三井のロンドン絵日記(18)

「英国最高の偉人はシェークスピア」?

−またまた、新春マスコミピンぼけ記




 1999年を迎えた新春、例によって資源の無駄遣いばかりで、なんにもない新聞の紙面を賑わせた記事のうちに、こんなのが載ったようです(私は直接見られないので、インターネット版から発見したんですが)。


 英BBC放送が行った「聴取者が選ぶ『過去1000年間で最も重要な人物』」という調査で、第一位には、チャーチルをおさえてシェークスピアが選ばれた、ということ、そして第三位はウィリアム・カクストン、第四位がダーウィン、第五位がニュートンだったんだそうです。

 はて、そんな話しあったのかいなと、ロンドン居住中の私もちょっとあわてました。ほかにないから、BBCのニュースはほとんどTVで見ているんですが、こういうのは記憶にありません。こういうときに頼りになるのはインターネットです。早速BBCのページを見てみました。

 ありました、Bard is Millenium Man というのです。ちなみにBardというのは「詩人」への文語的敬称で、特に「The Bard」と言ったら、William Shakespeare を指すものと決まっているのだそうです。


 さて、そういうわけで、おおもとの番組自体を聞いたわけではないのですが、この話しがどういうものであったのか、ニッポンの某新聞よりは詳しくわかりました。そして、重大なこともわかりました。これも実に典型的なニッポンのマスコミのピンぼけの見本であったのです。もっとも、「ニッポンの」と言ったら言いすぎで、世界中どこだってと言い直すべきでしょうか。


 どこがボケているのか、それは、ニッポンの某新聞の記事からは、英国人がシェークスピアを尊敬しているだけじゃなく、ダーウィンだニュートンだといった偉大な科学者、さらにはチャーチルやクロムウェルといった歴史上の「偉人」を大いに誇りとしている、それどころか、ウィリアム・カクストンなんて、日本人は誰も知らない人間まで登場するという印象を受けること間違いなしです(ちなみに、クイズです。ウィリアム・カクストンて誰でしょうか?こたえはこのページの最後に)。これは、恐らく多くの日本人の抱いている「イギリス観」と一致するものであり、なるほどなるほど、と読んで頷いたひとは少なくないでしょう。またそれだから、これを書いた日本の某新聞社のロンドン特派員も注目して記事にしたんでしょう。


 けれども、社会調査、とりわけアンケート的調査のチェックポイントのabcは、まず、「誰を対象にしたのか」、また「どれだけの数の回答を得たのか」です。回答の数によって、統計的誤差というものが左右される、これは誰にでもわかりましょう。たった二人についてこたえを得たから、というので、英国人全部という話しにしたのでは、いくらなんでも誤差が大き過ぎです。

 『統計でウソをつく法』という面白い本があり、邦訳も出ています。その中に、伝統的に「保守的な」米国のある大学が、「男女共学」に踏み切ったところ、なんと「女子学生の半数が教師と結婚した」という「事実」を、これを非難してきた地元紙が暴露した、という話しが、格好の実例として載っていました。そこで故意に触れられていなかったことは、共学化で入学した女子学生は二人しかいなかった、そのうちのひとりがたまたま教師と結婚をした、というだけのことであったという事情でした。アンケート調査などではありませんが、二人のうちの一人というのをもって、「半数」と書きたてるいかさまぶりは、「統計的誤差」など知らなくても、誰でもすぐに気づきましょう。



 さて、くだんのBBCの番組の話しは、最終投票では数万人から回答を得たようなので、「統計的誤差」がきわめて大きいとは言えないでしょう。少なくとも、ニッポンのTV視聴率などよりは、はるかに大きい数の「回答」にもとづいているわけです。

 しかし、もう一つの問題は、「誰を対象にしたのか」です。当然ながら、「平均的英国人」の意見を聞くには、「無作為抽出」などによって、サンプルを選び、手当たり次第に電話した結果にもとづく、などとせねばなりません。あるいは、少ないサンプルでできるだけ妥当な分布の回答を得るため、年齢構成や地域構成、時には職業構成などで、あえてサンプルを細かくならべ、振り分けるといった操作を加えることもあります。むずかしく言えば、どこまで「母集団の構成」に近づけるか、という点を重視する、あるいは逆に、「異なる母集団間の比較」を行えるようにする、つまり「一〇代と五〇代の価値観の差」を比べられるように、サンプルを選ぶ、といったこともやるわけです。

 こういったことは、「社会調査」のイロハ、あるいはabcに属するというのは、しつこく書かなくても、誰もが理解できることでしょう。そうでなくっちゃ、「回答者が偏っているじゃないか」、それで「みんなの意見」なんてされちゃかなわん、です。その点、この記事の「回答者」というのは、実はきわめて重要な偏りをもっているのです。


 上記のBBCのページの解説をよく読むと、これは実は、BBCのラジオ4のニュース番組を通じて、クリスマスの時期に「投票」が呼びかけられ、その聴取者が電話で寄せた回答結果から得られたものなのです。みなさんすぐにお気づきのように、これはくせ者です。

 日本で言えばこれはさしずめ、NHK第二放送の「時事解説」番組を通じて行われた調査、というものとして差し支えないでしょう。まず、テレビじゃなくて「ラジオ番組」です。一般庶民の大部分はもう縁がありません。もちろん、深夜番組ならば、受験生やらトラックドライバーらが聞いているし、昼間であれば、タクシー運転手なども聞いているかも知れませんが、そのうえになんせ「ラジオ4」です。英国BBCというのは、ある意味ではNHK以上にNHK的なところがあり、その典型がラジオです。BBCは今もって、なぜかラジオに4つものチャンネルを握っており、それを主にFMで全国的に流している(他に中波のみのBBCラジオ5もある)のですが、いずれも「一般大衆向け」とは言えず、長年の伝統をいまも墨守していて、いわゆる「教養主義」の臭い紛々たるものです。まあ、いまどき「一般大衆」がラジオにあまり関心があるはずもなく、「民放」もあることですし、BBCラジオ放送がこうだからといって、公共の電波をもっと利用者本意にしろ、といった批判が高まるほどではありません。

