**(息子)から送られてきたチケットで、**(家内)と東京ドームでヤンキース対デビルレイズの開幕第二戦を観戦。セキュリティチェックが厳しいということできょうはいつものカバンをセカンドバックに持ち替えて出勤。案の定ガードマンが総出で、カバンは開けさせるは、ボディチェックはするはの大騒ぎ。おまけに例の回転扉事故があったせいだろう、そこにも係員が立っている。

 内野A指定とはいってもライオンズ球場の内野自由席相当。それでも18,000円となれば、**には感謝。試合は結果から書くと12−1でヤンキースのワンサイドゲームで少しばかり緊張感に欠けるものだった。初回デビルレイズがあっさり先取点をあげて始まった試合は、3回表に松井が二塁手の右を抜くシングルヒットで同点、4回表にクラークがツーランで勝ち越すと後はヤンキースのホームラン攻勢。

 松井は、初回ライトフライ(これはライナー性のいい当たりだった)、3回に同点シングル、5回に右中間にツーラン、6回センターフライ(フェンスに近いかなり大きな当たり)、7回は空振り三振、5の2だったが内容は素晴らしかった。8回表終了でドームを出て、うちについたのは10時半。(3/31/2004)

 仙台の筋弛緩剤事件の一審判決があった。守大助被告に対して無期懲役。

 この事件の問題点本当に筋弛緩剤の不正投与という「犯罪」があったのかどうかということと、あったとすれば守以外に犯行の可能性があった人物がいないのかどうかということにしぼられる。

 犯行は5回あったとされている。

日 付 被 害 者 起 訴 内 容
2000年2月2日 1歳女児 殺人未遂:呼吸困難
2000年10月31日 11歳女児 殺人未遂:呼吸停止・後遺症
2000年11月13日 4歳男児 殺人未遂:呼吸困難
2000年11月24日 89歳女性 殺人:呼吸不全による窒息死
2000年11月24日 45歳男性 殺人未遂:呼吸困難

 捜査が杜撰だったことは夕刊に「捜査当局幹部」の言葉として報じられているが、この事件で一番の問題は被害者の血液・尿や点滴液を鑑定した大阪府警科学捜査研究所の西村眞弓・土橋均両名の非常識極まる鑑定作業(0.1mlもあればできる鑑定において、一番甚だしい場合においては鑑定500回分に相当する50mlを全量使い切ってしまった)だった。彼らが適切な配慮をしてさえいれば、再鑑定などにより犯罪性の有無を含めて、もっと確度の高い論議ができたはずなのだ。

 西村と土橋の鑑定数値に関する「疑惑」はぬぐいがたい。再鑑定をさせないために試料を処分したと解釈されても両人は反論することはできないと思う。フォロワーに対する配慮のない実験科学者など科学者とはいわない。鑑定人を僭称することも許されるべきではない。彼らはまだ科捜研でのうのうと仕事を続けているのだろうか。それとも「功績」が認められて格段の出世でもできたかな。

 日本の警察、そして検察には過去において「前歴」がある。松川事件における「諏訪メモ」はその一番有名な例だ。彼らは被告に有利、つまり検察側にとって不利な証拠を「じつに都合よく」なくし、かつ「平然と」隠すのだ。刑事裁判は検察側・弁護側双方にとってフェアな戦いでなくては意味をなさない。正統な防御権を行使できない一方的な「鑑定」は採用されるべきではない。

 たしかにこの事件は酒鬼薔薇事件ほど絶対の心証を持つことはできない。しかし少なくとも犯罪が存在したかどうかの立証そのものがまったくできていない「事件」であることだけは間違いのないところだ。(3/30/2004)

 夜のウォーキングに出ようというところで、「クローズアップ現代」の出だしを見てしまった。きょうのテーマは「"警察の裏金"不正の実態」。番組はもうおそらく絶対に否定できない事実だけを報じたNHKらしいものだった。ある捜査課だけの親睦的な飲み食いや慶弔だけで年間二千万にもなるものかどうか、もう少し突っこんでもらいたかった。残ったカネはどこの誰がどのように使ったのか。そういうごく当然の疑問に対する答えを求めずに番組にできる無神経さよ。NHKなんぞにまともな報道は金輪際期待できないということか。

 それにしても「国民の皆様のご理解が得られるように改善したい」などとヌケヌケという警察庁経理課西村泰彦課長の鉄面皮ぶりはどうだ。よくもまあこんなツラができるものだ。

 もともと、北海道警で裏金問題は稲葉圭昭という警部が覚醒剤を密売して逮捕されたことから始まった。なぜ現役の警部が覚醒剤の売人をしていたか。稲葉は銃器対策課のナンバーワンだった。銃器対策の実績を上げるため、最初、彼は暴力団からの情報提供に頼った。ところがそのために使うはずの「捜査補償費」は彼には渡らなかった。捜査報償費は最初から裏金化するためのもの、本来の目的に使うなどは「もってのほか」とされていたからだ。最初、彼は「警察の内部情報」を提供してしのいでいたらしい。

 ここでとどまれば、まだよかった。しかし、銃器対策課の課長(後に自殺)は前年度よりもよい摘発実績を求めた。稲葉は「首なし」(所有者は分からないがピストルだけが摘発されるものをいう)と呼ばれるケースのでっち上げをするようになる。さすがにそこまでの「協力」をカネを使わずにやらせることは難しい。「情報提供」と「首なしでっち上げの協力」をしてもらうための資金源として、彼は覚醒剤の売人をやり、やがて自分自身も覚醒剤に手を出すようになった。

 ノンキャリに裏金づくりを命令し、その士気を低下させ、時には犯罪に手を染めさせながら、自分たちは転勤ごとに裏金を餞別としてせしめることにキャリアが腐心している限り、現在の警察のレベル低下に歯止めはかからない。西村泰彦が「ご理解いただきたい」という中味はこういうことだ。「ご理解」して差し上げることができる者はそうそうはおるまい。(ところが北海道議会の自民党と公明党は百条委員会設置による全容解明のための議案を否決したという。きっと「ご理解する」立場なのだろう。自民党や公明党という政党がどのような体質を持っているか、この一事でわかる)

 ことあるごとに警察庁と各都道府県警察は「捜査上の秘密」と称する印籠を持ち出して「捜査報償費」に対する監査をはねつけている。しかし「捜査上の秘密」の実態が、現職警官を覚醒剤の売人においやるようなものならば、どんな事情もいいわけも聞いてやる必要などない。「捜査報償費」と称するカネを百%裏金に転用し、一切本来の目的に使うことなく、これまでの警察の活動が維持できた。ならば、まず、いったん「捜査補償費」をゼロベースに見直したらよい。そのうえで本当に必要な予算を査定すればそれでよい。税金で警察幹部の遊興費やマイホーム取得を支援することはないだろう。(3/29/2004)

 森達也「ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー」読了。これほど読みながら涙を流した本は最近ない。通勤、出張移動中の電車で読んでいる時には往生した。

 20世紀の初め、日露戦争においてロシアを打ち破った日本はアジア各国の独立を企図する革命家たちの希望の星になるが、やがて「脱亜入欧」をめざして彼らの期待を裏切る。そして戦後の日本も、奇跡とも思える経済復興により同様の期待を集めながら、また彼らの期待に肩すかしを食わせているのではないか、それをクォン・デというベトナム王朝最後の王位継承者の生涯を見ることから展望した本。

 簡単にサマリーすればそういう本なのだが、資料の少ない中でクォン・デのプロフィールが丁寧に書かれているのは当然のこととして、それを語る森達也という「男」の温かい眼そしてハートがビンビンと伝わってきて心地よい。

 あえてアンコではない部分を書き写しておく。

 とここまで書いて、いきなり文中に登場した「玄洋社」について説明をしなくてはと思いながらも実はもう二週間近く、原稿はまったく進んでいない。パソコンのキーボードに向かっては、僕は吐息ばかりついている。理由は明解だ。玄洋社という組織が、僕にとってはとにかく複雑怪奇すぎる代物なのだ。

 普通、著者はこんな風には書かない。いや、「こんなことで字数を稼ぐな。著者の甘えのような文章を読ませるのなら、その分のカネを返せ」と言いたくなる。だが、その少し先にこんなことが書かれていれば、苦笑いしながら「こいつについてゆくのも、ええヤロ」と思わせる。

 玄洋社の主力メンバーたちのほとんどは、大陸浪人としてアジアを放浪した。様々なアジアの革命家たちと直接触れ合い、膝詰談判し、時には肩を組みながら泥酔するうちに、日本民族の優越性などという虚構がいかにバカバカしい作り事であるかを、彼らはつくづく実感したのだろうと僕は想像する。
 そしてこの一点にこそ、玄洋社の最大の特質があり、見落としてはならない価値がある。理論や思想よりも「情」なのだ。個人と個人の付き合いの過程で、認め合い尊敬し合い、同じ悲嘆や希望を共有するようになったのだ。そう考えなければ、理論的にはアジア主義の理念が形になった満州国設立の式典を、欠席した頭山の真意は絶対に掴めない。
(3/28/2004)

 パリーグ開幕。ライオンズ−マリンズ戦をテレビ観戦。**(家内)が誕生プレゼントに後援会に入ってくれたから無料チケットがある。だがどうも球場まで足を運ぶ気になれない。松井がメジャーに行き、伊東が監督に持ち上がった結果としてキャッチャーのポジションに穴が空いている。ピッチングスタッフは松坂と豊田を除くと格段に落ちる。カブレラはバッファローズとのオープン戦でデッドボールを喰らって骨折し、6月頃までは出てこない。悪い材料ばかりでウキウキ感がまったくないからだ。

 松坂は、これという試合には勝てない投手というイメージが定着してしまったから、開幕戦には期待しない方がいいと思っていたら、はたして結果は予想通りのていたらくだった。まあ、半月程度カードの消化が進んだ頃に行くことにしよう。結果だけ、記録しておく。(3/27/2004)

ライオンズ 3−5 マリンズ 勝:清水 負:松坂
ホークス 4−3 ブルーウェイブ 勝:斉藤 負:具
バッファローズ 6−2 ファイターズ 勝:岩隈 負:金村

 一昨日、国連の人権委員会はイスラエルのヤシン殺害に対する非難決議を賛成31、反対2、棄権18で採択した。反対したのはアメリカとオーストラリアだった。日本とドイツをはじめとするヨーロッパのいくつかの国は棄権に回った。

 そして昨日、安全保障理事会はイスラエルの非難決議を採決にかけた。賛成11、反対1、棄権3(イギリス、ドイツ、ルーマニア)だったが、反対国アメリカが拒否権を行使したため否決された。

 アメリカ合衆国は旧ソ連と並んで拒否権行使回数が多い国だ。アメリカの拒否権行使例を一覧してみるとこれが「自由と正義」を看板にしている国かとあきれはてる。南アフリカが悪名高いアパルトヘイト政策をとっていた頃、拒否権の行使により南アフリカを支持し、間接的に白人政権の暗黒政策を支援し続けたのはアメリカ(時にイギリス・フランスが加わる)だった。

 国連総会の場で決議されたいくつかの議案を無視し続けるイスラエルには、経済制裁や軍事的圧力が不可欠だったことは歴史が証明している。しかし、控えめに過ぎると見えるような決議ですら、アメリカは拒否権によってこれをつぶしてきた。結果、イスラエルの増長は度し難いものになり、いまやパレスチナ問題はほとんど絶望的なところまで来てしまった。

 アメリカの深層心理にはイスラエルに対する親近感があるような気がする。「宗教に裏打ちされたメンバーによる新しい国家の建設」という概念だ。ピューリタンとシオニスト。

 ピューリタンが独立宣言文の理想性とは裏腹に、同時代の他国民からは見えぬ辺境の地で、ネイティブ・アメリカンの土地を奪い、住居を焼き払い、彼らを殺し尽くしたことは歴史が教える通り。シオニストも、まったく同様の志を持っている。

 ピューリタンたちはネイティブ・アメリカンが人間だとは思っていなかった。シオニストたちもパレスチナの原住民を人間だとは思っていないようだ。

 ピューリタンたちはある時は領土を買い取り、ある時は不正な戦争を仕掛けて領土拡張に努めた。シオニストも最初は土地を買い取り、次には戦争を仕掛け、さらに最近は手前勝手な理屈をつけてせっせと「入植」という領土の拡大にいそしんでいる。

 そのさまは、祖先から受け継いだ記憶にあまりにも似ているので、アメリカ人には懐かしさのあまり、イスラエルの所業がどれほどの悪事であるか見えないのだろう。(3/26/2004)

注) アメリカ合衆国の安保理における拒否権行使状況をまとめたものがここにあります。

 中国ナショナリストの魚釣島上陸騒ぎ。

 尖閣諸島は百科事典によると「1895年沖縄県に編入」とあるから日清戦争につながる経緯があるのかもしれない。「1900年諸島の調査を行った沖縄師範教諭の黒岩恒によって尖閣と命名された」という記事もある。中国での報道状況を伝えるニュース画面にも「釣魚島」、「尖閣」などの文字が見えた。中国における呼称が日本による命名に引きずられているとすれば、それは後から「固有の領土」と主張しはじめた証拠かもしれぬ。

 彼らを運んだ漁船が中国に引き返したため現地での強制退去命令が実行不可能になり、上陸時間が長かったこともあって7人を逮捕、那覇署などいくつかの警察署に分けて取り調べている由。逮捕した以上、検察送致、起訴猶予処分、送還という手続きを踏むことになるのだろう。

 可笑しかったのはアメリカ国務省が定例記者会見の中で「尖閣諸島に日米安保条約が適用される」とあえて述べたこと。竹島に関する日韓トラブルについてはコメントしなかったアメリカがなにゆえしゃしゃり出てきたか。きっと尖閣諸島海域に石油の埋蔵が予測されているからなのだろう。とことん石油資源に執着する薄汚い国、アメリカらしい話だ。(3/25/2004)

 9時少し前、東京駅発の「のぞみ」に乗る。

 往復で6時間程度の読書タイムと思ったが、行きの新幹線は窓側の席だったことが仇となった。眼の端に窓外に流れる風景がチラチラとうるさく、すんなりと本の中に入ってゆけなかった。あきらめてぼんやり飛び去る風景を見るともなく見ているといろいろなことが思い出されてきた。

 名古屋から東京に引っ越したのは小五になる春、いまぐらいのことだった。在来線の特急「こだま」で名古屋=東京は4時間かかった。「のぞみ」は1時間半ちょっと。悪い予報が出ていたけれどまだ雨は降り出さず、富士は上下の雲に裾野と頂を隠しながら胴体だけが見えていて可笑しかった。あの日、生まれて初めての食堂車から、富士は鮮やかに見えた。青空を背景に真っ白な雪をかぶり、それはみごとな富士だった。と、突然、あの時、**(弟)が上げた歓声がボンと頭の中に飛び出した。とたんに涙が出てきた。父も母も若かった。あの時の家族はいまの我が家よりも若い。一番年若の**(弟)がいのいちばんに欠けた、と思っただけで、涙があふれてしまった。

 東海道をその時までに少なくとも二往復半していた。最初は小樽から名古屋への引っ越し。二歳になる前のことだからまったく記憶はない。その次は小樽にある母の実家との間の往復。どんな理由だったのかは分からない。たぶん母の家出に連れられたのだと思う。明確な母の家出の記憶は一度だ。その時はもう小学生だったから連れて行ってもらえなかった。原因は父の借金だ。後から、やっと借金を返し終ったと思った日にじつはまた新しく十万の借金ができていると聞いて「もうこの人とは」と思ったと聞いたから、連れて行ってもらった時の家出は「やっと返した」と聞いた最初の借金を知った時だったのかもしれない。次の一往復は小一の夏休み、静岡の県担当だった父の出張に連れられた時だ。父が一番忙しくしていた頃、近所の友達がそれぞれに田舎に行ったり海水浴に行ったりしているのを考えてのことだったと思う。父は仕事がある。一日は市内観光バスに乗せてもらった。同じバスに乗る岐阜から来た二人連れの女性に父はよろしくといっていた。そのお姉さんたちと日本平や次郎長の像の前で撮った記念写真がある。旅館で過ごした一日もあった。静岡駅裏の「とらや」という旅館だった。父の定宿だったのだろう、女中さんたちがやさしく相手をしてくれた。そうはいっても彼女たちも長い一日の午後にはもてあましたのだろう、十五ゲームを預けて一人遊びするようにしかけてきた。「できたッ」というと「すごい、早いね」といわれる。何度も何度もやった。疲れを知らない子どもの相手をする大人は疲れる。きっと女中さんもそうだったのだろう。十五ゲームには欠陥があって絶対に完成しない配列がある。「じゃ、これ」といって渡されたものがその配列だった。うーん、できないとつまってだいぶしてから、目を盗んでズルをした。駒を取り上げて並べ替えて「できたッ」とやった。「アラ、できたの」と言ってくれたその時の女中さんの目。思わず目をそらしたっけ。あの時のことを思い出し、恥ずかしさに「アッ」と意味もない声が出て、我に帰った。(3/24/2004)

 シャロンは「ヤシンはビン・ラディンと同じだ」と言ったとか。思わず吹き出した。ベギンやシャミールといったイスラエルの歴代の首相は、その前歴においてテロ組織(ベギン:イルグン、シャミール:シュテルン)に所属するテロリストとして指名手配されたことがある連中ばかりではないか。

 これらのテロ組織の軍事部門がいまのイスラエル軍になり、政治部門がリクードになった。リクードの党首にしてイスラエルの首相であるシャロンこそ、アルカイダにおける「ビン・ラディンと同じ」だ。シャロン自身、1982年のレバノン侵攻に際してベイルートにあった難民キャンプの虐殺事件に荷担したれっきとしたテロリストだ。

 ヤシンときけば、いやでもデイル・ヤシンという村の名前を思い出す。イスラエル建国宣言のわずかひと月前(1948年4月9日)、ベギン指揮下のイルグンはエルサレム近郊にあるこの村で村民254人(当然、婦女子を含む)を虐殺し、殺し損ねた村民を血まみれのままユダヤ人勝利の行進に駆り立てるというナチス顔負けの蛮行を行った。ベギンはこのデイル・ヤシンにおける「勝利」がなければイスラエルという国家はなかったと著書に誇らしげに書いていたという。中立宣言をしていた無抵抗の村を襲い屠ることを「勝利」と呼ぶのは無差別テロとなんら変わらぬ所業だ。

 イスラエルはその誕生の時から徹底したテロリスト国家だった。つまり、イスラエルという国、なかんずくリクードの連中に、テロリストであるというだけの理屈でテロリストを排除する資格など断じてない。さきに他人の足を踏んだのはイスラエルだ。そしてイスラエルという国がその後も一貫して行ってきたことを考え合わせるならば、パレスチナ側、いや、ハマスの無差別テロでさえ、抵抗権の行使として、容認したくなるというものだ。だから、イスラエルのテロリストとパレスチナのテロリストのどちらかを選べというなら、アラブのテロリストを支持する。

