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心に生きることば

−BOWの人生哲学−

第8章:運命

2002.11.11. 掲載
2012.11.11. 追加
このページの最後へ

   章内目次

01<無常> 02<運命> 03<受容>
04<神> 05<宗教> 06<老年>
07<死> 08<臓器移植> 09<人類の運命>

心に生きることば 全目次
第7章:創造 ←            → 第9章:価値

この章では、偶然のようであり、必然のようでもある、運命的なことがらについて、まとめておくことにする。

01<無常>

1. 観無常心 無常ならざるもの(道元)

2001年に、観光で永平寺を訪れたが、そこで「道元禅師からのメッセージ」として、英文が併記されたパネル展示を読んだ。

そこに書かれていることは、私が日ごろ思ってきたことと同じなのに驚き、仏法や道元禅師を身近に感じた。このパネルが、そのまま16枚の絵はがきになって販売されていたのを宝物を求める気持で購入した。平易なことばに訳された英文を読むと、日本語よりも意味が分かる部分がある。その16のメッセージの中の最初にあたるのが、この「観無常心」である。

「生まれたものは死に、会ったものは別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように去っていきます。すべてが「無常」です。この世において「無常」ならざるものはあるでしょうか。」

2. 諸行無常(釈迦)

「あらゆるものは常に変化して、一刻も同じ状態にとどまることはない」という仏教の根本思想を表すことばである。

「諸行」とは、すべての作られたもの、あらゆる現象の意味。「無常」とは不変、常住のものはなく、変化すること。ここから「無常」は、人生のはかなさ、命あるもののはかなさを表わすことばになったようである。

もちろん、それも間違いではないが、本来の意味は、宇宙自然のすべてのものが常に変化して、一刻も同じ状態にとどまることはないと言うことである。この思想を知り、仏教のすごさを感じた。

3. 散る桜 残る桜も散る桜(良寛)

これは良寛の辞世の句の一つで、桜の花は、早い遅いはあるけれど、いずれは散る。私たちも、人の命の散る様を見ているが、すぐ自分の命の散るときが来てしまうという意味にとるのが普通だろう。まことにその通りである。

しかし、もっと一般化して、すべてのものは変わって行く、変わらないものはないという「諸行無常」のたとえを示したのだと理解しても間違いではあるまい。

4. 行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず(鴨長明)

これは鴨長明の著した「方丈記」の書き出しの部分で、「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく止まりたるためしなし」と続く。ここでも、人生のはかなさ、命あるもののはかなさを表わすものとして使われている。この部分が、古代ギリシャの哲人ヘラクレイトスの、「万物流転」のたとえに良く似ていることに驚く。

5. 万物は流転する(ヘラクレイトス)

「万物は流転する Panta rei(パンタ・レイ)」。これはBC500年頃のギリシャの哲学者ヘラクレイトスのことばである。「すべてのものは流れる。何ものも存続せず、同じままということはない」と述べ、万物の真の姿は、運動・変化の状態にあると考えた。釈迦の唱える「諸行無常」と同じだ。

科学、医学の進歩を経験している私たちには、この「万物流転」「諸行無常」がよく理解できる。例えば、人間の身体を構成する物質は、日々、刻々入れ替わっている。自然界のすべての現象は、原子の世界から宇宙に至るまで、片時もとどまることなく、変化している。

変わっていないと見えるものも、タイム・スパンを広げれば、変化しているのが分かる。このことを2500年前に見出した、ヘラクレイトスや釈迦は、まことに偉大だと思う。これを私は「万物流転の法則」あるいは「諸行無常の法則」と呼ぶことにする。

私は、ポンペイやギリシャ、クレタの古代遺跡を訪れて、人間の頭は3000年程度では進歩しないということを知ったので、2500年前にヘラクレイトスや釈迦のような優れた人間が存在したことを、それほど不思議には思わない。

この「万物流転」は、真実として理解できるが、その意味の解釈は恣意的なもので、哲学や宗教の問題になる。

仏教の根本思想は「諸行無常」であるという。しかし、「散る桜」や「行く川の流れ」のように、「諸行」のうちの人の命を強調し、また、すべてのものが、誕生、発展、衰退、消滅する「無常」のうちの「消滅する」部分を強調するのでは、釈迦の偉大さを貶めると私は思う。

このような偏った「無常」からは、生きるもののはかなさ、もののあわれが強調され、暗いマイナス・イメージが生まれる。その上、「むじょう」から「無情」が連想され、一層マイナス・イメージが高まるのではなかろうか。

6. 生物は、生まれてから死ぬまでの間を、充実して生きるべきだ(望)

それに対して、いつ頃からか「無常」に対するマイナス・イメージが私の頭からなくなり、宇宙自然の法則として、むしろ、プラス・イメージで「無常」を思うようになった。

生きとし生けるものは、他の宇宙のすべてのものと同様に「無常」であり、生まれ、生き、そして死ぬ。生命あるものは、その生きている間に、自分の持って生まれた素質を環境の変化に対応させ、その命を精一杯発揮し、充実して生きようとするかのように見える。これもまた真実であろう。私はこれを「生命の法則」と名付けた。

生物が地球に誕生して35億年、その種類は1億5千万種にまで広がっている。人類の祖先である猿人は、約400万年前に、そして現生人類は4万年前に生まれ、現在の人口は約60億人といわれている。その間、すべての生物は、与えられた生命を最大限に発揮できるように、その置かれた環境とその変化に対応して生きてきたという事実は確かであろう。しかし、それに対してどのような意味付けをするかは解釈であり、哲学、宗教の問題である。

