東京都の銀行に対する外形標準課税に対して東京地裁が「違法」という判決。いやになるくらい、ごく常識的な判決。もともとが「人気取り」からはじまったもので、それに共産党までがのってしまうという「ポピュリズム」の極点のような条例。当時、銀行に石を投げていればうけると踏んだ石原のやり方に、ニーメラーの詩を思い出したものだった。

 判決に対する石原都知事の「かなり変わった裁判官だと聞いていた。非常に感情的なところがあって、あまり冷静ではない偏った裁判官だったようだ」というコメントは、まことに彼らしいといえば彼らしい。まるで裁判に負けたことを悔しがっているようだ。

 しかし、愚かな都知事の感情などはどうでもいいことだ。知事と都が、いましなければならないことは、まず、つまらぬメンツを捨てること。そして冷静に判決に服するのか控訴するのかを検討すること。控訴するなら、構築した論理のどこに弱点があり、それをどのように補強するか、そこに組織の持てる力を傾けなくては被る被害はますます拡大することになる。

 知事は任期が来れば辞めてしまう。しかし、所管局の担当者はそうはゆくまい。首尾一貫した徴税ポリシーがなくては職務に対するプライドも持てないだろう。「人気取り」だけに関心がある石原慎太郎に寄り添っていても何も出てくるはずはない。

 辻元清美、議員辞職。わずか1週間のドタバタ劇。昨日の夜、ニュース23で言っていた「証人喚問に呼んでもらい、辞職勧告決議を記名投票でやってもらう」というアイデアも悪くはなかった。いったい、どれほどの議員が辞職賛成票を投じただろうかという興味。案外、欠席、棄権票が多くなったのではないかなどとも思う。残念なことをした。(3/26/2002)

注)ニーメラーの詩

 アカデミー賞は主演男優賞がデンゼル・ワシントン、主演女優賞がハル・ベリーが受賞した。どちらも黒人俳優。主演女優賞を黒人女性が受賞したのははじめて。そしてシドニー・ポワチエが名誉賞受賞。ひとつひとつの受賞にはなんの文句もないのだが、三点セットとなると、どうしても同時多発テロ以後の「アメリカ狂想曲」との関係を想像してしまう。いままで、ずっと冷遇しておきながら、なんとまあお手軽なことをするものだ。キャンキャンと吠えまくったハル・ベリーの興奮ぶりに、かえって白々しさが際立った。(3/25/2002)

 永六輔の土曜ワイドラジオ東京に大橋巨泉が出演。なかなかおもしろい話をしていた。

 野田聖子代議士の結婚披露宴の招待状がきた。あらかじめ会費20,000円と印刷してある箇所が棒線で消され、「ご招待」と書いてある。「ご招待なら、出席しようか」というと、「ご招待と書いてあっても、まあ、最低50,000円くらいは包んでください」という話。さらに、招待状の下の方には「これは政治資金規制法に基づく・・・」との断り書きがしっかりと印刷されていたとのこと。「これじゃ、政治資金集めのパーティと同じ。自分の結婚式を政治資金規制法でやりたかないね」と。これでひと笑い。

 いま話題の秘書の話では巨泉も最初「弟を秘書に」と思ったらしい。それに対し民主党差し回しのアドバイザのような人が「そういう方もいらっしゃいますが、巨泉さんは何かと注目を集めていますから、おやめになった方がいいでしょう」とのこと。そういうことなら秘書を雇おうということで、巨泉の弟が採用面接をしたのだそうだ。その面接の場で、相手側から「お給料はいくらぐらい?」という質問。「国から支払われるもので(まかないたい)」と答えると、「エッ、では全額いただけるんですか」と、まあこんなやり取りがあった由。「満額、給料として支払わないのが常識かもしれないんだ」と。

 なるほど、ね。辻元議員にアドバイス。もし、新潮の記事が正しいとしたら、スッパリ議員辞職して、衆参両院議員の秘書を片っ端からチェックする活動に専念してはいかがか。身内の議員の不祥事にはグズグズしていたのに、今回やけに素早く「調査委員会」を設置した某党の議員さんの中には青ざめる方がゴロゴロいらっしゃるかもしれない。呵々。(3/23/2002)

 春分の日。暖かいを通り越して、妙に暑い感じさえする。桜が満開とのこと。16日の開花宣言からわずか5日目にして満開宣言。

 桜と日本人。この季節になると必ず取り上げられるテーマだ。パッと散る潔さが日本人の好みだなどとつまらぬことをいって悦に入る、そんな奴が大嫌いだ。すぐに思い出すのは本居宣長の「敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山桜花」という歌。丸谷才一は「恋と女の日本文学」の中で、日本を桜に中国を梅に結びつけ、優れた弁護を行っていた。しかし、丸谷が同書にあげた石川淳の告発文が感覚的にはぴったりと来る。日本、日本と騒ぎ立てるバカさえいなければ、ゆっくりと愛でる気にもなろう。それにしても、妙に気持ちを不安にさせる花だ、桜は。(3/21/2002)

 夕方、***経由で帰宅。途上のラジオで聞いた時事川柳が忘れがたかったので書いておく。今週の勝ち抜き作品は、「加藤さん、あなたはわたしの、友達です」。これも笑えたが、敗れた「冬柴は、自民グランドに、よくなじみ」の方が上だと思うが・・・。

 さて、ニュースは社民党の辻元清美が政策担当秘書の給与を詐取したという週刊新潮の記事で持切り。内容は97年4月から1年8ヵ月の間、辻元の政策秘書として登録していた女性が同時期に照屋寛徳参議院議員の秘書をしていて勤務実態がなく、国が支払った給与のうち5万円しか本人には支払われておらず、残りの給与は辻元にわたったのでないかというもの。内容といい、時期といい、取り上げたメディアといい、いかにもという感じがするが、おそらく事実なのだろう。いや、夕刊には件の女性秘書は直前には、民主党の家西衆議院議員の秘書を勤めていたともいうから、ひょっとするとこれは社民党の「システム」になっているのかもしれない。

 もっとも、議員秘書を調べてみると議員自身の近親者が公設秘書になって「家内工業」のような「経営」をしている例がゴロゴロあるそうだから、結局のところ、第三者に名義を借りたら違法だが、家内工業の枠内で処理すれば適法だというだけのことなのかもしれない。それにしても、野中だとか、江藤だとか、自民党メンバーのこらえてもこらえきれぬ笑い顔が、じつに卑しい表情に見えたことよ。(3/20/2002)

 夕刊に関曠野がスイスの国連加盟(3日の国民投票で決定)の意味を書いている。戦争というものに対する考え方の変遷、スイスの永世中立の成立とその維持に関する話もそうかなと思わせるが、最後の段落が面白かった。

 そしてスイスが世界に与えるもう一つの教訓は、平和は民主主義を進化させるということだ。スイスの政治家に、テロや戦争の恐怖を煽って国をまとめるという奥の手はなく、できるだけ民意を反映する国を作ることがこの国を治める秘けつだった。その結果が、直接民主主義などの独自の特徴を持つスイスの民主制である。
 ところが他の国々では第一次大戦以来、戦争に勝ちぬくことが至上命令となったため、民主主義の進化は前世紀初めの普通選挙権や婦人参政権の確立あたりで止まってしまった。政治の利権化、指導者の質の低下、有権者の無関心など昨今の全世界的な民主主義の空洞化と頽廃は、この一世紀間、民主主義が制度的にはほとんど進化しなかったことにおそらく原因がある。
 そしてこの点でも、由緒ある民主主義国家スイスの国連加盟にはやはり意義深いものがある。それは、21世紀を迎えた人類の課題は民主主義の進化であり再設計であることを象徴しているように思われる。

 ウィーン会議によって承認された永世中立の共和国をスイス国民がどのように育てたのか、その最初の形は「米欧回覧実記」第84巻「瑞士国ノ記」に窺うことができる。建国以来のポリシーを一貫して支えたものは直接民主制にあったのかもしれない。スイスの直接民主制の実態が手放しで賛美できるものでないことも確か(たとえばウルス・マルティ「スイスの直接民主制」)だが、腐るにまかせた代議制にすべてを預けた現在の政治制度のままでいいわけはない。(3/19/2002)

 ニュース23の筑紫哲也の大西健丞へのインタヴューを見て大笑いをした。

 1月8日、鈴木宗男事務所に呼び出しをくらった大西らは、20分だか30分の会見時間のほとんどを鈴木に怒鳴り散らされた。しかし、その鈴木が4分ほど沈黙した時間帯があった。それは会見の終わり頃、ピースウィンズがイラクのクルド人居住地域に建設した浄水場の写真を見せた時。ピースウィンズがその浄水場を5,000万で建設したと聞いて鈴木は「本当か」と強い関心を示したというのだ。

 それが、通常のひも付きODAの常識よりはるかに低コストで建設されたことに驚き、この仕組みを使えばいままでよりも大きい利鞘が稼げると思った故か、そんな低コストが常識になったら口利き料が少なくなるということに衝撃を受け、こんなNPOをのさばらせるわけにはゆかないと思った故か、いずれかは分からない。どちらにしても、その衝撃が鈴木の胴間声をしばしやませたものらしい。

 鈴木宗男という男が、政治家などではなく、ケーキにむらがるアリ、残飯にたかるハエ、汚物にわくウジのような薄汚い政治屋だということがよく分かるエピソード。これでも北海道13区の選挙民は鈴木宗男に投票するのだろうか。(3/18/2002)

 夜9時からのNHKスペシャルは「兵役拒否」。イスラエルには、男女共、兵役がある。番組は去年の夏、兵役拒否を宣言した数十名の高校生のうちの一人、ヤイール・ヒロとその父を追ったもの。兵役につき第何次かの中東戦争を戦った父と、現在のパレスチナに対する軍事抑圧はけっして平安をもたらさないとして兵役を拒否する息子。兵役拒否者に対する風当たりは厳しい。ヤイールは高校を中退する。友人のうちを訪ねても相手は冷たくはねつける。まるで村八分だ。予定より早く出頭命令がきて、ヤイールは軍刑務所に入る。所定の代償措置が終わっても、兵役拒否者には公的職業の道は絶たれる。父親には息子の考えが理解できない。映像はそれらのことを淡々と見せる。

 そして今年の2月。一昨年から始まった第二次インティファーダはついにパレスチナ女性の自爆テロまで引き起こすに至った。若い女性が自爆テロを企てたことにさすがのイスラエル世論も衝撃を受ける。父は収監中の息子の部屋で時間を過ごすことが多くなった。彼も力に力で対抗することが唯一の道という考えにわずかながら疑問を持ち始めたらしい。その後、一時帰宅したヤイールと父の間の言葉にならない表情のやり取りは印象的だった。

 シャロン政権が誕生してから一年が過ぎた。強硬策で治安の回復を訴えて権力の座に着いたシャロンだったが、治安は悪くなるばかり。今月はじめに国内の有力紙が行った世論調査では53%が「政権に不満」と回答した。不満が過半数を超えたのは初めてのこととか。2001年のイスラエルへの外国投資は前年から6割減、45億ドルにまで落ち込んだ(3/7付け日経朝刊)。

 1995年11月ラビン首相が右翼青年に暗殺されてからイスラエルは止まることなく転落を続けている。暗殺者は「ラビンは国を売った」といったそうだ。彼が望んだであろうようにパレスチナに強硬策をとり続けた結果が現在の状況。愚かな右翼の自己満足は多くの人々の安全な生活を失わせた。「憂国」を叫ぶものが国を傾け、危うくし、「亡国」を招くという事実は歴史に散見される、皮肉な話。(3/17/2002)

 雪印食品の牛肉偽装事件を発端に出るわ出るわの食品不祥事。雪印だけの問題かと思いきやあちらこちらの加工会社や卸会社でぼろぼろ、牛肉だけのことかと思いきや豚肉も鶏肉も、食肉の次はゴボウにアサリ、次から次と三日にあげず報道されぬ日はない状況。

 思い出すのは一昨年の夏頃のこと。あの時も雪印乳業の不祥事を皮切りに、清涼飲料水にハエ、缶詰めにはヤモリ、食パンからはゴキブリ、考えられもしないことが毎日のように報道された。目前のことに幻惑されやすい現代人は、報道がなければもうそういう不祥事が世の中にあったことさえ忘れている。

 論理的にはふたつしかない。事故がなくなったので報道がないのか、同じ程度に起きているが報道されないだけなのか。いちばんありそうな話は後者。もともと異物混入事故はあの程度に発生していた。そしていまも事態は少しも変わっていないのだが、あまりによく起きるのでニュース性がなくなってしまっただけのこと。