 そのBBCのラジオ放送のうちでも、ラジオ4というのはとりわけ、「文化と教養」といった色彩のきわめて濃い、まさしく「娯楽性」皆無というところが特徴でした。もちろん、enjoyment の要素がないというより、はっきり言って「インテリ好み」の放送であったのです。知識ある教養人、大衆娯楽、とりわけTV的騒ぎに眉をひそめ、これにあえて背を向け、昔からラジオを通じて流れる文化と教養、時事解説にひとときの楽しみを過ごす人々のためのチャネルだったのです。古典的作品の朗読やら、ラジオドラマやら、モダンな演劇をめぐる評論やら、世界各地の動きをめぐる解説やら、最近の政府の政策についてのパネル討論やらが、朝から晩まで並んでいました(これらとならぶべき「クラシック音楽」は、従来からラジオ3の主な守備範囲であり、必ずしもラジオ4のメインではなかったのですが、BBCが「クラシックFM」というラジオチャンネルを新たにスタートさせたため、ますますラジオ4の使命からは離れたようです)。
 もっとも最近になって、BBCはいろいろ商売っ気を出すようになったのとならび、このラジオ4の番組構成についても相当の「改革」を実施し、うえのクラシック音楽の他チャンネルへの移行はじめ、いろいろ新味を出そうとしたり、若者うけするものを取り込んだりしようとし、ために長年のファンから「強い反発」を被っています。おかげで、ラジオ4の聴取率は低下しているそうです。もっともそのまま、「安楽死」してくれた方が、BBCにとっちゃやり易いのかも知れませんが。


 まあともかく、こういったラジオ放送の聴取者です。どんな人たちが主なのか、およそ想像がつきましょう。「教養主義」を生き甲斐とも楽しみともしている、「知識ある人たち」です。こういった人たちの、「ラジオ4の裏切り」への非難をなんとかかわし、その「ご意見」を汲み上げるべく、このような「聴取者参加」「アンケート」の機会を設けたんだとも言えましょう。

 翌日の「The Guardian」によると、この回答者たちは、圧倒的に「middle-class, southern English-based audience」であり、選ばれた最終候補者も全員、「過去の、白人男子のみ」であると、評価されています。

 いずれにしても、この回答者の方々をもって、「英国人」を代表させるわけにはいきません。そういった「知識層」の確固たる存在、その人々が英国社会の運営に果たしている役割については、別のページにも私の見解を書きました。しかし、その人たちがしょせん、数としては「絶対少数派」であることも事実でしょう。


 ここから先は私の「想像」の域を出ませんが、大多数の英国人、とりわけworking class には、まあ「シェークスピア」の名前くらいは知っているけれど、読んだ記憶はない、「ダーウィン」?「ニュートン」?なんだいそりゃ、というところでしょう。「チャーチル」?うん、じいさんが戦争中はみんな、チャーチルを信頼して戦ったから勝てたって言ってたな、そのえらい政治家だろ。「クロムウェル」?、えーと、なんか「歴史」の時間に出てきた、大昔の政治家、そうだったよな?まあ、こんな具合でしょう。

 ともかく、「ビートルズ」も、「ダイアナ」も出てこないんです(ミック・ジャガーは10位までに入っていたようだけれど)。「ヘンリー8世」も「ビクトリア女王」もなしです。だいたい、最初の「投票」(どうやったのかは詳しくわかりませんが)から、上位6人までの「最終候補者名簿」に絞られ、この6人についての電話アンケート投票45,000件で、「1000年間で最も重要な人物」(もっとも、「重要」とは、もともとは書いてないんですが)を決めたという次第、ですから、「少数得票」の「その他おおぜい」は論外でもあったのです。まあ、そのうちには、「ファラディ」や「ウィリアムズ征服王」もあれば、なぜか「トニー・ブレア」や「ピーター・マンデルソン」(内閣の他の閣僚で、怪しい実業家から内緒の借金をして、マンションを買っていたことが明るみに出、年末にともに辞任を余儀なくされた、前貿易産業相)の名もあがり、相当にジョークであったようですが。


 英国の「一般大衆」にとって、「1000年間最大の偉人」シェークスピアの名の持つ意味については、当のBBCページにも書いてありました。この「投票結果」についてのコメントを寄せた一人、偉大な女優Dame Judi Dench (どのくらい偉大かというと、このクリスマス期のTV放映映画の目玉の一つ、「ミセス・ブラウン」で、なんとビクトリア女王を演じたくらいです)は、こんなエピソードを語っています。彼女の家族では、シェークスピアが第一位となって喜んでいる、「なぜなら、シェークスピアのおかげで、我が家は長年家賃が払えているから」なんだそうです。デンチ女史は長年シェークスピア劇に出演し、それで一家を支えてきた次第です。

 この「投票」に批判的な「The Guardian」の記事を再び引用すれば、シェークスピアが現代の英国人にどれほど評価されているかは、うえのデンチ女史の家族の言葉だけでなく、折りからクリスマス番組としてBBC2が放映した、鬼才トレバー・ナンの監督作、シェークスピアの『十二夜』は、全然低い視聴率しか稼げなかった次第でした。

 まあ、こういったわけで、このBBCの情報に飛びついた、ニッポンの某新聞の特派員は、社会調査、統計学についての「反面教師」を見事に演じてくれたとともに、マスコミ関係者の持つキャラクターを見事に表現もしてくれました。

 私のこれまでの印象でも、残念ながらニッポンのマスコミ関係者の大部分(皆とは申しません)には、はっきりした特徴があります。その一つは、「ものを知らないこと」、そしてもう一つは、「既成の観念に当てはめてしかものを見ないこと」です。ただ、私も今回の英国滞在などを通じ、この後者は、別にニッポンのマスコミ関係者だけじゃなく、むしろ英国など欧米社会のマスコミ人にいっそう強い特徴だろうと、実感するに至りました。

 「既成の観念」からしかものを見ないというのも問題ですが、「ものを知らない」というのは、私などには恥ずかしいことと感じます。自分の国の「世論」を左右する方々が、こんなに無知でいいのか、いくらなんだってそれはないんじゃないか、と思わずにはいられません。



 その点、確かに英国などでは、ラジオ4を愛聴しているような「知識層」には、まさしくその「知識を持っている」ことが、「議論ができる」こととともに、社会の各方面、マスコミ・言論界、政治、行政、企業経営、そしてもちろんアカデミズムの世界での必須の条件です。そういう社会のあり方がいいか悪いかを別として、そうでない人間が、「知識人」を名乗るわけにはいくらなんでもいかないでしょう。

 この「英国1000年間最大の人物」の話しを確認していたら、ちょうどBBC TVのBBC2で、「ユニバーシティ・チャレンジ」(さしずめ、大学対抗クイズ合戦か)という長命クイズ番組(どのくらい長命かというと、この前は、30年前の「優勝チーム」が昨年の現役優勝チームと競い合っていたくらい)で、新春特番で、いつもの大学生対抗ではなく、「tabloid vs broadsheet」というのをやっていました。

