三井のロンドン絵日記(22)

ロンドンを去る前に

「理性」の声

 NATO軍の侵略戦争開始を前に、言わねばならないこと





 「やれ、やれ」、「爆弾だ、ミサイルだ」との西欧マスコミあげての戦争プロパガンダのさなか、いよいよNATO軍の侵略開始の時が迫ってきました。
 それにあわせて、茶番劇が見えすぎだった「ランブイエ・パリ合意」は瞬く間に遙か後景に退き、代わっては、「野蛮なセルビア軍の攻撃(正確には、ユーゴスラビア連邦軍とセルビア治安部隊)」、「さまよう多数のアルバニア系難民」の映像があふれております。影も形もなくなったのは、ついこないだまで、画面を圧倒していた、「KLA精鋭部隊」の姿でして、これと終始「行動をともにしていた」マスコミ陣はどこへ行ってしまったのでしょうか(その資金源と武器源、訓練基地がどこにあるのか、知ろうともしないのがこの手合いの特徴です)。

 言うまでもありません、戦争プロパガンダの仕上げとして、「この人々を救うためには、爆弾しかない」という「人道劇」に仕立てるためです。「殺戮」「大惨事」などという言葉が振り回され、実際、「こうした映像を見ると、もはや選択肢はないと言わざるを得ませんが」などと口走った「解説者」までいました。そうです、これが19世紀来、欧米帝国主義の侵略のいつもおなじみの手口です。彼らが「よこしまな願望」を公然と掲げて、戦争と侵略をしたことは一度もないのです。いつでも、「人道」や「正義」やらを掲げて、世界各地を脅かし、占領したのです。
 そして、NATO軍の将軍と、米英帝国首脳と、マスコミの連中がまったく同じ言葉を使い、拳を振り上げている、こういった翼賛マスコミが戦争に火をつけるのだと、まさしく「世界史」の生きた勉強になります。近代戦争は、こうした思想動員なしにははじめられませんので。

 この戦争の世界史的意味については、私のこの「ロンドン絵日記」のなかで、何度も書かねばなりませんでした5.「四つの旗と、『めちゃくちゃスタンダード』と −『グローバル化』と『ナショナリズム』」、11.「もはやわれわれには、『ジョーク』でしか『世界の現実』は語れない −『世界政治』珍クイズ!」、13.「ユーゴスラビア侵略の危機と、『西欧世界支配』 −世界は戦争へまっしぐら」、16.「『戦争』から遠くはなれて −『戦没者追悼記念日』と、はてなき軍備増強と」、また 18.>。

 そのことはまた、私にとって貴重なこの機会とページ数を、大いに不生産的に消費させるものであることを否定できませんが、また大きな教訓でもあったと思っております。そして、なにより不幸なことは、若干の時差こそあれ、その予想がすべて当たってしまってきていることです。



 ただ、そこにはどう隠そうとしても、否応なく、その後ろめたさと、恐れが見えてきています。「戦争だ、爆弾だ」という言い方には、「わが方は無傷で、思うままにやっつけられる」という甚だ虫のいい主観がまとわりついていますが、実際に「はじめれ」ば、ただごとじゃ済まないのも見えてきていますから。

 「後ろめたさ」の方については、背中の寒気以外には、その根本原理からして、自分からはなにも感じず、何一つ理解も議論もしないのが、この手合いの「知性」を示しておりますので、面倒ながら、「理性」をもって、一から教えてやらなくてはなりません。



一.「主権国家」を勝手に抹殺はできない

 第二次大戦後の「国際関係」の原則は、各国の主権尊重と平和的な紛争の解決です。それぞれの国内にどのような問題があろうとも、まず第一義的にはその主権国家の責任であり、それを他国が一方的に攻撃の理由にしたり、内政干渉に走ることなど許されておりません。それを行うならば、世界は瞬く間に戦乱の渦になってしまいます。

 第二次大戦の導火線となった、ポーランドへのドイツの干渉、それに先立つチェコへのズデーテン分割要求など、すべて、国内の民族対立問題でしたが、これを理由に圧力をかける、ついには侵略軍をおくるといった事態は、許されてはならないことです。

 もちろん、現代の国際社会では、国内問題が国際化する条件が大きく、とりわけ民族間対立がからむとそうなりがちです。それに対し、以下で取り上げるように、国際紛争解決の方法を適用すること自体がすべて否定されるとは思いません。しかし、大原則は、国家間の対等な関係、主権の尊重です。

