インターネット「百科事典」時代の危うさ

      −2013年の続編つき


 
 
 「ウィキペディア」といった、インターネット上での不特定多数による知識コミュニティが形成する新しい情報源が注目され、それどころか急膨張を遂げ、既存のあらゆる百科事典や参考資料のたぐいをはるかに凌駕する影響力を発揮しはじめている。

 
 それは既存の「権威」への疑問提起であり、真に自由な言論の機会であり、また専門家や学者やジャーナリスト以外のほとんどの人々に参加の機会を与える画期的な場・個々の組織や機関などでもとうていなしえない情報の巨大な集積であると見ることもできよう。

 
 しかし、そのような楽観は決してできない。いまや全世界の「専門家」たちは、なんの根拠も証明もない、そして匿名性の陰に隠れたこうした「情報源」の圧倒的な影響力に対し、実にむなしい防戦を強いられているという指摘さえある。「開かれた場」は、無責任と独断と曲解、うわさ話やトンデモ説の「権威化」の危険もはらんでいる。インターネット上のBBSや公開のフォーラムや、blogや個人のWEBページ公開など、単に「自由な情報と意見交換の場」だけであれば、誰もがその存在の意義も限界もはじめから理解でき、こうした危険も少なく、プラスの効用が大であると思いたいところだが、それさえも現実には、匿名性と自由さと気軽さの結果、「他では口にもできない」卑劣な誹謗中傷やデマ、憎悪と罵声の場になっていることも少なくない。無責任なものの一言が、あっという間に世界を駆けめぐり、あたかも多数の良識ある発言であるかのような装いを持つようにさえなるのである。

 
 
しかも、「ウィキペディア」のような場は、単なる個々人の主張や発言ではなく、疑似「百科事典」として、そこに書き込もうとするもの誰もが、「権威」と「影響力」を期待し、そして現実にその存在自体が歴史上かつてなかったほどの世界的同時的な「権威」を勝手に発揮しかねない危険をはらんでいる。

 
 もちろん一つの書き込みに対し、ほかの誰もが批判や別説を書き加えることができるのが、この「開かれた場」の良さなのだということも事実だろうし、これこそ真の民主主義、平等な機会にもとづく自由な言論による「解決」なのだというような楽観論もあろう。しかし、そこに繰り広げられる「論争」も下手をすれば、なんの根拠も論理も立証もない言葉のやりとりにとどまるおそれが大である。なにより、本来そうした場に幾ばくかの貢献をすべき専門家たちはここに加わることをためらうであろう。それはもちろん、下世話な「権威意識」や、「シロートになにがわかる」的先入観や傲慢さを伴っている側面もあるだろうが、なにより専門家たちはこうした場自体に本能的な危険を感じるからでもある。
 専門家たちは通常、社会に対しみずからの氏名と存在を名乗り、発言をする。学界などの「定められたルールの世界」はもちろんのこと、社会に開かれた出版物や寄稿、発言などにも当然それは示されている。それに対する批判や疑問などがあれば、当然みずからの責任と自己の研究成果や見聞読書思考の蓄積においてこたえていこうとする。しかし、「ウィキペディア」などはむしろきわめて非対称な関係を「みずから名乗る」ものたちの方に強いる結果になるからである。一方の側は匿名性の陰に隠れ、「議論が成り立つ」かどうか、「根拠があるかどうか」を挙証論争するより、感情的独断的な非難攻撃を繰り返すおそれがある。そしてそれに「決着」をつけることさえ困難である。過去にそうした攻撃の対象となった苦い経験を持つ学者や専門家は決して少なくない。そしてインターネットはこうしたユニラテラルですれ違った関係をむしろ強いる危険を多分に持っているのである。

 

 このような危険性や限界性を多くの関係者や利用者が理解したうえで、自由な情報交換の機会として利用しあうような理想的な状況をできれば期待したい。専門家たちも積極的にこれを支えていく方が本来よいことだろう。しかし「大衆社会」の匿名性、攻撃性、扇動性の危険を知るものたちには、それを一挙に加速度的に高めた「バーチャル社会」の危険性に無防備のままでよいのかという疑問を容易にはぬぐえないだろう。マスメディアの強大な影響力と権力性がインターネットの時代に堀崩される、個々人のマイクロメディアと自由なネットワーク関係が新しい社会と社会意識を築くというような空想はやはり空想でしかなかった。個人の自立と交流・共感・連帯の「美しい言葉」は、「大衆」の気ままな攻撃の前に色あせている。一人笑っているのは、変わらず「権力」である。