 ご存じの方もあるように、「タブロイド」というのは新聞の大きさの呼び方で、日本では「夕刊フジ」や「日刊ゲンダイ」のサイズ、一方「ブロードシート」というのは、「大判」、つまり日本の「フツーの新聞」の大きさを言います。もちろん英国ではそれだけの意味じゃなく、「タブロイド」というのは、「The Sun」「Daily Mirror」に代表される、芸能界王室ゴシップと、ヌードが売りの「大衆紙」で、ニッポンの「スポ新」に近いものです。そしてこれに対して、大判サイズのは通常「quality paper」と呼ばれ、政治や文化を論じる、「The Times」や「The Guardian」などの「固い」新聞です。もちろん、前者と後者の発行部数は桁外れに違い、その意味でもニッポンの「朝日」「読売」「毎日」などを後者と同じとするのもちょっと問題がありますが。

いずれにしても、この両者の記者編集者などが、学生気分に戻って、知識の量と指先の運動速度を競い合うという番組、結果としては「タブロイド」組の勝利に終わりました。ここに出演していた方々が、この番組の主なクイズ問題となる、歴史やら文学やら地理やらの、実に重箱の隅をつつくような知識の量を競い合っていたからといって、英国のマスコミ関係者がみんなそうだと言い切るわけにもそれこそいかないでしょうが(今回は回答者に配慮して、マスコミや出版などに関する問題も多かった)、そもそもこうした番組が成り立つということ自体は無視できません。

 「ユニバーシティ・チャレンジ」そのものは、ニッポンの恥を世界にさらした、「The Enduarance」(「ザ・がまん」)のように、大学生がみっともないこと、まさしく恥も外聞もないことを必死にやってみたり、ゲーノーやらスポーツネタなどの「サブカルチャー」のみを競い合うクイズものなどと違い、実にオーソドックスな「知識人の自己満足」クイズ番組です。ですから、ニッポンではもはや絶対にあり得ません。そんなのやったって、見る方が白けるだけでしょうし、第一「出演者」が募集できません。「学のある」「ものを知っている」学生だって、それを誇りとしてTV番組に出たりしたら、村八分に一生あうに決まっています。「アカデミックな知識の類を軽蔑する」、「大衆カルチャー、サブカルチャーに陶酔するのを誇りとする」、「まわりに迎合する」、「バカを演じきる」のが現代ニッポンの大学生の共通の価値観ですから。

 確かに「ユニバーシティ・チャレンジ」を見ている限り、よくもまあ、こんなことまで知っていると思うほど、歴史だ、文学だ、宗教だ、地理だ、言語だ、政治だ、というようなことの細かい知識を英国の学生たちが誇りあっています。もっとも、英国らしく、自然科学系の方の知識は幾分弱く、さらに「計算」をやらせると、これが天下のオックスブリッジの学生か(この辺が毎年、だいたい上位を占めています)と思うほど、できませんが(だから、ダーウィンやニュートンの名が上位になるのも、ちょっと不思議ですが、これはもう「歴史」に属することなのかも知れません。「フレミング」じゃないんですし)。



 ニッポンのマスコミ関係者の方々を集めて、こういった、アカデミックな知識をシリアスに競い合うようなクイズ番組をやることはまずできないだろう、などと書いたなら、名誉毀損で訴えられる恐れ大なので、私もそこまでは言いません。それより、自分を含めた同業者、アカデミックな研究者の方がもっと危ないかも知れませんし。

 そうではない、まさしく日本の社会と世論をリードするような、優れた知識と見識の持ち主が、マスコミ関係者の多数であることを、私も願っております。しかし、そうでないような事実も、上記のピンぼけ英国観記事をはじめ、少なからず私は知っているのです(以下は、そういうわけで、私が「訂正」を申し入れたものの話です)。


 最近のものでは、やはり某新聞のWEBサイトで、英国はブラックプールという、さびれかけた、いささかマイナーな観光地のことを取り上げた一文を、この新聞の大物記者のひとが書いていました。それはそれでいいのですが、そこで、この地では「保守党大会もしばしば開かれているらしい」とあるのに驚きました。

 ブラックプールは、産業革命の地、マンチェスターを中心とするランカシャーの外縁の海岸にあります。英国のworking class も、工業発展と生活水準の向上、そして「大衆消費の時代」の到来によって、レジャーをエンジョイできるようになり、ランカシャーの地から、さらにウェストミッドランズ(日本で言う「ブラックカントリー」)などからも、手軽に訪れられるレジャーの地として、ブラックプールは繁栄を見たのです。いまではworking class はスペインの海岸などでホリディを過ごすようになってしまったため、こうしたところは衰える一方です。

 しかし、まさしくそのworking class を基盤に成立した英国労働組合会議(TUC)や、労働党は、現在に至るまで、ブラックプールを主な大会開催の場にしてきました。そこには当然、さまざまな意味が込められています。自分たちが「労働階級の運動なのだ」という思いは、ブラックプールという土地と深くかかわってきているのです。

 これに比べ保守党は、どちらかといえば、裕福な階層のレジャーの地であった南部ブライトンなど、それらしい地を大会の場に選んできました。最近はこうした区分も薄れ、保守党もブラックプールに集ったり、労働党が長年の伝統を破り、次回からは他の地で党大会を開くという話し(つまり、「労働党」はもはや「労働者の党ではない」という象徴的表現か)も聞こえてきますが、少なくともこれまでの英国社会の「常識」としては、「ブラックプール」と言えば、「労働党」を連想させるものだったのです。


 こういった話しは、ニッポンではあまた出版されている「英国社会史」の類のものを読んでいると、自然に知恵がついてきます。残念ながら、上記大新聞の記者の方はそこまでお読みじゃなかったようでした。


 今ひとつは、ちょっと旧聞になりますが、英国が依然経済不振に苦しんでいたころ、サッチャー政権の目玉の一つであった、イーストロンドンの「ドックランド再開発」に関してでした。地元自治体を飛び越え、政府直轄のロンドンドックランド開発公社の手で、大規模なウォーターフロント再開発事業が行われ、モダンなオフィスビルや住宅が続々建ったものの、売れ行きの方は今ひとつ、派手な宣伝の割には伸び悩んで、将来が危ぶまれている、という事態が日本でも報道されるようになったのです。ここはその後、英国の空前の不況に直面し、そのまんま廃墟になっちゃうんじゃないかとも危惧されましたが、いまは英国版バブルのおかげで、人気は再び回復、一時はデベロッパーの倒産などで、どうなることかと思われた高層ビルなども十分テナントが入っているようです。日本企業でもこの地に居を構えるところも出てきました。

 さて、数年前、こうした「ドックランド再開発」の現状と問題について、別の某大新聞の「ロンドン支局長」という肩書きのひとが、いろいろ警鐘を鳴らす一文を雑誌に書いていたのです。そのころはまだ、なにをトチ狂ったのか、いまだにロンドンドックランドを見事な「ウォーターフロント再開発のモデル」とし、このまねを日本でもやろう(そのなれの果てが、「東京湾新都心」とか)などという提灯持ち記事があふれていたくらいだったので、こうした文章自体は意義あるものでした。