 ひとつの大事故のかげにはその数百倍もの小事故、ヒヤリ、ハッとが隠れている。つまり、食品の虚偽表示は現在の食品流通業界では「やって当然」の行為であり、異物混入事故も現在の品質管理では「起きて当たり前」のこと、露見したのはすべて氷山の一角。そう、鈴木宗男の悪行の数々も、自民党という風土では何ら驚くにあたらない当然の政治活動であるのに、たまたま焦点があたってしまっただけのこと。

 そう考えるのが論理的なはずだが誰もそんなことはいわない。食品ブランドを盲信し、異物の混入した食品を平然と喰らい、鈴木宗男と寸分違わぬ利権政治屋に投票して恬然としている。なるほど、神経の二三本がぬけているくらいでなくては、現代人は務まらぬものか。(3/16/2002)

 鈴木宗男が自民党を離党。別に議員辞職したわけではない、ただ自民党を離党しただけなのだが、夜のニュースはこればかり。離党会見とやらの映像が繰り返し繰り返し流れていた。用意した原稿を読み上げ、初当選のくだりではポロポロと涙まで流す。まるで自分が何者かであったかのように酔っている様は、冷ややかに眺める国民の側からは空涙に見えてしまう。「涙は政治家の最大の武器」のつもりかいというヤジまで聞こえてきそうだ。(3/15/2002)

 ニュースステーションに山口母子殺害事件の被害者の夫が出ていた。きょう控訴審判決があり、再び一審同様、無期懲役だったとのこと。

 事件そのものは暴行目的で主婦を襲い殺害、続いて生後間もない赤ん坊まで絞殺したというもので、とうてい許し難い事件。突然に降りかかった災厄、永遠に失われてしまった家族、不条理に奪われたかけがえのない生活、彼の境涯と心中には心から同情する。しかし、なぜか彼の発言には違和感がある。結局のところ、彼は「死刑による復仇」しか求めていない。番組で読み上げた彼の法廷での意見陳述も、つまるところ「死刑におびえる毎日を被告に過ごさせてやりたい」というようにしか聞こえない。これが素直に彼の発言に同調できない理由だ。

 彼の言葉は「大岡裁き」を求めているように聞こえる。だが、大岡裁きの危うさは神ならぬ人間が裁かねばならないというまさにそこに存している。彼にとっては唯一の特別な犯罪だが、世の中にとってはこの犯罪はけっして唯一でも特別でもない。そうである以上、あらかじめ定められた枠組みの中である種の公平さを確保しながら処理するのが、いま我々が生きる社会のルールなのだ。特定の個人の命を過剰に重く見たり軽く見たりすることは許容すべきことではない。「大逆罪」は現在の法体系の中にはない。また、どれほど残虐な犯行方法で殺害を実行した者であっても、死刑の執行方法はただ一通り絞首によるものと定められている。これは考え抜かれた叡智なのだということを認めなくてはならない。

 被害家族の個別的感情は社会ルールに癒しを求めるべきものではなく、酷なことではあるが被害家族自身が自らを慰撫する道を探らなければならないのだ。彼の言葉からはそういう視点や勇気が見えてこない。被害者あるいは被害家族が何か特権を持っているわけではない。

 しかしそれにしても、ニュースステーションの取り上げ方は感傷的すぎた。もっとも大きく感じた違和感はキャスター久米宏のコメントだった。これぞ「ポピュリズム」の極。

 ポピュリズムといえば、夕刊に載った加藤創太の「一人歩きする『ポピュリズム』」は秀逸。(3/14/2002)

 毎日、毎日、よくもまあこれほどと思うくらい鈴木宗男の悪行が出てくる。外務省の役人は鈴木が息を吹き返す恐怖感からこれでもかこれでもかと叩きまくっている。腕っぷしに自信のない者が暴行する側に加わるといちばん最後までしつこく攻撃し続ける、おそらくあの心理なのだろう。

 自民党としては、鈴木に議員辞職とまではいかなくても、せめて離党して欲しいと思っている。小選挙区で落選して比例代表でやっとのこと議席を確保した鈴木としては悩ましいところだ。

 解散がないならば、ここは潔く振る舞って離党しておく方がいい。2年後の総選挙までには風向きも変わる。鈴木の所行などは異常でもなんでもない。自民党にとっては日常茶飯の「党活動」そのものなのだから、世間が騒ぎさえしなければ「復党?、OK。何が問題だ」ということになる。もし不安があるならば、それなりの密約でもとりつけておけばいいのだ。

 問題は現下の状況だ。今のところ小泉は「解散は考えていない」と言っている。しかし、支持率の急降下やら経済の深刻化など、必ずしも予断は許さない。うっかり、ここ半年くらいで、解散、総選挙ということになれば、自民党は鈴木を「よその人」というに違いない。その時、鈴木は無所属で闘わなくてはならない。比例代表による救済もあり得ない。落選確実とは言わぬまでも確率は極端に低い。

 自認する「古いタイプの政治家」、ありていにいえば利権誘導タイプの鈴木宗男のような政治家が落選したらどうなるか、それははっきりしている。権力を剥ぎとられた「自称政治家」に献金する者はいまの日本にはいない。カネゴン鈴木宗男の政治生命は永久に絶たれる。離党は大きな賭なのだ。(3/13/2002)

 新聞各紙、社説とコラムはすべて鈴木宗男。録画したビデオは週末に見るとして、伝え聞く範囲でいちばんのポイントは「北方領土返還不要論」だろう。

 国防だの、領土だの、国のメンツだのとなるとどうしても、読売新聞だとかサンケイ新聞の反応に興味がわく。案の定、読売の社説はしっかりと怒っている。

 特に看過できないのは、北方領土交渉に関する鈴木氏の発言を記載した外務省の内部文書が明らかになったことだ。鈴木氏はこの中で、一九九五年に北方四島の診療所建設に関し、外務省幹部に「国のメンツから領土返還を主張しているに過ぎず、実際に島が返還されても国として何の利益にもならない。返還要求を打ち切って四島との経済交流を進めて行くべきだと考える」と述べている。民主党が指摘したこの文書の存在は、外務省も認めている。極めて重大だ。
 
北方支援事業への関与について「地元の領土返還運動を支援するのが狙い」としてきた鈴木氏の説明と食い違うだけではない。外務省内に培った人脈を通じ近年の対露外交に鈴木氏が大きな影響力を及ぼしてきたからだ。
 
ことは国益にかかわる。政府は、北方領土交渉への鈴木氏の関与の実態について徹底的に調査すべきだ。鈴木氏も、指摘された一連の疑惑についてもっと真摯(しんし)に答える義務がある。政治的、道義的責任も免れまい。

 それに比べると、拍子抜けするほどサンケイの社説はあっさりしている。

 外務省幹部に対して「北方領土返還は必要ない」といった趣旨の発言をしたという内部文書の存在も飛び出したが、鈴木氏に「前段にもいろいろやりとりがあり、流れの中の話だ」といなされ、それ以上の追及はできなかった。

 普通のニュース記事と同じ書きぶりでまるで他人事、とても怒りのサンケイの「主張」とは思えぬ。なるほど、客観的、論理的に見るならば、ある部分だけを取り上げての話だという鈴木の答えに一理あるのは確か。とはいっても、それならば、前段にどういう話があってこのような言葉が飛び出したのか饒舌な鈴木が自ら積極的に言及しないのなら、質問者はそれを尋ねるべきだった。

 サンケイ新聞がこういうことがらに関して客観的かつ論理的にものごとを見ることができる新聞でないことは周知のとおり。やはり、バカはバカを押し通してもらわなければ、それを期待しているプアホワイト階層たるサンケイ愛読者に申し訳が立つまいに。

 サンケイは自民党の中のいちばん汚い部分とそれを代表する政治家に弱い。橋本政権凋落のターニングポイントになった佐藤孝行の入閣騒ぎの時も、ずいぶんとウロウロしたみっともない社説を書いて満座の失笑をかったことがあった。権力の幇間、サンケイ新聞に鈴木宗男を批判する視点は期待できない。(3/12/2002)

 久しぶりにサンケイ新聞のホームページを覗いてみた。改装したらしく、かなりすっきりした構成になっている。また、記事の一部しか見せずあとは有料というしみったれた根性も考え直したようだ。サンケイの記事如きをカネを払ってまで読もうなどという奇特な人間は少なかろう。少しは現実というものが分かったものらしく、まずは慶賀。社説ページに用意されている他の全国紙の社説ページへのリンクに「毎日」が追加されたことは当然のことながら有り難い。ただ、過去の特定日のトップ画面を検索する機能がなくなったのは残念。サンケイHPの唯一の取り柄だったのだから。

 ついでにサンケイ抄を読んでみる。あいかわらずの内容で嗤わせてもらった。きょうのテーマは加藤紘一。親中国派と目されること、小泉の靖国参拝を押しとどめようとしたこと、憲法改正に慎重だったこと、市民派的発言が多かったこと、これらを理由に加藤が保守本流だという巷説に異を立てて、「とても保守本流とは言いがたいだろう。人脈的には自民党の伝統派閥を率いていたが、むしろ、戦後文化人的なリベラル派の本流と言ったほうがよいのかもしれない」と断じている。

 保守本流、つまり、真性の保守主義者は、反中国派であり、靖国尊崇者であり、改憲派であり、市民運動嫌悪派であるというのがサンケイ抄氏の感覚らしい。しかし、このようなものは保守主義とはなんの関係もない。あえていえば、サンケイ新聞のセンスはただの復古主義に過ぎない。

 ある人が本当の意味の保守主義者であるかどうかを判定するリトマス試験紙がある。原子力発電を容認するかしないか、この答えでその人が真性の保守主義者であるか、ただの都合のいいとこ取りの唾棄すべき機会主義者なのかが知れる。原発推進派の保守主義者、そんなものはただの言語矛盾だ。

 この国には保守主義者はけっして多くはない、不思議な話ではあるが。(3/10/2002)

 朝日には出ていないのだが、日経に「池永の追放処分解除せず」の見出しで、池永正明投手の処分解除嘆願書に対しコミッショナーが「棄却」回答を出した旨の記事が載っている。

 誤審を誤審と認めたら試合が成り立たないと考えてのことか、それともコミッショナーの権威は頑なに真実を拒否することによってのみ守られると信じてのことか。前者であるというのならそれは間違っている。コミッショナーの役割はひとつのプレイに対する審判とは異なるのだから。後者であるというのならそれも間違っている。過ちては則ち改むるに憚ること勿れ、これがコミッショナーの権威を守る最善の道なのだから。もっとも、川島コミッショナーにその度量がないというのなら、それまでの話。(3/9/2002)

 朝のラジオで小沢遼子がベトナムの印象を語っていた。旧サイゴン(現在はホーチミン市というらしい)にある国立戦争証跡博物館にベ平連の活動資料を引き渡すため昔の活動仲間と訪れたものらしい。

 面白かったのは一緒に行ったベ平連メンバーについてのコメントだった。通勤途上の電車の中で聞いたラジオだから、あまり正確な話ではないが、「30年以上もたったいまでも活動していた当時の序列みたいなものを引き摺っている人がいるのよ。はい、あなたはここ、あなたはここなんて指図してさ。なんか怖くなっちゃった」と、まあこんなことだった。

 ベ平連と言えば、「自分のできることを、自分の意思でやり、責任も自分でとる」、これを基本にした市民運動らしい市民運動だった。そういう運動のコアだった連中にして、それでもというか、やはりというか、「働きによる序列化」が意識されるとは。人間というのは本当にどうしようもない存在。(3/8/2002)

 朝日朝刊にジョセフ・ナイへのインタヴュー記事が載っている。彼の新著「米国のパワーの逆説」を枕にテロ事件とブッシュ政権について問うたもの。一部を書き写しておく。

――『米国のパワーの逆説』という書名の意味を教えてください。
 「米国のパワーは他のどの国よりも大きいが、他国の助力を必要としないほど大きくはないという意味だ。キッシンジャー元国務長官も言っているが、米国にとっての歴史的試練は、現在の力の優位を国際的なコンセンサスに変え、我々の原理原則が国際的な規範として認められるようにすることだ。ローマ帝国や大英帝国が偉大だったのはそういうことを行っていたからだ」
 「米国の強さは軍事力や経済力だけではなく、他の国民を引きつける価値観や文化などのソフトパワーにある。脅しや報酬ではなく、説得や議論によって他国を導く方が容易なのだ
――最近のブッシュ政権は単独行動主義が目立ちます。
 「この政権はもともとは単独行動主義だった。地球温暖化のための京都議定書や包括的核実験禁止条約(CTBT)などに反対していた。テロ事件後、国際的な連帯を築くために多国間主義に転じたが、戦争の第一段階がうまくゆくと『自分たちだけでできる』と政権幹部が発言するようになった」
――大統領演説に「悪の枢軸」が盛り込まれたのは、政権内でタカ派が主導権を握ったということですか。
 「まだ断言するのは早いだろう。パウエル国務長官は北朝鮮やイランとの対話は続けると言っている。レトリックほど政策は変化していない。スピーチライターが気の利いた言葉のつもりで入れただけかもしれない」

