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9歳は人生のターニング・ポイント

2005.04.18. 掲載
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今年私は69歳になった。32年間続けてきた開業医生活からリタイヤするので、人生の大きな変わり目である。69歳から、反射的に20年前の49歳のころを思い出した。この年の誕生日に、息子圭へ最初の遺書を書き与え、息子の生き方への関わりを終えたこと、私の知的活動の何ものにも変えがたい強力な助っ人であるパソコンを、この年から使い始めたこと、だから、49歳も、私にとって大きな変わり目だった。

それでは、10年前の59歳はどうだったかと調べてみると、息子が医師となった年であり、私が彼に開業医生活をあと10年間続けると約束した年であった。それまでは、あと6年開業を続けて65歳で廃院し、引退することに決め、周囲にもそのように話してきた。だから、この年も大きな転換点であったことに間違いはない。

ここで「私にとって、9歳は人生のターニング・ポイント」という仮説が突然閃いた。調べてみると、不思議なことに、どうも的中しているようだ。医学を学び、自然科学を信奉しながら、同時に運とか運命を信じる私は、この不思議な廻り合わせに俄然興味が湧いてきた。そこで、順番に調べていくことにした。幸い「歌と思い出」という自分史がある。これを利用すれば検証は簡単だ。

<9歳>1945年

この年の3月に、大阪に最初の大空襲があり、続いて神戸も襲われた。そして学童疎開が始まり、私は親から離れて一人淡路島で暮らすことになった。そこは、9歳のこどもにとって過酷な世界だった。この時の10ヶ月間の体験が私を強くした。

8月15日の敗戦を境に、教師や大人たちの価値観は180度転換した。一途に愛国少年として生きてきた少年には信じられないことで、権威あるものに対する不信感を、この時しっかり身につけることになってしまった。46年から神戸に戻り、両親や妹弟と暮らせるようになったが、この9歳は、私にとって色々な意味で大きな変わり目であった。

<19歳>1955年

この年の4月に大学に入学し、これまでの高校生活とは比較にならない、生き生きとした学生生活を満喫した。コーラスに熱中し、初めて恋をした年である。19歳は間違いなくターニング・ポイントだった。

<29歳>1965年

この年の6月に、2年間の出張勤務を終えて、大学の医局に帰局した。それから7年間大学に残り、臨床と研究に没頭した。だからこの29歳もまた私にとって転換点であった。

それ以上に、私の人生の転換点となるできごとがあった。それは7月に大好きな母が亡くなったことである。病気の母が可哀そうで、母が生きている間は結婚をする気になれなかったが、母が亡くなった翌年、親友の妹と婚約し、その翌年に結婚した。母がもしこの年に亡くなっていなければ、結婚はまだまだ先のこととなり、今の妻と結婚することはなかった。そういうわけで、この年は、私の人生の最大のターニング・ポイントとなった年である。

<39歳>1975年

この年の終わりころ、私はこれまでの人生で一番体調が悪く、血液検査でも血沈が悪く、そのほか、コバルト反応が左側に偏移していた。その頃は腫瘍マーカーはなく、このコバルト左側反応は、悪性腫瘍を推測させる検査の中では一番信頼性が高かった。いま、念のために「コバルト反応」という検査を調べてみたが、手持ちの書物には記載がなく、もはや骨董品的な検査なのであろう。咳が長引くし、胸部レントゲン写真でもあやしい影があるので、肺癌の可能性も考えた。

調子が悪い時に私がすることはただ一つ、つきを良い方に変えるのだ。この時の私は、車をグロリアの2ドアハードトップ、3ナンバーに買い換え、AKAIのオープンリールのビデオカメラを買った。初めての民生用カラー・ビデオ・カメラで、100万円を越える代物だった。これによって、再びつきが戻り、私は健康を取り戻すことができた。以来、開業32年後半の今日まで、健康に不安を感じたことはなく、病気で休診したことは一度もない。ターニング・ポイントということばには「変わり目」「転機」のほかに、「危機」という意味もある。この年は、健康の危機を、験直しで乗り越えた記念すべき年だ、と自分では思っている。

<49歳>1985年

40代最後の誕生日という節目に、「圭に贈る」と題した遺書第1号を書いて息子圭に手渡した。それは、圭に対して伝えておきたい私の気持と考えを文書にまとめたもので、B5版手書き47ページからなっている。その最後を、「もしも、私が近い将来に死ぬことがあれば、この文はお前に対する私の遺書だと思ってくれてよい。その積りでこれを書いてきた。そして、49歳の誕生日を記念して、この文をお前に贈る。1985年4月16日 望」と結んだ。

