訪米した小泉首相がブッシュ大統領に「High Noon(真昼の決闘)」のポスターを贈ったというトピックス記事につられて「フレッド・ジンネマン自伝」を本棚から引っ張り出した。知られるようにこの映画はマッカーシズムの嵐が吹き荒れる頃に制作された。ジンネマンは「フォアマンは、これをマッカーシー時代に政治的告発をされた彼自身の体験に関するたとえ話だと見ていた。十分な敬意を表しながらも、わたしはこれを狭い見解だと感じている」と書き、続けてこんな話を書いている。

 その当時、1951年はマッカーシー時代が最高潮の時で、巨大なプレッシャーと不安感が安定を欠くハリウッド社会にもたらされ、反共産主義ヒステリーは、人々が考えることをやめ。感情的になり、とてつもなく誇張された噂の餌食となるまでに達していた。人々は疑いの目で互いに見あった。セットではクルー、俳優が敵対するグループに分極化された。
 撮影所は政治家に屈服した。シンパは上院の委員会に出席せねばならず、そこで共産主義者と思う人の名前を告げなくてはならなかった。もし拒否すれば、彼らは非友好的証人とされた。職を失い、彼らの映画はアメリカではどこでも上映されなかった。多くの無実の人々が告発され、人生を破滅させられた。
 映画界全体の非公式ブラックリストが存在した。我々の多くが信念を持ってすることを拒否した。忠誠の宣誓を強化しようという試みがなされた。監督ギルドでは、間もなく、「我々に同調しない者は敵対する者だ」というところまでいった。理事会はジョー・マンキーウィッツ会長が一時的にいない間、セシル・B・デミルに率いられていた。
 内規によって宣誓をすることに賛成か反対かを決める投票用紙がギルドのメンバーに送られ、理事会からの強い言葉を使ってイエスの投票を勧める手紙が同封されていた。従わぬ者は失業する可能性があることを強くにじませた個人的な脅迫が強烈だったので、メンバーのうち547人がイエスと投票し、14人がノーと投票し、私を含めて57人が投票を拒否した。その結果、理事会によってメンバーを脅して政治的道具にするという信じられないような試みがなされた。

 「我々に同調しない者は敵対する者だ」、最近、どこかで聞いた言葉だ。世の中を単純に二つに分け、敵、味方のいずれに付くのかを問う。社会が正気を失う時の典型的な言葉なのかもしれない。

 ところで、小泉は、この映画のラストシーン――孤独の戦いを終えたゲイリー・クーパー扮する保安官が連邦政府の権威のシンボルである錫の星バッジを捨てて町を出てゆく――を承知の上でブッシュにポスターを贈ったのだろうか、それが知りたい。(9/30/2001)

 野球からニュース二題。

 ひとつめは長島の監督辞任。昨夕は号外も出た由。選手としての長嶋は好きだった。当時の子供は「ゴロは前にダッシュしてとるものだ」と固く信じていた。だからゴロを待って捕るような子は一人もいなかった。たとえ石ころだらけの原っぱでイレギュラーすることが分かっていても、とにかく前へ突進してゴロを捕ろうとした。それは長嶋のプレイを真似ることで自分を長嶋に重ね合わせていたからだ。

 父に連れられて、はじめて後楽園球場のナイターで長嶋を見た時のことは忘れない。薄暮に点灯されたカクテル光線が、いつのまにか力強くグランドを照らし出していることに気がつき、子供心に何と美しい世界だろうと思ったことも鮮烈な想い出だ。カードは国鉄スワローズ対読売ジャイアンツだった。取引業者の年間契約席で一塁側ダッグアウトの真後ろだったのだが、当時、スワローズもジャイアンツも後楽園をホームにしていて、残念ながらその日はスワローズの主催ゲームだった。しかし、グランドの長嶋のプレイは、テレビで見るのとはぜんぜん違って見えた。彼は前に突進するだけではなかった。あきらかなショートゴロまで捕りにゆくのだった。前進して捕球体勢に入ろうとする広岡の眼前で、斜めに走り込んだ長嶋は鮮やかにグランドからボールを拾い上げ、あの指先まで演技する独特のフォームでファーストへ送球するのだった。よし明日からはあれを真似しよう。原っぱの制限から三角ベースしかできない、必然的に隣のポジションのタマを横取りするチャンスなどほとんどないにもかかわらず、帰る道々、強くそう思ったことを憶えている。

 大人になり数限りない試合を見続けながら、個々のプレイよりは試合の流れを読むような観客になった頃、長島は引退し監督になった。相変わらずジャイアンツファンではあったが、監督としての長島はどうしても好きになれなかった。ジャイアンツは残すべき人物を放出し、ジャイアンツがやっていたきっちりした野球はその人たちによってよそのチームに持って行かれたと思えた。かといって監督長島には選手長嶋が持っていた驚きを伴うような新しさは何もなかった。そして無能の象徴であるような大艦巨砲のチームが出来上がった時、ジャイアンツファンとおさらばをした。

 ふたつめはイチローがメジャーの新人安打数記録に並んだこと。中継のあったアスレチックス戦で2本の内野安打をうち、ジョー・ジャクソンが持っていた新人の年間安打記録233本に並んだ。

 ジョー・ジャクソン(ジョゼフ・ジェファソン・ジャクソン)。シューレス・ジョーの愛称で知られる伝説の人物。「ザ・ナチュラル」や「フィールド・オブ・ドリームス」で知られる選手。メジャー在籍中の安打数は1,774、本塁打54、打点735、生涯打率0.365、この生涯打率はタイ・カップ、ロジャーズ・ホーンズビーに続く歴代3位に相当する(「シューレス・ジョー」訳者あとがきによる)。しかし、これほどの成績を持ちながら、彼はクーパース・タウンの野球殿堂には入っていないし、メジャー・リーグの公式選手リストにも記載されていない(「折れた黒バット」による)。1919年のワールドシリーズ八百長事件に荷担したとして球界追放処分を受けたからだ。

 イチローが新人安打記録を書き替えそうになり、アメリカのスポーツ・ジャーナリズムはそれまで公式記録とはしていなかったジョー・ジャクソンのこの記録を持ち出してきた。それはバースに王の年間本塁打記録を更新されそうになった時の日本の状況を思い出させる光景だった。

 明日にもイチローはジョーの記録を抜くだろう。しかし、ちょっとだけアメリカに肩入れするとすれば、ジョーがこの新人安打数記録233本を打った時のシーズン打率は0.402である。メジャー史上、ルーキーとして4割を打った最初で最後の選手ということになっている。イチローの現在の打率は0.350。つまり、試合数も打数もはるかに多いイチローの最多安打記録は割り引きして考える必要がある。そして、なにより「シューレス・ジョー」が人々の記憶から消えなかったのは、「ジョーの打つライナーのすべてがフェンスにぶつかったわけではない。フェンスを越える打球もあった」という豪打があまりに印象的だったからだろう。イチローの安打のうち人々の記憶に残る打球はいったいどれくらいあるだろう。これはけっしてイチローが好きではないから書くのではない。当て逃げ打法は数字の集積には役立っても、視覚に結びついた強烈な記憶にはなりえないし、繰り返し繰り返しボールパークに足を運ぶ原動力にはならないと思うからだ。(9/29/2001)

 薬害エイズ裁判のうち最後に残った厚生省松村明仁生物製剤課長の地裁判決が出た。判決は85年の帝京大での投与分については無罪、86年の大阪の病院での投与分について、加熱製剤が十分供給できる状況にもかかわらず非加熱製剤の流通を黙認したことを理由に有罪とした。量刑は禁固1年、執行猶予2年だった。いわゆる「官僚の不作為」を刑事裁判においても認定したのは画期的なことという。

 薬害エイズ事件の一審判決が出そろったわけだが、学匪、安部英だけが無罪という結果になった。しかし、金銭的に利益を得ていた安部の方が、悪質さの点においては、松村よりはるかに悪質であろう。安部の無罪理由は「法の下の平等」であったが、松村有罪の結果と引き比べれば、あきらかに均衡を欠くと言えるのではないか。(9/28/2001)

 一部のマスコミで「平和ボケ」という言葉が濫発されている。湾岸戦争時のトラウマが癒えていない強迫症患者やブッシュの報復演説に煽られてのぼせあがったままの軍事マニアたちが、事態を冷静に判断し慎重を期すべきだと言っている人とその意見に対して、好んでこの言葉を使っているようだ。平和な国の安全な場所で、自らはけっして参加することのない戦闘を煽り立てつつ、理性的な考え方を「平和ボケ」と罵倒する図は、「アンナ・カレーニナ」の一場面を思い出させ、ひどく不健康な感じがする。ホンモノの「平和ボケ」とは、こういう好戦的な血の気の多い連中のことをいうのだ。

 たとえば、先週、「同盟国であるアメリカがそうだといっているのだから証拠など必要ない」と言ってのけた安倍官房副長官、昨日、「後方支援の自衛隊の危険度は交通事故と同じようなもの」と答えた福田官房長官、「とにかく旗を立てる」という強迫観念にとらわれている小泉首相、いずれも、軍隊を動かすことが持つ意味や戦闘行動における後方支援の位置づけに対する認識レベルが著しく低いと断ぜざるを得ない。これは立派な「平和ボケ」症状だ。批判されるべき「平和ボケ」は、むしろ、ここにある。

 それにしても、小泉は「羮に懲りて膾を吹」いている。湾岸戦争と今回のテロ事件とは、一目瞭然、まったく異なるものなのに、まるで湾岸戦争の失点を取り戻そうとするかのように過剰反応している様は、「平和ボケ」故のバランス感覚の欠如といってよい。

 それ自衛隊の出動だ、それ有事立法だ、日本もテロの標的だ、細菌がばらまかれるぞ、原発が狙われるぞ、そういう危機感が乏し過ぎるぞ、・・・。よくもまあ、明日にも日本中がひっくり返ると言わんばかりの見出しを並べ立てたものだ。まるで起きている事件とその背後の問題を冷静に見ようとしている普通の人々の精神状態をあえてパニックに導こうとしているかのようだ。こういうオオカミ少年的なパニック屋どもこそ典型的な「平和ボケ」患者だ。

 誰が誰を敵としているのかを洞察すれば、危険がどの程度で警戒すべきことは何なのかなど、自ずと分かることだ。問題は平和の過ごし方なのだ。平和であることが悪いわけではない。「治に居て乱を忘れ」ない心を持っていることが大事なのだ。平和であることを嫌悪し、乱に幻惑されて大騒し、あえて火の中に飛び込もうとする言説こそが「平和ボケ」のあらわれだと知るべきだ。(9/27/2001)