 自分たちが「主権国家を超える時代」を夢見るのは勝手でも、それを他国に力ずくで押しつけちゃあいけません。それがまた、「民族問題対応」へのabcであることも、中学校で習うでしょうが。

 連中は、「セルビアの独裁者ミロシェビッチが、どんなに狡猾で残忍な人間か」といったことを解説し、これを倒す方法、いかにすればセルビア内の親西欧勢力に実権を握らせられるか、などまでとくとくと議論しています。ジョーダンじゃないと言いたい、不倫トン大統領の頭のうえの蠅でもまず追って下さい。

 第一、私の実感では、セルビア共和国ほど民主的なところはありません。西欧マスコミの取材にこたえ、平然と大統領や政府批判をする市民、今後の展望を語る反政府活動家、みんな堂々たるものです。もちろん、当のコソボ州では、欧米マスコミはなんの制限もなく、武装反政府集団KLAと行動をともにし、あるいはまた、ユーゴ連邦軍の戦車に同乗し、「現地からの報告」をやっています。それどころか、昨日のTVニュースには、「NATO軍の最大標的になると思われる、ベオグラード近郊の防空拠点基地」まで、周りから撮していました。

 ところが一方で、欧米の側では、大本営発表と、それに乗る一部の御用評論家連中しかマスコミに登場せず、戦争への批判や疑問など、いっさい報じられません。もちろん、中国やロシアの非難さえも報じられません。まさに「報道管制下」です。

 こんな連中に「民主主義」を論じる資格は、一からないのです。ひとの国の主権を踏みにじり、勝手に政府転覆まで夢想する前に、まず自分たちの「自由」を問うて下さい。





二.紛争解決のルールも制度も無視

 もちろんそれでも各国間には、領土・領海や経済的利害や、さらには輻輳する民族間の問題、あるいは長年にわたる複雑な対立関係などのからみで、紛争の火種は数々あります。さらに、一国内でおこった社会的紛争が、国境を越えて広がることもあります。そうした際に、戦争という暴力に訴えて、一方的に「解決」を図るということをなくさなくてはいけない、その道を探るというのが、「戦後国際社会」のめざしてきたところでした。そのために、国際連合などの国際機関が設けられ、各国間の利害と対立関係の国際的平和的な解決を意図してきたのです。

 もちろん、国連はそれ自体が実は「連合国」でもあり、真に各国間の対等平等かつ公正な協議と問題解決の場であったのか、大いに疑問とさせる歴史を持っています。それでも、戦後五〇年を経て、この場がすべての主権国家の参加するところとなり、紛争解決への権威を持ちうるようになったことは否定できません。その権威は、単に歴史の長さや形式平等性だけからではなく、ともかく紛争当事国自身および関係国の参加と合意を前提にした、「民主的な」プロセスを経てきているからでもあります。

 国連が有する「暴力装置」と、その実権を有する安保理五大国という存在が、国連の「権威」を生んだのだという理解もあります。私はそれには大いに異論と疑問を持ちますが、それをひとまず認めたとしても、今日のNATO軍の侵略には、この論理も完全に抵触するのです。

 今、NATO軍が侵略の「根拠」としているところに、ひとつとして、国連憲章も国連の慣行も、もちろん国連決議、安保理決議もありません。安保理は、旧ユーゴスラビアに関する民族紛争などの解決のための決議や勧告を行ってきていますが、そのどこにも、「これでないと爆弾だ」などとは書いてありません。

 それどころか、この数ヶ月間、国連は完全に「蚊帳の外」扱いでした。それは当然です。国連憲章にも、国際紛争解決のルールにも、すべてまったく反するNATO軍の脅迫と侵略を、安保理でも認める見通しはありようもないので、「外した」というだけです。



三.言い分も聞かず、「決まり」を押しつけ、何が「調停」か

 国連に限らず、紛争当事国の参加を得て、その調停解決を図るというのは、平和的解決への基本ルールです。その紛争当事国は当然、それぞれの言い分を持ちますが、これを十分示させ、対立点を明らかにし、妥協点を探り、対立解消の方法を求めるというのは当たり前すぎる話しです。かつて、国連が米ソ対立ゆえに、これにからむ紛争を直接調停する機能を果たせなかったなかででも、ベトナム戦争とパリ会談のように、当事国同士が会談を持ち、合意を求めていく努力はさまざまなされてきました。

