東海村JCOの事故から5年になるのだが、きょう、見聞きした範囲のニュースでこれにふれたものはない。この国の原子力産業で「初めての死者」というのがあの時のふれまわり方だった。あれは臨界事故の深刻さよりも、それほどレアケースの事故というニュアンスを含ませたコピーだったが、8月の美浜の事故によりそのいいわけは吹っ飛んでしまった。いま、原子力関係者は美浜事故を二次系に発生した危険度の低い事故とアピールしている。

 ふたつの事故がハインリッヒの法則にいう致命的な大事故の前駆たる中事故であるかもしれないという可能性については考慮しなければならないはずだが、彼らはチェルノブイリ級の事故が起きるまでは「しのげる」と考えているのだろう。嫌なこと、都合の悪いことは見えない、見たくないという性向は、旧軍にも共通するものだ。

 原発所在地の近隣住民は自らはその意識がないのに「シュレジンガーの猫」として扱われているわけだ。だが、彼らはそのことを一切知らずに今夜も眠りにつこうとしている。(9/30/2004)

ハインリッヒの法則:ここに解説があります。

シュレジンガーの猫:ここに解説があります。(あまりわかりやすい解説ではないかも知れませんが・・・)

 イチローは好きではない。だから最近の「年間最多安打記録」に関する報道には辟易している。NHKのニュースは、毎日、等身大の姿写真を双六のコマよろしく移動させているし、朝日新聞はけさは天声人語で取り上げ、先日はなんと社説でも取り上げた。はやり言葉を使えば「たかが野球選手」のそれもたかが「年間最多安打」程度の記録を社説に取り上げる神経は解しがたい。朝日は祖父の代からの購読紙ではあるが、もう新聞を変えようかとさえ思った。変えるとしたら候補として考えないでもない毎日新聞はけさの朝刊の一面トップにイチローを据えたという。これでは購読紙を変える意味がなくなってしまう。

 まったく、なんという時代だ。安心して「狂」ずることができるヒーローをメディアが総動員で誉め上げ、これに万人が一斉になびくという図はファシズム社会のひとつの徴候ではないか。

 一連のイチローニュースで訝しく思うのは、いままでの記録保持者シスラーの年間257本という安打はいったい何試合で達成されたものか、それと比較してイチローのペースは速いのか遅いのか、そういう報道をほとんど耳にしないことだ。先日、NHKニュースはじつに奇怪なグラフ(注1参照を報じた。そのグラフはシスラーとイチローの累積安打数の延びを折れ線グラフで表わしたものだった。縦方向に安打数を刻むのは当然。奇怪に思ったのは横方向の目盛りが「残り試合数」となっていたことだ。「なぜ試合数にしないのだろう?」。こういうグラフはシスラーとイチローがどのようにヒットを重ねているかを比べるためのものではないのか。50試合消化時点でシスラーが何本、イチローは何本、100試合では、150試合では、・・・。

 どこか作為的な感じがするので調べてみた。結論はこうだった。シスラーが257本の年間最多安打を記録した1920年、年間試合数は154試合だった。ことしの年間試合数は162試合だ。そして既にマリナーズは157試合を消化したが、イチローはまだシスラーの記録257本には届いていない。シスラーに与えられた154試合でイチローが打ったヒットは250本だった(注2)。横方向を「残り試合数」で目盛ったのはこういう理由だったのだ。

 多い試合数で、多いヒットを打ちそうだ、それがこれほど騒ぎ立てる話なのだろうか。試合が多ければ、ヒット数も多くなるのはなんの不思議もない必然の話ではないか。

 イチローが凡庸だと言う気などない。たしかに「記録」の名前は「年間最多安打」だ。だから看板に偽りがあるわけでもない。だが「シスラーを上回る新記録」というのは言い過ぎだろう。比例換算すれば、シスラーは162試合ならば270.35本のヒットということになる。しかしこんな計算はバットを持たない暇人がするだけのこと。勝負の世界に「たら」と「れば」はない。154試合終了時に何本打っていたか、それがひとつの事実であり、155試合目以降はまた別の事実、別の記録だというべきだ。将来、年間試合数が200試合になって年間320本の「最多安打記録」を作る選手が現れても、それはイチローの記録とは別の記録だ。イチローの記録は162試合制における「記録」だ。「シスラーを上回る新記録」ではない。「年間最多安打記録」などというものはその程度のものだ。

 意図的な盛り上げに載せられて、興奮しまくっている人にはこんな質問をしたい。「双葉山の年間最多勝記録30(1敗もしていない)と北の湖の年間最多勝記録82(8敗している)を比べることに意味があると思いますか。アッ、双葉山の頃は、年二場所だったんですが・・・」、と。

 イチローが好きではない理由はいくつかある。ただ、大騒ぎしている「新記録」が「達成」されたとき、インタビューを受けて素直に喜びを表そうと表わすまいと、彼が「シスラーとは試合数が違うから比較しないでくれ」とでも言ったら、幾分は見直す気持ちになるかもしれないが、彼はそういうキャラクターではないだろう。だから好きではないのだ。(9/29/2004)

注1)その時のグラフの9月29日現在のものはここにあります。

注2)今シーズン、イチローは一試合欠場しているので、正確には、マリナーズの154試合目でのイチローのヒットは250本、イチローの154試合目でのヒットは251本、ということになります。いずれにしても、シスラーの257本を追い越すためにはイチローは、154試合では足りなかった、もう5試合多い159試合が必要だったということです。
ゴールラインを過ぎてウィニング・ラン・ゾーンで金メダリストを追い越したって、金メダルは・・・もらえないんじゃないかなぁ。

 けさの天声人語の書き出しは「三段跳びのことを昔はホ・ス・ジャンプといっていたそうだ」となっていた。なにしろ先週社説にイチローを取り上げた朝日新聞のことだ。内心、「おいおい、内閣改造の翌日が三段跳びの話かよ」と思った。

・・・ホップ・ステップ・ジャンプの略である。いまの名前に変えたのは、アムステルダム五輪の金メダリスト織田幹雄だといわれる▼三段跳びで重要なのは最初のホップである。高く跳びすぎないことだ。高く跳べば跳ぶほど前へ進む力が減じ、失速してしまうからだ。小泉政権を振り返って、この三段跳びの鉄則を思う。発足時のホップが舞い上がりすぎではなかったか▼自民党という重力から少しでも離れようとした跳躍意欲は理解できる。しかし、去年の内閣改造、第2次小泉政権発足をステップとすれば、「改革」の原則は否めない。重力に引き戻されたのか、跳びも小さくなった。・・・

 久々に的確な指摘で拍手。しかしコイズミを弁護してやるとすれば、最初から「三段」跳べると分かっていたわけではないのだから、ホップをよいジャンプにつなげられるように留意することは難しかったろうよ。もっともコイズミに「遠くまで跳ぶ」という明確な意思があったかどうかは定かではなく、ホップにして既に踏み切り板との角度が浅く著しく曲がった方向へ跳びだしていたことは衆目の一致するところだろうけれど。(9/28/2004)

 どんな「サプライズ」が出るか、マスコミ各社、それこそ息を詰めるようにして待った自民党三役と内閣改造。こんどばかりはもう「サプライズ」はなかった。

 いや、まったくなかったわけではない。幹事長、武部勤、これがユルいサプライズ。そして安倍晋三が幹事長代理に「降格」とは嗤える。福田は逃げ切り、安倍は愚図愚図しているうちに逃げ遅れた。安倍の浅い底はこの一事に曝露したが、本人はそこまでの意識はなかろう。バカな男だ。

 この閣僚名簿、これを「地に足の着いた歩みのスタート」と見るべきなのか、「もう知恵も浮かばぬ、でがらし状態」の現れと見るべきなのか、選ばれた顔ぶれ、皮肉のひとつ悪口のひとつを言いたくとも、こうも粒が小さくかつ影が薄くては判断もつかぬ。

 セントラルリーグ優勝は中日ドラゴンズになりそうだ。ドラゴンズの優勝するとき、相前後して内閣が倒れるとのジンクスあり。この先2年と思って漕ぎ出す小泉内閣、行く手に龍神が雲と雨を呼ぶやも。(9/27/2004)

 朝刊のスポーツ欄にきのうから「揺れた103日」という囲み記事が載っている。きょうはその「中」。そこにこんなくだりがある。

 決裂し、ストライキを招いた17日の交渉。(巨人は)新規参入について「来季に向け」「最大限の努力」との文言を合意文書に入れるよう要求した選手会にオリックスとともに強く反対した。
 (巨人は)22、23日の交渉で豹変する。孤立したオリックスも態度を変えざるを得なかった。ある球団幹部が打ち明けた。「巨人の清武代表は先週、古田君を怒らせるようなことばかり言った。今週は全然違った」。ストは回避された。

 記事は「巨人を動かしたものは何か」と書いて、その理由をストでも衰えない選手擁護のファンの声などの風向きの変化のようなものを列挙している。それはそれで正しいのかもしれないが、どうもそういうことだけではなく、もっと明解な理由があるような気がする。

 おととい、ライブドアに遅れること8日で楽天もNPBに加盟申請を行った。楽天の本拠地構想は、当初の大阪・神戸から長野、そして仙台とこの数日間でめまぐるしく変わった。それは報道の問題であったわけではない。太田大阪府知事、田中長野県知事、そして浅野宮城県知事らがその都度コメントを流したことは単に観測記事が独り歩きしたわけではなかったことを示している。楽天の三木谷社長は先月まで「プロ野球はやらない」と言っていた由。それが突然の新規参入宣言。三木谷を紹介するきのうの朝刊「ひと」欄の書き出しはこんなものだった。

 トヨタ自動車の奥田碩会長、三井住友銀行の頭取、全日空やローソンの社長・・・。24日、加盟申請後の記者会見で発表した、運営会社の助言メンバーだ。「プロ野球に新風を吹き込む」と標榜して、新規参入を表明してから1週間余で、したたかに大物財界勢力を取り込んでいた。

 記者は三木谷のビジネス展開の早さを書きたかったのかもしれないが、この話を逆にとらえたらどういうことになるか。つまり「ライブドアはどうしても嫌だ」が、新規参入を実現しないことにはどうしてもおさまらないとすれば、いま少し「言葉が通じそうな相手にして欲しい」と誰かが言ったとする。それを受け止めた財界の一部が既に公表されたこのフレームワークを固めて楽天に持ち込んだと仮定したら。

 ストはあえて「やらせた」のではないか、そういう疑念がぬぐえなかった。だが、「なんのために」、それが分からなかった。答えはここにある。「楽天がライブドアに追いつく時間稼ぎのため」だ。

 先行するライブドアの時間的アドバンテージを帳消しにするために選手会を挑発しストを打たせた。楽天は、もらった一週間を有効に使って、一気にライブドアに並んだ。こう考えると、

といった不思議が一気に合理的に説明できる。

 この仮定が正しいとすれば、新規参入は「楽天」に決まり、ということになるのだが、はたして如何。(9/26/2004)

 まだ少し頭の芯が痛い。そんなに飲んだわけではなかったのだが、あのレッツィーナとかいう松ヤニのワインがくせ者だったのかもしれない。

 昨夜、書き損ねた、NPBと選手会の合意について。先週は一日遅れだった日経の社説もきのうは加わった。まず読売以外がこれをどのように書いたかを記録しておこう。

 スト嫌いのサンケイ(この間、サンケイは二回、社説に取り上げた:以下はNPB・選手会協議の始まる22日の分)でさえ、

 スト決行について、読売新聞の社説は、「ファン裏切る"億万長者"のスト」との見出しで、選手会を激しく非難した。非難されるべきは、選手会の主張に耳をかさず、当初は話し合いのテーブルにも着かなかった経営者側にあるのではないか。・・・(中略)・・・根来泰周・コミッショナーが強い指導力を発揮、仲裁に乗り出すのが、本来のコミッショナーの役目である。改革案は示したが、調整をせずに辞任を表明したのは無責任ではないか。

と書かざるを得なかった。経済紙の立場から通常ストに厳しい日経もきのうの社説はこうまとめていた。

 スト突入決定後の各種世論調査はどれも、選手会を支持し球団の削減に反対する意見が圧倒的多数を占めた。NPB側は、ストによってあぶり出されたファンの声つまり世論に気押され、今回この問題で譲歩したと思われる。プロ野球の運営がファンの声を無視して成り立つわけはない。球団経営にあたって、ファンの意見を尊重するのを大衆迎合と考えるのは了見違いというものだと、NPB側は思い知ったに違いない。

 先週「ファン裏切る"億万長者"のスト」と選手会を揶揄、批判した手前、いったいどのようにリカバリーを図るかと注目した読売の社説だったが、さすがに「残念なのは、選手会も経営側も、それぞれプロ野球の将来を真剣に考えているのに、理解し合えなかったことだ」とトーンダウン、それでも、まだ、「NPBに、自分たちの主張を正しく選手たちに理解してもらい、ファンにもアピールする努力が不足していた感は否めない。それが『かたくなだ』といった批判を浴びる結果となり、最後は譲歩する形で妥結に至った」と、精一杯、経営側を持ち上げて書いているのが可笑しい。

 はたして経営側に「自分たちの主張」などというものがあっただろうか。その「主張」は、せいぜいがところ、「球団削減」経由「一リーグ」行きという負け犬の退却作戦だったのではないか。かりに人員リストラ策が無能な経営者の発揮できる知恵の限界だというなら、それでもいい。それでもいいから、6月なり、7月という早い段階で、「たかが選手」などと切り捨てるのではなく、ビジネスパートナーとしての選手会と話し合いをしていたならば、これほどの混乱は起きなかっただろう。おそらく誰もがそう考える。

 つまり、混乱を招いたのは、ほぼ百パーセント、渡辺恒雄に指揮された読売グループとオリックスの宮内、なぜか裏工作に情熱を燃やした西武の堤、そして舞台裏で「損害賠償請求は可能、選手会はストライキはできない」という文書を各球団オーナーに配布したという根来コミッショナーという面々の責任だったのではないか。

 18日から20日、そして24日にいたるわずか一週間の4編の社説を通しで読んでみると、読売新聞のまことにブザマなウロウロぶりが読み取れて嗤える。これは読売グループのエゴイズムに振り回された故のことなのか、それとももともと読売新聞論説委員の頭がそろいもそろって悪いのか、いったいどちらと考えたらよいのだろう。その両方なのだろう、きっと、呵々。(9/25/2004)

【参考】

 小泉首相が国連総会で演説、国連改革と我が国の常任理事国入りを訴えた。けさの朝毎読三紙と東京新聞はそろって社説でこれを取り上げている(日経・サンケイは国連などには関心がないようだ)。論理的に基本から論議を積み上げ、問題点を不足なく丁寧に書いているのは東京の社説だった。

 我が国の国連分担金負担率は20パーセント弱、最大の負担率を割り当てられているアメリカが支払いを凍結・滞納しているため、現実には最大の負担国になっているし、ODA(政府開発援助)にしてもアメリカの23パーセントに次いで世界第2位の13パーセントを占めている。国連のミッションである世界の平和と安全の維持、そして経済・社会・文化・人道の各側面における課題解決に、然るべき地位を得て、これまで以上の働きをしたい、するべきだというのはけっして突飛な考えではなくむしろ自然な話だと言える。しかしここまでのことだけで安全保障理事会、その中の常任理事国のイスを求めるのは論理の飛躍がある(安全保障理事会の他にも経済社会理事会、信託統治理事会などの専門別理事会があるのだから)。

 読売の社説は「イラク開戦時に国連は・・・機能不全に陥った。こんな状態を改め、安保理機能を回復する努力が求められている。・・・大きく変化した国際情勢を反映しない安保理では、新たな事態に的確に対処することはできない。日本などが常任理事国に加わることが安保理の活性化に不可欠だ」と書いている。イラク戦争においてひたすらアメリカに盲従するコイズミのやり方を支持してきた読売がよくもまあツラッとしてこんなことが書けたものだと嗤いたくなるが前段の指摘は正しい。だが、もし読売の視点でのみ常任理事国のイスを要求したならば、ことは画餅に帰すことになるだろう。なぜならばあまりに主観的な思い(「カネ出してんだ、やらせろ」)にとらわれすぎていて、客観的に我が国を見る眼がない(「カネ出してるもんで、でかいツラしたがるんだよね、アイツ」)からだ。

 読売は続けて「常任理事国入りの実現に、国内では憲法改正問題、対外的には困難な国連外交という、高いハードルが控えている」と書いている。その後、「国内問題」に214文字、「国外問題」に145文字を費やして、その内容を論じている。それを読みながら脳裏に浮かんだのは、「園遊会にどんな服でゆこうかしら」、「服を新調した方がいいかしら」、そういうことばかりに気がいって、招待状が送られてくるかどうかをすっぽり忘れているちょっとバカで虚栄心だけが肥大した、できれば自分のパーティには呼びたくない女の姿だ。

 常任理事国に迎えられるためには、まず、国連憲章が改正されなくてはならない。憲章の改正は第108条の規定によれば現在の常任理事国5ヵ国すべてと全加盟国の3分の2以上の賛成が必要だ。そして、拡大される常任理事国に「日本」がふさわしいかどうかが、これも常任理事国5ヵ国すべてと全加盟国の3分の2以上によってチェックされる。どちらかというと、それは「国連外交」などというサロン外交の枠組みを超えて、我が国の平生の外交全般が「妥当なもの」と評価されなくてはならないことを意味している。札束で横っ面を張るようなことをしなくとも、その他大勢の国から「尊敬」される外交をしてきたかどうか、それが3分の2の国々の評価になるはずだ。きのうの夜のニュースには象徴的な映像が流れていた。我が小泉首相と相前後したスペインのサパテロ首相のスピーチ。終了後、演壇脇でアンコールに応えるように鳴りやまぬ拍手を受けたのがどちらであったか、それは書くまい。はたして我が国の外交は「尊敬」されているだろうか。

 読売は憲法問題(園遊会には着てゆく服はどんなものでなければならないか)という「国内問題」に字数をずいぶんとさいているが逆なのだ。「国外問題」こそ、そもそも園遊会の招待状が来るかどうかという点で、もう少し頭を使って、字数をさいて分析する必要のある問題なのだ。強い者の受け売りばかりしている受売新聞にはどうもそういう論理性が根本的に欠けている。

 毎日の社説を読むと、我が国は、読売が徹底して否定してきた「平和憲法」の理念を強く打ち出してアピールする方が、むしろ国連で大多数を占める「核兵器も大規模な軍隊も持たない、ほどほどの経済・文化水準の向上を願っているふつうの加盟国」にとっては、よほど「おらが代表としての新規常任理事国」として好ましいのではないかという気がしてくる。さらには、どんなに腹立たしいことであろうとも、常任理事国である中国の首を縦にふらせるためには靖国問題を年中行事にしているような現在の状況はスマートに解決しておかなければならないだろう。

 少なくとも読売以外の三紙にはそういうパースペクティブが漏れなくきちんと書かれていた。相手のある「外交」という問題は主観的な思い込みだけでは微動もしないということを読売は忘れている。

§

 きのう、きょうと行われたプロ野球組織側と選手会の協議の結果、対立点だった新規球団の参入審査を速やかに進めることで合意、この週末のスト(もともとこの土日、パリーグは試合の予定はなかったから、ストをするとすればセリーグの3試合だけが対象となったはず)は回避された。内容的には経営側の譲歩と言える。とくに強硬と言われた読売巨人とオリックスがあっさり土俵を割ったのは、やはり各種世論調査結果が圧倒的に選手会支持であったからだろう。ここでも読売社説は破綻を見せたわけで、あした、そのあたりをどのように書くかが楽しみ。こんどばかりは、パウエル証言に対するような、都合の悪いことはダンマリということはできないだろう。

§

 社説についてもうひとつ。けさの朝日新聞社説のもうひとつは「最多安打――いけるぞ、イチロー」だった。他に取り上げるテーマがないとでもいうのか。それとも「大衆迎合」の一環か、これも。(9/23/2004)

 夜のNHKニュースで20日と21日の両日に渡って行った電話世論調査の結果を報じていた。ホームページに掲載された同じニュースの要約版をもとに箇条書きにしてみる。

調査日:9月20日・21日
回答状況:1,181人(対象1,933人・回答率61.1%)

ストについて
  支持:78%
  不支持:12%・・・読売新聞社説の主張
支持する理由
  選手会側の要求に球団側が誠実に応えていないから:40%
  球団側が球界再編の将来展望をきちんと示していないから:40%
  球団の合併によって選手や職員の雇用に大きな影響が出るから:18%
球団側のパリーグ5球団制について
  まったく納得できない:43%
  あまり納得できない:35%
納得できない理由
  球団の新規参入は来シーズンから認めるべきだから:45%
  ファンの意向を考えていないから:28%
  球団の減少でファンが減り、プロ野球が衰退する心配があるから:12%
  5球団でパ・リーグの試合を組むのが難しいから:11%
インターネット関連企業2社の新しい球団の設立に向けた動きについて
  大いに評価する:59%
  ある程度評価する:27%
ストライキを解決するために何が必要か
  球団の新規参入は来シーズンからの実施を検討してほしい:43%
  球団側が選手会側に歩み寄ってほしい:30%
  選手は高額な年俸の改善を検討してほしい:14%
  選手会側が球団側に歩み寄ってほしい:3%
ストライキなど一連の動きでプロ野球に対する気持ちに変化があったか
  もともとプロ野球ファンで気持ちに変わりはない:35%
  プロ野球に関心はなかったが関心を持つようになった:22%
  もともとプロ野球に関心はなく、今も特に関心はない:16%
  もともとプロ野球ファンだったが関心がより高まった:14%
  もともとプロ野球ファンだったが応援する気持ちが薄れた:9%

 こうしてみると、18〜20日にかけて読売新聞が社説に書いた、

 これらの読売社説の主張は、じつに、みごとなまでに少数意見であることがわかる。

 読売新聞という新聞は人々の無知に乗じ、あるいはその感情を刺激して権力者の主張を狡猾に伝えるというやり方に特徴を持つ新聞だが、今回はあまりに大きい「巨人権益」に目が眩んで冷静な判断を誤ったものに違いない。(9/22/2004)

 きょうも一日かなり暑かった。真夏日通算68日。これは記録の由。

 先週月曜、13日、飯田市で窃盗未遂の容疑で男が捕まった。取り調べるうちにこの男、ことしの1月から愛知・長野の両県でタクシー運転手や独居老人を次々と殺していたことが分かった。ところが4件の事件のうち4月に発生した事件の捜査において、飯田署は第一発見者の被害者長女を犯人と見込んで6月から7月にかけて週一回程度の頻度で最長で朝9時から深夜0時過ぎまで事情聴取したり、ポリグラフにかけたりなどしていた。

