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歌と思い出 10

 1986〜1996年 50歳〜60歳

2000.12.31. 掲載
2008.05.05. 改訂
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1986 昭和61年 50歳 開業14年目

この年の4月、世界を震撼させた事故が起きた。チェルノブイリ原発爆発である。ソ連の、キエフ市チェルノブイリ原子力発電所が爆発し、ヨーロッパはもちろん、日本でも放射能が検出され、原子力汚染の恐怖が広がった。ちょうどこの時、交野市医師会の高石先生ご夫妻は、ソ連旅行からの帰りの空港で、このニュースを聞かれたそうだ。

この年、私は50歳となった。節目の年に当り、親しい人への年賀状に、「60歳から後は開業を止め、好きなことをしたい」と書いた。また、1月25日に、高校3年のクラスの同窓会があり、その場でも同じことを話すと、賛同してくれる者もいた。しかし、医者仲間の多くは「60歳で開業を止めるのは早過ぎる、65歳まで働け」と言うので、結局65歳にまで、リタイヤを延ばすことに予定を変えたのである。

 パソコン

好きなことをする、したいことをするというのは、もの心ついた頃からの私の生き方、行動原理であることを、この頃から自覚するようになっていた。そのしたいことをするということを強く意識するようになったのは、その実現に役立つパソコンという有力なツールを手にしたためだと思う。パソコンをこき使って、したいことをするぞ、と心は高鳴っていた。

前年の6月から入会した大阪府医師会のマイコン同好会では、BASICという言語でプログラムを作ることが主流で、レセプト作成ソフトや、データベース、簡易ワープロまで作るような先輩がいた。他の一般会員は、そのプログラムをコピーして持ち帰るというのが、当時のマイコン同好会例会の常態だった。

最初の間は、私もそれに倣い、給与計算とか自分に必要なプログラムを作っていた。しかし、私にとってパソコンは道具であり、パソコンそのものや、プログラミングに、興味があるわけではない。自分に必要なソフトがないから自作するだけで、もしも、自分の目的に適う既成の優れたソフトがあれば、そちらを使う方がよほど効率的である、とは思っていた。

そのような既成ソフトの一つとして、表計算ソフトのSuper Calcが販売されていることを知り、このソフトで給与計算のほかにも、自分に必要な多くの事務処理のフォームを作り、パソコンでそれらの処理を行うことに成功した。そこで、2月8日のマイコン同好会の例会に、この成果を持ち込んで、デモンストレーションを行うことにしたのである。

入会して半年余りにしかならない新米が、パソコンを使って、その頃では想像もできないような、多くの事務処理のデモをしたのだから、同好会の会員は唖然とされ、それが愉快で、私は得意満面だった。そのあと、意気揚揚と、まるで凱旋将軍のような気分で、帰宅したのを覚えている。生涯で、これほど嬉しかったことは、後にも先に経験していない。

その時にデモをしたSuper Calcのフォームのプリント・アウトした見本が残っている。それは、1.給与計算明細、2.月別給与台帳、3.個人別源泉徴収兼賃金台帳、4.社保生保請求書、5.月別社保生保請求台帳、6.国保請求書、7.月別国保請求台帳、8.月別自費収入台帳、9.月別未収金台帳、10.月別普通預金出納帳、11.月別現金出納帳、12.月別疾病統計、13.月別頻度別疾病統計、14.月別問屋別薬品購入量、15.健康診断総括表、16.健康診断個人別報告、17.セット検査点数早見表、18.脳卒中鑑別診断、19.患者データ時系列表示、20.患者データ時系列グラフ表示、21.月別アレルギー性鼻炎患者数のグラフ表示、である。

15年ぶりに、この資料を見ながら、パソコンを購入して半年ばかりで、これだけのフォームを作ったことに驚き、また、それだけ熱中していたことを、懐かしく思い出している。

4月16日は私の50歳の誕生日である。前年は誕生日の記念として「最初の遺書」を書き、息子への関わりから卒業した。50歳の記念として何をしようかと考えた時に、それまでに投稿してきた雑文をまとめることを思いついた。この雑文をワープロで印刷して版下とし、それをコピー機で複写して綴じ合わせ、「五十まで」の書名でB5版47ページの自家製本とし、親しい人に贈った。最初に30部作り、その後10部づつ、全部で100部近く作ったと覚えている。