 でも、そこでいきなり、「かつては造船業の栄えていたロンドンドックランドも、近年は産業の衰退とともに荒廃し」などと書いてあるのには仰天しました。「ドック」とは、決して「造船所」のことではありません。これも日本人が勘違いしてきた誤訳・和製エイゴ化の一つです。いまではちゃんと英和辞典にも出ていますが、dockとは、船を入れるための掘り割り、さらには船を留めるところを指します。造船所は船を組み立て、水に浮かべる、あるいは船を水から揚げて修理するための場所がいるので、dock をもつことも多いわけですが、「造船所」はshipyard と言います。

 そして、イーストロンドンのドックランドというのは、かつて海運交通が世界の唯一の交通手段で、大英帝国が七つの海を支配していたころ、世界中からの船が首都ロンドンに集まり、テムズ川をのぼってきても、川岸だけではとても足りないので、そのまわりに巨大な掘り割りをいくつも作り、水を引いて船を入れ、貨物の積み卸しなどをやっていた、その地なのです。ですからかつては大英帝国の玄関口であり、その繁栄の象徴であったのですが、海運交通の衰退、また川を到底のぼれない船舶の大型化、一方大英帝国の地盤沈下で、次第にその地位を失ってきました。そして、戦後にはテムズの河口に洪水防止のバリアが設けられ、テムズ川は海運交通における役割を終えました。その結果、広大なドックランドの掘り割り、岸壁、倉庫や上屋は無用の長物となり、再開発の日を待たねばならなくなったのです。


 さて、このように英国の繁栄と衰退のシンボルでもあったロンドンドックランド、これは私には英国を訪れられる遙か前から、その名をよく知る地でもありました。私は学部の三・四年で、I先生の「社会政策」ゼミに属し、また当時I先生は「英国労働運動史」を講義しておりましたので、十九世紀末から二十世紀にかけ、従来の熟練労働者主体の労働組合組織に入れない、港湾労働者などの労働運動が高揚し、彼らが作った組合組織は「new union」と呼ばれた、などという歴史的事実を勉強いたしました。この「港湾労働者」とは、「dock workers」のことで、そこで「ドック」とは「港湾」なんだと知ったわけです。ロンドンのイーストエンダーズ、この典型的なロンドンなまりの労働階級たちは、かつておおぜいがドックで働いていたのです。

 こういったわけで、私が「ドック」とは「造船所」のことじゃないと知っていたのは、いくぶん重箱の隅的知識にも属するので、ニッポンのマスコミ関係者、新聞記者の方々に同じことを期待するのは、ちょっと無理があるかも知れません。そんなになんでも知っている人間がいるわけないじゃないか、と反論されてもやむないことでしょう。


 そのことを私もなんら否定しません。いくらマスコミ関係の人々でも、そんな「生き字引」みたいな、また単なる「物知りおたく」みたいなものである必要はないでしょう。むしろ知らなくてもいいものの代表格なのかも知れません。

 ですから、マスコミ関係者が記事や文章を書くための必要条件は、かならずしも際限ない知識の量ではないと思います。それに代わるものは、言論人にはむしろ最も重要な仕事である、「現場へ行く」、「取材を徹底する」ことだと私は考えます。伝聞や受け売りではなく、その「現場」に自ら足を運び、この目で確かめてみる、関係者に会い、いろいろ話を聞く、必要な資料に自分で当たってみる、これこそがジャーナリストの本領でしょう。

 その点、ドックランドを「造船所跡」と間違えた、某新聞のロンドン支局長氏は、まあ日本の言葉の先入観で「ドック」とは「造船所」のことだと思いこんでいたとしても、やはり書く前に自分で現場に足を運んでみるべきだったのです。そうすれば、間違いなく、ドックランドは造船所とは関係なかったと気がつくはずでした。長さ1マイル以上に及ぶ巨大な「ドック」、あちこちに残る倉庫などはあっても、造船所のシンボルであるはずの大きなクレーンなどどこにもなく、もちろん鉄工所の姿もなく、どう見たって船を造っていたところじゃありません。その一角を利用して、滑走路までできちゃっているのですから(ロンドンシティエアポート、私はなぜか、ここを何度か利用したことがあります)、だだっ広いことこの上なしで、これはどう考えても「港」だったんだろうとわかります。

 もちろん、ドックランド開発公社などを訪れ、説明を聞けば、昔の「造船業」の話しなんか全然出てこないと気づきましょう。あるいはまた、「英国の造船業」という項目を百科事典で読んでみれば、ロンドンというのはちっともなくて(まあ、プレジャーボートくらいはいまも沿岸各地、テディントンでも作っていますが)、タイン河畔のニューカッスルだ、スコットランドのクライド河畔だ、といったところがその中心地であった(いずれも、私は調査でずいぶん訪れました)とわかりましょう。



 ともかく、「なんでも知っている」必要はありません。そのかわり、ジャーナリストに与えられている使命であり特権は、うえに書いたように、「現場」を自分で確かめる、ということに尽きます。「学者」が知識に縛られ、そればかりにのめり込みがちなのに対し、ジャーナリストは、余計な知識は置いておいて、まず現場に足を運び、自分が確かめたことをなにより大事にする、これが強みのはずです。それは誰にでもできることではありません。社会は、そうした使命をマスコミ関係者に託しているからこそ、彼らは「新聞」や「プレス」の腕章を巻き、どんなところにでも大胆に入り込み、現場を確認し、関係者から話を聞いてくる、これができるのです。そして、そのために新聞社やTV局は大勢の記者を雇い(最近はそうでもなくて、「フリー」の人間たちをもっぱら使ってもいますが)、相当の取材費を与えているはずです。

 「現場」こそが主戦場、というジャーナリズムの理念を再確認してきたのは、斉藤茂男氏ら、近年「現代ルポルタージュ」の手法を確立し、優れた著作を相次いで記してきた人たちでした。既成の観念や先入観を捨て、まず現場に足を運び、辛抱強く多くの人たちから取材を重ね、そこから浮かび上がってきた「事実」を自分として整理し、表現し、世に問う、こうした仕事の数々は、下手な「学者」の論などよりよほどの説得力を持ち、後世に残る貴重な記録となってきています。その価値を疑うひとはいません。


 私も、こうしたジャーナリストの人々の仕事に非常に敬意を払っております。しかし残念ながら、そうした人たちが多数であるとはどうしても思えません。上記の某新聞ロンドン支局長氏、世界で活躍してきた某新聞大記者氏ら、大いに一文をものにするについて、「現場」に足を運ぶ、「裏をとる」話しを取材してくる、いろいろ調べて「知識」を確認する、こうした、いわゆる「ジャーナリズムの鉄則」と言われてきたものを、相当に省いてきてしまっていると痛感させられます。そして、そういった類の記事、番組などがあまりに多すぎるのです。