 一昨日の夕方、TBSの報道特集で、インタビューを受けたこの長女は「いや、とにかくひどい目に遭いました」といっていたが、けさの朝刊には「また、長女夫婦によると、7月中旬、長女の娘が捜査員に隣の高森町の駐在所に連れていかれた。駐在所の入り口には鍵がかけられ、ブラインドも閉められた。その中で、捜査員一人から約2時間にわたって、『お母さんに自首を勧めてくれ』『自首すれば母親の刑は軽くしてやる』などと言われたという。最後に捜査員から『今日、こういう話をされたことは絶対に言うな』とも言われたという」とある。記事の末尾には「飯田署の中嶋副署長は『第一発見者や親族から繰り返し話を聞くのは当然。ポリグラフは強制ではなく、承諾して受けてもらった』と話している」とあり、警察はいつもの如くカエルのツラにションベンという風情。

 この長女夫婦のいう「自首の勧奨」はあったのか? まず「疑われている捜査員」の氏名を公表した上で、件の娘と対決させ事実関係を第三者の前で明確にすべきだ。そしてそういう事実があったならば、第一発見者や親族に「自首しろ、罪は軽くしてやる」などと言うことが、この中嶋某なる副署長が主張するように「適法で、当然の話」なのかどうかについて、中嶋某自身の首をかけて、正確な見解を述べてもらいたいものだ。

 それにしても飯田署には署長はいないのだろうか? こういうことこそ署長の仕事なのではないか? それとも警察の署長さんという連中はカラ捜査費からひねり出す小遣いには興味が持てても、こういう不祥事に対しての「長としての職務」には興味が持てないのかな。

 長野県の警察といえば「松本サリン事件」における見込み捜査と意図的なリークで「勇名」を轟かせた前科を持っている。あれほどの「不適合」がありながら、またぞろ同様のことを繰り返しているとしたら、長野県警は中信であろうが、南信であろうが変わらないということだ。もっともこういう体質は別に長野県の警察に限った話ではなく、日本全国どこの警察でも同様の状況なのかしらん。

 長野県の公安委員は松本サリン事件の犯人にされかけた河野義行が務めているはずだ。この件について徹底的に調査し、捜査にあたった警察官と指揮系統上の上司を厳正に処分して欲しい。もし「自首の勧奨」が事実ならば、彼らはある意味でこの連続殺人を犯した西本正二郎に負けずと劣らぬ立派な「犯罪者」だ。(9/21/2004)

 三連休のけさ、読売新聞の社説はまたもやプロ野球ストだった。もう選手会批判も弁護士批判もなく、ひたすらコミッショナー裁定(?)とやらを宣伝する体のものだったが、根来某なる男がコミッショナーとして職責を果たしたなどと考えている者はいったいどれくらいいるだろう。

 江川騒動以来、ほとんどのプロ野球ファンはコミッショナーなど巨人オーナーの手代ぐらいに理解している。だから、読売新聞がいくら「コミッショナーがこう言っている」などと書いても、世間一般の人はせせら笑っていると知れ。

 ところで、いつになったら読売新聞は、先日のパウエルの上院公聴会での「大量破壊兵器捜索断念」証言についてふれるつもりなのかしら。あれだけ大上段にイラク戦争を支持し、自衛隊のイラク派兵を煽っておきながら、その基本的根拠が砂上の楼閣であると報ぜられて、なお知らぬ顔の半兵衛を決め込んで何も書かずにすませるとはね。

 プロ野球のスト騒ぎは、志なき読売新聞にとっては都合のよいことだったようだ。所詮、読売は車夫新聞のままなんだね、ああ、情けない。こんな風に書いたら「車夫」も怒るかもしれない、「俺達はそんな恥知らずじゃねぇーよ」と。そりゃ、そうだ。(9/20/2004)

 プロ野球ストについて日経も社説に取り上げた。日経の社説も昨日の朝日・毎日・東京・サンケイの論旨と変わらない。つまり、新規参入を申し出ている会社があり、いまこの時期ならばそれらの会社の適格性を審査する時間はある、要はやる気があるかないかだけのことだ、いずれにしても可能性を確かめもせずに不確実な理由(審査には時間がかかる)で拒否するのは妥当ではない、ということ。

 驚いたのは読売新聞がきょうもまた社説に取り上げていることだ。こう書いている。

 「来季から(球団を)増やす」「最大限努力する」。この文言を選手会は合意文書に入れたがった。
 経営側は、これでは来季に十二球団の態勢で臨むことが前提となってしまい、「新規参入球団の公正な審査にタガをはめてしまう」と、受け入れなかった。
 この点を「かたくなだ」として、ストの責任を経営側に転嫁する声がある。そうだろうか。
 新規参入を目指す球団の「審査」は、慎重の上にも慎重を期す必要がある。経営側がこだわるのは、過去にいくつもの失敗例を知っているからだ。

 読売新聞が失敗例としてあげたのは「高橋ユニオンズ」(プロ野球ニュースの初代キャスターを務めた佐々木信也がプロ入団したのはこの高橋ユニオンズ)の例だ。これは昨日、サンケイの社説が「いまからでも間に合う」例として高橋ユニオンズをあげたことを受けてのことだろう。サンケイは間に合うと書いたが、読売は高橋の経営基盤が安定しなかったこと、そういう拙速を避けるために審査に時間がかかると主張する根拠とした。高橋ユニオンズは拙速に作られたから崩壊したのではない、それを支えるプロ野球組織側のサポートがなかったから崩壊したのだ。本末を転倒してはいけない。

 読売の社説はそこから面白いところにドリフトしてゆく。こんな話だ。

 選手会の希望で"密室"の中、続けられた交渉は、時間切れ寸前に一度合意に近づいた。新規参入について「最大限誠意をもって審査する」という妥協案だった。だが、「二〇〇五年」の挿入にこだわる選手会の弁護士と一握りの選手によって、議論は振り出しに戻った。
 「勝ったのは弁護士だけ。第三者を介在させたのは間違いだった」と、パの元球団代表が分析していた。

 うっかりすると読み流してしまいそうなことだが、「選手会の希望で"密室"の中、続けられた交渉」とあるが、はたして「密室交渉」は選手会のみの希望だったのだろうか。今回の交渉で経営側はオリックスと近鉄の経営データを選手会に提示したと伝えられている。選手会はそのデータを見て合併の凍結に関する要求を取り下げ、新規参入に関する部分に話し合いのステージは移行した。件の経営データの中に公表するには差し障りのあるもの(先月のナベツネ辞任理由とされた選手獲得のための裏金の支出など)が含まれていたことは容易に想像できる。つまり「密室」で行うことは経営側の希望でもあったはずで、この書き方はフェアなものではない(もっとも読売新聞という会社がフェアであったためしはないのだろうが)。

 続けて社説は書く。「選手会の弁護士」と「一握りの選手」が悪いのだと。

 まず「一握りの選手」とは誰のことだろう。まず古田が念頭にあることは間違いない。9月10日以来、古田は男を上げ続けている。スト前夜の一昨日の夜はテレビ各局を梯子して多くの視聴者に選手会の立場を訴え、ストで試合がなくなった甲子園球場でタイガースファンからも古田コールがあったことなど、広範な支持を得た。読売の社説子にとっては、自社の御大が「たかが選手」と切り捨てた相手がこれほどの好感度を持って迎えられていることに我慢がならなかったのか、あるいはここを先途とナベツネにゴマをすって出世をはかろうとしたのか。後者とすれば、なんとも醜い心根で、読売新聞の社内に吹く風がこのようなものかと想像すると暗澹たる思いがする。

 選手会が弁護士を立てたのは当然のことでこれを第三者として認識するような「元球団代表」がいるとしたら、その人はよほどビジネスに暗い人に違いない。おそらくそれはパリーグ関係者ではなく、かつて年俸交渉の際かたくなに代理人の同席を拒否し続けた読売巨人軍関係者ではないかと思う。(先日発行の週刊新潮の見出しに「スト延長戦/『選手会』を牛耳る若手弁護士2人の『野望と経歴』」というのがあった。社説はこの週刊誌報道に寄りかかる形で書いているのだろう。あるいは読売がいくらかカネを払ってあらかじめ書かせた記事かも知れない)

 読売巨人軍は圧倒的な力の差だけを利用して相手を押しつぶして勝つことだけを考えている。この性癖は試合に止まらない。選手の年俸交渉のような場面でもその流儀でやりたいのだ。個人対組織の関係でそのギャップを埋めるために代理人を横に置くことはフェアプレイの基本だが、読売グループはなによりこの「フェアプレイ」というものが大嫌いなのだろう。

 読売の社説の末尾はこのようになっている。

 交渉の後、横浜の三浦大輔選手が言っていた。「子供たちが将来、野球をやりたいと思うようにしていかないと」。同感だ。プロ選手が実現した夢を、野球少年たちにも追いかけてほしい。

 字面だけから言えば、まったく同感だ。だからこそ、選手を「たかが選手」などと呼んで憚らぬオーナーが隠然たる勢力を持ち、フェアプレイを心から嫌い、裏工作をして我田引水のみをたくらむ読売グループの影響力をゼロにしたいと、99パーセントのプロ野球ファンは心からそう願っている。(9/19/2004)

 プロ野球選手会のスト突入を新聞各紙が社説に取り上げている。最近はやりの形容詞を使えば、「たかがプロ野球」のことに大げさなという気もするが、それほどにプロ野球興業に対する関心度が高いことの現れなのだろう。

 朝毎読と東京(中日)・サンケイの社説が出そろった。近鉄とオリックスの合併をスクープした日経がこの件を取り上げないのは不思議な気もするが、経済紙として社説に取り上げるほどのことではないというなら、それもひとつの見識だろう。各紙がおおむね選手会に好意的、プロ野球組織に批判的なのに対して、敢然と一紙だけ「経営側」の肩を持つ論陣を張って光っているのが読売新聞だ。

 社説のタイトルは「ファン裏切る"億万長者"のスト」。ずいぶんと扇情的な見出し(「高給取りがストライキだって、いい気なもんだぜ」という揶揄を匂わせた週刊新潮風のもの)だが中味の方は薄い。年俸問題でスト騒ぎのあった大リーグの例をあげて、ただひたすらに選手会を批判するのみだからだ。見当違いも甚だしい。今回のストは待遇改善を要求して行われているものではない。だから野球中継がなくなった穴を「どうなるプロ野球」というような特番で埋めているラジオ局が行うアンケートでは、軒並み「ストは残念だが選手会はがんばれ」という意見が三分の二以上を占め、経営側を支持する意見が一割にも満たないという数字がでているのだ。まずその一点で読売社説の主張は完全にピントを外している。

 もちろん「多数」は正しいことを保証しない。しかしここに来て噴出しているプロ野球界の「悪さ加減」のほとんどが読売巨人軍に原因があることは世人周知の事実だ。ドラフト制度の空洞化を執拗に長期間にわたって行ってきたのは誰だ。江川卓という投手を獲得するために世にも見苦しいふるまいを行ったのは誰だった。逆指名制度や自由獲得枠という抜け穴を随所に開けられてドラフト制度は死に体になった。形骸化させられたドラフト制度とフリーエージェント制度がどれほど選手の偏りを促進したか、それは大艦巨砲主義の読売巨人軍のメンバーリストを見れば、誰の眼にも明らかだ。

 試合を興行する際の鉄則は拮抗する者同士が戦うカードを組むことにある。これに地元意識による肩入れが絡むから熱くもなり、面白く、カネを払う気にもなるのだ。反面教師をひとつずつあげよう。まず、おりしも秋場所を迎えている大相撲。これが最近とんとふるわない。連続数十場所続いた満員御礼は過去の話。その転機はいま思えば、二子山部屋と藤島部屋の合併だった。関取を占有した感のあった二子山部屋が成立してから、大相撲は徐々に徐々に下り坂を下り始めた。もうひとつは読売ベルディ。三浦知良やラモス瑠偉などのスター選手のいるベルディは強かった。読売新聞は「読売ベルディ」の名前にこだわり、川渕チェアマンを恫喝したが、彼はこれをはねつけた。意欲を失った読売新聞はサッカー人気の低落を「予言」して手を引いた。しかしJリーグは読売の呪いをはねのけて苦しいながらも地道な経営を貫いているようだ。少なくともJリーグはスター選手をそろえたたったひとつのチームが圧倒的に勝利を重ねるなどという子供向きのショービジネスとは違う地平を開きつつある。

 繰り返す、多数意見が正しいとは限らない。しかし「少数意見」の読売の社説(意見などは書いていない貧しい代物だが)は、このストライキにいたる遠因を自ら造りながら己の罪科についてはなんら反省することもなく、図々しく他者を批判しているという点で、いつかのスペイン軍のイラク撤退を難ずる社説によく似ている。読売新聞という会社の腐りきった体質を再び露呈しているといってよい。

 読売新聞よ、プロ野球にいまある諸悪の根源の大部分は傘下の企業である読売巨人軍にあるということを念頭において、この問題を論ずるのでなければ、おまえにはただの一行も書く資格などない。(9/18/2004)

 数時間後、あす未明からパラリンピックが始まる。けさのサンケイの「主張」を読みながら、この論説委員はパラリンピックに出られるのではないかと思った。通常のパラリンピック出場選手は手足が不自由など何らかの障害を持っている人たちだが、この論説委員は「頭が不自由」な人らしいから。

 けさの「主張」の書き出しはこうだ。

 パウエル米国務長官が上院公聴会で発言したイラクの大量破壊兵器をめぐる問題で、米国が今後の捜索を断念したかのように受け取られている。しかし、国務長官発言には「断念」するとの表明はどこにもなく、イラク戦争に反対する野党や一部マスコミが「開戦の根拠」を否定するために、あたかも米国が断念したように曲解している。

 ここまでリキを入れて書くからにはパウエルの「証言」のなかに「断念」に相当する単語はなかったのだろう。だがそんなことは些末なことだ。なぜならば、パウエルがこの時期に「発見されなかったし、これからも発見されないだろう」などと「証言」しなければならなかったのは、大量破壊兵器の捜索を行ってきた調査団が、ついに何も発見できぬままに、数週間後に活動を終了する予定であるからだ。

 専門の調査団の活動「終了」は「断念」ではないのかしらん。まるで「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」と言い換えて、「負けていない」と強弁した旧日本軍のような言葉遣いをするのだね、サンケイ新聞の論説委員は。

 次の段落でサンケイ論説委員は「さらにいえば、パウエル長官がその数日前の米テレビインタビューで、『まだ見つかる余地がある』と述べているからである」と書いている。テレビの「インタビュー」ならば言えるけれど、議会公聴会の「証言」では絶対に言えないことがある。それは「ウソ」だ。サンケイ新聞論説委員のいうテレビインタビューがいつどこの局が報じたものか、本当にそういうインタビューがあったかどうかは問うまい、武士の情けだ。しかし議会証言を重く受け止めるのは報道のイロハではないか。そんなことも分からないとは、常識のかけらすらもないのだね、サンケイ新聞の論説委員は。

 ここからあとの三段落は苦境に立ったサル・ブッシュの見苦しいいいわけそのもので、サンケイはいつからブッシュのプロパガンダを受け売りするようになったかと嗤ってしまう。たしかにイラン・イラク戦争やクルド人弾圧に毒ガス兵器を使った。しかし、昔使ったことがあり、いま潜在的に造る能力を持っているというのなら、それは日本にもドイツにもあてはまる話にすぎない。それをケンカの理由にするのはヤクザモンのすることで、世の中では「イチャモンをつける」という。(サンケイ新聞がどれほど低レベルだとしても、まさか、「日本は毒ガス使ったよね、いまもそれなりの工業力があるから潜在的には造る能力があるよね、だから攻撃する」ってな話が成立しないことぐらいは分かるだろうに)

 ところで、「国連決議を無視した」とサンケイ新聞論説委員は書くが、その決議を「無視している」ということについて「立証」できるのかしらね。国連の査察団ですら「立証」できなかったというのに。UNSCOMがこれを「立証」できていれば、アメリカはもっと楽にイラク戦争を始められたのだよ。

 それよりなにより、他ならぬ国連アナン事務総長が「イラク戦争は国連の立場からも憲章上からも違法だった」と発言したことはつい昨日報ぜられたばかりではないか。頭が不自由なだけではなく、耳も眼も不自由なのかい、サンケイ新聞の論説委員は。

 最後の二段落はさらに質の落ちる話になる。

 「イラク戦争」そのものは、米軍がフセインの抑圧体制を倒し、リビアなどの核開発の野心を打ち砕くことに成功した。しかし「戦後の処理」は、当初計画からそれたのは事実である。治安を確保するために必要な兵力の投入がなかったために、シリア、イラン国境からの外国人テロリストの侵入を許してしまった。
 テロ撲滅はまだ達成できないが、少なくともイラクという独裁国家の脅威は除かれたのだ。今後のイラク復興を目指すのであれば、テロを封じる知恵と兵力を結集すべきなのである。

 リビアの核開発断念はイラク戦争の当初からの目的だったのかな。テロリストに大量破壊兵器を渡さないことを目的にして始めながらテロリストの跳梁跋扈を許してしまったなどという間抜けぶりは、それが最大の目的ではなく取って付けた目的であることを示しているのではないかという「洞察」ぐらいして見せろよ、それが「論説委員」だろうが。アマチュアの推理力にも及ばないとは、おバカだねえ、サンケイ新聞の論説委員は。

 サンケイ新聞よ、何の大義もない戦争、終わってみれば、「フセインという暴君を打倒した」という、そのたった一事しか誇ることができないというみじめな戦争を支持してしまった、一年前の愚かな自分を恥じるならば、いまが潮時だ。間違いを間違いと早く認めた方がいい。メンツにこだわって屁理屈を重ねるのは見苦しい。間違っていたんだから、謝れよ、間違っていたと。素人にも劣る眼力で恥ずかしいというなら、謝れよ、身の不明を。サンケイ新聞の明き盲ぶりなど、とっくに知れていることだ、気にすることなどこれっぽっちもありはしない。さっさと手ついて謝りなよ。

 それにしても残念なことだねぇ。パラリンピックの競技には「頭の不自由な論説委員」がエントリーできそうな競技はないらしい。サンケイ新聞の論説委員ならば、金メダル確実だろうに。(9/17/2004)

 去年の2月6日の日記にパウエル国務長官が国連の安保理事会でイラクの安保理決議違反に関する証拠提示を行ったときのことが書いてある。そのつぎはぎだらけの「証拠提示」は通常の判断力を持っている者ならとても「証拠」などと呼べるものではなかった。安保理の大舞台に提示できる「証拠」がいかにもプアであるそのことが、逆にブッシュ政権の主張が根拠の薄いものであることを雄弁に語っていた。

 あの日、「将来、過去の自分が恥ずかしくなるようなことをするのもおやめなさい」とパウエルに忠告したいとも書いた。もとよりこちらは小国に住む市井人、大国の顕官に伝わるわけもない。パウエルはいまの自分を恥じているとは言わないだろう、いまは。しかしサルの政権の国務長官を辞して、一年、二年と時が過ぎれば、いずれ「過去の自分が恥ずかしい」と言うときが来るだろう。

 ところでこの国の政府は「イラクが保有している大量破壊兵器がテロリストの手に渡ることのないようにアメリカがイラクのフセイン政権を武力で倒すことを支持する」とした。国会で発見されない大量破壊兵器について質問されたときコイズミは「フセイン大統領も見つかっていないんですよ。だからといって、フセインがイラクに存在していなかったって言えますか」と嘯いた。フセインは、その後、見つかってしまったが、大量破壊兵器はついに見つからなかった。そしてアメリカの国務長官は上院公聴会で「いかなる備蓄も発見されておらず、我々が発見することはないだろう」と証言した。この国の政府はパウエル証言を受けてどのように陳弁するのだろうか。

 そういえばこの国のマスコミにも大量破壊兵器の存在をイラク戦争の正当な理由と主張する連中がいた。読売とサンケイ、両紙は単なる戦争好きの感情論を大量破壊兵器で正当化していた。ここ数日の両紙の社説とコラムがどのように言い訳するか楽しみに待とう。まさか知らぬ顔の半兵衛ということはなかろう。(9/15/2004)

 池田小児童殺傷事件の宅間守に死刑が執行された由。死刑判決は去年の8月28日。弁護団の上告を宅間自身が取り下げたのは9月26日のことだったから確定からほぼ一年で刑が執行されたことになる。「確信犯」宅間は最近も早期の死刑執行を望み、刑訴法に定められた確定後6ヵ月以内の執行が「不当に延ばされ精神的苦痛を受けた」という趣旨の国家賠償請求を考えていたという。

 マスコミ論調は「異例の早期執行」について評価が分かれているようだ。朝日の夕刊にあるような「もっと生かして贖罪の気持ちに目覚めさせては」という主張には一見一理あるかのように思われるが、伝えられる宅間の言葉を見る限り、それはほとんど不可能だったのではないかという気がする。

 見えてくるのはパラドックスのような皮肉な状況だ。人権好きの人々(多くは死刑制度廃止派)は死刑制度の持つ根本的矛盾から「刑の執行を延ばして人間的な気持ちを回復させ(どうするか、要は「処刑=殺す」のだが)る試みをもう少し続ける」というが、それはかえって死の恐怖を長く死刑囚に強いる(刑訴法の6ヵ月以内の執行という条項の趣旨はおそらくここにある)という点で反人権的措置になりかねない。人権嫌いの人々(多くは死刑制度維持派)は「人を殺したのだから死刑は当然。早くしろ。あっさり絞首ではなくジワジワと処刑したいくらいだ。死刑囚に人権などあるか」というが、それは宅間の望みをそのまま強く支持することにつながっている。両派の人々の理屈の根底にある「感情」は、宅間守という特異な犯罪者の前で立ち尽くしてしまっているような気がしてならない。

 つまりこの犯罪とこの犯人が突きつけた問題は「死刑制度」の是非やその運用の問題などではなく、意見の異なる広範な人々の意識にこれほど強烈な「ノン」を突きつける人間を生み出したこの社会制度と状況にあるということだ。そこに行き届かない限り宅間守は生き返ってくるだろう。

 夕刊にはパウエル国務長官が上院の政府活動委員会の公聴会で大量破壊兵器がなかったこと、今後も発見されないだろうという見解を示したことが報ぜられているが、詳報を待つことにしよう。(9/14/2004)

 土曜日にキャンプ座間に出頭したジェンキンスはキャンプを外出することこそ許されないものの逮捕・拘禁はなく基地内では自由行動が許されているらしい。新規転入者に対するつけられる案内役も日米韓三ヵ国語を話せるアメリカ人下士官と韓国人夫妻が選任され、「脱走」までの軍歴から算出した給与として月額3,000ドルほどが支払わたというから、イメージ的には至れるつくせりの感さえうける。

 この厚遇に対して11日の記者会見ではアメリカの記者から「特別扱いするのか。脱走兵なら、出頭時点で手錠をかけないのか?」という質問があったが、軍当局は「個々のケースごとに事情を考慮して決まる」と回答した由。よほどの「事情」がかなり高いレベルから伝えられているのだろう。