 旅行中はあまりニュースに接しなかった。しかし、その間にも、土曜日には例の千葉の牛、狂牛病であったという検査結果が出て、月曜日には小泉首相が訪米した。そして昨日はブッシュ大統領との会談で新法を作ってまで自衛隊の積極的な後方支援を行うことを約束した。

 それにしても、と思う。小泉は何を焦っているのだろう。EUはまだアメリカがとろうとしている作戦内容と要望事項を聞かせてくれといっている段階だ。オーストラリアも軍の派遣を声明しているが、「白紙の小切手」を切ったわけではないとも言っている。「日本は最前線に出る気がないから、いくらでも威勢のいいことを言えるのさ」という揶揄の声が聞こえてきそうだ。

 アメリカは「自国を攻撃されたのだから自衛する権利がある、したがって国連安全保障理事会の議決は要しない」と主張している。ある意味でそれは正しかろう。しかし、テロ攻撃されたことを理由に、その容疑者がいると思われる国に戦闘行動をとるというのは支離滅裂な話だ。そんなものを「自衛の行動」と主張するには論理的な積み上げが必要であろう。まして集団的自衛権の発動を求めるとなれば、国連の場で事実関係の確認をするか、同盟国の国民が十分に納得するようなデータを提出するか、いずれかの手続きを踏むことがスジというものだ。いくら最近のアメリカが国連を嫌い、軽視し、国連の分担金を滞納しているとしても。

 イラクがクウェートに侵攻した際は明白な「侵略」という現実が眼前にあった。しかし、今回の場合、テロの犯人たちとビンラディンを結ぶ糸は誰の目にもあきらかというわけではない。犯人たちはアラブ人だと発表されているが、サウジアラビアの英字紙「アラブニュース」はピッツバーグ郊外に墜落したユナイテッド93便乗っ取り犯とされたサイード・アルガムディなる人物はチュニジアに滞在していると報じているし、貿易センタービルに突っ込んだアメリカン11便の乗っ取り犯にあげられているアブドルアジズ・アルオマリなる人物もリヤドに在住し事件後もピンピンしている由。アメリカで、現在、なされている捜査は、ひょっとすると、「犯人が名乗っていた名前をつきとめました」というだけのものなのではないか。

 こんな捜査では犯人たちからビンラディンまでのつながりは単なる「想像線」でしかないのかもしれぬ。それとも、アメリカには公表できない「ビンラディンとの関わり」――ビンラディンを暗殺する計画の実行直前に反撃をくらったとか、ビンラディンはCIAのエージェントであるというような情報が一部に流れている――があって、その関わりから彼以外の犯人はあり得ないのだという確信を持っている、そんな特殊な事情でもあるのか。

 ついでに。近鉄バッファローズがパリーグ優勝。20世紀中、12球団で唯一、日本一になれなかった近鉄、果たして新世紀初の日本シリーズを制することができるか、それとも、またまたリーグ優勝止まりに甘んずるか。(9/26/2001)

 ニュースステーションに安倍晋三官房副長官が出ていた。ホワイトハウス報道官の「ラディンの犯行の証拠を見せろと言ってきた国はない」とコメントしているニュース映像を受けて、久米宏が「証拠は確認していないのか」と質問した。これに対して安倍は平然と「同盟国のアメリカがそう判断しているようだから(信用する)」と答えていた。同盟国が言ったことはすべてそのまま鵜呑みにし、その根拠を確かめることさえせずに自国の軍を動かす、そして、そのことに何ら危うさを感じていない。愕然とした。これほど、いい加減な連中に我々は権力を預けているのだ。(9/21/2001)

 小泉首相のテロ対応措置が発表された。朝刊に載っているその骨子を書き写しておく。@米軍等への医療、輸送・補給などを目的に自衛隊を派遣するために所要措置を講ずる。A国内の米軍施設や、わが国の重要施設の警備強化。B情報収集のため自衛艦艇の派遣。C出入国管理で国際的な情報交換の強化。Dパキスタンやインドへの緊急経済支援。E自衛隊による人道支援の可能性も含めた避難民支援。F経済システムの混乱を生じさせないための各国との協調。

 @とAは関係法令の改正と新規の立法措置が必要ということで、27日からの臨時国会にかける予定とか。可笑しいのは首相がその前に訪米するといっていることだ。そんなにブッシュにラブコールしたいのだったら、もっと前に行けばよい。シラクも、ブレアも、いまニュースに映っている。首相が行く時には彼らはもう帰国している。メディアに小泉が映る時、米国民には「ニッポンの首相の二番煎じ」が強く印象づけられることになろう。

 ところで、えひめ丸の引き上げはどうなったのだろう。テロではなくとも、無辜の人々の未来が理不尽に奪われたにもかかわらず、その過失は問われないことになってしまった。日本は、アメリカの措置の不当性を主張することすらしていない。

 もうひとつ、フジモリは本国の司法当局から殺人罪で手配され、ラディン同様、身柄の引き渡しが求められている。ペルーの持つ軍事力が、アメリカの持つ軍事力に匹敵していたなら、日本はアフガニスタン同様、空爆の恐怖に怯えることになったのだろうか。

 それぞれの細かな状況は違う。しかし、ナイトメアから醒めてみたらどう見えるのか、異なった視点が得られそうだ。(9/20/2001)

 世界中のどこからも、ハイジャック機でカミカゼ特攻をやった連中を我が国の愛国者とか、我が民族の殉教者とか、彼らこそ我らに帰属する者であると主張する「犯行声明」が出てこない。アメリカから首謀者であると名指しされているラディンは「私がやったのではない」とさえ言っている。

 ハイジャック機がビルに突っ込んだその映像を見た直後、ツインタワーのすべてのフロアに危険が及ぶと考えた人間は、いったいどれくらいいただろう。もしかすると、あのビルがあれほど脆く倒壊し、死傷者が数千のオーダーに達するとは、テロの首謀者も実行者も予想していなかったのではないか。予想以上の「戦果」、いや「惨状」に、当のテロリストグループさえ、声を失ってしまったのだろうか。

 アラーの御心に適うものとしてカミカゼ特攻を命じた人物がいたとすれば、その人物は実行犯たちに彼らなりの流儀で報いなくてはならないだろう。しかしその形が見えない。偶像崇拝を禁じたイスラム教の世界に「靖国神社」のようなお手軽な顕彰施設があるとは思いにくい。彼ら、テロ実行犯たちは、いまのところ孤独だ。(9/19/2001)

 イランのハタミ大統領から世界の指導者を集めた「反テロ地球サミット」開催に関する提案が国連に出されているという。熱に浮かされたような「報復」準備の報道の中で、久々に聞くごくまっとうな提案。

 事件発生以来、不思議に思うのは、今回の「事件」は、「犯罪」なのか、それとも「戦争」なのかということが、ゴチャゴチャにされたままだということ。たとえば、けさのサンケイ新聞。「サンケイ抄」は今回の事件がアメリカ国内で「カミカゼ」「パールハーバー」といっしょに語られることに苛立って、「一方は民間人を巻き添えにした憎むべきテロリズムであり、一方は戦艦や軍事基地を標的にした戦闘行為である」と書いて、今回の事件は「(大日本帝国が仕掛けたような)神聖な」戦争ではない、換言すれば「犯罪」だと主張している。一方、「主張」では「大統領が言明している通り、これは『新しい形の戦争』と見なすべきであろう」と書いて、「戦争」なのだと主張しているといった具合。当のアメリカの大統領が「戦争」と「犯罪」、どっちつかずの認識をベースに「報復攻撃」と「犯人の引き渡し」の間で揺れているくらいだから、けっしておつむがいいとは言い難いサンケイ新聞が混乱するのも無理からぬこと。

 もし、「犯罪」だというのなら、少なくとも近代の法治国家では、「報復」という言葉はオフィシャルなレベルでは出てくるはずのない言葉だろう。しからば、「戦争」なのか。「戦争」というなら、サンケイの筆法に従えば、合法である可能性すら出てきてしまう。なるほど、民間人の殺傷は戦争に関する国際法に違反する行為だ。しかし、アメリカは過去に無差別な爆撃で今回を上回る数の民間人の殺傷を何度も行っている国だから、ルール違反を咎めるのは目くそが鼻くそを笑うような話、とても同情などできないことになってしまう。さらに、「戦争」というなら、はて「敵国」はどこにいるのだ。にわかに「敵国」を見つけられないので、適当に「敵」をきめつけねばならない奇妙な「戦争」だから「新しい形」だというのか、バカバカしい。

 アメリカの現行法にはテロリズムの定義があり、今回の事件はその定義にそのまま当てはまることが既に指摘されている。その手法が多少新しいというだけのことだ。テロリズムは「犯罪」だ。「報復」したいがために、無理にも「新しい形の戦争」などという訳の分からない概念拡張を行うことにした、アメリカ政府の混乱のいちばん分かりやすい説明はこんなところだ。

 事件当初の報道を思い出す。ブッシュ大統領の興奮ぶりとパウエル国務長官の冷静・沈着ぶりは好対照だった。ブッシュは「報復」といった。パウエルは「犯行グループを裁きの庭に」といった。ああ人物としての出来が違うなァと思ったものだ。

 軍をはじめとするセキュリティに関わる機関は面目を失うとともに、「なぜ防げなかったのだ」という国民の糾弾を恐れたろう。なにより「ミサイル防衛構想」などという、今回の事件から見ると何の役にも立たない、くだらない軍事プロジェクトに入れあげていた大統領自身メンツを失った。だから、そういう自分たちの無能さに世論の攻撃が向くことがないよう、大慌てで「報復」大合唱のタクトを力いっぱい振り回してきたのだ。愚かなアメリカ国民が無能な大統領のむなしいリーダーシップに気がつくまでに、どれだけの時間と費用と生命が空費されるか、「壮大な愚かさのシンフォニー」の顛末を見守ることにしよう。(9/18/2001)

 先週いっぱいクローズしていたニューヨーク市場がこちらの夜10時半に再会された。ほんの一時間足らずであっさり9,000ドルを割った。星条旗が売れているほどには、株を買い支える愛国心はないものとみえる。気分の支持はできても、経済的損失を覚悟してまで国に義理立てするわけには行かない、それが資本主義、拝金主義というものだ。じつに分かりやすい話。(9/17/2001)

