけて、「『○○』書、××ページの事例に拠った」などと、注の中に記さねばならない。

 また、図表などを別に掲載する場合、何かからこれを写してきたものならば、その「出所」を明記する。統計データなどを用いて自分で計算・作図などした場合は、「資料(出所)」として記す。これはすべての図表ごとに必ず書かねばならず、「出所不明」はダメである。

 非常に細かいことのようであるが、こういったことをきちんとクリアしているか、ごまかしや盗用がないか、そして出所を客観的に明らかにし、批判に耐えるものとなっているのか、そういったところでこそ、論文の値うちの半ばが決まるのであり、そうでないものは、いくらきれいに、すっきりと書いてあろうが、値うちはゼロである。「受験勉強」の弊害で、こういった「厳密さ」抜き、どこかに「正解」がある、それをみんな写してくる、憶えてくることが「勉強」だ、といったでたらめなやり方が、日本の「教育」と社会に蔓延(まんえん)している。それでは世界に通用しない、それどころか、「日本人は盗作で食っている」「日本ではひとのものを平気で自分のものにする」などといった非難を免れない。「知的財産権の尊重」こそ世界のルールであり、創造的な活動と、学問研究の進歩を可能にするものである。


◇インターネットソース利用におけるルール

 インターネットの時代になって、一般の文献や雑誌といったものだけではなく、WEB上で提供されている情報を利用する、これに依拠するといったことも多く見られるようになった。「お手軽に切り貼りできる」ということで、出所の怪しいものや、まったく矛盾する、つじつまの合わないといった代物が並んでいることも珍しくないのもその弊害であり、むしろ盗作盗用の危険は非常に高くなっている。

 こうした現状を嘆くだけではしかたがないので、提供されている情報を諸資料などのうちに積極活用する、あるいは容易に手に入りにくい論文や公文書などを居ながらにして閲読利用できるという利点を問題なく生かすという方法に徹しられればさいわいなことと考えるべきだろう。


 その際、新しい引用ルールが必要になっている。まず当然ながら、盗作盗用はいけないことなので、それぞれ出所根拠を明らかにし、引用した文章などは「」内に入れるといったルールがきちんと守られなくてはならない。切り貼りで自分が書いたように見せるなどというのはもちろん犯罪である。ただし「原掲載箇所のページ」といった記載はもはや無理である。

 第二には、原著者や執筆年月日などの記載である。WEB上で提供されている情報ではそういったところがあいまいな場合が少なくない。困ったことであるが、どう調べてみてもわからないものはわからない、という事態もあり得る。判明する場合には当然それを記しておくべきだが、判明しない場合は次善の策として、WEBサイトの設置者送信者名、また自分がこのサイトにアクセスし、資料等を入手した年月日を記すということも認められよう。「なんにもわからない」ユーレイ情報であるよりはましである。

 第三に、いずれの場合でもともかく、出所のWEBサイトのURLは記しておくべきだろう。しかしそれしか書かない、というのは読者に対し不親切を通り越している。「気になれば自分で調べろよ」と言っているに等しいからである。URLとともに、うえのようにその著者名、表題、作成年月日といった情報を記すべきであり、それが無理ならば上記の策ということになる。


 なお、WEB上で提供されているものといっても、大別して二種類ある。ひとつはWEBという機会を利用して広く情報発信するために作られたページや図表などである。これであると、うえのような著者名や執筆作成年月日が不明ないしあいまいとなる場合が多い。また、「誰でもどこからででも自由に情報発信できる」利点が生かされているものの、ガセネタ、嘘、でっち上げ、あるいはそこまでひどくはなくても、根拠も論理もあいまいな単なる思いつき、独断と偏見、匿名で流される無責任なもの、等々も横行している(そういったものも誰でも簡単に作れるのがインターネット時代の怖さでもある)ので、テキストクリティークに慎重であることが求められる。

 これに対し、官公庁、調査研究機関、諸団体、企業、あるいは研究者など個人が、紙媒体などで一般に公刊している公式文書、統計書、報告書、白書、法令、論文などをWEB上からも公開提供している場合がある。特に外国の官公庁や調査機関、諸団体などの発行物、学術論文など日本では入手が容易でないものでも、こうしたルートでいながらにして利用できるのはありがたいことである。そのように出所根拠や形式が明確で、ほかの媒体での刊行がわかるものについては、あえてWEB上で閲読したとしなくとも、刊行物に準ずるものとして引用利用して構わない、つまり原WEBサイトのURLなど記さなくてもよいと言える。pdf形式などであれば、ほかの刊行形態とまったく同じものとして利用可能になる(該当箇所ページなども判明する)。


 *これについて、いささかペシミスティックにさせられる現実もあります。その辺にかんする「私的注釈」を記しました。


h.「文は人様(ひとさま)に読んで頂くもの」の精神で

 当然のことなのであるが、文章とは自分だけにあてた日記やメモ、ノートなどでない限り、何らかの事柄を他人に理解して貰うための手段である。そうであるから、他人が読んでわかるもの、正しく内容が伝わるもの、そして不快な感じなど与えないものが前提であるはずである。さまざまな基本ル一ルもそのためにあるのであり、誰しもが守らなければ、世の中のコミュニケーションは混乱の極みとなる。

 それにもかかわらず、基木的ルールを守らない文、守っていてもどうにも文意不明の文、読んでいると放り出したくなるような文が依然としてある。或いはまた、小学生並みの誤字ウソ字があふれているものも見られる。それには力不足ということもあろうが、そればかりではない。基未的な精神がわかっていないのであるか、わかっていても、その努力を怠っているかである。

 どんな天才的作家でも、書いたままの文では必ず誤りや、文のおかしなところは免れない。それを何度も読み返し、推敲(すいこう)を重ねてこそ、ようやくひとに見せられる文にまでなるのである。文そのものを命とする文学者にとって、それが最も苦しく、また大切な作業であることはすぐに想像がつこう。

 つまりその時には、書き手の立場から読者の立場になり、客観的な目で文全体を評価し、あるいは間違い探しに虎視眈々(こしたんたん)としているのである。その「評価」の結果に対し、書き手の方は、自分の文を「読んでいただいた者」として、誤りの指摘や批判を謙虚に受け止め、それに沿って一所懸命手を入れていっているわけである。「まあ分るんじゃないの」などという妥協は許されない。

 こうした読み返しを何度かやれば、必ず文は相当に良くなる。

 また、学術論文としては「なかみの独創性、画期性がだいじなので、形式にこだわるのはよくない、重箱の隅をつつくようなことはやめよ」といった主張もある。もちろん独創性画期性は重要かつ不可欠だが、表記形式や文章がいい加減でも、なかみが優れているなどというものはいまだ目にしたことがない。「逆は真ならず」である。要は、どれほど論文自体と格闘しているか、読み手のことを考えているかなのである。

 くれぐれも、「読んでいただく」精神を忘れてはならない。

 
 
 


 この「論文の書き方」は、自分の経験などにもとづき、しごく常識的なことを記しただけで、駒澤大学経済学部・ゼミ活動での論文指導に15年以上にわたり利用してきたものをもとにし、さらに大学院での研究にも活用可能なものにしていますが、WEB上で公開をしてから、無断引用や切り取り利用の向きがこれまで少なからず出てきました。こういったものは「公共財産」と思うので、積極活用され、世の中の「知的テクニック」の向上に寄与できるものであれば、それもよいのですが、やはり「無断引用」や「無断切り貼り」はルールにかなっているとは思えません。ご利用の際には、その旨必ずお知らせ下さい。  三井記


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