 テロリストの定義が、ひたすら平和を忌み嫌い、平穏に暮らすために主義・主張・人種の違いを許容しあおうという人々の考えを呪い、猜疑心の中で果てしない殺し合いに人々を引きずり込もうとする者のことだというならば、シャロンこそ、第一級のテロリストだ。(3/23/2004)

 先週半ばのバカ陽気はどこへやら、朝から昼、午後に進むにしたがって、どんどん気温が下がる。雨が雪に変わるという予報なのだが、夕暮れまでには雪にはならず、いまもまだ雨のまま。

 ヤシンという語ですぐに浮かぶのは人の名前ではなかった。アハメド・ヤシン師、イスラム原理主義組織ハマスの創設者にして、現在もその精神的な指導者といわれている人物の由。そのヤシンが自宅近くのモスクから朝の礼拝を終えて出てきたところをイスラエルの武装ヘリが発射したミサイルで殺害された。イスラエル政府は「ヤシンは無数のテロ攻撃の責任者」と主張しているがこれは政治的テロそのものだ。ことここに至れば、無差別テロを行うのがハマス、人物を特定したテロを行うのがイスラエル、という違いしか存在しない。テロはテロだ。

 仮にイスラエル政府の主張を百パーセント認めるとしても、ヤシンを殺害することによってどんな展望が開けるというのか。ユダヤ人はもう少し賢いと思っていたが、最近はそうでもないようだ。知恵は力の不足を補うものだから、力ばかりが強くなると失われてしまうのかもしれない。それともイスラエルに住むユダヤ人はユダヤ人の中でも劣等種ばかりの連中が集まったのか。

 小悪党の猿知恵の行方について、もう少し書いておこうか。

 2000年秋、シャロンがアルアクサモスクに強硬立ち入りして第二次インティファーダに火を付けた。イスラエル政府はその状況を利用し、狡猾な土地の収奪とパレスチナ住民のゲットー押し込みを推進してきた。シャロンとリクードはこの手口に味を占めて、より過酷なパレスチナ占領を実現するために、けさの卑怯極まりない凶行(車イスの老人をミサイルで殺害する)に出たのだと思う。彼らはネイティブを奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くして作り上げたアメリカ合衆国という国を手本にしているのだろう。

 彼らは知るべきだ、いまや秘かにジェノサイドを行うことなどできなくなっているということを。イスラエルがパレスチナのアラブ人を駆逐するのに比例して、世界中のユダヤ人が危険にさらされるようになることも十分に考えられるということを。そのとき、イスラエルへのカネの還流は止まり、彼らは茫然と立ち尽くすことになる、手に入れたものより失ったものの方がはるかに多いという結果の前に。最悪の場合、ユダヤ人は再び国を失うことになるかもしれない、「慢心」により「知恵」を失ったことの当然の帰結として。(3/22/2004)

 昨日の台湾総統選、前日に不可思議な陳水扁候補銃撃事件があり、どうなるものかと思っていたら、

陳水扁(民進党)  6,471,970(50.11%)
連  戦(国民党)  6,442,452(49.89%)

ということで陳水扁が再選を果たした。前回は国民党内の仲間割れで大敗した連戦はまた負けた。(誰でも言いたくなるさ、「連戦連敗」と)。ただ差はわずか3万票あまり。おまけに33万票もの無効投票があったとかで、連戦陣営はおさまりがつかず、選挙無効の訴えを起こすことにしたらしい。

 興味深いのは総統選の投票率が80.28%にもなったのに、同時に提起された台湾の対中国防衛力強化に関する住民投票の方は投票率が45%と過半数に達せず、成立しなかったということ。中国人はやっぱり賢いようだ。(3/21/2004)

 ポーランドのクワシニエフスキ大統領が昨日行われた記者会見の席上、「イラクの大量破壊兵器に関する情報について我々はだまされた」と不快感を表明した由。2000人を超える派兵をしているにもかかわらず、お目当てのイラク復興事業ビジネスの受注もままならず、アメリカへの渡航者ビザの優遇措置もとられていないことなど、ポーランドには鬱積した不満があるのだろう。もっとも派兵数の半分近くの費用負担はアメリカが行っている以上、ポーランドなど「ツラを貸している」に過ぎない。カネに汚いブッシュ政権ならば、冷遇することなどあたりまえのことなのだろう。

 ポーランドよ、世界の嫌われ者ブッシュの尻を追うのはやめるがいい。古かろうが新しかろうがヨーロッパの国はヨーロッパの中で協調するのが一番。ウソで固めたならず者国家に「新しいヨーロッパ」などと持ち上げてもらってもなんの得にもならぬことは骨の髄までわかったろう。(3/19/2004)

 朝のラジオ「スタンバイ」の月尾嘉男によると日本はロボット先進国の由。2002年の統計では、世界78万台のうち、日本は34万台、およそ45%を占めている。日本の開発研究は産業用ロボット分野だけではなく、アイボやアシモのような直接役には立たない癒し系ロボットの分野にまで至り、そのレベルは世界最先端にあるのだという。癒し系ロボットの研究は欧米ではあまり進んでいない。面白いと思ったのはその先の話。

 月尾はそれを道具ではなくヒトあるいはイキモノを作るのは神の技という宗教に根ざした意識が背後に隠れているのではないかと推測する。日本人には「創造者としての神」という感覚は乏しい。「一方」、と月尾はいう、「日本では心臓移植を含め臓器移植はなかなか症例が増えない。組織の心臓部といえば組織を動かす中心部分のことで他人はあまり入れたくない場所のこと。つまり、他人の心臓を移植したりすれば、何か自分が自分でなくなってしまうような感覚が日本人にはあるのではないか」。ロボット同様、人工心臓などの技術も日本は非常に高いのに比べ欧米はさほどではない。欧米人の感覚では、神の創り給うたヒトの心臓を他のヒトに転用することには抵抗がないが、逆に神の御技を代行しようとする人工心臓には抵抗がある、というわけだ。

 日本人の宗教について考える際には忘れてはならない解明点のような気がする。(3/18/2004)

 田中真紀子の長女が今日発売の週刊文春の出版差し止め請求をして、東京地裁が差し止めの仮処分命令を出した。朝刊の文春の広告コピーには「田中真紀子長女:わずか一年で離婚:母の猛反対を押し切って入籍した新妻はロスからひっそり帰国」とある。こんなことを記事にして飯を喰おうというヤツ、事前にどこからか御注進情報を手に入れて出版の差し止め請求をするセンス、そして裁判所の判断の当否、そういうことを断ずるには当のその記事を読まねばならないことになる。しかし、ぞっとするような不毛性など見たいとは思わぬ。捨ておくにしくはなし。

§

 夕刊からもうひとつ。先週の列車同時爆破テロが発生してまもなく、アスナール首相、自ら、直々に複数の報道機関の社長に電話をかけて「犯人はETAだ」とふれまわった由。

 16日付のバルセロナの日刊紙「エルペリオディコ」(電子版)によると、総選挙の3日前の11日朝に事件が発生した後、日中に首相からの電話がフランコ社長にかかり、「疑うまでもない。ETAの仕業だ」と告げられた。社長はすっかり信じたという。同日夜には2度目の電話があり、首相は再び「ETAが犯人だ」と述べたという。社長は「首相がうそを言うはずはない」と思ったが、翌日付同紙は、結局政府側の見方ではなく、「アルカイダが犯行声明」を1面で大きく報じた。同紙は16日になって経緯をそのまま紹介した。AFP通信によると、他の新聞社の社長も同様の電話を受けたという。

 アスナールはブッシュから教えられていたのだろう、「テロは利用できるぞ、テロが起きたらしめたものだ」とでも。だから嬉しくて仕方がなかったのかもしれぬ。そうでもなければ同じことを二度も電話などするわけがない。コイズミに同じことがあれば、彼もコオドリするのかしら、ちょうど松川事件の発生を聞いた時の増田甲子七のように。(3/17/2004)

 「第十番惑星」というのは少年向けSF小説にはけっこうよく出てきていた。その十番目の惑星が冥王星のさらに外側に見つかったというニュース。付けられた名前はイヌイットの海の神からとって「セドナ」。太陽からの距離は130億キロ(冥王星までの距離の倍)、楕円軌道で最遠点は1300億キロ(本当か?)、公転周期は1万500年。直径が1700キロ。大きくてもせいぜい数百キロ程度の小惑星に比べれば立派な惑星だと思うが、夕刊に載った国立天文台の渡部潤一によれば「冥王星自体が惑星ではないという考え方もあり、・・・(中略)・・・その天体がある空間で突出した存在でない限り、惑星とは呼びがたい」とのこと。

 ポップミュージックにも転用されて聴く機会が多くなったホルストの組曲「惑星」は全7曲の構成。曲順は、「火星」、「金星」、「水星」、「木星」、「土星」、「天王星」、「海王星」。地球がないのは「目は自分が見えない」ことによるものとして、「冥王星」がないのは作曲当時まだ発見されていなかったからというのは有名な話。渡部の話に従えば、この組曲は当分このままで十分だということか。(3/16/2004)

 スペインで昨日選挙があった。選挙前の予想では、好調な経済に支えられて失業率を大幅に改善したこと、バスク独立派を押さえ込むことに成功したことなどから、アスナール率いる国民党政権は安泰ということだった。しかし、結果は、野党:167議席→202議席(うち社会労働党:125議席→164議席)、国民党:183議席→148議席。アスナール政権は記録的な敗北を喫した。事前の世論調査では国民党の勝利は揺るがないという結果だった由。投票率が前回より8パーセント上昇し77.2%に伸びたこととあわせて考えると、先週木曜日に起きた列車同時爆破テロが選挙に影響を与えたことは間違いのないところだ。

 とすると、スペインの選挙民はテロ結果に怯えてイラク派兵をしたアスナール政権に「ノ」を突きつけたという論調がきっと出てくるだろう。何が何でもブッシュ支持で、テロとの戦いを貫くとしている連中は、先回りをして「スペイン国民はテロに屈した弱虫だ、我々はテロには屈しない」と主張するのではないか。(新聞休刊日で、けさは朝刊なし、あしたの読売・サンケイの社説はどう書くか)

 しかし、木曜日の事件発生から日曜の朝までに流れた報道を追いかけてみる限りにおいては、一番蓋然性の高い説明は、「アスナールは何かをごまかそうとしている」という漠然とした疑念を生んだことこそが国民党の大敗につながったということ。テロ直後、アスナール政権は「テロはETAによるもの」と決めつけ国連安保理に非難決議を提出し強引に決議を勝ち取った。一方にテロはアルカイダによるものではないかといういくつかの事実が出てきているにもかかわらず、だ。

 「アスナール政権は真実を伝えようとせず、テロを政治的に利用しようとしている」そういう気持ちが、ここ一年の大量破壊兵器のウソやらイラクを混乱させただけのプア・ブッシュの尻馬に乗るだけのアスナールのうさんくささと一気に重なり合ってしまった、ということもあるだろう。いや、そういう相乗作用でもなくては、事前の世論調査結果とのこの落差は説明しにくい。

 「テロに屈しないためにも」というスローガンは「テロの惨状からテロの持つ心理的政治効果」を最大限に引き出そうとする権力側の「だましのロジック」なのだ。アスナール政権はそのロジックの適用にあたって「テロ犯人銘柄選定」というステップで致命的な間違いを犯してしまったようだ。

 ロシア、大統領選挙の方は、プーチンの圧勝。得票率71.1%。乱暴にいえば、旧ソ連の官僚機構と軍組織がそのまま「民主体制」に横滑りしただけのプーチン体制、その強さは当分揺るがない。(3/15/2004)

 神戸事件の被害者、加害者の親の談話と手記が木曜日の朝刊に載っていた。切り抜いておいたものを読んでみた。

 さきに、引っかかったことから書いておく。少年Aの父母の手記の中から。同様の事実が父、母、どちらの手記にもあるが、ここでは母の手記の方から書き写しておく。

 2002年5月23日(木)仙台に面会に行った時、長男の様子を見て、とっさに判断し、前から胸につかえていた事を聞きました。長男の顔をじっと見て「冤罪という事は、ありえへんの? お母さんは直接あんたの口からはっきり聞かんと、納得できへんネ!」私は泣きながら聞きました。すると長男は、私の眼をじっと見て、涙を浮かべて、下を向きながら「ありえへん」と一言答えました。その時私は、一瞬頭が真っ白になり、スーっと血の気が引いたような気がしましたが、この5年間の胸のつかえが取れ、茫然としていた様な気がします。でも、これで完全に何かふっきれました。これから、長男と三人で一生償っていこうと、固く心に誓いました。

 少年Aの犯行は山下彩花殺害とその前の女児襲撃だけだった。しかし、その事件と土師淳の殺害は一連のものとされてしまった。少年Aにとって自分が陥ってしまった穴はあまりにも大きく深かったと思う。山下彩花を殺害した以上、部分を否定することから生ずる「軋轢」に身をさらすよりは、全体を受容する方が世の中の受けもよい。実際、彼個人にとってみれば、「真実」は何の役にも立ちはしない。そこに落ち着くまでに5年かかったということだろう。両親があえて「冤罪」に関するやりとりを書いたのは、狡く「破綻のないもの」にするよりも「そのまま」を記録しておこうと考えた現れであるような気がする。

 感動したのは山下彩花の母、山下京子のコメントだった。どれほどの深い悲しみとどれほどの煩悶の中から、この言葉が出てきたものか。涙が止まらなかった。その末尾を書き抜いておく。こういう魂を持つ人と同じ時代に生きていることをけっして忘れないために。

 子どもたちがかかわる事件が起こるたびに、子どもを取り巻く最大の環境である私たち大人が、いま一度「自分は何のために生まれてきて、何のために生きているのか」を真剣に問い直さなければならないように感じます。そして行き詰まった死生観を立て直すことや、「子どもの幸せのための教育とは何か」を深く思索していくことが根本的な解決の方途ではないかという感を強めています。
 これからは、「彼が更正した」ということだけに固執するのではなく、むしろ、つらい体験を使命に転換すべく、私自身が社会に深くかかわり、自分なりに社会に貢献することにエネルギーを注いでいきたいと思っています。

 あんな事件が起きなければ、この人はこの賢明さを我が子に注いで神戸の街の一隅に暮らしていたはずだ。そしてその環境のもとに彩花ちゃんは同じ賢明さを持った女性に育ったに違いない。胸がふさがれるような思いがする。しかし、これが人間の生きる世界なのだ。(3/14/2004)

 少年Aは酒鬼薔薇聖斗ではないというわたしの考え方の根拠は3/10/2004に書いた通りです。
 もうひとつ、付け加えるとすれば、山下彩花さんの殺害と土師淳君の殺害を、先入観を棄てて比較してみれば、その「質」が格段に違うことが分かると思います。わずか二カ月の間にこれほどの殺害方法、死体の扱いの違いが、同一の犯人によってなされることは考えにくいのではないでしょうか?
 酒鬼薔薇聖斗の犯行声明は土師淳君の殺害とはつながっていますが、山下彩花さんの殺害とはつながっていません。それをひとつながりの事件にしたのは、もっぱら少年の逮捕後に警察から出された情報によるものであることに留意すべきだと思いますが、いかがでしょうか?

 朝刊から。北海道警察本部長、芦刈勝治が道議会の総務委員会で旭川中央警察署の捜査報償費不正処理に関して、@疑惑の発端となった会計資料のコピーはホンモノ、A精算後報償費が宛先人に支払われていない、B副署長が正規手続きではなく月初めにまとめて捜査活動経費を渡していた、C部外関係者との意見交換や捜査員の慰労激励などに使っていた、などと述べた上で、「不適切な予算執行があった」と証言した由。12月の道議会の時には「不正な経理など一切なかった」と断言していたのだが、当の旭川中央警察署長を務めた原田宏二の証言があって、芦刈勝治もごまかせないと観念したものらしい。

 しかし「不適切な予算執行」とは言いも言ったり。なにが不適切なものか。「不適切」なのではない、「不正」、つまり「犯罪」そのものだ。立派な詐欺、堂々たる公文書偽造、さらに芦刈本部長自ら犯人蔵匿の罪を犯しつつあるのだ。辻元清美、佐藤観樹、彼らは公費を詐取したが、少なくとも政治活動に使った限りにおいては、組織ぐるみで公金をネコババし完全に個人のポケットに突っこんでいる警察官僚に比べれば、罪が軽いというものだ。

 警察庁はこれについて「極めて遺憾」とか「道警と連携し」などと、あたかも北海道警だけの問題であるかのように装っている。片腹痛い。ことが道警だけの犯罪ではなく、全国の警察が横並びに行っている犯罪であり、その犯罪の指導と手引きを警察庁自らが行っていることは、いまや公知の事実だ。奴らは、まだまだ、この詐欺行為を続け、家を建てたい、私腹も肥やしたいと思っているから、「特殊な不祥事」と言い逃れようとしているのだ。なんとまあ図々しい犯罪者たちであることか。

 泥棒に泥棒を取り締まることはできない。もっとも、警察をとり仕切るはずの検察庁自体が、同様の裏金づくりに手を染めていることを三井環が暴いていた。この国の公的機関の腐敗はいまや「底なし沼」の状況にある。(3/13/2004)

 マドリードで列車爆破テロがあったのは昨日のことだった(午前7時半:日本時間の午後3時半)。死者は200人に近く、重軽傷者は1400人を超える。スペイン政府は、犯行をETA(バスク祖国と自由)によるものと発表するとともに、国連安保理にETAを名指しした上で犯行の非難とテロ実行犯とETAへの資金提供者を処罰するための協力を加盟国に呼びかける決議案の採択を強く迫り、安保理はこれを全会一致で採択した。その直後、イギリスのアラビア語新聞社にアルカイダを名乗る犯行声明が届いた。現在のところ、このテロがETAによるものか、アルカイダによるものか、あるいはそれ以外の組織によるものかは不明だ。この日曜日には総選挙がある由。一部には、ETAはこれまで無差別テロを避け、予告つきでの政府要人テロが多かったとして、あまりに早々と「ETAの犯行」と断じたスペイン政府の動きを「不自然だ」とする報道さえある。

 「無差別テロ」が大衆心理の争奪戦である以上、その効果が実行者の狙い通りに現れる保証はない。テロの惨状を目の当たりにした大衆の心理的な揺らぎの中にその成否は漂っている。厄介なことに一度ルビコンを渡ったからといって必ずローマに行き着くことが保証されているわけではない。

 もっと厄介なこともある。それは「無差別テロ」がいつも「テロリスト」によって実行されるとは限らないということだ。ナチスは国会議事堂放火をやってのけたし、松川事件や三鷹事件などは間違いなく現代でいうところの「無差別テロ」であったが、いまでは少なくとも当時「テロリスト組織」として犯人に擬せられた日本共産党の犯行でなかったことだけは分かっている。(3/12/2004)

 船橋洋一が朝刊コラム「日本@世界」で北朝鮮の核転換モデルについて書いている。保有ないしは保有をめざそうとしている北朝鮮をどのように「善導」するかについての論議だ。