 現在常設される欧州安全保障会議(CSCE)、アフリカ統一機構(OAU)などの国際協議体は、それぞれ相当の限界を持ちながらも、参加国内での紛争や問題解決の機能を持っています。こういったかたちでの、地域内の紛争解決機関は、国連の活動と両立するものです。

 しかし、現在の事態は、すべてが新ユーゴスラビアとセルビア共和国に関するものであるにもかかわらず、その当事国が参加し、その言い分を聞き、解決方法を探るといった場は、完全になくなっています。明らかなのは、このユーゴスラビアに対し、NATO加盟国が、NATOの名において「最後通牒」を一方的に突きつける、という構図のみなのです。第二次大戦後においては前代未聞の出来事です。それは「侵略」だ、というのです。



四.NATOって、いつからそんなに偉くなったんだ?

 では、NATOっていったい何ものなのでしょうか。申すまでもなく、これは戦後の米ソ対立を背景に、米国の主導で作られた軍事同盟であり、米軍を総司令官とする軍隊そのものです。これを作るについて、別に他の国に断ったわけでもないので、これは一種の国際私兵団ということです。もちろん、雇い兵ではなく、各国政府が公認し、その軍の兵力と装備を提供して構成しているのですが。そして、冷戦敗北により、ソ連が消滅したのち、その軍事同盟ワルシャワ条約機構が解体したのち、「戦勝国」同盟としてNATOは生き残り、一層強化されているのです。

 こういった軍事同盟に、国際紛争の解決の責をゆだねるなどという話は、戦後世界では聞いたことがありません。NATO加盟国同士で対立が生じた際に、その組織を通じて調停策を行うというのもご自由ですが、ユーゴスラビアのようにNATOに参加もしていない国が、この前にひれ伏し、その命に従わなくてはならないなどというのは、前代未聞のことです。

 かの(第一次)イラク戦争でさえ、イラクの隣国クウェート侵略という明白な行為があり、これに対する国連の度重なる決議・要求(その場には当事国イラクもいたわけです)にも従わなかったため、ついに「武力制裁」という決定を招きました。それによって編成された「多国籍軍」(?) −英国の報道では、いつでもどこでも「連合軍」で、第一次大戦来一貫しているのですが− というのは、その根拠に若干のあいまいさがあるものの、この対イラク軍攻撃は、結果として正当化されました。そして、それが国連決議を根拠とした以上、ブッシュでさえも、イラク軍をクウェート領から撃退したのちは、進撃を思いとどまったのです。それ以上、イラク領内に入れば、国連決議を越えた、一方的な侵略になってしまうと。

 ところが、いまや、何らの根拠もなく、NATO軍の「決定」と称して、他国を大軍を持って一方的に攻撃しようということが行われようというのです。まさに二〇世紀最悪の侵略というべきものです。 NATOに、欧州の主な大国が参加しているから、などというのは、なんの根拠にもなりません。英仏独伊などが「共同して」こうしろ、こうするぞと言っているから、というのなら、戦後世界の秩序はすべて、ご破算であるとするしかなく、ヒトラーの論理となんの差もありません。フランスとイタリアの気に入らないことをやっているから、モナコは爆撃・占領する、そんな軍事大国の横暴を認めだしたなら、まさしく世界は一九世紀に逆戻りです。



五.「調停」か、また「喧嘩を売ってる」のか

 もちろん、NATO自体が調停者であるわけではない、あくまで主役は六カ国会議(コンタクト・グループ)だ、という主張はあり得ます。このセルビア共和国内コソボ州の民族紛争の解決のために、米英仏独伊ロの六カ国が共同して調停にあたった、ところがそれをセルビアは拒否し続け、問題解決を妨害し、事態の悪化を招くのみで、戦闘をやめようとしないから、やむなくNATO軍が力でおさえるんだ、という議論です。ところが、この俗耳に入りやすい話しは、実際とはかけ離れています。

 この六カ国調停にそれなりの合法性はあっても、そのプロセスはこれまた前代未聞のものでした。紛争当事者(この場合は、セルビア政府と、本来アルバニア政府であるべきものですが、なぜかKLA)を呼び、それぞれの言い分を聞き、歩み寄れる解決方法を探る、という常識的なプロセスではなく、当事者たちとは関係のないところで、「合意案」なるものを先に作成、そして、「これをのむか、さもなくばNATO軍の爆弾だ」という、脅迫にいきなり出たのです。