 インタヴュー記事に添えて「米国のパワーの逆説」についての紹介記事も。

 そのナイ氏が新著でブッシュ政権の単独行動主義に警告を発している。英フィナンシャル・タイムズ紙の書評は、ブッシュ大統領中心に愛国ムードが高まる米国で「ナイ氏は謹んで異議を唱えた」と表現した。
 ナイ氏は民主党のクリントン政権で国防次官補を務めた。いまの共和党政権とは支持政党が異なるが、国際政治学者、安全保障の専門家として米国の外交指導者層の主流を歩いてきた。新著の内容も、米国の国益のために多国間主義を取るべきだと説く現実主義的な思考だ。そのナイ氏の考えが「謹んで異議を唱えた」と受け取られるところに、ブッシュ政権の右旋回ぶりがうかがえる。・・・(略)・・・
 ナイ氏が著書の中で、もっとも厳しい警告を発しているのは、古代ローマ帝国衰亡の比ゆだ。
 「蛮族がローマを打ち破ったのではない。中から腐ったのだ」「米国もまた中から腐らない限り、テロリストに滅ぼされることはない」

 ナイの「スピーチライターの浅知恵」説は、外国のジャーナリストに対して、精一杯、愚かな自国指導者を弁護したものに過ぎない。なぜなら、ブッシュにひとかけらの叡智があったならば、「悪の枢軸」のくだりを削除して臨むか、読み上げねばよかったのだから。

 と、こうして「ワード・ポリティクス」の先行概念提起者であるジョセフ・ナイの言葉を聞くと、おとといの日経コラムの筆者、伊奈の視点の狂いが歴然と見えてくる。

 あまりに近視眼的な書きように辟易して悪の枢軸論の三番目の根拠については書かなかったが、伊奈はこんな風に書いていた。「第三に、大量破壊兵器とテロリストの結びつきは米国だけにとっての「悪」ではない。だから『悪の枢軸』論を米国の『ユニラテラリズム』(一国主義)とする見方は誤りである」と。

 伊奈久喜がブッシュレベルにシンパシーを感じている限り、現実も未来もともに見損なうということだ。(3/6/2002)

 日経朝刊のコラム「風見鶏」。回りくどい変なコラムだなと思って読み終えたら、また伊奈久喜だった。タイトルは「『悪の枢軸』論なぜ悪い」。

 このコラムは入れ子構造になっている。伊奈の本音は入れ子の部分(「ホワイトハウスの気持ちを忖度すると」という書き出しで始まる第2節と第3節)にあるのだが、もし批判されたときには、それを入れている外箱(「ホワイトハウスにこう説明されたら、どう反論すればいいのだろう」という言葉で始まる第4節)でかわそうという算段。いつでも「公平無私」なところに逃げ込もうという魂胆がありありと見える。で、その本音だが、ホワイトハウスの代弁を目指した「悪の枢軸」論を支える三つの根拠は残念ながらどれも貧弱。あらかじめ「逃げ」をうっておいたのはそのためであったのかもしれぬ。

 ひとつめはこれだけで全体の三分一を費やしているのだが論旨が濁っていて、酔っ払いの繰り言となんら変わらない。もともとホワイトハウスの政策自体が感情的かつ非論理的である以上、それをそのまま写しているということか。「(アメリカは)三国をテロリスト支援国家のリストに載せている。・・・(略)・・・したがってこれらの国を通じて大量破壊兵器がテロリストに流れるのを(アメリカが)心配するのは論理的帰結である」などとふんぞり返られても、それはアメリカが勝手に作ったトートロジーであって何が論理的な根拠だよ。バカバカしくて嗤える。

 いっそのこと「かつてビンラディンを支援したアメリカは、自らの経験に照らして、時と場合によりテロリスト支援国家になる国は世界中にたくさんあって、テロリストに大量破壊兵器を渡すことなどなんとも思っていない」とでも説明してくれた方が、よほど論理的で誰にでも理解してもらえただろう。天下の日経のコラムを書くには、伊奈の説明能力は低すぎて話にならない。

 さらに、ふたつの意味で、おおいに嗤ったのはこの次のくだりだった。

 第二に「悪の枢軸」論は、東大の田中明彦教授の所説「ワード・ポリティックス」(言力政治)の一種である。演説から一カ月以上たつが、イランで反米運動が高まったものの、三国とも特に冒険主義的行動には出ていない。
 詳細には言えないが、対イラクを除けば、水面下で様々な動きがあるとメディアは観測する。それが成功すれば、妥協なしに強い言葉だけで相手を対話に引き込む高度な外交技術だったことになる。

 ホワイトハウスに成り代わるのだったら「ワード・ポリティックス」ではなく「ソフトパワー」という言葉を使うべきだった。大方の日経の読者にとっても、その方がはるかに分かりやすかったはず。なぜなら、田中の「ワード・ポリティクス」はたかだか一年程度の国内流通にすぎないが、ジョセフ・ナイの「ソフトパワー」は少なくともここ数年世界的にも使われ続けてきたのだから。伊奈は田中の宣伝に気を取られたのか、それともただの勉強不足なのか、いずれにしてもこのくだりでは、「ホワイトハウスの代弁」のつもりが自分の本音が強く出てしまったということだろう。

 なにより「妥協なしに強い言葉だけで相手を対話に引き込む」という「歩く恫喝、鈴木宗男」のようなことが国際的に可能だとしたら外交は苦労知らずということになる。そんなバカなことを信じられるのは伊奈久喜くらいのものだ。(それとも田中明彦の「ワード・ポリティクス」という概念も単なる「恫喝外交のすすめ」程度のものなのかな?)

 基本的にこれに何かの味付けをして駆け引きに持ち込むのは「悪の枢軸」の一角、北朝鮮のお家芸だというくらいのことは素人だって知っている。こんなものが「高度な外交技術」に見えるようでは、伊奈君、もう退職した方がいい。日経よ、また、編集委員の入れ替えをする必要があるぞ。(3/4/2002)

 日曜版の連載漫画「ハーイあっこです」が3/31で終わってしまうというお知らせを、けさ、読んだ。あっこさん、こと坂本あつ子さんの家は、姑にあたるせつ子さんと夫じゅんいちさん、子供が上からタロー君、ハナコちゃん、のんちゃんの5人家族。

 あつ子さんは小太りのコロコロしたかわいい奥さん。じゅんちゃんと呼ぶ旦那はすらりとした万年青年タイプで、本人がその気なら浮気のひとつもできそうなあつ子さんとしては気がもめるハンサム君。姑のせつ子さんは和服をきりっと着こなすなかなかいい女で老人会のマドンナ。タロー君はあつ子さんに似て素朴な外観だが妹思いで優しいお兄ちゃん。ハナコちゃんは可愛い子なのだが自己主張が強く少し我が儘なお嬢ちゃん。のんちゃんはタロー君タイプなのかハナコちゃんタイプなのかまだキャラクターが不明な赤ちゃん卒業したて段階の女の子(らしい)。

 このマンガがユニークなのは、ほぼ連載に同期して時間が経過し、リアルタイムに子供たちが成長してゆくところ。サザエさんでワカメちゃんがいつまでたっても小学生のままというのとは好対照。だいたい10コマのマンガでほとんど物語性はなく、忘れがたいようなエピソードもないのだが、子供たちの成長と専業主婦の平凡な生活をそのまま描いて、日曜の朝だけお付き合いのある隣人になっている。

 特にせつ子さんは、亡くなった祖母のイメージとぴったりで、最近はめっきり少なくなった美しい日本語を話す背筋の通った女性、適うなら若かりし頃の彼女に会いたかった、そういう女性。一家が遠くに引っ越しをするようで、春はそういう季節だなァなどと、ちょっと憂鬱になった。(3/3/2002)

 アメリカが同時多発テロに対抗する作戦で貢献した国々、26カ国のリストを発表。ところがなんと「Japan」の名前は載っていなかったのだそうだ。

 そりゃ、そうだ、こちとらは「旭日旗をインド洋に旗めかせてやった」と気負っていても、あちらさんにしてみれば"show the flag"(ちょいと面だけ出してくれ)だったというだけのこと。

 柳井とかいう隷魂米才忠犬大使が「合衆国様が日本の国旗が見たいとの仰せでございます」などと針小棒大に騒ぎ立て、話を大げさにしたというのが実際の所。(身の回りによくいるよ、「いやー、小泉君とは、お前、オレの仲でね」などと大言壮語、すごい人だと思って同行すると、件の小泉君の前ではコメツキバッタ、あげく「失礼だが、君、ダレ?」なんてその他大勢待遇を受けている自意識過剰野郎。我が祖国はそんな軽輩なのか)

 ところで、大枚はたいてこれでは、柳井にはそれなりの責任を取ってもらうべきだろう。世が世なら、腹を掻っ捌いてもらうのが定法だが、柳井のおっさん、武士という面つきではない。つくづく軽い国に堕ちたものだ。まあ、ものは考えよう。日本より上の国が、最低でも26カ国はあるということが、よーく分かっただけでも良かった、良かった、と。(2/28/2002)

 先代総理が度重なる失言のたびに繰り返し利用した言い回しが流行っている。「もし、・・・ということがあったとしたら、・・・する」という言い方だ。

 巨躯の割にノミほどの脳味噌も持ち合わせていなかった前宰相はこのように使った。「もし、私の発言が国民の皆様に誤解を与えたとすれば、私の真意ではないということを御理解いただきたい。(思ってるままにしゃべってるんだ、くだらんイチャモンつけるな、バカヤロー)」というように。先週、鈴木宗男も同じように「もし、私の声が大きいために慣れない民間の方がそれを聞いて恫喝と受け取ったとしたら、それは申し訳ないことと思う。(脅そうと思ってるから、でかい声を出すんだ、当たり前じゃないか、バカヤロー)」と。両者とも、当然、カッコ内の言葉は思っていても言わなかったわけだが、正直なもので目つき、顔つきに彼らの苛立ちが現れていたことは見ての通り。

 きょう、発表された政府のデフレ対策の説明も、この言い回しを使っていた。「もし、企業の破綻が続き資金不足の対策を取る必要が生じたなら、公的資金の投入をためらわず大胆に考えてゆく」と。政府は、個人の不始末を他人事のようにごまかすこの言い回しが、まったく違うこの場面にも使えると思っているらしい。

 「もし、雪崩が起きたら、その時は雪崩を防止する手を打ちます」などということを聞いて、これで雪崩対策になると思うやつがいるとしたら、おバカさんだよ。(2/27/2002)

 日経の朝刊、経済欄のコラムに「エンゲル係数最低の23.2%」という見出し。「現行のような統計になったのは1963年からで、この年の同係数は38.7%。経済成長とともにその後はほぼ一貫して低下を続けてきた。・・・(略)・・・昨年の一世帯あたりの消費支出は月平均30万8692円と前年から実質1.8%減少。食費は2.5%減の7万1534円で、落ち込みは全体の支出を上回った。この結果エンゲル係数は三年連続で前年の水準よりも低くなった」。

 エンゲル係数の低下は生活水準の上昇、確かそのように教えられたはず。さすれば我々の生活水準はここ数年上昇の一途ということになるがその実感はない。きっと、学校で習った経済学はすでに現実の世界を説明できるものではなくなっている、そう考えた方がよいのだろう。(2/26/2002)

 今や悪の巨頭扱いの鈴木宗男。新聞の週刊誌広告から、見出しを引いてみる。「国会は解明できない地上最低『鈴木宗男』の北方領土『巨大利権』」(週刊新潮)、「鈴木宗男『暗黒の履歴』」「ロシア人『売国』接待に国費悪用20億円」(週刊文春)、「小泉と宗男が『政権延命』の密約−政治も経済も"禁じ手"を使うのか」(週刊ポスト)、「平気でウソをつく男鈴木宗男ドス黒い正体−テープ入手−」「歩く恫喝鈴木宗男が『コノヤロ、テメー、バカヤロー』」(週刊現代)、「恫喝の結末鈴木宗男のカネ 集めた金の配り先一挙公開/業者渋々支出の『用心棒代』」(AERA)。ひとたび無情の風が吹けば、よってたかってここまで叩くという状況は少しばかり常軌を逸していないでもない。