これは高校2年生となった息子に対する、私の側からの総括であった。これを書き上げ、息子に手渡してしまうと、「言うべきほどのことは言った。もう思い残すことはない。」という心境になり、自分のしたいことに、また関心は戻って行った。このようなものを書き与えたことについて、妻は批判的で、無駄で意味がないと思ったようだが、私の自己満足に役立ったのは間違いなく、お陰で私は息子から自由になった。

今思えば、この年の圭は16歳から17歳に当り、難しい時期だった。それなのに、自分勝手に総括をして、そこを抜け出したのは、父親として無責任だと非難されるかもしれない。この後、私は妻と息子の争いの仲裁役、調停役を引き受けることが多かった。

この年の6月に、大阪府医師会のマイコン同好会に入会し、本格的にパソコンを始めた。パソコンを手にして私が行ったことは、青色申告に必要な経理関係の仕事をパソコンに代行させることだった。その中でも、給与計算が一番面倒なので、BASICでプログラミングをして、8月からパソコンで給与計算を始めた。そのほかにも、自分で幾つかのプログラミングを行ったが、年末になって、これらのほとんどを表計算ソフトで処理することに切り替えた。その最大の理由は、自分で作ったプログラムであっても、その一部を変更するのに、莫大な時間と集中力がいることを経験したからである。

表計算ソフトとして、当時「Multiplan」と「Super Calc」というソフトがあり、私は「Super Calc 3」の方を使って、給与計算を始め、これまで手書き手計算で行ってきた経理業務関係を、ほとんどこのソフトに行わせるようにした。その後、「LOTUS1-2-3」、現在では「EXCEL」というソフトが表計算の主流になり、現在は専ら「EXCEL」を使っている。

このように、49歳は子離れをした年、パソコンを使い始めた年で、大きなターニング・ポイントとなった年である。

<59歳>1995年

この年の1月に阪神淡路大震災があり、3月には地下鉄サリン事件があった。我が家では圭が医師国家試験に合格した。彼は入局する段になって、第一内科に入ったと思ったら、第二内科に変わり、また第一内科に戻ると言う。「何で出たり入ったり、カッコの悪いことをするのか」と尋ねた答えに参ってしまった。「ここを継がしてくれないので、将来病院に勤める時に、雇ってもらえる技術を身に付けるには、どこへ入局したら良いか迷うからだ」と聞いた時、生まれてはじめて息子を可哀想だと思った。

確かに、以前から、私は息子に野村医院を継がせないと言ってきたし、妻も同じ意見だった。私の場合、ぼんぼんで、苦労知らずに育ってきた圭に継がせると、頑張りが利かず、失敗するだろうという理由からだったし、妻はこのような神経の使う仕事を継がせるのは、可哀想だと思うからだった。

しかし、圭の話を聞いて不覚にも涙がこぼれ、「これから10年間は野村医院を続ける。その間に、お前に継がせても良いと私が判断し、お前もここを継ぎたいと思うなら、継がせても良い」と話したら、圭の顔がさっと明るくなり、ものすごく嬉しそうな表情に変わった。私たち夫婦が勧めたのではなく、自分の意思で医師になる道を選んだ息子が、健気に生きてきたことを知って、愛しく、圭をぐっと身近に感じた。

このことがあったためか、医師になってからの息子は、今までとは違って医師への道を懸命に歩き始めた。これまでは、最小の努力で最大の結果を得ようとするかのように、努力することをしなかったので、「経済原則で生きる男」と、私たち夫婦は陰口を叩いていたのだが、医師になってからは、愚鈍なほど努力を重ねているのが分り、嬉しい誤算である。

<69歳>2005年

ようやく振り出しに戻った。ここでリタイヤする時期の変遷についてまとめておくことにする。50歳になる年の年賀状に「60歳から後は開業を止め、好きなことをしたい」と書いた。また、高校3年のクラスの同窓会でも同じことを話すと、賛同してくれる者もいた。しかし、医者仲間の多くは「60歳で開業を止めるのは早過ぎる、65歳まで働け」と言うので、結局65歳にまで、リタイヤを延ばすことに予定を変更した。その65歳がまた延びて69歳になった事情は<59歳>1995年のところで書いた。今年の4月で交代の予定が、息子の勤務先の病院の都合で結局9月に延びてしまったが、遅れるのは、これが最後だと思う。