ちょうどこの少し前に、アメリカではDTP(Desk Top Publishing)という、パソコンを使った出版が脚光を浴び始め、我が国でもMac系の雑誌社によるDTP作品のコンクールが行われた。それを知った私は、この「五十まで」で以って応募してみたが、残念ながら、入選できなかった。

応募と言えば、日経メディカルの、第1回病院PR誌コンクールに応募したところ、入選して、5月12日の日経メディカル誌上で発表された。応募したのは、患者説明用として作ったパンフレット”医学豆知識”の抜粋3種で、この頃になって、ようやく患者に対する説明が重要視されるようになってきたが、当院では10年も前からそれを行っていると、アピールしたのだった。

この年の7月に、エプソンからイメージ・スキャナGT3000が発売された。それまで、100万円近くしていたものが、198,000円と格安の値段になったので、発売前から予約をして購入した。同時に、ストゥリーマ付き20MBのハード・ディスクも購入し、この時から私は、CG(コンピュータ・グラフィック)、パソコン画像に全エネルギーを注いだ記憶がある。

当時、パソコン画像に取り組んでいる者はほとんどいない上、ソフトも少なく、自分でアッセンブラ言語を独習し、幾つかの画像表示関連のユーティリティを作った。また、当時はファイルを操作するFDのようなファイラーがなく、ハードディスクの深い階層にあるファイルを簡単に使うための手段として、バッチファイルの活用を思いつき、これで実用上不自由なくファイルを操作することができた。

スキャナ取りこみ画像、表計算ソフト、BATCHプログラミングの三つを組み合わせることで、診療中の患者さんに対して、パソコンを使って病気の説明を始めたのは、この年の夏からである。

9月には、アメリカで圧倒的人気のある表計算ソフトLOTUS1-2-3 2Jが発売された。もちろん、真っ先に購入したが、前年にスーパーカルク3で作ったものをこちらに移植することはせず、新しく始めるタスクからこれを使って行った。



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1.時の流れに身をまかせ

  もしもあなたと あえずにいたら  EEEDEGGAAAGEAG          歌謡曲

この歌を唄ったテレサ・テンは、欧陽菲菲、ジュディー・オングと同じく、台湾出身の歌手で、日本人にない、透明感のある妖しい色気のクリスタル・ヴォイスが魅力だった。

2.メモリ Memory

  Memory, All alone in the moonlight  CCB,CDCA,CC         映画音楽

これは、ミュージカル「キャッツ」の中のナンバーで、サラ・ブライトマンが19歳でオリジナル・キャストとしてデビューしてこの歌を唄い、爆発的にヒットした。

「キャッツ」は、ネコの中のネコを選ぶ一夜の祭典を、ロイド・ウェバーの名曲と激しいダンスで描いたもの。劇団四季が、この年の春、テント張りの大阪梅田キャッツ・シアターで、このミュージカルを公演したのを、妻の両親と私たち夫婦の4人で観劇した。

このミュージカルは、オープニングから、驚きの連続で、真っ暗闇の中で猫の目がキラリと光り、観客の間を走り回る。観客にちょっかいを出し、目と目があうと威嚇してみたり、そして、さっと消えて行く。度肝を抜かれながらも、妻の両親や私は面白がったが、妻は「恐い〜!」と目をつぶって震えていた。これをともに楽しんだ両親も、今は、一人が脳梗塞後の後遺症で不自由な身体となり、その連れ合いも、老年痴呆気味で、頓珍漢な行動をくり返している。

3.オペラ座の怪人 The Phantom Of The Opera

  In sleep he sang me, in dream he came  EAEGFFDGDE      映画音楽

この年、ロンドンで初演されたミュージカル「オペラ座の怪人」の中で、ファントムが、クリスティーヌを、地下の隠れ家へ連れていく時に唄う曲である。

世界でもっともチケットが手に入りにくいミュージカルといわれるこの「オペラ座の怪人」を、今年の夏(00年)、ロンドンのハー・マジェスティー劇場で観ることができた。

時は19世紀、パリ・オペラ座。その地下には、音楽に天才的な才能を持つ一人の男が隠れ住んでいた。彼は若くて美しいクリスティーヌに心を奪われ、自分は亡き父が差し向けた音楽の天使だと名乗り、彼女に歌のレッスンをする。クリスティーヌは彼が、皆から恐れられているオペラ座の怪人だとは知らず、いつしか、父親への愛情にも似た感情を抱くようになって行く。