私は、生物が、生まれてから死ぬまでの間を、充実して生きようとする「生命の法則」にしたがって生きるべきではないかと考え、これに生きる価値の基準をおいてきた。そのことについては、次の第9章:価値のところでも書くが、こう理解することにより「無常」はプラス・イメージに変わり、生きる目的、生きる価値を教えてくれることばとなった。

7. 変化があるから良い、終りがあるから良い(望)

私は昔からマンネリが嫌いだった。無変化は退屈至極で、変化があるから何ごとも面白い。変化のない満ち足りた天国や極楽の世界など真っ平で、それなら、むしろ閻魔と知恵比べのできる地獄の方がましではないか、と思うほどである。もちろん、地獄極楽を信じているわけではまったくないのだが、、、

また、すべてに終わりがあるから良いので、いつまで経っても終わらないドラマなどは願い下げだし、何時までも死なず、老人で溢れかえっている世界など、考えただけでも気持が悪く恐ろしい。

役割を終えて消えて行くのを素晴らしく、また美しいと思う。それは「万物流転の法則」「諸行無常の法則」に適っているからであろう。


02<運命>

1. 良い星の下に生まれてきた者もいれば、悪い星の下に生まれてきた者もいる(望)

「運命」を、人間の力では避けることも変えることもできないものとまでは思わない。少しは人間の力で変えられるところがあると思いたい。

しかし、あまり努力をしないのに、全てが順調に進む人もいれば、いくら懸命に努力をしても、報われることがない人もいる。偶然と言うには、あまりにも不思議で、やはり、ツイテいる人、ツイテいない人はいるのだと思いたくなる。

私は自分のことを、良い星の下に生まれたと思うが、これは気持の持ち方によるのかもしれない。何かうまく行かないことがあれば、願を掛けず、ツキを呼び込もうとして、げん直しをするのが、私のこれまでのやり方だった。そのことは、第4章:解決 19<逆境不運> 1. げん直しをする のところに書いた。

2. 神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す(山田風太郎)

これは今年(2002年)亡くなった、山田風太郎のエピグラム(警句)で、「人間臨終図巻 1」 58頁、三十歳で死んだ人々の冒頭に書かれている。まじめに懸命に生きている者が早く死に、悪業の限りを尽くして大往生をとげる例もたくさんあり、運命は不公平なものだと、自分の体験から述べている。これは極論であるが、運命の持つ一面をよく表わしていると思う。

3. 運、鈍、根(諺)

「運、鈍、根」というのは、幸運に恵まれ、図太くてねばり強く、根気があることの三つが成功するために必要であるということわざだ。

能力が極めて優れていて、しかも、非常な努力をする人でも、運に恵まれなければ、より能力の劣る者、より努力の少ない者に敵わないことがある。「運」というのは、成功するための3要素のうちでも、最も決定力の大きいファクターと言えよう。

5. 遭うと遭わざるは時なり(諺)

人生で運命を強く感じる時がある。その一つが人との出会いである。偶然のようであり、必然のようでもある。運命とはそういうものだろう。このことわざはその機微をよく表わしている。

似たものに「一期一会」ということばもあるが、どこか教訓的なところがあり、好きになれない。毎回そんなに緊張して接していると、私なら疲れてしまう。むしろ、「これもご縁」と考える方が、性に合っている。

6. 縁は異なもの(諺)

このことわざは、人との出会いの中でも、男女の縁を指すことばのようだ。私たち夫婦についても、このことわざの通りだとよく思う。

まず第1は、妻と出会う1年ばかり前に母が生きていたら、私はまだ結婚をする気はなかった。
それは結核の末期で、病床に臥せる母の傍にいてやりたかったからだ。

第2は、大学病院の廊下で、当直中の妻の兄に遭わなかったら、妻のことを知ることはなかった。
私はそのころ、病院にほとんど毎日泊り込んでいたが、妻の兄は、その日たまたま数少ない精神科の当直日にあたっていた。広い大学病院では、科が違えば滅多に遭うことはない。事実、同じ病院に居ながら、数ヶ月出会ったことがなかったのだ。

第3は、私が妻の兄と親友でなければ、偶然出会っても当直室で、自分が現在見合いをしていることを話すこともなく、彼もまた、妹のことを、私の結婚相手の候補の一人に入れてくれと頼むこともなかった。

第4は、妻の兄がそれから間もなく結婚しなかったなら、妻と会うことをせず、他の人と結婚していた可能性が高い。

そのわけは、友人の妹というのは良ければ良いが、もし、合わなければ断り難い。それを思うと、会わない方が良いと考えて、会うのを延ばし続けていたからだ。

第5は、妻が兄を非常に尊敬していなかったなら、妻に対して心を惹かれることはなかったかもしれない。

彼の結婚披露宴に招待されると、その受付に妻はいた。その数日後、エチケットとして妻と会い、話を交わしたら、兄を心底尊敬しているのがことばの端々から洩れ出てくる。これには驚いたが、非常に新鮮で、可愛いと思った。

そして、妻との3回目のデートの後で、「私に賭けてみませんか?」とプロポーズした。結婚も賭けのようなもの、してみなければ分からない。だから、私に賭けてみてはどうかとしか言えなかった。

私にとって、人生で一番大事な結婚についてさえ、考え抜き、調べ尽くすのではなく、直感に頼り、運を天にまかすという、これまで通りのやり方を踏襲した。つまり、自分で決められることは自分で決める、最後の決め手は直感、自分で決められないことは運命にまかせる、という生き方である。


03<受容>

1. なるようになる、なるようにしかならない(望)