 それにしても「歩く恫喝」かァ・・・。エテ公でも人間様を恫喝できるほどに平和な国ということか、それとも、エテ公なればこそ恫喝という手段しかなかったということか。(2/25/2002)

 久しぶりに、日曜日の楽しみ読書欄を心から楽しめる。今週の一冊は、山室信一「思想課題としてのアジア」。評者は外岡秀俊。

 例えば欧米を旅して、「中国人ですか」「韓国の方ですか」と話しかけられたら、あなたはどう反応するだろう。
 かつての私は、妙な居心地の悪さを感じた。優越感からではない。アジアに生きていながら、隣国の人々との一体感より、差異の意識が先に立つ。ふだん自覚していないアジアとの「距離」が、不意に前面にせり出すことへの戸惑いだ。
 アジアに対しては、「欧米の仲間」であることを誇り、欧米には「アジア的価値」で対抗する。だが肝心の隣人との間では孤立してきた国。本書は、私たちの歴史に潜むそうした屈折を、余すところなく照らした思想史の精華といえる。

 8,000円はちょっと高いなァ。(2/24/2002)

 昨日の夕刊、吉田秀和の「音楽展望」は、先日大往生した朝比奈隆となんと田中真紀子について書いていた。面白いのは「音楽展望」なのに、記述量は朝比奈隆に関する部分が約3割で、田中真紀子に関する部分が7割近いこと。

 今日は二つの退場をめぐって。
 一つは昨年暮れに九十三歳で天寿を全うされた朝比奈隆さんのそれ。・・・(略)・・・「朝比奈さんはブルックナーは良いけど、ドビュッシーはどうも」とかいう人もあり、私もその一人ではあったが、そもそも彼が何でも屋でないということが大切なのだ。・・・(略)・・・とにかく、彼は全身全霊を込めてやりたい音楽を見いだし、いくらやってもこれで終わりということにならないので、繰り返しやらずにいられないということを身をもって示し、それで生き、それで死んだ芸術家だったのである。これは彼が我がままだとか怠慢だったというのとは正反対の成り行きである。・・・(略)・・・朝比奈氏の死は自分の果たすべき仕事を立派に成し遂げた上での退場というべきだろう。
 私がここで触れるもう一つの退場は田中真紀子前外相のそれで、こちらは道半ばでの退場である。・・・(略)・・・「あの人は官僚との抗争に明け暮れ、外交らしい外交はやれなかった。外交が国家の急務である以上、これ以上の遅滞は許されまい。早晩退場すべき人だったのだ」という声も聞く。しかし、それは話が逆である。彼女にはやりたいことがあったので、外務官僚との争いになったのだ。・・・(略)・・・彼女が米国務副長官アーミテージが来日しているのに会わなかったこと。しかし、まもなく渡米してパウエル国務長官との面会を熱望し、それを果たした時の上機嫌ぶりを見ると、彼女が反米派ではなく、まして米高官と会うのを忌避していたわけでないことがよくわかる。私のような門外漢でさえ、この二人の米高官の違いを知っているのだから、こういう彼女の使い分けには、従来の路線に慣れ切っていた外務官僚に冷水を浴びせるものがあったのではないか。
 彼女の「思考の核」は中味や輪郭でまだ漠然とした点がある。だが近年日本の政治家で、その言動が自分でもどうにもならないくらい根元から噴き上げてくるような内発性を持つ人の何と少ないことか! ・・・(略)・・・

 田中の昨年6月の渡米に際して多くのマスコミがまるで女性週刊誌のような書き方をしていたことを思い出した。あの小姑のような書きぶりは外務官僚の発想を越える視点を持つ者がいなかったせいだったのかもしれぬ。もっとも、これを読みながらも、田中がどこまでその考えを固めているのかについては疑わしいと思っているのだが・・・。

 しかし、少なくとも、小泉のセンスの悪さ、そして従来型の枠を決して超えられない福田のダメさ加減は確定している。(2/23/2002)

 ブラウン神父はいう、「まさかワシが自分でウソと知っていることを利用してお宗旨に奉仕しろとおっしゃるわけではありますまい」と。ずっと長いことこの言葉にアングロ・サクソンのフェアな精神を見てきた。彼らにはそういう剛直なスジが一本通っていると信じていた。しかし、どうやら最近のアメリカでは、そんなフェアプレイの精神はもはや死に絶えたものらしい。いや、彼らが仲間で暮らす場面にはまだフェアであることは活きているのだろう。しかし、アングロ・サクソン以外の人々に対しても同様に振る舞うべきだというごく当然のことがまったく分かっていないのだ。

 昨日、ショートトラック男子1500メートルで、韓国の金東聖が獲得した金メダルを、アメリカのアポロ・アントン・オーノは審判と共謀して強奪した。会場の大多数を占めたアメリカ人観衆は誰一人としてその不正を非難することがなかったばかりか逆にこれを歓呼した。オーノがやったのは妨害を受けたというアピールであり、一切のアピールを認めないはずの審判はそれを簡単に認め、真の勝者からメダルを取り上げ、狡猾な演技者にそれを与えた。

 この大会では、アメリカとカナダに甘く、それ以外の国に辛い判定、判断が随所にまかり通っている。日本人または東洋人は利害が自分に関わることに対してはストレートに主張しない慎みを持っている。だから、清水が銀メダルになったスケート男子500メートルの優勝者フィッツランドルフの決勝スタートが明らかなフライイングであることも、かなりの人は気づきながらもあえて主張したりしないのだ。ハーフパイプの採点、モーグルの採点、おかしなことはたんとあるが、ミーイズムに凝り固まったアメリカの愚か者たちのように大騒ぎはしないのだ。

 しかし、我々を含めてアメリカ以外の国の人々は、そろそろアメリカ人に対して「いい加減にしないか」と一喝すべきなのかもしれない。そして必要なら、without you、アメリカ抜きの世界を作るべきなのかもしれない。そうでもしない限りバカブッシュに代表される増長したアメリカ人に、本当の人間的価値を分からせることはできないのかもしれない。(2/22/2002)

 鈴木宗男の悪事が徐々に露見しつつある。昨日、佐々木が追求した「ムネオハウス」の発注に際して、落札前に鈴木の秘書の引合せにより設計会社と工事会社のメンバーが鈴木事務所であっていたということが朝刊に載っている。記事の内容レベルでは刑事事件としての要件は足りないようだが、国会質問の翌日、間髪を容れずにこういう記事がでることから考えると、集中砲火はしばらくやむまい。なんとはなしに、二信組事件で完全に政治生命を失った山口敏夫のことを思い出した。あの弱い者いじめしかできぬ週刊新潮までが数週間前から鈴木糾弾の特集記事を組んでいることを考えあわせると、中川の寝首を掻いてのし上がった鈴木の政治生命も長くないのかもしれぬ。

 もうひとつは嗤える話。

 月曜のブッシュ歓迎レセプションへの招待状、田中前外務大臣は受け取っていないといい、福田官房長官は出しているという。またまた水掛け論モードになっているのだが、福田の国会答弁が嗤える。「官邸職員が田中事務所に出向き事務所にいた男性に手渡した。男性、眼鏡着用、真ん中から髪をわけた、中肉中背の30代に見える男性」というのだ。福田のようなトッチャンボウヤには分からぬことかもしれぬが、普通、大切なものを託すときには相手の名前くらいは確認して帰ってくるものだ。そして「田中先生にはお会いできませんでしたが、事務所にいらした福田さんとおっしゃる方にお渡ししました。その方、まるで官房長官をお若くしたような方でしたよ」と報告する、これが世間の常識なのだよ。福田のいう官邸職員は「子供の使い並み」、いやそれ以下だったのかな。

 どうも簡単には信じられない。ひょっとすると、託した相手の名前を公表できない理由でもあるのかしら。(2/21/2002)

 田中真紀子と鈴木宗男が参考人として予算委員会に呼ばれた。夜のニュースはその映像で持ち切り。どちらの「証言」も思いの他、あんこがたっぷり入っていて、こんなことならビデオをセットしておくのだったと悔やんだ。

 小泉が抵抗勢力に陰で花を贈っているというふうには見ていたが、そのあたりの事情を田中はもっと明解に言ってのけた。「自由にやれというから動こうとすると、スカートを誰かが踏んづけていた。誰が踏んでいるのかと振り返ると言っている本人だった」、「聖域なき構造改革とか、とらわれず、何とかせず、・・・ず、ず、などと一見新しいことをいうが、対応を見るとむしろ逆にとらわれて、自分自身が抵抗勢力であることに踏みきってしまった」、まさに絶口調だ。自分が何をなし得たか、それを言う資格があるかをおけば、まったくその通り。

 一方、鈴木の方はあらかじめ口裏を合わせた自民党の仲間とやり取りをしているうちはよかったが、共産党の佐々木憲昭の質問を受ける段になるとしどろもどろ、早口でやたら声が大きくなり、眼がウロウロと落ち着かず、心中の動揺がそのまま現れてしまった。

 鈴木佐々木も同じ北海道出身、片や農家、片や鉱夫、ふたりとも生活が苦しい家に生まれ育っている。しかし、家の空気が違っていたものか、当人の志の在り処が異なっていたものか、数十年生きて、いまは対照的な所に立っている。

 鈴木の顔はまさに「根付の国」そのもの、じつに卑しい。ビデオで見る初当選の頃の顔と現在の顔の違い。あれほど如実に顔に違いがでるとは、気をつけねばなるまい。(2/20/2002)


鈴木宗男のホームページは、2月24日現在、非常につながりにくくなっています。
リンクをはったのは宗男の父を紹介した一文の載っているページ。
良くいえば素朴、隠さずにいえば垢抜けない、いかにも鈴木議員の類友であるサンケイ新聞らしい、「提灯記事かくあるべし」という記事です。

 朝刊の「ポリティカ日本」にこんな一節。

 「おれのいうことを聞かないとおまえを出世させないぞといったタイプの政治家に接すると、役人はつぶれるか、チルドレンになるか、鍛えられるかの3通りになる」
 まじめで小心な役人は悩んでつぶれる。要領よく保身する役人は子分になってへつらう。虎の威を借りて側用人になる役人もいる。「先生に謝るのはこうするんだ」などと土下差の仕方を同僚の役人に教えたりする。芯の強い少数の役人だけはめげずに距離を置きしのいでいく。

 なるほど。上位下達をどのように実現するか、思い悩んだまま何もできずに過ごしてしまう不器用人もいれば、ない知恵を絞って小賢しいことを案出する軽輩もいる。さらに、それでも大道を忘れない人物もいる。残念ながら、「人物」の器ではないとしたら、不器用かつ要領の悪い下僚でいよう。軽輩は好かぬから。(2/19/2002)

 ニュース23でのひとこま。ブッシュ大統領の歓迎レセプションの映像に被せて、草野が招待されていた筑紫に「ブッシュさんの印象は」と尋ねた。筑紫は「うん、ブッシュさんとも話したけど、一緒に来ている人に興味があって・・・」と受け、一瞬間をおいて「パウエル国務長官と長く話した、なかなかの人だね」と答えた。うっかりすると「ブッシュがなかなかの人」と聞こえるが、「なかなかの人」というのがパウエル評であることは確か。

 誰を誉めるかで誉める人の素顔も知れるもの。がらくたに感応すれば、眼力のないことが暴露する。何を読んで何を語るかによって、その人の真贋も、自ずと分かってしまうのと同じ。筑紫がブッシュの印象を答えなかったのは、そういうことだったのかもしれない。

 もうひとつのニュース。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」がベルリン映画祭で金の熊賞を受賞。(2/18/2002)

 ソルトレークオリンピックはひょっとすると最悪のオリンピックになるかもしれない。

 フィギュアスケートペアで2位になったカナダペアに対する採点にアメリカのマスコミが審判の不正行為を主張し、IOCはこれを認める形でカナダペアにも金メダルを与える決定をしたのだ。

 誤審に抗議するのは選手の権利であり、いきりたつのは観客の権利でもある。しかし、競技団体が選手や選手の帰属する国、そして観客を恐れるあまりルールの恣意的な適用をしてしまっては、もはや競技そのものが成り立たなくなってしまう。審判以外に権威を認める前例を作れば、この時代だもの「おらが権威」が乱立して収拾がつかなくなるだろう。

 それでも、フランスの審判の不正行為が一点の疑念もなく立証できたら、そして、無理にも順位をつけるルールがあるのなら、もういちどロシアとカナダのペアに決勝試技をさせるのがスジというものだろう。