「好きなことをする、したいことをする」というのは、もの心ついた頃からの私の生き方、行動原理である。その「したいことをする」ために開業を辞めたいと思った最大の理由は、生きている時間が限られているという自覚だった。私は確かに変わったところの多い人間であるが、その中でも、一番普通の人と違っているのが、死を意識する強さではないかと思う。

小さい時から死を意識してきたが、その最強の原因となったのが、11歳の時に体験した妹の死である。3歳下の妹は私と仲が良く可愛いかった。その妹が麻疹(はしか)に罹り、3日もしない内に突然亡くなってしまった。妹の死は、幼な心に人の命のはかなさを痛いほど思い知らせてくれた。その後も、29歳の時に母、35歳の時に学生時代の一番の親友N君がこの世を去った。

開業してからも、大学で同期の卒業生が次々と亡くなって行く。卒業生80名の内の16名、同期に第一外科に入局した8名のうちの2名が鬼籍に入った。一昨年は、親友二人が突然亡くなってしまった。このような状況に置かれてきた者が、自分だけは例外で長生きすると思うより、自分も同じ運命をたどると思う方がまともな判断だろう。

私は71歳を迎えたころに死ぬと思ってきた。それは、父の亡くなった年齢で、医師は一般に短命だから、長くてそのあたりが寿命だろう。それまでに後2年しかない。そう思うと焦りを感じることもある。

これまで、しなければならないことをしながら、したいことをして、死に際に悔の少ないことを願って生きてきた。しなければならないこと(開業医とほぼ同じ意味)については、甘く自己採点すると80点くらいかも知れない。しかし、したいことについてはぎりぎり60点くらいに感じ、できることなら80点くらいまでにしておきたいと望んでいる。80点が82点になるのは、それはそれで良いが、80点以上を目指すような生き方は好みではない。

今から3年前に、「心に生きることば」を書いて、順次ここに掲載して行ったが、第8章:運命第9章:価値を書くころになると、「これを書いてしまわなければ、死ぬに死ねない」と、必死になっていたことを思い出す。いつもは、Webサイトに書き込むことに対して批判的な妻も、この時ばかりは、私の雰囲気に圧倒されたのか、支持激励とまではいかなくても、容認してくれたようだった。そして、これを書き上げた時には、なんとかぎりぎり60点をクリアできたという気持になったことを覚えている。だから、明日命がないとしても、「これではとうてい死に切れない」と悔しく思うまでにはならないだろう。

60点や80点というのは、私の生きる知恵「80点主義」から出てきたことばで、80点が私の満足点、60点が合格最低点であるが、あくまでも主観的な採点であり、自己満足度と同じと考えていただいて良い。

先に書いたように、71歳の根拠はあやふやなものだが、もしも、71歳を越えて命があれば、それはオマケの人生、オマケとして好きなように生きようと思っている。

「ターニング・ポイント9歳」を発見して気づいたことだが、もし、これが未来にも当てはまるとするなら、79歳のターニング・ポイントは、この世からあの世への分岐点と考えるのが常識であろう。それが当たり、おまけを重ねて、79歳で死ねるとしたらそれは愉快だ。こう書くと、「我が家の芝生は青い」と思う人間の発想には、ついていけないとの呆れ顔が目に浮かぶ。

最後に、「9」という数字に対する私の感覚を書いておきたい。世間では4=「死」、9=「苦」を連想するので、これらの数字を忌み嫌う人が多いようだが、私はそのような意味での抵抗はまったくない。「4」は誕生月で好感を持っているし、「9」は1桁数字の最後なので好きな数字である。

先に書いた「心に生きることば」を9章でまとめたのも、10章にすると目次部分で10が2桁になるの嫌ったからだ。あれをホームページに掲載した時に、縁起の悪い9章で終わるわけがないので、10章で完結するのだろう、と予想された方がいて、その期待を裏切ったことを思い出す。私は始まりよりも、終わりを大切に思う性分で、計画よりも総括、生まれた時よりも死ぬ時を、大事に思う。そういうところから、数字の最初よりも最後を好むのかもしれない。

「9」との因縁は、まだまだたくさんある。開業をしたのが1973年9月であり、医療法人野村医院の会計年度は9月から始まる。息子と交代するのが今年の9月からで、私の一番好きな歌の一つが、9月の歌「セプテンバー・ソング」。あまりの関連の深さに、自分でも驚いている。そういえば、欧米の新学期は9月から始まるし、日本は4月から、「9」「4」も良い数字ではないか!

その極めつけは、「9」が、私の人生のターニング・ポイントに関わる数字であると分かったことで、ますますこの「9」という数字が好きになってしまった。


<2005.4.18.>

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