 曽我ひとみは「ミセス・ジェンキンス」として(夫婦別姓に反対しているサンケイ新聞や別姓反対だけに妙にこだわっている連中はどう思うのか、はなはだ興味があるが)家族用身分証明書を受け取った。曽我ひとみもその娘も、日米の地位協定で呼ぶところの「ジェンキンス軍曹の軍属」ということになるのだろうか。そうだとすると彼女たちは日本のパスポートなしで自由にアメリカと行き来することができるようになるはず。ニュースはそういうごく当然の疑問には何も答えない。(9/13/2004)

 911の犠牲者は朝刊によれば2,749人。じつに精確にカウントされている。911からひと月足らずで開始されたアフガン戦争の犠牲者は、と問われてもその実数はおろかおおよその数字ですら報ぜられない。先日イラク戦争のアメリカ軍死者数が1,000人を越えたと報ぜられたときも、イラク人死者数はそのおよそ10倍以上に達するだろうと付記されたのがせいぜいだった。なぜその圧倒的な数値ギャップと統計精度の違いに驚かないのだろう。なぜそういうことを訝しむことすらないのだろう。

 昨日からの911犠牲者追悼ニュースに登場する被害者家族の表情と発言を見聞きしながら、東京大空襲に関する番組を見ながら無性に苛立ったことを思い出していた。「テロとの戦い」などという標語をなんの疑問もいだかずに口にしている人たちがいる。

 英語で「命令形+and 〜」は「こうしろ、そうすれば〜」だった。また「命令形+or 〜」は「こうしろ、さもないと〜」だった。無差別テロの論理はまさにこの「構文」に他ならない。

 アメリカがテロリストと呼ぶ連中はまず政治的要求を掲げその実現を迫って殺人を敢行する。被害者がテロリストたちの要求を実現するための実権を持っているかどうかは無関係だ。ある権力にまつらう人々を標的にした上で、彼らの権力に対し、この「構文」で迫っているわけだ。

 しかしこの「構文」を使っているのはテロリストばかりではない。アメリカ合衆国もこの「構文」を使っている。「ビンラディンを引き渡せ、さもないと爆撃するぞ」。爆撃で死んだのはビンラディンでもなければオマールでもなかった。爆撃で死んだのはビンラディンの引き渡しについては何の実権も関わりも待たない女・子供・農夫たちだった。

 彼らは、オマールの率いるタリバンが権力を持っている、その国土に住まっていたに過ぎない。その点では貿易センタービルにいた人々となんら変わらない「たまたまそこにいた、ただの人々」だった。無辜の人々を殺すことにより、その人々が服属していた権力に要求の実現を迫る。これこそ無差別テロそのものだ。つまり、口をきわめてテロリストを非難しているアメリカ合衆国もまたテロリストなのだ。

 「テロとの戦い」、結構な話だ。偽善の国、アメリカ合衆国よ、その標語のもとでいくらでも際限のない「テロ」を続けるがいい。おまえたちの信ずる神がほんとうの神ならば、いずれ鉄槌はおまえたちの脳天に振り下ろされることだろう。(9/12/2004)

 夕刊に「対テロ戦、冷戦に近い:米国防長官演説」の見出し。ラムズフェルドが同時多発テロ3周年を前にワシントンで講演をし、「98年のケニアとタンザニアの米大使館連続爆破事件など、同時多発テロ事件以前にも相次いでいた対米テロを列挙し、我々の敵はずいぶん以前から、9・11後の世界を想定して活動してきたと指摘。この戦いは、テロリストを待つのではなく、彼らのいるところで戦う必要があると述べ、先制攻撃を含む対テロ戦争継続の必要性を強調した」由。

 詮ずるところ、自分たちの住む場所では戦わない、あくまで自分たちが住んでいない場所を「戦場」とするのだということ。じつに分かりやすい話だ。戦争はホームグラウンドではやりたくない、他人の家などどうなろうとかまわないが自分の家は大事だから。ではその「テロリスト」があのユナボマーのように自分の家の中にいたときはどうする。その時は「テロリスト」をたんなる犯罪者として取扱い、対テロ戦争の「敵」とはしない。我が家を戦場にするわけにはゆかない。

 本来はそれが正しいのだ。テロは「犯罪」であって、「戦争」などでないことは誰でも知っていることだ。テロとの戦いをむりやり「戦争」にしているのは、冷戦後、商売が立ちゆかなくなった「戦争屋」たちが必死にこね上げた理屈に過ぎない。アメリカ合衆国は、生き血なしでは生きてゆけないドラキュラ同様、戦争というヤクなしでは生きてゆけない覚醒剤常習者なのだ。ホラ、ラムズフェルドなど、ドラキュラ役にぴったりのご面相ではないか。

 その他にジェンキンスが座間キャンプに出頭というニュースも。(9/11/2004)

 帰りの電車の中であす・あさってのプロ野球選手会ストライキ回避というニュースをラジオで聴いた。とりあえずの合意は次の通り。@新規参入に際しての加盟料・参加料を廃止する(預かり保証金制度を設けるという代替案つき)、A来季球団数、セリーグ6以上、パリーグ5以上を確約、B構造改革に関する協議会の創設、C交流試合導入などの影響を機構側が検討し近鉄・オリックス合併を検討、というもの。Cについて速やかに機構で検討し、選手会に回答することを条件に11日・12日のストライキは回避。再回答は17日午後5時を期限として、以降のストライキはそれにより判断ということらしい。文言のわかりにくさがいかにも姑息を標榜するプロ野球機構の実態を表しているようで可笑しい。

 ところで、「たかが選手」という男に経営されている読売新聞はこの分かりにくい回答内容をどの程度かみ砕いて報ずるのだろう。明日が楽しみだ。なに、天下の読売新聞様は「たかが読売購読者」など、何を書いたって理解できるわけはないと「たか」をくくっているのかもしれないけれど。

 閑話休題。この一連の騒動のなかで、じつに素朴でありがちな疑問でありながら、不思議に誰も語らない疑問がある。

 ペナントを争うリーグ戦の半ば、あるいはそのはるかに前から、同一のリーグに所属する複数のチームどうしが「来季からは一緒にやろう」などと話し合っていたというのは、かなり重大なルール違反ではないのだろうか、という疑問だ。

 もし近鉄かオリックスかどちらかの球団がトップを争い、もう一方の球団が下位に低迷していたら、このことは相当問題視されただろう。ふたつのチームで行われる28試合のうち、相当試合の星を取り引きすれば、優勝は実力ではなく八百長で決めることができるのだから。

 来季からパリーグは5球団になる可能性が高いといわれている。しかし今季のペナントレースはそのつもりできちんと戦っている4球団と、(選手はそうではないと否定するだろうが)フラフラと腰の定まらぬ2球団(きょう、現在、最下位とブービーにいる)で争われている。今季に関する限り、近鉄とオリックスは番外チームと考えるべきではないのか。

 ためしに、きょうまでの戦績をもとに対近鉄・対オリックス戦をオープン戦扱いとして除外すると

引分 勝率 ゲーム差
ライオンズ      41     32     1   0.554 
マリンズ       36     38     3    0.468     5.5  
ホークス       35     36     4    0.467   −0.5  
ファイターズ     33     39     2    0.446     2.5  

ということになる。こうしてみるとダイエーの首位というのは「黒い霧」のなかの2チーム、いかにもカネに転びそうな近鉄(17勝8敗)とオリックス(21勝4敗)からもらった勝ち星に支えられてのことと考えられぬでもない。シーズンのただ中に行われる同一リーグ内の球団どうしの合併話は、とりようによっては、こういうことも意味しているはずだが。(9/10/2004)

 監査メンバーとアルコール付きの夕食をとってもホテル帰着は8時前。たっぷり時間があるので持参した本の中から田中宇の「非米同盟」を読む。彼のメールニュースの配信をうけるようになってもう三年以上になる。内容的にはそれで読んできたものと同じなのだが、週一回(最近は少し間隔が開くようになった)ポツポツではなかなか関連がつかない事項を一気に読むと、また少し違う感じがする。

 相矛盾する行動について彼はしきりに「意図的な自滅戦略」を疑っている。しかし限定合理性はあらゆる人間とその組織についてまわるものだから、相応の指導者、組織であっても「バッカじゃないの」という行動はとるものだ。とくにブッシュ一派のようにカネに尻尾を振ることだけを行動原理にしているような連中が牛耳っている国家ならば、合衆国にとって大局的に利益にならないことを平然と実行する愚かさについて「戦略的意図」を見るのは深読みのし過ぎという感じがする。(9/8/2004)

 午後そうそうに工場を出る。各駅停車の乗り継ぎで烏山へ。古河を出たあたりで進行左側にきれいな虹が見えた。・・・somewhere over the rainbow・・・、ふと高三の秋のことを思い出した。

 「虹が立つ場所に行けるか」、「虹の真下に行けるか」、そんな質問だった。どう答えたのかは憶えていない。その時は質問の中味ではなく、そういうやり取りを「いま、している」ということの方に気がいっていたから。彼女の方はこちらがどのように答えたか、いまも憶えているだろうか。そういう質問を自分がしたことを憶えているだろうか。いやいや、そんなことがあったということ、それ自体を憶えているだろうか。

 いまなら、どんな答えになるか。「たぶん、虹として見ることができる場所だから見えているわけで、スクリーンにあたる場所に行けば、そこからは虹は見えないか、またはスクリーンになる条件が別に成立していれば、もともとの場所で見えていたものとは違う虹が見えるかのどちらかだね」といったところか。

 しかし、それぞれの場所で見えている虹は「違う」ものなのだろうか。そもそも見えている「虹」は「実在」しているのだろうか。「ないものは見えない」が正しいとすれば、その対偶である「見えるものはある」も正しいはずだが、蜃気楼はないもの、空しいものの代表だ。人の眼に映じたものがそうならば、人の心に浮かんだものも似たようなものか。

 ・・・など考えているうちに、ふと気がつくと虹は消えて、電車は宇都宮に着こうとしていた。(9/7/2004)

 プロ野球選手会は今月中の土・日の試合にストライキをすることを決定した。条件は、@近鉄とオリックスの合併を一年間凍結すること、A新規参入へのハードルを低くすること、Bドラフト制度の改革を行い完全ウェーバー化をはかること、C放映料などの利益再分配方法を検討すること、など。

 選手会が突きつけた条件は妥当なものだが、選手会にスト権があるかどうかについては専門家のなかでも意見は分かれている(先日の合併差し止めに関する仮処分に対し、東京地裁は「団体交渉の主体になりうる」とした)らしい。たしかに年度ごとに契約更新をしていることなどを考えると、プロ野球機構側の「選手は個人事業主、労働者ではない」という主張もそうかなと思わせないわけではない。だがそうだとすると、合併や統合再編というビジネス条件の変更検討をする際に、ビジネスパートナーであるはずの「個人事業主」になんの事前相談もしないという機構側の姿勢は最初から自己矛盾している。

 それよりなによりコミッショナーの根来某のコメントが嗤える。「しようがない、違法ストという可能性もあるんだよ」ときた。違法ストの泥沼にもつれ込む可能性があると思うのなら、乗り出すのがおまえの仕事だろう、バカ!!(9/6/2004)

 読み始めた「マラソンランナー」にスピリドン・ルイスと表記してあったことから、スピロス・ルイスではなくこちらの方(読売の記事によれば、スピロスは愛称の由)で再度インターネット検索をかけてみた。既に去年のうちに増田明美がサンケイ新聞に「42.195キロの原点」というタイトルでスピロスのエピソードを書いていた。コンパクトで手慣れた感じのするエッセイだ。

 増田にエピソードを証言したのは4紙の記者に証言した孫の奥さん。名前が「エレニ」。元祖スピロスの妻の名前、「赤be」にはエレナ、共同電では「イリーニ」とあった。スピロスの名前を代々に受け継ぐというのはよく分かるが、娶る妻の名前まで同じとなると、なんとなく「不思議」な感じがしないでもない。もっとも名前に流行り廃りがあったり、ちょっとしたことにあやかりたくて名前を借りるというのは、どこの国でも同じなのかもしれない。そう思うことにしよう。(9/5/2004)

 ロシアでテロ事件が頻発している。モスクワ発の旅客機2機が自爆テロにあって墜落したのは先週初めのことだった。さきおとといはモスクワの地下鉄で自爆テロ。その翌日、舞台を変えてコーカサス地方の北オセチア共和国で始業式の小学校が標的になり、生徒・教師・親が人質になる事件が起きた。

 旅客機墜落では2機あわせて90人、地下鉄では10人、そして昨日午後の治安部隊の突入(偶発的なものという説明が当局からされている)による混乱の中で300人を越える死者が出た。

 けさの天声人語にはなだいなだの「テロリストは、爆弾を投げようとした大公の馬車に、子供たちが同乗しているのを見て、決行を思いとどまる。しかし今のテロにも、対テロ戦争にも、そのような人間性はない」という言葉が紹介されていた。カリヤエフのメンタリティは現代のテロリストにはない。そもそもテロのターゲットを直接の相手から一般的には「無関係」な人々に変更したとき、すでに女・子供への限定は自動的に外されてしまったのだ。

 暗黙の智慧、それから発する暗黙の制約がどんどん失われていくのが、いま我々が生きている時代だ。テロが殺人という究極的な罪悪であることを古人は意識していた。だからその時「一殺多生」と言わずにはおれなかったのだ。「ちいさい子供たちを殺せますか」というカリヤエフの言葉、あるいは女性を手にかけないという不文律は子供と女(本当は男であっても同じなのだが)に未来という可能性があるからだったと思う。未来を摘み取るならばテロという行為に託すべき必死の希望をみずから塞ぐに等しいことが意識されていたからだ。

 しかしこういうことは、もはや、たわごとに過ぎなくなった。学校占拠事件の犯人グループには「黒い未亡人部隊」と名乗る女性が加わっている由。このことが意味することは何か。ロシア(ソ連)がどれほど悪辣なことを犯人グループといわれているチェチェンの人々にしてきたか。べつに帝政ロシアまで遡る必要はない(遡ればその罪科にはらわたが煮えくり返ることは間違いない)。テロを誘発した側の「対テロ戦争」が既に常軌を逸しているからに違いない。

 多くの人はプーチンを文句のないロシア大統領と思っているが、彼がどのようにしてのし上がったかを調べてみれば、あれほど大きく複雑な事情を抱えた国の大統領に無名の男があっさりなってしまったことに驚くはずだ。プーチンはチェチェンをタネに大統領になったといって差し支えない。

 皮肉な対照ではないか。インチキで大統領選を制したために初年度からレイムダック視されていたブッシュは911というテロにより大統領としての一次的評価を勝ち取った。対するロシアのプーチンもチェチェンを強権で圧することと対テロ強硬策で大統領としての地位を固めた。

 彼らはともにいう、「テロの脅しには屈しない」とか「テロから民主的自由を守る戦い」などと。彼らはそのために何をしているか。正面からはテロリストをより狂暴にするためにテロ強硬策をとり、背後からはテロリストを真剣に取り締まらずに隠れて武器を渡すようなことをしている。なぜなら彼らの権力維持のためにテロリストの無差別極まる行為が不可欠だからだ。

 かつて明智小五郎は小林少年にこんな風に語った。

「いいかい。世の中には医者という職業があるが、あれが何故世間からありがたがられて尊敬されているか分かるかい?」
「病気を治すからでしょ?」
「そうだ。病人を癒すからだ。けっして病気を予防するからではない。病気が予防できれば医者は商売あがったりだよ・・・私たちも同じだ。事件を阻止するのでは駄目だ。事件が起こったのち、これを解決するのだ。鮮やかにね

北村想 「怪人二十面相・伝」から

 墨子のようにふるまってはならないのだ。(9/4/2004)

 いったいなぜ、スピロス・ルイスは国王が与えようといった報奨金を断り、馬車だけをもらったのだろう? 報奨金をたんまりもらった上で、馬車を購い、残されたカネで豊かな結婚生活に入ればよかったではないか。そんな疑問を持ってスピロス・ルイスについてインターネット検索をかけてみた。答えは見つからなかった。

 いかにもできた話だからに違いない、同じエピソードについて、日を変えて4紙が書いていた。掲載日とそれぞれの記事の執筆者名は下記の通り。

  1. 8月7日 朝日新聞土曜版「赤be」 西村欣也編集委員
  2. 8月10日 読売新聞 山路博信記者
  3. 8月14日 毎日新聞 澤圭一郎記者
  4. 8月14日 東京新聞(共同電) 福田要記者

 どれもスピロス・ルイスの孫に取材したものであるから内容的には先行した朝日の「赤be」と同じものとなっている。付け加わった情報は4の「妻になった女性の名前は『イリーニ』だった。ギリシャ語で『平和』を意味する」ぐらいか(これは記事を締めくくる言葉としてはなかなか気が利いている)。

 1から4の記事の中ではスピロスの優勝時の気持ちを伝える言葉だけが微妙に違っていた。朝日は「私は自らの誇りと愛する人のために走りました」、読売は「祖父は愛のため、国のために走った」、毎日には「走ることが好きで、愛する女性のために走ったのです」、共同電には「ルイスは、愛する人との結婚を許可してもらうためだけに走り、勝った」とある。読売だけが「国のために」というフレーズを追加している。

 スピロス・ルイスがどのように言って馬車だけを受け取ったのか。ニュースソースはただひとつ。同名の孫に頼っているわけだからこれを信じる他はない。彼がなにがしかの事情により、祖父の事績をウソで飾り立てたならば記者たちはお手上げである。だが元祖スピロス・ルイスが馬車以外、金銭などを受け取らなかったということぐらいは信じてもよいだろう。百年前のこととはいえ、馬車以外の商品を受け取ったというならば、清貧を装っているだけでじつは強欲であったと否定する記事がさっそく書かれるに違いないから。

 さてもともとの疑問、なぜスピロス・ルイスは馬車以外のものを受け取ろうとしなかったのだろう。以下はどうしても自分に引き寄せてしか事態を理解できない者の平凡な想像。

 どうしてもエレナと結婚したかったスピロスにとって、マラソンの優勝だけが唯一の望みのように思われた。彼は神に祈った。その神がオリンポスの神だったかキリスト教の神だったは分からないが、彼は必死に祈ったと思う。「神様、マラソンの優勝をわたしにお与え下さい。わたしが望むのはエレナとの結婚です。マラソンでの優勝がたったひとつの可能性なのです。どうかわたしの望みをかなえてください。エレナと結婚できるなら、わたしはそれ以上なにも望みません。どうかマラソンでの勝利をわたしに。神様のご加護をこのしもべに」。彼は優勝を果たした。そして彼は神への誓いも果たした。エレナとの結婚以外はなにも望まないという誓いを。

 彼がほんの少し気に病んだのは馬車を所望したことだったかもしれない。ひょっとすると、それは、ただ一人彼のうちわけ話を聞いたエレナが「スピロス、あなたは偉いわ。でも、水売りの商売をするための荷車くらいは王様にお願いしてね。それはけっして神様との誓いに反することではないわ。だってそれくらいなくては、わたしとの結婚だって、たちゆかないのだもの」と言ったからかもしれない。エレナが女性である以上、イブの裔であり、アダムとその裔はいつもイブたちのために際どい賭けをしなければならない、そういう運命にある。

 「赤be」は「馬車」と書いている。水売りのために使うものだったとすれば「馬車」はなんとなく大げさな気がする。スピロスの申し出でを聞いた王は「荷車には馬をつけよう、そうすればマラソンをする大切な脚を痛めずにすむ」。トラックなどない時代としては当然の「心遣い」だった。さしずめ現在ならば軽四輪の黄金のキーになったのかもしれない。

 ところで・・・、スピロス・ルイスは「国のために」走ったのかしら。

 どうもこの「伝説」の「完成度」をあげるにはこのフレーズは似合わない。「国のために走った」のならば「国の与える報奨金」は自然の流れだ。とすれば、「国のため」はスピロスが後日自分を飾るために子や孫に付け加えたこのか。いや、インタビューを受けた孫が一族の栄誉を飾るために付け加えたのか。いやいや、「国のため」のフレーズを差し挟んだのがただ一紙ならば、その一紙の記者が勝手に「国のため」を付け加えたのか。

 いったいこれらのうちのどれが一番可能性が高いだろう。(9/3/2004)

 木曜日の楽しみは夕刊の「日々の非常口」だ。アメリカガッシュ右派暗黒国家、(「アメリカ合衆国は暗黒国家」とタイプしたつもりが「コク」が抜けて変換をかけてしまった、悪くない変換だから残しておこう)、ならず者国家、テロ国家、すべての厄災の源はアメリカ合衆国、したがってアメリカ人はすべて人非人という、コリコリの偏見にとらわれつつある昨今の自分にとって、このなんともフィーリングのあうアーサー・ビナードという人物がそのアメリカ人だという事実は、熱くなる一方の頭を冷やしてくれる。

 ビナードの書きネタのパターンは子供の頃の見聞と日本に来てからのガイジン経験に集約される。前者によく登場するのは彼のおじいさんだ。いつぞやのザリガニが引き起こした洪水の話などは、アメリカ白人がけっしてブッシュに代表されるような独善と利己主義にこりかたまったイヤな奴ばかりではないことを教えてくれた。祖父が彼に聞かせてくれたネイティブアメリカンの昔話。

 すべての動物たちが集まる会議が開かれた。議論は伯仲し、象が誤ってザリガニを踏みつぶしてしまった。ザリガニはその不当を責める演説をしたが、真剣に聞いてくれたのは**と**ぐらいだった。会議は続いた。そのうち、再び象はザリガニを踏みつぶした。ザリガニは再び不当を訴えたがその演説も黙殺された。ザリガニは身の危険を感じ、**と**に挨拶をして会場から水中へと帰った。水中深く潜るとザリガニは吹き出る泉の止め栓を外した。あふれる水はとどまることを知らずついに世界は大洪水。象やザリガニの演説を黙殺した動物たちはことごとく死んでしまったとさ。(惜しいことをした。**の動物がなんだったか記憶がない)

 今晩の話はガイジン経験と子供の頃の見聞のミックス。

 来日したばかりの頃、ラジオの天気予報で聞く「波浪注意報」という言葉は・・・「ぼくのアパートはちょうど小学校と児童公園の間にあり、放課後の時間帯に大勢の子供たちとすれ違うことがあった。外国人を見かけたら『ハロー!』と声をかけてくる子がいて、こっちが"Hello"と返すと、他の子もすぐ『ハロー!』と言い出し、それに対して再び"Hello"と返事しようものなら、今度は全員参加でハローの嵐が吹き、避難するしかない。何度かそれを経験して、『ハローは要注意』と自分に言い聞かせていた・・・」。とここまでがガイジン経験。返す刀が・・・ビナードが通ったミシガンの小学校の前を、もし日本人が通りかかったら、なんという声がかかったか。それは"Aso!"、「アーソー」の嵐が吹いたかもしれない・・・当時それくらいに"Japanese"と"Aso!"はリンクしていたらしい。「昭和天皇の口癖から始まった流行語が、進駐軍(ビナード君に使われると変な感じ)の間でも大いに流行り、アメリカへ持ち帰られた。そんな『ああ、そう』の流布の仕方を、在日五年目にして初めて知り、ぼくは日米の時差に驚いた。日本の戦後の一時の言葉が、米国では三十年も健在だった」