 アメリカが自慢している「リビアモデル」、国際社会での住みやすさを強調する「南アフリカモデル」、アメリカの思惑に取り入って保有を認めさせる「パキスタンモデル」、指導者交代による(ちょっと論旨が濁っている)「中国モデル」、サダム・フセイン型の自滅に至る「イラクモデル」、そして独自の路線をとろうとする現「北朝鮮モデル」をあげている。

 船橋洋一はあげるべき三つのモデルを見落としている。ひとつめは、隠し持ち、それに言及させない「イスラエルモデル」。もっともこれはアメリカのフトコロでぬくぬくしようという「パキスタンモデル」の亜種だ。ふたつめは、北朝鮮と同様に庇護国であったソ連崩壊という危機に立ちながら、まったく異なるかつ非常に賢明な道を選択した「キューバモデル」。これは「核保有」の意思を持たなかったのだから議論の外かもしれない。そして船橋の盲点になっているのは「既核保有クラブモデル」だ。アメリカ・ロシア・イギリス・フランス、ちょっと離れてインド。自らの核保有について口をぬぐいつつ、遅れて核保有をめざす国に指図しようするこれらの国々の最大の矛盾について指摘しないのは「現実主義」にありがちな片端な議論だ。(3/11/2004)

 酒鬼薔薇聖斗が仮退院するというニュース。あれほどの衝撃を与えた事件だとしても、報ずる内容がこれほど申し合わせたようにそろうことの薄気味悪さ。なぜ論理的に考えることができないのか、不思議でならない。

  1. 仮退院する「少年A」が酒鬼薔薇聖斗であると思うから、多くの人々は「本当に大丈夫」かと危惧している。
  2. 酒鬼薔薇聖斗の異常性は、土師淳の「頭部を切断し晒したこと」と、挑発的な「犯行宣言文」から構成されている。
  3. 最初から頭部を晒すことを意図した上で、酒鬼薔薇聖斗は頭部を切断している。そのための医学知識・切断技能・行動環境がAND条件で成立しなければならない。
  4. 犯行宣言は読み手である一般人の常識を挑発し苛立たせることにみごとに成功している。その文章力は平均的な中学生が持ち得るものではない。

 少年Aが非凡な中学生だとすれば、4はクリアできるかもしれない。しかし、3の条件はどうしても少年Aにはクリアできない。少年Aが酒鬼薔薇聖斗ではないことは明らかだ。少年Aの犯行はおそらく山下彩花の殺害とその前の傷害事件だろうから、すべての非行少年の更正に深い疑念を持つという人を別にすれば、1は杞憂に過ぎない。(論理的には土師淳の殺害までが彼の犯行だということは成り立つ。しかし、少年Aの犯行の後を受けて、酒鬼薔薇聖斗が死体の損壊から以後のみを行ったという蓋然性は低い)。(3/10/2004)

 鬼のように電話が来る日がある。切っても切ってもすぐに別件の電話に責められると、なにか悪いことでもしたかとぼやきたくなる。最近は電話よりはEメールの比重が大きい。日がな一日、回答メールを書くはめになると、そのうち「あやしうこそものぐるほしけれ」とはこういう心境かと片えくぼ。

 きょうはそういう日だった。といっても仕事ではなくホームページの読者からのメール。一日、せいぜい20程度のアクセスがあったら多い方というくらいの僻地のくせに、きょうに限って9通も。誉められれば悪い気はしない、ありがとうございますくらいの返事はしたい。ありがとうの一行では「有り」「難い」メールにならないから、なんとかかみあう文面を工夫する。誤解だと思えばそれは解きたいし、多少の論議の続きには間髪をおかず応じたい。なに、後ろを見せたくない意地のせいだ。

 歯を食いしばって書き終えて、愛煙家ならここで一服くゆらせて、吐き出した紫煙の行く末見ながら「バカだなァ」とつぶやくところか。つくづく不調法な男と独り笑いながら張り詰めた息をそっと抜く。(3/9/2004)

 鶏の大量死の届け出を遅らせ、鳥インフルエンザ騒動の渦中にある浅田農産の会長夫婦が自殺した。折しも強制捜査が始まる日に。

 この国の風景は変わらない。分岐点に立つといつも「世間並み」を考える。頭の中の「世間」は、最初は、「業界」のこと。「世間並み」はおおむね「業界標準」のことだから、損をかぶることなど最初から選択肢の中にはない。思いの外きつい反応を目の当たりにしてはじめて、もう少し大きい「世間」にぶちあたったことを知る。後手に回ってからのリカバリーは難しい。

 大きい意味の「世間」にしても「リスク(危険)管理」と「危機管理」の区別もつかない。「大変だ」の大声に煽られて自ら激して必要以上の大騒ぎ、成り行きで「世間並み」のハードルをどんどんあげてゆくのだから始末が悪い。死体がふたつも並べば正気を取り戻せるかと思うが、その反動で明らかにすべきことを忘れてしまいはせぬか、こんどはそれが心配になる。

 ついでに書けば「危機」は「crisis」だ。(3/8/2004)


 ビデオにとっておいた「ザ・スクープ」を見る。先週の日曜、放送されたもの。テーマは警察の裏金づくり。昨年11月23日に放送されたものにその後の展開を付加したかたち。捜査費用として支出されているもののかなりの部分と捜査協力者への謝礼とされている捜査報償費のすべてが、実態のないカラ請求・カラ支出であって警察組織の裏金となっているというのがその内容。

 北海道議会での元道警幹部原田宏二の裏金づくり是認証言や静岡県警のカラ出張費返還などのニュースが今週は立て続けにあった。静岡県警は940万ほどのカラ請求を認め、そのうち690万はパソコン購入費、捜査本部への激励費など本来必要なカネだったとして残り250万、これに食糧費と称するカネのうち支出理由の説明ができない100万、計350万を返還すると発表した。警察がこうした不正請求を認めたのは初めてとのことだったが、番組を見る限り静岡県警の対応はより大きなものを隠すオトリではないかと思わせる。

 以下は番組の内容。裏金づくりは警察庁の管理の下に全都道府県の警察で組織的かつシステム的に行われている。警察庁の経理担当者が都道府県警本部の監査室に裏金づくりの指導と管理をしているというのだから、あきれ果ててものも言えない。

 そうして作られた裏金は何に使われるか。まず署長など上級幹部の交際費と慰労費、次に幹部研修費という名のヤミ給与、その額は署長級で月額7〜8万、副署長級で5万、裏金づくりの担当者に時折5千円程度という狡猾な(共犯にするということ)やり方。もっと驚くのは、交際費・慰労費・幹部研修費などを支出した残額はプールされるのだが、この剰余金はなんと一代限り、つまり署長や課長が転任するときには餞別としてもらってゆくのだということ。その額は多いときには1000万〜1500万ぐらいになり、数回転任すれば家が建つと言われているという。

 別に署長に限った話ではない。番組で例に上げた福岡県警の銃器対策課の場合、1998年度の裏金は1,473万にもなるが、これらは当時の課長(島崎憲五)、次長(徳田美行)の管理に任されたらしい。島崎も徳田もカネの受領印を押している。そのカネをどんなメンバーでどのように使ったのか。全国でこのようなポストがどれほどあるものかは分からないが、署長、副署長、本部の課長、次長がすべてこのような役得を当然のものとしているとしたら、その人数と金額は大変なものになる。静岡県警がわざわざ「微罪」を「自首」して「大罪」を隠そうとしているのも頷ける。

 警察庁や都道府県警察本部の幹部のうろたえぶりは滑稽だ。道警本部長の芦刈勝治は昨年12月の道議会で「正規でない文書など見る必要がない」と突っぱねていたが、いまや予算執行調査委員会を設置してなんとかやっているふりだけをしようと大わらわ。昨年、番組スタッフが照会した際に「事実を把握していない」と回答した警察庁も、今回は「イエス・ノーでは答えられない」という微妙な表現の回答をよこしている。少なくとも裏金づくりの存在は「把握」し、その内容について、「二者択一的な答え方」はできないので回答文言を変えた、ということか。

 昨日の朝刊に、小泉首相、小野国家公安委員長を呼び「一日も早くきちんと真相を解明して、不正に対しては厳正に対処するように」と指示、小野は「過ちは率直に認めます。いかにこれから失われた警察の信頼を取り戻すか、全力を尽くします」と答えた旨、報ぜられていたが、小野清子は昨年12月にはこう言っていた、「道警がないと結論づけているので私の方から捜査する気はありません」。こんな体操しか知らないモーロク婆さんに何が期待できるものか。コイズミ内閣の常で、これもただのパフォーマンスなのだ。本当にやる気なら小野清子を馘首にしてもっとやる気のあるヤツを任命しろ!!

 昼のニュースでは秘書給与に関する詐欺容疑で佐藤観樹が逮捕されたと報じていた。警察庁を頂点とするこの「壮大な犯罪」は、犯罪期間の長さ、関与している犯人の数、国民が被った被害の額において、一国会議員の犯罪など、かすんでしまうほど悪質なものだ。(3/7/2004)

 「ザ・スクープ」は、ここで、番組映像を見ることができます。

 昨年11/23の番組は、今回の道警裏金づくりという犯罪が、いかにして露見したかということについて、その発端から見せたもので、なんともすごい内容だった(銃器取り締まり、と、その予算獲得のために、暴力団と組んだ現職「悪徳警部」、彼が暴力団に協力させるために覚醒剤取り引きに手を出したこと、・・・など、恐るべき北海道警の腐敗ぶりを暴いていた)のですが、今は動画配信が停止されています。

 スーパーチューズデーが過ぎ、民主党の大統領候補はケリー上院議員にほぼ決まった。思わぬ盛り上がりと支持率の低下に危機感を覚えたブッシュ陣営、巨費をかけて反撃のテレビCMを流しはじめたのだが、切り札とばかり使った911テロ映像に被害者家族や消防士組合からクレームが付いた由。

 ブッシュのメンタリティーはコイズミに通底する、自分の人気とりのためには死んだ者を薄汚い手でこね回すことも辞さないという点で。自ら血を流さぬ者が戦争に積極的であるということは不思議に思えるが、自分は清潔で照明のよいところにいられる人間で、血で血を洗う現場になど金輪際出ることはないとなれば、戦争ほど面白いものはない。

 ブッシュは自分の娘たちを、コイズミはあの役者を名乗る息子を、ともにイラクの最前線で働かせるべきで、両国の国民はファナティックなナショナリズム・マインドで、このことを彼らに迫るべきなのだ、「それをしてこそ、あなたたちはリーダーとしての資格がある」と主張して。ブッシュも、コイズミも、そのときには、きっと、顧みて他を言うことだろう。(3/6/2004)

 いつぞや長嶋を「天皇」だと書いた日があった。監督、長嶋がどれほどバカな采配を振るおうとも、正面切ってそれを指摘する者がないことに苛立った日のことだった。

 きょうはその感を新たにした。長嶋茂雄が脳卒中で入院というニュースが流れたのは昨日の夜。けさから、スポーツ新聞は当然のこととして、一般紙も、テレビのニュースも、いやNHKのニュースでさえもが長嶋の病状について事細かに報道している。

 良くも悪くもカリスマ性のあった昭和天皇に比べ、今上にはそういうものは感ぜられない。仮に今上が倒れたとしても、きょうの長嶋ほどの報道的扱いを受けるかどうか。選手、長島のファンではあったけれど、ちょっとばかり鼻白む思い。おれはよほどに「天皇」が嫌いらしい。(3/5/2004)

 先日来、秘書給与詐取容疑が報ぜられている民主党の佐藤観樹が議員辞職した由。夕刊にはかつて彼が政治の腐敗について批判的に語ってきた言葉が列挙され、「その時々に発した言葉はいま、自らに向けられている」と結ばれている。中でもいちばん嗤えるのは、「93年11月15日:政治改革問題が国会で論議されている中、国民は政治や行政にまつわる不正の摘発を強く望んでいる」と国家公安委員長として全国警察本部長会議で述べた言葉。「盗人猛々しい」という言葉があるが、それは盗人と知れてからを表す言葉。盗みながらこのようにしゃべる厚顔を評するにはどういえばいいのか。

 辻元清美も、佐藤観樹も、ともに社民党であった。社民党には秘書給与をそのまま一般の政治活動費同等と扱うことを当然の如く考える風土があったのだろう。一方、自民党には秘書給与を家族ないしは一族、つまり家業全般への報酬と考える風土があった故に、勤務実態はどうあれ、秘書給与の授受・転用について明るみに出にくい状況になった。いずれも公金を騙し取っている実態に変わりはないのだが、一方は犯罪となり、一方は倫理の問題にとどまったということ。(3/4/2004)

 朝のラジオ。森田正光によると先月の平均気温は8.5度、真冬日ゼロの暖かい月だった。最近の例では、2月の真冬日ゼロは89年と93年、どちらも冷夏だった由。森田は自分の桜開花予想を20日としながら、気象庁は極端な予想を発表しない傾向にあるので22日と開花予想をするだろうといっていた。(夕方のニュースでは気象庁も20日と発表した。役人気質も改善の方向にある?)。

 面白かったのは都心と八王子の開花日に関する話。かつて両者のあいだには一週間程度の差があったが、ここ最近の傾向ではその差は既になくなりほぼ同時期になっているらしい。理由はヒートアイランド現象による温暖化。ヒートアイランド化は都心も八王子も同じだから開花日のずれはそのまま平行移動するのではと思いきや、桜の開花には「休眠打破」というプロセスが必要なのだという。桜は単に暖かくなるだけではなく、その前に一定の寒さを経験するステップがないと開花しない。都心に比べて八王子は寒暖のメリハリがあるぶん、開花が促進されるのだという説明。

 そうか、三週間ぐらい先にはこの線路沿いの土手にことしも満開の桜を見るのか、あした55歳、退職まで何回、この通勤路の桜を見ることになるのだろうか、など思いながら駅から工場への道を歩いた。(3/3/2004)

 夕刊から。アメリカでの世論調査データ。「世界の指導者がブッシュ大統領を尊敬していると思うか?」、「尊敬している:39%」、「あまり尊敬していない:57%」。「アメリカは世界からどう思われていると思うか?」、「とてもよく思われている:10%」、「ある程度よく思われている:44%」。「世界におけるアメリカの地位については?」、「満足している:47%」、「満足していない:51%」。「国際的な問題を解決するためにアメリカが果たす役割は?」、「指導的な役割:21%」、「主要な役割:53%」。

 この数字をどう見るか。ブッシュが尊敬されていると考えるアメリカ人が、いまなお、10人中4人もいると見るか、それとも個々のアメリカ人の心の中でブッシュへの尊敬が半分以下、四分六にまで低下してしまったと見るか。半分以上、疑われていて、公職が勤まるものかどうか。答えはもう出ている。(3/2/2004)

 金曜日に亡くなった網野善彦への追悼を安丸良夫が夕刊に書いている。ヨーロッパ史の阿部謹也は早くに視野範囲に入ってきたが、網野はちょうど一番仕事が忙しかった頃に出てきたこともあって、なじみになったのは彼がもう十分に有名になった90年代に入ってからだった。最初に読んだのはちくまプリマーブックスの「日本の歴史をよみなおす」。プリマーブックスは高校生ぐらいを対象に専門家が専門分野の面白さを語るというねらいの叢書だった。

 安丸は「歴史学は実証を存立根拠とする学問だから、網野氏はいつも史料と実証を重んじたが、しかしいったん視点を転換させてみると、さまざまの史料は実は網野氏の新しい歴史像をゆたかに根拠づけているように見えてきた。民俗学、考古学、人類学、日本列島以外の諸社会の歴史、また新しく見直された古代史や近世史なども、網野氏の構想をゆたかにした」と書いているが、「日本の歴史をよみなおす」はそういう匂いをふりまいていて無茶苦茶におもしろい本だった。この本を買った翌日、もう「異形の王権」「日本社会と天皇制」を買っていたくらいに。冥福を祈る。(3/1/2004)

 オウムの一連のニュースを見るうち「歎異抄」を思い出した。どういうくだりだったのか、いや、「歎異抄」であったのかどうかもはっきりしなかった。本屋でちょっと立ち読みをしてみた。記憶に引っかかっていたのはその第十三条、以下、梅原の現代訳。

 また、あるとき聖人が、「唯円房よ、おまえは私のいうことを信じるのか」とおっしゃいましたので、「もちろんでございます」とお答え申し上げたところが、「そうか、それじゃ私のこれからいうことに決してそむかないか」と重ねて仰せられたので、つつしんでご承知いたしましたところ、「じゃ、どうか、人を千人殺してくれ。そうしたらおまえは必ず往生することができる」とおっしゃったのであります。そのとき私が、「聖人の仰せですが、私のような人間には、千人はおろか一人だって殺すことができるとは思いません」とお答えしたところ、「それではどうしてさきに、親鸞のいうことに決してそむかないといったのか」とおっしゃいました。そして、「これでおまえはわかるはずである。人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと私がいったら、おまえは直ちに千人殺すことができるはずである。しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺すべき因縁が備わっていないからである。自分の心がよくて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろう」とおっしゃいましたのは、われわれの心が、よいのをよいと思い、悪いのを悪いと思って、善悪の判断にとらわれて、本願の不思議さに助けたまわるということを知らないことを仰せられたのであります。

唯円 「歎異抄」 梅原猛訳

 いろいろな「因縁」を持つ者が共にこの世に生きているとすれば、殺す者がいて殺される者がいることが客観的事実であることもたしかなこと。「宿業」というものが前世からのものかどうかはにわかには信じがたいけれど、人智が及ばない成り行きのあることは認めねばなるまい。とすれば、「我が心の良くて殺さぬには非ず、また害せじと思うとも殺すこともあるべし」と心得ることも必要。それでもなお、いまこの世に「世界」(「浄土」は得難いから)を作ろうとするのは、救済の先を信じることができないからだ。(もっとも第九条にはじつに率直にその懐疑とそれに対する親鸞の答えがあるのだが、我が煩悩は深く、簡単に目は開かれない)(2/29/2004)

 ヤフーBBの顧客登録データ460万人分が流出した由。ソフトバンクは洩れたデータは氏名・住所・電話番号・メールアドレス・申込日の5項目、クレジットカード番号などは洩れていないとしている。しかし、犯行がシステムをハッキングして行われたのではなく、単純に物理的に行われたということは、かえってクレジットカード番号のような致命的なデータが盗まれている可能性の高いことを示している。

 盗みに入った家の箪笥にダイヤと小銭があったとして、小銭しか盗まない泥棒などいないだろう。ソフトバンクはその不自然さについてきちんと説明しない。そのくせ顧客すべてに500円の商品券を配るといっている。お詫びという体裁をとってはいるが、カード番号データ流出に伴う不正請求トラブルの発生に際して、人のいいユーザの目を損害賠償請求からそらすための対策なのだろう。

 派遣社員やアルバイトを使い人件費を安く上げようとすれば、それにより発生するリスクの増大は避けがたい。危なっかしい会社を信用したツケは利用者にも回る。かつては「安かろう悪かろう」といった。いまは「安かろう危なかろう」らしい。それを語る「はやり言葉」がある。「自己責任」。なんともまあ、お手軽な風潮が蔓延しているものだ。(2/28/2004)

