テレビ・ビデオ・ステレオの掃除。一度すべて接続をはずして機器をおろして拭き掃除。ケーブルも全部雑巾で拭いてから再接続。プレーヤー接続の確認にロバータ・フラックをかけてみた。プチプチというスクラッチノイズが少し気になるものの、豊かな音量でLPのよさが迫ってくる感じ。しっとり感と粘りという点で、CDはLPに及ばない。

 昨日の日経の特集「何でもランキング」は、「20世紀これが暮らしを変えた」ベストテン。一位から順に「コンビニエンスストア」「携帯電話・PHS・ポケベル」「電子ネット」「テレビ」「コンピューター」「電子レンジ」「テレビゲーム」「自家用車」「クレジットカード」「ファストフード」。ここには既に「ラジオ」はない。ピカートが「沈黙の世界」の中で「ラジオは、純然たる騒音語を製造するための機械装置である」「ラジオの場合にはもはや沈黙はない。しかしまた、言葉もない。ここにおいて、沈黙の喪失がもはや気づかれることなく、しかもまた言葉の喪失も気づかれることのない一つの状態――言葉が磨り潰されてラジオの騒音となり、一切が存在していながら、しかも何者も存在していない一つの状態――が創り出されたのである」と嘆いたラジオは、より巧妙にして乱暴極まりない「テレビ」に取って代わられている。

 そのテレビの上位に「ケータイ」が位置している。言葉と相寄り添って一体をなすはずの沈黙を欠いて、ただひたすらだらしのないおしゃべりをするために使われている道具が・・・。

 しかし、ここに並んでいるものはいったいなんだろう。自省と睡眠の夜をなくしたコンビニ、パーソナリティを偽ってもさしあたり困ることのないバーチャルな世界であるネットとゲームの世界、「待つ」という豊かな時間を目の仇にしたようなコンピュータや電子レンジや自動車やファストフード、そして、いまはまだ得ていない明日の収入をあてにしたようなクレジットカード。ひたすら早く欲望を満たそうというだだっ子をあやすかのような道具たち。

 これが20世紀だったのか。そして来るべき新しい世紀もまたこの延長線上にあるのだとしたら、なんだか空恐ろしい気がするではないか。(12/31/2000)


 整理をしていたら、昨日の東大佐藤学と対比する記事の切り抜きが出てきた。教育改革国民会議第一分科会主査をつとめているお茶の水大名誉教授森隆夫のインタヴューだ。全文を写しておこう。(8月13日朝日朝刊19面)

■ 自発的であるべき奉仕活動を義務化することを難問視する声もあります。
「制度だけでなく、人間の理念、考え方を変えなくては改革はできない。国家が国民に課する従来の義務ではなく、自分が自分に課するという新しい義務観をはぐくめないかと思っている。『いやだ』という人もいるかも知れないが、企業としてはそういう人は採用しないという意見もあった。奉仕活動をしない人は大学に入れないという制度があっても良い」

■ 無理やりやらせても効果が上がらないのでは。
「それでも構わない。それが教育の不思議なところで、例えば、いやいや行った学校でも、後になってみれば良い思い出になる。現在の満足よりも将来の満足の方が大事だ」

■ どういう効果を期待していますか。
「奉仕活動を実施に移すとき、大人が参加しないでできるわけがない。そうすると大人も目覚める。奉仕活動という太い幹を中心に、枝葉が出てくることになる。人生最初の教師としての大人が今、幼児化しているから、子どもの劣化が止まらない。この是正なくして問題は解決しない」
「私は、団地に床の問を作れと言っている。家庭に聖域がなくなったから、上下関係がなくなってしまった。上座に座る人は『自分はここに座る資格があるだろうか』と自問することで、自分を高めていく。同様に、教壇を無くしてしまったのは戦後民主主義の大矢敗だったと思う」

■ 最近の若者に優れた点はないのでしょうか。
「一方的な自己主張は上手になった。我々のころは忍耐、忍耐だった。大人の幼児化の原因は依存心だ。利益や恵みを受けたら、それを社会に還元するような心の循環型社会を作りたい。自己犠牲が自己実現と一致するという人間が理想像だと思う」

■ 教育基本法についても見直しが大勢でした。
「あそこに書かれているのは理想像で、山で言えはエベレストの最高峰だ。しかし、日本人にとってのベースキャンプにあたる国、郷土、家庭ということが抜けている。法改正されるかどうかは、政治、首相の判断の問題だ。決意があるかどうかだ」

 名誉教授というからには何らかの研究に携わった学者なのだろう。しかし、これほど見事に論理性を欠いているのは年齢のせいなのだろうか、それともこんなにあっちこっちと散漫に遊び回る類の頭の使い方でまとめられる研究分野が世の中にはあるのだろうか。脳軟化症のような没有(中国語ではメイヨー)教授でも国民会議分科会の主査はつとまるんですね。ちょっとした驚き。

 彼とその賛同者にアドバイス。ご自分自ら、率先垂範で、何もいわず黙々と奉仕活動をしてみるのがいいでしょう。そして審議会の席に着席される際には、毎回、ご自分にその資格があるかどうかしっかりと自問自答し、根拠のない思いつきによる世間話に終始することなど努々ないことを期し、その上で、審議会終了後に受け取った謝礼金は、ご自分の理想通りに自己犠牲の模範として、然るべきところに寄付をされること。御主張されるような精神論こそ、自らが実行してみせる気概がなくては、唾棄すべき現在の風潮である「口先ばかり」に流されてしまいますから。そうしてはじめて、自己主張だけがうまいとおっしゃる最近の若者に「これは」と思わせる可能性が開けるというものです。(12/24/2000)

 朝刊には教育改革国民会議の最終報告に関する記事が載っている。秋口だったかにこの「会議」の中間報告がなされた際、東大の佐藤学教授が朝日から求められてコメントをしていた。見出しは「裏付ない飲み屋談議」。以下にその一部を書き抜いてみる。

 曰く「調査データなどに基づく客観的な教育の実情を根拠に話をしているのではなく、委員が主観的憶測、独断をもとに話をしている。提案も思いつきのら列だ。・・・(中略)・・・あえて過激に言うと、飲み屋談議の水準だ」。

 曰く「独善性と思いつきが一番顕著なのが第一分科会だ。例えば、教育の荒廃の原因を『物質的豊かさと半世紀以上も続いた平和』に求めている。・・・(中略)・・・確かに最近の教育の荒廃は中産階級の家庭を中心に起きているなど、新しい質を帯びている。しかし、戦争状態で貧しい状態であれは今の荒廃が起きなかったというのは、あまりに奇妙きてれつな論理だ」。