 小学校の頃、日曜日などに父と歩くとき、学校のことや友達のことをいろいろ話すたび、父は「ああ、そうかい」とだけ応じた。なんだかずいぶん気のない返事に聞こえて、こちらはずいぶんもの足りない思いをしたが、あれは「はやり言葉」だったのか。(9/2/2004)

9/1の記載内容は会社でのテーマ

面白いとは思うのですが差し障りがあるのでパス
会社と縁が切れたら公開しましょうか

 台風15号の影響で風か強く、けさの武蔵野線は30分以上の遅れ。ひどい混みようの中で万歩計を落としてしまった。去年の10月からだけでも昨日まで4,099,472歩、その前の分を入れるとおそらく7百万歩の相手をしてくれた友達。ちょっとショック。

 夜、**(息子)の招待で大門駅近くの焼き肉屋で会食。レバ刺し、ロース肉が忘れがたいおいしさ。なんとその後カラオケ、タクシーでお送りいただく。これが電通型完全「ご接待」の初級コースなのかしらん。なんとも、ハア。(8/31/2004)

 マラソンは30キロ地点を過ぎてブラジルのデリマが後続をかなり離したところで寝た。直後に民族衣装を着た変な男がデリマを走路から押し出すという妨害行為があったらしい。その後イタリアのバルディニが逆転、アメリカのケフレジニにも抜かれ、デリマは銅メダルになった由。

 男子ハンマー投げはいったん金メダルになったハンガリーのアヌシュがドーピング容疑に対する再検査を拒否して金メダルを剥奪され、室伏が繰り上げで金メダルを獲得した。

 これで日本は東京大会に並ぶ金メダル獲得数16となった。マスコミは銀9・銅12、計37個は過去最大と大騒ぎしているが、東京大会の種目数は163、今大会は301だ。金の獲得率は東京が約10パーセントに対し、今大会は5パーセント。メダルの総数、過去最大はロサンゼルス大会の32、その時の種目数は221。銅メダルは金や銀よりも多いものもあるようだから単純計算はできないが、あえて銅も同数と見れば、ロス5パーセントに対し、今大会4パーセント。ようするにメダル・インフレ現象の然らしむるところであることは明らかで、狂喜するにはあたらない。

 それにしてもなぜ「個数」を語るのだろう。足し算をした結果の「大きさ」を喜びたいのなら、野球、ソフトボール、体操、シンクロ、自転車、ヨット、・・・、プレイヤーの人数分を全部カウントするがいい。ホラ、94個のメダルだ、メダル。すごいぞ、すごいぞ、バンザイ、バンザイ、バンザ〜イだ、呵々。(8/30/2004)

 アテネオリンピックも今夜で終わる。最後はマラソン。女子マラソンに比べるといまひとつ熱が入らないのは「金」の可能性が高くないかららしい。どこまでいってもメダルがものさしというのはいかにもという感じがするが、多かれ少なかれその事情はどこの国でも変わるまい。

 しかし、マスを意識するマスコミがそうだとしても、60億もの人がこの地球上にいればオリンピックの開催を知らないか知ってはいても興味を持たないあるいは持てない人が半分ぐらいはいるはず。そして30億が興味を持っていても、そのすべてが自国の選手のメダル獲得だけに興味を持っているなどというバカなことはないはず。純粋に競技そのもの、自国民であるかどうかなどを区別せずそれに参加する選手の内心、それが表す表情とドラマに興味を持っている人も多いはず。

 たとえば三週間前の「赤be」に載っていたこんな話。

 第一回のオリンピック、マラソンの優勝者は地元ギリシャのスピロス・ルイスだった。彼は貧しい小作農で、農作業が休みになる水曜と日曜、アテネに水を売りに行くことを副業にしていた。ロバの背中に2つのカメを載せて12キロの道を一日2往復したという。その彼が恋をした。相手は名家の娘でエレナ、娘も愛に応えてくれたが身分違いで結婚は大反対にあった。スピロスに残された道はマラソンで栄誉を得ることだった。彼は予選会に挑戦するが選にもれる(17位とある)。しかし棄権する選手などがあって本番に繰り上げ出場がかなう。スピロスに期待する者はいなかった(エレナくらいは期待していただろう)と新聞にはある。

 アップダウンの激しいコースが彼に味方した。先行したライバルがゾクゾクと脱落する。中間点にはエレナとその父がいて、娘はオレンジを、父はコニャックをグラスについで差し出した。彼には結婚を認めてくれるサインに思えた。下りを利してスパートをかけたスピロスは33キロ地点で首位に立って、そのままパナシナイコ競技場に帰り着く。観衆は「ネニキカメン(我が軍、勝てり)」という伝説の言葉を大合唱。1896年4月10日午後4時55分20秒、ゴール近くの貴賓席にいたギリシャ皇太子とともにゴール。

 国王は多額の賞金を用意したが、スピロスは「わたしはみずからの誇りと愛する人のために走りました」と言ってこれを断り馬車だけを受け取った。エレナとの結婚後、生活を支える水売りの商売のためだった。新聞にはマラソン優勝のカップを前にしたスピロス・ルイスの写真が載っている。口髭を生やし、眼光の鋭い男だ。

 いい話だ。先週の女子マラソンの時はこの話の距離程と野口の走りを対照しながら観戦した。それはそれで面白かった。今夜もまたそうしてみようか。どんな顔つきの男があの凄まじい下りを駆け下りてゆくことだろう。その男が別に日本人でなくとも、それはそれで面白いはずだ。(8/29/2004)

 ラジオを聴きながら久しぶりに一時間を超えるウォーキング。永六輔が「高校野球の決勝の日、松山にいたんです。ところが駒大苫小牧を応援してるの。どうしてって聞いたら、ここらの子はひとりもおらんって。済美は全国の有力校の二軍級の子を集めたチームらしいよ」と言っていた。

 スポーツ校として、のしてゆくためにはそういうこともする時代らしい。それにしてもうまい着眼だ。一流校ではレギュラーにいまひとつという選手なら、ポジションをもらえれば120パーセントの力を出す。有力校との試合になるほど力が出てきても不思議はない。選手自身がそういう「一発屋学校」の思惑を逆手にとって、自己実現のできる学校として選択しているとすれば、必ずしも悪いともいえない。

 そこに不健康な匂いを嗅ぎ取るのはあくまで高校野球を「クラブ活動」としてとらえるからだ。いい学校でいい仲間と、めいっぱい競争して、一流をめざそう、できるなら日の当たるところで・・・、どこにも悪いことはない。しかし、そうやってひたすらセンサーをフル稼働させて、外界にみずからをチューニングすることを繰り返す人生は、やはり、どこか不健康ではないか?

 みんながそこそこに小賢しい知恵を発揮している時代だ。「小賢しい」と言いたくなるのは、思惑が微妙に掛け違ったとき、持っていたはずの「賢さ」がとんと見えないからだ。そういうときこそ聡明さが現れてよいはずだが、意外や意外、脆い、ほんとうに脆い。そんな奴がめっきり多くなったと思うは、気のせいか?(8/28/2004)

 諫早湾干拓事業工事中止を争う本訴の確定までの工事中止を求める仮処分申請に対して、佐賀地裁が差し止めの決定をした。工事そのものは「総事業費2,460億円、事業の進捗率は03年度末現在94%。06年度末に完成の予定」と昨日の夕刊には載っていた。

 干拓名目で計画されたにもかかわらず、その名目が無意味化するや治水名目に切り替えられた、じつにお粗末なこの事業の正邪は、いまや誰の眼にも明らかなものになっているし、現実にどれほどの自然被害を惹起したかも知らぬ者はない、そんな悪名のみ高い「工事」だから、この判決は当然のこと。あえて書けば、ただひたすら現実を追認することを自らの任務と考えてきたこの国の裁判所も、眼前に見えるものを見えないととぼけることはさすがにもうできなくなったのかと、そちらの方に驚いた。

 国は異議申し立てをするつもりのようだ。高裁と最高裁にはまだ「論理よりは権力」という頼もしいバカたちがたんといるから「現実」のごり押しで通せると考えているのだろう。「改革」小泉は最初こそハンセン病裁判で「英断」を下して見せたが、所詮は人気とりの「フリ」にすぎなかった。あの「英断」をまた再現してみせることができるか、絶対に無理だ。それがコイズミなのだ。

 読み始めたばかりの「キリスト教思想への招待」には、神による天地創造という教えは人間の自然に対する思い上がりをたしなめるものだと書いてある。たまたまさっきゆきあった部分を書き写しておく。

 我々は今や知るにいたった。人類は神の理性による創造の秩序に対して、破壊的な力を加えることができる、と。しかし、創造の秩序を人類が変えられるのは、破壊だけであって、みずからより良き創造などできはしないのだ。いや、その破壊も、当の人類にとっての破壊であって(人類のまきぞえをくって、他の多くの生き物も被害をこうむっているが)、神様自身にとっては痛くも痒くもない。人類が滅びたって、人類が勝手にこの大地を住めない場所に踏み荒らしてしまったって、神様にとっては痛くも痒くもない。・・・(中略)・・・人類の罪によって滅びるのは、人類である。

田川建三 「キリスト教思想への招待」 から

 プログラムを書く者なら誰でも、ある意味の「壁」を感じている。限定して区切った条件下でしかプログラムは書けない。システムの設計も同様。ウィトゲンシュタインの有名な「論考」の末尾、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」はプログラマーの諦念を表す言葉でもある。

 もとよりこの国の「政治家」や「役人」は人非人ばかりだが、こういう「壁」をないもののようにして、自然を改造しようとする「技術者」たちもじつは技術者ではない、人非人なのだ。(8/27/2004)

 内視鏡検査のため休暇をとって**の****病院へ。検査時間そのものは30分程度なのだが、はじめてのことばかりでドキドキ。ゼリー状の麻酔薬、嚥下してはいけないというのが、けっこうストレス。その後に試薬を飲む。苦い。これが麻酔が効いているかどうかの判定薬らしい。そして注射。すぐに左側を下にして中空になっているマウスピースをくわえさせられる。喉を内視鏡先頭部が通るときが一番辛い。吐きそうになる。マウスピースをきつく噛んでかろうじてこらえる。「カメラ」を飲んでいた時代はどれほどのものだったかと、いつぞや見た「プロジェクトX」のことを思い出す。

 終了とともにデジタル映像をカラープリントしてくれる。「記念写真」のようなものだ。幽門部寄りに潰瘍。腫瘍ではないとのこと。サンプル切除したものでピロリ菌などの有無のチェックをするらしい。そのあたりは後日の結果説明までお預け。「お昼過ぎまでは飲食はダメ、その後もはじめは熱いものや刺激物は避けてください」と言われる。終わってからもまるで棒を飲んだような感じが残っていて、「ご心配なく、食欲はしばらく戻りそうもないから」とまぜっかえしたくなった。

 平日だからといえばそれまでだが、病院の中は当然として、駅周辺まで戻っても、とにかく年寄りが多い。歩いているのはほとんど爺さん、婆さんばかり。夏休み中のはずが子供も若い子も見かけない。出生率が低下し、こうして年寄りへの医療が行き届けば、高齢化が進むのは道理。

 バリウム検査で所見が出たぐらいでこうして内視鏡検査だなんだと通うのは間違いなのかもしれない。深刻な自覚症状が出るまではふつうに暮らし、「もう少し早く見つかれば、手遅れにならずにすんだのにね」とか「運がよかったのよ、けっこう手遅れの人、多いみたいよ」などと言われながら、50代は早過ぎるとしても60代のどこかで逝くか、古来稀などといわれながら生き残る。単純な運に振り分けてもらう方が、自分も社会も幸せなのかもしれないなどと、ちょっと大きな声では言えないようなことを考えながら帰ってきた。(8/26/2004)

 このオリンピックではじめてメダルのニュースのなかった日。アナウンサーの異常なキンキン声を聞かずにすむとはじつに有り難い、などと思うのは生来のあまのじゃくのせいかしらん。(アナウンサーはまだ競技の素人だから許せないでもないが、横にくっついてしゃべっている「解説者」とおぼしき連中、これがひどい。「いけ〜」、「そこだ〜」、「やれ〜」、もっとひどいのになると「おー」、「うぉー」のたぐいで応援団というよりただの観客だ。まさかあれでギャラをもらっているわけではないのだろうが、趣味ならばご退散いただきたい、放送のじゃまだから。あんたたちはノイズ以外のなにものでもない)

 気のせいかメダリストになっているのは、事前に騒がれた選手ではなくダークホースが多い。競技に対する才能と世渡りのうまさの両方を身につけて、自らを「演出」できる谷亮子のような選手(彼女は「観客の応援」まで調達するようにトヨタに依頼した由)はけっして多くはないだろう。クローズアップされた選手がマスコミ対応で消耗し、無言の重圧を感じ、それがなかった選手がのびのびとやれた。そんなことでもあったなら、マスコミは有望なメダリストたちの可能性を摘んでいることになる。

 オリンピック三連覇をやってのけた野村、彼はシドニーで金を獲得して「引退」した。結婚後、サンフランシスコに語学留学した際、彼の地で請われて子供たちに柔道を教えるうちにその「楽しさ」を再び思い出したことが戻るきっかけだったという。女子マラソンの草分け増田明美もラジオで同じようなことを言っていた。期待されながら出場したロサンゼルス大会で途中棄権した彼女にマスコミは冷たかった。彼女が走り始めた頃の「楽しさ」を思い出したのはやはりアメリカだった。

 アマチュアリズムが打ち棄てられた現在のオリンピックにはもう「楽しみとしてのスポーツ」などないのかもしれないが、オリンピックレベルの鍛錬に明け暮れる心の底に、その競技を始めた頃の「楽しさ」が熾火のようにあるべきだろう。スポーツに限った話ではない。あらゆる「仕事」の奥底には、国のためにでも、会社のためにでも、組織のためにでもない部分、田中耕一が語っていたような「仕事のおもしろさ」があるものだ。

 最近でこそ「オリンピックを楽しみたい」という言葉は広く市民権を獲得しているが、たしか千葉すずがこう言ったとき、この国の人々はこぞって彼女を袋だたきにした。それは「誰のカネでオリンピックに行かせてもらえたと思ってるんだ」という「声なき声」で、じつに恐ろしいまでにこの国の貧しさを露わにしたものだった。プロならばマジメにやれ、マジメにやることである以上、「楽しむ」などという遊び半分の言葉が出る余地はないはずだ。これが精神的に貧しいこの国の「常識」なのだ。だから野村も増田もアメリカへ行くまで「楽しくて好き」で始めた競技の「面白さ」をいつの間にか見失っていたのだ。

 アメリカ軍用ヘリ墜落事故に関して「ナショナリズム新聞」がどのように取り扱うかをみようと、サンケイと読売の社説・サンケイ抄・編集手帳・寸評をずっとウォッチしてきたが、両紙ともオリンピックのメダルの話がよほど楽しいらしく、書くのはそのことばかり。「ばっかり食べ」は最近の子供だけではないようだ。(やっときょうになってサンケイは小学生の作文のような寝惚けた社説を載せたが、ウケウリは宗主国から官製情報が出るまでは「ウケウリ」ができぬらしく未だに「顧左右而言他」ばかり)

 オリンピックでの国威発揚・日の丸掲揚・君が代吹奏を手放しで喜ぶさまは無邪気で微笑ましくさえ見えるが「メダル狂喜ナショナリズム」は時に選手を追い込む。その自覚がない分だけ酷薄でもある。思い出すのは円谷幸吉。ヒートリーに抜かれたあの東京オリンピックマラソン銅メダリスト。いったんは決まった結婚を自衛隊体育学校の「上官」に「メキシコに出られるかどうかという時に結婚どころではないだろう」と禁じられたあげく、練習にも行き詰まって自殺した悲劇のランナーだ。円谷を追い込んだものは未だにこの国のどこかに潜んでいて、ある日選手に襲いかかる。「オリンピックを楽しむだとォ、不謹慎極まるッ」ってなもんだ。別にサンケイ・ウケウリに限った話ではない。いわゆる選手美談のそこここに「メダル狂喜ナショナリズム」の匂いがプンプンとしていて、どうも居心地が悪い。

 さてその千葉すずは夫山本貴司に電話で「楽しんできてね」と言った由。彼女はアテネに行かなかった。おかげかどうかは知らぬが、彼は200メートルバタフライで銀メダルを獲得した。表彰台上、冠をかぶった山本はじつによくカッパに似ていた。あの冠、いままでの大会では月桂樹が使わてきたが、今大会ではオリーブを使っているとか。月桂冠ではなく橄欖冠か。しかし橄欖冠を用いたのはヒトラー主催のベルリンオリンピックの時だったそうだ。オリンピックには気持ちの悪い仕掛けがたくさん隠れている。(8/25/2004)

注)

 円谷幸吉の死については、沢木耕太郎の「敗れざる者たち」に収められた「長距離ランナーの遺書」をお読み下さい。
 おそらく、これを参考にダイジェストしたものが、ここにあります。

 小泉首相が秋の国連総会での演説で常任理事国入りをめざすことを表明する由。夕刊には「いまの常任理事国はみな核兵器を保有している。場合によっては国際紛争を解決する手段として武力行使は否定しない。しかし、日本はそうではない。いまの常任理事国とは違う、できることとできないことがあることをはっきりしなさいというのが私の持論だ」という彼のことし2月の記者会見での発言がでている。

 常任理事国入りをめざすことに異論はない。アメリカの腰巾着のようなところは気になるものの、既に日本は十分な国連負担金を支払っているのだから基本的な資格は持っている。首相の言葉はいまひとつ論理に濁りがあるが、たとえば、「核保有をしない、武力を紛争解決の手段とはしない、そういう意味で従来の常任理事国とは一線を画する、だがこういう考え方の方が国連加盟国のほとんどすべてを占める国々の基本的な主張そのままであるのだから、それを確実に代弁できる国として常任理事国のイスを要求する」という意味だとすれば「私の持論」は誤ってはいない。

 ただ、コイズミという男は、郵政民営化にしろ、道路公団改革にしろ、もともとの自分の「持論」をじつに簡単にグズグズと取り下げて、そのくせ「オレはぶれていない」などと強弁する「クズ」のような男だから、この言葉がいつまで額面通りの意味を持ち続けられるかはあやしいものだけれど、ね。

 なにより、アメリカ軍ヘリの墜落事故対応ひとつ、まともにできないような骨無し腰抜け宰相が「常任理事国」などと言っても、ちゃんちゃら可笑シーサー(8/24/2004)

 起き抜けのニュースは野口みずきの金メダル。寝たのは2時頃、これなら大丈夫と思ったからだったが、あの後、二位になったケニアのヌデレバにかなり追い上られたらしい。ゴール時は12秒差の由。しかし、ともかくも「金」。土佐は五位、坂本は七位だが、女子マラソン選手選考に関わった人たちは胸をなでおろしたに違いない。

 処暑。暦通りの涼しさ。小雨まじりの鬱陶しい天気も、うだるような暑さの直後なら許せる。

 沖縄のアメリカ軍ヘリコプター墜落事故。昨日あたりから、外務省の局長やら外相、官房副長官がしきりに「同型機の飛行再開は納得できない」などというコメントを出している。確かに事故原因に関する納得のゆく説明がない限り、なし崩しの飛行再開が納得できないのは当然の話だが、それ以前に事故内容がどのようなものであったのかということも、一部に「劣化ウラン弾の搭載」が疑われているだけに、説明されなければなるまい。

 しかし、それよりなにより、「説明」などを要求する以前の問題として、日米共同の調査をするということが絶対に必要であったし、いまもそのことは変わっていないはずだ。

 北朝鮮による拉致被害者の調査にも見られることだが、どうしてこの国の政府は自ら調査をしようという意思を最初から放棄して他国からの「説明」や「報告」に待とうとするのだろう。他国のフィルターのかかった「報告」を受け取って、「納得できる、できない」とか「毅然たる姿勢」などといったところで口先ばかりのことにしかならぬ。なにもかもあなた任せにしておいて「毅然たる姿勢」もないだろう。こういうことをふつうには「お嗤い種」という。

 なるほど拉致問題調査については「家族会」だの「救う会」だのが「北朝鮮のペースにのるだけ」という愚にもつかない理由をあげて反対した経緯があったから、政府にも「ヒステリー患者」を刺激しないという配慮があったのかもしれない。だがこの問題は違う。なんといっても我が領土内に危険な軍用機が墜落したのだ。その調査権を最初から放棄しておいて、説明に納得がいかぬなどといっても、ただのカッコツケにしかならぬ。いかにそれがコイズミのスタイルだとしても。(8/23/2004)

 豊里から帰ってくる日、車の中で駒大苫小牧が日大三をからくも破った試合をきいた。運転しながら、「白河の関を越える前に津軽海峡を渡ったりして」と言ったが、それはあくまで冗談だった。その時はまだ東北高校がベストエイトに進むことを楽しみにしていた。翌日、東北高校は雨中の接戦で手中の勝利を取り落として千葉経済大付属に負けた。コンディションさえよければ9回表ツーアウトからの三塁手のエラーはなかったと思われて雨が恨めしかった。そして「ことしも優勝旗が白河の関を越えることはなかったかぁ」と思った。

 ベストエイトに残ったのは、駒大苫小牧(南北海道)・千葉経済大付属(千葉)・修徳(東東京)・横浜(神奈川)・東海大甲府(山梨)・中京大中京(愛知)・天理(奈良)・済美(愛媛)だった。

 そして駒大苫小牧は横浜に勝ってベストフォー。その試合は見ていない。**(息子)の話では「打つことは打つけれど、残塁が多い」ということだった。じっくり見たのは昨日の対東海大甲府戦だった。10対3とリードしてからジワジワと点差を詰められる展開。けっこうきちんとボールを見極めているのが印象的だった。ただの強打ではないのだなと思ったが、とにかく北海道勢が決勝に進んだことだけで十分だった。それだけで十分に「奇跡」だったから。