 帰りの電車の中で、森達也の「下山事件」を読了。これまでのシモヤマ本のほとんどは仮名やらイニシャル表記だったが、この本では一部を除いて実名(断り書きがない以上実名だと思っていいのだろう、断りなしに仮名を使われているとしたら、それを確かめることはできないのだが)で書かれている。そういうことだけではなく、書き手のパーソナリティがそのまま伝わってきて、この事件について書かれたどの本とも違う読後感。

 帰宅してから森達也の本が他に2冊あることに気がついた。「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」「放送禁止歌」だ。どちらも、いいな、おもしろそうだなと思っただけで買ってきたから、同じ著者だとは気がつかなかった。信頼できる書き手という印象が増して、急に「A」も見てみたくなった。

 その麻原彰晃に一審判決。死刑。号外まで出した新聞社があったらしい。この制度がある以上、麻原の死刑は当然。しかし、目を向けるべきは死刑判決があったことではなくて、「オウム」という現象を生じさせたものにあるはず。(2/27/2004)

 あしたオウムの麻原に対する判決というニュースを見ながら、**(家内)が「麻原はやっぱり俗物なの?」ときいてきた。たぶん俗物なのだろう。しかしそうだとすると必然的に浮かぶ疑問がある。では、いったい、なぜ、そんな俗物に東大、京大、東工大、早稲田、慶応、・・・、錚々たる大学の修士や博士課程を修めた若者が、何人も引っかかったのだろうかということだ。

 養老孟司のベストセラー「バカの壁」には・・・。

 どうして、あんな見るからにインチキな教祖に学生たちが惹かれていくのかがわからなかったのです。
 しかし、竹岡俊樹氏の『「オウム真理教事件」完全解読』(勉誠出版)を読んでようやく納得出来た。
 ・・・(中略)・・・
 彼は、信者や元信者らの修行や「イニシエーション」についての体験談を丹念に読み込みました。その結果、「彼ら(信者)の確信は、麻原が教義として述べている神秘体験を彼らがそのままに追体験できることから来ている」と述べています。つまり、麻原は、ヨガの修行だけをある程度きちんとやって来た。だからこそ修行によって弟子たちの身体に起こる現象について「予言」も出来たし、ある種の「神秘体験」を追体験させることが出来たのだ、と結論付けています。自らの身体と向かい合ったことのない若者にとって、麻原の「予言」は驚異だったことでしょう。
 これを読んで、「何であんな男にあれだけ多くの人がついていったのか」という疑問がようやく解けた気がしました。

 先日のNHK特集では修行道場での集団的なトレーニングの映像に「マインドコントロール」というナレーションをかぶせていた。ああいういかにもわかった風の「説明」で「そうなんだ」と理解してしまうというのは、意地悪くいえば、ある種の「マインドコントロール」を受けているのと同じ。

 人間という存在をしっかり見て、自覚的にきちんと捉え直しをしないと、たやすくメディアの浮薄なマインドコントロールにはまってしまう、いまは、そういう時代だ。(2/26/2004)

 昨日はどうしたのかと思っていたが、やはりサンケイもアナン演説を欣喜雀躍して迎えた。けさの「主張」はこんな具合だ。

 アナン氏はこの演説で、「イラク戦争前にどんな意見を有しようと、平和なイラクが地域と国際社会に適切な地位を再び占めることが、だれにとっても共通の利益になる」と述べた。演説は「イラク戦争の大義」に拘泥する一部の愚かさを戒め、国際社会が一致してイラク復興に協力することを呼びかけている。極めて妥当な見解である。
 この背景には、米英と仏独露がイラク戦争の是非をめぐって対立し、国連安保理が機能不全に陥ってしまった苦渋がある。しかも、フセイン支持の残存勢力が昨年八月に、バグダッドの国連事務所を爆破した。強制力をもたない国連は、米軍が主導する連合軍に頼らざるを得ず、ますます無力感に陥ったといえる。
 ・・・(中略)・・・
 とりわけアナン氏がこの演説で、自衛隊派遣などを「安保理決議の要請にこたえ、イラクに対して称賛されるべき連帯姿勢を示された」と述べたことで、派遣反対論者は大いに困惑したはずである。反対論者による「新決議なしに自衛隊活用を含む支援に取り組むべきでない」との主張が、いかに独り善がりであるかの証明だからだ。

 昨日の読売と同じロジック、虎の威を借る狐の得意満面の笑顔。キツネの笑顔がどういうものかは知らぬが、さぞや卑しかろう。

 もともと今回のアナン訪日は、小泉政権がイラク派兵の「大義」を宣伝するために、原口国連大使に分担金負担率に関する日本国内論議があるといわせ、国連事務局に揺さぶりをかけて実現したものだ。いわば分担金をたてにとってアナンを利用したに過ぎない。

 アナンは、昨年秋の国連総会において、アメリカのイラク攻撃を「国連憲章に対する重大な挑戦」であると、異例といわれる烈しい言葉を使って非難した。一方、アメリカは開戦時にも「国連はいらない」といい、終結を信じた昨年の5月頃には重ねて「国連はいらない」といっていた。そう言い張ってきたアメリカが「国連が必要」と言い始めたのは昨年の夏、自らのイラク占領政策の失敗が歴然としてからのことだ。いまアメリカはいかに石油利権に関する特権を維持しながら雑務を国連に押し付けるかに腐心している。現在、起きていることはアメリカと国連の主導権を巡っての駆け引きだ。アナンが川口に言った「過去のいきさつはいろいろあるが」という言葉はそれをうけての枕詞だ。

 読売とサンケイの論説委員が、記憶力、洞察力、ともに乏しく、ために眼前の事実しか見えず、こうしたことを見落としているのなら素人にも劣る明き盲だということになろうし、知っていながらこんなバカ社説を書いているとしたらまさにキツネなみの狡猾さで読者を欺いていることになる。さて、いずれか。

 どちらの論説委員もバカにも見えるし、詐欺師にも見える、まあどちらでもいい。いつの時代も「もっとも気楽であったのは漢奸だった」ということなのだろうから。(2/25/2004)

 政府の招きで来日中のアナン国連事務総長が国会でスピーチ。イラク、国連改革、北朝鮮、日本の国連貢献について語り、その中で、「日本は安保理決議の要請に応え、窮状に立ち向かうイラクに称賛されるべき連帯姿勢を示した。日本は復興に対し寛大な貢献を表明し、困難な議論をへて人道復興支援を行うためにサマワに自衛隊を派遣した」と述べた由。

 今朝の読売は既にアナンが行った小泉首相や川口外相との懇談を受けて社説にこう書いていた。

 アナン氏は、「過去のいきさつはいろいろあるが、今はイラクをいかに助けていくかだ。そのために、国際的な連帯と国連安全保障理事会の団結が大切だ」とも述べた。当然である。「過去のいきさつ」とは、イラク戦争の是非を巡って、米英と仏独露の間に亀裂が生じ、安保理が機能不全に陥ったことを、念頭に置いた発言だ。民主党は「イラク国民の政府が樹立され、その要請で新国連決議がなされなければ、自衛隊活用を含む支援に取り組むべきではない」と主張してきた。アナン氏が自衛隊派遣を評価したことで、「派遣は憲法違反」と反対している菅代表も大いに困惑したことだろう。

 一読、論旨に巨大な穴が空いていることは誰にもわかる。社説にあげたアナンの言葉だけで「自衛隊派遣を評価した」との結論づけるのは、「だれが考えても消費税しかない」式のホップ・ステップ・ドボンという読売独特の没論理だ。もっとも、昔から、この国では、こういう没論理性がうけるものらしいが。

 一方、国連の有力な支援国である日本での演説ということで、アナンは知恵を絞ったのだろう、かなりぎりぎりのリップサービスをしてくれた。しかし、それでもアナンが日本を賞賛したのは「イラクに対する連帯姿勢を示したこと」であって、自衛隊のイラク派遣については単に事実経過述べただけに留め、「日本のイラク派兵を評価する」とはついに言わなかった。

 アナンがもっと明らかな文言で自衛隊派遣を評価してくれると考えていた読売社説子が落胆したか、それともその微妙な言い回しに、頭脳活動が多少不自由な読売読者ならば、たやすく引っかかると胸をなで下ろしたか、どちらかはわからない。いや、そもそも肥溜めに三段跳びするような社説を書いているような読売の論説委員ども、そんな心配を端から抱くことはなかったかもしれぬが。(2/24/2004)

 週末に麻原彰晃への判決があるからだろう、9時からのNHKスペシャルは「オウム獄中からの手紙」だった。取り上げられた岡崎・端本・広瀬という三人の被告のコントラストには興味を引かれたものの、彼らはなぜオウムに入信したのか、反発した社会と同じものを彼らはオウムの中に見なかったのか、殺人の命令をどのように受け止めたのか、・・・、そういった数限りない疑問に、番組が与えた答えはあまりに通り一遍すぎて、とても納得のゆくものではなかった。

 殺人を命じたのが麻原であり、オウムだったから、彼らは「なぜ、殺人という命令に従ったのか」を問われている。もし、殺人を命じたのが上官であり、国家であったならば、彼らは「なぜ、命令通りに人を殺したのだ」などと問われることはなかった。同様のことをチャップリンは「殺人狂時代」の中でこんなセリフにした。「一人殺せば悪党だが百万人殺せば英雄だ」。

 「教義による救済としての殺人」と「正義をもたらすための戦争」にはどれほどの距離もない。番組が結論とした「閉鎖組織の中で個人の判断を失っていった被告たち」という構図は、そのままの形で現在のこの国の構図でもある。オウムが突きつけた問題はけっして個人の心象風景の中にだけ解消される問題などではない。この番組制作者は鈍感すぎたのだろうか、それとも臆病すぎたのだろうか。(2/22/2004)

 山中定則が亡くなった由。黒枠記事によくある学歴の記述がない。書いて誇るほどのものでなかったからか、政治家としての歩みこそがすべてだと考えていたからか、あるいは他に理由があるのか、わからない。そういえばかつて自民党には「党人派」という言葉があった。官僚出身ではない議員をさし、ユニーク、スケールの大きな人物も少なくはなかった。

 党人派には武勇伝がつきものだった。田中角栄のように学歴がないか、あるとしても官学出身の官僚と比肩しうるほどの学歴を持つ者はたぶんいなかった。だからそのハンディを補うことに全力を尽くした。おそらく官僚派に対抗するために、とことん自分の脳髄をしぼった者もいたことだろう。田中の勉強家ぶりは伝説にさえなっている。宮崎市定は「人間の器量はどれだけ有力な敵と戦ってきたかによって決まる」と書いていた。党人派の存在感のある風貌とそれなりの重みを持った発言、器量はその必然として備わったものかもしれない。

 いまの自民党にも官僚出身ではない議員はいる。だが彼らに「党人派」の面影はない。我が宰相から官房長官、自民党幹事長の顔を思い浮かべてみる。ツルンとした顔つきで人を小馬鹿にしたようなしゃべり方をするくせに人間的な奥行きも器量もみごとなまでに感じさせない。

 宮崎は続けて「この国では秀吉も家康を手懐けたところで天下人になる。広い中国では家康を丸め込んだくらいでは上がりにはならない。だから彼の国の為政者の器量は大きい」というようなことを書いていた。せめて秀吉くらいにはなって欲しいものだが、官僚出身以外の多くは二世議員。踏み台つきのハンデ戦しか経験がないのだから、彼らの存在感、風貌、器量がかくのごとくであり、彼らがなんとも頼りなく見えるのは故のないことではない。(2/21/2004)

 シネシャンテで「ションヤンの酒家」を見る。「山の郵便配達」のフォ・ジェンチイの作品。

 経済発展めざましい中国だけれど人間までが変わってしまうわけではないという話。主人公ションヤンは重慶の屋台街区で鴨の頸を揚げた料理を売り物に酒場をやっている。たぶん自分が美人であることを十分に意識していて、それも店の看板にしている生活力のある女。この映画の脚本家は、「山の郵便配達」に比べれば、かなり大変だ。彼女のおかれた環境、彼女を取り巻く人物、観客に知らせなければならないことが山ほどあるから。

 平板に書き抜けば、彼女には兄が一人、弟が一人、父は家族を棄てて京劇女優と駆け落ちし、母はその前後に小さい弟を残して死んだ。彼女は進学をあきらめて母親がわりをつとめ一家の家計を支えるためにいまの商売をはじめた。バツイチ、流産の経験もある。一家には名望家の匂いがしないでもない。文革の混乱期に「先生」に家(この家を取り戻すことがストーリーの一角をなしている)を提供するだけの余裕があった「うち」などあまり普通とはいいにくい。兄夫婦のやりとりには期待ほどでなかった男に対する嫁の口吻が見て取れるし、弟はミュージシャンをめざすも壁を知るや麻薬に手を出している。それが名流の裔を思わせる。

 ションヤンに比べれば登場する男たちは迫力がない。兄弟に限らず、乗っ取られている家の名義の件でやむを得ず訪ねた父親も影が薄い。登記所の所長にしても難しい話に乗ろうというのに彼女のぎりぎりの立場に乗じようとはしない。だから彼女はやむを得ず弟嫁にもと思っていた子を所長の精神異常の息子の嫁に差し出すことになってしまう。線が細い、「所長」なのに。彼女が心の拠り所とする卓という男ですら、一年も通い詰めて釣り銭のやりとりで手を握る以上の行動にはなかなか出ない。それに比べれば、ションヤンに限らず、女たちはたくましい。兄嫁は株取引に手を出して子供を顧みないようだし、昔の京劇女優は旦那をおいて昼日中から麻雀にうつつを抜かしている。はかなげでけなげに見えた弟の恋人ですら、政略結婚を破綻させて戻ってきて、おなかの子供は産むつもりでいるようだ。

 映像がきれいだ。雨のシーンが多く、それがまた、じつに美しい。展開するストーリーの中のどの部分だか、もう記憶が曖昧になってしまったけれど、手前に長江、平たい運搬船が浮かび、向こう側に朝靄の中の重慶市街が映るシーンなどは、ほとんど水墨画のような美しさだった。

 山場は、やはり、ションヤンと卓との情事なのだろうが、そこだけにクローズアップをしたらこの映画は並みの映画と同じになる。ションヤンを演じている陶紅(タオ・ホン)はいい女だが、卓、これを演じているのがモト冬樹そっくりの男で、どうみてもションヤンが惚れる男には見えない。さらには情事の後の彼らの会話はもうそのまま十年一日の世話話だ。いや、株で大損した兄嫁をスクーターの後ろに乗せて走る兄夫婦の会話だって、スクーターが走り抜ける重慶のめざましい新市街の背景とは完全にミスマッチしている。時代がどれほど変わろうと市井に生きる人間のドラマはさほど変わらない。だからラスト、絵を描かせてくれと頼む若い画家に表情を作ったションヤンが自分の内心に戻るにしたがって徐々に表情を緩めやがて「あーあ」とでもいいたげに微笑む。そのシーンが気っぷがいいがためにかえって男をつかみ損ねる皮肉な巡り合わせにある、この国でもよく見かける酒場の女将を思い出させる。

 でも、それにしても、タオ・ホン、いい女優だ。(2/20/2004)

 夕刊一面にイラン・アザデガン油田の開発権を獲得したニュース。契約内容は総投資額20億ドルの75%を日本の企業連合が負担、2008年夏までに日量15万バレルでスタート2012年には26万バレルまで増産する計画。

 二面にはアメリカのバウチャー国務省報道官のコメント。曰く、「深く懸念している、こうした開発が進展することに失望している」と。ブッシュは他国が中東の石油権益を確保することには常に嫉妬するのだ。ブッシュがイランを悪の枢軸に加えた理由ははっきりしている。イラクの次にはイランに難癖をつけて、またまた押し込み強盗を働くつもりだからだ。

 国際石油開発よ、石油資源開発よ、タケナカに注意しろ。いまのところは国益優先姿勢をとっているコイズミやフクダにも。彼らはアメリカに尻尾を振るためならばなんでもする連中なのだから。(2/19/2004)

 夕刊トップは10〜12月期のGDPが7四半期連続のプラスかつ前期比で1.7%増になり年率換算で7.0%成長、バブル期の90年4〜6月期以来の高い伸び率になったニュース。バブル崩壊以来これで転調といわれつつ金融不安やらITバブル崩壊などで何回か空振りをしたこともあって、マスコミ論調はまだ及び腰で、設備投資と輸出が牽引役となっており家電・通信機器需要は伸びているものの、全業種、中小企業、地方への波及についてはまだなんとも判定できずとして半信半疑気分、景気回復と太鼓判を押す勇気はまだ持てないようだ。

 ただ輸出頼みというとアメリカの景気を気にするというのが常道だったが、じつはきょうの朝刊から始まった「回復は本物か:バブル後3度目の挑戦」と題する特集によると、台湾・香港を含めた中国圏全体への輸出合計額は昨年既に対米輸出額を上回っているとのこと。中国市場はアメリカ市場よりはるかに大きく潜在性に富み漢字圏としての親近感も強い。アメリカの景気に対する関心は、今後、変質するだろう。直接顧客が使うカネとしてのドルから決済通貨としての関心へと。円と元の複合体系をユーロで補完できるならばドルなしだって春は来るのだ。中国に共産党という最大のアンノウンファクターがあることは事実。だが彼らは実利家であって薄汚い陰謀家ではない、アメリカのような。(2/18/2004)

 先週末の平壌での政府間協議、日曜日に首相報告、昨日家族会報告があった由。家族会、「次回政府間協議の早期開催」、「万景峰号などの入港阻止のための特定船舶入港禁止法の成立」、「田中均外務審議官の担当からの排除」を強く主張の由。

 誰も言ってやらないのか、「家族会の皆さん、それほど言うのなら、田中を馘首にした後釜に家族会から代表を担当として送り込んだらどうか。そして北朝鮮との交渉のテーブルに座り、気の済むまで、主張する如くに、強気に、毅然たる姿勢で、直接交渉に当たったらいかがか。何事も、ご自分の手で、ご自分の考えるようになさるのが一番」と。

 金正日が拉致という国家犯罪を認めたということに家族会や救う会の活動はこれっぽっちも寄与していない。彼らの活動はこの国の政府すら動かせなかった。まして北朝鮮政府に痛さも痒さも与えることはできなかった。ムラ気な大衆の気を引くことができるようになったのは彼らの活動の成果ではない。胸に手を当てて虚心に考えてみれば、彼ら自身そのことはよくわかるはずだ。誰でもない、彼らが蛇蝎のように嫌う田中均、その人のはたらきにより金正日が国家犯罪を認めたからこそ実現した、と。

 家族会と救う会は自分たちの無力さを認識し、この事実にきちんと向き合うべきだ。夢を見るようなことばかり言っていても現実という岩は微動だにしない。拉致問題を騒ぎ立てることでマスコミという澱みに泡沫としていつまでも浮かんでいたいというのなら話は別だが。(2/17/2004)