1987 昭和62年 51歳 開業15年目

この年の1月に、神戸で、我が国最初のエイズ患者が見つかり、エイズが、アフリカやアメリカの問題ではなくなったことに衝撃を受けた。

2月に入って、大阪府医師会医学会の医学研究奨励費助成に対して、パーソナルコンピュータを用いた診療補助システムの開発という研究課題で応募した。これは、スキャナ取りこみ画像と表計算ソフトを中心にして、ファイル操作をバッチファイルで行うという、私が診療に使っているシステムそのもので、大阪府医師会マイコン同好会を代表して私が申請をしたが、幸い承認され、研究助成費を頂いた。この結果、マイコン同好会はマイコンクラブに格上げされ、府医のサークルの一つとして認められた。

3月にアサヒビールからスーパードライが発売されると、真っ先にこれを飲み始め、すっかり気に入って、以来私の呑むアルコールの95%が、この辛口ビールとなったのである。麒麟のラガー・ビールが嫌いで、それまでは、サントリー純生を細々と飲んでいたのが、これを契機に、一転してビール党に変わったのだから、スーパードライはスゴイビールである。

パソコンを診療中の説明に使うだけでなく、この年の6月から1年間にわたり、患者さんや職員への教育に使った。2台のパソコンを並べて、画像を中心にした土曜勉強会を開催したが、その時のために作った画像が200枚を越えた。

11月には、第11回大阪府医師会医学総会において、演題パーソナルコンピュータを用いた診療補助システムの開発として、医学研究奨励費助成金を頂いた研究の発表を行った。これは翌年の大阪府医師会医学雑誌雑誌に掲載された。



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1.人生いろいろ

  しんでしまおうなんて  EccccBcBAAA                  歌謡曲

この歌を、島倉千代子が唄って第30回レコード大賞歌唱賞を受賞した。もともとは、TBSの昼のテレビドラマのテーマソングだった。この3年後に、ハマクラは亡くなり、彼の最後のヒット曲となった。この歌を聴くまでは、私は島倉千代子が好きではなかった。しかし、この曲がきっかけとなり、好意を持って見ているうちに、むしろ、好きな歌手に変わって行ったから不思議である。



1988 昭和63年 52歳 開業16年目

この年の3月、本州と北海道を結ぶ世界最長のトンネル青函トンネルが開業した。それとともに、80年の歴史を持つ青函連絡船は、廃業になったのである。私が最初に北海道を旅行した時、寝台急行日本海に乗って深夜の青森に着き、青函連絡船に乗り移り、明け方函館港に入港した時の情景が目に浮ぶ。

 息子医大入学

この年の4月、息子圭は1年間浪人をして、兵庫医科大学に合格した。私たちは喜び、とくに、妻は結婚してから一番幸せそうに見えた。ところが、圭はもう一年浪人すると言うのだ。私は以前医学部に行くのなら、国公立しか行かせないと言ったことがあり、それが彼の頭にあって、再度挑戦すると頑張るのには参ってしまった。そこで、兵庫医大の学生の、平均くらいの経済的援助はする。頼むから行ってくれと頭を下げた。

今、これを書きながら思いついたのだが、圭は、浪人すると言ってみて、私立の医科大に行くことに対する私の気持を探ろうとしたのではなかろうか? 何しろ、家出をするふりをして、ガレージの屋上から親の反応を見ていたような男だから...

私はと言えば、圭が浪人中の1年間、パソコンに熱中してはいたが、妻の精神状態が非常に不安定なので面白くなく、このような生活を早く切り上げたいと願っていた。そこで、あっさりと前言を取り消し、この兵庫医科大学の良い点をいろいろ説明したのだった。

本当のところ、彼はこの大学を気に入ったようで、自分の好きな神戸に近く、建物もハイカラ、駐車場には最新の車が停まっていると驚いていた。入学すると、早速ロックバンドのギターを始め、青春を謳歌し出したのを見て、もう一年浪人をすると言ったのはどの男かと、妻と顔を見合わせ苦笑した。