 曰く「・・・(中略)・・・この提案には、子どもたちが何を願っているかという想像力が感じられない。委員の方には、範を示して共同生活で奉仕活動を一年続けた上で提案していただきたい。・・・(中略)・・・子どもたちが自分中心の世界に閉じこもってしまって他者への想像が及はないというのはその通りだと思う。しかしそれを奉仕活動の義務化で解決できるという発想は単純すぎる。今、中高生のボランティア活動への参加が広がっている。地域を基盤とした様々な取り組みと学校をつなぎ合わせる動きを支援していけばいいだけの話だ」

 曰く「専門家に意見を聞くとか、文部省の調査結果を利用するとか、委員自身が実態を調査するなどした上で、実情を踏まえた議論をしていただきたい。各国が何をどのように克服しようとしているのかも踏まえないと、独善的な改革に在ってしまうのではないかと懸念している」

 まったくその通りだと思った。唯一最後だけが同意できない。所詮、現在の「学識経験者」などこの程度のものなのだと考える方がいいのではないか。とすれば、ここは広く一般人を無作為に選ぶのがいいだろう。その方がはるかに真剣で真面目な議論ができるというものだ。政府や自民党が恣意的に選ぶから「酔っ払い」しか集まらぬというのなら、無作為抽選で一般人も含める方がかえって隠れた知恵を集められるかも知れないではないか。(12/23/2000)

 東電OL殺しの控訴審判決が出た。有罪判決。佐野眞一の「東電OL殺人事件」は事件の発生から一審の審理内容までをかなり詳しくこの事件をレポートしたものだが、それを読む限り検察側の主張は一人の人間の有罪を立証するに必要な条件を満たしていない。検察側は控訴審でも一切新証拠を提出せず、一審とまったく同じ証拠・証言のみで臨んだということだ。とすれば、この有罪判決は一審で無罪となったのちも拘留を認めた高裁と最高裁のメンツのために「有罪」判決が必要だったからそうしたというだけのもののようだ。

 状況証拠の積み上げだけで有罪とできる裁判官の「蛮勇」に乾杯。いつの日かこういう名前の裁判官がいて、驚くべき論理によって、かくも愚かしい判決を下したことがあったんだよと嗤うために、裁判長の名前を記録しておこう。その名は高木俊夫という。陪席2名の裁判官名は報道されていない。

 夕刊からその判決の一部を書き写しておくことにする、かなり嗤える代物だから。

 「疑問点は犯人が別人でも疑問として残る点であり、未解明だからといって被告が犯人であることを疑う結論にはならない」。ここにいう「疑問点」とはおそらく被害者の定期入れがゴビンダ被告に土地勘がなく行った形跡のないの巣鴨の住宅街で発見されたという事実をさしている。被告を犯人とする限り、その定期入れを捨てた人物がいったいどこで、いつ、どのようにして、被害者の定期入れを手に入れたのかということが、疑問として残ってしまうのだ。予断に凝り固まった裁判官もさすがにこの事実を黙殺することはできなかったようだ。それが引用した一文に表われている。しかし、なんと空疎な言葉だろうか。論理的には「犯人が(被告と)別人」であれば、このことは「疑問として残」らない。なぜなら、あらゆる可能性の中で一番自然かつ確率が高い説明は、定期入れを捨てた人物こそ被害者を殺害した人物であるということになるであろうから。

 ここで「確率が高い」という言い方を嗤ってはいけない。検察側の主張はまさに状況証拠の集成の中で「確率が高い」人物として被告をあげ、裁判官も「確率が高い」というだけの理由で被告を有罪にしたのだから。(12/22/2000)

 ニュースの中にチェルノブイリで稼働していた最後の炉が今日停止されるというものがあった。事故は86年4月のことだった。そのニュースは北京のホテルのテレビで見た。プラントで発生した深刻な事故らしいことは分ったが、それがどこで起きたどんな事故であるかは分らなかった。帰国してはじめて原発の事故であることとソ連国内ばかりかヨーロッパ各国に事故の被害が及んでいることを知った。チェルノブイリとその周辺では奇形、白血病などの発生率が極端に高いという。人間が引き起こす事故の中でも原発事故は極めて異質なものであることがよく分る。

 事故当時、この国ではレベルの低い国で起きた特殊な事故、我が国ではこのような事故は起きようがないと強弁する原発関係者の厚顔無恥ぶりをたんと見ることができた。さすがに昨年のJCOの事故以後、原子力施設が100%安全なものだと言い張る愚か者はいなくなったようだが、まだエネルギー供給のバランスだとか二酸化炭素を排出しないクリーンエネルギーだとかの詐欺師顔負けの屁理屈を並べ立てる原発関係者は少なくない。原発所在地域に特例補助金をばらまこうというおよそ時代錯誤的な法律を成立させた利権政治屋どもも跋扈している。彼らはいずれ時をおかずして死に絶えるだろう。経済最優先のエコノミックアニマルも原発が異常にカネのかかるペイしない技術であることを思い知らされるまでに、もうそんなに時間を要しないし、なにより原発がまき散らす環境汚染や引き受けなければならないリスクが生なかのものでないことをチェルノブイリ事故は時々刻々と示しているからだ。彼ら、「原発屋」という詐欺師たちがこそこそと表通りから逃げ出すまでに、第二、第三のチェルノブイリがこの地球上にできないことを祈ろう。(12/15/2000)

 阪神の新庄が、いくつかの国内球団から出された億単位の好条件を蹴飛ばして、年俸2,200万円と伝えられるニューヨークメッツへの移籍を決めた。大リーグでのプレイという夢を追っての話とか。イチローに対する扱いとは違って、「新庄君、大丈夫か」という反応が大勢。

 あえていえば、イチローと新庄、ドングリの背比べだと思う。新庄は、足は速い、守備はピカイチとまではいえないものの、ダイヤモンドグラブを受賞したこともあるし、それなりのレベルにはある。問題は打つ方だ。今シーズンが最高打率だったということだが、それでも2割8分程度。こういう具合にチェックをするとはたして大リーグでやれるのかなという疑問は当然のところ。