人間の努力によって運命が変わることもある。しかし、それがどのように変わるかは分からない。なるようになる、なるようにしかならないのだ。

この、運命をそのまま受容するということは、なるようにしかならないのだから、努力をしても仕方がないといって、努力を放棄する意味ではまったくない。精一杯努力をして、望む結果が得られなかったとしても、それを受け入れ、同時に、次の努力に役立たせようとするアクティブな受容である。

2. ケ・セラ・セラ(Que Sera, Sera)

「When I was just a little girl」で始まるこの歌は、映画「知りすぎた男」の主題歌で、ドリス・デイが歌った。3拍子の軽快なメロディで、私もよく鼻歌で歌う。「ケ・セラ・セラ」とは、モロッコの方言で、なるようになるという意味らしい。私は、人生に対処する方法をこの曲から学んだように思う。あるいは、自分の生き方と同じだと共感したのかもしれない。

この歌のほかにも、ダークダックスの「くよくよするな、気にするな、くよくよしたって始まらない。」や、ビートルズの「レット・イット・ビー、あるがままにまかせよ」、カンツォーネの「ケ・サラ、どうなるか分かりはしない」、ミュージカル「ライオンキング」で唄われる「ハクナ・マタータ、くよくよするな」などの歌が、私の生き方を表わしている。

3. しゃーないことはしゃーない(望)

「しゃーないことはしゃーない」というのは、私の生き方の中でも、根本的な部分ではないかと思う。「しゃーない」は「仕様がない」の関西弁である。世の中には、どうしようもないことがある。それを嘆いても、悔やんでも、腹を立てても、何の効果もない。そのような時は「しゃーないことはしゃーない」と言って、いさぎよくあきらめることにしている。運命は甘受するより仕方がないのだ。

私はあきらめが良い。それは、身内の死を幼い頃から見てきたことも関係していると思う。中でも、私が11歳の時に、妹が麻疹のため3日で亡くなり、29歳の時に母が肺結核で亡くなったことで、人は必ず死ぬということを強く自覚した。

医師になってからは、多くの死を見てきた。開業して書いた死亡診断書は150通を越える。人は必ず死ぬ。そして、その時期を誰も予測することはできない。「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」との蓮如の御文はまことで、「突然死」を何人も経験している。

4. 人間あきらめが肝腎(望)

「しゃーないことはしゃーない」と言う状況で、追加する口ぐせが、この「人間あきらめが肝腎」で、これでもって、あきらめの駄目押しをしているようなものだ。

5. 没法子(メイ・ファーズ)

「没法子 メイ・ファーズ」というのは、しかたがない、あきらめる、と言う意味の中国語である。中学時代に、社会科担当の藤見楠幸先生から、このことばを教わった。このことばからは、運命に委ねる消極的意味を思うかもしれないが、そうではない。

与えられた運命は変えようがない。だから、これを受け入れ、そこから出発する。メイ・ファーズは「仕方がない、なんとかなるさ」という、あきらめと楽観的な見方が混在したことばだ。中国人の強さの秘密が、このことばに隠されている、と教わった記憶がある。

6. 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候(良寛)

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と言うことばは、近くで大地震が起きた年、良寛が知人にあてた見舞い状の一節である。

このとき、良寛は71歳。災難や死はまぬがれようとしても、できるものではない。自然の法則に身を任せようという心境が、手紙から読み取れる。

7. 諦めるべきか、諦めるべきでないか、その見極めが肝腎(望)

あきらめるべき時にあきらめることは大切なことである。しかし、あきらめるべきでない時にあきらめることはしない、never give up は私のモットーである。「あきらめるべきこと」と「あきらめてはいけないこと」を見極めることが、結局は最も重要になってくる。

以上をまとめると、
1)しゃーないことはしゃーないとあきらめる
2)仕様があることは、投げ出さず、あくまで頑張る
3)少しでも仕様がある可能性があれば、あかんでもともと、でやってみる
4)しゃーないことと、仕様があることとの、見極めができるように努める
これが「生きる知恵」の極意である。


04<神>

1. 私の神は宇宙自然の根源(望)

私は無宗教である。しかし、宇宙自然の根源にあるものの存在は常に感じている。「神」とは何かと問われれば、私にとっての「神」は、宇宙自然の根源である。宇宙のすべてのものは、偶然のようで必然的に存在し、絶えざる変動を続けているが、その根源にある原理を「神」と考える。その原理は確率的に働き、例えば、99.9999%の確率で当たり、0.0001%の確率で外れる。「神が誤ることもある」のだ。

私にとって「神」は「天」と同じものである。それは、時間と空間を超越したもので、姿も形なく、創造主というような人間的なものでなく、勧善懲悪など道徳的価値の基準でもない。

2. 神は死んだ(ニーチェ)

欧米では、キリスト教的な道徳が、価値判断の基準となることが多く、多くの人がキリスト教的世界観をよりどころにして生きていた。それを批判して、ニーチェは「神は死んだ」と唱えた。彼は、現実の世界を懸命に生きることこそが正義であると考え、来世の幸福を約束し、現世を否定するキリスト教的世界観を否定したのである。

3. 一神教よりは多神教(望)

今、世界で激しく争い、対立しているアメリカ、アラブ、イスラエルは、同時にキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の対立でもある。もともと、ユダヤ教からキリスト教が生まれ、さらに、そこからイスラム教が生まれたので、いずれもユダヤ教を父とするいわば異母兄弟である。そのため、近親憎悪が強いのではないかと思う。これらの宗教の神は、父なる神という唯一絶対の神であり、エホバ、アラーと名前は違っても同じものであろう。

聖戦を唱え、他の宗教に属する人間を根絶させようとするかのような争いを見ていると、一神教の恐ろしさを思ってしまう。私は既存宗教のどの神をも信じるものではないが、このような一神教よりも、わが国の八百万の神、あるいは、ギリシャ神話の神のような多神教の神の方が、世界の人間の共存に適していると思う。

4. 五千余の蓮華へ神はどう詫びる(?)