息子が入学して以来、私たち夫婦の生活スタイルは変わった。週に1〜2回外出し、ビールを飲んで食べて帰るようになった上、家でも、毎晩ビールを飲みながら夕食を楽しむようになった。アルコールと無縁の家庭に育った妻だったが、ビヤホールや居酒屋で、酒の肴になるものの美味さを知ったためか、酒に対しても寛大になり、私がアルコールを飲むのを、冷たい目で見ることがなくなった。

私は、体質的にアルコールに弱くはないが、好きということもない。美味い料理、楽しい雰囲気があれば、その肴としてアルコールは欲しいが、非難の視線を感じながら飲みたいとは、決して思わない人間である。やけ酒、悲しい酒など一生縁がないだろう。息子の入学を契機に、妻が酒を飲む状況に対して、好感を持つように変わったのがありがたかった。

 パソコン

この年の6月30日は、私がマイコンクラブに入会してパソコンを始め、ちょうど3年目に当った。私はこの日を目標に、それまでに習得した画像に関する知識と技術を総括し、医用CGシステムを構築しようと思い、それに没頭した。そして期日通りにこれをまとめ、画像システム・ディスク、個別画像ディスクを完成した。パソコンを始めて最初の1年間では、会計処理関係をすべてパソコンで行えるようにし、次の2年間は、画像(コンピュータ・グラフィック)に専念してきたが、そのまとめだった。

7月10日号の日経メディカルに、患者への説明を味付け指導書、パンフの活用法というタイトルで、当院の記事が掲載された。これは、86年に日経メディカルの第1回病院PR誌コンクールに入選したことがきっかけで、日経メディカルの記者から取材を受けた結果だが、その際に、パソコンを診察の説明に活用している実際をお見せしたところ、当時そのようなことをしている医療機関はほとんどなかったため、いたく感心され、パソコンで画像表示をしている写真入りの記事にしてくれた。

9月には、交野市の市民講座で「老化とは」というタイトルの講義をした。その頃、私はウルマンの青春の詩に共感を覚えていたので、この講義の最後に、この詩をスライドで示しながら読み上げた。それを聞いて感動した交野市の職員に請われて、その詩をコピーして手渡したことを覚えている。

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う  年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時初めて老いるという言葉を良いと思ったが、最近、この言葉にそれほど心が動かなくなった。老いる老いないは問題ではない、したいことをしておきたいというのが、今の私の心境である。

この講義を行った今から12年前には、未だ最終ゴールは頭の中にあった。しかし、今はそれが見えてきている。もう持ち時間は余りない。悠長に老いる、老いないなどと言っている時間は残っていないのだ。

この詩に対する感動が遠のいたもう一つ理由は、この詩から、老いることは価値がなく、良くないことであるという前提が、自明の理のように漂って来るからである。しかし、それはおかしい、最終ゴールまで、人生は価値があるのだと私は思う。

9月に入ると、SONYのIT−V1200という機器を使って、NOM−BBSというパソコン通信局を開いた。ここに、府医マイコンクラブのメンバーの多くがアクセスし、パソコン通信や電子メールの交換の場となった。ちょうどこの頃、高橋徳先生がマイコンクラブに入会され、これまで子供の遊び程度に思っていたパソコン通信の世界が、大人の実用に耐える、有力な情報交換のメディアであることを教えてくれた。

11月からは、高橋徳先生に誘われて、国内大手のパソコン通信局であるNIFTYに加入した。ここで、全国の多くの医師やコンピュータ・グラフィックに取り組んでいる方々と交流することができて、世界が大きく広がり、たくさんのことを学び、また、教えることを楽しんだ。NIFTYのデータ・ライブラリに私が登録したデータは、70点近くなる。しかし、93年に、野村医院20年史を編纂する作業に没頭し始めた頃より、自然とパソコン通信から離れていった。

12月には、メディカル・エグゼクティブというビデオの中で、「新しい患者サービスの工夫ー患者教育ー」というタイトルのもと、パソコンを診療中の患者さんの説明に使っている当院が紹介された。これは、7月に日経メディカルに掲載された当院のCG画像を、TVC山本という会社が見たのがきっかけである。ここの数名のスタッフが、車2台にたくさんの機材を積み込んで来院し、4時間以上かけてビデオ取材をして行ったが、テープに編集されたのは約10分だった。