 63年のことだと新聞にある。だから中学3年になる春のことだったことになる。北海高校が決勝に進んだ。その年のことはよく憶えている。塾へ行くギリギリの時間までテレビにかじりついていた。たぶんそれは準決勝の試合だった。心を残して塾へ向かった。着いた塾の事務室のテレビが大音量で決勝進出を伝えていた。それがほとんど最初で最後のこと。二十世紀中に優勝旗は白河の関を越えることはなかった。津軽海峡を渡ることなど考えられもしなかった。とくに夏の大会に北海道のチームが勝ち進むことは考えられなかった。冷夏といわれた年に3回戦までいったときは毎年こうならばチャンスもゼロではないと思ったが、それでも優勝などはあり得ない話だった。

 白河越えの話でいえば、一番その可能性が高まったのが、三沢−松山商業というあの伝説の試合だった。またこんども白河越えを愛媛県勢が阻むのだなぁと試合の始まる前から思っていた。だから試合をのっけから見る気などなく、いつもの「噂の東京マガジン」を見て、あいまにちょっとチャンネルを切り替えたりなどした。初回を終わって1−2、2回を終わって、1−5。春夏の連覇の例はいくつかあるとしても、済美の場合、春初出場で優勝、夏初出場で優勝ということになる。両方とも初出場での連覇の例はないとのことなのでそういう記録もいいと思った。

 だがなんということか、3回に2点、4回に3点で、駒大苫小牧は試合をひっくり返してしまった。ここからが長く感じた。「面白く見られるじゃないか」と思い始めたからだ。直後の5回、済美は同点に追いつき、6回にはソロホームランとヒットなどで3点差と突き放した。北海道のチームが勝つと思っていないのだから、「やっぱりね」。しかし5回も6回も追加点ランナーを好返球で刺すシーンがあるのが「なんだかこのチームは違う」という雰囲気を感じさせてくれる。6回裏ツーランで1点差、そして同点。「なんという試合だ」。そして7回裏にはまた3点を勝ち越した。8回の表に1点入れられれば、裏にはきっちり1点返す。そして9回。ノーアウト1・3塁からショートゴロ・ゲッツーで一気にツーアウトがとれた時、はじめて「エッ、ほんとうに北海道のチームが優勝してしまうの」と思った。しかしストライクが入らず四球、バッターは何度も何度も名前を聞いた済美の鵜久森、スタンドにたたき込まれれば同点。「追いつかれると、追いつかれた方は後攻めでも負けるんだよな」などとあくまで北海道のチームが勝てないと思いこんでいることに気付く。そして・・・。

 鵜久森が打ち上げてショートの佐々木が危なっかしい捕り方をして試合は終わった。**(家内)が「優勝旗が仙台の上を飛んで行くのに、東北高校、悔しくないのかしら?」と言う。小樽生まれとしてはじつに気分のよい瞬間だった。(8/22/2004)

 ほんとうに暑い日が続く。

 飲み会のためにフレックスで工場を出る。ちょっとばかり身構えるようにして建屋を出たが、存外、さらっとしていて拍子抜け。朝も思ったのだが、空気に清澄度が加わっている感じがする。建屋が反射する夕日の明るさが違ってきている。

 「あかあかと・・・」、あとはなんだったっけ・・・。

あかあかと日はつれなくも秋の風

 小学校の時、「国語自由自在」で暗記した句だなぁ、と苦笑いしながら駅へ急いだ。(8/20/2004)

 内藤洋子、新珠美千代、島田陽子、針葉樹の木立に囲まれた郊外の家、・・・、「氷点」。韓国与党ウリ党の党首が父親が日本軍の憲兵だったことを理由に辞任というニュースから、こんなものを連想するのはあまりに牧歌的な話かもしれない。

 三浦綾子の「氷点」は朝日新聞の1,000万円懸賞小説で選ばれた小説だった。三浦が連載開始の時、「原罪をテーマにした」と書いていたので、比較的早い段階で殺人犯の子としてもらわれた「陽子」がじつはそうではないという「救い」の設定は予想できた。いまに至る下衆根性は高校生の時すでに始まっていたから、さっそくに***(友人)に「陽子は殺人犯の子ではないんだよ、きっと。プロットとしては醜いアヒルの子なんじゃないかなぁ」といっておいた。陽子が自殺を図り、回復する最終段で「なっ、あたったろ」と得意顔で自慢したことを憶えている。

 醜いアヒルの子は白鳥だったからいい。陽子も殺人犯の子ではなく知的レベルの高い不倫カップルの子だった。しかし我々はアダムとイブの裔である。ウリ党の党首も憲兵の前歴を持つ父の子であることからは逃れられない。

 どのようにふるまったとしても消えない罪、自ら為す前に背負っているとされる罪の話は、ついにクリスチャンになりきれなかった理由のひとつだった。「原罪」については宗教上の狡知と片づけることができても、継承者としてあるいは社会的存在としての人間にとっての「原罪」は簡単に片づく問題ではない。

 ハンナラ党の体質を攻撃しようとしてウリ党がとった作戦がブーメランのように自らに帰ってきた皮肉な政治騒動としてみればそれで足りるのか、それとも、日本よりもキリスト教の影が濃い韓国でこの「原罪」に我々の知らない陰影がついているのか、あるいはいないのか、少しばかり気になる。それによっては彼の国がこの国に持つ気持ちへの理解が異なってしまうのだから。(8/19/2004)

 沖縄国際大学に墜落したアメリカ軍ヘリコプターはどうやらかなり厄介なものを積んでいたらしい。神浦元彰のサイトには「劣化ウラン弾」であった可能性についての情報提供とコメントが掲載されている。読売のけさの朝刊に掲載された写真には防毒マスクに似たマスクをつけ黄色い防護服を着たアメリカ兵がオレンジ色のシートに包まれたものを運び出すところが写っている。

 神浦は「箱に入った劣化ウラン弾か。その可能性が高いとは思う。あるいはオレンジ色の袋に入っているので、極めて危険な物であることは容易に想像がつく。この荷物があるので米軍は沖縄県警との合同現場検証を拒否したのだ。脇の米兵がマスクだけなので、化学兵器(毒ガス)ではなさそうである。それにしても不気味な写真である。この写真1枚が普天間基地が激動を開始する出発点になるような気がする」とコメントしながらも、慎重に「ただし、この写真を日本で鑑定することは絶対に無理である。いい加減な軍事評論家の無責任な評論をマスコミに掲載してはいけない。アメリカにいる特派員が元米軍人(専門職)などをまわって取材する以外に真相は究明できない。私はこの写真が意味することはわからない。わかることは極めて危険な物を扱っているということだけだ」としている。

 上京した稲嶺知事と宜野湾市の伊波市長の会見申し入れに対してコイズミは「夏休み中」を理由にこれを拒否した由。金メダリストにチャラチャラした電話を入れる時間はあるが、このような重大事に時間を割くことは一考だにできないとは絶句する感覚だが、えひめ丸と米原潜の衝突事故の際、ゴルフを取りやめることができなかった前首相同様、これが森派の伝統なのかもしれぬ。

 しかし・・・、いくつもの「もし」が浮かぶ。

 そのひとつ。アメリカ軍がフェアではないことをマーシャル群島の住民は知っている。もう50年以上も昔のことだが、アメリカ軍は放射能の影響に関するデータを収集するために、水爆実験に際して意図的に危険地域の住民の一時避難の措置をとらずに実験を行い、その後、お為ごかしの健康診断をして放射能の人体への効果を確かめるデータを幅広く集めたという悪魔的な前科を持っている。

 もし墜落ヘリコプターに劣化ウラン弾が搭載されていたとしたら、普天間基地周辺住民はマーシャル群島の水爆被爆住民同様の扱いをされていることになる。

 そしてもうひとつ。もし米軍ヘリが皇居に墜落したならば、コイズミはそれでもアメリカ軍に皇居を占拠させ、事故原因の調査などは彼ら任せにし、都知事の会見要請を休暇中といって拒否したのだろうか。(8/18/2004)

注)神浦元彰のサイト:タイトル「沖縄ヘリ墜落 政府、米に原因究明を促す(読売 8月18日朝刊)」の項

 体操男子団体が金メダル。オリンピックのメダルといえば、体操とレスリングだった時代があった。子供心に体操は団体があって個人が6種目、どうしてもダメな鞍馬(鞍馬に日本人にとっては未来永劫高得点を狙えない種目とされていた)を除けば最大で7個まで狙えるなどという勘定をしたものだったが、いつか鳴かず飛ばずになっていた。団体での「金」はモントリオール以来28年ぶりの由。

 林健太郎が亡くなった。反共ということだけで彼を評価する人がいるが、歴史学者としての彼が「学」に忠実であったことは確かで畏敬に足る人であった。彼の「大東亜戦争肯定」論者たちに対する批判は学匪、サンケイ文化人の顔色を失わしめるものだった。そんなものからパッと頭に浮かんだものを書き写しておく。「THIS IS 読売」97年3月号に掲載された「教科書で書くべき歴史」の末尾だ。

 だからと言って、歴史の教科書の中で悪かったとか謝るなどと書けというのではない。しかし1930年代以降の対外政策が過誤であり、他のアジア諸民族を傷つけるものであったことは事実によって示すことは必要である。もちろん「南京三十万人虐殺」のような事実相違のことは否定しなければならないが、自己の誤りを認めることを「自虐」などと言って拒否するのは「自卑」、すなわち自己を卑しめかえって自己を傷つけるものであることを忘れてはならない。

 その死を心から悼む。(8/17/2004)

 9時20分に豊里を出発。一面の青々とした田んぼの中を走る。田んぼの中に水が引かれていない雑草ばかりが覆い繁る区画がまじっている。減反指導で打ち棄てられたかつての田んぼなのだ。田を畑に転用して別の作物を植えたらどうなのかと思うが、用途換えをすると減反奨励金が打ち切られ、課税率が変わるなどするのかもしれない。なにもしないで指導通りに放置するだけでカネが入るならば、人はあえてその土地を活かそうなどとはしない。いうがままにして奨励金を受け取り、手が空いたなら兼業する業務で小遣いを稼ぐ方が賢いということになる。国家としての誇りなどという大上段の話以前に、耕作者としての誇りを失わせておいて何が「公」で何が「国柄」なものか。バカバカしくて話にもなにもなりはしない。

 大和のインターに入ったのが10時20分。途中、福島西から福島トンネルまで、那須から西那須野まで、上河内あたりで数キロの渋滞があった他はさほどひどい渋滞にはあわなかったが、それでも所沢に着いたのは5時少し前だった。渋滞と100キロ以上出すことがあまりなかったせいか、久々にリッター20キロを超えた。

 夜のニュースを見ながら、再び田んぼの状景が甦った。

 普天間飛行場に隣接する大学にアメリカ軍のヘリコプターが墜落したのは先週、13日の金曜日のことだった。墜落地点は間違いなく日本国の領土だ。ところが沖縄県警は現場検証ひとつできずにいる。アメリカ軍が事故現場を占拠して立ち入りはおろかマスコミが撮影することすら制限をしているからだ。日本政府はどうやら事故現場の管理権をアメリカ側に引き渡してしまったらしい。

 この件について自民党も民主党もひとことも言う様子がない。あれほど国家主権について小うるさい読売新聞もサンケイ新聞も寂として声がない。憲法論議でわけの分からない気分だけの改憲論議をしている連中はアメリカに属国扱いされてもプライドが傷つくことはないのだろうか。じつに不思議な連中だ。そんな背骨を持たないような連中がよくもまあ天下国家を語るものだ。バカバカしい。奴らの話など金輪際真面目に聞く必要はなさそうだねぇ。(8/16/2004)

 あまりにアテネだ、金メダルだと金切り声を上げて騒ぎ立てられると、生来のへそ曲がりはかえって白けてしまう。

 柔道野村忠宏のオリンピック三連覇はみごとだ。彼の紆余曲折に「作り」はない。それだけに頭が下がる雰囲気を持っている。だからこそ報道はその程度にしておいて欲しい。職人は寡黙な方が断然いい。

 そういう点で、谷亮子、努力は認めるがしゃべりすぎ。最近の彼女には夾雑物が多すぎる。なにより、谷を「ヤワラちゃん」などと呼ぶのはやめて欲しい、「猪熊柔」はもっとかわいいのだから。

 東京はきょうは雨、連続真夏日の記録も7月6日から8月14日までの連続40日でストップした由。(8/15/2004)

 昨日も関東に比べればかなり過ごしやすい感じだったが、きょうはいちだんと涼しくTシャツの上に半袖上着を羽織ってちょうど。朝夕はタオルがけだけでは不足で毛布を一枚掛けて寝る。

 アテネオリンピックが始まった。こうしてみると渡辺恒雄の辞任劇は絶妙のタイミングで行われたということがよく分かる。ほどほどの注目は集めるがけっしてこのことだけに集中することはあり得ない。

 そこで昨日の続きだ。なぜ「殺人犯」は「こそ泥」を自首して出たのだろうか。小さいウソは往々にして大きいウソを隠すためにつくものだ。

 考えられる理由には消極的なものと積極的なものがある。昨日来の報道は消極的なものをあげている。ひとつ、一リーグ移行に関してあまりに反発が強く嫌気がさした、ふたつ、そのため一部に読売新聞不買運動まで起きかけている。これへの対応ではないかというものだ。しかし、この程度のことが理由で渡辺が辞めるというのは大げさすぎる。もっと積極的なもくろみがあって然るべきだと思う。

 先日の日曜、1ギガのメモリを購入するために、午後、秋葉原に行った、ラジオでTBSの「伊集院光・日曜日の秘密基地」を聴きながら。その日は「プロ野球一リーグ化を考える」特集だった。何人目かのゲストにたしかオリックスの球団代表を務めていた経歴を持つ人物(名前は忘れた:インターネット環境がないとこういうときどうにもならない)が出た。店に入るごとに放送が聞こえなくなるので通しで聴いたわけではないが、彼の主張は一リーグ化やむなしというもの。理由としてあげていたのが各球団の財務体質の弱さ、その主原因たる有力選手獲得のための「裏契約金」の負担だった。

 オリックス・近鉄の合併話の時、あげられた疑問に「近鉄球団はほんとうに赤字なのか」というものがあった。近鉄バッファローズが財務データを公開しなかったため、この声は大きくなりつつある。もし、本来ないはずの「裏金」支出が赤字の主因になっているとすれば公開したくともできなかったのは道理だ。渡辺の辞任によりこういうカネの存在を周知させ二リーグ維持など子供の戯言と切り捨てることができるなら、最終的には渡辺にも読売ジャイアンツにも傷は付かないどころか、あわゆくば「球界全体を考えた立派な行為」ということにさえなるかもしれない。これが積極的な理由のひとつ。

 しかしこれも立派すぎるような気がする。昨日、**(息子)に「古田も入団前に今回のような裏金を受け取っていたのかな」、「いや、選手会が98パーセントの支持率でスト権を確立したといってるから、古田に心理的な圧力をかけるつもりなのかと思ってさ」といった。けさ、**(息子)は「もう入団して何年も経つ古田よりも、もっと後に入った若い選手たちが狙いかもしれないよ」といった。なるほど少し考えが浅かったようだ。思えば、ジャイアンツの親会社である読売新聞は、正力松太郎という特高上がりの男が警察人脈を動員して脅し取ったカネと対立者の弱みを徹底的につつくことによって作り上げた陰湿にして悪辣な新聞社だ。「キンタマを握って人を支配する」という正力松太郎以来の読売新聞の伝統的手法こそ、ナベツネが今回用いようとしている究極のテクニックなのかもしれない。こちらの方がはるかに読売グループの「社風」にあった積極的なもくろみの立て方のような気がする。(8/14/2004)

 夕方、柳津に向かう途中の車で「巨人が渡辺恒雄オーナーを解任」という臨時ニュースを聞いた。実際に解任されたのは土井誠球団社長、三山秀昭球団代表、高山鋼市球団副代表の三名、渡辺と堀川吉則という会長が辞任ということ。理由はことし自由獲得枠でとる予定だった明治大学の一場靖弘というピッチャーに去年の暮れから先月までの間、契約のための裏金200万ほどを渡していたからだという。

 よく「手配中の某が何々署に自首した」などというのを聞くがこれはまちがい。「自首」とは犯罪そのものがまだ露顕していないか、あるいは未だ犯人が何者かわからない状況で自ら警察なり検察に対して犯罪事実を申告して出ることをいう。一場某に対する不当な金銭の提供については少なくとも今夕まで公の知るところではなかったから、渡辺と読売巨人軍が行ったのはこの「自首」にあたる。

 じつに不思議で、ある意味、奇怪な「自首」だ。読売巨人軍が清廉潔白、公明正大であると信じている者は、ジャイアンツファンを含めて、だれ一人おるまい。江川の獲得騒動からドラフト制度の骨抜き・空洞化まで、読売巨人軍というチームはどれほど陰に日向にルール破りをやり、勝手放題の不正行為をはたらいてきたことか。現在のプロ野球界の金権、旧弊体質の99パーセントは、誰でもない渡辺恒雄が率いてきた読売巨人軍が作ったものではないか。それをいまさら200万ぽっちの裏金を使ったことを「自首」してみせるのは、ちょうど(ドラフト制度の)殺人犯が「(買収で選手を盗むという)こそ泥だけ、やりました」というようなものだ。へそが茶を沸かすとはこのことをいう。(8/13/2004)

 UFJと三菱東京の統合に対し先行して統合話のあった住友信託が交渉の差し止めを求める訴えを起こしたのは先月16日のこと。27日東京地裁はUFJ・住友信託の基本合意書(5月21日締結)の法的拘束力を認め統合交渉差し止めの仮処分を決定した。これを不満とするUFJの抗告に対する東京高裁の決定がきょうあった。交渉差し止め仮処分命令の取り消しという逆転決定。住友信託側は今夜最高裁に特別抗告を行った。

 高裁の決定は、@UFJ・住友信託間の基本合意書は法的拘束力があるが、A双方の信頼関係は既に破壊されたから協議を継続することは不可能、Bしたがって差し止め請求権は認められないという曲芸的論理。逆転決定とはいうものの基本合意書に法的拘束力があることそのものを否定したわけではないところに一片の良心を残した裁判官の怯懦がほの見える。

 連想したのは「有責配偶者の離婚請求」。有責配偶者というのは夫婦関係を破綻させるようなことをした当人をいう。これは自分で不貞をはたらくなどの離婚原因を作っておいて離婚を申し立てるようなことを許容したら結婚という制度そのものが成り立たないという考え方に基づくものだ。しかし何年か前の最高裁判例で、長期間にわたって実質的に夫婦関係が破綻しているのなら、少なくとも有責配偶者からの請求だからということだけで申し立てを門前払いすることはやめようということになった。

 UFJはまさに「有責配偶者」、高裁の決定も「実質的婚姻破綻」の論理に似ている。個人どうしの話ならそれもよかろう(それにしたって「長期間」という条件が付いていたはずだが)が、法人についてこのようなことを認めるのはどんなものだろう。これでは企業間の合意書も契約書も意味をなさなくなってしまうではないか。まるで「理屈はどうあれ、ひたすら『現実』を追認するのが裁判所にできることです」といっているようなものだ。

 しかし東京高裁はもっと大きな場での「現実」を見落としている。ひとつはこの決定で成立するであろうメガバンクが基本合意書を踏み倒した前科持ちになるということと、もうひとつはこの国では「空気」が優先すると「法的拘束力」などは消し飛んでしまうということ、そのふたつの認識が国際社会に流布してしまうという「現実」を。外国企業はこのように見るだろう、三菱東京UFJは信頼できるビジネスパートナーにはなり得ないし、日本は未だ真に近代化されたビジネス空間とは言い難い、と。(8/11/2004)

 東北支社ヒアリングのため、部会終了後に工場を出発して仙台へ。仙台もここ半月ほど真夏日が連続していて暑い夏だというが、湿度が低いせいだろうかさほどのことはない感じ。

 行きの新幹線の中で**さん(同僚)が「オイルショックの時、1バレルいくらぐらいまでいったんでしたっけ」と尋ねてきた。全然感覚がなかった。「分からない、どうして?」、「いや、45ドルをこえて50ドルぐらいになるって予想なんですよ。オイルショックの時ってどのくらいまでいったのかと思って・・・」。原油の先物市場価格が高騰している。一般的ビジネスマンの感覚としては回復基調にあるといわれる景気にどのような影響があるかが気になるのだろう。

 イラク「戦争」が始まる前、日高義樹はイラクを半月で片づけたあとは石油の安定供給が実現し、原油価格が下がり石油消費国はこぞってアメリカに感謝するだろうと言っていた。岡崎久彦は「イラクに派兵しなければいけない。フランスもロシアも後れを取っているのだから確実に儲かりますよ」とさえ言っていた。兵隊は血を流せ、俺達は安全なところで配当を受け取るという、その口ぶりが如何にも下品で下劣な岡崎の顔つきに似合っていた。イラク「戦争」はとっくに終わった。だが原油価格は安定しない。たしかにベネズエラの国情不安(去年は大規模なストライキがあり、近日大統領のリコール投票が予定されている)も影響しているには違いない。しかしイラク情勢の一喜一憂が投機市場を突き動かしている大きな要因であることも事実。

 ・・・とそこまで考えて、ふとこんなことに思い当たった。「ブッシュ一味が狙ったのはイラクの石油そのものではなかったのかもしれない」ということ。

 イラクでは石油関連施設の復旧とゲリラによる破壊がいたちごっこを続けている。暫定政権の安定度も日々揺れている。原油の先物価格はイラク石油の生産量に関する楽観論と悲観論のめまぐるしい交代の中で、通常よりは安定度を欠いた形で上下動を繰り返している。左手がイラクの石油施設に対する防衛を意図的にコントロールし、右手が投機市場でチップを積んだり崩したりする。そういうことができるなら、連続的に利益を上げ続けることなど造作もないことだ。ブッシュ家は石油業を生業としてきた。石油の採掘と生産による利益率はすぐに平衡点に達するが、投機による利益率は情報がすべてを制する現代においては比較にならない伸びが期待できる。まして賭場で「マッチポンプ」というズルをすれば濡れ手で粟は堅い。大統領職でさえズルで盗み取ったブッシュ家のことだ、これこそ一家の「天職」だろう。

 窓外に流れる景色を見ながら、そんな想像をする自分を「どこまでいってもビジネスマンとはほど遠いなあ」と自嘲。(8/10/2004)

 美浜原発で配管の破裂事故があり4人が死亡、7人が重軽傷を負った。ニュースでは「二次冷却水系で発生した事故だから放射能漏れはない」ということばかりを強調しているのが嗤える。事故の内容がまさに原子力発電という「技術を僭称する『技術』」の詐欺的な一面を象徴しているからだ。

 JIS Q 2001「リスクマネジメント」には「リスク」は「事象の確からしさとその結果の組合せ、又は事態の発生確率とその結果の組合せ」と定義されている。リスクマネジメントと呼ばれるものの基本は、リスク要因を洗い出し、発生した場合に予想される深刻度と発生しそうな確率とから評価して、これについてあらかじめ「回避」、「移転」、「低減」という「対策」をしておくことにある。深刻度が低いものあるいは発生確率が低いものについては「保有」という選択肢もある。「リスクの保有」とは「損失負担の受容」、つまり、「リスクに対する特定の対策はとらないでおこう、不幸にして起きたときは損失を負担する覚悟だけしておこう」ということだ。関西電力がリスクマネジメントをしていないとは考えられないから、二次系の配管事故リスクについて「保有」を選択していたということになる。