これは阪神淡路大震災の後で、大阪の川柳各結社の代表41人が詠んだ句の一つとして新聞に掲載されたものである。「蓮華」とは仏教的表現で、死者のこと。実際の死者は6308人という大惨事であった。神はあるのか?、神は何のためにこのようなことをされたのか、そう思わざるを得ない惨事の中で、この句に共感を覚えた。

キリスト教やイスラム教のような、唯一絶対の神を信じる者にとって、神を非難することはもちろん、疑いすら持つことも許されないであろう。神が人間に詫びるなどということは、絶対にありえないはずだ。おそらく、彼らは、これを神が下された試練と思うに違いない。しかし、私たち日本人には、この句に書かれた気持がよく分かる。

これで明らかになるのは、一神教の神と、私たち日本人の考える神が違うということだ。こちらは、もっとアバウトで、間違いもするかもしれない神、あるいは、あちこちにたくさんいる神であって、何もかも取り仕切っている唯一絶対の神ではない、ということである。

5. 仏神を尊べど、これを頼まず(宮本武蔵)

「仏神を尊べど、これを頼まず」という宮本武蔵のことばを、第4章:解決 19<逆境不運>に書いた。私は「神」に近いものの存在を信じるが、これに頼ったり、願いをかけたことはない。それは、私の「神」が願いをかける対象ではないからである。運命は甘受するより仕方がないが、自分ができるだけのことをするという、「天命を待って人事を尽くす」ように生きようと思ってきた。


05<宗教>

1. 回心向大 正しい宗教(道元)

これは、01<無常>のところで書いた「道元禅師からのメッセージ」の中の7番目のことばである。

「自分の宗教を信ずるあまり、他の宗教をそしり、果ては憎しみ争うほど愚かなことがあるでしょうか。正しい宗教は、いつの時代にも、人々を照らし、平和な生き方へと導くものなのです。宗教者同士が刃をぬいて争うことがあってはなりません。」

まことにその通りで、アラブ世界を中心としたイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の争い、北アイルランドでのカトリックとプロテスタントの血なまぐさい紛争を思うと、宗教は何のためにあるのかを、真剣に考えてしまう。

2. 聖戦を掲げる宗教は恐ろしい(望)

イスラム教では「聖戦ジハード」の戦死者には、殉教者として、天国が約束されているという。もし、そうであるとしたら、「神」の名の下で戦争、テロに駆り立てる宗教指導者の罪悪と、それを信じて応じる若者たちの哀れさを思う。

しかし、「聖戦」が、イスラム教の本来の教義にあるものか、疑わしい気もする。キリスト教にも、仏教にも、多数の宗派があり、それぞれが違った教義を持っている。そして違う宗派の間で争いが起きる。マホメッド、キリスト、釈迦のことばを、後から他の人がいろいろ解釈することによって多くの宗派が派生するのであろう。

3. 天国や地獄を説く宗教は合わない(望)

私が、天国や地獄を説く宗教と合わない理由は、少なくとも三つある。

第1は、天国や地獄の存在が信じられないことだ。現在地球上にいる人間は60億人、現在の人類が誕生して4万年、その間に天国と地獄に行った霊魂の数は膨大なものになる。それを信じることができるのだろうか?

第2の理由は、飴と鞭で行動の規範を与えられることが好きでないからである。

第3は、変化なく、永遠に続く満ち足りた天国や極楽は、退屈で絶えがたく、それなら、むしろ閻魔や鬼と知恵比べをしてでも、変化のある方が好ましいと思うからだ。

4. 因果応報を説く宗教は嫌い(望)

因果応報は運命より強いとか、親の因果が子に報いとか、水子供養など、人を不安に陥れたり、人の不安につけこむようなことを説く宗教は嫌いだ。

5. 選別意識、選民意識のある宗教は合わない(望)

私は曽祖父の代からのクリスチャンである家に生まれた。母は若い時に洗礼を受け、クリスチャンとして死んだ。そのようなわけで、キリスト教については、普通一般の人よりはよく知っていると思う。しかし、キリスト教に対して、どこか違和感を感じてきた。

それが何だったのかと今振り返ってみて、キリスト教に特有の選民意識、選別意識を感じてしまうからではないかと思う。クリスチャンは、自分たちが選ばれた者であるという気持を、無意識のうちにも、持っているように感じられる。それが私には合わない。

6. 中庸を説く宗教は好ましい(望)

運命は分からないものであり、決め付けられるものではない。アバウトなものを大切にする宗教が、私には好ましい。宇宙自然の根源的原理の存在を絶えず感じ、それに対して驚嘆しているが、それが何々であると決めつけられるとき、私の感じる宇宙自然の根源的原理ではなくなる。

7. 生命の充実を説く宗教は好ましい(望)

01<無常>のところで「生命の法則」として書いたように、生命あるものは、その生きている間に、自分の持って生まれた素質を環境の変化に対応させ、その命を精一杯発揮し、充実して生きようとする。このことは疑う余地のない真実だと思う。そのことを説く宗教を私は好ましく思う。

8. 既存宗教の中で私に一番近いのは禅宗かもしれない(望)

クリスチャンだった私の母は、死ぬ何ヶ月か前に、神を信じない私のことを恐いと言った。その時に私が信じないと言ったのは、キリスト教の神、つまり父なるエホバの神である。もしも、宇宙自然の根源を「神」と言うのなら、私はそれは信じるというより、その存在を強く感じて来た。しかし、それを既存の宗教の中に求める気持にはなれなかった。