 9時からのNHK特集は「狂牛病−なぜ感染は拡大したか−」だった。内容はほとんど既に知っていることだったが、頭の中を整理するのにはよい番組だった。EUに依頼していたリスク審査を、この6月に、肉骨粉の輸入データがそろわないことを理由に、農水省がキャンセルしていたこともレポートされていた。国際衛生対策室長、杉浦勝明のいいわけとウロウロする視線が強く印象に残った。詮ずるところ、「イギリスのデータと国内のデータの差違が大きすぎて調査をするのがめんどくさい」、そういう話のようだった。国内データ収集の実情が杜撰であることまでを想像させる説明。どうやら、この国の役人には使命感とか倫理観というものが欠如しているらしい。(9/16/2001)

 アメリカは着々と報復攻撃への準備を進めているようだ。上下両院はそれぞれに武力行使容認に関する決議を行った。いずれも全会一致とのこと。何かと引合いに出される真珠湾攻撃だが、それを受けた宣戦布告の下院決議には「一票の反対」があった。今回はそれもなかった。アメリカの怒りは大きい。

 ・・・とここまで書いて、少し気になって、新聞各紙の下院決議記事をサーチしてみた。朝日新聞のサイトにこんな記事が載っていた。見出しは「米下院の武力行使決議に女性議員が孤独な反対票」

米下院は14日、国際テロ対策でブッシュ大統領に武力行使を認める決議を採択したが、全会一致はならなかった。民主党の女性議員1人が反対票を投じ、票数は420対1。大統領が求めた上下両院の満場一致は実現しなかった。反対したのはカリフォルニア州選出のバーバラ・リー議員(55)。「だれかが抑制を利かせねばならない。事態が制御できなくなるのを防ぐために、決議の意味をじっくり考えるべきだ」と、武力行使が世界的に暴力の悪循環を生みかねないとの懸念を示した。

 二人目のジャネット・ランキンだと思った。そして、たった一票の反対がまたしても女性からなされたことに、思わず目頭が熱くなった。アメリカ人に伝えたい、このたった一人の反対者の存在がアメリカという社会の偉大さの証明になるときがきっと来ると。そして、できるなら、いま一度、頭を冷やして、テロを生むいちばんおおもとのものに目を向けて欲しい、と。(9/15/2001)

 朝刊に、エジプトのアルアクバル、ドイツのディ・ウェルト、イギリスのフィナンシャル・タイムズ、台湾の中国時報、イスラエルのハーレツという世界各紙の社説が載っていた。体操やフィギュアスケートの判定と同様、最高と最低に相当するエジプトとイスラエルの二紙の社説を評価から外すと、いちばんうなずかせたのは中国時報のものだった。

 「テロ攻撃は衛星やレーダーではとらえられず、警戒することもできない。」「今回の事件はオサマ・ビン・ラディン氏率いる組織の米国への報復に見える。さらに深く見ると、米国が中東に大変深くかかわり、過度にイスラエルの肩を持ったことにより、恨みが生じていた。米国はいわゆる『国際新秩序』を維持するために、弱小民族の正義を犠牲にすることをいとわず、マクロ的な平和を築いた。弱小民族は万策尽きたときには、自殺を恐れない攻撃で自分の正義を取り戻そうとするだろう。」「国際関係は、主権国家間の関係だけを重視してはいけない。関係は重層的で、それぞれで活動する実体がある。長い間軽視されて不公正な取り扱いを受けた弱小民族や個別の組織は、簡単で有効な報復手段を見つけた。国際的な強権政治は、そのことを悟るべきではないか。」

 的確な指摘だ。テロリズムの結果である現場の惨状、無辜の民といってよい被害者、そういったものには十分に同情する。いかなることがあろうと許してはならない犯罪行為だと心から思う。しかし、自らの命と引き替えに絶望的な行動にでた人間がいるという事実は直視しなければならない。それを強いた現実、あるいは不当だと心から思うに足る不正の存在なくしては、これほどの行動をとることはできない。

 フィナンシャル・タイムズも、角度は異なるものの、「今回の無法行為とパレスチナ過激派との結びつきはまだ明確ではない。だが、ブッシュ政権の(中東への)不干渉的な対応、シャロン・イスラエル首相の強硬政策への容認姿勢が、中東全体の過激派グループに米国人を標的にする格好の口実を与えている」と指摘している。

 アメリカは100パーセントきれいな被害者ではない。ここに指摘された対パレスチナに対する不作為による不正などは序の口、CTBT、ABMなどの国際条約からは一方的に離脱を図り、自らの不合理を指摘されると国連の場でさえ理屈にもならぬ理屈をつけてボイコットをし、世界人口の数パーセントにも関わらず全世界のエネルギーの三分一を消費しながら「自国の経済活動に不利だ」という身勝手極まりない理由で京都議定書に対する義務を放り出している。アメリカは立派な「ならず者国家」なのだ。

 口々に「報復」を叫ぶアメリカ市民に対して、世界中の人々は、本当のところ、こう言ってやりたいと思っているはずだ。「汝らのうち罪なき者のみこれを打て」と。(9/14/2001)

 朝のラジオで、東大の月尾嘉男が、世界貿易センタービルがなぜあれほどもろく崩壊したのかについて解説していた。センタービルはチューブ構造と呼ばれる構造になっていた。重量を支えるのは主に外壁となっていて、中心部のエレベータが入っているコア部分がこれを補助する、外壁からコアまでの空間には一切柱がない、これがチューブ構造というもの。柱がないためオフィス空間は見通しがよく、利用効率に優れるという特徴を持つ。

 何度も見た崩壊のシーン、トップの鉄塔がストンと落ちると、それがギロチンの刃のようにビルに食い込み、あとはまるで容器から液体があふれ出るときのように、瞬時の引っかかりもなく高層ビルが崩れていった理由が納得できた。「飛行機がビルの真ん中に衝突するなんてことは、設計では想定していませんからね」と月尾教授はいった。

 地震などの災害のとき、新しい建物が崩壊するすぐ近くに、案に相違して古い建物が何事もなかったかのように残っている、そういう情景を目にすることがある。技術が進歩して精緻な荷重解析と構造計算が可能になった結果、これらを駆使することにより極限までムダを排除した高度な設計が可能になった。しかし、「想定外」ということがあるとかえって被害をいっそう大きくする、そんなことが言えそうだ。

 我々の文明にはこういう脆弱さが内包されているということを知っておかなければならない。(9/13/2001)

 ブッシュ大統領の「報復演説」があり、わが首相は勇ましくも「米国の報復を支持する」と声明した。前後のニュース映像の外枠には「英国政府はロンドン上空の民間機の飛行を禁止」というテロップが流れていた。ここまでのニュースで「報復を支持する」という表現をした首脳はいない。一方、我が国でとられている「対策」はもっぱら米軍施設の警戒だけで、それ以上の具体的なものはない。

 小泉という男は、ハートは熱いのかもしれぬが、ブレインはスポンジなのだろう。常に言葉が先行し、その言葉が招き寄せるかもしれないものに対する想像力が欠如している。これはリーダーにとっては致命的な欠陥だ。

 「報復を支持する」という表現は、それよりはるかに控えめな表現をとっている各国首脳の国内処置に倍する措置をとって、はじめて選択できる表現ではないのか。まして、オサマ・ビン・ラディンなるイスラム原理主義指導者が首謀者と疑われてはいるものの未だ犯人グループが明確でない現時点での過剰な肩入れの表現は、国際社会では「背後に隠した冷笑」を招くだけだろう。あるいは、まったく逆に、「結局のところ、小泉首相(ひいては日本人)にとって、今回のテロ事件は対岸の火事としか見えていないのではないか」という想像さえ生んでしまいかねないと知るべきだろう。

 東証平均株価は一気に一万円を割り、9,610円。もともと一万円割れは時間の問題といわれていたから、名目がたっただけ、無用な心理的混乱を回避できて、よかったともいえる。(9/12/2001)

 扶桑社の「新しい歴史教科書」、公立校で23冊、私立校で498冊、計521冊ということ。全体の部数は百数十万部ということだから、惨めというか哀れな数字。ずっと昔、「検定不合格」をウリにした「新編日本史」と同様、スキャンダラスな関心による一般販売の場で収支バランスをとることになった。結局のところ「当初予定通り」ということだったのかもしれぬ。

 ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が衝突というニュース。ニュースステーションでは2機目が衝突する映像が流れた。旅客機、しかも旋回して激突したように見える。自爆テロなのだろうか。

§

 あの映像は「自爆テロ」だった。ハリウッド映画の一シーンのような映像は、現実の、テロ行為の、リアルタイムの、中継映像だった。テロリズムの歴史における画期を目撃した気がした。

 荊軻が始皇帝を襲った昔から、つい最近まで「無差別テロ」という言葉はなかった。カリヤエフはセルゲイ大公を自爆テロで屠ろうとしながら、同じ馬車に子供が乗っていたがために爆殺を思いとどまった。目的そのものが結果に汚されるのを潔しとしない、そういう心があったからだろう。しかし、もうそんな牧歌的な時代はとうの昔に行き過ぎてしまった。それどころかハイジャックした旅客機をテロの道具とし、多くの人々が働くオフィスビルを標的とするという、想像の世界にしかなかったことまでもが実行される、そういう時代が眼前に現出している。

 「パンドラの箱」は開いてしまった。アメリカは報復するだろう。しかし、報復された側はひそかに復讐の牙を研ぎ、知恵の限りを尽くして恨みをはらすに違いない。テロを容認しないということは、必ずしも応分の報復をすることを意味しないはずだが、いったん踏み外した道を修正することは難しかろう。

 いっそのこと両者が自制心を失って血で血を洗う抗争を繰り返せばよいと思う。両者が疲弊し、自らの行為の愚かさの前に呆然と立ち尽くす時が来るまで・・・till time and times are done・・・。(9/11〜12深夜/2001)

 千葉で、先月、解体処理された乳牛に狂牛病の疑いのあることが分かったという。狂牛病はプリオンによって引き起こされる。「死の病原体プリオン」によれば、このプリオンはもともと肉食ではない牛に、肥育を目的として肉を食べさせることによって発生するらしい。厚生労働省は発病した牛の脳や脊髄を食べることのみが危険で、肉・乳は食べても飲んでも大丈夫といっているというが、数年前イギリスでクロイツフェルト・ヤコブ病患者が続々と出たことと狂牛病汚染肉が市販されていたことの因果関係をどう見ているのだろうか。