 しかし、イチローもほとんど事情は変わらない。マスコミはイチローの4割に近い国内打率に幻惑されているだけのことだ。足の速さは新庄と同じ、守備についていえば球に追いつくセンスは新庄と同じでも、正確にコントロールされた返球という点では新庄の方が幾分上だろう。肩が強いことは必要条件ではあっても、コントロールがなければ相手チームに一つ塁をセーブさせる必要十分条件にはなり得ない。イチローの看板が用をなさない大リーグではランナーはどんどんホームをつき、イチローの守備力が大リーグでは平凡という評価を超えることはあるまい。打撃については、当て逃げ打法のイチローとむらっ気の新庄、案外チョボチョボかも知れない。

 新庄君、のびのびと、精一杯、頑張ってくれ。ものごとをきちんと見る目のない連中を見返してくれることを期待しているぞ。アメリカのファンはこういうだろう、「ここがロードスだ。ここで跳べ」と。(12/11/2000)

 部屋を片づけるか、年賀状をやらなくてはと思いつつ、手がつかないうちに、何となく一日が終わってしまう。

 アメリカの大統領選はまだ決着していない。フロリダ州最高裁が手作業集計を命じる判決を出し手集計作業が始まったのが昨日、これに対しブッシュ陣営は連邦最高裁に上訴。連邦最高裁はその判断を出すまでの間、手集計作業を差し止める命令を出した。手集計作業の進捗により、もしゴアの逆転が事実として見えてしまえば収拾がつかなくなる事態を恐れてのことだろう。州最高裁の判決の一項により、現在、ブッシュのリードは154票になっている。やり直し毎に差が縮まっているのだから、逆転の可能性はけっして低くないと推測される。

 問題はなぜ疑問票の手集計を進めれば進めるほどゴア票が伸びるのかということだ。容易に想像されるのは、ゴアの地盤地域に機械集計では無効票となるような仕掛けが用意されていたのではないかということだ。まず、投票時、ラフなパンチ操作では完全なパンチ穴があきにくいようにしてあったのではないかということ(一部の民主党員からは「ゴアはフロリダの堅いスポンジに負けた」という声が出ている由)。次に、集計機械の比較的老朽機を配備することにより、読み取り不良確率を高くしたのではないかということ。そういう事情でもなければ、これほどの接戦でありながら、手集計をすると一貫してゴア票の発生確率が高いという現象は説明しがたい。

 フロリダ州知事はブッシュの弟であり、選管の最高責任者は共和党であることが、この疑惑を濃いものにしている。州の内規では、パンチ穴は候補者名のヘッドの部分に設けること、候補者名の記載順位は現職者から記載することが決められているという。これに対して、今回の投票用紙は候補者数が多いことを理由に「バタフライ式」と呼ばれる方式をとり、パンチ穴を中心に両側に候補者名を互い違いに配置するという分りにくい構成にしてあった。なお、かつ、なぜか候補者の記載順位はブッシュ候補が一番上で、ゴア候補は左ページの3番目に配置されていた。ブッシュを選ぶ際には誤認の可能性はほとんどないが、ゴアを選ぶ際にはバタフライの分かりにくさに起因する間違いが起きやすいようになっていた。現実にゴアのパンチ穴のひとつ上は右ページの2番目に記載されたブキャナン候補だったが、問題となったふたつの郡でのブキャナン候補の得票はこの方式ではない他の郡に比べて際立って高かったことが報告されている。共和党が民主党優位の選挙区に対して陰湿な選挙妨害をした疑いは極めて高いといってよい。(12/10/2000)

 今週月曜の夜、新宿歌舞伎町のビデオ店に手製の爆弾を投げ込んだ高校生のプロフィールがしきりに報道されている。またしても高校2年で17歳。そして「人を壊してみたかった」、あるいは「人を殺すことが法律にふれることは知っているが、それが正しいかどうかはきわめて疑問」という供述。もう、こういう言葉さえ、珍しくはない。

 人を殺してみたいという気持ちを持つことや、その禁止の妥当性に関する疑問は、けっして異常なこととは思わない。それはおそらく誰でもが持つ気持ちではないかと思う。しかし、そういう思いを持つことと、殺人を実行することの間には、なぜ殺してはいけないかと自問するのと同じかそれ以上に長い思考過程が存在するはずだ。ところがその部分についての彼(彼ら)の言葉はまったくない。わずかに豊川で主婦を殺した少年が「若い未来のある人はいけないと思った」というのが、「殺したい」から「殺そう」という決意の間を語る唯一の言葉としてあるだけだ。彼らから「殺人の禁止」に対する深い思索の言葉が聞こえてこない。報道される言葉がそのままだとすれば、その言葉はある種のいいわけないしは大人に対するからかいにしか聞こえない。なぜなら、ほとんどすべての「供述」が、あの酒鬼薔薇君の言葉の延長線にきれいに並んでいるからだ。

 それは本当なのだろうか。それとも、警察がその部分を伝えないかマスコミが伝えないだけで、じつは「殺したい」から「殺そう」の間を物語る彼らの「言葉」はあるのではないか。ひょっとすると、警察の取り調べにあたる係官がそういう言葉だけを聞き出そうとし、苛立っている彼らはその説明を避けて適当にあわせているなどという事情でもありはしまいか。(12/7/2000)

 アメリカの大統領選は一応ブッシュの勝利ということになったのだが、フロリダの開票をめぐってゴア・ブッシュ両陣営の訴訟合戦が継続中。その大統領選挙の開票に関するスナップを今朝の朝刊から。

フロリダ州投開票日のトラブルの例
【50票が蒸発】
ある投票区で400票発行したのに開票時は350票しかなかった。計数機の専門員が急行し、票を探した(ハイランズ郡)
【票を運び忘れ】
投票所から票の一部を開票所に運び忘れた。のちに施錠された箱に保管されていたのが見つかった。(ブロワード郡)
【ダブリ集計】
570票をダブリ集計。逆に1326票の不在者票は数え忘れた。再集計の際に発見し、修正された。(ピネラス郡)
【票が落ちていた】
集計が終わって約12時間後、場内の後片づけの最中に、封筒に入った有効票1票が落ちていた。(サラソタ郡)

 まあなんと杜撰な選挙管理かと嗤いたくなるような話だ。記事によれば「ホルムズ郡の投票区では、数える度に票数がかわり、原因も分らないため結局、手作業で数えた」「フロリダ州では再集計のたびにブッシュ氏、ゴア氏とも得票数が大きく変動した。それは計数機の読みとりの変化や、手作業で一部の票が有効票に加えられたからではなく、最初の集計では気づかなかった『人為ミス』もかなりあったと州選管も認める」・・・といった具合。