2001年9月に、観光で永平寺を訪れ、「道元禅師からのメッセージ」16篇のうち7篇までが、私が日ごろ思ってきたことと同じであることを知った。また、ここには、地獄極楽とか、来世のことを書いたメッセージはなかった。私の知っているキリスト教も、仏教も、来世を説き、天国(極楽)地獄が絵画にも描かれている。しかし、この永平寺を訪れ、来世を説かない仏教があることを知った。

以上の二つの理由から、既存宗教の中で私に一番近いのは、禅宗かもしれないと思う。しかし、この宗教に帰依しようという気持はない。私は自分の思うように生き、死のうと考えている。ただ一人の野村望教、BOW教でも良いではないかという心境である。

9. 来世信仰のある人は強い(望)

私には来世信仰はない。来世を望まない。「諸行無常の法則」「万物流転の法則」にしたがって、生まれ、生き、死んで行く。生きている間は「生命の法則」にしたがって、生命を精一杯充実させようとする。それ以上を望まないし、望むべきではないと思っている。

しかし、BC3500年のエジプトの時代から、現代に至るまで、全世界に来世信仰があったことは知っている。私のような人間は変わり者かもしれない。また、ゆるぎない来世信仰を持っている人は、死に臨んでも見事に生き切ることが多いことも知っている。来世信仰を持つことができる人は幸せだと思う。

来世信仰が、その人の生命を精一杯充実させることに有効であるなら、「生命の法則」を助けるものとして、価値があると思う。宗教とは、まこと道元禅師の「回心向大」であるべきであろう。


06<老年>

1. 完全なる一生は青年、壮年時代と同様に老年時代も含んでいる(モーム)

このことばは、64歳のモームが、自らの人生をふりかえりながら書いたものである。老年時代をどのように生きたかも、その人の人生に含まれる。青年期、壮年期に劣らず、老年期もまた大切な時期である、というモームのことばに同感する。

2. 老いを生きることは、死を前に見て生きること(望)

老年期を、WHOの統計に倣って、65歳からとして不都合はあるまい。私が生まれた頃の日本人の平均寿命は50歳に満たなかった。平均寿命が65歳を越えるのは、女子が1955年、男子は1960年である。だから、それまでは老年期に入るまでに亡くなる人が大部分だったことになる。

老年期が青年期や壮年期と一番違うのは、最終ゴールを否が応でも意識して生きなければならないということだろう。死を前にして、自分の人生を完成させようと思う人もいれば、死を見ないように、目をつぶったままで最後を迎えたいと思う人もいるだろう。あるいは、命を永らえることを生きる目標にして、いろいろ試みる人もいるかもしれない。

どのように生きるかは、人それぞれで良いのだが、「生命の法則」を持ち出すまでもなく、与えられた1回限りの人生を、思いっきり充実して生きることで、悔いなく死ねるのではないかと私は思う。

3. 老年期は、しなければならないことが減り、したいことをする時間が増える時期(望)

老年期は、社会的にはそれまでの仕事を離れ、第2の人生を過ごす時期と重なるところが多い。それは、しなければならないことが減り、したいことをする時間が増える時期と言いかえても良いだろう。

50歳になった時、60歳からは、生きる重点をしたいことに移したいと思った。しかし、いろいろな事情でそれが叶わず、65歳に延び、終には69歳となってしまった。

私は人生のゴールを70歳と考えている。それについては、さしたる根拠も無く、それまでは命はあるだろうと感じているだけである。いずれにしても、もう残された時間はわずかしかない。そう思うと、「今」がとても貴重になってくる。

4. 老兵は死なず、ただ消えゆくのみ(マッカーサー)

マッカーサーは、朝鮮戦争でトルーマン大統領の命に従わず、解任された。米議会の演壇に立った彼は、演説の最後に言った。「私は兵営の歌の繰り返し文句をまだ覚えている。その文句は非常に誇らしく、次のように歌っていた。老兵は死なず、ただ消えゆくのみ。あの歌の老兵のように、私はいま軍歴を閉じて、ただ消えていく」

      Old soldiers never die, they just fade away.
      Young soldiers wish they'd fade away.

この歌は、「若い兵士は老兵が消えゆくのを望んでいる」と続くのだ。老年期に入れば、次に譲り、その場を去るのが自然である。それが「無常」であろう。1951年4月、私が中学3年になったばかりのころのできごとだったが、なぜか、その時に受けた衝撃を、今もよく覚えている。

5. 長命は望ましいか?(望)

2000年の日本の65歳以上の老年人口は18%となり、15歳未満の年少人口15%を初めて上回った。これを世界全体で見ると、老年人口が7%であるのに対して、年少人口は30%で、年寄りはこどもの4分の1を占めるに過ぎない。その結果、日本はこどもよりも年寄りが多いという異様な国に変貌してしまった。

60年前の日本人の平均寿命は、50歳に満たなかった。その後、平均寿命は爆発的に伸びて2倍近くになり、2001年には、日本人の平均寿命は男子78歳、女子85歳となった。しかし、この事実を手放しで喜んで良いのだろうか?