 国際紛争を横町の喧嘩や家族紛争にたとえるのは、決していいやり方ではありませんが、そういった表現を用いれば、喧嘩しているどうしに仲裁に入ったのが、言い分も聞かずに、「よし、おまえたちはこれに従え、それですべて手打ちだ、いやというならオレが殴って、叩きのめしてやる」と、喧嘩を売ってきたようなものです。

 しかも、その仲裁役の振り上げた拳は、どう見たって一方の側にだけ向けられており、もう一方の側には、「おい、ここで言うこと聞いておけば、あとで悪いようにはしないから」と囁いているのです。それを聞きとがめた方が、「おかしいじゃないか、そんなの仲裁か」と言えば、「ぐずぐず言うな、ぐずぐず言うならこれも殴ってやる」というのですから、なにをかいわんやです。

 しかも、次第に明らかになっていますが、六カ国「合意案」というのは、中心部分は、コソボでの住民自治の回復など、以前と大きな隔たりはないものの、決定的に一方の側ののめるはずのない、NATO軍の進駐=事実上のコソボ占領とセルビア共和国の主権の剥奪を含んでいました。これを、「セルビアの旧友ロシアも一緒に作った案なんだから、文句ないだろが」とおしつけにかかったのですが、ここでは完全にロシアはだまされたようです。ロシアはあとになって、「NATO軍の進駐という条項は聞いていなかった、知らないところで盛り込まれた」と言っていますが、後の祭り、軍事的経済的に見る影もないほど弱体化した(された)ロシアの足元を見透かされたやり口です。「ロシアも参加した」というアリバイに利用されただけなのです。

 「いくら合意に調印したからって、セルビアが守るかどうか怪しい、戦闘再発を防ぐために、NATO軍の進駐は必要だ」というのが、米英の言い分でした。これも百歩譲って、そういったいわゆる「平和維持」武力の存在が必要だとしても、それが近年の国連PKOとしていくつも実施された「実績」があるとしても、なぜはじめからNATO軍の進駐などという筋書きが決まっているのか、この辺は明白な挑発意図を感じさせます。なぜ、国連決議によるPKOじゃないのか、CSCEの平和維持軍でもないのか、当事国が加わっていない、一私兵同盟でしかないNATO軍に進駐させる、それにセルビア共和国がすんなり乗れるはずがない、これを十分承知で、あえて筋書きに盛り込み、「これをのむかのまないかだ」という脅かしにかかったのです。
 まして、第二次大戦などの過去から、とりわけドイツ軍の脅威には根深い恨みを持つセルビア人が、あっさりとのむはずもない、たとえてみれば、中国国内に民族紛争が深刻化し、武力抗争が起こったとき、日本軍が進駐監視する、この案をのむかのまないかだ、さもないと米軍のミサイルだぞ、とおどかすようなものです。中国人たちが、日の丸の小旗を持って、歓迎に並んでくれるなどと想像できるでしょうか。

 もし、この六カ国が「まともに」コソボ紛争の平和解決を図る気があったのなら、まず当事者を呼んで十分話し合いを行う、そのうえで「調停案」を示し、これにどこまで双方が歩み寄れるのかつめていく、そして「調停」の実施のうえで、力による監視が必要だとするのなら、どういうかたちなら双方が受け入れられるのか、それぞれ根回しと折衝を重ねていく、これが従来の流儀です。そうでなければ、合意もならず、平和も維持できません。ソマリア国内紛争の「調停」監視におくられたPKO(実は米軍)が、武力抗争の一方の側を独断で「悪者」指定し、攻撃したため、壊滅的な打撃を被った、そしてPKO自体が失敗した、この教訓さえも、ここにはなにも生かされていません。

 ですから、これは「調停」ではなく、のめないものを押しつけ、攻撃の口実とするための「挑発」と定義するのが妥当です。



六.目的は、民族紛争解決じゃなく、NATO軍の占領にあり

 しかも、「この調停案は絶対に変更は許されない、のむかのまないかだ」というかたちで拳を振り上げておきながら、KLA側が簡単に乗ってこないと見るや、あわてて裏工作をはじめ、明らかなウラ文書を作って、KLAにサインさせるように持っていくという、姑息な手段さえ用いられました。「ここでは、『独立』なんて書いてないが、なに、三年経ったら否応なくそうなっちまうんだから、安心していい」というわけです(それよりも、もとの「合意案」自体が、米国とKLAの協議で作られた色が濃いのですが)。