 CNNのホームページに載っている数字を書き写しておこう。

Nov. 7 First Recount Certified
Bush 2,909,176 2,911,872 2,912,790
Gore 2,907,451 2,910,942 2,912,253
Bush Lead 1,725 930 537

 ブッシュがひたすら手集計を嫌い、ゴアがなお手集計にこだわる理由がよく分る。まさに勝敗は時の運。機械がもたらした数字をそのまま信じたいブッシュは、きっちりした票の集計など、たとえそれが民主主義の基本であっても認めたくないのだろう。しかし、そのようにして獲得した権力の座に正当な権威など預託されるはずもない。就任時に既に「lame duck」になっている大統領それが21世紀最初のアメリカの大統領になるのだ。

 ところで彼の国を嗤っているこの国の選挙の実態がまさか「チョボチョボ」ということはないよね?(12/4/2000)

 2時から早稲田−明治のラグビー中継を見る。白熱のクロスゲーム。前半、トライはともに2つ、ペナルティゴールはともに1つ、トライ後のゴールを決めた明治が15対13でリード。後半、開始から明治が立て続けにトライとドロップゴールを決め30対13としたが、そこから早稲田の猛反撃。3つのトライで33対32と詰め寄る。さらに逆転のトライ・ゴールがあって、結局、46対38で早稲田が勝った。久々の早稲田らしい試合。(12/3/2000)

 ペルーの大統領だった藤森氏が先月のAPEC閣僚会議の後、日本に来て突然大統領を辞任すると発表、以来帰国することなく滞在を続けている。自ら三期目をつとめるため強い反対を押し切り憲法の三選禁止規定を改正し、国際的非難を浴びた不正選挙を強行して大統領の椅子をかすめ取ることまでしながら、外遊先であっさりと辞職するという行為はなんとも説明しがたい。伝えられる話では側近の裏金づくりの捜査がすすむにつれ、藤森前大統領自身にも不正蓄財の容疑がかかるようになり、帰国すれば収監される可能性があるとのこと。

 ここまではバナナ共和国にはありがちな話で珍しくもないが、その藤森氏は日本国籍もあると我が外務省が認めたことには驚いた。一国の最高権力者が二重国籍者だったことを、ふだん二重国籍に関しては非常に神経質な国が、あっけらかんと公言したのだ。二重国籍者と知りながら口を拭って、その者が他国の最高権力者になるのを座視し、その出自を影の理由に並ぶ国々の間では別格ともいうべき援助を行い、彼がその地位を失うや二重国籍の事実を公表しその身柄を保護するというのはやはり尋常とはいえない。現在、日本とペルーの間にはさしたる対立はない。しかし、不幸な事態から二国間系が悪化して、品性下劣なナショナリストたちが「藤森は日本がはなったスパイ(当該国に生まれ育つように仕組んだスパイをスリーパーという由)だ」と攻撃したら、反論は難しいはず。ふだん、「ニッポンの常識は世界の非常識」という言葉にいたくご執心の右翼マインドの論客どもが、「藤森の滞在は国益に反する」と主張しないのが不思議な気さえする。(それは彼らのセンスがじつのところ「ニッポンの非常識」にあるということの証左かもしれない)

 ところで、その藤森氏をかくまっているのが曽野綾子。インタヴューを受けて、得意満面、「アラブでは旅人が宿を乞えば、その事情を問わず泊めるものです」と答えていた。はて、その旅人が最近帰国して逮捕された重信房子であったとしても曽野センセ泊めたんでしょうかね。だって重信はお尋ね者じゃないかというなかれ、藤森もいまやペルーではお尋ね者なのだから。(12/2/2000)

 オランダで開かれていたCOP6(気候変動枠組み条約第6回締約国会議)は、結局合意点にいたらないままに散会してしまった。原因は自国の経済活動を守るために二酸化炭素削減量の枠に根拠薄弱な森林育成を持ち出しこれにこだわったアメリカ・カナダ・日本の頑迷さにあったようだ。日本はさらに先進国が途上国に建設する原発もCO2の削減量としてカウントすることを主張したというのだから絶句してしまう。原発の燃料を製造する過程で間接的に発生するCO2のことを無視するとしても放射性廃棄物のことを考えれば、環境を重視するプログラムに原発などがしゃしゃり出る余地などあるわけがなかろう。

 議長を務めたオランダのブロンク環境相の調停案に対する各国の主張をまとめたものが朝刊に出ていたので以下に書き写しておく。

日本 米国 EU 途上国
途上国支援へ新しい資金
を出す
削減目標を守らない場合
罰則をつける
×
森林のCO2吸収量の
見積りを厳しくする
× ×
途上国での植林を先進国
の削減分に含める
×
京都メカニズムの利用に
量的規制は加えない
× ×

(途上国の△は国によって主張が違う)

 記事の中で印象に残った部分も書き写しておこう。

通産省や電力業界の一部は「産油国は石油消費を減らす原発推進に賛成しにくい面もある」「原発以外の温暖化対策で、日本の産業競争力の足が引っ張られることを期待しているのではないか」などと、原発の抱える問題以外に各国の反対理由を見いだそうとしている。

 本当にこのように言う者がいたのなら、「下司」とはその人のことだ。

 同じ朝刊の7面に東京電力が出した全面広告が載っている。「毎月、少しだけあなたの地球を思う気持ちをください」というタイトルで「グリーン電力基金」への募金を呼びかけるもの。先の記事の発言が記者の捏造であることが確かめられない限り、こんな募金に応える気になるものはよほどのお人好しでない限りいないだろう。(11/26/2000)

 朝刊のコラムに船橋陽一が「シニシズムという名の妖怪」という記事を書いている。週はじめの加藤紘一のドタバタ劇とアメリカの大統領選の混迷をとりあげたものだ。

「日本は、結局本格的な改革を望んでいないのだ」と英フィナンシャル・タイムズの社説は書いた。ここは金融・経済が不良資産の国に止まらず、ガバナンスも不良資産の国になり果てたとの印象が固まりつつある。・・・米国政治も混迷状態にある。米大統領選挙の開票集計の仕方をめぐって民主党と共和党が泥仕合を繰り広げ、結果が定まらない。CNNニュース番組ホストのラリー・キング氏は「米国は統治不可能な国になった」とため息をつく。・・・日米ともに危ない政治が登場しつつあるようだ。行き場のない無力感や閉そく感から来る鬱積した情念のはけ口として、人々は政治を見せ物として堪能し、消費しつつある。クリントン政治の罪は米国民のシニシズムを広めたことだ。自民党と森政権の罪もまた、日本国民のシニシズムを深めていることだ。その妖怪がおちこち徘徊している。・・・シニシズムの怖さは、内向的一国主義と排外主義を生み出し易いことである。