 ここ数年、政府・財界の「行革応援団」と化したニッポンのマスコミは、まじめな議論の材料よりも、いろいろ笑止千万なことを並べてくれました。その一つに、「ニュージーランドの成功に見習え」というものがありました。ニュージーランドは、大胆な行革と規制緩和、民営化を実行し、大いに成果をあげている、それでニュージーランド経済は実に好調である、こういった類のものが一時ニッポンのマスコミに氾濫しました。

 言うまでもなく、そういった成功箪の「現場」から、詳しい実情を取材し、行革の具体的な方法や、その効果、明暗それぞれの反響など伝えてくれれば大いに勉強になり、新たな議論に貢献するところ大でしょう。しかし、残念ながらそれらの多くは、どこかの情報源からながされるものの受け売り、焼き直しであることが見え見えのもので、いっこうに新味がなく、あんまり役に立ちません。

 それどころか、こうした「ニュージーランドを見習え」ものには一つ決定的な「事実」が欠けていました。それは、「ニュージーランドの人口はどのくらいでしょうか?」という質問へのこたえです。人口規模がすべてを決めるわけではありませんが、十億の中国と、人口40万人のルクセンブルクと、行政機構や「規制」のあり方が同じという議論はいくらなんでも暴論と、誰もが思いましょう。

 もちろん、ニュージーランドの人口がそんなに少ないわけではありませんが、これについてはニッポンでは相当に誤った先入観があることも事実です。私が聞いてみた範囲でも、ニュージーランドの人口について、あんまり違っていない数字をあげた人はごく少ないほどでした。国土の面積や形が日本に似ているので、よけい誤解を招くようです。

 さて、正解は「360万人あまり」です。これは、デンマークの2/3、スイスの1/2、オーストリアの2/5、ベルギーの1/3近く、ほぼアイルランド共和国と同規模です。これとルクセンブルクをのぞくと、現在のEU加盟国でニュージーランド以下の人口数の国はありません。旧ソ連領であったリトアニアがやはり、ほぼ同規模です。アジアで言えば、シンガポールがこれに近く、それ以下の人口規模の国は見あたりません。インド洋に浮かぶ、面積2000平方キロの島国モーリシャスでさえ、人口はこれの1/3の110万人です(ハワイ州もほぼ同じ)。

 日本で言えば、静岡県や横浜市がほぼ同規模です。茨城県が少し小さいくらいです。つまり、人口規模だけで見るならば、ニュージーランドの「行革」は、横浜市の話しと同じレベルなのです(もちろん、横浜市は日本「国」の一部なのですから、こういう言い方はまた別の暴論になってしまいますが)。

 ニュージーランドの人口規模がすべてを決めるわけではありませんが、この動かしがたい「事実」をもとに、その社会や経済構造、行政機構のありよう、これまでの経緯、行政改革や民営化の意義などをきちんと調べないで、人口規模でも実に33倍のニッポンがすぐそのまねをできるかのような話しを振りまくのは、ためにする議論と言わざるを得ないでしょう。人口1200万人近くの東京都に、ニュージーランドの以前の運輸省より大きい規模の交通局がいまだにあるからといって、それだけで怪しからんと言うわけにもいかないのと同様、ニュージーランドの運輸省が「田舎の町役場の庶務課並み」の規模にまで削減されたといっても、ともかく300万人あまりの人口しかない国なのですから、不便はまずないのかも知れません。

 まあ、あと「世界で初めて『最低賃金制』を定めた国」もニュージーランドであったなんて、ニュージーランドの行革礼賛のマスコミ関係者の方々の誰もご存じはないでしょう。学部では「社会政策」専攻(のつもりだった)私の、今ひとつの「重箱の隅」的知識です。


 ともかく、「事実」をだいじにしてほしいのです。それが、多大の影響力を持つ、現代のマスコミに欠かせない使命であり、社会的責務と思います。

 ちなみに、私がこんなことを繰り返し書いているのは、私のような「アカデミック」の端くれが書く「論文」の持てる影響力など、TVや大新聞、週刊誌などの影響力に比べれば、もうミクロン単位でしかないと、否応なく自覚せざるを得ないからです。本学のM先生が、自分のページで書いておられました。大学の『紀要』の類の「平均読者数」は、3人という説あり(書いた本人を含めて)、一方TVなどの「業界人」は、「オレたちの作っている番組の視聴率がたとえば10%とすれば、実に1000万人が見ているということなんだ、どうだ」とすごんでみたり、いきがったりしている、何なんだろ(その「数字の解釈」自体、勘違いなんだとM先生は言っておられるのですが)、というわけです。1000万人が誇張であっても、マスコミ業界人が胸を張る理由は確かにあります。TVでなくたって、大新聞の発行部数は毎号数百万部に達しています。週刊誌の影響力は、買って読まなくっても、中吊り広告の見出しを含めて絶大なものです。

 そうであれば、その責任は大変なものでなくてはならないでしょうが。しかし、威張ってみせる方は得意でも、責任を問われた際の居直り、居丈高な「言論弾圧だ」口上の猛々しさもまた相当なものです。私は、欧米流の「民主主義社会」の、少なくとも建前としての理念は、「チェックアンドバランス」であり、「批判と議論のあるところに進歩あり」だといまも思っておりますが、残念ながらマスコミは、その例外のようで、現代における、チェックなき一方的な権力機構であるとも思います。マスコミ関係者の方々の最大のよりどころである、「言論の自由」に関して言えば、それは「マスコミ関係者」のみの「自由」であり、それ以外の人間には何の縁もないもの、と言う方が正確でしょう。


 ニッポンのマスコミ人たちの多くの特徴は、ともかく「学がある」ことではありません。また、「現場」をなにより大事にすることでもなさそうです。では、それが「マス」コミであることを認められている、無意識の根拠は、どうやら「大衆の代弁者」にありそうなのです。

 最近もっとも政治的影響力がありそうな、TVのニュースショーなどに登場する、大新聞の大物ジャーナリストなどの特徴は、豊富な現場体験を語ることでも、新しい事実を探ってくることでも、いろいろ知識見識を披瀝することでもなく、「視聴者とともに怒り、笑い、泣く」ということにあるようです。もちろんそれには、「ジャーナリスト」の肩書きが不可欠というわけでもないので、その役割はしばしば、現代の「大衆」の代弁者である、「お笑いタレント」などにも置き換えられます。マスコミ関係者のみに独占された機会を、あたかも「一般大衆」にも開放し、語らせているように見せるため、こういった役どころがいまや必要になっているのでしょう。でも、それはもちろん根本的には「やらせ」の一種です。そして、それの片棒を担ぐ以上の役割は期待されず、またそれにご本人も満足しているのが、「ニッポンのジャーナリスト」たちなのです。