 そう、食ルートではなく、医材ルート、つまり乾燥硬膜の移植によるヤコブ病の発病については、既に薬害裁判が提訴されている。厚生労働省は、その裁判でどう主張しているか。「当時は発病の原因が不明で、危険の予知はできなかった」といっているのだ。常に企業保護の発想に立つ厚生労働省の役人の言葉を信じるのは、よほどのお人好しか愚か者だ。(9/10/2001)

 サンフランシスコ講和条約調印から50年ということで、この関係の記事が新聞をにぎわしている。朝刊に、スティーブ・クレモンズ(ニュー・アメリカ・ファンデーション副理事長)なる人物の投稿が載っている。内容は、1951年9月8日、当時の吉田首相がオランダのスティッカー外相に、以下のような書簡を送っているという事実に関わるもの。

 吉田書簡は、連合国が日本に対する賠償請求権を放棄するとした第14条b項の解釈をめぐるものだ。私権の制限を禁止する憲法上の制約から、オランダ政府が当該条項は個人の請求権までは否定していない――との解釈に同意を求めたのに対し、吉田首相は「日本政府は、オランダ政府の条約署名により、オランダ政府が国民個々の民事請求権を没収したと見なしていない、その結果、条約発効後、そうした個々の請求権が消滅するとは見なしていない」と返答した。その上で、「しかし、日本政府は、この条約で連合国国民がそうした請求に対する賠償を獲得できなくなることを指摘しておく」と、日本政府の立場を表明。「ただし、連合国諸国民のある種の請求については自発的に交渉することを望むかもしれないとも指摘しておく」と、交渉の余地を残した。
・・・(中略)・・・
 吉田書簡は、オランダ政府あてだが、サンフランシスコ平和条約は第26条で、いずれかの国に請求権処理で利益を与えたときはそれと同じ利益を他の条約国にも及ぼさなければならないと定めている。オランダに与えた「譲歩」は、米国などにも及ぶのである。

 彼は、吉田書簡は平和条約への署名をしぶったオランダを説得するためにダレス米代表が仲介したものであったこと、米国務省がこの書簡の全文を解禁したのは昨年だったということを書いている。

 多少お祭りムードがあった50周年記念シンポジウムを緊張させた、元米兵捕虜団体の「個人賠償請求」に関する主張を日米両国政府は「決着済み」と退けようとしたようだが、「反省のない日本」というイメージが広くアメリカ社会に広がり、広範な支持を受けるようになれば、話はこじれてゆくかもしれない。(9/9/2001)

 朝刊にはムーディーズが日本国債の格下げを検討しているというニュース。去年9月にAa2に下げられてから1年あまりでAa3への引き下げの検討、実現すれば、先進国中最低のイタリアと同じランクになる由。昨日の夕刊には柳沢金融相がIMFの日本に対する金融部門審査を受け入れることを表明した旨の報道があった。そして、夕刊のトップ見出しは「今年度第一四半期GDP、マイナス0.8%の伸び率」だった。

 日本経済がなぜこれほど長期間、悪い状況から脱することができないのか、海外は疑問に思い、続いて疑念を持ち、そして信用できないと思いつつあるらしい。それは当然だ。この国に住む我々でさえ、起きている状況の実相がつかめないでいるのだから。

 公共投資にはずいぶん金を使ったはずだ、金融機関には公的資金も十分に注入したはずだ、しかし、状況はいっこうに改善しない。公共事業の発注には政治屋どもが介在し、談合の噂が絶えないし、あれだけ大騒ぎをした銀行のトップが責任をとって総入れ替えをしたという話も聞かない。一部週刊誌によれば銀行トップの退職金は億を超える額のままだ。

 ノーブレス・オブリージのないこの国の基本の部分に手を入れずに制度面だけの構造改革をしたところで、出来上がるのは不公正な制度によって堅固に守られた階層構造社会だろう。(9/7/2001)

 特殊法人改革の各省庁案をまとめたものが、昨日、発表された。昨夜、小泉首相の「役所が関係の議員を動かして、こんなバカな改革はやめてくれといってきたところを最初にやる」といっているのをテレビで聞いた時、「おお、そうだ、その通りだ」と思った。しかし、朝刊の活字でこれを読みながら、「まてよ、話の筋が違うのではないか」と思い直した。特殊法人のすべてが不要不急のものとは限るまい。改廃のプライオリティはそんなことを根拠にしなくとも客観的に判断できるし、本来そうするものだろう。とすれば、首相の言葉は一日の疲れに批判能力が減退している庶民の感情に訴えかける、ひたすら情緒的なものだったと思い当たる。

 だいたい「米百俵の精神」などといいながら、日本育英会への支出を削減しようなどというのは、矛盾以外のなにものでもなかろう。これほど、「改革、改革」といいながら、不要不急官庁の最たるものである防衛庁とその予算について、何の議論もないというのだって、不思議の極みではないか。(9/5/2001)

 9月。いったいどうなることかと思った7月の暑熱は8月に入ってからは一服し、長期予報では残暑が続くとされていたものの、案外あっさりと秋に滑り込んでいきそうなこの頃。

 一昨日買ってきた「フェルマーの最終定理」、読み始めたばかりなのだが、面白い。数学と他の自然科学との問題に対するアプローチの違いを説明する「盤面の両端が欠けたチェス盤に升目二つ分の大きさのドミノを並べる問題」など、語り口が秀逸。こういうものを早いうちから教えたとすれば、緻密な頭脳が育てられるものだろうかなどと、悔しさ半分で考えたりなどする。(9/1/2001)

 東証の終値は三日連続で下げ続け、小泉首相はあいかわらず「一喜一憂しない」とか、「構造改革なくして景気回復なし」とか、同じ言葉を続けているようだが、三日で飽きるマスコミでは「バブル後最安値」という言葉はそろそろ使われなくなりつつある。

 どうやら経済音痴らしい首相に一言だけいうとすれば、株価の低落が企業持ち株の評価損になり、それが不良債権対象範囲の拡大に結びついて、継続的な見込み違いとなる悪循環を呼んでいることぐらいは認識していただきたい。かくして逃げ水のような不況が、もともと行き着く先の見通しをつける能力を欠いた首相に立ちはだかっているのだ。

 まあ、市井の一個人としては、約一ヵ月の漂流に耐え救出されたあの船長の「なかなか死なないものです」という言葉を思い出しつつ、誰が何を言い、どのように誤り、どのように責任をとって行くのかを気楽に見させてもらうことにしよう。(8/31/2001)

 東証が下げ止まらない、ついに11,000円割れ。終値で10,979円。昨日、完全失業率が調査開始の1953年以来最低の5%台に乗ったというニュースが流れたばかり。朝刊には「どうする財政金融政策」というタイトルで、三和総研の嶋中雄二が量的緩和による早急なデフレ脱出を、慶大の金子勝が不良債権処理の最優先を主張している。カネの流れるパイプがきちんと通らない状況での通貨発行量の増強は事態を複雑化させるだけという理屈は分かるのだが、一方で基礎体力が回復しない状況での機械的な不良債権処理は危険という主張も肯ける。

 読み比べた範囲では、「(不良債権)処理はゼネコンや流通を中心にし、地方銀行にも資金をいれて中小企業に金が回るようにすること」、「さらに補助金や公共事業の詰まったパイプを通すようにするため、地方へ税源委譲を進め、自治体から地方の業者に直接、金が流れるようにする」という金子の主張の方が肯けるものではあったが、たぶん、「大」より先に「小」に権限と金を回すことは、この国がもっとも不得意とすることなのだから、実現は難しいだろう。

 少しはいいニュースを。H2Aロケット打ち上げ成功。コストを半減させて、それでも成功ということは、前の失敗は何だったのかと思わせる。(8/29/2001)

 昼前、自販機コーナーのデスクのところで資料整理をしている**生命の**さんと立ち話。とにかくセクション変更が多いので、誰がどこにいるのか気をつけていないと分からなくなってしまうとこぼしていた。別にうちの会社に限った話ではなく、最近はどこも同じような感じらしい。腰を落ち着けて事業の行く末を見るという余裕がなくなったのか、しょっちゅう組織も人もいじりまくるというのが最近の風潮。短期の数字だけが幅をきかせる結果、遠い先はもちろんのこと、少し先の見通しさえも語るにたる見識のある管理者が少なくなっているのかもしれない。「ドッグイヤー」というが、人間が犬のペースで活動して、人間としての思考ができるものか。頭の方まで「犬」にならねばよいがと思うは、失格管理職のひがみか。(8/28/2001)

 朝刊には金融コンサルタントの木村剛が、夕刊には青山学院大に移った野口悠紀雄が、それぞれに先日発表された日銀の金融量的緩和を批判している。野口の「教科書的」説明は分かりやすい。「金融緩和の効果は、瀕死の企業に対するカンフル注射なのであ」り、「新しい経済構造を生み出し、日本経済を成長軌道に乗せることにはならない」。木村の批判も「不良債権処理という外科手術を避け、量的緩和のモルヒネを欲しがる愚論が横行しているからだ」と厳しい。月曜日の朝刊にはユアサ商事の湯浅暉久が「地価を市場原理から切り離し、公的管理下において適正化するしかない」と主張していた。

 経済の素人には、どの主張も一読してなるほどと思えるばかりで、いったいどの処方箋に従えばよいのかがさっぱり分からない。最近聞いた「経済学の半分は心理学だ」という言葉だけが、たぶん絶対に間違いのないところなのだろうと小さく納得したつもりになっている。(8/25/2001)

 韓国の作家、韓水山(ハンスサン)の「韓国の『静かなる多数』」と題するノートを朝刊で読んだ。その一部。

 ・・・韓国鉄道庁が教科書問題に抗議の意を込めて、特急セマウル号での日本語案内放送の廃止を決定、発表した。当然、抗議が殺到。「教科書は教科書で問題にすべきだ。すでにある案内放送をなくすとは」との声が大きくなり、たった一日で放送中断は取り消された。まだある。青少年及び学生交流プログラムを一時中断するという政府発表に対しても、多くの人たちが間違いだと指摘。未来をつくっていく事業を中断することが正しいのかと。こんな時こそ多くの日本の若者を受け入れなければ、という意見も出た。

 これは変化といえる。理性的な声が水面の上に顔を出してきたのだ。しかし、忘れてはならないこともある。問題の発端はほとんど日本側から起きるということだ。これが、「静かなる多数」の気持ちを暗くする。以前とは違う反応を見ながら考える。反日と嫌韓の悪循環をどこで断ち切ればいいのかを。