 朝刊の記事。見出し「宮内庁、石原知事に『注意』:天皇陛下への進講内容の公表めぐり」。知事が天皇への進講の際話した内容を記者会見で明らかにしたことに対し、宮内庁が都幹部に「ご進講の内容は公にしないのが慣例で、留意してほしい」と電話で求め、都幹部はこれを了承しホームページから関係部分の記事と動画を削除したとのこと。

 「ご進講」と聞いて、いったい石原に「ご進講」できる「学識」があるのかしらんと思ったが、「ご進講」の内容が「観光振興のため皇居をライトアップさせてほしい」というものだったと知って、ますます混乱した。「ご進講」いつから「陳情」の如きものに化けたものか。それはさておき、皇居は公共物ではないのか。公共物のライトアップなど別にお願いする筋合いのものではなかろう。別に住んでいる建屋のライトアップをさせていただくわけではない。外から概観できる範囲に照明をあてたとてなんのこともあるまい。

 もうひとつ。このこと、石原は報告を受けたのかな。官僚嫌いの石原、さて、「無用の官庁、無能の官僚」の権化たる宮内庁からついたイチャモンにどのように答えたのか、またはどのように答えるのか。はたして慎太郎の官僚嫌いの真贋や如何に、呵々。(2/15/2004)

 小泉はいったいどこまでブッシュをホンモノだと思っているのだろうか。それとも自分の地位が安定であるならば、ブッシュがニセモノであってもかまわないと思っているのだろうか。いやいや、小泉にはまったく別の意図があって、それを達成するための方便としてブッシュを使おうとしているだろうか。そもそも、コイズミはバカなのか? リコウなのか? 悩ましい問題だが、ヒントになりそうなことをひとつ見つけた。

 昨日、東京大空襲のことを書いた後、その東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイのことを思い出して、インターネット検索をかけてみた。この国がかつてルメイに勲一等旭日大綬章を贈ったことは既に知っていたが、これを贈ったときの首相が佐藤栄作で、この授与を強く主張したのが当時防衛庁長官だった小泉純也、小泉純一郎の父、だったとは知らなかった。

 自国民を無差別爆撃の対象とした作戦の指揮官に最上級の勲章を授けるという「屈折した心理」は理解し難いが、そういう家庭に育てば「アメリカ」というだけで思わず尻尾を振る条件反射が身についてしまった「生理」は理解できる。おそらく青年コイズミは父から総理の安住の条件はアメリカの信任がかなり大きいというということを教えられたのだろう。(2/14/2004)

 夕食後、7時半からのNHK「特報首都圏:わたしの東京大空襲」を見ていた。番組の中頃まで見たところで猛烈に腹が立ってきてチャンネルを切り替えた。突然烈しく怒り出したものだから**(家内)も**(息子)もついてゆけないという顔をしていた。

 番組は、3月10日の東京大空襲の日を前にして、その記憶を語ってもらい、絵に描いてもらう試みを取り上げたものだった。父を失った人、母を失った人、兄を失った人、それぞれがその体験を涙を浮かべながら、あるいは淡々と語る。焼夷弾による火炎に炙られ、高温の空気を吸って噎び、瞬間的な酸素不足に昏倒し、折り重なるようにして死んでいった無惨な状景を、身ぶり手ぶりを交えて語る。彼らの悲しみも怒りも想像できるし、深く同情する。

 しかし自分のみを被害者と考え、そう主張するだけの話にしか聞こえなくなったら、そんな記録はどんな意味を持ちうるというのか。一連の空襲によりこの国の都市住民が大量に殺される前に、この国はアジアの各地域でどれほどの住民を殺したことか。殺された記録と殺した記録は両輪をなすべきだ。加害の視点を欠いた記録はただ同じところをクルクル回るだけの自己憐憫にしかならない。(2/13/2004)

 どんどん人嫌いが進行している。

 新宿へ向かう電車、立川に着きドアが開く。アヒルのように重心の低いおばさんの一団が乗り込んできた。来るぞ、来るぞ、来た〜ぁ。「その体躯で自分が座れるなんてどうして思えるんだろ?」というくらいのわずかなスペースにあふれてこぼれんばかりのお尻をねじ込んでくる。そして座るやいなや「そんなにくつろぐなよ」といいたいくらいに筋肉を一気に弛緩させ背もたれまでを独占する。

 いいのだ、所詮、大人は青年の黄昏だ。齢を重ねれば、廉恥心は失われる。それは仕方のないことかもしれない。しかし、だとしたら、隣の席が空いた時、ゆったり座り直すな。座りたかった自分の気持ちが他の人にもあることぐらい慮れ。失った廉恥心の代わりにお互い様の心ぐらい身につけなくて、どうするんだ。(2/12/2004)

 ちょうど百年前の昨日、1904年2月10日こそ、日露戦争の宣戦が布告された日、開戦の日であった。日露戦争の開戦1904年から前の戦争の敗戦1945年まではたった41年に過ぎないが、その間、戦いがなかったのは1906〜1913年、1923〜1926年、1930年の計13年でしかなかった。つまり、第一次大戦からシベリア出兵、山東出兵、満州事変から日中戦争・太平洋戦争と、この国はまるで中毒患者の如く戦争に明け暮れた。

 司馬遼太郎という作家は昭和の戦争をことさら異常と描くために、「坂の上の雲」で日露戦争を好もしく書いて見せた。(この小説だけを読んで日露戦争を語るというバカが最近増えていることを将来のために記録しておこう)。近代日本は日清戦争により戦争の味を覚え、日露戦争によりその体質を定着させた。日露戦争の準備からその遂行までの日本には「小心なまでの『国際的配慮』が格別に目立つ」(児島襄「日露戦争」)ことは事実だ。しかし、小心は詮ずるところ匹夫のものだから慢心に転じがちなものだ。日露戦争を準備した時、既に増長・慢心のタネは胚胎していた。つまり「坂の上」からの転落は約束されていたようなものだった。

 近代日本は明治政府のスタートから三十数年で分岐点を過ぎた。いま現代日本は民主政府のスタートから五十数年を経たところでイラク派兵という分岐点を過ぎようとしている。二度目の分岐点に二十年ほど遅れ、かつ未だ「戦争」への直接コミットでないのは、おそらくは、前の戦争の傷の痛みの大きさの故に相違ない。(2/11/2004)

 朝刊に薬害エイズ帝京大ルート控訴審の公判が停止されそうだという記事が載っている。被告の安部英、かねて治療中の心臓病ほか高齢のせいもあり意思疎通がほとんどできず公判の維持が難しくなったらしい薬害エイズ三裁判中、唯一、一審無罪となった安部だが、被告人がそういう状態であれば公判の停止はやむを得ないだろう、何人に対しても公正さは保証されなければならない。

 しかし、HIV感染の危険を知りながら、私利私欲を優先させてミドリ十字の便宜を図った安部の罪状はけっして軽いものではない。我々は金と権力の維持のために患者を顧みなかった傲慢な医者の好例として安部英という名前を可能な限り長く語り伝える必要がある。そのためにはどうしたらよいか。思いつくのは「清浦雷作賞」の創設とその賞を安部英に与えることだ。

 清浦雷作とは何者か。かの水俣病のおいてチッソを弁護するためにまともな現地調査もすることなく「アミン中毒説」なる奇説を発表し原因の解明を妨害し続けた東工大教授(1998年没)だ。「清浦雷作賞」の創設は、学匪の系列に連なる御用学者の「功績」と「栄誉」を称え、永くその汚辱にまみれた「腐声」を記録し、後世の反面教師とするという提案。清浦雷作こそ、この賞の冠にふさわしいし、安部英はその受賞者として恥じない十分な資格を備えていると思う。

 「清浦雷作賞」の創設には是非ともサンケイ新聞に一役かってもらいたい。清浦雷作はサンケイの「正論」の有力な執筆メンバーだったそうだから。ついでに書けば、「正論」がどの程度に字面通りの「正論」を書いているか、この一事で知れるというものだ。(2/10/2004)

 まるでカンガルー・コートだね、夕刊の記事を読みながらそう思った。英和辞典で「kangaroo court」を引くと「私的裁判、リンチ、つるし上げ」などという言葉が並ぶ。リンチである以上、判決は決まっている。フェアな手続きを踏まず、カンガルーのようにピョンピョン跳びはねる論理で行うので、その名があるものらしい。

 件の記事は、ブッシュが昨夜NBCの政治討論番組に出演して「サダム・フセインは危険な男だった」、「イラクは少なくとも大量破壊兵器を造る能力はあった」、「彼らは戦争中に(大量破壊兵器を)破壊したかもしれないし、外国に持ち出したかもしれない」、「脅威は切迫する前に対処することが肝要だ」、「当時は世界の情報機関がフセインは武器を持っていると思っていた」などと発言したというもの。

 あちらこちらと飛び跳ねる告発理由には呆れるばかりだが、わけてもいちばん嗤えるのは三番目の告発理由。現に戦争をしているにも関わらず、またその情勢が圧倒的に不利であるにも関わらず、大量破壊兵器を持ちながら、その兵器を目前の戦争に使わずに破壊してしまったり、外国に持ち出してしまうような最高指揮官がこの世の中にいるとしたらお目にかかりたいものだ。我々が知っている歴史記録がさほど多くはないとしても、戦争のさなかに非常に有効な殺戮兵器を持ちながら、その兵器を使わないだけではなく、その兵器をわざわざ壊しかつ見つからないように隠匿した上で敗北を迎えたなどという記録は見たことも聞いたこともない。

 ところで、カンガルー・コートの名産地はどこか? テキサス州だそうな。そう、ジョージ・エイプ・ブッシュの出身地だ。(2/9/2004)

 日に一万歩のノルマ達成のため必然的に夕食後の散歩でこれを補う。夜の街を黙々と歩くこちらも多少異常と自嘲するものの、夜陰、無灯火で走り回る自転車の多さもまた異常だ。だいたい八割から九割が無灯火だ。小一時間の散歩に出れば、必ず一回はヒヤリとさせられる。

 点灯していれば曲がり角でも来るぞと注意できる。ライトは自転車に乗る者が前方を見るためだけに点けるのではない。歩行者なり車の運転者が自転車の存在に気付くのに役立つためのものだが、いったい何を惜しんでいるのかライトを点けようとしない。いまどきライトのない自転車などあるまいに、若い男に限らず、中年、初老の区別も、男、女の違いもなく、夜の暗い街角を平然と無灯火で走り回っている。おまえたちには頭がついていないのかと一喝したくなるが声も届かぬ先に自転車は行き過ぎてしまう。

 少しずつ少しずつ腹立ちが蓄積して、最近はこんな妄想にとらわれている。機会があったらすれ違いざまに一歩踏み出してぶつかってやる。多少の衝撃は覚悟、下から上へかち上げてやる、と。(2/8/2004)

 週間ニュースでクウェートに降り立つ陸上自衛隊員の映像を見た。ジャンボ機には「日本国」と大書されている。それで政府専用機と知った。ふと、どれほどの人々がこの映像を見るのだろうと思った。

 日本国民以外で、この映像を見る他国の人々のうち、そのジャンボ機が日本政府の専用機であることに気付く人はどれぐらいいるだろうか。政府専用機、アメリカならば「エア・フォース・ワン」。エア・フォース・ワンから降り立つ軍関係者となれば、相当の高官であるはずだ。あの人たちはきっとただの兵員ではない。エア・フォース・ワンで他国に乗り込む軍人がただの兵員であるわけがない。

 もし、イラクの国内であの映像が「日本が派遣した陸軍メンバーがクウェートに到着しました」というようなアナウンスつきでオンエアされたならば、人々は「Self Defence Army」という少し変わった呼称とエア・フォース・ワンで来たノーブルな軍人に、かなり見当外れな期待と夢を持つことだろう。

 彼らにはとうてい理解できまい、利己的な意図から人身御供になってもらった負い目を解消しようと専用機を自衛隊員に使わせた日本政府高官の病的な精神構造など。(2/7/2004)

 メーリングリストで小林よしのりがSAPIOの最新号に小泉演説の墨子引用について古典犯(こてんぱんの誤変換:どうしてなかなかのセンス、このままにしておく)に書いていると知り、本屋で立ち読みしてみた。

 非攻篇を中心に墨子の戦争技術者としての顔が見える公輸篇、さらには演説が引いた耕柱篇にふれて過不足はない。その上で小泉演説のニセモノぶりを嗤い、左翼は当然として読売新聞やサンケイ新聞などのアメリカ追随の似非保守も一刀のもとに切り捨てている。「よしりん、やるじゃないか」てなものだ。ここまで書くなら、つまらぬ自己宣伝は抑えて公輸篇の末尾のエピソードでしめくくれば、余韻を残して満点だったものを。惜しいのぉ。

 昨日の朝刊の西部邁(「アメリカを問い直す」)といい、小林よしのりといい、アメリカという憑き物を落とせば、似非保守も半眼は開くことができるということ。全盲よりははるかにましだろう。(2/6/2004)

 アーミテージ国務副長官が来ていて、この二、三日、福田官房長官や安倍幹事長、拉致家族会の横田夫妻などと会い、25日から北京で開催される六ヵ国協議では「核問題と拉致問題を同等に取り上げる」と繰り返し言っている由。アメリカがアーミテージの言葉通り、協議のテーブルで拉致問題に言及してくれるかどうか、興味津々、見守ることにしよう。

 昨年の秋、APEC出席の途上立ち寄ったブッシュにイラク無償供与15億ドルというおみやげを持たせたにも関わらず、恩知らずのブッシュは拉致問題について日本の主張の口添えすらしなかった。先日、小泉は国会答弁において「国連は日本を守ってくれないがアメリカは守ってくれる」といったが、たんなる国際会議の場での「口頭支援」すらしない国が、はたして自国の兵士の生命をかけて「武力支援」などするものかしらん。

 東京ではなめらかに回るアメリカの「口」が北京でも同じように回ってくれるものかどうか、「同盟の真偽」を見極めるよい機会だ、さあ、アメリカの口元に注目!!

§

 ・・・と、書いてから、朝刊の船橋洋一「日本@世界」を読んだ。冒頭にこんなことが紹介されている。2日の日本記者クラブでの会見でアーミテージは日米安保に言及した際、その発動の条件となる攻撃対象地域についてことさら「日本の施政の下にある領域(administrative territories)」という語を用いた。そしてアメリカ国務省の東アジア専門家はそれが「尖閣諸島を想定しての発言であること」に注意を促した由。船橋は日中間の領有権問題に対しアメリカが従来の中立的姿勢を改めたとして「アーミテージ・ドクトリンの誕生」と書いていた。

 だが、同様の問題は尖閣諸島に限ったわけではない。竹島について切手の発行問題で日韓の小競り合いがあったのはつい先日のことだ。件の専門家が尖閣諸島をあげながら、あえて竹島をあげなかったのか、船橋が尖閣諸島と中国対応にフォーカスするために竹島の記述を意図的に落としたのか、いずれかはわからない。しかし、もし、尖閣諸島についてのみ語られたとすれば、それがたんなる例示であった故か、それとも、海底資源の存在が指摘されている海域とそうでない海域では、資源に意地汚いアメリカの関心度が極度に異なるが故か、いったいどちらか。(2/5/2004)

 昨日の夕刊はアメリカ政府が大量破壊兵器の存在に関する独立した調査委員会を設置する方向にあると報じた。そして朝刊はイギリス政府が同様の趣旨の独立調査委員会を設置すると伝えている。デビッド・ケイの議会証言の影響が、ブッシュ、ブレア、どちらの政権にとっても無視し得ない深刻なものになりつつあるということ。

 イギリス政府は、開戦前に情報機関が入手したイラク大量破壊兵器の関する機密情報の確度評価とフセイン政権崩壊後も依然として大量破壊兵器が見つからない理由などについて、7月までに報告書をまとめる由。一方、アメリカ政府は大量破壊兵器の北朝鮮やイランなどへの拡散状況なども含めるとして焦点をぼかした上で、期限を大統領選挙投票日後に引っ張ろうとしている。いかにもブッシュらしい猿知恵だ。

 そもそも、ウソを承知でそれを開戦の口実にするような政権、百歩譲って、確信もなしに戦争を始めるような政権が突然賢明になるとか悔い改めるなどということは常識的にはあり得ない。結局のところ、誠実なフリを装おいながら調査に名を借りて、関係資料を秘かに廃棄するか、徹底的に隠蔽するというのが奴らの黒いハラなのだ。(ケネディ暗殺の資料は2039年まで公開を禁じられているが、それは「紛失」のための「いいわけ」を正当化しようとしていると考えられなくもない)

 米英両政府にアドバイスしよう、フリでお茶を濁そうとするのなら、なにをおいても、稀代のフリフリ政府に相談すべきだと。「@まず、俗耳に入りやすいシンプルなフレーズをひとつ用意し、A抱き込みやすいマルチタレントを委員にした調査会を組織します。B調査会の報告はテキトーにあしらい、C後はなにがあってもトートロジーでしか答えないのです。Dできれば、これに権力には常に条件反射的に尻尾をふる新聞を二、三、用意すればいいでしょう。これでほとんどのことは十分こなせます、頭の不自由な国民相手ならば」、コイズミとフクダ、嬉々としてこう答えるだろうよ。(2/4/2004)

 5時前に手洗いに起きた。尿意に遮られたのが残念という夢を見ていた。小便の「しゃぼりしゃぼり」という音から金子光晴の詩を、そしてその詩を教えてくれた山田太一の「飛ぶ夢をしばらく見ない」を思い出した。夢の続きをと念じながら床に戻った。セクシャルではあるが直截的ではない甘美な夢だった。そういえば、そのものズバリという夢、もうこの頃は見ない。

 発生した事故のためにごった返す病院でついたてを隔てて隣りあった女と主人公は言葉で性交する。翌日ちらと見た女は白髪交じりの老婆だった。次に主人公がその女性にあったとき彼女は中年の女性、その次には若い女性、会うごとに若くなってゆく彼女と主人公の中年男はその都度交わり続けやがて・・・という小説。あれは遠ざかるセクシャルなものに対する哀切を表わしていたのか、それにしても「飛ぶ夢」とんと見ないなぁ、などと思ううちにウトウトしたが最前の夢には戻れなかった。本当に残念だった。(2/3/2004)

 土曜出勤があったときは、6日間勤務となったその週より、その次の週の方が辛い。とくに一日休んで出勤する月曜日はいつものブルーマンデー以上にブルーだ。・・・We have a silly holiday, the other day・・・、何色のバラならば、ブルーを脱することができるだろうか。

 イラク派兵に関する衆議院委員会審議で、首相はサマワに地元評議会があるといい外相はないという。挙げ句の果てに首相「そんなことはたいしたことではない」とお得意の科白で開き直った。先遣隊は現地に着いたその日の夕刻に早々と安全宣言FAXを予定稿の如くに書き送ってきた。それでも、いや、それだからこそか、委員会は強行採決、本会議採決は与党多数で事後承認を与えた。自民党で採決に加わらなかったのは、加藤紘一、古賀誠、亀井静香の三名に過ぎなかった。貧すれば鈍とはこのことよ。