第1は、生物が生きている間に、できるだけ生命を充実させようとする「生命の法則」から考えて、疑問がある。ここで、生命の充実を擬似的に表わすため、生命の充実量=その時点での充実度×時間(年月)と観念的に考えると、物理的に生命の時間を延ばしても、脳死あるいは植物人間のように生命の充実度が極めて小さければ、その積である生命の充実量は少ない。それは「生命の法則」に逆らうものである。

第2は、長命を享受できる恵まれた環境にいる、限られた人間のエゴではないかという疑問がある。自分たちが、貪欲に長く生きようとすることによって、資源は枯渇し、環境は破壊され、次世代に致命的なマイナスとなるのは明白である。それにも関わらず、自分が良ければ良い、子孫のことは考えないというのでは、早晩、人間という種は滅亡する運命にあるだろう。


07<死>

1. あらゆる生あるものの目ざすところは死である(フロイト)

フロイトは、人間の心の底には、生きようとする生の本能(エロス)と無生物に帰ろうとする死の本能(タナトス)が備わっていると考えた。生の本能についてはよく知られていて理解しやすいが、死の本能もあわせ持っているという考えは、やはり卓見だろう。

2. 弾の軌道が目標で終るように、人生は死で終る(ユング)

人は死が避けられなくなった時、自分が他の誰でもない自分として生きたかどうか、その証しを必死になって求める。その個性化の道を完成させるのが死であり、死は人生の目標であるとユングは考えた。人は死ぬために生まれて来たのだ。

私も若い頃から同じように思ってきた。神戸の川崎病院での2年間の出張を終え、1965年7月に阪大第一外科に帰局した時、提出した書類に「死ぬ時に悔いのないように生きたい」と書いた。それについて、当時の西崎医局長から、このようなことを書いた人間は今までいない、と言われたのを覚えている。29歳になって間もなくのことだった。それから3週間あまりで、母は肺結核で亡くなった。

亡くなる前の数年間は、少し身体を動かしても呼吸困難になる状態だった。そのような状態でありながら、母は一度も不安や愚痴をもらしたことがなく、暗いはずの病人が、一番明るくふるまい、讃美歌を歌ってくれと私に頼むのだった。

私が母に教えられた一番大きなことは、人生の最後をどのように過ごすかと言うことだったと思う。母は結婚する前に洗礼を受けていたので、神を信じない私のことを恐いと言った。それでも、私は神を信じることなく、死に際に悔いが少ないことを求めて、命ある限り、精一杯生きようとしている。

3. 死は個体の終わり、無常の中の1点である(望)

万物はすべて変化する。生物はすべて、生まれ、生き、死ぬ。これを「万物流転の法則」「諸行無常の法則」と私は呼ぶ。生物の個体は、生まれ、生き、死ぬことで、その個体の生命は終了するが、万物は流転し、諸行無常であり、個体の生と死は、その中の極めて小さな1点である。

4. 死後の世界を無、来世がある、転生があると考えるのは個人の自由(望)

私は死後の世界を無と考えているが、多くの宗教は死を来世への出発点としている。この来世信仰は、遠くBC3500年のエジプト文明にも存在するが、死の恐怖を克服しようとする人類の知恵だったのかも分からない。

死後の世界を「無」と考えるか、「来世」があると考えるか、あるいは「輪廻転生」があると考えても、それははどちらでも良いことだ。分からないことを議論したり、悩んでみても始まらない。

要は信じるか信じないかの問題である。大切なのは充実した生き方をすること、つまり「生命の法則」にしたがうことであり、それに役立つのであれば、「無」も「来世」も「転生」も価値があると思う。

5. 臨死体験は生命の最後に見る場合もある脳内現象(望)

臨死体験とは、一度は死にかけた人が蘇生したとき、その間の状態を後で尋ねると、誰もが似たような体験をしていることを言う。一時マスコミなどにも盛んに取り上げられたが、私は生命の終りに近い状態で、脳が感じる状態だと思っている。

30数年前、2人の蘇生患者に尋ねたところ、何もなかったと答えた。遊泳中溺死しかけた哲学者吉本隆明さんは、「遺書」という著書の中で、自分の臨死体験について、「残念ながら、期待したような体験はまったくありませんでした」と書いている。また、くも膜下出血で「死のリハーサル」を行なう羽目にになった作家の服部眞澄さんは、「何も見ず、何も聞かず、一切が無だった」と読売新聞に書いていた。

死へ向かう途中に「臨死体験」というものがあるとすれば、それは誰にでも起こって当然であろう。しかし、蘇生者の中で、「臨死体験」のある者は限られている。そのことが、「臨死体験は、生の最後に見る場合もある脳内現象」であると考える理由である。

私にとって、「臨死体験」があるかないかはどちらでも良い。「臨死体験」も、蘇生後の人生において、「生命の法則」を助けるように作用する場合には、価値があると思う。

6.人が死ぬ際に苦しむことは少ない(望)

死の現場を知らない者の中には、人は死ぬ時に悶え苦しみ、七転八倒するなどと思い込んでいる者もいるようだ。しかし、そのような死に方は極めて稀である。私は3人の肉親の死、開業してからは150人以上の死に立ち会った。勤務医時代にも3〜40名の死亡現場に立ち会っている。

その中で、苦しみ悶えて死んだ人は極めてわずかであり、ほとんどが安らかな死か、あっけない死、あるいは朝起きたら亡くなっていたなどだった。不慮の事故、殺人、拷問死などでは、断末魔の苦しみを見せることもあるだろうが、通常の病死や老衰による自然死などでは、苦しみを伴うことは極めて少ない。また、高齢者であればあるほど、穏やかに死を迎えるようだ。

死に際の苦しみを強調して信仰を強いる者は、もし、地獄があるとすれば、そこに真っ先に突き落とされるべきであろう。

7. メメント・モリ memento mori(諺)