 この国の政治の不毛性は「金融・経済が不良資産の国」になるはるか前からのことだ。ほんの十数年くらい前まで、財界人は「日本式経営は世界のお手本」とふんぞり返り、マスコミは「経済一流、政治三流」とはやし立てていた。あんまりふんぞり返ってみせるので、自らの裾を踏んでこけなければいいがとひそかに心配したものだった。じつは自らの姿を理性的に見ることが苦手な国民性こそが繰り返し繰り返し「敗戦」を味わうもとになっていることに気付く人があまりに少ないのがこの国の実態なのだ。

 船橋のコラムは常套的な組み立てになっているので危機感が薄められている。彼我の比較など問題ではないほどにこの国の状況は悪いのだ。その象徴的な場面をあげてみよう。ひとつ、誰に総理大臣をやって欲しいかという問いに対して「石原慎太郎」と答える人が多い。ふたつ、自虐史観キャンペーンの首魁のひとりである西尾幹二の「国民の歴史」だの「国民の道徳」だのというクズ本がそこそこ売れている。

 そこに見えるものはまさに「内向的一国主義」と近視眼的「排外主義」そのものだ。石原が外形標準課税を大銀行に限定して課す案を出した際に、共産党までが賛成をし、少なからぬオピニオンリーダーが四の五の限定を付けながらもおずおず賛成したとき、遠く微かではあるがナチズムの足音が聞こえたような気がした。そして、西尾幹二だの藤岡ナントカの世迷い言に肯きつつ「教科書にはない・・・」シリーズのエピソード・パッチワークを「歴史だ」と言い始める人の言葉を耳にするたびに、愚か者の言葉だけが表通りを闊歩する日が近いのではないかという危惧を禁じ得ない。(11/23/2000)

 ニュースから、ふたつ。

 一つ目。フロリダ州の最高裁が、手集計結果を採用する判決を下した。伝えられる判決理由は「有権者の一票を行使する権利は他の何者にも優先する」ということ。負けた形のブッシュ陣営からは「ルールを途中で変えるようなものだ」という批判が出ているとか。しかし、選挙のルールは多数の得票を得た方が当選だということであって、票のカウントを機械で行うことはルールのうちではないだろう。ここにほの見えるのは「機械が出す結果の方が人間が出す結果より確かだ」というほとんど機械万能信仰ともいうべきものだ。ブッシュと共和党とその支持者たちが心底からそう主張しているとしたら、機械というブラックボックスを疑おうとせず、コンピュータに振り回されている様は対岸から見れば可笑しさの極地にある。さらにいえば、パンチカード方式にしろ、マーキング方式にしろ、機械が読みとれない票は無効票になる、そこまでが(選挙の)ルールだというのは人間が機械に歩み寄れという考え方で、いかにも「適応能力のない奴は社会の負け犬になる。敗者は人間のカスだ。カスの意思など社会に反映する価値はない」という共和党マジョリティの本音に通じているような気がする。

 二つ目。野中幹事長が橋本派の集会で「昨日の不信任案の否決はけっして森首相の信任を意味するものではない」と語った由。なるほどね。野中に代表される密室で森を推挽した「元老」たちが第一に考えているのは自民党の権力維持であって、あるべき社会の実現ではないのだ。ちょうど戦前の「元老」たちが第一に考えていたのが国体の維持であって、国家の経営ではなかったのと同様に。(11/22/2000)

 はっきりいって加藤紘一には失望した、というのがおおかたの気持ちに違いない。「野党の提出した不信任案に乗じて政権を狙うというのは不純だ」という理屈は一見スジが通っているように見えても、所詮自民党という枠組みの中でのスジ論に過ぎない。自民党という枠を取り払えば、バカ森がとっくに宰相の椅子に値しないことは白日の下に明らかになっているわけで、裸の王様を王様として信任しようという方が手前勝手な事情で政権を私しようとするスジの通らぬ話なのだ。しかし、加藤は土壇場で降りてしまった。あれだけのことをいいながら、手のひらを返したのだ。

 加藤が「評論家的なことをいっているときは過ぎたのではないか。不信任案が出れば、それなりの行動をとる」といったとき、「ああやっぱり自民党というのは手強い政党だな」と思ったものだった。自民党にはある意味の「市場原理」があるのだなと思いもした。現実にこの週末にいくつかのマスコミが行った調査で自民党は支持率を上げていた。しかし、これで自民党はついに「バネ」を失った。長期低落政党の仲間入りをしたのだ。瞬間落胆させられた加藤紘一の行動だったが、アンチ自民としては、もって慶賀すべきことだったのかも知れない。(11/20/2000)

 昨日からのニュースの中心は旧石器発掘捏造事件。宮城県築館町の上高森遺跡の発掘現場で調査団長を務めていた藤森新一なる人物が自ら捏造石器を埋めている現場を毎日新聞が撮影、本人もこの上高森と北海道新十津川町の総進不動坂遺跡で捏造を認める記者会見をしたのが昨日。問題は彼が80年代から全国各地で旧石器時代の遺跡発掘で活躍してきた人物で原人遺跡の第一人者とされてきたこと。

 今年2月の秩父小鹿坂遺跡が50万年前の遺構だというニュースを快事として聞いたことがあった。彼はその発掘にも関わっていたという。民間研究団体の副理事で、高校卒業後、独学でこの分野の研究に携わってきたと聞いて、ふと松本清張の「或る小倉日記伝」に収録されていたモリモトロクジのこと(小説名が思い出せない。かつ、小説の主人公の名前がモリモトロクジだったのか、実在のモデルの名前がモリモトロクジだったのかも思い出せない)を思い出した。在野であるが故に軽んぜられる現実を憎悪する執念の人物、ある時期の清張自身のチリチリするような人生を映したものなのだろうと思いつつ読んだ小説。彼にもそうした背景でもあったのだろうか。(11/6/2000)