 反対した民主党とて、もともと昨年のイラク特措法審議に際して、一番肝心なことに異をたてなかった以上、なにをいまさらという話。イラク特措法への素朴な疑問は何故国会承認を事後でよいとしたかということだ。攻撃を受けた、侵略を受けた、こういう事実に対処するなら、事前承認は実情にあわぬから事後承認やむなし、その理屈は誰でもわかる。しかし、イラク派兵に対して政府はどのように言っているか。「戦争に行くのではない」、「危険な状況下でインフラ再建に携わる」と繰り返している。イラク特措法で規定されている行動はその範囲内のこと、ここには不意に発生した緊急事態、あるいはそれに類する性格は一切ない。十分な事前の調査と準備の下に行えばよいことばかり。どこに事前承認ではなく事後承認でなければならぬ理由がある。民主党は、特措法審議の時、惰眠を貪っていたのか。(2/2/2004)

 あっという間に一月は過ぎ、きょうから二月。あきらかに日脚は伸びて5時を過ぎても明るさは保たれるようになった。

選集にかかりし沙汰や日脚伸ぶ

 きょうから二月と書いて、すぐ後にこの句を書いてはいけないか。では、週中には立春だから・・・。

寒明くる木々の影ある瀬の光

(2/1/2004)

 作夏の東電停電協力要請休業の振替出勤日。いつもより格段に出勤率が悪いような気がする。

 ついにブッシュまでもが大量破壊兵器の存在について「わたしも事実を知りたい」などと言い始めた。辞職した大量破壊兵器調査団長自らが、議会で「大量破壊兵器はイラクにはなかった」と証言し、拘束されてから1ヶ月以上も経つのに元大統領からはいっこうに大量破壊兵器の存在を裏付ける供述を得ることもできないとあっては、選挙を控えて予防線を張らなくてはならなくなったものらしい。

 改選後のアメリカ軍の戦死者はもう数百人のオーダーにのっている由。米語では「犬死」はなんというのだろう?(1/31/2004)

 デビット・ケイ前調査団長の議会証言報道を受けた小泉や福田のトンチンカンな応答がおかしい。

 「大量破壊兵器はなかったという証言が出ているが」と問われた小泉、「ないとは断言できないでしょう」とか「イラクは過去、大量破壊兵器を使用していた。持っていないことを立証せよという国連決議を無視してきた。そういうことからフセイン政権が大量破壊兵器を持っていても不思議ではないと考えるのは自然なことだ」などと答えた由。

 なるほど「なぜ、フセインはないことの立証に非協力的であったのか」ということは誰でもが疑問に思うことだ。廃棄したのならそのことを積極的にアピールすればよかったはずだと誰しもそう思うだろう。しかし、この疑問に対する答えとしてこんなことも考え得る。

 イラクが大量破壊兵器のひとつ毒ガスを実際に使用したのはイラン・イラク戦争と国内のクルド人虐殺のときだ。とくに後者は国内反フセイン勢力に対する威嚇として大きな効果をもたらしていた。ここで一昨年から昨年の段階で既にフセイン政権の国内掌握力が落ちてきていたと仮定してみる。毒ガス廃棄の明確化は国際的には国連協調として歓迎されるだろうが、国内的には政権の不安定化を促進することにつながってしまう。大量破壊兵器が「ない」ことを明確にするよりは、その有無をグレイにしておく方がよい、コイズミ風にいえば、フセインがそう考えることは「不思議ではないと考えるのは自然なこと」かもしれない。

 昨年の春、フセイン政権は抵抗らしい抵抗もせずに崩壊した。小泉のいうように大量破壊兵器をどこかに隠し持ちながらそれを使うこともせずに崩壊したと考えることに比べれば、既にフセイン政権は統治能力を失いつつあったが故に大量破壊兵器に関する国連査察に非協力的であったとする方が、はるかに実際に起きた政権崩壊状況を「不思議ではなく」、「自然に」説明できそうな気がする。(1/30/2004)

 朝の武蔵野線、貨物列車の車輌故障とやらで54分の遅れ。おかげで通勤時間は90分、久しぶりに「遅刻」を経験した。それにしても新小平から西国分寺までは長かった。混み合う車輌、こちらは柳に風を決め込んでいても、そうはゆかない人もいる。困ったのは前後にいささか意識過剰の男女がいたこと。こちらはただ受動的に押されたように動き、押し返されたように動いているだけなのだが、あたかもこちらが震源地であるかのように誤解して反応するから処置ない。個性的なふたりの間にはさまれ、双方の「意地の力」を忠実に伝えながら、理想気体の状態方程式のことを考えていた。

 あれは高校の物理の時間、正規の単元が終った学年末のエクストラ授業といった感じの時だった。だがそれは高校三年間の授業の中で一番印象に残る授業だった。気体分子一つ一つの自由運動を統計的に扱うことにより化学で習った PV=nRT が導出された。ミクロな考察からマクロな現象記述への鮮やかな展開は心地よい快感以外のなにものでもなかった。

 車内で揺られる個々人の思いとは別に、総和として車体が受ける圧力は結果的には乗り合わせている人の数によって決定するのだろう。そんな想像はちょうど人々の生活が一人一人の意識とは無関係に統計的総和としてマクロな社会を動かしてゆく別の力学に転換してゆくという類推につながって、しばし、混雑した車内の鬱陶しさと退屈を忘れさせてくれた。(1/29/2004)

 朝刊から。

 「国連は日本に危機が及んだ時、支援の手は差し伸べない」。小泉首相は27日の衆院予算委員会で、米国との同盟関係を重視する理由として、現在の国連が役立たずだからという、こんな論旨を展開した。イラクへの自衛隊派遣問題をめぐり、民主党の生方幸夫氏が「首相は米国に余りに肩入れし過ぎている」と批判したことに答えた。
 首相は「現実的に日本に危機が起きた時、国連は国連軍を投じて日本の侵略を防いでくれることはない」「日本は安保理理事国でもない。日本は一国で平和と安全を確保できない。どうやって確保するかということで、日米安保条約を通じて同盟を結んでいる」などと日米同盟を重視する理由を強調した。

 国連に対する小泉の指摘の半分は正しい。しかし、アメリカが日本への侵略を防いでくれるかどうかは、その時のシチュエーションによって異なる。自国の利益に関係しない状況下で自国の兵を動かそうという国は世界中に一国たりともない。そして合衆国もその例外であり得るわけはない。

 一方、アメリカの信頼性をよいものに見せかけているのはコイズミのような無能なリーダーに率いられた一部の国々が複合的でしなやかな国連の反発力を減殺した結果にすぎない。

 剛性の高い単一の材料に寄りかかる危険性について考慮をしないのは能力の低い初歩的な設計者が犯しがちな誤りだ。賢明で熟達した設計者はそんな選択はしないものだ。(1/28/2004)

 昨日の続き。しかし、それにしても、だ。この国はいったいどこまで堕ちるのだろうか。

 東京新聞のサイトの「私説・論説室から」で先週の施政方針演説が孟子と墨子の言葉を引用したというくだりを読むまでは、演説が孟子の言葉ではじめられ墨子の言葉で締めくくられたとは知らなかった。そのことのおかしさを指摘する声も聞かなかったからだ。

 小泉が無教養であることなど言うも更なることではあるが、いやしくも一国の宰相の施政方針演説ともなればそれなりの者がまとめ、宰相だけではなく、複数の顕官がそれなりに目を通し朱を入れるものだろう。怪しまれることなく犬猿の言葉を同一の考えを述べるための材料として並べて採った。これがどれほど恥ずかしいことか気付く者も、指摘する者もいないとは。

 墨子を単なる世界史の暗記アイテムから興味の対象に引き上げてくれたのは酒見賢一の「墨攻」だった。だからたいしたことは知らない。しかし、墨子に興味を持てばすぐに分かることがある。それは韓非子が「世の顕学は儒墨なり」と書いたことから知れるように、かつては墨子の学派が孔子の儒学と並ぶ有力なものだったこと、そしておそらくは顕学のチャンピオンの座を儒学と争い・敗れ・長く忘れ去られるに至ったこと、その二点だ。墨子の思想を知ろうとすれば、自動的に「墨子」と「孟子」がそれぞれの相手に対して行った痛烈な批判が目に入る仕掛けになっている。両者とも相手を許容する余地はまったくなかった。そういう関係だからこそ、漢代になり儒学が国教となるや墨家は記録にさえ留められないという扱いを受け、二千年近くも顧みられることなく放置されたのだった。

 施政方針演説がその中味として孟子の言葉と固く結びつき、あるいは墨子の言葉と不可分の関係を持っていたのならやむを得ない。しかし、あのうじゃじゃけた演説にはそのような必然性はかけらとてない。たんに修辞上のことならば、吉良上野介の言葉ではじめ、浅野内匠頭の言葉で締めくくることはない。かえって演説の信頼性を損なうだけのことだ。よしや嗤いをとりたいの一念ならば、話は別になるが。

 なんとまあ、お粗末な政府か。そして、なんとまあ、無学にして、迂闊な宰相であることか。おい、コイズミ、おまえの下僚はひょっとすると面従腹背の徒かもしれぬぞ。奴らは腹の中で嗤っているのだ、丸投げ・丸呑みのバカ宰相を。気をつけぬとたやすく一服盛られるぞ、呵々。(1/27/2004)

 昨日の東京新聞「私説・論説室から」はこんな書き出しだった。「小泉純一郎首相の教養の深さには感服させられる。先の施政方針演説では、現代日本人が忘れがちな古代中国の孟子や墨子の文章を引用して、自らの決意を披露した」。

 施政方針演説の舞台裏については、翌日、朝日新聞が「首相周辺は『首相から(名誉)という言葉について調べろ』と言われた」と報じていて、先刻承知だったから「小泉に教養がある」など持ち上げすぎと思って読み進んだ。だが東京新聞は意地が悪かった。

 だが、これは少し気にかかる。墨子の文章をそういう目的に使うのは、筋違いではないか。民主党の菅直人代表も「墨子は非戦の主張をしており、首相とは基本的な思想が真反対だ」と批判した。
 その通りである。墨子の思想の核心を成すのは、兼愛(博愛主義)と非攻(侵略戦争反対)なのである。
墨子は「非攻上篇(へん)」と「非攻下篇」で、権力者(王公・大人)の都合で行われる戦争によって、国民がいかに苦難を被らされるか、徹底的に描き出した。
 イラクへの自衛隊派遣は、先制攻撃を旨とする米ブッシュ政権に同調した結果だ。墨子の思想とは相いれないのではないか。
 同じ墨子なら、「若(も)し中(うち)に師を興さしめば…則(すなわ)ち是(こ)れ国家は率を失い」(「非攻下篇」)という言葉をかみしめたい。つまり、軍事行動を起こそうとすれば、国家は秩序を失う、ということだ。
 現在の日本では、自衛隊派遣をめぐって国論が深刻な分裂状態にある。墨子の言葉は、鮮やかに本質を突いているのではないか。

 イラク派兵の根拠に憲法の前文を用いたのは、反対者の論拠を借用することに快感を覚えているととれぬでもなかったが、墨子は憲法ほどには有名ではないからカウンター作用はあまり期待できまい。ここはむしろ小泉は墨子についてあまり知らなかったと考える方が自然だろう。それどころか我が宰相には諸子百家といわず儒教に関する基本的知識すらほとんどないということが透けて見えてしまった。「なんかカッコイイ言葉を探してくれ」など、小泉の面目が躍如としている。彼にとっては先人の知恵などただのアクセサリーでしかないらしい。(1/26/2004)

 イラクで大量破壊兵器の探索にあたっていたデビッド・ケイが調査団長を辞任、後任にチャールズ・ドルファー元UNSCOM副委員長が就任というニュース。辞任したデビッド・ケイはロイター通信の取材に対し、「イラクに生物・化学兵器の大規模な備蓄はない、90年代に大規模な生物・化学兵器の生産計画があったとは思わない」などと言明した由。毎日、読売、サンケイは箇条書きにしたりベタ記事の中に埋め込んでいるが、朝日にはロイターとケイの一問一答が載っていてなかなか生々しい。しかし、もっと痛烈なのは毎日に載っているカーネギー国際平和研究所のジョゼフ・シリンシオーネ研究部長の話だ。書き写しておく。

 (ロイター通信に)イラクに大量破壊兵器の大規模な備蓄は存在しなかったと明言したケイ氏の発言は、今週、ブッシュ大統領らが(一般教書演説などで)述べた、兵器関連プログラムは存在したとの主張と矛盾する内容だ。ケイ氏が辞任を決めただけでなく、こうした発言までしたのは、うんざりしたからではないか。大統領はケイ報告を援用しイラク戦争を正当化してきた。そこで、間違いを正そうとしたのだ。イラクでの調査報告書の作成を始めたケイ氏に、国家安全保障会議の担当者から、ブッシュ政権の主張を支えるような内容にするよう、非常に強い圧力がかかったことを私は知っている。これが辞任の一因ではないか。私はケイ氏を何年もよく知っているし、開戦前にはイラクの大量破壊兵器について議論もした。当時彼は、存在を確信していた。だが、何も見つからず、彼と米政府の誤りが明らかになった。彼にはそれを認める誠実さと勇気があった。大統領も見習うべきだ。米国は、間違いを犯したのだ。いまや、(イラク)戦争の最大の根拠が事実ではなかったことが疑いもなく明らかになった。これまでも、大量破壊兵器の存在を疑う指摘は多かった。ブッシュ政権は、ケイ氏の今回の発言で、兵器の脅威を排除するため戦争は正当化されるとの主張を継続できなくなった。政権は今後、イラクの解放や(フセイン政権による国民の)虐殺、世界の安定化といったことに話題をそらすだろう。
毎日新聞から

 デビッド・ケイが誠実さと勇気を発揮したのは、おそらく、歴史の中に自分がどのように書き留められるかを意識したからだろう。自分の誤りが国全体を誤らせたといわれるのは辛いことだが、それ以上に事実の前に立っても不誠実であったと後の史書に書かれるのはもっと辛いことだから。

 小泉も石破も先遣隊を送る演説の中で歴史を持ち出していたようだが、現在の自分の釈明に利用することに汲々として、それほど遠からぬ将来、自分たちがどのように史書に嘲られるかについてはまったく考えが及ばなかったのだろう、可哀想に。

 大量破壊兵器という大義のメッキがこれほど早く剥がれてきたこの時期、その下手人の求めに応じて唯々諾々と派兵をする間の悪さ、愚鈍さには目も当てられぬ。

§

 朝刊の「14連勝、批判も押し出し」の見出しに笑った。そして結びの一番、栃東はなすところなくじつにあっさりと土俵をわった。全勝優勝は96年秋場所、貴乃花以来、7年4カ月ぶりとのこと。(1/25/2004)

 NHKの週間ニュースを見ていたら「この家はニワトリを 4 ヒキ飼っており」というアナウンスがあった。アナウンサーではなく取材記者だとしても、NHKにしてこれでは、もはや日本語の乱れなど言うも愚かと思い知った。

 箪笥をどのように数えるものか、船舶と小舟を数えるにどのように単位呼称を使い分けるか、もう、そこまでは求めない。兎を一匹、二匹と勘定しても、それくらいは許そう。だが鶏を「ヒキ」と勘定するのは「この家は 4 ヒキ家族で」というに等しい。

 NHKよ、もし、採用にあたって、言葉に鈍感な愚か者が混じることが避けがたいとしたら、せめて、そういう半端者を外に見えるところには出すな。それが改善できないなら聴取料の支払いを拒否する。

 ・・・と、ここまで書いて、そうか、空を飛ぶ生き物は「羽」と数えるが、大地を離れ得ぬものは「匹」とするか。そう考えれば「兎が一匹」は正しいことにできる。そのルールによれば、駝鳥は「一羽」ではなく「一匹」ということになろう(いや、もとから「一頭」かしらん)。しかし、人間まで「一匹」は業腹だ。うん、大地を離れ得ず、かつ二足歩行する生き物は「人」とするのだ。だが、そうすると「鶏が一人」ということになってしまうから、四肢をもちながら二足歩行するものを「人」とすればよい。いや、そうすると「カンガルーが一人」になるか。うーん、「カンガルー」状態だ。

 NHKの「匹夫」も、休みの朝の退屈しのぎにはそれなりのはたらきをしてくれた、感謝しよう。(1/24/2004)

 朝のスタンバイ世論調査は「朝青龍は横綱にふさわしいか」。「支持率」は50%ちょっと。残りは3対2で「不支持」と「どちらとも言えない」。一番笑ったのは「モンゴルから来て数年ですよ、この国に生まれ育った青年が成人式で暴れるご時世ですもの、そんなに簡単に横綱の品格がそなわるものですか」。

 仰るとおり。「相撲は国技」などと僭称し、「横綱は別格」などという神話を捏造するから、「品格」などという自縄自縛に堕ちると嗤っていたのはこちらの不明。半時間のセレモニーにも耐えられない若者、コンパニオンつき宴会旅行を公費でまかなう消防署幹部、学歴を詐称して恥じぬ議員、等々。なればこそ「鑑としての横綱」といってみたところで裾野が小さく、低くては高い頂を望むことなど適うはずもない。(1/23/2004)

 「内閣官房官邸メール担当」というところからこんなメールが来た。

 小泉総理大臣あてにメールをお送りいただきありがとうございました。いただいたご意見等は、今後の政策立案や執務上の参考とさせていただきます。皆様から非常にたくさんのメールをいただいておりますが、内閣官房の職員がご意見等を整理し、総理大臣に報告します。あわせて外務省、内閣官房安全保障危機管理担当、内閣府、防衛庁へも送付します。今後とも、メールを送信される場合は官邸ホームページの「ご意見募集」からお願いします。

 投書をしたのはこんどがはじめてではないがコンファームをもらったのははじめて。もともと腹立ちまぎれ、からかい半分にする投書だから、かつてなにに関してどのような内容の投書をしたかは憶えていない。しかし、こんどのものに限って提言にあたるとして、文面通り「外務省、内閣官房安全保障危機管理担当、内閣府、防衛庁」にも回送されたものだとすると、これはどのように考えたらよいか。

 思いつく可能性はふたつ。ひとつは受信した「意見メール」からキーワードを抽出し、その内容によって関係先に自動回送するシステムでも新しく導入され、それが動作したものか、いまひとつはきちんと読み取った上で担当官の判断によって然るべき関係先に回送したか、そういうことぐらい。

 おそらく前者と想像するものの、もし、後者だとすると・・・、そう考えて、背筋が寒くなった。別に本名を明示しての投書に後難を恐れたわけではない。あの文面を真摯な提言と誤読する担当官がいるという想像に戦慄したのだ。

 「あれは小泉内閣の愚かさに対する皮肉の表現であって、けっして心からの提言などではありません」と一報したくなった。スウィフトの「貧民の子女を有用ならしむる方法についての私案」を一読し、真に受ける者はおるまい。しかし、憲法前文をイラク派兵の根拠に適用するような我が政権の中には、このような誤読をする者がいるのかもしれぬ。さすれば、怖い、本当に怖い話だ。(1/22/2004)