「メメント・モリ(memento mori)」というのは中世の言葉で、ラテン語の「死を忘れるな」という意味である。自分の死がもう間近に迫っていると知れば、残された日々をどう生きるかを考え、限りある命を精一杯生きるであろう。人が自覚的に生き始めるための一番強いきっかけは、死を知ることである。

8. 脳死は心臓死ではない(望)

「脳死は心臓死ではない」というのはあたり前のことである。ところが、脳死=死、心臓死=死、 ゆえに、脳死=心臓死、 という詭弁がまかり通っている。脳死の判定基準のあいまいさなどは問題ではない。脳死はどこまで行っても脳死であり、心臓死ではないという違いを明らかにしないことが問題なのだ。

「心臓死」の遺体からの臓器を摘出することを認める法律が制定されていると仮定する。心臓が動いている「脳死」状態から臓器を摘出することを認める法律は、これと全く別個のものであり、新たに討議されて、制定されなければならない。

その法律が制定され、それに則り臓器移植が行なわれるのなら、法治国家で生きている者は従わざるを得ない。しかし、その前に、脳死は脳死であって心臓死ではないことを明確に周知させ、その認識の下で、充分の検討が行なわれ、制定されたものでなければならない。

しかし、実際に行なわれたのは、「脳死」はほとんど「死」と同じだから、これを「人の死」とする。次は「死」という名前が同じだから、従来の「死」(心臓死)と同じと考えよう、あるいはもっと狡猾に、同じ「死」ということばから、心臓死を連想させるように仕向けようとした。そして、賛否両論が渦巻く中で、臓器移植法は制定されたのである。


追加フレーズ(2008/11/11)

9. 死は生の終わり(望)

生き方がいろいろあるように、死に対する気持や考え方も、人それぞれで違って当然である。何が良い、どれが正しいという問題ではない。「死」を中心とした私の死生観を、私にとっての死のタイトルでまとめ、このサイトに掲載している。


08<臓器移植>

1. 脳死ドナーから行なう心臓移植は、ドナーを殺すことで成立する(望)

脳死の状態では心臓は動いている。その状態から心臓を取り出すことは、脳死状態の人間を確実に死なすことで、その人を殺すことになる。それでは脳死移植は殺人になるが、「脳死」を「死」と決めて、「死体」からの心臓摘出であれば、殺人にならないとする「臓器移植法」は間違っている。この問題に対しては、「脳死移植にともなう殺人」は例外として罪を問わない、という法律を制定すれば済む話である。

このように、ことばのつじつま合わせで解決しようとする方法は、日本人の伝統的な問題解決法のようで、「警察予備隊は軍隊ではない」「自衛隊は軍隊ではない」にも通じるが、このあたりでことば遊びを止めるべきではないか。断っておくが、私は脳死移植も自衛隊も絶対反対と言うわけではない。それに対して詭弁を労するのが嫌いなのだ。

2. 自分が、我が子が生きるため、人の死願うこころのあさまし(望)

自分の臓器を他人に提供したい人と、他人の臓器を欲しい人がいて、それを認める法律があるのなら、臓器移植が行なわれてもいたしかたない。しかし、私は臓器を求めることはもちろん、提供することもしない。

その理由はたくさんあるが、一言でいえば、他人の臓器をもらおうとする心をあさましく思うからである。それをもう少し具体的に書くと、 1)人は必ず死ぬのが「諸行無常の法則」、現在の人類が誕生して4万年になるというが、途切れることなく、人は生まれ、生き、死ぬことを続けてきている。それが宇宙自然の根源的原理ではなかろうか?

2)それぞれの個体には運命がある。仕方がない運命は受容して、生まれた運命の中で、精一杯生きるべきだと思う。障害児を持った家族が、その子と一緒に過ごせた期間を、この上なく幸せに思って生きた家庭を、いくつも知っている。

3)莫大な費用と時間と人間を費やして、他人の臓器をもらって生きなければならない人生とは、どのようなものか? そのようにまでして、物理的生存時間をわずかばかり延ばすことに、どのような価値があるのか?

4)その費用で、どれだけ多くの命が救えるのか分かっているのだろうか? 現在地球上に60億人の人間がいる。乳児死亡率は日本が1000人に3人に対して、開発途上国では数十倍から百倍以上の国もある。また、日本人の平均寿命は80歳前後であるが、世界には40歳以下の国もたくさんある。一人の臓器移植に必要な費用によって、何百人もの命を助けられる可能性がある。人間の命の価値が、国によって違って良いものだろうか? それは臓器移植を求める側のエゴではないのか?

5)臓器を提供する側は、上記1)〜4)を考えての行動なのか? それをヒューマニズムと呼ぶのか? 6)移植医も上記1)〜4)を考えての上での実行であるのか? それもヒューマニズムなのか?

7)人間の体内に、他の人間の一部を入れることの危険を考慮しているのか? 人肉を食べていた人間に発生したクールー病とか、人の乾燥硬膜を頭の手術に使って発生したクロイツフェルト・ヤコブ病は、どちらも脳が海綿状に変わる恐ろしい脳の病気である。また、人間の血液や血液製剤の使用でB型肝炎、C型肝炎、エイズなどの危険な病気が発生したことは良く知られている。これからも、人間の体内に他の人間の一部を入れることによって、予想できない病気を引き起こす可能性は充分に考えられる。

臓器移植について、今回はじめて自分の気持を書いた。私は「臓器移植法」制定後の心臓移植を精力的に行なってきた大阪大学第一外科の同窓会員であり、1971年に大学を辞めるまでは、心臓外科グループに所属し、臨床と実験に従事してきた。心臓移植に関する実験にも参加したことがある。心臓移植の執刀医となった松田阪大第一外科教授、北村国立循環器病センター総長は後輩にあたり、ある時期、仕事を共にした。