§

 TBSでショートトラックの中継を見ていた。1000メートル予選、寺尾はトップでゴールしながら失格で予選落ちになってしまった。寺尾の前を走っていた選手群の転倒が寺尾の妨害行為によるものという判定らしい。ビデオで見る限り、転倒は中国の選手が韓国の選手の足を引っ掛けたために起こっている。ところがその後方にいた寺尾が原因だというのだ。どうやら東洋系の顔の区別が審判にはつかなかったようだ。この競技では審判は抗議も受け付けなければ、判定にビデオを参考にすることもないらしい。

 続く1000メートルの決勝は、ゴール直前で競り合った3人が全員転倒し、はるか後ろを走っていたオーストラリアの選手が順位にこだわるあまり相撃ちになった連中をあざ笑うかのように悠然とゴールし、金メダルを獲得することとなった。アメリカのオーノ(日系らしい)は転倒した集団の中から這い出し、氷の上をいざりながらゴールにたどり着き、銀メダルを取った。間の抜けたドタバタ喜劇そのものだった。

 トータルでいえることはたったひとつ。審判の目視のみに頼る現在のルールでは、ショートトラックという競技はただのサーカスゲーム、滑らずにいざってゴールしてもよいのならスケート靴など不要、およそスポーツなどと呼べるしろものではない。

 オリンピック競技だって? 嗤わせるではないか、こんなものローラーゲームだよ。(2/17/2002)

 ソルトレークオリンピックも中日にさしかかる。朝刊に「冬の星−ソルトレーク」というコラムがある。毎日読んできて頭に残ったのはカナダのウォザースプーンだ。ここ数年、清水と世界記録更新を競ってきたライバル。500メートルの初日、彼はスタートするや否やばったりと前に倒れメダルレースからこぼれ落ちた。起き抜けのニュースでそれを聞き狭量な心の中で小さく拍手した、清水の敵が一人消えたと。新聞休刊日で朝刊のコラムはその日に限って夕刊に載った。

 2年前、オランダのプロチーム「TVM」から誘われた。「一緒に、この2人も契約してくれないか?」と条件を出した。当時、伸び悩んでいた友人のマイケル・アイルランド(カナダ)とケーシー・フィッツランドルフ(米国)だった。
 3人になることで、自分の年俸が悪くなっても構わなかった。それよりも、2人がスケートを続ける環境を与える方を優先した。

 金メダルを取ったのはウォザースプーンが条件に上げたうちの片方フィッツランドルフだった。清水も引退していたかつての同僚武田を練習パートナーに指定し友人の再起を支援している。清水がウォザースプーンの転倒を「ショックだ、一緒に勝負したかった」とコメントした気持ちが分かるような気がした。ふたりには共通するハートウォームなメンタリティがある。「闘う」のではなく「競う」という場に、彼らは、いる。自分さえよければ、人のことはどうでもいい、道義など無用の長物という現在の「アメリカンスタンダード」や、厳しい競争に勝つことこそがすべてに優先するという「グローバルスタンダード」から、彼らは離れたところにいる。その恩恵を受けたのが他ならぬアメリカの選手というのは皮肉なことだったが、メダリスト名簿に名前がなくても、ウォザースプーンの名前は忘れない。(2/16/2002)

 ブッシュ大統領の訪日が日曜。ニュース映像の大統領は親父さんそのままの顔。ブッシュ・シニアもさして有能とはいえず、最近、米公文書館に引き渡されたニクソン=キッシンジャーの電話会談記録には「あまりにも弱腰で知性が足りない」というキッシンジャーのブッシュ評価が載っているそうだ(14日朝日国際面)が、それでもレーガノミックスを「ブードゥー・エコノミクス」と喝破した程度のセンスはあった。

 しかし、ブッシュ・ジュニアの「おつむ」の方は、そのレベルにさえ達していないようだ。むしろ、ジュニアの頭脳はレーガン並み。いずれレーガン同様アルツハイマーを発症し、「クラッカーを喉につまらせて頭に血が回らなくなった」などというインチキ発表で失笑を買うようになるのだろう、呵々。(2/15/2002)

 ネバダ州の地下実験場で、明日の朝、臨界前核実験が行われる。アメリカが屁理屈をつけて手前勝手なことを強行することにはもはや慣れっこになっているが、ショックなのはこれにイギリスが加わり共同実験の形を取ると発表したこと。"Et tu , Britain."(2/14/2002)

「イギリスよ、おまえもか」のつもりなのですが、ここの格変化が分かりません。

Britain の呼格は、どのようになるのでしょうか? ラテン語に詳しい方、ご教示ください。
  tekisui@a-net.email.ne.jp

 外務省改革案の発表。ノンキャリにも課長以上の昇進を認めるとか、NGOとの協調だとか、経費の透明性を確保するとか、いろいろあがっている。しかし、あえて「課長以上」などと断ること自体、逆に「出世しても課長まで」といっているように聞こえるし、「経費の透明性」という蒸留水のような表現は「機密費は死んでも守るぞ」という固い決意のあることを想像させる。

 いちばん嗤ったのは、「政治家のご意見については文書にして大臣まで報告するようにする」という部分。さすが官僚上がりの川口大臣。文書化は官僚の得意技、文書化をすれば何でも片づくというお役所一流の感覚から一歩も出ようとしていない。文書化する過程でいくらでも真実はすり落ちて行くものだ。知っていてそうするということは、もはや川口外相には外務省を改革する気はないということだ。

 それにしても、こんなものも「骨太の改革」と呼ぶのかい。小泉内閣は「骨太」という冠が格別お好きなようだ。なんでもかんでも「骨太の**」とネーミングして悦に入っている。その子供っぽさよ。

 子供っぽさといえば、「カルシウム増量、お子様の発育に、『毎日骨太』」とPRしていた牛乳があった。いまをときめく雪印の牛乳。「骨太の小泉改革」も、おそらく、信頼性は「スノーブランド」レベルと考えておく方がいいだろう。(2/12/2002)

 建国記念の日。ここで「国」とは呼んでいるものはいったい何をさしているのだろう。「人に誕生日があるのだから、国に誕生日があるのは当然だ」といういかにも素朴めかした言葉を本気で信じるお馬鹿さんがそれほどいるとは思えないが、それにしても明治政府は「建国」の日を何故わけのわからぬ日に定めたのだろうか。不思議といえば不思議な話。

 一番わかりやすい答えは「自分たちに自信が持てなかった」ということかもしれぬ。つまり、明治政府を作り上げ、度重なる権力闘争に勝ち残った「維新の元勲」たちには、自らの成果をありのままの形では誇ることができない事情があり、遠い昔の律令国家の仮構を持ち出し、竹に木をつなぐような操作を行い「紀元節」という奇怪な日を捏造した。出自の分からぬ者がやんごとなき人の御落胤を名乗るような胡散臭さを承知の上で。

 そして、今、彼らのいびつな心をそれと意識もせずに継承し、慶賀している人々の顔を夜のニュースで見た。光太郎の詩を思い出させる「ももんがあ」のような顔が並んでいた。伝統の自覚がないことだけならばまだ許せぬでもないが、その空虚を人に押しつけようなどとがなりたてるのだから迷惑この上ない。(2/11/2002)

 狡猾さと独善性においてアメリカと双子の関係にあるのがイスラエルだ。

 そのイスラエル軍の中で起きている小さな出来事が6日の朝刊に載っていた。見出しは「軍務拒否広がるイスラエル 賛同の兵士ら170人に」。

 パレスチナ人の自爆テロ。これに対し常に「倍返しの原則」で応ずるイスラエル。両者の応酬は一昨年あたりから激しさを増し、いっこうに収束する気配がない。そんな中、イスラエル軍の中に「占領地での軍務が、我々がはぐくんできたあらゆる価値を破壊している」として、67年の第三次中東戦争でイスラエルが占領した領土(ヨルダン川西岸、ガザ、東エルサレム)での軍務を拒否する動きが出てきたというもの。呼びかけはインターネットに公開され賛同者の署名を集めている。

 これに賛同し軍務を拒否したヘブライ大学講師ハイム・ワイスはインタヴューで「私は国を守る任務なら喜んで軍務につく。しかし、占領は、それ自体が非人道的な行為だ。社会経験を積み、世界のことも分かってくると、占領地で軍務を果たすのは人間として耐えられなくなった。パレスチナ人への抑圧がさらなる暴力を生む。占領の任務は国防にはあたらない」と語っている。

 この呼びかけに対して、「やっとイスラエルから正常な声が出てきた。占領がユダヤ人の文化を破壊しているというのは本当だ。占領を終わらせることが暴力を終わらせ治安をもたらす」という意見から、「お前たちは国民に対する裏切り者だ。お前の好きなアラブ人が、いつかお前や家族を殺すことになるだろう。お前たちはユダヤ人のがんだ」という意見までが出ている由。

 殺し合いの場から遠く離れ、どちらの民族にも属さず、客観的にものごとを見られる立場からは、どちらが聡明な意見で、どちらが愚かな意見かは明白だ。かりに、過渡的な悲劇があったとしても、どちらを取るべきかも明らかだ。しかし、渦中に入れば、聡明な見方に立つことは難しいのかもしれない。

 よく夢想すること。彼の地を半分に分割し、その一方にユダヤ人を殺しアラブ人の手に土地を戻せと主張するアラブ過激派と徹底的にアラブ人から土地を奪い取れというシオニストとを住まわせる。もう一方になんとか双方の宗教と生活を両立させるためテロと武力の行使を廃棄しようとする穏健派どうしを住まわせる。そんなことができたら、どうなるだろうかと。

 過激派と強硬派は限りなくテロと報復を繰り返し続けるだろう。互いに持てる血の最後の一滴までを絞りつくして殺し合うのだ。そして、最後の一人が残ったら、もう一方の地域に住む人々は、たった一回、彼らのポリシーを破って、その生き残りの最強のテロリストだかシオニストだかを殺す。これで、約束の地はふたつとも寛容と知恵を尊ぶ人々の土地になる。

 今、現在、軍務拒否の手紙の賛同者は210人になっている。この東洋の地に住む人間には、どちらでもいいことだが、できるならこの呼びかけが実を結べばいいと願う。(2/10/2002)

 ソルトレークオリンピック開幕。11時から開会式の中継が始まっていることは知っていたが、あまり「見よう」という気にならなかった。お昼のニュースを見るつもりでスイッチを入れると、恒例になったショーがまだ続いていた。ちょうど歴史ショーの中、西部に開拓者が押しかけるくだりのようだった。チャラチャラしたシナリオに、思わず「先住民を殺しまくったシーンはないのか、辛うじて生き残った先住民から土地をまきあげたシーンはやらないのか」と難癖をつけたくなった。

 現在、北米大陸を我が物顔に闊歩し「自由」だの「民主主義」だのを大声で叫んでいる連中、彼らのほんの二、三世代前の先祖は9月11日にWTCビルに突撃を試みたテロリストたちが逆立ちしても及ばないような蛮行をしてのけた「ならず者」どもだった。

 平原文化圏のインディアンに対する虐殺は1860年からウーンデッド・ニーの殺戮のあった1890年までの三十年間に集中しているが、1860年代初頭にはスペンサーが連発銃を発明し、ガトリング機関銃に特許がおりた。・・・(略)・・・
 そのために、どれほどの弾丸がインディアンの身にふりそそいだか。一例をあげよう。サンド・クリークの虐殺。・・・(略)・・・
 1864年11月29日早朝。J・M・シヴィントン大佐は千名の部下を集めて、「体の大小にかかわらず殺し、頭皮を剥げ。しらみの卵はしらみになるのだ」と訓示したあと、コロラド州サンド・クリークのほとりに宿営していた約五百名のシャイアン族を急襲。酋長ブラック・ケトル(インディアン名モタヴィット)は米国旗および白旗を掲げたが無視され、大砲と小銃の弾が宿営地に雨あられとふりそそいだ。約三百四十名はかろうじて脱出したが、約百五十名が殺害され九名が捕虜となった。死者のうち三分の二は女と子供である。虐殺のあと、アメリカ兵たちはナイフを使って死体を弄ぶ。ナイフで男根を切りとり、「これでタバコ入れをつくる」という者や、死んだ妊婦の腹を引き裂いてその子宮から胎児をつかみだす者がサンド・クリークのほとりをうずめつくす。翌日アメリカ兵は殺戮現場をうろつきまわり、インディアンの頭皮を剥ぎとったり、死体を切断したりするのに夢中になった。「そのとき、よちよち歩きの幼児が、どういうわけか現場にふらふらと現れました。すると兵隊たちは狂ったように、その子を撃ち殺す競争をしはじめたのです」とラーフ・K・アンドリストは証言しているが、アメリカ近代陸軍育成史はかくのごとく、残虐な行為に不感症になるための訓練の歴史でもあったのだ。しかも、この非道さは、兵士ひとりひとりの責だけに帰すべきものでもなく、軍隊という組織の機能の面だけでとらえられる問題でもない。必然的にその側面として、雲霞のごとく押し寄せてくる植民者をはじめとする白いアメリカの一般市民が、熱っぽくインディアンの血を求めるという状況があった。つまりサンド・クリークの虐殺は、西部へやって来た自営農民や小商人たちの代理行為でもあったのである。