 1/17の記事をそのまま、小泉メルマガのご意見欄に転載したのです。(転載時に、少し、修正をした関係で、先週、20日に、禁を破って、ほんの一部、内容を書き換えました。変更履歴には書いておきましたが)

 ブッシュの一般教書演説のニュースを見ながら、「マイ・フェア・レディ」にあったナンバーを思い出していた。「Without You(あなたなしでも)」という歌だ。ヒギンズ教授と口論の末に家を飛び出し教授の母親の家に転がり込んだイライザは迎えに来たヒギンズに向ってこう歌う、「あなたなしでも春は来るし、あなたなしでも世界は動く」と。

 うまくもないハンバーガー、骨を脆くするだけのコーク、無意味に浪費するエネルギー、・・・。ありとあらゆるものを金銭価値に変換しようとするコマーシャリズム、それは手に触れるものをすべて金にして欲しいと願ったミダス王の狂信ととてもよく似ている。それでもまだこれぐらいは許容範囲だった。

 アメリカに「独善的」という形容詞をつけることが多い。しかし、ブッシュのアメリカは「独善」ですらない。奴らがいうところのならず者国家そのものか、狡猾な陰謀国家だ。押し隠した手前勝手な目的のために「テロとの戦い」なる実態のない仮想戦を創り出し、荒唐無稽な西部劇を演出している。テロリストとはいった誰のことだ。なぜビンラディンなる男一人捕まえられないのだ。捕まえる気がないのか、捕まえる能力がないのか、それとも、捕まえられない幽霊なのか。自作自演のテロリスト劇に世界はもう飽き飽きしている。舞台裏はとっくにバレている。バカな芝居はもうやめろ。

 それでもアメリカがブッシュという不正を正せないのなら、世界はこっそりと準備すればいい。合衆国からは買わない、合衆国には投資もしない、合衆国には儲けさせてもやらない、合衆国などなくても暮らしてゆけるように。ひそかに、ゆっくりでいいから、できることから着実に、「Without U.S.A.」をめざして。(1/21/2004)

 寒い朝の楽しみは電車から見る富士。池袋線では東久留米に着く手前、黒目川の上がビューポイントだったが、中央線では日野手前の多摩川の上。数年前までは、立川を出て切り通しを抜けるとすぐ、息をのむような白雪と青空のコントラストで、思いのほか大きい富士が迫るように見えたものだったが、いまは新しく建った高層マンションに遮られ鉄橋にさしかかるまでは見えない。見られる時間が短くなったせいか、少しばかりインパクトも小さくなってしまった。

 別にこの季節だけ見えるわけではない。確率は低くなるが夏にも見える日のあることは知っている。だが夏の富士は前景の山にとけ込んで際立った印象を与えない。ヌボッと黒いままのふつうの山でしかない。白い角隠しをつけてはじめて富士は富士になる。だから、風が強ければ強いほど、冷え込みがきつければきついほど、それを補うだけの鮮やかさをもち、「真白き富士の嶺」は冬の朝の楽しみとなる。(1/20/2004)

 笑い話のようなニュースを夕刊から。先月、兵庫の三木市での話。

 聾者が「カネを出せ、ヤクザが刺しに来るぞ」と脅され600万円を恐喝された。犯人が手話を使えたのも道理、犯人も聾者だったから。

 聾者には聾者が嗅ぎ分けられるのだろうか。刃物などを使わぬ限り、手話で健常者を脅せるとは思うまい。それとも悪事に及ぶとき、その不合理を忘れる、あの心理が働いたものか。

 つくづく思う、人間とは類の中で社会を構成する動物だと。コイズミがブッシュと通ずるのはその故か。(1/19/2004)

 先週火曜日、清水の中学校で風にあおられたサッカーゴールが倒れ、下敷きになった生徒が亡くなる事故があった。その中学の校長が首つり自殺をしたというニュース。見つかった数通の遺書では事故の責任を詫びている由。58歳、定年退職、自適の生活も間近という歳。なんということだ。

 この程度のことで心理的に追いつめられて自殺するとはいかにもナイーブすぎる。世の中にはもっと多数の死にもっと直接的責任を持ちながら、のうのうと存え、恬として恥じることのなかった者が幾人もいるのに。

 死者との距離の近さ・遠さが分けたものか、それとも地位に伴う責任意識の高さ・低さが分けたものか。地位の高い者ほど責任意識が低いというのがこの国の通例だ。いや、そういうことは、よその国でも、いつの時代でも変わらないことかもしれないが。(1/18/2004)

 週刊新潮の見出しに「隊員のイラク市民殺害で小泉政権崩壊」。なかなかのセンスではないか。たまにはイエロージャーナリズムでもシングル・ヒットくらいなら打てるものらしい。

 必ず起きることではないが、政府が恐れるべきは「自衛隊員に死者が出る」ことではなく、「自衛隊員がイラク人を誤殺する」ことという指摘は正しい。

 読売は元日の社説に「現在のイラク情勢を見れば、新たな犠牲者が生じる可能性は否定できない。その時こそ、真に『日本』が試される。おそらく、反軍・反戦ポピュリズム的勢力が、ここぞとばかり、派遣自衛隊の撤収を叫ぶだろう」と書いた。保険でもかけるように「先見の明」を誇ろうとする読売論説委員の卑しい下心が見え見えではないか。新年早々じつに不快だったが、それはさておき、政府の覚悟もこの程度まではできていよう。小泉などしれっとして「痛恨の極みであるが国際貢献のための貴い犠牲者だ。死者が出たからといってここで撤兵するわけにはゆかない。そのようなことをすればテロに屈することになるばかりか我が国は世界の笑いものになる」と言うだろう。奥や井ノ上の死を奇貨として「ご両人のご遺志」と強弁、開き直ったあのシナリオでゆける、おそらくそれが彼らの現在の心づもりだ。

 だが自衛隊員がイラク人を誤殺する事態が起きればどうなるか。アメリカ・イギリス、轡を並べるオランダは口占をあわせてくれるとして、シチュエーションによってはイラク現地の空気は一変するだろう。日本国民を誑し込めてもイラク国民まで誑し込む技量が小泉やその政府にあろうとは思えぬ。しかし、大海を知らぬ読売読者の眼にも「ポピュリズム・コーゲキ(口撃)」の稚拙さは瞬時に知れよう。では、その事態にどう対するか。政府や読売・サンケイの如きそのお先棒を担ぎどもにアイデアがないとしたら対処法を教えてあげよう。

 イラク開戦時に大量破壊兵器の脅威を大声で語っていた人々がいまやどのようにしているか。あれを見習うしかあるまい。知らぬ顔のハンベエをきめこむのだ、遠い国の見知らぬ人の死については知らぬと嘯いて。その姿勢が「国際貢献」やら「イラク復興」やらの美名を弁じたてた自分たちのこれまでの主張をどれほど裏切るものかなど斟酌することはない。もとより「国際貢献」も「イラク復興」も謀って作った口実に過ぎないことは自分たち自身がよく知っていることなのだから。図々しく居直れば、たいがいのことはやり過ごせるもの。そう腹をくくったら、後はひたすら我が自衛隊にもサマワのイラク住民にも死者の出ぬことを祈ることだ。(1/17/2004)

 陸上自衛隊のイラク先遣隊を送るニュースを見ながら「精神分裂病」のことを思い出していた。かつて「精神分裂病」と呼ばれた病気はいまは「統合失調症」と呼ばれている。患者の書くもの、話し口、・・・、それらは、単独に取り上げると異常を感じることは少ないのだそうだ。ただ全体を通すとそのすきまからサラサラと現実が滑り落ちてゆく。

 小泉と石破のスピーチは、不思議と、この病気のこの徴候を思い出させる。

 まばたきをせずにいかにももっともらしいしゃべり方をしながら、石破の演説にはどこか人格的統一性が希薄な感じがつきまとってはなれない。石破に比べれば、小泉は人間的距離感の異常さは感じられないが、論理的問いかけに対して自己の殻から出ようとしない幼児性が際立っているので、ちょっとした演説でも自己陶酔が目立ち、ジュンチャン・ユーゲントでもない限り、聞くには耐えない。

 つまり、ちょっと異常な感じ、どこがどのように異常なのかははっきりとしないが、でも普通じゃない感じ、それが小泉と石破には共通している。だから彼らの言葉を書き文字にすれば文字面はそれなりでも、真実味を決定的に欠いているという点で、彼らの像までもが「空疎」になってしまう。(1/16/2004)

 昨日の参院選に対する一票の格差判決の結果のみ記録しておく。

合憲:町田・金谷・北川・亀山・横尾・上田・藤田・甲斐中・島田
    (放置すれば違憲とするもの:亀山・横尾・藤田・甲斐中)
違憲:福田・梶谷・深沢・浜田・滝井・泉

 やはり、町田は×だった。適格性審査に関して投ぜられる票はかなり質の高い票が含まれると見るべきなのかもしれぬ。(1/15/2004)

 朝、正門からグリーンコースを歩く人の会話。「新人かい、警務」、「ああ、先週からかな、身分証明書、見せろって追っかけてきた」、もとは工場の警務は特務職掌という範疇で賃金体系の格付けも別にあった。最近はアウトソーシングされているから社員ではない。だから必ずしも新メンバーが新年度からとは限らないらしい。「まだ、顔、知らないんだ」、「追っかけてきて、身分証明書、見せろはないだろう」。

 顔パスが通らなかったことが我慢できぬという口ぶりが可笑しい。遠くから身分証明書をかざすなどというこんな牧歌的な儀式を会社がセキュリティチェックと考えているのなら、せいぜい協力してあげればよい。それでも顔パスにプライドをかけたいなら、こちらも向こうの名前くらい憶えなくちゃ。互いに顔と名前を一致させて認識しあうのが最大のセキュリティ管理だ。

 ラジオCMを思い出した。「(キンキンする声で)£★※△%$○#☆」、「隊長、宇宙人です」、「安心しろ、我々も宇宙人だ」。自分の存在がどう見えるか、客観的にとらえることは存外難しい。(1/14/2004)

 芥川龍之介「侏儒の言葉」、「池大雅」から。

 「大雅はよほどのんきな人で、世情にうとかった事は、その室玉瀾を迎えた時に夫婦の交りを知らなかったというのでほぼその人物が察せられる。」
 「大雅が妻を迎えて夫婦の道を知らなかったといような話も、人間ばなれがしていておもしろいと言えば、おもしろいと言えるが、まるで常識のない愚かな事だと言えば、そうも言えるだろう。」
 こういう伝説を信ずる人はここに引いた文章の示すように今日もまだ芸術家や美術史家の間に残っている。大雅は玉瀾をめとった時に交合のことを行わなかったかもしれない。しかしそのゆえに交合のことを知らずにいたと信ずるならば、――もちろんその人はその人自身はげしい性欲を持っているあまり、いやしくもちゃんと知っている以上、行わずにすませられるはずはないと確信しているためであろう。

 東京地裁が漫画本「蜜室」(いかにもの題名)出版社社長にわいせつ図画販売の罪で懲役1年執行猶予3年の判決というニュース。判決理由には「性的刺激を読者により強く与えることが可能」、「好色的興味以上のものを見て取ることは不可能」などの言葉が散らばっている由。裁判長の中谷雄二郎氏自身が「はげしい性欲」の持ち主であるがためにわいせつ性に著しい羞恥心を覚える人であるかどうかは報道がないので不明。(1/13/2004)

 オニール前財務長官のテレビインタビューと彼の証言をもとに書かれた本(「The Price of Loyalty」)が話題になっている。「ブッシュ政権内部では発足直後の2001年1月、つまり911のはるか前から、フセイン政権の打倒が計画されており、ブッシュ自身が『攻撃のための方策を見つけてこい』と広言していた」というもの。

 オニールは失言・放言癖の故に辞任に追い込まれた。現政権に批判的なのは当然の話で、その発言は割り引いて考えるべきだが、失言・放言の主は時として貴重で誠実な証言者であることもままある。ウォーターゲート事件の「おしゃべりマーサ」のように。なによりホワイトハウスのマクレラン報道官は「本の書評はしない」とコメントするだけで、事実関係についてはふれようとしなかったことが象徴的だ。

 首相も、外相も、防衛庁長官も、政府関係者はこぞって、「イラク派兵」を「テロとの戦いのため」といっている。しかし、もしオニールの証言が正しいとすれば、「イラク戦争」は「テロとの戦い」などではなく、ブッシュが仕掛けた「侵略のための戦い」であったことになる。「イラク派兵」は「シベリア出兵」同様の物欲しげにして愚劣な派兵ということになろうか。(1/12/2004)

 **(息子)と**(亡くなった弟)の家に本の整理にゆく。***(弟の嫁)は「ただ棄ててしまって、後で残念というのはイヤだから」という。憲法関係の本ならば多少のことは分かるつもりだが、その他のものとなるとほとんど案内がない。**(息子)も接するところはあまりないらしく欲しいという本はない。とはいいながらそのまま廃品回収に出す気にもなれず、**(息子)が古書店にあたってみることにし、スキャナーで背表紙のコピーをとった。刑法、民法、商法、公害法、物件法、破産法、損害賠償、不法行為、・・・、わずかだが洋書もある。送るとなると段ボール箱数個にはなりそうだが、出張引き取りを頼むには少しばかり心許ない。

 専門書以外の棚に懐かしい本を見つけた。平凡社から出ていたわれらの科学シリーズの「数学T・U」。中学の時に買ってもらった(1962年で600円×2、小遣いでは買えなかった)もの。別に名著とか稀覯本というわけではない。ただ、中学生ぐらいのところから順に階段を上ってゆけば、数学という神殿に行き着く、そういう実感が持てる本だった。鉛筆とわら半紙をかたわらに置いて各節の演習問題にチャレンジしながら、ずいぶん夢中になって読んだ。まさか**(亡くなった弟)の本棚にいっていたとは知らなかった。懐かしくてちょっと目が潤んだ。

 **(息子)がぽつりと「本棚を見るとその人が分かるってほんとだね」と言う。「そうだ、だから絶対に本棚を見せないってヤツもいる」。**(亡くなった弟)の本棚には二・二六事件の匂坂資料、AIDS細菌兵器、JAL123便墜落事故など興味が重なるものがかなりあった。もう少し機会を持っていたら面白い話ができたのかもしれない。(1/11/2004)

 昨年暮れの「帰国した5人が平壌空港まで迎えに来るならば、家族の帰国を認める」という北朝鮮の話を受けて家族会は揺れているようだ。既に6日、地村保が「確実に日本に帰すのなら、出迎えに行ってもよい。孫たちの帰国の意思は日本に連れて帰ってから聞かなければならない。北朝鮮とどのような交渉や約束をしたのか、日本政府は経緯を明らかにし、謝るべきところがあるのなら謝らないと解決できない」などと語っている。(この発言、去年の今頃ならば「北朝鮮を利する国辱発言」などと袋だたきにあったろう、やっと迷妄から醒める者も出てきたということか)

 昨日インタビューを受けた蓮池透と飯塚繁雄のコメントは明らかにニュアンスが異なっていた。強硬派だったはずの蓮池が「5人を返さなかったのが約束破りというのであれば、謝罪(たしかに「謝罪」と言った、さすがに「謝罪めいた」というように言い直しはしたが)めいたことでもすればいい。向こうのメンツを立てても構わないのではないか」と地村と同様のことを言っていたのに対し、死亡とされた田口八重子の兄である飯塚は「北朝鮮は家族を帰国させてそれで終わりにしたいのだろうが、そういうわけにはゆかない」と警戒感をにじませた発言だった。家族会の方針が、ステップ・バイ・ステップの解決か、オール・オア・ナッシングの解決か、そういう戦術論だけでは決めきれないところに厄介さがある。

 家族会の会員にはそれぞれに運命に振り分けられてしまった立場の違いがある。そういう家族会が結束を維持するためには、情勢を見極められる見識と組織を束ねる器量をあわせ持ったリーダーが必要だ。だが、一昨年の秋、一部家族の不安感に引きずられて「5人を帰さない」という感情的な決定をしてしまったことを見る限り、この組織にはそれだけの「人物」はいない。

 曽我ひとみについては不定要素があるものの、残る4人の家族はいずれ帰ってくる。その現実の前に立つとき、家族会はいままで以上に政治屋どもに利用されるようになるだろう。一部は、既にそうなっているように、講演の依頼やら素性の分からぬ会の客寄せパンダを生業とするようになり、そういう小才を発揮し得ぬ多くの会員は帰還家族に複雑な気持ちを抱きながら、会の設立目的を忘れて政治に振り回されるか、永遠に達成されない「悲願」に絶望して諦念に至る。お気の毒なこととは思うが、感情論にとらわれ冷静な判断を誤り、「ふり」だけで実際には何もしないできない小泉内閣の申し子のような安倍晋三や中山恭子を信任し国内には北朝鮮ヒステリーを蔓延させ冷静な発言や真摯なアドバイスまでをバッシングのような形で封じ込めたのは、誰でもない彼らだったのだから、招き寄せた必然に文句は言えない。(1/10/2004)

 夕刊から。見出し:米捜索隊の一部こっそり撤収。補助見出し:ますます遠のく「大量破壊兵器の脅威」。以下、本文。

 イラクの大量破壊兵器を(WMD)を捜索していた米チームの一部400人がひそかに撤収していたことが分かった。8日、米ニューヨーク・タイムズ紙が報じた。国防総省関係者は「調査に値するものは調査し終えた」と同紙に語り、WMDを発見する可能性が小さくなったことを示唆した。
 米国はこれまで、中央情報局(CIA)のデビッド・ケイ特別顧問のもと、1400人態勢で旧フセイン政権の核兵器や生物・化学兵器などを捜索してきた。撤収した約400人はこのチームの中で、兵器貯蔵庫やミサイル発射装置の捜索を主に担当していたとみられる。
 ホワイトハウスのマクレラン報道官は8日の会見で、撤収について否定も肯定もせず、「捜索チームは今後も活動を続ける」とだけ述べた。
 一方、シンクタンクのカーネギー国際平和財団(ワシントン)は8日、「イラクのWMDは、米国や世界の安全保障に対する差し迫った脅威ではなかった」と分析する報告書をまとめた。「米国に気づかれることなく、数百トンの生物・化学兵器や何十発のスカッドミサイル、関連工場などを破壊したり隠したり、国外に持ち出しできたとは考えにくい」と指摘している。

 先月中頃デビッド・ケイの帰国時にCIA関係者が「クリスマスと年末年始の休暇が終わってもケイ氏はバグダッドに戻らないかもしれない」と予言していたのはこういう背景があったからに違いない。それにしてもフセインを拘束して連日尋問中というこの時に、一部とはいえ大量破壊兵器捜索チームを撤収させるとはアメリカもなめたことをするものだ。(1/9/2004)