 ただ、それはいつも書きますように、かなり「ニッポン的現象」です。少なくとも西欧社会ではいまも、ジャーナリストは代表的「知識人」の一部です。その学のあるところを、たとえクイズ番組ででも披露しないと、格好がつきません。ましてや、ニュース番組などに登場し、あるいは「本業」で新聞雑誌に評論や記事を書くのに、ペダンチックなまでの知識と、持って回った表現の限りを尽くさないと、ジャーナリストとしての評価はついてきてくれません。




 ただ、私はそうした西欧流の「知識」と「言論」に大きな疑問も抱いています。「庶民感覚」を至上のものとする、ニッポン流のマスコミ人たちはまた、素朴に、ひとの国に勝手に爆弾を落とすなんて、そういうのはありなのか、とか、その犠牲者はわれわれと同じ「庶民」じゃないのか、という感覚で、疑問を呈します。ところが、「学のありすぎる」、そして「知識層は、社会をリードしなくちゃいかん」といった「使命感」に燃えた西欧の「ジャーナリストたち」は、いかにこの戦争が必要なものなのか、とか、サダム・フセインやスロバン・ミロシェビッチがいかに凶悪危険な連中なのか、といった「事実」と「論理」を、全力を挙げて説こうとするのです。結果として、どちらが真に世のためなのか、これは大問題でしょう。


 今度の「第二次イラク戦争」に際して、英国のマスコミは、突如「大本営発表」の場となってしまいました。出てくるのは、英国政府首相、国防相、外相と、英国軍参謀長、そして米国国防長官、国務長官、現地軍司令官のみ、彼らの「発表」と「見解表明」のほかは、奇妙なことに、現地バグダッドからの中継放送だけです(あ、それから不倫トンなんていうのもいたな)。米軍空母や英空軍基地からの「発進」の模様といったものは、いつ撮ったのかもわかりませんので、なんら「報道」とも言えません。

 つまり、「戦争」を伝えているのは、「敵国」の首都からの中継放送、砲撃音と、クルーズミサイルが落下して起こった爆発の閃光、といったもののみだったのです。これがきわめて「異常」なことであったのを、当のマスコミ関係者はまったく自覚していませんでした。彼らは、「現地にあって、爆撃の模様と効果、市民の状況を伝えられる」ので、これが重大な「現地」報道の機会と考えていたようですが、いいですか、一方的な戦争を仕掛けた米英の「報道陣」が、その攻撃下にある町から「中継放送」を行っているなんていうことが、かつてあり得たでしょうか?第二次大戦下、ドイツの記者たちが爆撃下のロンドンに陣取り、その模様を逐一ベルリンに伝達・放送なんて、あったでしょうか?

 つまり、この宣戦布告なき攻撃とともに、米国CNNや英国BBCなどの記者連中は即刻拘束、強制送還されるか、悪くすれば監獄行きとなる、それが「戦争」です。それを、一方では爆弾とミサイルの雨を降らせながら、他方ではその攻撃を浴びているところからの自国TV局の手による「現地中継」を眺めている、この米英国ってなんなんだろ、ということです。さすがに、この「異常な事態」は、それを許していたイラクの対応も含めて、「The Observer」が問うていましたが。

 このような、異常なまでの「報道の特権」が通用していたにもかかわらず、英国の各TV局は、「外務省の勧告に従い」、イラク国内からの報道は、「イラク政府側の監視下のもので、自由な報道は許されていない」旨の注釈を付け加えることを怠りませんでした。ミサイルの攻撃で破壊された病院、負傷者の姿が映されても、これはあくまで、イラクのキャンペーンの一環として、「案内され」、報道されたものだ、としないと、ロビン・クックのお叱りを被るわけです。

 しかしそれでもなお、ブレアは、BBCのニュースがこの注釈を落としたことがあった、「イラク攻撃批判」のアラブ世界や欧州他国の動きを故意に誇張して伝えていると、「抗議」を申し入れたそうです。しかし、その「自由な報道」のできるはずの側では、上記のようにほとんど「大本営発表」の場と、その軍の提供する「ミサイル命中!」のTVゲーム画面しか出てこなかったのです。世界中から完全に孤立した、米英軍の行動に対しては、上記のように、さすがにBBCも他国などでの「批判」を伝えざるを得なかったのですが、それらは皆「一瞬」で、ただちに国防相や外相の「反論」を延々と伝えるといった、念の入ったプロパガンダぶりでした。

 そして、4日間の一方的な爆撃後、ようやく「爆撃に参加した英空軍パイロットたちへのインタビュー」といったものが放送されたのですが、驚くべきことに、これらではすべて当人たちの顔が隠されていたのです。これにはあとで、「当人たちが将来、『テロリスト』の攻撃にさらされる恐れ」に配慮したのだ、という説明が入りました。ひとの頭上に爆弾の雨を降らせながら、自分たちは物陰に隠れる、爆弾に傷ついた人々の姿を映しても、爆弾を落とした連中の匿名性は保護する、さすがアングロサクソンの卑怯もきわまれり、です。しかし、それでも、「イラクの市民もだいぶ死んだりしたようですが、いまのお気持ちは?」といった「突撃質問」はなく、すべて、軍の「指導と監督下」のインタビューであることは見え見えでした。

 こんな「報道」しかできない、大本営発表と翼賛報道をやっている連中が、イラク「現地」にいる記者に対し、「市民は、政府のプロパガンダに対し、どう反応しているのですか?」などと問うていたのには、思わず失笑してしまいました。なるほど、イラクでは「政府批判」の報道は許されていない、言論統制下にある、しかし、自分たちも「自由な報道」のつもりで、実際には軍のご意向にすべて従い、ブレアの「熱弁」をいかに伝えるかに終始している、あるいはこの事態をいかに正当化するかに論を尽くしている、これはまさしく、「マスコミ関係者」以外にとってはやはり何の自由もない、五十歩百歩です。


 それでも、時間が経つに従い、この「戦争」への疑問の声は否応なく出てこざるを得ません。そもそも、このすさまじい爆撃と破壊は「なにを実現」したんだ?という声は、米英軍のやること支持、という翼賛側からも聞こえてきます。BBCの風刺番組では、「イラクでは、国連査察委員会というのはスパイだ、と言っているけど」、「その国へ入り込んで、抵抗を押して、軍事上の機密をつかんでくる、写真に撮る、報告を送る、あ、そりゃ確かに『スパイ』と言うな」。「スパイ」扱いにならないために、「不在時訪問票」(電気料金の集金にいって、留守だったから、連絡を待つ旨書いておいてくるやつ)を置いとけばいい、とか。あるいは、イラクからの「査察団」と称して、それらしい格好をして本当に英軍基地に押し掛け、「生物・化学兵器が隠してないか査察する」と叫んでみたり(実際に「アポなし突撃」であったのかは不明だけど)、米英人たちの手前勝手、独善的発想をかなり皮肉っておりました。