 ふと、先日のニュース映像を思いだした。8月15日、靖国神社前。一方的に合祀された兄の分祀を訴えて来日した女性に、背後からこんな罵声が浴びせられた。「ここは、おまえら、朝鮮人の来るところじゃねぇ、帰れ」。靖国神社関係者なのか、それとも最近はやりのバカ右翼なのか、どちらなのかは分からない。それにしても、彼らはここまで堕落しているのかと暗然とした。(8/24/2001)

 高校野球決勝戦は、日大三5−2近江。滋賀県勢の初優勝はならず。高校野球が終ると、どれほど暑くても、暑さの底に秋がそっとまぎれ込んでいる、そんな感じがしてくる。(8/22/2001)

 ニューヨークのユダヤ博物館で開催中だった「シャガール特別展」から、「『ビデブスクの上に』の習作」という題の絵が盗まれ、こんな脅迫状が届いたとか。「絵を返して欲しければ、中東和平を実現せよ」。さて、これを粋と見るか、やはりただの窃盗と見るか。(8/21/2001)

 涼しい。終日、読書とデータ整理。読んでいる本は坪内祐三「靖国」。二、三年前の本。ハードカバーで買うほどではなかったが、商売上手の新潮社、時機はいまとばかり文庫で出してくれたので買ってきた。ちょうど中程、第6章まで読み進んだところなのだが、少し退屈してきた。イデオロギーの社となった感のある靖国神社が、創建当時はどのような雰囲気を持つ場であったのかを、小説、戯曲、絵画、・・・、いろいろなメディア記録から明らかにしてゆくという趣向でなかなか面白い。

 読んでいる感覚としては猪瀬直樹の「ミカドの肖像」に近いかもしれない。しかし、途中から急に読み進む興味が薄れてきてしまった。たとえば、たったいま読んだ「遊就館と勧工場」の章。「鮭」で有名な画家、高橋由一は「霊場には必付属の遊興場あるへし」という主張のもとに靖国神社に絵画展示と同時にデパートのような施設を作ることを提案していたという。高橋の構想には螺旋状の建物構造により見物人を回遊式に入り口から最上階に導くアイデアもあった由。(ことのついでに会津若松にあるなんとかいうお堂のようにそのまま再度外に出てしまう構造であったら、もっと愉快だったろうに)

 そのことは、なるほど、興味深いことではある。しかし、読者はその先を知りたいのだ。なぜ、その建物は靖国神社に建てられなかったのか、そして、高橋由一の構想のつまみ食いのような遊就館に、なぜ、彼の作品はたった一点しかなく、それも近年までうち捨てられてきたのか、さらに、それほどに新規な発想を集めることができた招魂社が、なぜ、国家神道ガチガチのつまらない靖国神社に変わってしまったのか、・・・、そういうことこそ知りたいのだ。

 疑問への答えが、残り半分に出てくると期待して、読み進もうとは思いつつ、それにしても、やたらに文献の引用ばかりで活きた言葉がないのは、かったるい。最後まで読み終えられるかどうか。(8/18/2001)

 「つくる会」教科書に関する記事、日経朝刊から。

 「新しい歴史教科書をつくる会」主導の中学歴史教科書(扶桑社発行)は、市区町村立と国立のすべての中学校で採択されなかったことが16日、分かった。東京都の養護学校2校1分教室、愛媛県のろう・養護学校4校、私立中7校での採択が判明しているものの、同会が目標とした「生徒数の10%」の採択率(シェア)には遠く及ばず、現在の中学校在籍者を基に試算すると、シェアは0.03%程度にとどまっている。

 将来への記録として、私立7校の内訳を書き留めておこう。「歴史的教科書」を採用したのは、常総学院(茨城県土浦市)、国学院栃木(栃木県栃木市)、麗沢瑞浪(岐阜県瑞浪市)、津田学園(三重県桑名市)、皇学館(三重県伊勢市)、甲子園学院(兵庫県西宮市)、と来年新設される岡山理科大付属(岡山県岡山市)だそうだ。なんだか、頭の悪そうな学校ばかりという感じがするのは偏見か。

 ところで、究極の低率シェアに、憤懣やるかたない「つくる会」は2003年度に検定、2004年度に採択となる小学校教科書について新規参入の予定といっている由。

 ちょうどその記事の下にこんな記事も載っていた。

 ジュネーブで開いている国連人権小委員会は16日、第二次大戦中の旧日本軍による従軍慰安婦問題などを念頭に置いた「組織的なレイプと性的な奴隷」の阻止に関する決議を採択した。従軍慰安婦問題に関する決議は過去にも採択されているが、今回は日本への名指しは避けつつも歴史教育の重要性にはじめて言及。人権教育の促進に当たり「歴史的な出来事について教育カリキュラムの中で正確さを期す」よう各国に求めた。

 これを外圧と考えてひたすら反発するローカルな国になるのか、人類の叡智と受け止めグローバルな場で普遍的な国をめざすのか、国としての器量と真贋が問われる場面が来るかもしれない。(8/17/2001)

 休暇。新聞整理をしていて面白いインタヴュー記事を読んだ。14日の夕刊、「日本は衰退するのか、米経済史家フランク氏に聞く」というタイトル。フランク教授は「千年単位で文明の興亡をとらえる世界システム論の専門家」である由。

 「鎖国のために停滞していた日本が、明治の西洋化によって救われたという黒船史観は神話に過ぎない」、「18世紀の日本の都市人口が同時期の中国やヨーロッパよりも高かったという数字を見ても、徳川期の日本が閉鎖的で遅れていたという見方が誤りだということが分かる」、「いまの日本の不況は経済の生産性が低くなったから続いているわけではない」、「経済危機の背景には日本が独自の通貨圏をつくれずにドルの一極支配が続いている問題もある。以前は単独の円ブロックをつくることも出来たかもしれないが、いまは中国との協調が不可欠。交渉の主導権も中国側に移っている。歴史教科書や靖国参拝問題で東アジアの近隣諸国との関係改善に失敗すれば日本経済は衰退していくしかないだろう」、「いつの時代でも、危機は全員が苦しむ形ではやってこない。貧しいものはますます貧しくなり、富める者は自分の富を守ろうとする。経済危機の時代に格差が広がるのは、歴史の教訓だ。豪華な高層マンションが建ち並び、銀座には高級ブランドが店開きする。むしろ危機だから見られる現象で、不思議なことではない」。

 なるほど。この考え方が正しいとすれば、この国はたぶん衰退過程に入ってゆく可能性が高く、経済的活性が失われる結果、貧富の差は開くことになるのだろう。その当然の帰結として、アメリカでいう「プアー・ホワイト」に相当するプライドだけはあるくせに、その実、能力は低い連中は、その不満を偏狭なナショナリズムの中に解消させようとするか、あるいは一発逆転を狙って誘拐、強盗などの凶悪犯罪に賭けるか、いずれにしても、あまり歓迎したくない世の中になりそうだ。

 その傾向の先駆といえそうな扶桑社の「つくる会」教科書は、結局、市区町村立の学校では採択がなかったようだ。公立での採択は、わずかに、東京都と愛媛県の養護学校と聾学校、計6校、他は私立の6校という惨憺たる結果、つくる会が目標としていた採択率10%は画餅に帰した。(8/16/2001)

 インターネットで主要紙の社説とコラムをざっと見てみた。いつまでたっても大人になれないサンケイのお怒りぶりが嗤える。それに比べれば、読売は多少ともまわりを見ることができるだけましというところか。その読売を含めて、朝日、毎日、日経、東京など、ひとりサンケイを除く全紙が言及したのが近隣諸国との関係のことだ。

 もっぱら中国と韓国のことばかりが伝えられているが、中国は先月ハノイのASEAN外相会議の場を選んでこの問題を取り上げた。議場の外とはいえ、身近な場で中国が発信したメッセージを、フィリピン、シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナムなど東南アジア諸国はきちんと受け止めたに違いない。彼らはコメントすることはしない。日本がどのように振る舞うのか、日本はアジアのリーダーたる資格を有しているのか、ただ、それをじっと見ていればよいのだから。

 近頃「二度目の敗戦」という言葉をよく聞く。東南アジアの国にとって、日本は二度光って見えたのではないか。一度目は大東亜共栄圏の看板をもってヨーロッパの宗主国を追い出してくれた時、二度目は軍事力を背景とせず平和的経済大国として十分に独り立ちできることを示してくれた時。一度目は時をおかずに失望につながった、日本がかつての宗主国と何ら変わらないばかりか、かえってはるかに悪質であることが分かったから。そして二度目、それが今だ。日本はいつまでも過去の過ちを克服できない国なのではないか、もし、彼らがそう判断したとしたら、日本は、この場面でも、二度目の敗戦を迎えつつあるといってよい。(8/14/2001)

 涌谷の**さんの家を出たちょうどその時、**の携帯のニュースメールで、小泉首相の靖国参拝が夕方行われたことを知った。15日を避けたことは賛成派から、内閣総理大臣として参拝したことは反対派から、それぞれに強い批判を受けるだろう。しかし、その実、賛成派も反対派も口には出さぬ安堵感を抱いているのではないか。それが日本的な風景というものだ。

 春からの靖国参拝騒動で誰の目にも明らかになったことがある。小泉純一郎という男には先を見通す力が決定的に欠けているらしいということだ。どうやら、彼には壊す才能はあっても、ビジョンに基づいて構築する才能はないようだ。

 小泉は一貫してずっと靖国参拝を続けてきたという。それは厚生大臣を務めていた時も続いた。総裁選に際してそのことを「売り」にして軍恩連盟と裏取引した時も彼にはさしたる意識はなかったのだろう。首相になれるかどうかは、どうみても五分五分以下のはなしだったのだから。だから「終戦記念日には靖国参拝をする」と明言した。そこまでは、ある意味では、仕方のないことだった。

 だが、予想外の展開の結果、小泉は宰相の椅子に座ることになった。問題はそれからだ。その時、彼の頭の中では、厚生大臣と総理大臣はさしたる違いのないものだったのだろう。さらに悪いことに彼の外交感覚はゼロ、いや、マイナス無限大だった。だから、彼は「いかなることがあっても靖国参拝をする」と言い続けてしまった。

 小泉が総理大臣という職責の重みに気づいたのは、伝えられる彼の言葉を追う限り、7月のはじめだったようだ。その時既に4月末の就任から約2ヵ月が空費されていた。何という鈍感、何という迂闊、そして、何という見通しの悪さだろう。これほど単純な問題の行き着く先すら見切ることができないようでは、はるかに複雑な構造改革の行く末など見えるはずがない。