――豊浦志朗「叛アメリカ史」――

 歴史ショーをやるなら忠実にやれ。WTCビルの惨劇をアピールしテロリストを非難するのなら西部開拓時代に自らの先人が行った恥ずべきテロ行為も演じて見せろ。オリンピックの場で人間の非寛容の恐ろしさを示すのは悪くはない。しかし、世界中の心ある人々は、アメリカが繰り返す手前勝手な正義のつまみ食いに辟易しているということを忘れるな。

 911のテロに比べて、サンド・クリーク虐殺の被害者が少ないなどとは言わせない。「叛アメリカ史」の続きにはこんな数字が紹介されている。

 この結果、1776年アメリカ合衆国建国当時百十五万人と類推されたアメリカ先住民インディアンは、1870年の記録で二万五千人に激減する。この数字はアメリカ合衆国陸軍の発表したもので、より辺境地のインディアンはふくまれていないが、これほどみごとな民族絶滅策はそうざらにはお目にかかれない。

 911のテロなど物の数ではない。ビンラディンなどかわいい子供だ。ブッシュが懐かしがる強いアメリカというのは白いテロリスト国家そのものだ。よくもまあ臆面もなくあんな歴史ショーで自らを飾りたてられたものだ、恥を知れ、恥を。(2/9/2002)

豊浦志朗といってもぴんと来ない方でも、船戸与一といえば、分かる方が多いかも。小説家で、「山猫の夏」とか、「猛き箱舟」などが有名。もう一つのペンネームは外浦吾郎。こちらの方は「ゴルゴ13シリーズ」の原作の一部を担当するときのもの。

 夕刊に載った赤坂真理の「外相更迭劇と巨泉氏辞職」がよかった。(中央公論の2月号をチェックし忘れたことを今思い出した

 世界の先進国といわれるこの日本の、外務大臣はたしかに外務ができなかったが、首相にも政策も信念も、説明能力すらもないのがよくわかった、というより更迭劇よりも、同日に起こった大橋巨泉参議院議員の電撃辞職の方を私は重くみたい。そちらのほうが、本質的な希望がある。・・・(略)・・・小泉はいまだ何もしていないが、田中は少なくとも、外務省「内部」の構造改革をしようとした。これが結局、小泉より田中の人気が今でも高いことの大きな理由のひとつだと思う。・・・(略)・・・「個人」の人気によって、個人的に最も憤りを感じるツボを徹底的につつき、それがさらなる大衆人気につながっていたという仕組みが田中真紀子に関してあった。彼女の怒りも、人気も、「内向き」という質に支えられていた。肝心の外交では無能に近かった。そしてこの先もありうる「混乱」とダメージを恐れたトップは、どうしたかというと、しかしやはり、それを「内部」的責任問題として処理した。外交の場の失敗でなく。誰も、誰も、外に対する働きかけができない。外国はおろか、自国民に対してさえ。大橋巨泉一人が、そのとき、「構造」を外から大局的に見る発言を、外に向かって、したのだった。彼は言う、「私は二大政党の拮抗によりバランスが保たれる二大政党制を実現したいと思い、可能性のある民主党に入った」。外国の方法をむやみに礼賛するのでなく、それがベターで、事実上可能な選択肢がほかにないからという、現実的な判断に感じた。・・・(略)・・・大橋の言ったことは、タイミング的にニュースの規模としては小さくなったが、重要な問題提起だ。彼は、なるほど「個人」の人気とカリスマで当選した人だが、外部構造を変えなければ個の力など、票一票と同じで、ないに等しいと知っている。それが民主主義における個人の力だ。内部から、言論で闘うことにより、状況を変えていこうという辻元清美議員らの慰留説得はもっともで真っ当だった。・・・(略)・・・が、内部のことが内部で処理される(潰される)現実がある限り、その真っ当な方法に期待するより、「外」から爆弾発言をした方がよいと大橋は判断し、実行したのだろう。その勇気を評価する。・・・(略)・・・大橋にこらえ性がないとの批判をよく聞いた。そう言う前に、究極の方法を使わなければ誰も聞く耳を持たないという状況の恐ろしさを考えたほうがいい。みんな平素、地道なことに耳を貸そうとなど、しないではないか。そして好きなのは「スター個人」ばかりである。大橋巨泉の言ったことはある意味で、個のスター性を目立たなくさせるような、層の厚い「構造」がほしい、ということなのだ。それをスター個人が言ったことに希望を感じる。スターが言わなければやはりだめなのは、状況の未熟さだが。

 巨泉は無責任で、我慢が足りないと思っていたが、これを読んで、そういう見方ができるかと思いつつ、眼を開かれた思い。(2/8/2002)

 平均株価、9,500円を割り込んで9,475円60銭。83年12月以来の安値ということ。例によっていろいろな分析がされている。小泉内閣の支持率低下により構造改革の先行きに懸念が生じてという理屈が多い。一喜一憂が市場心理というなら、さもあろう。しかし、こんなことはとっくに見えていた話ではないか。小泉はどうやら経済には弱いようだ。とすればどれほどのブレーンを置いているかということになるが、期待はできない。竹中経済担当相がどの程度のものかは、彼が小渕の頃から参加していることを考えれば、分かる通りなのだから。竹中なりそれに連なる構造改革派の多くは「市場原理主義者」だ。「イスラム原理主義」、「聖書原理主義」、・・・、この世の中にはたくさんの「原理主義」がはびこっているが、人々を幸せにする「原理主義」はあるのだろうか。(2/5/2002)

 小泉内閣の支持率が急降下、既に週末からいくつかの番組では「速報版」の形で報じていたが、おおむね50%程度というところ。70から80%台の支持率だったわけだから、株価同様、一気に価値が低落した印象を与えることは確か。しかし、「支持」の中味もバブルだったし、「不支持」に転じた部分の中味もさして深い理解にたった「不支持」回答というわけではなかろうから、どれほどの意味があるわけでもない。いまだ半数に近い「支持層」の中で、本当に小泉の進める「構造改革」なるものが自分の利益になるのは、そう、三分一程度だろうから、まだ全体の30%程度の連中が、自分の利益も望ましい未来も忘れて、「そういったって、小泉さん」などという幻想を見ているわけだ。

 「目明き千人、めくら千人」というが、目が開いてるつもりのめくらが存外多いというのが、世の常なのかもしれぬ。(2/4/2002)

 **とラグビーの日本選手権決勝を見る。サントリー対神戸製鋼。神戸製鋼が先制のトライをし、ゴールはならなかった直後、サントリーがあっさりトライ&ゴール。いくぶん神戸が押し気味ながら、前半は7−5でそのまま終了。後半、神戸が立て続けにトライを決めて、一時、7−17とするが、サントリーはまたも時をおかずに盛り返しトライ・ゴールを立て続けに決めて21−17と逆転。

 しかし、リードはしているもののワントライで逆転のケース。次の得点をどちらがあげるか、行き詰まる攻防だった。ロスタイムに入ってすぐに、神戸の決定的チャンスをサントリーの栗原がタックルでつぶす。そして5分のロスタイム終了間際、逆に鮮やかなトライを決めて28−17でサントリーが勝った。

 その勝負を決したトライを**が解説してくれた。ラックから出たボールを伊藤が受ける。その右後ろには斎藤がいた。伊藤のマーク役は増保、斎藤のマーク役が本来その位置ではない神戸のチーム内で一番小さい選手だった。増保はそのカバーのため幾分伊藤から見て右に寄り、伊藤から渡るパスが斎藤にキャッチされるのを確信し、それを待っていた。ビデオで見ると増保はほとんど伊藤を見ていない。ノーマークになった伊藤の眼前にぽっかりと穴が開いた、と、そういうことだという。ラグビーも、細部で起きていることを知りながら見ると、格段に面白い。(2/3/2002)

 小泉首相の決定は喧嘩両成敗。三者がそれぞれに職責を解かれたことから「三方一両損」と評しているむきもあるようだが、どちらも的確な表現ではない。トラブルの直接の原因を作った鈴木宗男など、自民党内の組織とはいうものの対外経済協力委員長でいるわけだから、ODAに口出しできるポジションは失ったわけではない。鈴木のような利権屋にとって議運委員長のポストなどよりはるかに重要なポジションが維持されているわけだから、損など何もしていないといってよい。野上にとっても同様の事情。表に立つことはできなくても、大臣と差し違えたという勲章はこれから裏へ回れば、いろいろな場面で役立つに違いない。田中は善玉として馘首になったがために、そのトラブルの数々を帳消しにして「記憶」に残る大臣になるかもしれない。

 いずれにしても、特殊法人改革で見せた小泉流そのままではないか。本質の問題についてはふれずに、詮ずるところ「抵抗勢力」なるものにセッセセッセと実質的な花を送ることをしているのだから、ざまはない。改革などどこを探してもありはしない。(1/31/2002)

 夕刊にジョン・ダワーの「理性の声聞かぬアメリカ」が載っていた。同時多発テロと呼ばれる事件が、ブッシュ政権に対する批判を封じている間に、どれほど事態が悪くなっているのかが整理されていて、一読、絶望的にならざるを得ない一文だった。

 一方、田中宇のメルマガには、合衆国政府はテロの危険性について情報を集めていたFBIの調査活動を停止したり発生後の対処も疑問符のつくことが多いらしい。「事前に知りながら放置した」という疑いは、真珠湾に対するルーズベルトの先例があるが、ひょっとするとWTCに対するブッシュも、将来、そのように語られるようになるのかもしれない。

 そのほかのニュース。大橋巨泉が参議院議員を辞職。わずか半年足らずで辞めるとは、一般論で言えば、無責任ということになろう。政治家になるということが読みの甘さ、民主党からというのが考え違い、そして何より我慢がないということか。(1/29/2002)

 休暇を取り、**のパソコンの復旧作業。予想以上にウィルス感染が進んでいて苦戦。テレビの前に据えて、ワイドショーを見ながらの作業。

 ワイドショーもスポーツ新聞同様、最近は政治ネタを積極的に取り上げている。まあ、誰が嘘をついているのかという話だから、取り上げやすいのかもしれない。画面を見ながら、ちょっと思いついたことがある。

 外務官僚がいかに小粒になったとはいえ、最初から鈴木の名前を出して出席拒否を伝えたというのは、不思議な気がする。議員の名前を出せば「ヘヘェー」となる相手なら分からぬでもないが、相手のNGOのメンバーがそういう人たちでないことは分かっていた。仮に彼らが脅しに弱いタイプだったとしても、それでも言わずに済むことを言うのはあまりにも官僚らしくない。

 世間は、今、野上事務次官が鈴木に忠義立てをしていると受け取っているようだが、必ずしもそうとも限らないような気がしてきた。たぶん、野上は馘首になるだろう。しかし、今後、鈴木から外務省に今回と似たような「圧力」がかけられたとき、「先生、野上さん、あれほどの人が先生のお顔をたてるために、辞めることになったことを思い出してください」、そう言うことができるかもしれない。

 早くから鈴木の名前が出たことは、不自然と言えば不自然。案外、鈴木は、嵌められたのかもしれない。(1/28/2002)

 アフガン復興支援会議で外務省がNGOを締め出した件について。締め出し騒ぎの翌日の日経朝刊、編集委員原田勝広の署名記事から。

 そのプラットフォームの参加をなぜ、外務省が拒否したのか。ひとつには、外務省でNGOとつきあいが深く、NGOの重要性を認識しているのは経済協力局である。会議を仕切ったのは違う部局で、外務省でもNGOへの信頼感に温度差があることは否めない。
 加えて、政治との微妙な関係がある。プラットフォームは、時代に敏感な若手政治家が支援していた。外務省に影響力を持ち、有力NGOの参加に圧力をかけたとされる実力議員は、こうした"新しい風"の外に置かれた形になっていた。
 昨年十二月にアフガンのNGO団体を招きプラットフォーム主催でアフガン復興NGO東京会議が開かれたときには、この議員が経費の一部に「草の根無償資金」を充てることに異議を唱え、同省は拠出を断念した経緯がある。議員はプラットフォーム関係者を呼び「税金を集めているのは自分。行儀の悪いNGOには税金は使わせない」などと怒っており、それが参加拒否の騒動の背景にある。