 これに対し、「テロリスト」として、交渉にも応じなかったセルビア政府側が、あえてKLAとの直接交渉にさえも臨んだというのに、その要求はすべてはねつけ、「平和の妨害者」呼ばわりを繰り返しました。「調停」の基本ルールを自ら踏みにじりながら、責任をすべてセルビア側になすりつけるという、前代未聞の姿勢が、米英仏のやり方だったのです。

 セルビア側が、パリでの再開調停の場に、新たな修正要求を持ち込んだ、これまでのプロセスに逆行する、誠意をまったく欠いたやり方だ、と彼らは非難しましたが、この間に彼らはKLAの要求をいれたのですから、そんなことは当然です。第一、外交交渉とはそういうもので、さまざまの要求や応酬、駆け引きがあり、その中から妥協点が見いだされて行くしかあり得ません。

 その逆に、セルビアとして絶対にのめない、NATO軍によるコソボ占領という事態は、本来「解決方法」ではなく、その手段なのですから、セルビア側の主張するように、ランブィエでの最初の協議の際、これを別個の交渉課題として、「政治解決合意」のみについて調印するという解決ステップもあり得たはずです。ところがその時は、米英仏は、「これだけを切り離しての合意などと言うのはあり得ない」と言い張ったのです。その間、予定が狂って、KLA側が「政治解決案」にも合意しなかったのですから、こんな理不尽な言いがかりはありません。

 いまになって、KLAが「調印」したことをもって、「今後の事態の責任はすべてセルビア側にある」などと、オルブライトやクックは言い張っています。一方のみの「調印」などいう「調停合意」があるでしょうか。政治解決とNATO軍占領は切り離せないと言うのなら、一方的「調印」になんの意味もないのは火を見るより明らかです。これでは、戦争挑発への名目であることが、あまりに明白です(そのくせ、クックは、セルビア側がなぜのめなかったかをまるで忘れたかのような顔をして、「ミロシエビッチにとって決して悪い条件の調停じゃない、いまからでも応じて損はないはず」などといまは白々しく言っています。そんな問題じゃなかっただろうが)。

 そして、NATO軍の占領が「合意」に不可欠というのなら、「これにサインしないと爆撃だぞ」というのとあわせてみると、セルビア側にとっては、どっちに転んでも、必ずNATO軍はやってくるということになるのでして、そんな理不尽な「外交」があるか、要するにねらいはセルビア領の占領なんだと理解するのは当然です。ネゴシエーションの余地が実ははじめからない、正真正銘の脅迫ないしは挑発と受けとめられるのは、なんら不思議ではありません。



七.セルビア共和国は、どこの国も占領していない

 あらためて言うのも本当にイヤになりますが、「コソボ問題」は基本的にセルビア共和国の問題であり、そのセルビアも、ユーゴスラビア連邦も、一寸たりとも、他国を侵略占領したり、武力で脅かし、脅威を与えているわけではありません。

 イラクのクェート侵略という事態以来、他国への武力による攻撃・占領といった事態を、当事国だけではなく、第三国が武力によって押さえる、というやり方が常識化し、それも私は疑問に思いますが、ともかくそれが「国際ルール」だというのを認めないわけではありません。他方の当事国に対抗できるだけの武力がなく、国連などの場での討議と決議、あるいは調停などに攻撃側の国が応じず、一方的な攻撃や占領を続けるのであれば、それもやむなしという理解はあり得ます。ただ、そのルールはすべての国に適用してもらいたいものです(いまだ、レバノンやヨルダン、シリア領などの占領を続け、それどころかパレスチナ人の土地を40年以上も占領し、彼らを追い出し、暴力での弾圧を続けるイスラエルを含めて)。

 ところが、セルビアがアルバニアに侵攻したとか、イタリアに攻撃を加えたなどというのは誰一人聞いたことがありません。むしろ、みかたを変えれば、同じアルバニア系の住民の武装を積極支援し、国境をこえてKLAの精鋭部隊と大量の武器を送り込んできたアルバニアこそ、従来の国際慣行から言えば、明らかにセルビア共和国への侵略行為を行っているのであり、これに対し、セルビア側が反撃に出ても、それを一概に非難はできないはずです。けれども、セルビアは「忍耐強く」これを控えてきたのです。そしてあべこべに、米英とNATO軍は、アルバニアの行動に警告したり、国境地帯にあえて監視団を送り、武器や武装部隊の侵入を阻止したりなど、いっさいしておりません。