 夜のニュースで「繰り上げ参拝」に怒る自民党議員が「構造改革の推進は困難になった。リーダーシップに疑念があるからだ」というようなことを言っていた。構造改革が困難ではないかとする、その判断は正しい。ただ、その理由はナショナリズムごりごり議員が言っている「言を違えたこと」などではない、「短期的な見通しすらたてられない」という小泉の資質の故である。

 靖国参拝で揺れたこの日、東証の終値は11,477円。バブル後の最安値をつけた。(8/13/2001)

 夕方の東北放送の報道特集で、小泉首相が靖国参拝のこだわる背景について興味深い事実を紹介していた。この4月、自民党の総裁選に立候補するに際し、小泉は軍恩連盟の支持を取り付けていたというのだ。小泉は森派を離脱、特定勢力の応援をうけないクリーンな立候補をアピールしていたのではなかったか。軍恩連盟の自民党員票は約14万票、この組織票が欲しかったがための「終戦記念日の公式参拝公約」だったとすれば、所詮、小泉も自民党的寝技政治家の域内にいる男だったということか。

 その他、中曽根の公式参拝時に宮司が「カゲバライ」なる所作を中曽根の背後で行っていたという面白い話もあった。なるほど神道は汚穢を忌み嫌うもののようだが、そのことは権力に媚び、公金で喰ってゆくことを庶幾する神道関係者の「穢れた願望」とは、どのように両立するものなのだろうか。(8/12/2001)

 都教委が採択というニュースのあった、ちょうどその夜という昨夜、本郷にある「新しい歴史教科書を作る会」の事務所の網戸と外壁が焦げるという事件があった。現場からは乾電池・タイマーなど時限発火装置が見つかり、警視庁公安部は「作る会」を批判している過激派との関係に注目しているという。

 ニュースのインタヴューで、作る会事務局長の高森某が、妙に一本調子の変な口調で「暴力で抗議するのは許せない」などと話している映像を見た。高森の言葉は、字面としては、正しい。警察には是非とも犯人をつかまえてもらいたいと、強く、思った。

 たまたま、想起したこと。ナチスの全権掌握の契機となった議事堂放火事件のこと。いまでは誰でも知っていることだが、その真犯人はナチスの突撃隊員だった。政治に盲れば、なんでもやるという人々がいる。議事堂放火はその一例だった。

 思えば、ナチスの躍進は第一次大戦の賠償金支払を原因とする経済困難の中で、「ドイツの誇り」を取り戻したいという国民の気持ちを背景としたものだった。眼前の自信喪失をひとえに偉大な国家の中へ自分を投射することでを解決したいとする精神的に弱い人々の情念がより大きな悲劇への陥穽となったわけだ。しかし、渦中にいる者にはそういう愚かさというものはなかなかわからないものだ。

 ただただ酔っ払い談義の延長としての「歴史物語」に終始する「新しい歴史教科書」で、そのような教訓を読みとることはできるのだろうか。(8/8/2001)

 東京都教育委員会が扶桑社の歴史教科書の採用を決定。6名の教育委員、4−2の決定というから、石原都知事が任命した3名がフル稼働した結果なのだろう。採用の対象となる学校は、都が管轄する盲学校、聾学校、養護学校なのだが、扶桑社版には点字本がないことなどから、実際には45の対象校のうち養護学校3校、生徒数は合計で70名だという。都知事の肝いりにもかかわらず、たった数十冊の売上げではいかにも情けない話だが、花のお江戸で採用になったといえば、それはそれで満足なのかもしれぬ。情けないといえば、3校のうち1校は自閉症児のための学校という。自閉症児の授業に使う教科書が、極めつけの自閉的教科書というのは、いかにも陰惨な感じがして、よけいに情けない。

 ところで、もともと教育委員は公選制であったものを官僚統制を強める狙いから、現在の任命制にあらためた経緯がある。しかし、教育委員会が、教科書を使って実際に授業をする教師の意見を問わずに、教科書を決定するのが当然というのなら、この制度はあらためて考え直さなければならない。なぜなら、我々は首長選挙の際、教育内容に関する偏りまでを考慮に入れて投票はしていないからだ。

 さて、強引に割り込んだ形の扶桑社版歴史教科書、実際の授業ではどのように取り扱われるものか。いちばんありそうな話は「反面教科書」であろう。(8/7/2001)

 朝刊の「風−ワシントンから」に、歴史教科書やら靖国参拝やら、最近のこの国の状況をアメリカ国内の各紙がどのように書いているかが紹介されていた。

 いつもは保守系かリベラル系かで論調の異なる米紙だが、この問題では「過去を反省しない日本」という見方で一致している。一部を紹介すると、こんな具合だ。
 「長期にわたる不況と対決する意欲をみせる小泉首相が、近隣諸国からの苦情や粗暴な過去の実在について、まるで音痴なのは困ったことだ」(シカゴ・トリビューン)
 「『あれだけの悲惨な戦争から教訓を得ない国はない』という戦中世代の存在は、日本が平和的であり続けることを革新させた。いま、これまで以上に歴史から何を学ぶかが日本にとって大切だ」(ワシントン・タイムズ)
 「歴史の暗黒部分と対決したくないという日本の姿勢は、自国の国民を傷つけることに終わるだろう。ナショナリズムや国家の栄光のロマンによる誤った約束について学ばなければならないのは、最終的には、若い世代なのである」(サンフランシスコ・クロニクル)

 一部分はそのまま当のアメリカという国にのしをつけてお返ししたくなるところもあるし、少しばかり紋切り型という気がしないでもないが、コラム末尾の「この問題を日中や日韓の文脈だけでみると、ついつい感情的になり、対応策を見失いがちだ。そうではなく、むしろ日本は世界から孤立している、ぐらいの認識から出発したほうが、いい知恵が出てくるだろう」という指摘は、頭に留めておくべきだろう。(8/5/2001)

 昨日の夕刊の「思潮21」、岩井克人が面白かった。「環境破壊とは、私的所有制の下での個人や企業の自己利益の追求によって引き起こされると思っているはずです。だが、経済学者はそのような常識を逆撫でします。私的所有制とは、まさに環境問題を解決するために導入された制度だというのです」として、岩井は草原で牛を飼う例から話をはじめる。放牧地が誰のものでもない共有地である場合は牧草資源は酪農を営む者の私的利益追求により早晩枯渇する。しかし、放牧地にも私的所有を認めるならば牧草資源も商品化するため合理的に管理・取引きされるようになり、「私的所有権の下での自己利益の追求こそが環境破壊を防止することになる」。京都議定書の温暖化ガス排出枠取引はこれに相当する、つまり、経済学の理に適った解決方法だというわけ。

 岩井は続ける。「では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしょうか? 答えは『否』」だ。つまり「わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。それは『未来世代』の環境です。地球温暖化が深刻であるのは、各国間の利害が対立しているからではありません。未来と現在の二つの世代の間の利害が対立しているからなのです。未来世代を取り巻く自然環境が現在世代によって一方的に破壊されてしまうからなのです」という。そして、「未来世代とは単なる他者では」なく、「自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なの」だから、現在世代は「自己の利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動する」「『倫理』的な存在となることが要請されている」、すなわち、私的所有(というよりは市場原理といった方が通りやすいと思うが)による環境問題の解決を論理的に押し進めれば押し進めるほどに、経済学者が断ち切った「倫理」の概念の復活が求められるようになるという論。題して「未来世代への責任」。さすが「ヴェニスの商人の資本論」の筆者。一読、かたえくぼ、でも、その通り。(8/4/2001)

 参院選の結果。自民64でプラス3、公明13で現有維持、保守1でマイナス2、与党は78で非改選61とあわせて139、過半数の124を軽く越えて安定多数129もクリア。対する野党は、民主26でプラス4、共産5でマイナス3、社民3でマイナス4、自由6でプラス3、あわせて40非改選を加えて101。その他、自由連合、二院クラブはともに0、無所属が3マイナス3という結果。投票率は56.44パーセント、最低から3番目の由。

 新聞各紙はおおむね「自民、大勝」という評価。たしかにずっと低下傾向にあった自民の議席がプラスに転じたこと、3年後に60以上をとれば久々に単独で過半数を占めるに至ることを考えあわせれば、大勝の名に値するといってよいだろう。もっとも、3年後、小泉改革が国民に満足感を与えているか、または今回と同等の「旋風」が吹いているか、その確率は低いと思うが。(7/30/2001)

 夕刊にはボンで開催されていたCOP6の閉幕のニュース。参院選、投票日は明日。とにかく「改革」、それも「痛みの伴う改革」の連呼だ。右翼マインドの連中よ、「自虐勢力と改革を葬り去れ」と主張しないのか。これこそ「自虐」の極だぞ。(7/28/2001)

 夕刊にフジモリ前ペルー大統領がホームページで反論との記事。さっそく紹介されているページをアクセスしてみた。スペイン語と英語と日本語が用意されている。日本語で書かれた「大統領の責務」を見る。何のことはない、ただの選挙演説のようなものがあるだけ。教育、貧困層への民主主義、健康、平和の回復、それぞれの政治課題について、成果を書き、しきりに「いったい、誰がそれをしたのか」という。

 それほど自分の業績が揺るがぬものだというのなら、「いったい、ペルーに帰らないのは、なぜか」、それが最大の疑問だ。正々堂々、ペルーに帰国し、その業績を主張してこそ、大統領職を努めたほどの人物ということになろうものを。なぜ、帰らないのだ、アルベルト・フジモリ。(7/27/2001)

 岩波ホールで中国映画「山の郵便配達」を見る

 舞台は80年代のはじめ。主人公は山間地の郵便の配達と収集をする父の仕事を継いだ息子。ちょっとメッツの新庄君に似ている、寝顔はアルピニストの野口健君にも。

 永年配達夫をつとめた父のあとを継いだ息子が初仕事に出る朝、いつも先導役をしていた愛犬「次男坊」は父にくっつくばかりで、今日から配達夫という息子に従おうとしない。郵便配達といっても、一回の仕事は2泊3日総行程120キロの山道を徒歩で回るというもの。「次男坊」は慰めに連れて行くペットなどではなく、いろいろな意味で欠くべからざるアシスタントなのだ。(映画ではおいおいこのあたりの事情がわかる仕掛けになっている)