 報道によれば破裂箇所は流量計の近くということ。流量計はオリフィス+差圧発信器だろう。まさかこんなところに電磁や超音波、ベンチュリ管だってつけるはずはない。10ミリもの管厚の配管を使用していたのはオリフィスが作る乱流箇所だったからこそのことだ。そんな箇所を「保有リスク」扱いにしたというのは信じがたい話だが、76年の開業以来一度も保守点検していなかったということだから、最初から「保有」の判定であったと考えられる。(論理的には「リスク」としてリストアップしなかったということもあるが、もしその程度のリスク管理だったとすれば関西電力には原発保有資格はないことになってしまう。バカにジャンボジェットのパイロットが務まるわけはないことを考えれば誰でもわかること)

 では、なぜ「懸念箇所」のリスクを「保有」としたのか。

 原子力発電を推進してきた連中は数限りないウソをついてきた。大昔、彼らは「原発は絶対に安全だ」と断言していた。スリーマイル、チェルノブイリの事故がその言葉がウソであることを示した。それらの事故のあと、彼らは「日本の原子力関係施設は安全だ」と言い始めた。東海村JCO事故はそれがウソであることを証明してしまった。現在も彼らの手もとに残されている「まだばれていないウソ」の中に「原子力発電は低コストだ」あるいは「他の発電方式と同等のコストだ」というものがある。彼らはこのウソがばれることを非常に恐れている。なぜなら「危険な上にカネもかかる」というのでは原子力発電などひとかけらの魅力もなくなるからだ。つい数週間前、核燃料再処理に関わる費用を算出しておきながらデータをひた隠しに隠していたということが報ぜられていた。公表すると「原発は安い」というウソがばれることを恐れての話だった。

 「リスク保有」という選択は主に経済性と事故致命度とを勘案して決定される。原発には「放射能漏れ」という第一級のリスクがある。つまりリスク対策のために「カネがかかる場所はたんとある」のだ。「原発は安い」というウソをつきとおすためには、報道でさかんに強調された「放射能漏れがない安全な」箇所などに「カネをかけるわけにはゆかない」のだ。計装技術の常識からは信じがたいリスクを「保有」扱いにしてしまった理由はおそらくここにある。とすれば今回の事故は残されたウソを死守したい原発推進関係者の犯罪者の如き心理が招き寄せた事故だといってよい。

 関西電力は確信犯としてこの「リスク保有」という選択を行ったと思う。その証拠に彼らはこの危険な場所における作業を正社員は誰一人立会わせずに行わせている。正社員のリスクを百パーセント下請け会社員に引き受けさせたわけだ。こういう手法をリスクマネジメントでは「リスク移転」と呼んでいる。関西電力のリスクマネジメントはみごとに確立しているといって差し支えあるまい。(8/9/2004)

 サッカーアジアカップの決勝戦は3−1で日本が中国を下して2大会連続、通算3度目の優勝。試合そのものは好試合だったのだろう。ただテレビの前に釘付けにさせるというほどのものを持っていたわけではなかったけれど。けさのニュースでは、競技場から出た日本公使の車の後部ガラスが割られたり、興奮したサポーターが朝まで各所で気勢を上げ、日の丸を焼いたりなどした由。

 この大会、日本チームは中田、小野、稲本が入っていないにも関わらず、PK勝ちを含む5勝1引分け。先制を許しながらの逆転やバーレーン戦のラスト数分での同点劇などはみごとだった。あのスタンドの凄まじいばかりの反日応援が日本チームの強さを引き出したのでないかとさえ思う。

 少なくとも日本チームのほとんどのメンバーは中国サポーターのサッカーに関する「眼」のレベルが低いことに精神的な余裕をもってしまったのだ。分かっていない奴がどのようにブーイングをしてもプロは感情的になどなりようがない。際どいところの機微に関わるプレイについて絶妙な反応があるからこそ選手の感情は揺れる。芯を外したところで騒がれてもそれはただのノイズにしかならない。そんなところでブーイングが聞こえれば、かえって冴えてくる。それは中国にかけつけた日本のサポーターの多くにとっても同じだったような気がする。インタビューに「アウェイの試合ならあんなものでしょう」と軽くいなすものが多かったのはそういう事情の現れだったのかもしれない。

 中国は国際的に見てその株をかなり下げた。ナショナリストという人種がどれほどみっともなく、その行為が空しいものであるか、たんと見せてくれたのが今回の収穫だった。(8/8/2004)

 **(友人)からの相談に応えようとbootvisを試したのがきっかけだった。それが昨夜の9時頃。ダウンロードして試してみるとなかなか面白いツール。ところがXPのロゴが出てから、ようこそ画面に移行するまでの時間はかえって長くなってしまったり、フライング気味に壁紙画面が先にフラッシュするなど、あまり気持ちがよくないので元に戻そうとした。システムの復元やらなんやらを試みたがダメ。

 仕方がない保管中のバックアップシステムに戻すことにした。ところが「hal.dllが壊れている」というエラーメッセージを出すところでハングしてwindowsが起動しない。これが11時頃。

 **(息子)のシステムからhal.dllのコピーをとる、ダミーインストールしたシステムからhal.dllのコピーをとる、エラーメッセージの文面を忠実に解釈して行ったことはすべてムダだった。

 午前2時をまわる頃に最後のあがきとして、**(家内)のノートを使ってマイクロソフトのサイトの技術情報で検索をかけてみた。「Hal.dll が存在しないか壊れていると表示されて起動できない場合の対処方法」という項目に「Boot.ini ファイルを再構築することによって、問題を解決できる可能性があります」とある。藁をもつかむ気持ちでトライし、やっとシステムが立ち上がったのが3時過ぎ。

 ダミーインストールしたwindowsが立ち上がったときに勝手にchkdskで「修復」という名の「破壊」をしてくれたデータドライブの復旧をすべて終えたときは朝の4時になっていた。

 WindowsがXPになっても完成度の低いシステムだということは知らないではなかったが、これほどいい加減なエラーメッセージなら出さない方がましというものだ。(8/7/2004)

 九州支社へ。10時25分羽田発の便。既に熱帯低気圧になった台風11号の影響を避けるために南回りのルート。

 雲が多いながら松山の北を通過する頃にはかなり視界が開けてきた。右翼窓際の席だったので広島湾や宮島がよく見えた。あしたは広島原爆の日。エノラ・ゲイの乗員たちにもこのようなパノラマが眼下に広がったのだろうか。彼らにはこのパノラマが原爆の効果が最大限に発揮できるベスト・ターゲットに見えたのだろうか。それとも彼ら自身これから自分たちが投下する爆弾がどのような破壊力を持っているものかに関する知識はほとんどもっていなかったのだろうか。

 人類は進歩してきた、より理性的になってきた、そういう風に教えられ、信じてきた。それが我々の受けた教育だったし、まわりにある情報はほとんどそういうものだった。しかし、最近はほとんどそう思わなくなってしまった。例えば、戦争のやり方一つをとっても、けっして現代の我々は賢くなどないのだ。民主主義という思想が戦争に関する賢明な仕組みを破壊してしまったという指摘があることを、先日読んだ小熊英二の「市民と武装」で知った。総力戦の考え方が一番極端な形で現れたのがヒロシマだ。原爆の悲惨については十分にアピールしなければならない。そのことに変わりはないが、その奥にある総力戦、殲滅戦の思想に対する批判にまで射程を伸ばさない限り、ヒロシマを根本から克服することはできないのではないか。

 扇状地上の都市、広島を見下ろしながら、そんなことをぼんやりと考えていた。(8/5/2004)

 もめていたエイベックス、辞任するとしていた創業の取締役松浦が一転して残留、社長を兼務してきた会長依田が名誉会長に退くことで結着した由。スポーツ紙の見出しには「あゆの一刺し」。浜崎あゆみが自分を育てた松浦が辞めるなら移籍するとしたことがこの「急転解決」の大きな理由らしい。

 もともとエイベックスは松浦がレンタルレコード店から起こしたベンチャー会社。彼が財務経営をみてもらうために招いたのが会長の依田だったという。CDの売り上げ減少に対し、楽曲のネット販売などへの転換で応えようとする39歳の松浦、クラッシックなど分野の拡大に向かおうとする64歳の依田、この経営戦略上の対立がお家騒動の中味。

 新しい発想で課題を乗り切ろうとするか、経理センスの事務屋感覚で隘路を切り開こうとするか、ある意味でよくある「永遠の対立」。そう見るとこれは岩井克人が「会社はこれからどうなるのか」に書いていたサーチ&サーチ社の例を思い出させる。エイベックスはポピュラーミュージックCD、サーチ&サーチは広告業、ともにポスト産業資本主義的会社であること、創業者の松浦、モーリス・サーチがそれぞれに派手な私生活で足もとをすくわれたということも、よく似ている。

 違いはモーリス・サーチは宣言通りサーチ&サーチを退社して「M&Cサーチ」という新会社を作ったのに対し、松浦は手練手管に長けた依田の手の中に閉じこめられたということ。モーリスは兄のチャールス・サーチとともに、数年足らずで彼らを追い出したサーチ&サーチ社の業績を追い抜いてしまった。さて、松浦はエイベックスという会社でまたかつてのパワーを発揮し、サーチ同様の成果をあげてみせることができるかどうか、興味津々、成り行きを注目しよう。(8/4/2004)

 起きてモニタのスイッチを入れてみたら、メモリエラー、一箇所検出していた。88.1MBというから比較的前半。システムリセットの原因は電源ではなくメモリだったのか?

 夕方、規格協会の帰りに秋葉原にまわって、メモリを購入。ノーブランド品、PC2100で512メガ、CL2のものが品切れのためCL2.5のものにした。動作・相性保証などの保険をつけて税込み8,245円。

 サッカーアジアカップ、バーレーンに勝って決勝進出を決めた。先日の重慶ほどではないにしても今夜のスタンドも反日モードが顕著だった。けさの東京新聞社説は「観衆が反日感情を示したのにはそれなりの理由があるだろうが、その発露をスポーツの場に持ち込むのはそぐわない。2008年には北京でオリンピックが開かれる。もし五輪で再現されるようなことがあれば国際的な非難は免れない。中国側にきちんとした対応を求めたい」と書いていたが、まったくその通り。

 重慶の騒ぎについて中国のサイトではこんな応酬があった由。「外国の国旗と国歌に対する明らかな差別(日本とヨルダンの二国の国旗・国歌のことを指している)と侮辱行為はたとえ日本が相手であっても中国の品位を疑わせるから気をつけよう」という書き込みがあった。これに対する反論は「佞奸」、「売国奴」からはじまって「狂人」に至るまで口をきわめた罵倒が並んだという。

 ふと、先日の文春韓国俳優写真集事件をとりあげた2チャンネルでの書き込みを思い出した。そこでも冷静な解決を訴えた書き込みに対するレスは「バカじゃない」、「精神異常のようだから相手にしないでおこうよ」というものだった。中国国内のインターネット論調もある意味で日本のインターネット論調の鏡像のようになっている。頭の先から尻尾まで「反*」、「嫌*」で凝り固まり、ヒステリックに相手を忌み嫌い、罵倒している。どちらも驚くほど似ている。

 日常の鬱屈をこういう形で排泄しているのだとしたら、皮肉なことに「彼ら」は本質的には気のあう仲間同士なのかもしれない。まあ、そんな連中のことはどうでもいいだろう。どうせ彼らはさほど多くはない愚か者たちなのだから。

 しかし、やはり、それにしても・・・、と思う。その愚か者たちが扇動し、社会・時代の相貌が醜いものに変わり、愚行を繰り返すというのが人間の歴史だった。愚か者たちに口実を与えないこと、愚か者たちの主張の浅薄さが自明であるという社会的共通認識、そういうものが必要なのだ。

 ・・・だとしたら、日本は生き方の選択を間違ったのだ。もし、日本がもっとアジアの先導国であるような意識を持っていたならば、これほどの根深い反発に根拠を与えることはなかったに違いない。この国で「保守」の看板を上げている連中がもっと聡明な「保守」らしい「保守」であったならば、少なくとも日本の国旗と国歌をヨルダンやバーレーンに対する扱いと同等程度には遇してもらえただろう。(彼らのヨルダン、バーレーンへの「敬意」がたんに日本への「憎悪」の故に発揮されたという可能性もないではないのかもしれないが)

 この国はいくつかの「敗戦」を経験してきた。あの重慶のスタジアム、そしてきょうの済南のスタジアムの光景は、明治の開国以来、一貫してアジアを裏切り続け、ついにアジアの期待に応えることのなかったこの国の近代が招来した「敗戦」の光景だった。(8/3/2004)

 朝、通勤の時、もう秋かもしれないと思った。青い空が高く、空気が乾いていた。

 昨夜は涼しかったので久しぶりに窓を開けて寝た。一度目が覚めたとき、射し込む月あかりが幾分透明になってきたと思った。「lunatic」という言葉を思い出し、障子を少し閉めて寝た。

 武蔵野線からは富士山がくっきりと見えた。立秋は週末だが、それと気付かぬうちに、夏の底に秋がひそかに滑り込んできたのかもしれない。そんな想像をするくらい爽やかだった。

 定時を待ちかねて急いで帰宅。電源交換に取り組む。一般的なPCに比べるとSCSIのバスがある分だけ配線が混んでいる。しかも、いまとなってはウルトラでもなんでもないUltraWideとUltraWide2の二種類のSCSIケーブルがあるのだからケースの内部はジャングルそのもの。半時間以上かけてどうにか交換を終了。外部のACパワーコードもテーブルタップ経由ではなく、壁のコンセントから直接とることに変更。

 今のところシステムは順調。今夜は先週フェーズ4で終了させたメモリチェックをかけっぱなしで寝ようと思う。(8/2/2004)

 システムチェックの考えがまとまらないままに所沢のパルテックに行き漫然とパーツを物色。内心は新しくもう一台組み立てる意識に動いているのかもしれない。一方で「デスクトップ」ばかり何台あっても仕方がないという至極常識的な心の声も。

 あれこれ見ているうちに、電源不良と仮定すると、突然のシステムリセットの説明がつくような気がしてきた。負荷変動時の電圧の安定性が悪いとすれば、一意的にリセットにつながる理由になるのではないかということ。確信は持てないが、もし電源に問題がないとしても、新しくシステムを組むときに無駄になるわけではない。

 なんだか自分を納得させるための理屈だなぁと苦笑しながら、定格400ワット、ピークロードで520ワット、Prescott対応をうたっているものを買ってきた。税込み13,440円。かなりの豪華版。換装はきょうは見送り。(8/1/2004)

 システムが突然リセットするという現象が起き始めたのは一年くらい前からのこと。比較的ハードディスクのアクセスが混むときに起きるという印象。ワードやエクセルの操作中に発生することはなく、仕掛り中の作業がフイになるということもない。以前は二、三週間に一度程度という頻度の低さもあって気持ちは悪いものの集中して原因を突き止めようという気にはならなかった。しかし今月に入ってから一日の稼働中に複数回発生するようになり始めた。

 メモリーを疑い、ハードディスクを疑い、チェックと交換を27日から一アイテムごとに行った。メモリーもハードディスクも大容量化が進む一方で、メモリチェックとはいっても簡単には終わらない。3時間以上、長いものになると8時間程度もかかってしまう。システムドライブの入れ替えはツールを使うとしてもかなりの手順を踏むことになるから簡単には終わらない。おかげでほぼ連日、午前2時過ぎの就寝になってしまう。

 しかし、どうやら、メモリーでも、ハードディスクでもなかったようだ。次の容疑者は電源か?(7/31/2004)

 姑息な手段といえば、狡猾なやり方と思っていた。憮然として立ち去ったといえば、むっとした表情で帰ったのだと受け取っていた。それぞれに間違っていた。まず、「姑息」の「姑」は「しばらく」という意味で「その場のがれ」、「憮然」は「失望や不満で空しくやりきれない思いでいるさま」が正しい意味だそうだ。いままでいくど間違って受け取りまた使ったことか。ああ恥ずかしい。

 文化庁が16歳以上2,206人に面接調査した事項のいくつかが朝刊に載っている。ただ同様の例としてあげられた「檄を飛ばす」については、広辞苑の第4版には「考えや主張を広く人々に知らせて同意を求める。また、元気のない者に刺激を与えて活気づける」の両意が書かれているから、既に用法・用例の変化が起きているといってよいのだろう。

 間違っているから直すべきなのか、それとも誤りとはいえ、それが既に広く流通し多くの人に使われていれば、言葉というものの機能からしてもうそれはりっぱな一つの用法・用例になる。いったい、どのあたりに「誤」から「正」への転移点があるのだろうか。

 いまや間違いとはいえない例をあげておく。「新しい」はもともと「あらたしい」であり、それが正解であった頃は「あたらし」といえば「可惜しい」ことだった。その証拠に「気持ちも新たに」といい、「あたら若い命を」という。しかし、いま、目の色を変えて「新し」は「あらたし」、「可惜し」は「あたらし」というのだと主張しても、それは空しいことだろう。

 もっとも「過ぎたるは及ばざるがごとし」を「覆水盆に返らず」という意味に使うことはいつまでたっても間違いであり続ける。どこぞの田舎代議士には残念なことだろうが。(7/30/2004)

 いったいどういう新展開があったのかと訝しんだ国松長官狙撃事件の犯人逮捕は、結局、20日間の拘置期限が切れ容疑者は釈放、起訴は見送りの方向となった。

 警察トップが襲撃された事件だから威信にかけてもという事情は分からないではないが、ならばかえってこの出たとこ勝負のような逮捕の仕方が分からない。事前に検察とそれなりのすりあわせもしていなかったのだろうか。いい加減といえばいい加減、不思議といえば不思議、ちょっと信じがたい話。

 会見に応じた国松の言葉がとりようによっては興味深い。「だれが撃ったか、はっきりしない。拳銃も出ていないのでは、このような処分になるのは致し方ないと思う」。この事件にはある部分白鳥事件に通ずるところがあるように思えてならない。ぴったりと符合するわけではない。なにより最大の違いは白鳥警部は死に、国松長官は死ななかったわけだが、受ける印象はなんともいえず似ている。

 今回逮捕された小杉敏行元巡査長はオウム信者だったと報道された。彼はオウム信者でたまたま職業が警察官だったのだろうか。そうではなくて彼は警察官としてオウム信者になったのではないのだろうか。つまり職務としてオウム真理教の調査のために入信したということはないのだろうか。拳銃はオウムが組織的に調達したものだったのだろうか。そうではなくて拳銃をオウムに渡すとどのように扱うかを調べるために件の元巡査長がどこからか調達したということはないのだろうか。拳銃は警察の捜査では見つからなかったということだ。しかし拳銃が出てくると困る事情が警察の側にあったとすれば、見つからなかったのではなく見つけなかったのではないかということはないのだろうか。一貫して9年半このような茶番を続けてきたことを隠すために、万座の前でわざわざ恥をかいてみせたとすれば、この信じがたい不様な逮捕劇は一気に筋道の通った納得のゆくものになりそうだが、さて。(7/29/2004)

 昨夜はBIOSのアップデート作業で肝を冷やし、夜中の2時過ぎまで取り組んだ。ちょっと頭を冷やすためにあえて今夜はハードをいじることはやめてソフトチェックでできることをするつもり。

 夕刊に吉田秀和が音楽展望休筆の辞を述べている。高齢のためと思っていたが、奥さんを亡くした生活の変化が理由らしい。「あの人はどう思っているのだろうか」、そう思わせる人は少なくなりつつある。そういう「ひとこと」を待つ身として「だから」という部分を末尾から。

 ・・・書く題材がないわけじゃない。例えば、最近亡くなったカルロス・クライバー。僕ならカリスマ性で皆を魅了した彼への讃辞ばかり書いてもつまらない。・・・(中略)・・・批評とは結局、対象を切実に自分の内面で受け止め、問い直す作業ではないか。

(7/28/2004)

 そんな腹立ちを引きずったまま秋葉原へ行き、SEAGATE製のハードディスク(200ギガ内蔵IDE:ST3200822A)を買ってきた。最近頻発し始めたシステム操作中の突然のリセット現象対策のつもり。レジの店員が「ビッグドライブ対応はされてますよね?」と尋ねる。「XPのSP1ならいいんでしょ?」、「マザーボードも対応していないと」、「最悪、BIOSをアップデートすればいいの?」、「ハードインタフェースも」とここで店員は売ることに重点を置き直して「そのときはインタフェースボードをつければOKです」、内心、割り込みがあいているかどうかが気になったが、もうその時はカネを払っていた。

 これからマザーボード仕様の確認とBIOSのバージョン確認をしよう。(7/27/2004)

 夜9時からのNHK特集を見る。題して「にっぽんの"ゴミ"大陸へ渡る」。資源リサイクルの現状についてまとめたものだったが、両国の現状を一番率直にあらわしているのがこの資源リサイクルの状況だと思った。

 印象的だったのは中国人バイヤーが買い集めた日本の廃棄家電・パソコンの山の映像だった。がらくたが山をなす集積場が数週間で大げさにいえばチリ一つ残らない更地に戻る。構造部品は材質別に、配線材は電線、シールド線、絶縁材、被覆材、みごとに分離されてそれぞれのリサイクル業者へ売られてゆく。もう何十年も前に読んだ小松左京の「日本アパッチ族」を思い出した。強靱な胃袋でほとんどすべてのものを消化してしまうたくましさという点では中国人にはかなわないのではないかという連想からのことだった。

 ペットボトルのリサイクル。高度な自動選別技術を駆使する日本の業者はペットボトルから均質で細い糸を再生することができるのに対し、もっぱら安い人件費で人海戦術をとる中国の業者はペレットに再生するのがせいぜいだ。高い技術力による品質チャレンジが可能な反面、人件費を含むコスト面での競争には勝てない日本。内陸農村部と沿海都市部の温度差が経済というエンジンの効率化を保証している点に圧倒的な強さを持ちながら、いずれその温度平衡がおとずれるときまでに何を準備できるか依然不透明な中国。おそらくこれが一であり十なのだ。

 しかし上海に近いリサイクル工場で働く農村からの出稼ぎ夫婦の顔がじつによかった。仕事は朝7時から夜8時まで。長時間、重労働、かつ作業環境は日本に比べるべくもないほどに悪い。しかし二人の顔には希望に裏打ちされた明るさがあり、自分たちの現在の稼ぎを田舎に残した子供たちの将来に百パーセント投資することになんの迷いもない。それを語る眼と表情がいい。こんないい表情をいまのこの国でどれくらい見ることができるだろう。それが彼我で一番大きく違うもののようだ。(7/25/2004)