 コソボ州の民族紛争が、世界にとって、こうした問題の深刻さを示し、また旧ユーゴスラビアという複雑な民族の入り交じった地域での、ボスニアヘルツェゴビナ内戦のような非人道的な事態の危険を現実のものにしている、また、こういった一連の事態に、新ユーゴスラビア連邦やセルビア共和国、そして「セルビア人」たちのとった行動がけしからぬ、紛争解決の本旨にもとる、あるいは非人道的である、そういったすべての批判や憂慮を無条件で認めたとしても、なおかつ、セルビア共和国が周辺諸国に侵略した、脅威を与えている、そんな事態は誰もあげられないのです。ましてや、セルビア治安部隊やユーゴ連邦軍が、NATO諸国のどこを攻撃したというのでしょうか、ロンドンやパリに脅威を与えているというのでしょうか。

 米国は、無法にも、海外の大使館に爆弾テロ攻撃を加えられたということをもって、そのテロ集団の「本拠地」と勝手に決めた、アフガニスタンやスーダンに一方的にミサイル攻撃を行い、多数の死傷者を出しました。そして、これをもって「報復だ」と胸を張ったのです。それなら、ユーゴ領内に一発でもNATO軍の爆弾が落ちたら、ただちにユーゴスラビアはワシントン、ロンドン、パリ、ブリュッセルなどを報復攻撃する権利を持つことになります。それは無法だというのなら、すぐにユーゴスラビアの「侵略」や「武力攻撃」の証拠を挙げてみて下さい。笑止千万にも、クリントンは、コソボ内での砲撃などを指して、「侵略だ」と叫びました。これが「侵略」なのなら、米連邦軍や州兵が、国内のカルト武装集団の本拠地を砲撃し、全員死亡させたのはこれまた「侵略」です。直ちに、NATO軍の制裁爆撃にさらされねばなりません。



八.「民族憎悪」をあおっておいて、なにが「民族問題解決」

 こういった一連の事態には、その背後に明らかに、「セルビア人は悪者」という、甚だしい先入観があふれています。こういった意識を西欧マスコミがあげてあおってきているのを、私はこの間数え切れないほど目にしてきました。私はこれこそが帝国主義戦争へのプロパガンダの歴史の繰り返しだと思っております。

 それはともあれ、ボスニアヘルツェゴビナ内戦、クロアチア内戦などの、旧ユーゴスラビア解体後の一連の民族紛争、それに関して、セルビア人系組織や、セルビア共和国政府などの行動に重大な問題があり、非難にさらされねばならない点がもし多々あるとしても、それはあくまで、それぞれの問題であり、それぞれに決着を見なくてはならないところです。実際にはこれも私が繰り返し書いてきたように、ハーグの「国際戦犯法廷」でさえ、非武装民間人への攻撃・殺害や迫害などの行為は、別にセルビア系住民や組織のみがやったわけではないと告発しているのです。

 ところが、米英仏政府やマスコミはあげて、セルビア人への民族的憎しみをあおるキャンペーンに与してきました。これは、皮肉にも、彼らが「ナショナリズムを利用して権力を握る悪党」と呼び捨てる、ミロシェビッチ現ユーゴ連邦大統領らと大差ないどころか、NATO軍の暴力を背景としているだけに、よけい悪質です。「こういった悪い奴らは痛めつけてやれ」、そう公然と口にする連中のゆがんだ顔を見るにつけ、ああこうやって、クリミア戦争も、ボーア戦争も、米西戦争も、そして第一次世界大戦も始まったんだな、ということがよくわかります。

 しかも、そんなにセルビア人どもが憎いのなら、同じような行為を世界各地でやってきたどの国、どの民族に対しても、こういった罵りを浴びせ、そして爆弾の雨を降らせてきたというのでしょうか。東チモールを一方的に占領併合したインドネシア、少数派タミール人系武装組織との間での事実上の戦争状態にあるスリランカ、もちろんパレスチナの地を永久占領し、日々住民を殺し続けているイスラエル、国内クルド人の民族としての存在さえ認めず、戦車、爆撃機で日々攻撃を加えているトルコ、これらについても、憎しみの言葉を浴びせ、制裁の鉄拳を浴びせなくてはならないでしょう。折しも、トルコでは、「民族の祭り」を行おうとしたクルド人たちに対し、軍隊と警察が襲いかかり、「数千人を逮捕した」そうです。こんな悪辣な民族迫害は、近来まれでしょう(そのトルコは、NATO加盟国ですが)。