 身支度を整えて出てくる父。父が歩けば「次男坊」は先頭きって歩むのだ。父子と愛犬の「三人旅」が始まる、父にとっては最後の配達、息子にとっては最初の配達。特別のことは何も起きない。観客がただ一度声をあげたシーンは不用意に開けた行嚢に一陣の風が吹きつけ何通かの手紙が飛ばされた時だった。勤勉な配達夫だった父は必然的に家にいることが少なく、息子はついに「父さん」と呼ばずに成人してしまった。息子にとって、父は母よりも遠く、とっつきにくいものだったらしい。(これは日本の多くの父親にも共感を呼ぶシチュエーションだろう)

 映画はただ淡々と山間の集落を回る「三人」の三日間を映す。息を呑むほど美しい風景もあるし、さしたることもないありきたりの風景も多い。しかし、我々日本人の心の中の風景とそれほど掛け違っているわけではなくて、どこか懐かしさを呼ぶ風景だ。

 勤勉なだけではなく誠実で温かな人柄だった父、配達を待つ多くの人々のこまやかな心遣い、そうした関係が手紙を配達するそこここでほの見える。息子には少しずつ父の仕事、父の築いたものがわかってくる。勤勉に働いたにもかかわらず公務員としては必ずしも出世しなかった父、その父の見えなかった部分がわかってくる。

 冷たい水の流れる川を息子は行嚢を頭に乗せて渡り、次に父を背負って渡る。背負われた父は息子に見えぬのを幸い、万感の思いに涙する。川岸で暖をとるためたき火にあたり、たばこをまわし呑んでから、息子が「さあ行こう、父さん」という。父は愛犬に語りかける「父さんと呼んでくれたよ」と。訪れた山の民(漢民族にとっての異民族らしい)の集落ではちょうど結婚式があり、息子は同年齢の娘と踊り語り合う。離れてその様を見る父は、結婚前の妻、息子を生んだばかりの頃の妻、息子の成長を物差しにその時々の家族のポートレートを脳裏に浮かべている。どちらのシーンも泣けた。泣かされたのではなく、ごく自然にまぶたが熱くなったのだ。

 本当に、山場らしい山場も、事件らしい事件も、何もない。物足りないくらい何もない。エンディングも「あら、これで終わり?」というくらい。それでも約90分、退屈することはなかった。それは無名の市井人の一生そのもので、それはとりもなおさず自分のことだったからだ。誰も見ていないところで、誰に語るでもなく、胸を張りながら、「自分に恥じることは何もない、精一杯、良かれと思うようにやってきた」と小さくつぶやく、そんな時を勇気づけてくれるような、佳編。いい映画だった。

 配達夫が鈴を鳴らすシーンで思い出したこと。清張の「或る小倉日記伝」に「伝便屋」の鈴の音というのがあった。それはこんな音だったのだろうか。誰に確かめようもないことだけれど。(7/26/2001)

補注)伝便について書いたものが、インターネットで読めます。森鴎外の「独身」
    鴎外のものは既に著作権が切れて、デジタル図書館の対象になっているのですね。

 夜のニュースを見ていて嗤った。政府はつい一、二週間前、日米地位協定の改訂ではなく運用の改善でゆくと表明していたはずだ。ところが今日の小泉−パウエル会談で地位協定の改訂も視野に入れたいという意見を伝えたという。「ほほう」と思うそばから、画面に出た映像は、小泉の那覇街頭での選挙演説だった。曰く、「地位協定の改定も検討する」。なんだ、そういう話か。このオポチュニストめ。(7/24/2001)

 ボンで開催されていたCOP6は土壇場で合意。原子力発電所の建設を控除分にするというばかげた提案が認められなかったのは当然の話だが、森林吸収分の認定と未達成時罰則の制定見送りを引き出したのは日本にとっての成果だった。この二点は、手前勝手で愚かなブッシュ政権を無視して、アメリカの産業界や環境団体と直接実質的な話を進めるために、非常に効果的なものになるかも知れない。

 株価、11,609円。バブル後の最安値となった。首相はといえば、サミットからこのかた「株価に一喜一憂しない。改革なくして成長なし」と繰り返している。よほどこのフレーズが気に入っているようだ。しかし、「一喜」するフェーズなどなく、ひたすら「一憂・一憂」しているのが現実。この言葉が空売りをしている投機屋を安心させる保証手形になりかねないということに気づかないとしたら、小泉はただのバカだ。

 土曜日、明石の花火大会会場で将棋倒しがあり10人が亡くなった。上空の花火に目を奪われて、足許が怪しくなって転倒したものだろう。たまたま芋の子を洗うような混雑が悲劇につながってしまった。亡くなったのは10歳未満の子供が8人と70歳以上のお年寄りが2人だ。「構造改革」という花火の威勢の良さに浮かれて、改革に耐えうる体力もおぼつかない足下の状況を忘れれば、同様のパニックに発展してもおかしくない。しかし、「小泉・小泉」の大合唱の中、見るべきものをきちんと見ている人は少ない。体力の弱いものからバタバタと倒れる現実を見るまではユーフォリアの夢は覚めないのだね。(7/23/2001)

 海外紙の社説を紹介する「世界の論調」、今週はドイツの南ドイツ新聞と韓国の中央日報。南ドイツ紙は京都議定書がテーマ。「島国の日本は今、ルールづくりを主導できる立場にある一方で、地球環境を脅かす存在にもなり得る。環境汚染国家のイメージは国の将来にとってよくないはずだ」と書いている。責任を放擲した「ならず者国家」はアメリカなのだが、我が国は米欧の間をコウモリのように飛び回る結果、アメリカの腰巾着、信頼するに値しない国という悪評を一手に受ける結果を招いてしまったようだ。これが「改革」を看板にしている小泉内閣なのだから嗤ってしまう。

 中央日報の内容は教科書問題に端を発した学生交流の退潮を憂慮するというもの。あわせてこんなことも出ている。「一部ではあるが、韓国滞在中の日本人や日系企業に対する行き過ぎた感情表現も、考え直すべきだ。職場や学校で日本人を意図的に『いじめ』たり、取引を中止したりする行為はいかがなものか」。何が原因だったか思い出せないが、この国でも朝鮮学校に通う女子生徒を襲いチョゴリを切り裂くなどの行為が流行したことがあった。どこの国にも、なにがしかの理由を見つけだしては、外国人に嫌がらせをし、脅かして日々の憂さを晴らすという右翼マインドのチンピラはいるもののようだ。

 もともと教科書の検定制度を設ける限りは、検定=国家意思の発現、そして、合格本=自由流通の保証という曖昧さのはざまに、今回のような事態を招く遠因はあった。その危険性に有効な対策を講じなかったのは文部科学省をはじめとする当局関係者の無能と怠慢といえる。ことここに至り、両国ともそれぞれに体面があって、ことの解決は容易ではなくなってしまった。「改革」とおまじないをいえば、事は解決すると信じているらしい小泉内閣には、解決の糸口すら引き出すことはできまい。

 社説の末尾は「感情的断絶より、交流・協力を通して民間次元で問題教科書を採択させないようにする運動の方が効果的だ。韓日学生交流もそうした考えで実施し、彼らに過ちをわからせる姿勢こそが、長期的視野に立った韓日問題への取り組み方だ」とある。両国の右翼の迷妄を多くの人々の相互理解の海の中で孤立させる、難しいことだがこれが選択しうる最善の方法だろう。(7/22/2001)

 夕刊の「素粒子」から。

 次の「予言」を残したとされる人物はだれか。「百年後、もし私が生まれ変わるとしたら、こんどは自らの苦心作をぶち壊す立場に回るだろう」・・・(略)・・・
 答えは、近代五輪の父クーベルタン。70年ほど前のパリでの演説というが、真意はナゾだ。

 なんだか怖い話。クーベルタンには、サマランチによるオリンピックの糜爛が見えていたのだろうか。(7/17/2001)

 朝刊にタイとアメリカの主要紙の社説が転載されていた。ともに歴史教科書をめぐる日韓の軋轢を取り上げている。タイの「ザ・ネーション」の社説は、この三年の日韓文化交流の状況を「金大統領が勇気を持って日本に手を差し伸べなければ、日韓関係はここまで前進しなかったろう」と指摘した上で、「日本が韓国の求めに応じなければ、両国の関係悪化は避けられない。月末にハノイで開かれる東南アジア諸国連合の会合にも、悪影響が出かねない。日本、中国、韓国の外相が顔をそろえるし、東南アジアの大半の国は日本軍国主義に苦しめられた。日本は難しい状況に立たされるだろう」と親日国らしい忠告をしてくれている。

 もう一方の「ワシントン・ポスト」の社説は、どちらかといえば沖縄での婦女暴行事件容疑者米兵に対する取り扱いに重点があり、必ずしも公正なアドバイスとは読めないものではあるが、「日本は国連の安全保障理事国にふさわしい大国でありたいと望んでいる。だがアジアの国々が『過去を覆い隠すのではないか』と疑念を持ち、同盟国が『自由に対し無関心なのではないか』と懸念する限り期待通りには運ばないだろう」という指摘はなかなか痛いところをついている。

 今回の騒ぎ、韓国と中国では少しばかり反応が違う。それは、日本同様、経済状況がふるわず幾分内向きになっている韓国の国としての事情から来るものなのか、それとも中国には深慮遠謀があるからなのか。比較的冷静な感のある中国は、過去の清算に躓き続ける日本が、アジア諸国の中で徐々に徐々に信を失ってゆくのを、奇貨としているではないか、そういう気さえしてくる。(7/15/2001)

 日経夕刊のトップ記事は、「温暖化ガス、米産業界、削減へ自主計画」という見出しで、「エネルギー、製造業などの企業がグループを結成し、削減目標を決めて排出量の測定法や排出権取引の方法を研究、欧州企業などとも組みながら低コストの対策作りに乗り出している。米政府は排出規制に反対の立場だが、産業界は早期の対策着手に意欲的で、官民の姿勢に差が出てきた」とワシントン駐在記者が安藤淳の署名入りで伝えている。更に2面には世界野生生物基金が京都議定書の目標到達に向けてアメリカが努力するならば、2010年には年間500億ドル、2020年には1,350億ドルを節約できるという試算を発表し、19日からのボン会議でEUに歩み寄るべきだとブッシュ政権に働きかけるというニュース。

 ブッシュは愚か者なのか、それとも石油・石炭業界というクラシカルな20世紀産業の単なる代弁者なのか。いずれにしても、日本政府がこの至ってローカルな政権に同調して、グローバルな場で恥をかくことだけは避けて欲しい。(7/13/2001)