 NGOの参加を排除したのは狭量な外務省の小役人根性だろうと思っていたが、この記事を見る限り、それは鈴木宗男自身の差し金だったようだ。月曜当日、大西健丞のNGO外しは鈴木議員の指示と外務省の担当から聞いたという発言に対して、容疑を否認するより「だいたい政府を批判しながら、会議に出させろというのはおかしい」などとNGO批判に力点を置いていたのはそういう事情の現れだったのかと、いまごろ合点。

 それにしても「税金を集めているのは自分」とは言いも言ったりだ。言葉を知らぬ鈴木に正しい日本語の使い方を教えてやろう、「税金を食い物にしているのは自分」というのが正確な言い方だと。

 ところでこの問題、昨日の国会審議で田中外相が「事務次官が具体的に鈴木の名前を挙げて事実を認めた」旨の答弁してから、論議の焦点がずれてしまった。事務次官は事務方作成のメモを根拠に「そういうことはいっていない」といい、鈴木に至っては「外務大臣は虚言癖がある」と攻撃をはじめた。こうして、論議は「三人のうち誰が嘘をついているのか」ということにシフトしてしまった。

 しかし、問題はそんなところにあるのではない。NGOを締め出すという決定を誰がどのようにしたのか、それが問題なのだ。誰の命令でNGOを会場に入れなかったのか。彼にはその命令を出す権限があったのかなかったのか。そして彼の判断はどのような根拠に基づくものだったのか。そのことをはっきりさせることが先決問題だ。そうすれば、鈴木という寄生虫の生態も役割も、自ずと分かることだろう。(1/26/2002)

 はじめ、ラジオで「雪印食品がオーストラリア産牛肉を国産と偽り・・・」ときいた時、アナウンサーが読み間違えたものと思った。狂牛病の疑いのある国産牛を輸入肉と偽って販売というのがありがちな話だ。しかし、事実はそうではなかった。狂牛病の疑いのない輸入肉を疑いのある国産牛と偽って国に引き取らせて補償金を詐取するというのが雪印が考えたシナリオだった。この三日間、雪印はマスコミの好餌となった。誰もが一昨年の雪印乳業の不祥事を思いだし、それにしてもまたバカなことを思っている。数百万と伝えられる利益と会社の信用を引き換えるなど、愚かしいことこの上ない。

 だが、その程度の利益にふらふらとよろめくのは何か別の事情を想像させる。件の食肉センターのセンター長は「自分が指示してやった、会社からの指示ではない」といっている。たぶんそれはその通りだろう。「向こう傷は問わない」などと言ってくれる上司は、むしろ、例外だ。そういうことはおくびにも出さずに「キミも管理職なら数字の責任は取れ。きれいごとなんか聞きたくない。不良在庫の処理くらい片付けようがあるだろ。これ以上の赤は許さんからな」というのが、世の中、普通の話。当節、数字をきれいに保ちながら、牛肉の在庫をはくことが簡単でないことは、それを言うトップだって分かっている。

 狡く責任を回避しながら泥をかぶらせるのがトップの仕事になっている。そういう会社がけっして例外ではなく増えつつあることを多くのサラリーマンは感じている。(1/25/2002)

 朝のラジオで荒川洋治が本の検印をテーマに取り上げていた。昔は奥付には必ず捺印された小さい紙片が貼ってあるか、検印という欄に判が押してありその上にパラフィン紙が貼ってあった。いつ頃からか「著者との申し合わせにより検印を省略」などと印刷してあるものが目立ち始め、最近ではもうその痕跡すら残っていない。

 パラフィン紙といえば、文庫・新書のみならず普通の本にもカバーとして使われていたが、本屋で売れるまでのうちに破れてしまうのが嫌われたものか、いつのまにか見かけなくなった。見かけなくなったのはそれに限らない。外箱と呼ぶのだろうか、文学書や詩集などは厚手の紙、専門書などはそれに比べると少し薄手のボール紙で作られた専用のケース、あれも少なくなった。緩くもなく、きつくもなく、ちょっとスナップをきかせた所作で程よく本が滑り出てくるように絶妙に調整された外箱、そういう手仕事はもう失われつつある技術なのかもしれない。あれは本というものが貴重品であった名残だったのかもしれぬが、本を開くまでにちょっとした手間を要するということ、その一呼吸は思えば貴重なものだった。

 ひたすら効率を優先し、効果を発揮するもの以外にコストをかけることを神経質なまでに排除しようとする風潮のもとでは、本の外箱は法外な贅沢と思われているのだろう。しかし、本を読むということは、ちょっと他人より物知りになってはやりの「差別化」をはかろうなどということより、日常生活の中に許された小さな贅沢という意味の方が大きい。もう少し、外箱入りの本が復活してもいいはずだ。(1/22/2002)

 アフガン復興支援会議。作っては壊すのが人間の性といえばそうかもしれないが、それにしても好きなように破壊し尽くして今度は復興というのはどこかおかしな話。しかし、その開催国であるこの国の政府はもっとおかしい。先週、朝日の「ひと」欄で「ぼくたちにとって『顔が見える支援』とは交渉相手と認めてもらって、その先の政治プロセスなどにもかかわってゆくための手段。政府は掛け声ばかりで、それが目的化している」と語ったNGO代表大西健丞の言葉に腹を立てた外務省が、彼のかかわるNGO二団体の会議への参加を拒否したのだ。なんという狭量、なんという非常識、しかもそれを世界が注目する場で自ら証明してみせたのだから、呆れ果ててものも言えぬ。

 夜のニュースによれば、外務省の担当者は鈴木宗男からの差し金があったと語った由。鈴木がいかに外務省に寄生する存在であろうと、支援会議で決めたカネを実際に使って仕事をするのがNGOであるくらいのことは承知していようし、世界の注目がそちらにも集まっていることも分からぬほどバカでもあるまい。たぶん、肝っ玉の小さな外務官僚の虎の威を借りた言い訳ではないか。(1/21/2002)

 新宿中央公園で消化器爆弾が爆発。ホームレスの男性が左手を吹き飛ばされるなどして重体。今年に入ってから既に数件、発火装置などによるボヤ騒ぎがあり、警察では関連を調べているという。

 先週、何曜日だったろうか、朝、渋谷に着く前、宮下公園の駐車場入り口あたりに消防車が止まり、公園のホームレスの小屋を囲むように住民や制服の消防官らしい人たちが立っているのが電車から見えたが、あれもそうだったのだろうか。

 目障りなホームレスを狙うというのは、いかにも右翼マインドの若者がやりそうなことにも思える一方、フリーマーケットの会場近くというから無差別に人混みを狙った愉快犯なのかもしれない。

 腹立たしいことばかりで、その憂さを晴らしたいという気持ちなら、ご同輩といえぬわけでもない。(1/19/2002)

 日経夕刊にこんな記事が載っている。見出し、「米の国家エネルギー政策 エンロンの意向通り」

 ワクスマン米下院議員(民主党)はブッシュ大統領が昨春発表した国家エネルギー政策のうち、エンロンの要望通りの内容が十七項目に上るとする調査結果を公表した。同議員は政策をまとめたチェイニー副大統領らが同社のレイ会長や幹部と繰り返し会っていた点を重視。政府が同社に便宜をはかった疑いが強まったとしている。
 調査結果によると、エンロンの意向通りになった政策は送電網を流れる電力の取引自由化、新規参入会社などによる電力会社の株式保有規制撤廃など規制緩和関連の項目が多い。デリバティブ(金融派生商品)取引の推進、インドのエネルギー開発促進、温暖化ガスの排出権取引市場の検討などもあるという。

 同じ日経の12日朝刊コラムは、エンロンの「従業員や幹部が1993年から2001年までの間に62万ドルをブッシュ陣営に献金した」ということや、「大統領、副大統領、エバンズ商務長官らが政権入り前にエネルギー会社の経営に関与していたことも、同社との関係の深さが取りざたされる背景だ」ということを上げ、「エンロン・ゲート」が政権運営を撹乱する恐れも出ていると書いていた。ブッシュという男の「マナー」の悪さが、少しずつ、明らかになってきたようだ。(1/18/2002)

 あれから7年なのだそうだ。阪神大震災。あれは連休明けの朝だった。地震のニュースは出掛けには知っていたが、明け方だったから火災などの二次災害は少ないものと思っていた。午後の会議のはじめに有楽町から電車で来たメンバーから「深刻な被害」と聞いて意外な気がしたのを憶えている。

 あの年は震災に始まってオウムに終始した年だった。ついでにいえば、長い間なんとなく芋っぽくて本気で使う気にはなれなかったWindowsが一皮むけてWindows95になった年でもあった。

 橋本治は「二十世紀」の中でこんな風に書いている。

 オウム真理教の事件は、日本における「思想の死」を語るものであり、一九六〇年代初めの「所得倍増計画」からスタートしてバブル経済の破綻に至るまでの間、経済優先の高度成長の日本に「なに」が進行していたかを語るものだろう。

 この年に続く1996年に関する「二十世紀」の記述は、今へつながるこの国の問題を的確に指摘している。少しまとまった時間があれば、きっちりと跡付けをしながら考えてみたいものだ。(1/17/2002)

 成人の日、ハッピーマンデー法とやらによる祝日。昨日は那覇で会場に酒樽を持ち込もうとした新成人のグループと警官隊がもみ合いになり逮捕者を出す騒ぎ。あちこちの成人祝賀の催しはトラブル対策を優先するあまりに滑稽なものも。そのひとつがさいたま市。父兄同伴なのだそうだ。浦安市はディズニーランドで開催した由。ここまで来ると、はい、はい、とそれだけ。(1/14/2002)

 週末に読もうと思って切り抜いたものから。10日付朝日朝刊、タイトルは「競争力忘れた空港改組」。

 特殊法人改革の焦点のひとつになっている成田、関西、中部の3空港の改組は、暮れに結論先送りになったのだそうだ。ポイントは大赤字の関空の二期工事を進めるために成田の黒字をつぎこむという、どこかで聞いたようなことを実現するために「上下分離」という「奇策」を案出していること。上下の「下」は3空港の滑走路を建設し保有する公益法人、「上」は空港ごとの管理・運営をする民営会社、「上」は「下」から滑走路を借りて「下」に賃貸料を支払う。成田というどんぶりの中に、現在赤字の関空と、開業すれば即赤字を出してくれる中部をまとめてしまおうという腹積もりなのだ。

 その成田は、ジャンボの一回の着陸料が95万円、世界主要空港の約3倍のカネを取った上での黒字なのだから、何をかいわんや。現にFedExは去年上海空港近くに物流センターを設置したという。あわせて「成田の料金は世界最高水準で、ビジネス上の障害」というありがたい評価もいただいている由。

 竹中大臣の「ユニクロ品質を時給50円で生産する50億人の労働力」という言葉は中国の経済的脅威を意識したものと言えぬでもない。また、週中の新聞広告には「SAPIO」新年号の「中国の化けの皮」なる特集活字が躍っていた。特集のいささか下品なタイトルはアジアの盟主の座を中国に譲らざるを得ない予感に苛立っている右翼マインド人士の心理を代弁したものだろう。(「SAPIO」の「知力」では診断することも処方戔を書くことも適わないので、謀略仕立ての読み物で憂さ晴らしをしているのだろう、可哀想に)

 なにがなんでも「仮想敵」を作らねば満足できないという少しばかり子供っぽい「SAPIO」の読者に教えてあげたい。敵は中国ではない、と。

 ハブ空港プランひとつをとっても、場当たり的な政策しか打ち出せず、みずから望んで地盤沈下の道を選択している国交省官僚と、「構造改革」をうたいながら真の「構造問題」を的確にとらえることができず、いっこうに「改革」の歩を進められぬ小泉内閣こそ、獅子身中の「敵」なのだ、と。(1/13/2002)

 スワローズの石井がドジャース、ブルーウェーブの田口がカージナルス、この一週間のスポーツの話題。イチローと同じポスティングシステムにかかった石井の落札額は約15億円。イチローが約14億円だったため一部ではイチローを越えたと大騒ぎ。しかし、これは数字のマジック、いや、為替レートのマジックに過ぎない。イチローの落札額は1,312万5,000ドル、石井は1,126万4,055ドル。最近の円安のため、石井がイチローを上回ったように見えただけの話。

 産業空洞化やら国際競争力やらの話になると、決まって「日本の賃金は高過ぎるために国際競争力を失っている」という主張を聞かされる。竹中経済財政担当相は「中国には時給50円でユニクロの品質で生産する労働力が10億人もいる。日本ではコンビニのバイトでも時給1,000円だ。グローバル化が進む中で、日本は20倍の生産性を上げなければ、中国に負けてしまう」といったそうだが、為替レートを考慮に入れた時給比較をしないと、客観的には事実を反映していないことを頭から信じ込むような愚を犯すことになる。