 まして、NATO諸国のなかでも、さまざま民族紛争がおこっています。スペインのバスク問題、英国の北アイルランド問題は、その典型です。こういったバスク人や北アイルランドのアイルランド系住民たちが、時には武力に訴えてでも、独立や政治的権利を要求する、それを政府やマスコミはテロリストと呼び、警察や軍の力で押さえ込んでいます。私はこういったETAやIRAなどのやってきたことを、なんら支持しませんが、基本的構図はコソボ問題と何も変わりません。

 もちろん、英国やスペイン政府は、戦車や砲弾で鎮圧はもうしていない(80年前はそうでしたが)、あくまで民主的合法的にやっているんだ、それに比べて、コソボなどの旧ユーゴスラビア問題は、政府が強硬な武力弾圧をやっているから問題なんだ、という理解はあり得ます。それでもなお、ことが民族問題に発していればこそ、一方の側を単純に悪者とし、他方の側を「かわいそうな、いじめられる民族」にして、「支援する」ということでは、問題はなんら解決できないというのが明らかではありませんか。

 セルビア政府が、外国の支援を受けたテロリストとしてきたKLAとあえて同じテーブルにつき、コソボの今後についての交渉に応じる、それならば、双方がどのような解決を求めるのか、意見と要求を出させ、煮詰めていくのが、こうした問題への対処の筋道です。実際そういった形で、ようやくバスク問題や北アイルランド問題にも、平和解決への道が開かれ出したところです。

 ちょうど一年前の「グッドフライディアグリーメント」による、北アイルランド問題解決への道とは、IRAなどの武装解除と引き替えに、リパブリカン(アイルランド系)とロイヤリスト(英国系)双方の暴力・テロ犯たちを事実上の「捕虜」扱いして釈放する、各勢力が参加した選挙を行い、自治政府を作る、アイルランド共和国政府と北アイルランドとの協議体を設けるなどの内容でした。ここに至るまで、とりわけまず、公然と暴力を掲げ、多くの人間を殺してきた、IRAなどの交渉参加を認めるかで、大変な時間をかけ、非常な努力の上に、ようやくこの「合意」が成立したのです。この過程と、合意を絶賛し、今なお続く殺人や、IRAの武装解除拒否や、テロ犯たちの釈放への強い反発などを押して、「あくまで和平は実現されなくてはならない」としたり顔に演説するクリントンやブレア、その彼らが一変して、「○○の連中は悪党だ」「痛い目に遭わせてやれ」などとはじめたら、これまでの過程はすべておじゃんです。

 つまり、こと旧ユーゴスラビア問題については、どうにもならないほどのひどい「ダブルスタンダード」が用いられ、それを彼らは「国際社会」の声などと称しているのです。

 こういった悪辣なやり方は、彼らが言うところの、「セルビアナショナリズムをあおり、権力を握る」ミロシェビッチ氏らには何らの説得力もないどころか、むしろセルビア人の怒り、敵愾心をますますあおるものとなっています。「なんでわれわれだけが悪者にされなくてはいけないんだ」、「コソボで暴れるKLAに対し、鎮圧に出たら、NATO軍の爆弾だ、と言う、それならこっちもやるのみだ」こう考えるようになってなんの不思議もありません。これは「戦争への道」であっても、断じて、「和平実現への道」などではありません。しかもそれをやっておいて、そして一方的にひとつの「案」を押しつけておいて、それに応じないからけしからんとまたやる、私にはセルビア人たちがこんなひどい「ルール」に対しまだ黙っているほうに、むしろ敬意を表します。



九.役者はみんな米国

 第二次イラク戦争開始への「理由」とされた、「国連査察委員会」というのが、その国連の決議も機関も無視して、米軍への情報提供をやっていた、この査察委員会の行動を「スパイ」として非難し、妨害してきたイラクの言い分こそが実は真実だったというのは、いまや動かしがたい事実となりました。まさしく、「アメリカのスパイ」だったのです。