 
 そしてそのような忍び寄る危険と諸刃の剣の危うさだけではなく、現実には「ウィキペディア」の掲載記述のつぎはぎのようなものの氾濫、安直な断片情報の「知識化」、そして当然のようにおこってきた、「盗作騒ぎ」の数々がある。書かれた記述を「盗作」するのではなく、書き込まれた事柄自体が盗作ではないかという疑いであり、そこにおこる指弾や非難と反論の果てしない繰り返しである。「ウィキペディア」などは書き込みに関するある程度の基準と規範を設けているが、それ自体を実行監視する「責任主体」がどこにもないし、書き込むものたちが匿名である以上、こうした問題の広がりは避けられないのである。

 
 「自由な場」を期待するものたちが「権威」となることを夢見ている、この矛盾は永遠に持続する。そこに「ウィキペディア」らの存在の理由がある。インターネットはあらゆるものを見かけ上「等価」にしてしまうからである。しかしこれを「権威」ほどではなくとも安直安易に受け入れ、費用上も時間上もごく廉価に「利用」しようとする「受け手」が洪水のように広まるのであれば、世界には「知性の危機」が広まるというペシミスティックな展望を抱かざるをえない。誰もが自由に情報発信できる社会は、誰もが他人を信ぜず、また誰もが顔の見えない知識の断片と切り貼りされた言葉を「利用」することばかりを考える、グルーミーな実態のもとにすでにあるのかも知れない。


 

2013年の追補



 うえの文は、2005年に記したものであった。


 以来すでに8年、「世の中変わった」は数限りなくあれど、いまだウッキィの権威は廃れずかも知れない。
 しかし、かなりやばい暴露記事を最近目にする機会があった。


 要するに、ウィキペディアに、都合のいい(嘘八百でも)記事を載せる、それの更新を繰り返す、これをビジネスとする立派な企業が実在し、スポンサーから相当のゼニをふんだくっておいしい思いをしているというのである。さもありなんだろう。

 ウッキィ本部としては、そういうのは怪しからんと、以前から発信元(登録)アドレスをもとに、怪しい、あてにならん、特定の目的を有している記述というのは排除する、警告する等々やっているのだが、敵はそんなこと恐れるに足らずで、手間暇かけ、膨大な数のアドレスを駆使し、容易に見つけられない、見破られない手を大いに発揮しているそうである。


 ま、そんなモンよ、「出版」だって、相当に怪しいスポンサーつき、提灯持ちものなどいっぱいあるじゃない、そんな「客観公正」などショーバイの世界に期待できますかいな、というところだが、これが匿名性に隠れて「世界的権威」足ることを関係者皆が望んでいる、ウッキィとなればそうも見過ごせない。

 この記事のタイトルにあるように、これは一種の「ステルスマーケティング」なので、ゼニを注ぎ込んで、高評価だの、アクセス件数だのを稼ぐのと同様、というより遥かにひどい害悪を世に垂れ流す、そういう代物である。すでに、商品紹介やネットマーケットでの「ユーザー評価」欄にゼニを貰って書き込み、つり上げる、この手の素晴らしいショーバイが多々暴露されたが、ウッキィ利用はもちろん遥かにたちが悪い。なんせ「世界最大最高の百科事典」と(勝手に)評価され、「権威」に祭り上げられているのだから、「ノーベル賞」を金で買うようなものとも指弾されよう(どっちも大差ないとも思われるが)。


 だからこそ、こんなものさっさと忘れることである。ウッキッッキィと笑い流すことである。世界的なジョーク、お笑いものと決めつけることである。「権威」がなくなれば、ショーバイのネタも自然消滅し、公衆便所の落書きに戻るだけである。幻想と錯覚のうえに乗った、正真正銘の「虚業」が共倒れになるだけである。


 それでも、正直に言えば、このウッキィとやらには笑って済まされない、個人攻撃や誹謗中傷の数々も書かれている。そういうのをたまたま発見した。ウッキィ本部とやらは、そうしたものは常に監視、チェックし、警告や削除をやっていることになっているそうだが、ぜんぜんそうじゃないのが実態のようだ。背中から刺されたご当人たちはおそらくご存じもないのだろうから(目にすれば、当然怒って怒鳴り込むだろう)、非常にたちが悪い。ゼニを貰っての提灯持ちでっち上げと、悪意をもっての誹謗中傷と、どっちも同じようなものである。



 だから、こんどのステマバレバレ事件で、世界からきれいに「見捨てられる」のがいちばん望ましいシナリオとも思うが、そうなればまた、「匿名性」を楯に、新しい「権威」にあずかれることを夢見る、同じような代物と「同人」が代わりに登場するだけのことでもあろう。