 参院選の公示。暑い盛りに各党首、ネクタイをきちんと締め、あるいは、それなりの正装で街頭演説をご苦労様。誰か一人くらい、Tシャツに短パン、サンバイザーでもかぶって、型にとらわれぬ演説スタイルを打ち出してくれぬものか。

 木曜日、小泉内閣メルマガの来る日。あいかわらずのトーンはさておき、こんな疑問が。

 立候補者のホームページもEメール利用も選挙活動には禁止。これが政府解釈。しかし、政府の広報活動と強弁して小泉メルマガは休まない。これはアンフェアではないか。選挙活動にインターネット利用を制限する、それも明確な条文によるわけではなく自己に有利な恣意的「解釈」に基づいて。所詮、小泉首相も自民党的な狡さとは訣別していないようだ。がっかりだ。(7/12/2001)


 日経が、先週、三日間連続で「米国 新・孤立主義の足音」という特集記事を朝刊に掲載した。滑り出して半年になるブッシュ政権の短期総括を行ったもの。「国益優先」を強く打ち出したブッシュ政権だが、身内のジェフォーズ議員の離党で上院の勢力は逆転し、対外姿勢の強硬さはじつはカラ元気なのではないかと思わせる内容が印象的だ。

・・・エネルギー大手エンロンやトヨタ、アルコアが加盟する非営利団体、プー地球気候変動センターのクラウセン所長(元国務次官補)は、「産業界は必ずしも議定書交渉に反対ではない」と指摘する。
 同所長は「多くの企業は世界中で事業展開しており、国際合意による取り決めは長期戦略を立てる上で必要だ」とみる。米国が孤立したまま欧州連合主導でルール作りが進めば、「米産業界の受ける打撃はむしろ大きくなるかもしれない」と懸念する。
 議定書反対を唱え、ブッシュ大統領の温暖化政策を支持するロビー団体、地球気候同盟からはここ数年の間に自動車メーカーなど企業会員が相次ぎ脱退した。議定書からの離脱に慎重な米産業界の空気を反映した動きといわれる。

 京都議定書の件で米欧の綱引きにまるでイソップ童話のコウモリの感がある日本。ところがアメリカ国内では比較的優良な企業は議定書からの離脱を支持しない姿勢を打ち出しているらしく、一国主義ではたちゆかない現実も分らずに、ひたすら産業界に尻尾を振っている忠犬ブッシュや哀れ

 孤立主義的な政策をとるブッシュ政権と産業界の意識のズレはこれだけではなく、鉄鋼輸入のセーフガード問題、クローン技術研究問題などいくつかがあげられている。保守主義に舵をきったとたんの株価の低迷もあって、大統領の地位を盗み取ったブッシュの人気は今ひとつというところ。その証拠にブッシュの支持率はじりじりと低下し、過去5年間の大統領支持率としては最低の50%まで落ちこんだ由。6月末の世論調査では十分野の政策のうち共和党が民主党を上回る評価を得たのは、税制、国防、倫理的価値観の三分野にとどまり、その他の分野では大きく民主党に差を付けられた。それもあってか、4月に発表した来年度(2001.10〜2002.9)予算案で前年度予算から大幅に削減していた代替エネルギーの研究開発費を、つい最近になって一転して2億ドル近くも増額したという。産業界から強い批判を浴びたことがよほど堪えたらしい。

 ブッシュ大統領の迷走はこれからも続くのではないか。京都議定書の件で日本やヨーロッパが呼びかけるべき真の相手は、頭の悪いジョージではないのかも知れぬ。(7/8/2001)

 沖縄の女性暴行事件の容疑者ティモシー・ウッドランド軍曹はやっと昨日になってアメリカ側から身柄引き渡しの意思表示があり、事件発生から1週間目にして逮捕された。月曜日の段階で一部には引き渡し、逮捕の観測がありながら、独立記念日の休暇があったことも影響してか、ずるずると延びてしまった。その遅延の故に、かえって日米地位協定の不合理があらわになり、政治問題としてクローズアップすることとなった。

 木曜の朝刊には、同様の問題を抱える韓国がこの沖縄事件の成り行きに深い関心を寄せているとの報道があった。記事に紹介されていた事件は、昨年の2月ソウル市中心部にある米軍基地から発ガン物質のホルムアルデヒドが漢江に垂れ流されたというもの。市民団体の主張などから、米軍属を正式裁判にかけようとした韓国に対して、米軍は「軽微な犯罪だから、裁判には応じられない」としてかなりもめたらしい。最終的にこの事件のがどのように処理されたかは記事には書かれていない。しかし、この春の韓米地位協定の改訂にあたって、従来アメリカ側が付属文書や運用慣例の中で「好意的に配慮する」としてきた曖昧処理が焦点になったことは事実のようだ。

 昨夜、偶然、フジテレビのニュースで、岡崎久彦が「日米地位協定はアメリカが各国と結んでいる地位協定の中では格段に有利なもの。容疑者の(起訴前の)身柄引き渡しを協定に盛り込めというのは、ムシのいい要求だ」などとコメントしているのを見た。岡崎のような頓珍漢野郎が外交官でございとのさばっている限り、この国はアメリカの属国としての地位を脱することはできないだろう。(それにしても、フジテレビというのは、ピント外れのコメントをあえて集めているのかしら、つい先日は「暴行事件はかえって日本にとってよいことだ」という木村太郎のコメントを流していた由)

 韓国の状況は別として、我が国の場合、米軍の駐留は日本にとって必須のものではなくなっている。米軍の駐留はもっぱらアメリカ合衆国の国益にのみ役立っているといっても、けっして書き過ぎではない。いったい、在日米軍は「何」から日本を守っているというのだ。ロシアか、北朝鮮か、中国か。これらの三国が日本の領土に侵入し、完全に領土と国民を掌握しうる軍事力を持っていないというデータなら、すぐに集められる。しかし、この三国あるいはその他の国が、その能力を持っていると、誰もが納得しうるデータで説明したものは見たことがない。いや、ただ一国その能力を持った国がある。それがアメリカ合衆国だ。なるほど、我が国は、アメリカの植民地なのか。そう思えば、不平等条約を嬉々としてあがめる岡崎のごとき売国奴的外交官の存在にも合点がゆく。(7/7/2001)

 朝刊の小泉訪欧に対するイギリス・フランスの受け止め方が紹介されていて興味深い。その評価は国民の支持率は異常に高いが、実際の政策が見えない現段階ではよく分らないという、ごくごく当然の判断。

 まず、フィナンシャル・タイムズ紙、タイトルは「日本のショーマン」、歴代の首相にはなかった個性を述べたあとで、同様に高い人気でスタートした細川首相を例にとり、改革が言葉だけの曖昧なもので終始すれば、人気はしぼみ事態はより悪化するだろう。ミラー紙は、「英国の政治家があんなもてはやされ方をしたら、物笑いかあざけりの対象になるだけだ」。ミラーはタブロイド紙、こちらでいえば、ゲンダイか、フジに相当するのだろう。もっとも我が夕刊紙にはこういうセンスはなかろうが。エコノミスト誌は、巨額の不良債権処理が急務なのにいまだに改革の優先順位さえ示していない、彼が経済をむちゃくちゃにしたら、国民の笑顔は消え去るだろうと警告。

 ルモンド紙は、悪化した経済状況下で痛みに耐えることを訴える首相が高支持率を獲得し奇妙な集団的熱狂にある原因を、日本人の政治的未熟、これまでの政治的指導者への幻滅の反動などいくつかあげた上で、「日本人は小泉氏を信じることで、ばかげた幻想を抱いているのではないか。ほらを吹くだけの改革派にまたしても失望させられた場合は、これまでより高いところから墜落することになるだけに、事態はもっと深刻だ」と書いている由。

 彼らにとっては他人事だが、こちらにとっては、こののるかそるかの冷や冷や感覚がまさに我がことだけに、大変なのだよ。(7/5/2001)

 朝刊の囲み記事から。今期限りで引退という元農水大臣大原一三が外国人記者クラブの講演で、「参院選が終れば冬眠していた道路、郵政族などの守旧派が息を吹き返す」、「小泉首相は解散権をちらつかせて改革を進めることになる」、「構造改革はスリムで効率的な国を作るもの」、「いまやらなければ日本は沈没する」、「派閥は中選挙区制が生んだもの」、「現在はポストの分け前にあずかるだけで政策はゼロ」、「余計なことだが鈴木宗男君は守旧派の筆頭です」・・・、しがらみがなくなると、政治家もまともなことがいえるようになるようだ。もっとも、この程度のことは市井の我々だっていえることではあるけれど。(7/4/2001)

 イチローがオールスターのファン投票で、ナリーグ・アリーグを通じて最高得票の337万票を得た。今年から始まった日本での得票は68万票、この分を差し引いても二位マルティネスの258万票を超える堂々のトップ当選。メジャールーキーがファン投票のトップになったのも初めてという。

 イチローがメジャー行きの希望を語りはじめた頃、そして本決まりになったこの春も、イチローがこれほどの成績を上げるとは思わなかった。所詮、イチローの打法は当て逃げ打法だから、メジャーの一流投手を相手にして打率を稼げるとはどうしても思えなかった。しかし、最近の映像では、シーズンはじめ頃のゴロのコースヒットとは異なり、球勢におされることなく一応きちんとバットで打ち返したヒットらしいヒットが見られるようになった。あとはレギュラーとしてフルシーズン一定のレベルを保てるかどうか、そういうところまできたのかも知れない。

 でも、やはり、新庄の方が好きだ。まなじりをけっしたイチローよりは、ふんわりとチームにとけ込んでしまって、違和感のない新庄の方が。(7/3/2001)

 日米首脳会談のニュース。テレビニュースで見る限り、キャンプデービッドに呼ばれるほどの扱いだったことと親しく会談できたのねという以上でも以下でもない。フランクに話し合える間柄になったというなら、京都議定書の件なり金曜日の沖縄女性暴行事件などについて「ガツン」といって欲しかったのだが、そういう報道はない。ということは、苦いことはいわなかったから、にこにこ顔のキャッチボールとあいなったわけで、歯触りのいいことしかいわずに仲良くなるくらいのことなら誰にでもできることだ。

 記者会見で「変人」をいろいろな英単語で語ってみせた純一郎の背後で、「ヘェ、ヘェ、ヘェッ、ヘ」となんとも下卑たトーンの笑い声をあげたジョージの表情が、そのあたりの事情を雄弁に物語っていたような気がして、小泉もその程度の男かと、またひとつ見えてしまった。(7/1/2001)

<この項終わり>


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