 多摩川の鉄橋を渡る。立川側の河川敷の下流側には整地されたグラウンドと周回ランニングコースがある。グラウンドから水辺寄りにはあまり背は高くないものの春から夏は緑の木立が繁る。いまの季節は葉がすっかり落ちて枯れ木立、ブルーシートで造作した小屋が露わになって見える。通勤時の電車から朝夕二回、鉄橋の通過音をバックグラウンドにしてその小屋を眺める。

 不思議なことに木々の葉が小屋を隠す季節には折々小屋のあたりに人影がちらついて見えるのに、丸裸の状態のこの季節にはめったに人を見ることがない。いつもいつも気にかけているわけではない、秋から冬は日暮れが早く帰宅時にはもう暗いせいで、観察確率が半分になる結果かもしれぬ。いや、あの小屋が彼の唯一の住まいと決めつけるのはこちらの不明で岸辺の小屋は彼の夏の別荘、この時期にはやはり基礎的温度が確保されている地下道の方に定宿があるのかもしれない。

 いつぞやの夏、岸辺になにやら腰掛けのようなものを持ち出し、釣り糸をたれていたのを見かけた。小屋の前にはバーべキューとおぼしきしつらえがあり、もう一人、なにやら準備をしている風だった。電車は十数秒で多摩川を渡るから、直後の彼らの食卓に魚があったかどうかは分からない。

 きょうはあの小屋から鉄橋を見上げている自分を想像してみた。ちょっと強めの風にふるえながら、走りすぎる電車の中の自分に「おい、どうしてそんなものの中にいるんだい」と尋ねる、車輌の虜囚たる自分は「おまえ、なぜ外にいるんだい、自由は寒かろうに」と応ずる、そんなところか。通勤時の、小さな夢想。(1/8/2004)

 朝刊に、アメリカ行きの旅客機にテロ攻撃対策として武装警官を乗せろと、各国に対してアメリカ政府が要請しているという記事。暮れに鈴鹿に出張したとき、新幹線内の字幕ニュースで「エールフランスのロサンゼルス便が欠航」というのを見た。その後、搭乗者名簿に記載のテロリスト名は同姓同名の幼児のものと判明して世界中が失笑したっけ。笑うのは当然、テロリストとして売れている名前をわざわざ正直に書くような素朴なテロリストなど、今どき、いそうもないから。

 夕刊には、トマス・クック航空が武装警官の搭乗を政府から依頼された場合は欠航させると発表した記事。既に今月からアメリカへの渡航者は指紋と顔写真照合のできるパスポート使用が義務づけになった由。仕事ならばともかくプライベートでは金輪際アメリカなんぞに行く気はない。できればこのバカバカしい措置がヨーロッパや他の国に蔓延しないことを祈る。

 自らが作り出した「テロとの戦い」という幻影に自壊してゆくアメリカを観察するのは、ちょうど赤の他人の交通事故の見聞に似てなかなか楽しい。はやりのローマ帝国ほど高尚な知識はいらない、太閤秀吉を思い出せばそれでよい。人間やその作る組織が極点を過ぎるとどのようなことに躓いて反落してゆくか、衰亡話ほど面白いものはない。それが眼前で見られる。

 高みの見物と思っていたら、国際情報誌(!)「SAPIO」の広告に「世界テロ大戦に克つ!:ニッポン『新国家論』」の見出し(「克つ」なのだ、愉快ではないか)を見つけた。バカは外ばかりにいるものではないようだというべきか、それとも我が宰相が同盟国と手に手を取って下り坂を転げるようにしている以上あたりまえというべきか。(1/7/2004)

 昨日、「人間は自分の体臭には鈍感なものだ」と書きつつ、本歌はなんだったっけと思った。一昨年、拉致家族について書いたときも同じことを思いながら忘れてしまっていた。一種のデジャビュ。

 Eメールの返信を書いていて、突然、思い出した。上田秋成だった。「どこの国でも其国のたましいが国の臭気也(胆大小心録)」。加藤周一は書いている。

 宣長の歌は、1930年代から40年代前半にかけて、軍国日本に流行し、今日なお有名である。秋成の歌は、知る人が少ない。その理由は、「どこの国でも其国のたましいが国の臭気也」という痛烈な「ナショナリズム」批判が、この同質な社会で、評判のよいはずがないからである。宣長の学問の独創性は、その社会に共通の意識されざる価値観の意識化にあった。秋成の鋭利な観察の独創性は、その社会に共通の明示的な常識の拒否にあった。二人の態度のちがいは、おそらく、一方が自己と社会との同定をもとめ、他方が自己と社会との阻害関係を生きぬこうとした――またそうせざるをえなかった――ことによるだろう。

加藤周一 「日本文学史序説−下−」

(1/6/2004)

注)
ここで宣長の歌というのは、有名な
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
という歌のことであり、秋成の歌というのは、この宣長の自画自賛の姿勢を痛烈に皮肉った
しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花
という歌を指しています。わたしは宣長の自家撞着ぶりに批判的ですから、ひが目の親父、秋成に軍配を上げます。

 石破防衛庁長官は年頭の挨拶で防衛庁幹部に「決して戦争に行くのではない。高い潜在力を持ったイラクの人々に我々の体験を通じて得たことを共に分かち合い、一人でも多くの人々に幸せを与えることだ」と訓示した由。じつに美しい言葉だ。

 石破を含め多くの日本人は日頃アメリカと親しく接するあまり、もし二国以外の国の人々がこの言葉を聞いたなら、アメリカ的な臭気を嗅ぎ取り、耐え難く感じるだろうなどとは思いもしない。人間は自分の体臭には鈍感なものだ。そうでなくては乞食など己が臭気に正気を保つことすら適わぬ。それは乞食に限ったことではない。

 未だまっとうな感覚を失っていない人間だけが、石破の言葉にわずかに混じている思い上がりのトーンに気づくかもしれない。(1/5/2004)

 パソコン脇の田中彰「小国主義」。ホームページ掲載の注記を書くために本棚から出してきたもの。こうして「エントロピーは増大する」ことになる。

 そのあとがきに「・・・ひとつのきっかけは、1996年夏から数回にわたって行われたNHKテレビ番組検討のための会議への参加である。これは1997年1月1日〜3日、NHKのBS1で放送された三回シリーズ『日本の座標軸−岩倉使節団に見る現代の選択』となるが・・・」とある。7年になるのか、あれは見応えのあるいい番組だった。

 近代国家日本にとって大東亜戦争または十五年戦争と呼ばれる戦争は必然であったのか、それ以外の選択の可能性はなかったのか、いま一度、日本のあり方として大国主義をとるのか小国主義をとるのかを問い直すべきではないか、など、正月らしい好企画だった。

 今年はといえば、この三が日、NHKを含めて見るほどの番組はなかった。新聞が新聞なら、テレビもテレビ。イラク派兵、憲法改正、・・・、よかれ悪しかれ大きく舵を切ろうとしている年のはじめなのに、なんというざまだ。(1/4/2004)

 読売新聞はよほど消費税率のアップをしたいようだ。休刊日あけの今朝の社説がまた「消費税論議に着手せよ」だった。正月気分を吹っ飛ばす消費税アップ社説の連射は、自虐史観ならぬ、自虐改革強調路線というところか。

 以下、その内容について。前段の「少子高齢化の重い現実」と「限界にきた"現役頼み"」の立論にはおおむね異論はない。「高齢者の平均的収入は、現役世代と比べ、さほど見劣りしない。低所得者に配慮しつつ、支払い能力のある高齢者には応分の負担を求めるべきだ。高齢者を一律に弱者とする見方は改めたい」というくだりは当然の主張と思う。しかし、社説が消費税アップの主張を急ぐあまりに、三号被保険者問題にふれていないのはいかにも作為的な感じがする。なにより、国民年金の大赤字を当時黒字運用が大半を占めていた企業厚生年金と制度統合して救済を図った自民党・政府の責任にふれないのはアンフェアな話。なぜ、年金制度のひとつの大きな課題である三号問題にひとこともふれないのかは不思議といえば不思議だが、年金問題を本気で論議する気などサラサラなく、消費税アップの地ならしをすることだけが目的だというなら理解できる。社説から嗤えるところを書き写しておく。

 残る財源は税だが、だれが考えても消費税しかない。特定世代に負担を集中させず、全世代が広く薄く負担する消費税こそ、社会保障の財源にふさわしい。

 大嗤いだ。「だれが考えても消費税しかない」、これが年金財源問題の解決を消費税アップに求める論拠なんだそうだ。すべてのプレゼンテーションが「だれが考えても**しかない」で済むとしたら、こんな楽なことはない。そんなバカバカしいプレゼンテーションで契約を取れる営業マンは世の中には一人もいない。(そこで思い出した。いつぞやうちに来た読売の勧誘員、インターホンで応対をして「けっこうです」と断るや「ケッ、オタク、変わってんね」といいざま門柱を蹴飛ばしていった。あの勧誘員は「だれが考えても新聞は読売しかない」と信じていたか、読売の販売研修でそのように洗脳されていたからに相違ない。何が変わっているといわれたのか、長年、疑問に思っていたが、この社説の一節で氷解した)

 この国ではじめて国会が開設されたとき、参政権を持っていたのは国税を15円以上支払う成人男子であった。納税額による選挙権の制限は1925年の普通選挙法成立まで続いた。本当か嘘かは知らぬが、山本夏彦の本によれば、不動産を持たないものは相当の収入があっても税金は払わなくてよかったそうだ。つまり、地主、財閥、富豪などの有産階級が国のまかない方を引き受けていたわけだ。いま高額所得者はどのような主張をしているか。「いくら稼いでも所得額が大きくなると所得税で持っていかれる額も大きくなる。勤労意欲が著しく殺がれ、経済も活性化しない」と大声で叫んでいる。金持ちのツブも小さくなり、マインドもナイーブになったようだ。だから、「全世代が広く薄く負担する消費税」の人気が高いのだ。

 読売新聞の読者がそろいもそろって高額所得者だとは信じられない。いや、だからこそ、お為ごかしの年金財政の話を中途半端にして、お人好しの低所得者どもが消費税率アップやむなしと思うような啓蒙活動を買ってでているのかも知れぬ。(1/3/2004)

 文中の読売新聞勧誘員が、読売新聞東所沢専売店のメンバーか、本社からの派遣された然るべき拡販部隊のメンバーかは、不明。
 当時、この件について、読売新聞の本社に問い合せをしましたが、電話はたらい回し(対応者の名前を聞いても答えていただけず)、書状に対しては梨のつぶてでした。
 きっと、同種の問い合せやら抗議が、たくさん寄せられて、収拾がつかなかったのでしょう。読売の窓口担当の方には、心から同情します。
 でも、独善が振りまく種は、このようにして返るのですね、きっと。

 ここからは昨日の各紙社説の続き。朝日とサンケイは共にイラク問題をテーマとしている。どちらも司馬遼太郎を狂言回しに使っているところが可笑しかった。(司馬遼太郎なぞ、ただの紙芝居小説家以上ではあるまいに) 朝日は日露戦争開戦から百年になることから筆を起こし、一瀉千里に敗戦に向って駆け抜けた前半世紀を「坂の上から転げ落ちるようなものだった」と総括し、戦後の平和憲法・安保条約体制から劃期となった湾岸戦争までを概観した後、現在の状勢について述べ、「アメリカリスク」(これは毎日の社説の造語:的確な命名だと思う)を次のように指摘して「専守防衛に誇りを持て」という結論を導いている。近い歴史から精一杯教訓を抽出しようとすれば、自然、このようなものになってしまうという点では平凡な論説。以下に引いた部分はそういう思いがしていたせいもあり、まったく同感。

 戦後、吉田茂首相に命じられて若手外交官らが作った報告書『日本外交の過誤』が昨春、外務省から公開された。軍部の独走をなぜ抑えられなかったのか、外交関係者の聞き取り調査でまとめたものだ。
 これをもとに『吉田茂の自問』を出版した前仏大使の小倉和夫さんは、近衛文麿首相や広田弘毅外相の頭には「軍部に真っ向反対していたので は全く相手にされなくなる、むしろ軍の機先を制す位の態度をとりつつ必要に応じて軍の暴走を抑制してゆこう」という考えがあったと指摘した。
 そのため日中戦争の引き金となった盧溝橋事件の時でさえ軍の暴走に抵抗せず、政府も強硬姿勢を表明する。それが裏目に出て逆に言質をとられたというのである。
 当時の日本軍と一緒にするつもりは毛頭ないが、いま米国に対し、日本政府は似た過ちを犯していないだろうか。「イラク戦争は正しい」とひたすら弁護しつつ、「忠告」の実をあげぬまま、ずるずると深みにはまっていく図である。

 付け加えるならば、いまの「米国」は平常な状態にない「米国」だということだ。我が旧軍部は不治の病に罹った組織であったが、いまの「米国」は一時的に気のふれた状態であることが大きな違いか。その気違いのいうことをすべて「ご無理ご尤も」としている我が宰相は、気違いと友達付き合いをするうちに同じ病に罹った哀れな同類であって、近衛や広田ほどの思い図りがあるとは思えないのがより悲惨。

 サンケイはいつもの如く嗤える。本質的なことではないけれど、嗤ったのは、「稀有」「台詞」「逡巡」「鑽仰」「懊悩」「毅然」「強靱」「侮蔑」、これらの言葉にすべて括弧付きで読み仮名をふっていること。さらに嗤ったのは、その逆に「たれ」と書いて括弧して「誰」とふっていること。読者の知的水準に不安があるのなら、選んで難しい言葉を使わずにもっと平易な言葉を使えばよいだけのことだが、社説子としての見栄は張りたいものとみえて可笑しい。「優しい気持ちで無学者を気遣うのなら自らを飾るな」と一喝したくなるが、一段低く見ている読者を難しい言葉で幻惑しようという下衆の根性があるのかもしれぬと思い当たった。ならば何をいっても無駄。

 サンケイは朝日のように明治までは振り返らない。振り返るのは湾岸戦争までだ。そして自衛隊が参加した国連のPKO活動を列挙した上で一気にイラク派遣に話を転ずる。さすがに

 にもかかわらず、今度のイラクへの派遣に異論が多いのは、これらの前例とは同日には論じられない側面があるからである。現に紛争が継続しているし、米英軍による対イラク戦争自体が一致した国際世論のもとで始められたものではないからだ。

と書いているのは、サンケイ新聞にして「イラク戦争」の正当性については留保条件を付けざるを得なかったということ。しかと記憶しておくべきだろう。(昨日書いた読売社説の「イラク戦争」=「反テロ戦争」という即断が、現時点においても、いかに乱暴なものかという例証になろう

 だがサンケイが示すことのできる理性はここまでだ。社説はこのように続ける。

 しかし、だからといって、国際公約を踏みにじり、救援を待ちわびている人たちを前にして、いまから引き返すというわけにはいかない。すでに水火に飛び込む決定が合法的にくだされ、一部は実行に移されている。

 果たしてイラク人のどれほどが「外国軍」による「救援」を「まちわびている」ものか分からないが、それはおくとしても、「水火に飛び込む決定」がどこから要請され、いかほどの検討経過を経たものかについてはここでは考慮の外になっている。このものいいは「お上が決めたこと」つまりは権力迎合、「もう決まったこと」つまりは現実追認にしか聞こえない。将来を語ろうという際には、このような思考停止は致命的だ。結局、サンケイも読売同様、出来事の根元を問う知恵も、自らの頭脳と責任によって展開する戦略も持ち合わせぬ「運命主義」なのだ。まさに「you are my destiny, my only destiny」の世界。「you」がこけたら、いったいどうするつもりなのだろう。そうか、それもまた「destiny」と諦めるだけのことか、バカバカしい話だ。(1/2/2004)

 各紙(朝日毎日読売1読売2・日経・東京サンケイ)の社説を眺めてみた。「イラク問題」一本にしぼったところと「経済」問題とあわせて述べたところにわかれる。二本立てにしたのが読売の社説。「オオカミが来る」という「不安感」をベースにしたアジテーション調。まず「老後の不安感」を煽り、それをステップボードに「消費税のアップ」と「デフレからの脱却」を訴える。続けて「イラク派遣における自衛隊犠牲者の発生予測」を前提に「集団的自衛権の確立」を主張するという構成。恐ろしいまでに「感情」を刺激し、読者にパニックを起こさせ、その思考停止を誘う体のもの。

 老後への「不安感」は「感」とつく以上、個人の感情だろう。とすればその解消は主観的には個人に終始するし、客観的には外部環境(経済)の変化(改善)なくしては実質的には解決されない。

 ところがこの社説には経済の改善に関する処方箋は何も書かれていない。迂闊な者は「消費税率を二桁」にすれば経済の低迷までもが改善されると誤読するだろう。終始、内向きの思考、まるで自閉症児童の如し。読売社説の内向き思考は日経の社説とあわせ読めば、その不備がすぐに分かる。日経社説には少なくとも経済の改善のための視座が指摘されているから。日経のその部分を引いておく。

 もうひとつは、自由貿易協定(FTA)戦略である。遅れを取り戻すには農業改革が先決だ。併せて「アジア共通通貨構想」(近藤健彦立命館大教授)や「アジア共通農業政策構想」(本間正義東大教授)といった東アジア経済圏への具体的提案を日本主導で打ち出す段階だ。
 たそがれの欧州が再生したのは市場統合から通貨統合へ欧州連合(EU)が深化し拡大してきたからだ。時代を引き継ぐEU各国首脳の粘り強い改革努力に学ぶときである。

 はっきりいって、「打ち出す段階」は既に過ぎたし、「日本主導」もいまとなっては簡単ではなくなったと思うけれど。(小泉首相が靖国神社に参拝したというニュースが午前中流れた:こんなつまらぬことに意地になっているようでは日本がアジアを「主導」することなど夢のまた夢

 読売のもうひとつのテーマについて。なんの説明もなしに「イラク戦争」が「反テロ戦争」であるという前提で語られても論理性を求める読者は当惑するだろう。眼前の事実が何によって招来されたものかに関する洞察はいったいどこに消え失せたのだろうか。社説というものは幾人かの編集委員の論議を通して書かれているはずだが、彼らは全員「現実」はすべて「運命」だと考えているのだろうか。生起する事件をすべて運命と考えるところからは、人はよい生き方をすることはできないし、いわんや国家は有力な戦略を持ち得ない。平生、小うるさく自己宣伝している「ウリ」たる読売の「現実主義」とはただの「運命主義」のことかと思うと、可笑しくてならぬ。

 新聞購読者のどれほどが社説を読むものかは知らないが、この社説にしてこの紙面ありとするならば、読売新聞の報道はすべてこのような愚民向け広報報道に等しいことになる。その姿勢と報道は手品師の手品を中継するのに似ている。手品師が見せたいものをその意のままに伝え、手品師が見せかける非現実を目に見えるとおりに理解し、手品師のミスディレクションにみごとにひっかかってみせるのだから。

 起きることを「運命」とのみ信じて、ひたすら「運命」への対応のみを考えるということは、手品師の騙しに手もなく載せられるということだ。(1/1/2004)

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