 ところが、その為替レートは、たぶんいくつかの経済的パラメータをベースとして、経済心理的プロセスを介して決まっているはず。そういうものである以上、竹中の話は彼の面付きに似てあまりにノッペラボーであるという点で論議に値しない。なにより時給50円で暮らすことができる社会と時給1,000円では暮らせない社会の経済基盤はあまりにも違いすぎるし、そこに存在する経済活動(ビジネスチャンスといってもよい)もおのずから異なることは、素人にも想像がつくことだ。(1/12/2002)

 朝刊に、電力業界が原発コストに対して国の支援策を要請する方向で協議を開始したというニュースが載っている。「電力小売りの自由化拡大が確実となり、原発を持たない新規参入者に比べて価格競争で不利になる懸念が出てきたためだ」というのだから嗤わせる。原発推進論者は大昔から「原子力発電は火力発電よりもコストが低い」と大声で主張してきたではないか。最近、どうも「原子力発電はCO2を発生させないクリーンな発電だ」という語り口ばかり聞かされるようになって、低コストアピールがなくなって「どうしたのかな」と思っていたら、「カネ食い虫だから、カネよこせ」という作戦に切り替える準備をしていたということか。

 発電施設のライフサイクルをきちんと評価したコスト計算を行えば、原子力発電のコストは天然ガス発電はもちろんのこと、石油火力発電や石炭火力発電のコストをすら軽くオーバーすることはとっくに分かっていた。電力業が独占型であったために価格転嫁をしている実態があらわにならなかっただけのことだ。電力が自由化されれば、そんな詐欺行為は成立しない。いい加減な嘘っぱちを並べ立ててきた各電力会社が青くなってエネルギー国策論を根拠に税金で何とかしろというとんでもない主張の検討に入ったのはそういう事情によるものだろう。

 彼らは飾りたてた美しい嘘がうまい。「カネをくれ」と言う身もふたもない要求に、嘘つきのプロたちがどんなお化粧をするものか、その出来具合を楽しみに待つことにしよう。嘘を正当化してみせる手段は、所詮、嘘によるほかはない。上質なミステリーを読むくらいの楽しみは味わえるかもしれない。呵々。(1/11/2002)

 「どんと」に行く前、三省堂で立花隆の「青春漂流」を購入。この本は一体何冊買ったことだろう。みんなに薦めた、仙台やら塩釜には送りもした。あちこちに貸しているうちにいつのまにか手許からなくなってしまっていた。

 早速あとがきを確かめた。ところがあとがきには空海の「謎の空白時代」の話は出てくるものの、どこにも「司馬遼太郎」にも、「空海の風景」にもふれた箇所がない。ということは、どうやら他で読んだことが「青春漂流」の記憶の中に混入してしまったものらしい。よくあることか、それとも歳のせいか。(1/10/2002)

 朝刊にアフガンから戻った辺見庸のレポート。

 好みで風景に分け入り、ありとあらゆる感官を総動員して紡ぐ言葉と、書斎で想像をたくましくしてつづる文言の「誤差」が、どうにも気になってしかたがなかった。だから、私はカブールに行ってみた。
・・・(中略)・・・
 カブールが「解放」され、女性たちはブルカを脱ぎはじめているというテレビ報道があった。しかし、この遠近法には狂いがある。ほとんどの女性はブルカを脱いではいない。やはりもっと近づいてみたほうがいいのだ。あるとき、私は煮しめたような色のブルカを着た物ごいの女性に近づいてみた。凍てついた路上に痩せこけた半裸の赤ん坊を転がして、同情を買おうとしていた。顔面中央を覆うメッシュごしに、彼女の眼光がきらめいた。案外に若い女性であった。これほどつよい眼の光を私は見たことがない。その光は、哀願だけではない、譴責、糾弾、絶望の色をこもごも帯びて、私をぶすりと刺した。ブルカは脱ぐも脱がないもない、しばしば、生きんがための屈辱を隠してもいるのだと知った。

 同じ面には豊下楢彦の「”裏の歴史”が問い直される」が載っている。アメリカが延々と続けてきた場当たり的な非合法行為が同時多発テロという果実にみのるまでが書いてある。げに因果はめぐるもの。

 夕刊には「トラボラ捜索『終了』」の見出し。二月ほど前にはビンラディンの所在はカンダハル近郊の数十キロ四方に絞られたと言っていた。一月前にはトラボラの山岳地帯に潜伏していることは確実と言っていた。「そら、カンダハルだ」、「ほれ、トラボラだ」、あげくが「いなかった」ときた。嗤わせる。

 手許の地図に定規を当ててみるとカンダハルとトラボラの間は5.5センチ。縮率は8,750,000分の1だから、直線距離で0.055×8,750,000で480キロあまり。そうね、新幹線に乗れば3時間もあればいいし、高速道路でゆっくり走っても6時間もあれば移動できるのだから簡単なことだ。アメリカの掃討作戦とはその程度のものなのだね。そのわりにはずいぶんと無関係な人々を殺したものだが。

 さあ、今度爆撃したいのはどこかな、そこにビンラディンが居るんだろ。・・・、居ないかもしれないけれど。(1/8/2002)

 日経朝刊の「風見鶏」を読む。筆者は伊奈久喜編集委員。題して「日本の『反米』を解剖する」。まず、アメリカの外交政策に基本的に反対する立場を反米主義と定義した上で、日本には左翼反米主義と右翼反米主義の二つの反米主義があったが最近新しい流れが出て来ていると説き起こす。この新しい流れには3つの特徴がある。ひとつめがこの立場の人は「反米」と呼ばれるのを嫌うが自分たちの言動が「反米」と見られるのに気付かないこと。ふたつめが冷戦後左翼陣営は左翼色を薄めるために中道に翼をのばし環境政策を重視したがこの流れに乗っているということ。みっつめが反米主義の基礎は反エリート主義にありその裏には心の屈折があるということ。この三点が「中道反米主義」と名付ける新しい反米主義の特徴だそうだ。結びは「反米論に対する米国社会の反応はどうか。・・・それは隣国の一部メディアの毎度毎度の日本批判に接したときの平均的日本人の思いに近い。分かる気がする」と手慣れた締めくくりだが、何を言っているわけでもない、ただの捨てぜりふというところ。記事の要約が下手なのではない。書いてあることをそのまま書いて、この通りなのだ。

 ブッシュ政権の二者択一の選択結果だけから味方か敵かを峻別するという恐るべきバカさ加減は嗤い飛ばす以外にどんな方策があるというのだろう。それは「親米」・「反米」以前の問題だろう。環境問題は経済成長至上主義の迷妄から醒める知恵を持っているか否かの問題だ。現在においては、左翼・右翼というイデオロギーの問題などではない。「成長の限界」を顧慮することなく自滅の道を辿ることを拒否することが「反米」だとでもいいたいのだろうか。エリートコースに対するルサンチマンが反米主義の基礎だというのは、まるで「イスラム圏の人々は我々が手にしている自由と富が妬ましいのだ」と信じて疑わぬ愚かなアメリカ人の精神構造のコピーそのものではないか。

 なんとも、お粗末な論考で、一読「なんだバカバカしい」。日経の編集委員はこの程度の「眼」なのか、がっかりだ。それともブッシュ仕込みの低能ウィルスに感染したのかな?(1/7/2002)

 元日の日記に書いた楽友会館「正面上部にあるマーク」はユーロのマークだったと、朝刊のニューイヤーコンサート評で知った。おおむね好評だった由。よく考えれば、ウケたかどうか、それはどうでもよいことで、自分は楽しむことができたかどうか、それがすべてだったはず。(1/6/2002)

 二夜連続の「空海の風景」(NHK)を見る。立花隆の「青春漂流」のあとがきで司馬遼太郎にこの著作があることは知っていたが、「この国のかたち」以来、司馬を信用しなくなったせいもあって読もうとは思わなかった。この番組も、「司馬遼太郎は嘘がうまい」という警戒感がぬけないものだから、すんなりと入ってゆけなかった。

 なるほど「空海」は巨大な謎である。しかし、残念ながらその謎はこの番組ではほとんど解決されない。ごく当然に浮かぶはずの疑問に対する突っ込みが足りないように思える。それは、たぶん、「空海の風景」という作品、ひいては司馬遼太郎の作品に共通して内在する欠陥だ。

 いくつも浮かぶ疑問から、ひとつだけあげる。中国に漂着したとき、空海の会話力はどの程度のもので、それはどのようにして身に付けたものだったのだろうか。

 スタティックなもの、中国文化に関する深い知識は、彼の家系と家庭環境に基づくとする司馬の説明で不十分ながら一応納得するとして、ダイナミックなもの、初めて言葉を交わした漂着先の漁村の下層民に彼の発音は通じたのか、半年にも満たぬ間に真言密教相伝に至ったコミュニケーションはどのようにして可能なものだったのかなど、相応の会話力がなくては、それぞれ、とても適いそうもない。単に漢籍に通じていただけでは難しかろう。空海の謎は、はたしてそれが謎なのかという根本的な疑いを含めて、そこにあるのではないか。

 原作はこういう疑問に触れているのだろうか。しかし、吉右衛門が朗読する司馬の言葉は、こうした疑問をうまくすりぬけ円運動するばかりで、けっして謎の核心には向かわない。おそらく、司馬の他の作品に見られるように、「謎」を大きくさせて「伝説化」をより強めているだけだろう。

 まあ、村夫子向きの知的装いを凝らしたエンターテイメントとすれば、こんなものなのかもしれないが、なにもNHKまでがそれをなぞることはあるまい。(1/5/2002)

 日経夕刊に3日付のウォールストリート・ジャーナル紙の社説を紹介する記事。見出しは「日本は早く減税を」。以下、その一部。

 日本が早く経済成長を取り戻さないと、社会の安定は損なわれ、アルゼンチン同様の深刻な危機に直面しかねないとの見方を示した。国内への投資を誘導する減税が景気回復には最も効果があると主張している。
 同紙は財政の不均衡より経済の停滞の方が大きな問題だと指摘。小泉純一郎政権が減税ではなく歳出抑制に傾いていることを、レーガン政権前の米国の財政状況とも比較しながら批判した。そのうえで「日本の政治階級はアルゼンチンの仲間たちと同じく自己破壊的な慣習から抜け出せないようだ」と皮肉っている。

 「レーガン政権前の米国の財政状況」というのが何をさしているのかは明らかでないし、アメリカの指導に従った結果がアルゼンチンの現在と知れば、こんな論説そのものが「いい気なものだ」とも思う。しかし、小泉の政策は、彼のマスコットキャラクタで想起されるもう一人のライオン宰相、浜口雄幸がとった「嵐に向かって窓を開いた」政策と同様の際どさを持っていることも事実。

 もっとも当の首相は紋付き羽織はかまで記者会見に臨むパフォーマンス。これを快挙と見るか、人気取りの痴戲と見るか。(1/4/2002)


 寒い。名古屋は41年ぶりの大雪とかで17センチの積雪。Uターンの足が乱れている。

 箱根駅伝は駒沢が優勝。二位順天堂、三位早稲田。駒沢は昨年の雪辱。早稲田は10区間中4区間で区間賞、一年生に有望ランナーが出て、来年以降が楽しみ。こうして見ていると、塞翁が馬とはよく言ったものだ。凶事の中に後の慶事の元があり、慶事の中に転じて凶事の因が存している。

 暮れになんとなしに買った「中央公論」の1月号、「戦争とアメリカと、いま私たちの生きづらさ」と題する赤坂真理のエッセイを読む。連載の第1回。これからが楽しみ。(1/3/2002)

 朝刊には、先月生まれた愛子ちゃんの写真。皇太子の小さい頃にも、雅子妃の鼻筋にも似ていて、なかなか利発そうな顔立ち。いい、赤ん坊ながら、気品がある。

 7時から衛星中継でウィーンフィルのニューイヤーコンサートを見る。正面上部にあるマークはなんだろう、いつもあんなところにあんなものがあっただろうか・・・、などと変に落ち着かないのは今年は小澤征爾の指揮だから。やたら会場の反応が気になって最初は楽しめなかった。小澤の実力が心配だったわけではない。シュトラウス中心のお祭りを東洋人として初めて振るということが心配だったのだ。

 ヨーゼフ・シュトラウスの「水彩画」や「とんぼ」などオーケストラの音色を十分楽しめるプログラムだったと思うが、ウィーンにはどう受け取られたのだろう。心なしか会場のノリが今一つだったというのは杞憂か。それでも最後はお約束のラデツキー行進曲に手拍子。幾分、ほっとしながら中継を見終えた。「意外に、オレも、日本人だなァ」との実感。(1/1/2002)

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