そのような履歴を持つが、私は最初から心臓移植に批判的だったように覚えている。その理由を数え上げてみれば、上記1)〜4)になるのだろう。


09<人類の運命>

1. 人類が滅びるのは、それほど遠い先のことではないかもしれない(望)

先に06<老年> 5. 長命は望ましいか?で、人口の老齢化が人類の滅亡につながるのではないかという考えを述べた。それよりももっと大きな問題は、世界人口の爆発的増加である。西暦1年頃は3億人だったと推定される世界人口が、1500年では5億人と増加はわずかだった。それが1900年では16億人となり、2000年で60億人、2050年で推計で何と90億人であるという。

現在でも、地球の環境破壊、環境汚染、資源の消滅が無視できない段階に達しているというのに、それが加速度的に進行すれば、人類の滅亡につながる可能性は充分考えられる。

また、共産国家と資本主義国家との冷戦が続いていた時代には、核戦争による人類滅亡の可能性も考慮しなければならなかったが、冷戦が終ってみると、アラブと米国、イスラエルとの対立が原因となる核戦争の可能性も、現実化しつつある。人類は発展を遂げたがために、滅亡するかも分からない。それも、それほど遠い先の話ではないかもしれない。


追加フレーズ(2012/11/11)

2. 目をつぶらない(望)

東日本大震災は、人類が経験した最大級の自然災害に加えて、最大規模の原子力発電所事故という人工災害が合併した災害である。この人工災害から、多くの人は、人類の未来に対する危機を実感したと思う。そこで、現代人が危機的未来に対処するために必要なことは何かを考えてみた。

かって土地バブルのころ、日本の土地全部の価値はアメリカ全土の価値より高いと大まじめに言われた時期があった。そんな馬鹿な状態が続く筈はないと思うはずのところを、目をつぶってしまい、破綻にまきこまれた。リーマンショックも住宅バブルが原因だったと聞く。

大量生産・大量消費で成り立っている現在の経済は、効率が最優先され、行き着くところ地球資源の浪費、枯渇、環境の破壊をもたらす。グローバル経済はそれを全世界に広げる。

原子力発電を必要とするのも、大量生産・大量消費に欠かせないからであろう。その結果、世界中に放射能汚染の可能性を広げてしまった。放射能汚染が他の環境破壊と根本的に違うのは、汚染された放射能物質を地球上から取り除くことができないことだ。原子力発電を使うことは、その危険物を作り続け、増やし続けるということである。

今回の大震災で注目されることになった東京一極集中も、経済効率を最優先するところから生まれたと考えて間違いあるまい。

また、先進国では人口の高齢化がますます進み、老人大国となっていく。すべての生物に共通する生きる意味は、与えられらたいのちを全うするだけではなく、子孫につないでいくことであろう。それなのに、その子孫が生きるために必要な資産を浪費して減らすだけでなく、放射能汚染で子孫の生存さえも脅かそうとしている。

その反対に、先進国では若者の数が減るばかりか、子孫を残そうとする若者がどんどん減りつつある。これは、その生物が生きる意味の喪失に向かいつつあることを示している。

私の貧弱な頭でも、目をつぶらなければ、これくらいのことは見えてくる。ただ、私も現代人として、科学技術の非常な恩恵を受け、この環境を手放したくないとも思う。これは人間という種の宿命なのかもしれない。しかし、それでは人類は滅びてしまう可能性が大きい。


追加フレーズ(2012/11/11)

3. 発想を転換する(望)

現代人が危機的未来に対処するために必要なことの2つ目は、これまで良い、正しいとされてきたことを疑うことだと思う。

例えば、経済はいつまでも成長・発展し続けることができるのか? 成長・発展し続けることは良いことなのか? 人間の寿命を延ばし続けることがほんとうに価値のあることなのか? 子孫の生きるエネルギー源である地球の資産を、現代に生きる人間が大量に消費してしまって良いのだろうか? 子孫に残す核燃料廃棄物という危険物を増やし続けて良いのだろうか?

現代人の100年間は、人類の10万年の歴史からみれば、非常に短い期間である。これを理解しやすいように10万年を1年とすると、わずか9時間に過ぎない。そのわずかな期間に生きる人間が、欲しいだけ地球資源をむさぼった上、始末に負えない危険物を作り、増やし続けて良いのだろうか?

これまでの良いとされてきた考えを疑ってみた結果、これまでとまったく違う発想が生まれ、多くの人がそれを支持するパラダイムシフトが起きれば、救いはあるかもしれない。

例えば、原子力発電に変わるものとして、効率の良いバッテリーの開発を行うことが案外役立つ可能性がある。それは無理だと言われるかもしれない。しかし、かって車の排ガス規制が厳しくなった時、GMやトヨタなど大メーカーは実現不可能と抵抗したが、ホンダとマツダはそれをクリアーする装置を開発したので、大メーカーも従わざるを得なかったことをよく覚えている。これしかないとなった時の日本人の創造力は素晴らしい。


追加フレーズ(2012/11/11)

4. 足るを知る(望)

現代人が危機的未来に対処するために必要なことの3つ目は、足るを知る気持ちを身につけることだと思う。足るを知る気持ちを持てないというのが、科学技術を発展させて来た人間という種の宿命であれば、悲しいことだが、遠くない未来に、この種は滅亡するかもしれない

3件の追加フレーズは、東日本大震災の2ヶ月後に、東日本大震災から学ぶのタイトルでこのサイトに掲載した記事の一部である。


<2002.11.11.>
<2008.11.11.>
<2012.11.11.>



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