 しかし、対イラク戦争ではこのくらいの疑問も出てきても、こと対セルビアとなりますと、とたんに目が血走り、憎しみに満ちた言葉しか出てきません。同じBBCの年末恒例、「この一年間を振り返る」番組では、コソボ問題について、「自国内では『愛国者』とも言われるが、『バルカンの屠殺者』とも呼ばれる」スロバン・ミロシェビッチと呼び捨て、彼が「独立を求めるコソボのアルバニア系多数派住民に対し、戦車と大軍を動員して村を焼き払い、人々を大量虐殺し、50万人もの難民を生み出した」、「NATO軍の爆撃の威嚇によってようやく、軍を退かせることを認めた」と、憎々しげに解説をしていました。その憎しみの程度は、29人の市民を虐殺した、北アイルランドオマーでの「Real IRA」の爆弾テロに対するものどころじゃありません。

 しかし、セルビア軍の行為にいかに非難さるべきものがあっても、どう考えてみたって、この「解説」には、大事な言葉が欠けています。KLAコソボ解放軍というアルバニア系の武装組織、その「攻勢」があったからこそ、ミロシェビッチ大統領は「テロリストの行動をおさえる」として、軍を出動させたのです。しかし、いまや米軍=NATO軍はもとより、西欧のマスコミはあげて、「KLAの蜂起支援」に向かって動いているようです。  KLAが西欧マスコミの前に姿を現したとき、「KLAはdad's army」という記事まで載せて、さっそくに親近感をかき立てるキャンペーンが行われました。dad's army というのは、第二次大戦で設置された、英国各地の民間自衛組織をもとにした義勇軍を描いた、60年代からのお笑いTVドラマシリーズで、映画にもなっています。なんせおじさんじいさんばっかりの「軍」ですから、威勢だけで、満足な武器もなく、間抜けな珍騒動を相次いで引き起こすというわけです。このように、戦争なんかに縁のなかったコソボのアルバニア人の村人たちが、自衛のために、手製の武器を携え、てんでんバラバラの格好で集まっている、という図を連想させます。「おっちゃんたちの軍隊」といったところでしょう。

 KLAがほんとに「おっちゃんたちの軍隊」であるのか、これはどう考えても相当にウソです。あまり大きく「報道」されたことはありませんが、KLAは本部をスイスに構え、潤沢な資金を世界中から集め、さらにドイツ国内に軍事訓練施設をもって、相次いで大量の精鋭をコソボへ送り込んでいると伝えられています。特に、NATO軍の威嚇による「撤兵」合意後、KLAは大手を振って、大量の最新武器弾薬を続々運び込んでおり、その兵力は飛躍的に強化されているそうです。最近の『Evening Standard』紙は、KLAがいかに武装強化しているかだけでなく、世界的なマスコミ対策と対政治工作で非常に洗練され、世界中のマスコミを食事付で「招待」、大いにPRに努めていると、記者の経験を伝えています。これまでは「too macho」であったので、「テロリスト」のイメージは絶対になしにする、アルバニア系政治家や住民組織への脅迫はやめ、「われわれは和平工作に反対ではない」とし、要求スローガンを「コソボでの住民投票の実施」一本に絞る、さらにインターネットでの広報から、KLAグッズの販売までやって、ソフトイメージを広げる、これが戦術だそうです。そして、コソボの紛争を隣のマケドニアに広げないことを米国特使に約し、それによって事実上の公認を得、現在では(IRA同様に)米国内での資金集めを公式に行えるようになったそうです。

 (ちなみに、この状況は、「グッドフライデイアグリーメント」下の、IRA=シン・フェインとよく似ています。この「合意」のおかげで、シン・フェインは事実上合法政党となり、北アイルランド自治議会に議席を占めるとともに、おおっぴらに世界中で宣伝と資金集めを行い、米国ではいまや「民族解放の英雄」扱いです。そして、過去の数々の殺人破壊の実行者たちはもうすぐ全員、刑務所から大手を振って出てきます。ところが、今ひとつの「合意」のポイントであったはずの「武装解除」は全面拒否、いまやIRAは、強大な軍事力と政治的力をあわせもった、事実上の「次の北アイルランド支配者」になろうとしているのです。こういったシナリオになることは、私がこの「絵日記」でこれまで予想してきたとおりです。さあ、NATO軍はIRAを「友軍」として歓迎するんでしょうか、それとも、クルーズミサイル攻撃で、その兵器庫を「つぶして」いくんでしょうか)。

 つまり、KLAはすでに、米軍=NATO軍公認の「友好軍」になったのであり、その指導と助言を受ける立場になっているのです。もちろん、こうした「ソフトイメージ」とPRについては、かつて「ボスニア・ヘルツェゴビナ政府」が「独立宣言」と内戦開始とともに、大金を投じて米国の有力広告会社と契約し、国際的な同情キャンペーン、もちろんその裏返しとしての「セルビア憎し」キャンペーンを行ってきて、大いに効果をあげた経験が生かされているのでしょう。どこかの広告会社がまたついているものと思えます。これに比べ、ミロシェビッチ氏の「PR下手」は明らかで、「こわもて」イメージばかり、その点ではサダム・フセイン氏の足元にも及びません。



 しかし、一方的にセルビア政府の手を縛った「合意」のかたわら、大手を振ってKLAの武装強化と大宣伝が行われ、コソボでの支配圏がどんどん広がっていくとなりますと、この地を「コソボの戦い」=「セルビア人の愛国運動の歴史的聖地」(イェルサレムのようなもの)とするミロシェビッチ氏らにとっては耐え難い事態となります。実際、ソフトイメージとは裏腹に、KLAはセルビア人の警察や村落を襲い、殺しまくっていますので、この挑発から、近々にセルビア軍が再攻勢に出、それを待ちかまえていたNATO軍が大爆撃をはじめるのは、もう規定のシナリオとせねばならないでしょう。