 朝刊に載っていた吉本隆明の「少年法改正にみる幼稚さ」に溜飲が下がった。

・・・この改正の根底にあるのは、法律をきびしくすれば、犯罪(この場合少年犯罪)は減少するという通俗的な道徳の考え方だといえる。・・・わたしたちは全般的に、たとえば明治の人たちに比べて、年齢の割に社会的に幼稚になっている。・・・現今の大学生やその教授、また政治家などの幼稚さなど目に余るものがあると思う。・・・彼らのほとんどは、少年犯罪の幼稚さを、結果だけから眺めて凶悪犯罪だなどと勘違いして、少年法を改正すればいいなどと主張している。本当は手が付けられないほどの幼稚な判断力から、一見凶悪と思い違えるような犯行が行われているのだ。・・・少年法改正の可決に際して、残念ながらテレビはほとんど口をつぐんでいた。進歩的キャスターの進歩性は民主党どまりで、少年の親殺し、知人殺し、近所の人殺しを凶悪犯罪と思っていても、幼稚犯罪とは思っていないのかも知れない。よくよく熟考すべきことではなかろうか。するとナチス・ドイツやかつての日本軍国国家のような表面だけ健康そうな社会が出来上がってしまうのは、一見道徳的な見解と思えることに、ずるずる引き寄せられてしまう感じ方に始まるのだと思う。

 書き抜かなかった部分にも加害者の親の話、被害者の親の話が書かれているのだが、報道のたびに感じていた違和感と重なる部分があって、深く頷きながら読んだ。(11/5/2000)

 週はじめに日産が当期2,500億円の黒字を計上する見通しという報道があった。先期は6,800億もの赤字だったということだから、ゴーン氏に対する評価はいやが上にも高くなった。昨日の朝刊にトヨタの奥田会長のこんな言葉が紹介されている。「日産の急回復は人員の削減や調達先の絞り込みで、コスト削減が実現したことが主因。あれだけドラスティックなことは日本人経営者には難しい。解雇しようとしても人の顔や生活が頭に浮かんだり、部品メーカーの経営者の顔が浮かんでしまう。ゴーンさんはしがらみがないのでやりやすいのだろう」(朝日11月2日朝刊13面コラム)。コラムは続けて「ゴーン流のリストラで、しわ寄せが来た部品メーカーなどには不満もある。フォード出身の社長を迎え、業績がいったんは回復したものの最近は停滞しているマツダを例に挙げ『日産の評価も長期的に見ないとわからない』と手放しの評価にクギをさした」と書いている。

 奥田の指摘には一部正しく、一部感情的な「くもり」がある。正しいのは主因に関する分析(というほどのものではないが)と「長期的に見るべきだ」という部分。「くもり」というのは「しがらみがないのでやりやすい」という部分だ。最近もてはやされている「経営」は短期の数字の改善をもってすべてを評価するというサルにもわかるものになっているのだから、数字のためならやりやすかろうとやりにくかろうと近視眼的にバサバサと実行するだけのこと。つまり、トヨタだって日産が置かれた状況に至れば、素人受けする経営をやるだろう、これが現在の状況なのだ。

 いま、日産車で「欲しいな」と思わせるものがあるか。日産という会社の体質には疑問があるけれどもあの車はいいな、あの車は買いたいと思わせるような、そういう車が出てこない限り、日産に傷を負わされた人々はもちろんのこと、そういうしがらみのない人々もなかなか日産車を買わないだろう。日産は早くキラー商品が必要な状況にある。しかし、そういう(品質の面も含めて)よい車が、リストラの嵐が吹き荒れた会社から、出てくるのはかなり難しいことだろう。

 それが人の住む世の中の常識だ。さて、ゴーン氏はその常識まで覆すだけの手を打っているだろうか。(11/3/2000)

 少年法の改正案が衆議院を通過。夜のニュースで見る限りポイントはふたつらしい。刑事罰対象年齢を現在の16歳以上から14歳以上に引上げることと、家裁における少年審判に検事の立ち会いを認め裁判官を三人の合議制にするなどの制度的な改変。なるほど理屈の上では単に凶悪な事件について刑事罰を与える幅を拡大したに過ぎないわけだから、従来の運用を一気に変えることを意味しているわけではない。

 しかし、法制審議会をバイパスするために議員立法とし、ほとんど論議らしい論議もしないままにスピード採決をした状況を見ていると、ああもうこの国には理性的な政治プロセスなどかけらも残っていないのだなとつくづく思う。世の中全体がひたすら感情のままに突き動かされて、立ち止まって深く思慮を巡らすというなどないこのさまには暗然とせざるを得ない。

 14歳以上に刑事責任能力を認めるというのなら、14歳以上に選挙権を与えることにしたらどうだろう。刑事責任能力がある人間に、政治参加能力はないと判断する根拠はなんなのだろう。こんな疑問にきちんと答えられるのだろうか、改正案に賛成した議員たちは。(10/31/2000)

 中川官房長官が金曜日に辞任した。右翼屋さんとの会食、覚醒剤疑惑の愛人との交際などなかなかたいしたキャリアだが、自民党の議員にはそれほど珍しいということもなかろう。痛快だったのは、フォーカスの暴露攻勢に対して、官房長官としては避けられぬ記者会見の場でも、国会審議でも一貫して否定してきたのが、愛人との会話を収めた録音テープが木曜の夜、いっせいに各局から放送されてしまったことだ。満天下にウソをついてきたことがさらされ、いかに鉄面皮を売り物にする自民党議員にもさすがにこれは堪えたようだ。しかし、問題は大きくいってふたつある。ひとつは録音された会話の中身、もうひとつはこの録音テープそのものだ。

 まず、会話の中身。ここにさらにふたつの問題がある。このやりとりをきくと中川が警察から捜査情報を入手しそれを被疑者に漏らしたことは明らかだ。中川は辞任会見で「複数のうわさ話を伝えただけ」と釈明したが、既にオオカミ少年である人間の言うことを信じるものは少なかろう。ここで、中川に捜査情報を報告したものは誰か、そしてその報告は適正なものだったのか。そのようにして知り得た情報を中川はどういうつもりで被疑者に伝えたのか。

 しかし、そういうことより何より問題とすべきなのは、この録音テープは、誰が、どのような目的で、どのような手続きの下に収録したものなのか、そしてどういうルートでフォーカスがこのテープを入手したのかということだ。ここまでの報道をそのまま信じるとすれば、この会話は中川の自宅でなされたものであろう。自宅における会話がかくも鮮明に録音されることに不安を感じる。ニュース23で筑紫哲也が「公人なのだから当然」というようなコメントをしていたが、それは中川の鉄面皮ぶりに腹を立てるあまり事態の深刻さを見失っているとしか思えない。野中幹事長の「個人の行動をあそこまで週刊誌で報道され、録音テープを民間テレビを通じて報道されるのは想像もできないことだ」という発言は、ここだけを取り上げるならばまったく正しい。