 宝くじの印刷技術はどの程度のものなのだろう、偽造は難しいのだろうか。夜7時のニュースを見て、いの一番にそんなことを想像したこと自体、我が心の貧しさの現れかもしれぬ。

 先週末の集中豪雨で甚大な被害を受けた福井県の知事宛に6月に抽選のあったドリームジャンボ宝くじの一等当たりくじ券が、「被害を受けられた方々に少しでも援助になれば幸い」と書いた便箋とともに送られてきたというニュース。

 たしかに「あたらなければ、ないはずのカネ」と考えられないことはないかもしれない。しかしそうはいっても一等賞金は2億円。いったん受け取ってその中の一部というならまだしも、当たり券をそのまま寄付金にと送る人がいるというのは、貧しい心の者にはにわかには信じられなかった。それが「当たりくじ券の偽造」という卑しい想像を生んでしまったのだ。

 それでも、下衆の勘ぐりは尽きず、前後賞もあたったとすると5千万×2で1億は手元に置いたのかしらとか、中抜けの前後賞当たりくじの換金の際にはこの匿名の寄付者の身元も分かってしまうのではないかとか、・・・しかし、ここは素直に、この国にはまだこのような隣人がいると、我が心を温めておくことにしよう。いや、そうしなければならぬ。(7/24/2004)

 今月初めに文春が出した韓国人気男優の写真集に、モデルとなった男優たちからパブリシティ権を根拠にした販売中止要請が来ているというニュース。件の写真集は初版5万部は既に完売、増刷した10万部が宙に浮いた状態になっている由。文春の釈明は、撮影者チョ・セヒョンが許諾をとる契約になっており、話がついていると承知していたというもの。

 チョ・セヒョン、漢字はどう書くのか知りたくてインターネット検索をかけ、2チャンネルの該当スレッドに迷い込んだ。「ちょっと売れたら、もうこれだ」式のやっかみまじりのものにはじまって、韓国嫌い・朝鮮嫌いが凄まじい罵詈雑言を書き並べている。匿名のものかげに隠れて撃つとき、どこまでも自らの品性を落としてゆく類の人々がいるということがよく分かる。嗤ったのは「間に入った韓国人を信用するからだ、日本の感覚で仕事するな」とか、「悪いのは仲介したカメラマンなのに文春を訴えるんだから、韓国人はビジネスというものが分かっていない」という書き込みだった。2チャンネルにもいろいろのスレッドがあるのだろうが、サンケイ新聞が激賞していたのはおそらくこのような嫌韓、嫌朝、嫌中といった「アジア見下し」スレッドなのだろうと思い当たり、寒心しながら早々に辞去した・・・のは、昨夜のことだった。

 けさのラジオで小沢遼子がこんなことを言っていた。「これがトム・クルーズだったらどうだったと思う?」、「権利関係の了解をカメラマン任せにしたりしないでしょ」、「どっかに韓国だからそれで済む、みたいなところがあったんじゃないの?」。

 文春の写真集出版担当者は、2チャンネルへの書込み子ていどの「日本流ビジネス感覚」しか持ち合わせていなかったのか、それとも小沢のいうように相手が韓国故に手抜きをしただけだったのか、どちらだったのだろう?(7/23/2004)

 アーミテージ国務副長官が訪米中の中川秀直自民党国対委員長に「憲法9条が日米同盟の妨げの一つになっているという認識はある」と語った由。常任理事国入りの件との関連でふれたものか、それとも櫛の歯を挽くようなイラクの「多国籍軍」の状況の歯止めが欲しくて思いついた話か、はたまた、中川が自分の思惑から誘導した話をいかにもそういう外圧があるかの如く伝えたものか。

 前二者とすれば、建前上は「大きなお世話」、事実上は「日本などはアゴで指図できる三下」とみなされていることの現れということになるし、最後者とすれば自民党という政党がもはやプライドのかけらもない売国政党に堕したこと(中川の面体は「奴隷頭」のそれと書いておけば将来も簡単に思い出せるはず)を物語っているということ。どうだろう、この際、養老孟司の提案通り、もはや日本政府などは廃絶して各都道府県がそのままアメリカ合衆国の属領として直轄を受けたら。

 それにしても思うのは「失われた十年」の大きさだ。いまを去ること16年前、当時ブッシュ・シニア政権の国防次官補だったアーミテージは、ワシントンの国防大学で開いた環太平洋安全保障シンポジウムで、日本に対し一千海里シーレーン防衛の能力を上回るほどの過大な防衛負担増を要求することはかえって東アジアの安定を損なうといい、むしろ、経済援助増を求めていくことが望ましいと主張した。そこには、日本の防衛力が既にかなりのレベルに達しその軍事能力に対して米国自身がかなりの警戒感を持っていることが透けて見えたものだった。(滴水録88年2月26日参照)

 しかしもはや日本はそのような「警戒感」など無用、人畜無害の「安全牌」、はやりの表現を使えば「ポチ」に成り下がってしまった。だから「外交的な礼儀」など忘れ「個人的見解」をあけすけに語ってもなんら問題のない「属国」として扱われるに至ったのだ。

 そうだろうよ、コイズミ、タケナカ、アベ、・・・、少なくとも対米側面においては「骨」も「理念」もなにも持たないトッチャンボウヤばかりだもの。(7/22/2004)

 39.5℃や40.2℃で驚いていてはいけなかった。けさの最低気温は30.1℃、熱帯夜どころではない、夕刊の命名によれば「超熱帯夜」だそうだ。

 土用の丑の日。立秋が8月7日ということは、ことしは土用の間にあと一日、8月2日が丑の日になる。最近は土用といえば夏のこの時期のことになってしまったが、もともとは陰陽五行説にしたがって四季の間に配当した期間。だから四季の移り変わりのバッファ期間として各季節の終わりに土用がある。

 きょうは土用三郎、言い伝えによれば、晴れていたから今年は豊作のはず。夏のいま晴れていれば暑い。暑ければ稲作には吉。理の当然として豊作と考えればなんということもない話。

 この程度の話も教える者が少なくなれば、いずれは忘れられる。某**はこれに類したことのほとんどを知らない。そのくせいっぱしの保守主義者のつもりでいるのが可笑しい。その保守主義はただの復古、反動、軍国主義。基礎がない、そんなものを保守主義とはいわない。たかだか明治に始まる背伸びした作り事のみを「伝統」などと思うが故の浅薄なる保守よ、嗤うべし。(7/21/2004)

 暑い。最高気温は東京で39.5℃、市原で40.2℃になった由。これではイラクなみだ。「イラクに行っている兵隊さん、ごクロウさま」。庶民はそんなことを考えるが、コイズミや口を開けば国際貢献などといっている連中はどうなのかしらん。もっとも仮設とはいえ、冷房の効いた宿舎の中で「安全確保」のために、巣ごもりばかりしている自衛隊員に対して、地元サマワでは「失望している」という声が徐々に大きくなっているというから、このヒートアイランドでのたうちまわっている我々の方が、かえって厳しい夏をおくっているのかもしれぬ。

 朝刊のトップ見出しは「中絶胎児を『一般ごみ』」。横浜の「伊勢佐木クリニック」という産婦人科が「一般ごみ」として棄てるために妊娠12週以上の場合には手足などを細かく切断していたという記事。法的には妊娠12週を超えると「死体」として火葬しなければならない由。この産婦人科はその費用を惜しんだものらしい。12週未満の場合、形状はヒトに近くとも「医療的な廃棄物」となるのだそうだ。

 ふと、先週金曜日、「私の視点」欄にあった投稿のことを思い出した。「一般ごみ」として扱われるぐらいなら、それを積極利用しようというハゲタカの発想が生まれるのは理の当然であったかと。

 その投稿は京大探索医療センター教授福島雅典によるもので、厚生科学審議会科学技術部会「ヒト幹細胞を用いた臨床研究の在り方に関する専門委員会」がこの5月25日にまとめた「ヒト幹細胞等を用いる臨床研究に関する指針」を痛烈に批判したものだった。

 指針は中絶胎児の細胞を医療・医学研究応用へ利用する道を開こうという趣旨。「新鮮な細胞を得るためには」、「生きている時点」での入手が必要、それを「殺人」にしないためには「細胞は生きていても個体は死んでいる」という理屈をつけねばならぬ。臓器移植論議の際にも出くわした卑しさが導く「詭弁」。「いきぎも」を欲しがる移植医にも通ずる苦しいいいわけが「死亡胎児」という言い換えに現れている。(たしかに「指針」には「※なお死亡胎児については別途慎重な議論を必要とする」と書いてはあるが)

 8週目の胎児は体長が約3センチあり心臓の拍動は超音波で見える。人とは何か。生命とは何か。原点はそこにある。哲学の不在は、人類の限りない退廃と荒涼たる未来を暗示している。
 私が所属する京都大学探索医療センター検証部と先端医療振興財団・臨床研究情報センター臨床試験運営部は、中絶胎児細胞の移植研究を一切支援しない方針だ。踏みとどまる限界を見極めるべき時ではないか。

 福島は投稿の末尾にこのように書いた。専門委員会19名の委員のうち3名が福島と同じ京大大学院医学研究科教授である(他に2名、京大文系教官が参加している)ことを考え合わせると、外部の者には窺い得ない別のことがらが伏在しているのかもしれないとは思いつつ、やはり福島の結語には、再度、深く共感した。(7/20/2004)

 ハッピーマンデーによるお休み。「成人の日」、「体育の日」、「敬老の日」などはそれなりにもともとの日の記憶があるからまだしも、「海の日」などは新参者だから、もともとの7月20日でさえ、「エッ、なんで休みなの?」というようなところがあった。それがハッピーマンデーになってしまうと、もうほとんど「何の日」でもなくなってしまう。バカなことをするものだ。

 それほどに連休を作りたいのなら建国記念、みどりの日(昭和天皇誕生日)、文化の日(明治天皇誕生日&憲法公布日)、勤労感謝(新嘗祭)だけをいまのハッピーマンデーと区別する意味などなにもない、どうにも動かし難い元日、春分、秋分などの暦日と天皇誕生日以外はすべてハッピーマンデーにしたらよかろう。とかくにつまらぬちょっかいを受けているみどりの日などは5月2日あたりにしてしまえばイデオロギー論議を根絶するためにいいかもしれないし、間隔の悪い11月の3日、23日なども調整してすんなり二回の三連休が作れれば万々歳にできよう。しかし、そういうものではないはず。祝日はその由来につなげてこそ意味がある。ハッピーマンデーなど即日廃止すべきだ。

 ところで祝日法(国民の祝日に関する法律)を調べてみて面白いことを知った。「建国記念の日」は法律の条文には期日の指定がなく政令で定めることになっているということ。どのような経過でこのようになっているのか。少なくとも「昭和」の折にはまだしも「配慮」というものがあったということだろうか。(7/19/2004)

 きょうの天声人語は「昨日、北御門二郎さんが91歳で亡くなった」と書き出していた。

 たぶん小学校の1年の夏休みだったと思う、南明町の家に北大大学院に進んでいた叔父が数週間遊びに来たことがあった。叔父は数冊の本を持ってきていた。難しそうな本の中に「分かる」本が一冊だけまじっていた。岩波文庫「イワンの馬鹿」。たぶん不思議そうな顔をしていたのだろう、叔父は笑いながらその中のいくつかを読み聞かせてくれた。そして、ついでのように、トルストイには毎日ひとつずついろいろな人の言葉を集めたすごくいい本があること、いまは札幌に置いてあるけれどいつも一日分ずつ拾い読みしていることなどを話してから、「そうだね、この本はおいてゆく。もうひとつの本は、いまは難しいから、大きくなったら送ってあげるよ」と言った。

 しかし、叔父は約束のことは忘れて、持参した本はすべて持って札幌に帰ってしまった。叔父とはそれきりになった、その年の暮れ、叔父は死んだから。翌年の春から講師として大学に残ることが決まった矢先のことだった。叔父の持っていた本のほとんどは葬儀に駆けつけた父の判断で大学の同僚などに引き取ってもらったようだ。ごくわずかな本が送られてきた。「イワンの馬鹿」はその中に入っていたが、もうひとつの「大きくなったら、毎日ひとつずつ読む本」にあたるものはなかった。

 数ヵ月前の天声人語にトルストイの「文読む月日」の紹介が載ったとき、「あの本のことだ」と思った。その訳者が北御門二郎、由緒のありそうな苗字、カバーのプロフィールには徴兵拒否の経歴。考えと行動を一貫させる、この国には稀有の人だったらしい。

 訳者まえがきに紹介されているトルストイ最晩年のエピソードにならって、北御門の亡くなった日のくだりから言葉を引く。

 古代社会機構の基礎は――暴力だったが、現代にふさわしい社会機構の基礎は、理性的和合と暴力の否定である。
 暴力によってのみしか人々に働きかけることができないのなら、人間の理性は一体なんのためにあるのだろう。

トルストイ 「文読む月日(中)」 七月十七日から

 トルストイ没後、百年近くが経とうとしているが、状況はいっこうに変わっていない。人間の理性はただ創造主の自己満足のためだけにあるようだ。(7/18/2004)

 森嶋通夫が13日に逝去した。ノーベル賞で学者を計測するという陳腐な倣いに従えば、森嶋は宇沢弘文とならんで経済学賞候補の有力者といわれていたほどの経済学者であった由。

 森嶋の書いたものを最初に読んだのは**(息子)が生まれた頃だったと思うから、かれこれ四半世紀も前のことになる。それは文春掲載の「新『軍備計画論』」だった。明晰な頭脳とは、どのように考えるものか、ということに目を見張った記憶がある。ただ当時は「防衛」の視座を絶対のものと考えていたので、森嶋のソフトウェアによる防衛論に頭では同意するものの、心にはいまひとつ抵抗感を残していた。

 いま読み返してみると、たしかに四半世紀前の書き物だなとは思わされるが、なにからなにを守る論議なのかという基本点さえ見失わないとすれば、十分に再読に耐えうる。

 森嶋がこれを書いてから、ソ連は自壊し冷戦は終わった。ある意味で国家間の正規戦争という「市場」は飽和したといってもよい。危機感を覚えた「戦争屋ども」があらたに創出した「商品」が非正規戦(別名:「テロとの戦い」)である。しかし森嶋が提示した「ソフトウェアによる防衛」はこの新たな「課題」に対しても十分に有効なのだ。(あえて書けば、森嶋との論争の相手である関嘉彦の論の中には、この新しい課題に対する答えはない、視野が狭かったか、焦点深度が浅かったということだろう)

 この提案はジョセフ・ナイの「ソフトパワー」につながっている。ナイがこれを提唱したのはたしか90年代に入ってからのこと。森嶋は遡ることその十年前に基本的なアイデアを提示したことになる。

 再読中、目に入った一節を書き写しておく。何十年変わらぬこの国の特質を剔抉した部分だ。

 けれども日本では通常「国民的合意」は軽率に、しかも驚くべき早さで形成される。その上、いったん「合意」が出来てしまうと、異説を主張することは非常に難しいという国柄である。

 異国にあって祖国のことを心から思っていた、碩学の死を、心から悼む。(7/17/2004)


注)「新『軍備計画論』」は、文藝春秋1979年7月号に掲載され、後に「『文藝春秋』にみる昭和史」に収録されました。

「『文藝春秋』にみる昭和史」はハードカバー版と文庫版がありますが、両者間では少し異同があるようです。たぶん、文庫本は現在も入手可能だと思います。

 曽我ひとみ一家はあさって日曜に「帰国」ということになった。焦点のジェンキンスの処遇について、ふたつのニュースが入っている。

 ひとつは国務省バウチャー報道官の話。「ジェンキンスは米陸軍の脱走兵で非常に重大な罪を負っている。いったん日本に入れば法的には米軍当局の管轄下に入るので日米地位協定に基づき日本側に身柄の拘束を求めることができる。ただし治療の状況がどのように進むか見なければならない」という内容。

 もうひとつはべーカー駐日大使の話。「米国はジェンキンスの身柄引き渡しを求めていくことになるが、人道的にも今すぐに引き渡せということにはならないだろう」と、ここまでは同じ。注目されるのは「弁護士に相談してジェンキンス本人が出頭、司法取引をすれば極刑は免れるのではないか」という個人的意見を述べたということ。

 いずれにしても「病気治療」を表に立てて時間を稼ぎ、然るべき時機をみて「司法取引」というグレイゾーンの中に逃げ込むということでおおよそのシナリオはできているということなのだろう。いったい、これはいつ頃、誰が出したアイデアなのか。少なくとも小泉訪朝時には固まっていなかったはずだ。もしここまでの筋書きがあったならば、ふりふりコイズミが利用しなかったとは考えにくい。このシナリオを練り上げたのは誰あろうジェンキンス本人だった・・・、とくれば、推理小説並みの大どんでん返しになるところだが、まさかね。(7/16/2004)

 フィリピンがイラクからの部隊の撤退を調整中で既に8人の撤退を決めたことを発表した。撤退とはいってもイラク派遣部隊は総勢51人に過ぎないのだが、フィリピン人運転手を人質に取った武装集団の要求に対応した形になっているため、アメリカは神経をとがらせている。

 CIAのテネット長官の退任式は先週8日のことだった。クリントン政権の時から7年間CIA長官を務めてきた(正確にはCIA長官は兼務でCIAを含む中央情報長官というのが彼の正式な肩書きである由:ボブ・ウッドワード「ブッシュの戦争」による)この男は退任スピーチで「諸君が昼夜を問わず世界各地で行っていることを知れば、きっと米国人の多くの人々は正門に列をなし、謝意を述べるだろう」と言ったと伝えられるが、名もなきエージェントたちの勤勉な仕事の結果をつまみ食いして恣意的に編集し、ひとかけらの大義もないイラク侵略戦争の口実に利用した自分を含むブッシュ政権高官たちの恥知らずな犯行についてはなにも語らなかったようだ。語る必要などなかったのかもしれぬ。詰め腹を切らされて辞めてゆくこと、それ自体が己の罪科の証であることは誰の眼にも明らかだったから。

 テネットが辞めた翌日、アメリカ上院の情報特別委員会は、旧フセイン政権の大量破壊兵器保有をめぐるCIAの分析に誤りがあったとする報告書を発表した。そして、きのうイギリスの独立調査委員会もイラクに大量破壊兵器が「45分で使用可能」になる状態で存在するとしたMI6ほかの情報機関がまとめた情報を「深刻な欠陥があり、疑わしい」とした報告書をまとめた。

 回りくどいいいわけやごまかしのための形容詞を取り除くと、ブッシュとブレアは、いまやたったこれだけのことしか言えなくなってしまった。「フセインは危険な人物だった」。つまり、「フセイン自身が大量破壊兵器だったから、イラク戦争が必要だった」というのだ。

 やがて史書はこう書くことになろう、「この時代、ほんとうに危険な人物はジョージ・ブッシュだった。もし、危険な指導者ならば予防戦争に訴えてでも除くべきであるという彼の疑わしい仮説を認めるとしたら、皮肉なことに、ジョージ・ブッシュ、その人を除くことが、当時の世界の安寧のためにははるかに有効であった」と。(7/15/2004)

 UFJが三菱東京(東京三菱だと思っていたら「三菱東京」だという。持ち株会社が「三菱東京フィナンシャルグループ」、銀行業務会社が「東京三菱銀行」という呼び名、これが確認結果)へ統合というのが朝のトップニュース。総資産190兆円は世界最大の由。

 竹中の押し殺したような得意顔が印象的。むかしは「行政指導」で直接介入した。最近は「監査のさじ加減」で間接的に脅迫しいうことをきかせるというのが手口らしい。変わらないのは最終責任はどのようなことがあっても絶対にとらない無責任さだ。

 それにしても三和・東海のイメージと三菱・東京のイメージは、揉み手する商人と慇懃無礼な役人、ずいぶん違う同士。どんな家風の「お家」ができるものか、興味津々。(7/14/2004)

 遅まきながら気象庁が梅雨明け宣言。それにしても暑い。梅雨明けは今月初めだったのか、それとも6月下旬だったのか。いずれ、今年の梅雨明け日の訂正発表があるだろう。

 ジェンキンスが今週末にでも治療を理由に来日するかもしれないという夜のニュース。なるほどそういう作戦だったかと苦笑い。治療を「彼に対する説得材料にする」かもしれないとは考えていたが、それを「日本に連れ帰る理由にする」とまでは思わなかった。こんな印象を持つのは週末からの報道映像に見る限り、ジェンキンスの健康状態は外見上さほど悪く見えなかったから。(平壌からジャカルタまでの飛行時間は約8時間、そしてこの週末にほぼ同じ時間をかけてジャカルタから東京まで移動させようということと、健康上から緊急に治療が必要ということとが、どうも論理的にしっくりこない)

 公式的には脱走兵として訴追するというアメリカ側の姿勢は依然として変わっていない。もし日本政府がなんらかの手堅くかつ良い「感触」を持っているものならば、参院選対策としてこの日程はもう一週間程度繰り上げられたはずだから、おそらくアメリカ政府サイドに対する「感触」は得られておらず、多分に「出たとこ勝負」という要素を残しているのだろう。

 北朝鮮にとってはもう「解決済み案件」。蓮池・地村両家の残留子弟に対したとき同様、最後は「行け」あるいは「帰れ」と命令したか、利用価値のない者はどんどん捨て駒にする、そこに暮らした者ならば自分がそういう扱いになったことを実感できるようなさりげない暗示でもしたのかもしれない。ジェンキンスは北朝鮮・日本・アメリカの三国にとって円満解決を阻む喉に刺さった小骨であることが気になる。小骨は早く取り去ってしまいたいと考える国があっても不思議ではない、怖い想像ではあるが。(7/13/2004)

 参院選の結果を記録しておく。

選挙区 比例区 当選数 改選議席 新勢力 改選前
自民 34 15 49 50 115 116
民主 31 19 50 38 82 70
公明 3 8 11 10 24 23
共産 0 4 4 15 9 20
社民 0 2 2 2 5 5
みどりの会議 - 0 0 1 0 1
諸派 0 0 0 0 0 0
無所属 5 - 5 4 7 6
73 48 121 124(欠2) 242 245(欠2)

 マスコミは「民主勝利・自民敗北」と報じている。民主党はたしかに「勝利」したかもしれないが勝利した相手は自民党ではない。少なくとも獲得議席の推移だけを見るならば民主党は共産党や社民党に勝っただけのことだ。では自民党は敗北したのかといえば改選議席をわずか1議席下回っただけ。議席数の推移だけならば「敗北」したわけではない。

 選挙区でも比例区でも民主党に票を入れた。しかし民主党を支持してのことではない。自民党や公明党を勝たせたくないこと、「死に票」にはしたくないことから、民主党に投票しただけ。こういう意識がどれほど一般的かはわからないが現在の形骸化した民主主義の下にあってはけっして少数ではないだろう。意識的な投票者ほど「一票の軽さ」、というよりは「一票の無力さ」を実感している。

 ここにはケインズの「美人コンテスト効果」がある。ただ素直に「賞金が欲しいから」という「勝ち組投票者(与党支持者)」にとっては選挙はそのまま信じうる仕掛けかもしれないが、「賞金獲得」のような実利的なメリットを引き出すことは最初から諦めているその他の意識的な政治参加者にとってはいまの選挙は屈折した仕掛けになってしまう。とくにこの国のように長期間にわたって与野党が固定化してきた場合には「ほんとうの意味の政治参加者」は「負け組投票者」である意識がつきまとう分だけ、いまひとつ投票行動に力が入らないというのが実感だろう。

 では自民党は敗北していないのか?