 これはNATO軍にとってはむしろ千載一遇の機会です。現在の米軍=NATO軍の世界戦略は、その支配に従わない、それにとって危険な対抗的軍事力を破壊し、屈服させることにあります。いまや、かつてのNATO軍の最大の敵であったワルシャワ条約機構軍は解体し、それを構成していた、ポーランド、チェコ、ハンガリーなどの軍は先を争ってNATO軍への忠誠を誓っています。その親玉であった、現在のロシア軍は依然「敵」ですが、いまでは兵への給料も払えず、もう事実上崩壊したも同然で、無害な存在になりました。そうなりますと、中国を別格とすれば、NATO軍の本来の勢力範囲でじゃまなのは、イラク、イランと新ユーゴスラビアくらいで、これを叩けば、事態は一段落です。「こういった危険な連中に大量破壊兵器を持たすな」と、世界中の大量破壊兵器を独占しつつある米軍=NATO軍が叫んでいるのですから(史上最悪の大量破壊兵器を使って、数十万人を実際に虐殺した「前科」があるのは、旧ソ連でもイラクでもパキスタンでもどこの国でもなくて、米国です。なぜか、みなさんそれをお忘れになっているようです)、こんなことはそれこそ、子供にでもわかりましょう。


 ですから、「完全独立を要求するKLAの勢力伸長には、NATO軍も頭を悩ませている」「雪解けとともにコソボでの戦闘が拡大するのを恐れている」などという西欧の報道はまったくのウソプロパガンダで、もうそれに向けてのシナリオはできあがっているのです。NATO軍のミサイルと爆弾が、新ユーゴスラビア連邦軍の各基地、航空機、戦車などを破壊し尽くす、もちろんそれには今度は、米英軍だけじゃなく、ドイツ、フランス、イタリアなどの「社民党」政権軍が争って参加する(今度は「第一次イラク戦争」での失敗を教訓として、さらにミロシェビッチ逮捕、政府・軍指導部逮捕一掃と「戦犯裁判」、「親NATO政権」樹立までやるでしょう)、これは残念ながら間違いなく当たる予言です。そして、このシナリオ実現に向けて、西欧マスコミの「セルビア憎し」キャンペーンは、とどまることを知らず進んでいます。

 昨年秋、NATO軍の「セルビア爆撃」脅迫が頂点に達したとき、BBCの報道番組を見ていたら、珍しくセルビア系の調査団体の人物が、「セルビア弁護」の役割で出ていました。しかし、彼に発言が許されたのはたった一回きり、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦が取り上げられ、NATO軍の爆撃の「効果」が言われたのに対し、「西側の一方的なボスニア独立承認が、内戦につながった事実も見るべきだ」という、従来からの主張を述べられたときだけでした。しかしそれに対し、隣にいた「ボスニアでの犯罪調査」にかかわってきたとする人物が血相を変え、「あんた、ボスニアのセルビア人がどんなに残虐だったのか知らないとでも言うのか、市民の手足を縛り、次々に殺していったんだぞ」と怒鳴りつけ、それにセルビア側として反論をしようとした途端、司会者(アーロノビッチ)が一方的に「番組終了」を宣言、まさしく番組全体が「セルビア人糾弾」の場となって終わったのです。ただ、その場に「セルビア側の人間もいた」ということで、「一方的なものではない」という体裁ができあがったわけです。


 なぜ、このように、セルビア「人」への憎しみをあおることに西欧マスコミは熱心なのでしょうか。ボスニア内戦で重大な犯罪行為があったとしても、それはその当事者の問題であり、決して「セルビア人という奴ら」全体の責任ではありません。コソボの問題とボスニア内戦は直接には関係はないし、そのためにセルビア共和国の国民全体が罰を受けなくてはならないなどといった、19世紀的理屈はどう見ても通りません。それとも、いまだ残虐な爆弾テロで、多くの市民を殺しているIRA系の犯罪を罰するべく、アイルランド共和国を爆撃せよ、というのでしょうか?まして、ボスニア内戦における犯罪行為は、セルビア人の専売特許でなく、ムスリム人系もクロアチア人系もさまざま残虐な犯罪行為を行っていたことは、「旧ユーゴスラビア戦犯法廷」も指摘していることです。ところが、西欧マスコミは旧ユーゴにかかわる問題を伝えるたびに、必ず「ボスニアで多数の住民を虐殺したセルビア」という形容詞を冠します。

 こうした、「事実」を決してふまえない、ためにする「報道」の意図するところは、「やっちまえ」という戦争キャンペーンであることは自明でしょう。


 「知識」をもって、国民を操作誘導しようとする、西欧マスコミの「使命」も願い下げです。だいたい彼らだって、決して「事実」を「現場」から伝えているのではありません。うえに書いてきたように、むしろはっきりした意図をもって「事実」を隠し、あるいは半ば無意識に、自分たちが「絶対的な客観者」、ひいては「裁き手」「神の手」を演じているものだなどと信じ込んだりしています。

 たとえば、そうした彼らに決定的に欠けているのは、イラク攻撃でもセルビア攻撃でも、米英軍やNATO軍には、一方的に他国を爆撃する「権限」がどのように与えられているのか、という問題意識です。日本での報道とはまったく異なり、少なくとも英国の報道では、国連憲章や決議のどこに、このような「イラク爆撃」の根拠があるのかとか、「人権侵害」を言えば、その国の主権を一切無視して、懲罰爆撃を行えるという、新しい「国際法」ができたのか、という議論もまた主題も、まったくありませんでした。「かくかくの目的」と言えば、何をやってもいい、という議論しかないのです。せいぜい、その「目的」が実際に達成可能なのか、とか、それに伴う「被害」などの問題はどうするのか、というところどまりです。もちろん、これは完全に「19世紀帝国主義」の論理そのものです。


 ですから、こんな物騒な連中に「マスコミ」をゆだねているより、「学」はないし、弁も立たないが、せいぜい「庶民の立場・目線」で、「そういうのはおかしいんじゃないですかねえ」、「不倫トンの苦し紛れの一発じゃないんですか」と、一方的な爆撃に疑問を呈したりしている、ニッポンのマスコミ関係者の方が、よほど無害安全かも知れません。まあ、BBCラジオ4の聴取者を知らなくても、ドックランドを訪れていなくても、人畜無害ではあります。ニュージーランドの人口など気にもせず、「あれを見習え」とやっても、ひとが死ぬわけでもありません。どんなにピンぼけでも、殺人・破壊と侵略にピントがあっているよりはましです。


 ただ、せめて「現場」で「事実」を見てきてほしい、そして誰への気兼ねでも、「戦略的配慮」でもなく、自分自身の「報道人」としての責任において、その「事実」を伝えてほしい、これが私のマスコミ関係者への願いです。「大衆の目線」が逆に陥りがちな、その「大衆」レベルの、既成の「先入観」を満足させるのじゃなく、「事実」を発見してきてほしいのです。



 なお、「カクストン」(W. Caxton)とは、15世紀英国の印刷術の発明者です(グーテンベルクじゃなかったか。こっちはどうやら「世界最初」らしい)。



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