 それにしても、いったい誰がこの録音をしたのだろう。一番可能性が高いのは警察だろう。はたしてこの録音は合法的な手続きに従ってなされたものなのだろうか。だとすれば、なぜ、その捜査資料をフォーカスが持っているのだろう。不思議な話、というよりは明確にしなければならない話だ。(10/29/2000)

 日本シリーズはあっけなく終わってしまった。ホークス、1、2戦の勢いはどこへやら福岡では1勝もできず2勝3敗。東京に戻った今夜もいいところなく敗北。思えば、第3戦、秋山の盗塁に対するあきらかな誤審がシリーズの分水嶺だったような気がする。もう少し審判のレベルをあげてもらわないと感興をそぐことは間違いない。(10/28/2000)

 ところで昨日の朝刊にとんでもない記事が載っていた。アジア欧州会議でソウルに集まった各国首脳間の会談の中でのこと。森首相がブレア英首相との会談でこんな話をしたというのだ。朝日の記事から書き写す。

 二十年前から十人の男女が日本海側から拉致されている。警察側にも証拠があると思っている。罪もない人が突然連れて行かれる。その両親をはじめ、家族の身に立って考えると大変なことだ。そのことを苦にして亡くなった方もいるし、病に伏せられた人もいる。国民感情からして、この問題を解決することは一番重要なことだと考えている。我々の抱える北朝鮮との問題で最大の課題だ。
 自分が三年前に(連立与党訪朝団の)団長として北朝鮮に行った。北朝鮮というのは大変メンツを重んじる国だから、正面から取り組むということではなくて、行方不明者ということでもいいから、北京でも、あるいはバンコクでも、そこにいたということで、という方法もあるんじゃないか、ということも当時、打ち上げたけれど、それについてはまだ明確な返事をいただいていない。
 今月末には三回目の(国交正常化)交渉に入る。米欧とは違った対応をしなければならないということをご理解いただきたい。

 脳味噌の軽い人だということは既に万人が承知していることだが、それにしてもここまで愚かだとは。例の「神の国」発言に際して全体の文脈からすれば間違っているわけではないと弁護したものがいたが、あの連中は今回もそういうのだろうか。これで外交の手札が一枚失われ、なにより、日本という国はこんなおバカさんでも首相が務まる国なのだという認識を世界に広めたのだ。あの「国益屋」どもは、この魯鈍な宰相をどのように評するのだろうか。

 さて、日本シリーズ第二戦もホークス。なんともしまりのない試合だったとだけ書いておこう。ワールドシリーズの方はヤンキースが9回裏に追いついて延長戦の末にメッツを下した。ヤンキースの強さはホンモノという感じ。(10/22/2000)

 朝のラジオで小沢遼子がこんなことを言っていた。「石原慎太郎は遠くから見るとイヤな奴だが、近く接してみると必ずしもそうではなくて結構魅力があったりする。田中康夫は案外その逆」というのだ。小沢の眼力に一応の評価を与えている側としては、「ヘェー、そうお」というところ。(10/20/2000)

 長野県知事選で田中康夫が当選。右翼を雇い街宣車で田中支持者に嫌がらせをしたり、田中の私生活を取り上げた怪文書を発行したりと、かなりあくどい手を使った前副知事池田一派だったが、いったん吹いた「飽き」の風には抗いようもなかったものとみえる。

 遠望するに、田中に入った票の多くは、かつて青島に投ぜられ、つい先年には石原に投ぜられた票とさして変わらない票ではないかと思われる。つまり、「ここではないどこか」を希望するが、「これを実現してくれ、これを守ってくれ」という具体的な意志は持っていない流されやすい人たちが多数を占める集団から入った票だ。

 青島はその集団に自らを重ね合わせるかのような知事ぶりで任期を終えた。石原はミニヒトラーの萌芽をみせている。大手銀行に対象を絞った外形標準課税策などは大衆受けを狙ったナチの手法に通ずるものがあり、それに拍手喝采する人々を見るとあのニーメラーの有名な詩がいやでも思い出される。

 田中には20世紀の亡霊のような石原の知事ぶりが色あせたものであることを一目で分らせるような知事になってもらいたい。力強い民主主義の政治運営というものは、鼻持ちならないエリート主義とは何の関係もないものだということを、実例で示してもらいたいのだ。(10/15/2000)

 金大中韓国大統領にノーベル平和賞。韓国でははじめてのノーベル賞受賞。朴正煕が生きていたら、どのように思うだろう。いや朴が命じた拉致事件の際、当初の計画通り殺されていたら、今回の受賞もなかったわけで、歴史に「たら」は禁句と知りつつも思いはやはりそこに行ってしまう。(10/13/2000)

 白川秀樹氏がアメリカの科学者2名とともに今年のノーベル化学賞を受賞したというのが起き抜けのニュースだった。日本人として9人目、化学賞の受賞は福井謙一氏以来とのこと。夕方のニュースではマラソンの高橋尚子に国民栄誉賞、白川秀樹には文化勲章という話。思わず吹き出してしまった。

 文化勲章がノーベル賞に先んじたのは、9例のうち4例。文化勲章の対象にならぬ佐藤栄作をのぞけば、半分に過ぎず、それも近年は後れをとっている方が多い。(文化勲章が先:湯川秀樹、朝永振一郎、川端康成、利根川進、ノーベル賞が先:江崎玲於奈、福井謙一、大江健三郎、白川秀樹)

 白川氏は周りの人のすべてが「謙虚で温厚な人」と証言していることから考えて、文化勲章の受章が決まれば大江健三郎のように辞退することはなかろうが、いいかげんこの手の「追号」はやめたらどうだろうかと思う。結局のところ、文化勲章の選定者は外国が認めるまでは足許にいる賢者の業績を知らぬという迂闊者だった、あるいは、文化勲章は業績の偉大さによって与えているものではないという無様な実態を暴露していることにしかならないのだから。