 それにもかかわらず、ちょうど今度のセルビア侵略開始時と同じように、「国際社会の決定に反し、停戦違反を続けるサダム・フセインを懲罰する」という米英軍の発表を、そのまま大本営発表として伝え、やれ、やれとあおってきた、欧米マスコミは、なんの自己批判もしていません。それどころか、この宣戦布告なき戦争は、いまや米英軍が常時イラク各地を爆撃する、という形で永遠に続くものとなっています。「国連」は、完全に沈黙し、米英の道具でしかない自らの地位を、黙認するのみとなっています。

 米英軍のクルーズミサイルと、強力な戦闘爆撃機と、レーザー誘導爆弾があれば、何をやってもいいんだ、口実なんかなんとでもつけられる、米英に従わない国はこうやって無制限にどこまでも痛めつけてやるんだ、という恐るべき時代が到来し、その手をしばることのできる者はどこにもいなくなったのです。おまけにこの手合いには、スパイ衛星や無敵の高速偵察機がありますので、世界中が事実上丸裸、どこにでも攻撃目標を探し、抵抗を受けることなく叩くことができるというわけです。まさに、米軍の理想郷が実現したのです。

 軍事力だけじゃありません。上の、イラク査察委員会はじめ、おや、と思うことがいろいろでてきました。みんなアメリカ人、米軍人などなのです。このスパイ委員会の代表、そしてコソボ問題についても、昨年10月「合意」で乗り込んだ、CSCEの「監視委員会」代表(欧州機構の代表が、ですよ)、「住民虐殺」の疑いで、調査立ち入りを求めた、「国際戦犯法廷」の検事、そしてもちろん、NATO軍の総司令官、「調停案」づくりの立て役者、恫喝を得意とするオルブライト国務長官、あっちを見ても、こっちを見ても、アメリカ人だらけです。マスコミ人は言うに及びません。
 つまり、「検事も判事も死刑執行人も傍聴立会人も全部アメリカ」なのです。まあ、あとはせいぜい英国人どまりです。そんな一人何十役、誰も見たくもないサル芝居です。

 こういうのは、「仲裁」とは言わないんだと、うえに書きました。それだけじゃありません。米国というのが、永遠の平和追求を至上とする国で、それが他国間の紛争解決に貢献しましょうというのだ、と考えるおめでたいひとは、そうはいないでしょう。米国とは、いまや地上最強の軍事力を有する、世界人類をいつでも抹殺できる最大の暴力装置であり、またそれにふさわしく、国民に「武装と殺人の自由」を認めている「国」です。交通事故で死ぬ人間より、ひとに殺される人間の数のほうが多いところです。
 しかも、この国の過去は、侵略と武力威嚇、内政干渉、謀略の数々に彩られています。ひとの国の政府を、「近くだから我が方に脅威だ」と、大軍を送り込んで転覆したグレナダやパナマの例を、かの国が謝ったという話しさえありません。まして、この国が行った、ベトナムでの殺人と破壊の限りについて、いまだにその賠償金一文も払っていないのです。

 「検事も判事もみんなアメリカ」ということは、鳴り物入りで設けられようとしている、常設の「国際戦犯法廷」では、米国の戦争犯罪行為は永久に取り上げられもしないということを意味しています。この米国の「兄貴分」をもって任じている(実際には、その手下以下なのですが)英国、数百年にわたり、世界各地を征服し、戦争を引き起こしてきた帝国、この米英アングロサクソンが、その暴力とカネの力、そしてマスコミの力を使って、世界を思うがままに動かし、支配する、そういったすばらしい21世紀がやってきたのです。

 こんな手合いに、「正義」だの「人道」だのを語ってもらうなんざ、片腹痛いどころじゃありません。




 このほか、コソボの事態そのもの、戦乱と住民迫害、殺しあいの停止への道が、米英NATO軍の主張とは正反対であること、つまり「爆撃はなにを解決できるのか」、「『人道』の名で、侵略は正当化できるのか」ということを論じる必要があります。そしてそれによって、21世紀は、「社民主義」「環境主義」の終焉であり、「新帝国主義の時代」の幕開けになることを論じたいと考えています。

 でも、現実にNATO軍の侵略開始が迫っているため、地球上40億人類のうちのただ一つの声であっても、「理性の声」を公表する必要に迫られています。途中であっても、まずここまでを公表いたします。

 



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