 夕刊の3面には得票数と得票率に関するデータが載っている。

選挙区 比例区
2001年 今 回 2001年 今 回
自民 41.0 35.1 38.6 30.0
民主 18.5 39.1 16.4 37.8
公明 6.4 3.9 15.0 15.4
共産 9.9 9.8 7.9 7.8
社民 3.4 1.8 6.6 5.3
みどりの会議 - - - 1.6
諸派 2.5 0.2 2.5 2.0
無所属 10.4 10.2 - -

 ここに見える自民党の落ち込みは凄まじい。そして意外なことに公明党も選挙区で自民党に協力して減らしたほどに比例区でおつりをもらっているわけではないらしい。議席数では野党グループの中の議席のトレードと思われたものが基礎の部分では必ずしもそうではないように見える。「地殻変動」は始まりつつある。しかしそれはアメリカの民主・共和ほどの違いさえ持たないものに過ぎず、ワクワクするような政権交代劇とはほど遠いものだろうが、少なくとも政権交代の「恐怖」が政権党に心理的ブレーキをかけるぐらいの実効はあげるのではないか。(7/12/2004)


三年前の参院選の選挙結果についての滴水録はここ。

かなり、いいカンしてましたね。

 きのうは旭丘同期会。鎌倉散策から中華街での食事。12時半に北鎌倉近くの「鉢の木」に集まり昼食。ふたつのコースを選択。こちらは東慶寺から円覚寺、寿福寺、八幡宮と歩いて、集合約束時間の5時少し過ぎに鎌倉駅へ戻ると、駅前はなんだか異様な混みよう。

 横須賀線が停まっているという。JRはたいしたものだ。首都圏線区のどこかでほぼ毎日トラブルを起こし、各線利用者に「平等に」「ご迷惑」を行き渡らせるポリシーらしい。大船への振り替えバスは渋滞で時間がかかるだろうから、逗子への振り替えバスで京急を利用して横浜へ行こうというのが幹事Aの判断。混み合う逗子行きのバスに乗った。

 「振り替え輸送」というが振り替え券はたったひとつ設けた改札脇の窓口でしか渡していないようだ。振り替え券をもらう列と乗るバスを待つ列に二度並ぶ時間的余裕と根性のある人だけに渡すというのがJRの戦略らしい。迷惑をかけているという自覚があるなら駅員が手分けをしてバス待ちの人々の列に出向いて振り替え券を配るというのが道理だろうが、このあたりの官僚的対応は国鉄時代となにひとつ変わらない。いやトラブルを起こしてもなるべくハラの痛まないように処理しようというところが民営化の成果なのかもしれぬ。カネを惜しんでなにかを失うとしても人命に関わることではなし、三菱自動車のようなことにはならぬとタカをくくっているのだろう、みごとな経営的判断というべきだろう、呵々。

 中華街の店に着いたのは7時半。中華街の食事のみ参加のメンバーは待ちくたびれた風でビールだけで先に始めていた。JRにケチをつけられて始まった会だったが、二次会のジャズバーまでほとんどフルメンバーが流れて、ことしも盛会。

 きょう夕方ソルトレーク出張のOを除くいつものメンバーは横浜スタジアムそばのホテルに泊まり、昼過ぎまで大桟橋、馬車道あたりを歩き回り、5時半頃、帰宅。

 帰宅するなり待ちかまえていたように**(家内)が「インターネット、つながらないんだけど」。**(弟)の形見分けとしてもらったノートPCと格闘していたらしい。なにも言わなかったけれど、Windowさえ立ち上げれば、スタンドアロンのノートPCでメールも出せるしサイトも見られると思っているところが可愛いといえば可愛い。仕方がない、投票を後回しにして、**(息子)の部屋に転がっていた無線LANカードを持ってきてセッティングに取りかかった。・・・いろいろなことがあって、現在まだインターネット接続はできていない。**(家内)はもう先に寝てしまった。(7/11/2004)

 選手会長古田が「オーナーと話し合いをしたい」と言っているがと記者に問われて、読売巨人軍オーナー渡辺某は「無礼なことを言うな。分をわきまえないといかん。たかが選手が」と吐き捨てた由。今どき北朝鮮の金正日でも、公式の場では、なかなかここまであからさまに「身分違い」を難ずることはしまい。そういう点ではずいぶん正直にものをいったものだ。

 営利企業体はふつう経営者と管理者と一般従業員とで構成されている。構成要素である以上、どれが欠けても組織は成立しないし、各構成要素間は対等の関係にある。たんなる平等意識で対等だなどと理解していると渡辺のような暴言に言葉を失ってしまうかもしれない。営利企業の最大の目的である収益に対して各要素はまったく異なった役割を担っている。経営者は将来的変化に対しても収益を確保・拡大すること、管理者は現状のリソースを駆使して収益を上げること、一般従業員は目前のプロセスに対して自らの能力により収益を生み出すこと、それがそれぞれの役割なのだ。三者は残り二者のミッション達成意識がなくては自らのミッションが達成できない。命令の形で企業意思を徹底することができるものはそうすればよいが、経営者の晴れ舞台となるような役割を果たさなければならないような場面で「説明責任」を果たせないようでは経営者は失格だ。まして「説明責任」以前に「たかが従業員」などと語り、人格を疑われてしまっては経営者ですらない。自分が対応すべき将来的マイナス変化の原因を自ら創り出しているのだから話にならない。

 「たかが選手」と思っているような男はきっと「たかが観客、たかがファン」とも思っているのだろう。その証拠に渡辺を含めてオーナーたちは、渦中の近鉄、オリックスのオーナーも私設応援団やファンクラブとは会っていないようだ。横浜フリューゲルスがなくなる話になった時、川渕チェアマンはフリューゲルスのサポーターメンバーと会った。「スーツを着た若者が『おれ、きょうはじめてこんなかっこうして来たんですよ。フリューゲルスはオレの生き甲斐だからなくして欲しくないって話を聞いてもらうにゃ、ちゃんとしてかなきゃって言われたもんで』って言うんです。感動的でしょ」というようなことを川渕がどこかで言っていた。川渕の自慢話かもしれない。しかし会いもしないではこんな話は作れない。「たかが」と人を見下す殿上人のようなオーナー、そのオーナーの陰に隠れて存在感の薄いプロ野球コミッショナーとの違いは大きい。(7/9/2004)

 「武蔵野線遅れてるみたいよ」というなかをいつもの時間に家を出た。点検車輌が脱線した由、なんのための点検車だか。昨夜、中央線の架線事故で二時間ばかり運休があったばかり。「安全」が大切なことは論をまたない。だが「定時運行」も輸送業者にとっては重要な品質要件だろう。

 JRと旧国鉄、JRの方が評価が高いことになっている。確実にいえることがある。国鉄は「時刻通りの運転」にもっとこだわっていたし、これほど頻繁に電車を止めて平然としてはいなかった。JRは恬然としたものだ。「ご迷惑をおかけしております」というようなことは言うが、それが口先ばかりであることは、トラブルの発生率がいつまでたってもいっこうに改善しないという一事が証明している。

 国鉄は無愛想だったとか、高コスト、非効率だったなどというが、ヘラヘラお愛想笑いをしてくれるよりは仏頂面でもなんでも「こういうダイヤで運転します」という宣言通りにきっちり運転してくれる方が利用者にとっては有り難い。運賃だってJRになって国鉄時代より安くなった話など一度として聞いたことはない。私鉄ルートとJRルートがある場合はいまだにJRが高いと相場は決まっている。高値安定にあぐらをかいていることは国鉄時代と変わらない。一方、コストがかさむ路線は廃線にするか切り離しているのだから、ある意味、国鉄よりも悪質なのだ。

 そんなことを考えているところへ、十数分以上も遅れていた38分発の電車が着くというアナウンスがあった。その続きを聞いて嗤った。「この電車のあとに東所沢始発の府中本町行きが続きます」という。遅れて電車が混み合うようだから臨時の電車を運行することにしました、空いている電車を利用した方がいいですよというつもりらしい。ならば、その臨時電車を先に運行しろよ、バカ。ほら、非効率だって国鉄時代から少しも変わってないじゃないか。(7/8/2004)

 95年、地下鉄サリン事件のあった直後の3月30日朝に起きた国松孝次警察庁長官狙撃事件の容疑者として3人がきょう逮捕された。いったん自供したにも関わらず立件が見送られた小杉敏行という警視庁の元巡査長と、教団幹部だった植村(当時は岐部という姓だった)哲也・砂押光朗の3名。

 小杉の自供にもとづいて行われた御茶ノ水駅近くの神田川のドブさらいの映像を記憶している。一橋文哉の「オウム帝国の正体」は臭い情報を寄せ集めただけで今ひとつ「正体」に迫り切れていない消化不良のような本だが、それでもこの長官狙撃事件における警察のすっきりしない捜査状況については少し書かれている。

 この出来事は、K元巡査長の供述に信憑性があるのか、という点ばかりがクローズアップされたが、真の問題は次の三点にある。
 第一は、身内の自供に驚愕した警視庁が関係者全員に箝口令を敷き、検察庁はもちろん、警察組織のトップで、事件の被害者でもある国松に対してさえ、その事実を隠していたことだ。
 極秘に捜査した結果、K元巡査長が実行犯である可能性はほぼなくなったが、本人がそう供述している以上、下手に解放してマスコミにでも接触されたら大変な騒ぎになると考えた警視庁は、彼の身柄を長期間にわたり、警察の監視下に隔離してしまった。
 しかも、こうした事実が、「一警察官」を名乗る人物からマスコミに郵送された、
《國松警察庁長官狙撃の犯人は警視庁警察官(オーム信者)。既に某施設に長期間監禁して取り調べた結果、犯行を自供している。しかし、警視庁と警察庁最高幹部の命令により捜査は凍結され、隠蔽されている・・・・・・》(原文通り)

 文中のK元巡査長というのが逮捕された小杉のことだ。「オウム帝国の正体」は2000年7月に刊行されているため実名を伏せたのだろう。ここに書かれたように「結着」された元容疑者が再び逮捕された。いったい8年前に解かれた容疑が「復活」した事情はなんなのだろう。どうも公安警察と刑事警察の間で複雑なやり取りがされているようだ。いったいどんな「力学」がはたらいているのだろう。(7/7/2004)

 この国のどこが貧しいか。安松小学校に向かう途中の住宅街に最近外壁を塗り替えた家がある。散歩の際に見たとき、あの赤坂の東急ホテルについた尊称、「軍艦パジャマ」というニックネームを思い出した。家が個人財産である以上、どのような色、どのようなデザイン、どのような趣味で作ろうと自由といえば自由なのかもしれないが、じつに寒々とした印象。

 たまたまけさの朝刊、丸谷才一「袖のボタン」にはこんなくだりがあった。

 (テーマは東京の電柱と電線、景観の話)・・・江戸時代の都市は、家々の背丈がほぼ同じだし、色づかいも穏やかだし、電柱や架空電線はもちろんないし、秩序と調和を保っていた。郊外の景観も美しかった。それゆえにこそ借景などという(これこそ内から外を眺める態度の真打ちみたいなものだが)庭園作法があり得たのである。それが改まったのは、だしぬけに到来した西洋文明のせいでの当惑と混乱によるものだろう。
 ここでは話を電柱と電線に限ることにするが、あれだって1887(明治20)年、東京の兜町、坂本町、南茅場町がはじめて電気の明かりに照らし出されたときは文明開化の象徴で、一国の首都の威信を示す装置だったにちがいない。これは、芸術作品としての都市を作ることでナショナリズムを発揚しようとしたロンドンやパリが、最初から電線を地中化したことと好対照をなす。日本人の趣味はこのへんからおかしくなったのだが、皮肉なことに、ちょうどこの前後から西洋はジャポニスムの刺激を受けて生活の芸術家に目覚めた。
 ・・・(中略)・・・電線地中化率は、ロンドンとパリでは100%、ベルリンでは99%、ニューヨークでは72%なのに、東京二十三区では6.6%、しかも幹線道路での無電柱化はわりに進んでいるものの、住宅地の路地などでは、ケーブル・テレビ、有線放送などのせいでかえって蜘蛛の巣が増えている(松原隆一郎)。

 東京の数字は「66」ではない、「6ポイント6」だ。悲しいほど貧しい話。カネがない貧しさはあたりまえのことであきらめもつく。だがそこそこカネがあってなお貧しいというのはつくづく悲しい。

 和魂洋才をめざした明治の精神はせいぜいこの程度の視野範囲しか持てなかったのだ。逆に言えば、この国の「保守主義者」の視野が明治までにとどまる限り、この「貧しさ」は克服されないということ。(7/6/2004)

 新聞各紙がこぞって朝刊で自民党苦戦のニュースを伝えた日の午後、曽我ひとみの家族再会が実現したという発表があった。しかも再会の日が今週金曜、9日と聞いて、「臆面もなく」というのはこういうことを言うのかと鼻白む思い。

 そうは言いつつも曽我の笑顔を見れば「よかったなぁ」と思うことも事実。しかしその先の問題がけっして簡単なものと思えないこともまた事実。

 ジェンキンスはことし64歳。ふつうに暮らしてきた者でもそれまでの暮らしを一変させ新しい環境に移ることには抵抗を覚える歳だ。そうでなくとも、いまある環境はそれなりの待遇を保証してくれているのに対し、そこを出れば自分を脱走兵として引き渡せと主張する己が生国がどのような動きをするのかも考えねばならぬ。彼の不自由で生活水準も低かろう国に比べればこちらは「地上の楽園」、エデンを選択しないのは彼の国の政府が陰で脅しているからだろうなどというは己が体臭に気付かぬ勝手な当て推量。ジェンキンスに娘共々、日本に来いと説得するのは思うほど簡単ではないはずだ。(唯一説得力のある話は患っていると聞く彼の病気の治療にとって彼の国よりは圧倒的に優位性があるということぐらいか

 キーはあくまでジェンキンスにあるけれど、娘たちとて簡単ではない。彼女らは生まれてこの方北朝鮮より他を知らない。なるほど朝鮮人ではないけれど、そのメンタリティは必ずしも父親の国や母親の国の同年代の娘たちとは同じではないかもしれぬ。たんなる想像だが、子たるもの親には孝養を尽くすべし、戸主は父、父の言はなにをおいても尊重せねばならぬもの、母とて父には従うべきもの、などなど、我が国の自称「保守」人士が憧れてやまぬ懐かしき教育勅語的美風の中にいるかもしれぬ。

 さすれば、「お母様、お父様は共和国で暮らそうと仰っているのよ。お母様は一家の主であるお父様のお言葉に従えないの。従うべきよ、お父様がそう仰っているのですもの。どうしても、お母様が共和国には帰りたくないと仰るのなら、本当に辛いことですけれど、お母様だけ日本とかいう国にお帰り下さい。お父様のことはご心配なく。私たちが娘としてお父様の身の回りをお世話しますから」などと言い出さぬ保証はない。

 曽我ひとみが北朝鮮の引力圏に近い北京での再会を婉曲に断り、家族による話し合いに時間をかけてといったのはこうしたことを考えてのことだったのだろう。相応の時間はかかるに違いない。発表によれば滞在費などは日本政府持ちらしいが、滞在が長引けばいずれ費用のことを言い出す輩が出てくるかもしれない。週刊新潮に代表されるような下賤なメディアはやがて「滞在費を北朝鮮にも負担させろ」とか、「いつまで続く? いい気なリゾート暮らし」などと騒ぎ始めるかもしれぬ。新潮社だけではない。インターネットの掲示板あたりにはドブに浮かぶ泡のごとくに浮薄かつヒステリックな論議をしてみせるサンケイ的小市民たち(最近発売の「正論」はやたらに「2チャンネル」族を持ち上げている、メンタリティがぴったりなのだろうか)がゴロゴロいる。いくら彼らのおつむが悪くともまさか「自己責任」とは言わぬだろうが、いったん「羨ましい、妬ましい」となると一気に下衆の本性をむき出しにして「自己負担」ぐらいの主張はしかねないのがサンケイ的小市民の特性だ。なにしろイラク人質事件の際は国家として為すべきことに要した費用を負担させろなどというバカバカしい主張を大まじめに言っていた。そういう連中なのだから。

 試されているのはこの国の懐の深さだ。さて、アベレージがどの程度の深さ、余裕、寛容さを持っているものか、とくと観察することにしよう。(7/5/2004)

 きのう、きょうといくつかの週間ニュースサマリーのような番組で予審法廷でのフセインの映像を見た。この裁判は、中東調査会の大野元裕が指摘する(2日朝刊「視点」)ように、主権を回復したにもかかわらずPR効果のある盛大な式典を開催できなかったイラク暫定政府がなんとか国民にアピールしようと行った政治ショーなのだろう。

 何人かのコメンテーターが、フセインを「やつれた」とか、「それでも眼光は鋭い」とか言っていたが、そういう感慨とは別のことが浮かんだ。それはもしブッシュが人道に対する罪のようなものでこのような特別法廷に召喚されたら、はたしてこれほどしっかりと応答できただろうかということ。

 なにしろ「アブグレイブ刑務所」ですら「アブガブ」、「アブガロン」、・・・などと記者会見の冒頭から終了に至るまでついに正確に言えなかったような知能ていどの男なのだから、死刑がかかるような法廷では緊張のあまり自分の名前すらどもってしまうのではないか。とくに法廷の正統性に関するようなすぐれて論理的な主張などはアル中経験者のスポンジのような頭脳では組み立てることはおろかその断片すら語れないことだろう。つまりフセインとブッシュを置き換えたならば、我々が眼にするものはもっと衝撃的なものになるということだ。

 もとより浮薄な大衆民主主義の国で投票制度の盲点をついて大統領職を簒奪したようなこそ泥と、若くして政治組織内の熾烈な権力闘争を勝ち抜き、二十数年にもわたって独裁制の頂点に坐り続けた筋金入りの悪党では、天と地ほどの差があることは分かり切ったこと。逆に言えば、我々はそんなていどの浅薄極まりない小物が運転する車に乗っているということで、思えばこれほど恐ろしいことはない。

 7月4日といえば、アメリカの独立記念日ではないか。すべての理想も二百年もすれば消え失せるとは悲しいことだ。(7/4/2004)

 ここ最近、半月ぐらいの間に変なメールが舞い込むようになった。有り体に書くと「売春の勧誘」だ。数ヵ月に一、二通ならばそれも彩りと楽しめるが、こうもうち続いて「掲示板で見た」だの「近い場所に住んでるらしい」だのといった文面で勧誘が届くとなると少々むかっ腹がたってくる。その手のサイトに誰かが名を騙って「交際希望」などとメールアドレスを添えて書き込みでもしたのかもしれない。

§

 夕刊に「2頭目も『シロ』」の見出し。この一週間の間にBSEの容疑牛が見つかったという発表が二件あった。一件目が25日、二件目が29日。そして一件目に対する詳細検査結果が「シロ」と報ぜられたのが30日。夕刊の報道は二件目の検査結果に関するもの。(ここまでいずれも現地時間での日付)。結局のところ容疑牛2頭はいずれもシロだったというのがアメリカの発表。

 28日から第二回専門家会議がコロラド州のフォートコリンズで開催されるという直前に容疑牛の発見をぶつけて、会議の終了にタイミングをあわせたように「シロ」でしたと発表する。ちょっとだけ真実の匂いのするものを振りまいて背後に大きなものを隠すテクニックを想像させる。いかにも大衆向けの情報コントロールに長けている国がやりそうなことだ。

 「シロ」だったというなら、容疑牛の出生地、肥育場所、年齢を発表したところでなんの問題もないはずだが、アメリカ農務省からそのような具体的データの発表があったという報道はない。ほんとうに容疑牛はシロだったのだろうか、いや、そもそも容疑牛が発見されたということ自体、実際にあったことだったのだろうか、極めて疑わしい。

 大量破壊兵器が確実にあるというウソをついて侵略戦争を始めた国だもの、輸出再開を実現するためならば適当に事実を捏造するくらいは朝飯前だろうさ。(7/3/2004)

「狂牛病とアメリカ」に関して、田中宇がこんなレポートをしています。

 夕刊の素粒子が痛烈。「売り物近鉄に買い手あり。『金があればいいってもんじゃない』と金満球団オーナー。なに言ってる、金次第の球界にしたくせに」と。まことにその通り。

 「Eudra」のサポート引き継ぎトラブルの件があるからライブドアの前身「エッジ」にはあまりいい印象を持っていない。今回の近鉄買収に対しても、「その気があるなら、もっと早く名乗りを上げろよ、本音は売名なんじゃないか」という感じもぬぐえない。しかし、「Jリーグはチーム数を増やしているのにプロ野球はチーム数を減らして縮小均衡をめざすのか」とか、「オーナー会が球団経営にはふさわしくない会社というようなよくわからない理由で断わるというのは新規参入の阻害ではないか」とかの指摘はいちいちもっともなものだ。

 そもそもオリックスと近鉄の合併話がシーズン中に大声で語られ、しかも球団数が奇数になるという致命的な欠点を持ちながら、ほとんど抵抗らしい抵抗もなくシャンシャンと進むこと自体、不思議な話だ。巷間伝えられるようにパリーグの球団すべてがジャイアンツ戦に色気を示しそれがために一リーグになることを望んでいるとしたら、まさに堀江社長の指摘通り「縮小均衡をめざ」しているということ。

 朝のラジオで永谷脩がこんなことを言っていた、「今回の一連の騒動の中で近鉄球団もオリックス球団もプロ野球機構もファン説明会を一度も開催していない。かつて横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収される話が持ち上がったとき川渕チェアマンはファンへの説明会を最優先にした」。

 プロスポーツに限らず、すべての商売の基本は誰がカネを払ってくれるかだ。テレビの放映権料もファンがあってこそ値が付くのだというごくごくあたりまえのことを忘れているようでは、「縮小均衡」はやがてプロ野球の消滅に向かうことになろう。

 しかし、それにしてもライブドアの堀江貴文、中村紀洋にそっくりの顔。(7/1/2004)

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