 その点で大江健三郎の辞退は当を得ていたのだった。当時、「外国の賞は受けても、我が国の賞は受けられないのか」といきり立つ右翼と一部のマスコミがいた。彼らが本当に怒りを向けるべきだったのは、追認しかできなかった文化勲章そのもののお粗末さだったのだが、所詮、彼らの単細胞脳髄には、「ヤツの杯は受けても、オレの杯は受けられねェのかァ」という酔っ払いのごとき怒りしか浮かばなかったのかもしれぬ。(10/11/2000)

 今年から、三連休を多く作るために体育の日を10月の第二月曜にしたため、今日が祝日。日曜日に重なるのを救済するのには賛成できても、このように動かすことにはどうもなじめない。とくに体育の日は東京オリンピックの開会式の日というのが由来だった。さらにいえば何故10月10日を開会式にしたかといえば、この日が晴天の特異日だったことによる。

 あの日はまさに日本晴れのよい天気だった。・・・といっても当時は札幌に住んでいたから実際の体験ではないのだが、自衛隊の曲技飛行体が描いた五輪のマークの背景が美しい青空であった新聞写真は今も記憶に残っている。その前夜は、関係者が気を揉むような雨であったのだが。

 明日は晴天の予報がでている。

 朝刊の高木仁三郎の死亡記事に、原子力安全委員会委員だった住田健二のコメントが載っている。「立場は違ったが、科学的な事実に対する認識は、八割方同じだった」と。嗤った、残り二割の認識もファクトに忠実であったのが高木で、その二割をウソとごまかしで固めたのがおまえたちだったということだろうと。まあ、それでも詐欺師同然の彼らさえ「八割」までは認めるようになったのだねぇ、その昔は「原子力は100%安全だ」などと吹聴していたのだから大人になったといえば大人になったものだ。はやく本当に誠実な大人になってください。(10/9/2000)

 永井荷風の「断腸亭日乗」が面白い。先日、本屋で岩波文庫の「摘録」を手に取ることがあって、買ってきた。とびとびにいろいろな年のいろいろな日のものを読む。日付と天候があって、その日の記事がある。曜日の記載はない。曜日というのは勤め人には大切であっても、文筆の人にはさしたる意味がないのかもしれない。以下、昭和15年の10月8日のくだり。

 新秋八月この方新聞紙の記事は日を追ふに従つて益甚しく人をして絶望悲憤せしむ。今朝『読売新聞』の投書欄に、或女学校の教師虫を恐るる女生徒を叱咤し運動場の樹木の毛虫を除去せしめたる記事あり。 ・・・(中略)・・・子弟を教育するものは先第一にこれら人心の機微を察せざるべからず。鰻は万人悉くうまいと思つて食ふものとなさば大なる謬なり。勲章は誰しも欲しがるものとなさば更に大なる謬なり。都会に成長する女生徒をして炎天に砂礫を運搬せしめまたは樹木の毛虫を取らしめて戦国の美風となすはそもそも何の謂ぞや。教育家の事理を解せざるもまた甚しといふべし。ジェズイット宗の教育家といへどもかくの如く残酷にはあらざるべし。 ・・・(以下略)

――永井荷風 「摘録 断腸亭日乗」――

 おりしも教育国民会議の分科会が教育改革の方策として「奉仕活動の義務化」を提言したところだ。何年たってもこの国は変わらないものとみえて「絶望悲憤」したくなる。精神論から出た形ばかりの「提言」は、無能で想像力を欠いた「有識者」には非常に有効なものにみえるのだろう。しかし、そんなものが効果をあげたようにみえる子供は実のところ黙っていても自らを律することができるものだし、彼らが「困った子」と考える子供にはまったく役立たないどころか逆効果なのだ。

 「困った子」は「社会」を知らないが故に苛立っているのではない。思いっきり皮肉をきかせていえば、それはかくも社会変化に鈍感な国民会議メンバーが「有識者」として認知されているというどうしようもない現実社会を明確に知っているか、おぼろげながらに知っているからこそ、そのあほらしさに苛立っているのだ。ある人が彼らの「提言」を「酔っ払い談義」と評していたが、まったくその通り。

 原子力資料室の高木仁三郎が亡くなった。「市民科学者」という彼の生き方はまぶしいものだった。(10/8/2000)

 去年5月18日の日記に「現在の各国指導者の中で、ほとんど犯罪者のような顔と目つきを持つ人物が二人いる。イスラエルのネタニヤフとユーゴスラビアのミロシェビッチだ」と書いた。ネタニヤフが政権の座から転がり落ちたときのことだ。もう一方のミロシェビッチが今週同じように権力の座を追われた。権力維持のために最後まで選挙結果をごまかすなどあの手この手の醜い画策をしたにも関わらず、頼みとする軍という暴力装置を動かすことができなかった。夕刊にはこんなコラムが載っている。

 セルビアの大統領職には、二期八年という制限があった。そこで憲法を改正し、実権を連邦大統領に移したうえで、九七年に自らが就任する。
 このときは連邦議会による選出だったのだが、今年の七月にまた憲法を改正し、今度は有権者による直接投票に改めた。その投票が彼には裏目に出て、墓穴を掘る結果となった。
 自分の都合でルールを変えてでも、政権にしがみつこうとする。来年の参院選を前に、比例区名簿を非拘束式に遮二無二改めようとする自民党は、その点でミロシェビッチ氏のそっくりさんではないか。

・・・(中略)・・・

 八十年代までのユーゴにはそれなりの豊かさがあり、東欧の他の社会主義国の人々にはうらやましがられていた。
 今では欧州の最貧国といわれる。わが身大事のお手盛り政治が国全体を荒廃させてきた。
 日本の選挙はミロシェビッチ体制下のユーゴとは違って、公正に行われる。政権党のお手盛りを許すかどうか、問われるのは有権者全体の見識、ということにもなる。

――朝日新聞 「窓 論説委員室から」――

 最後はいかにもきれいにまとめた感じがあるが、手前勝手な理由で選挙制度をいじり回す連中の薄汚い心根の指摘は正しい。この国では不公正な選挙を嗤う人が多いようだが、選挙管理は不正であっても権力への阿諛迎合を拒絶する投票内容を持つ国の方が、選挙管理は公正でも「当為」ということを完全におき忘れた投票内容に終始する国よりも、よほど理想に近いところにいることに気がつくべきだろう。

 少しでも不利になるとルールをいじろうとする意地汚い自民党が、選挙管理委員会に手を入れて不公正選挙を狙わないのは、単に投票内容が洗練されていないからという理由だと考えるなら絶望はより深いといわねばならない。(10/7/2000)

直前の滴水録へ


 玄関へ戻る