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1.酒よ

  なみだには いくつもの おもいでがある CCCB,A,CCCB,A,CCCDEA,B,   歌謡曲

シンガー・ソング・ライター吉 幾三が作詞作曲したこの歌は、唄いやすく味がある。演歌はあまり好きではないが、この歌は別だ。彼は9人兄弟の末子に生まれ、青森県の津軽の出身で、中学を出た年に、歌手になりたくて東京へ出てきたそうだ。

「一人酒」というのは私には経験がなく、妻が私より先に死ぬことがなければ、これからもすることはないだろうと思うが、この歌には、しんみりとした良い感じがある。

2.イフ・ウイ・ホールド・オン・トゥゲザー If We Hold On Together

  Don't lose your way. With each passing day, you've come so far.
                            DDECG,DDEC ポップス

ダイアナ・ロスが、「生きていくのは大変だけれど、あきらめず手をとりあって行こう」と唄ってヒットした、人生賛歌でラブ・ソングである。



1989 平成元年 53歳 開業17年目

この年の1月7日、昭和天皇が十二指腸癌で亡くなられた。87歳だった。皇太子が新天皇に即位し、元号は「平成」に改元された。

野村医院は、この年から一人医療法人に組織変更をして、医療法人野村医院となり、私が理事長、妻、息子、義母が理事、義父が監事に就任した。

この年の7月に、私が独習してきた医用CGのまとめを、NIFTYのデータライブラリに医用画像独習記のタイトルで登録した。

それがきっかけとなり、10月28日に、大阪科学技術センターで開催された医療におけるパソコン通信シンポジウムの講師として、実用画像通信という演題で講演を行った。これは参加費として、3000円を徴収するシンポジウムであったが、満席だった。私は、パソコンで作ったカラースライドを使って、PC9801というパソコンで扱える16色画像までの基礎的な知識と、実用上役立つ知識を説明した。そのデータとなる本文のほか、23枚のスライドを、NIFTYのデータ・ライブラリに登録した。

Macというパソコンは映像や音楽に強いと定評があるが、私に続いて講演されたMacユーザーのパソコンは、未だ白黒だったことが印象に残っている。



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1.川の流れのように

  しらずしらず あるいてきた  CDEDEGCDEDECCDEGcBGEED      歌謡曲

この歌は、この年の6月に52歳で亡くなった、美空ひばりのラスト・ソングとなった。第31回レコード大賞作曲賞受賞曲で、白鳥の歌にふさわしく、昭和のスタンダードとして、後世に歌い継がれていく歌だと思う。人生のフィナーレを自覚したかのようなところがあり、「でこぼこ道や曲がりくねった道、地図さえない、それもまた人生」のところなどは、マイ・ウエイの歌詞に似ている。

白鳥の歌というのはシューベルトの最後の歌曲集の名前だが、ヨーロッパではいまわの際の言葉という意味で使われるそうだ。白鳥は、アヒルとは違って滅多に啼き声を立てない。ただ生命の火が燃え尽きる直前にだけ、哀切な、美しい啼き声を長々と奏でると言われている。そこから転じて、人の最後の言葉、歌、あるいは作品を意味するようになった。

98年5月に、医師会の会員親睦旅行で長崎に行ったが、そのホテルで、後藤眞清先生の奥様が、この歌を情感たっぷりに唄われるのを聞いて感動したことを思い出す。

2.りんご追分

  りんごの はなびらが かぜにちーったよな  G,G,A,CDGEDE        歌謡曲

美空ひばりの歌の中で、一番好きな歌は何かと尋ねられれば、ためらわずにこのりんご追分と答える。15歳のひばりが、歌舞伎座でワンマン・ショーをした時の記念新曲で、米山正夫はこの曲を15分で作曲したという。

3.夢の中へ

  さがしものはなんですか  EEEEEDEDCCC               Jポップス

井上陽水のこの歌を、斎藤由貴がリバイバル・ヒットさせた。井上陽水が唄っているのを聞いたことがあるが、斎藤由貴の方が私は好きだ。

4.マック・ザ・ナイフ(モリタート)    Mac The Knife (Moritat)

  Oh, the shark has pretty teeth, dear  EGAAz EGAA        ポップス

この曲については、56年のところで既に書いたのだが、もう一度登場させたのは、この年の2月にフランク・シナトラがこの歌を唄うのを聞いたからである。2月23日に、大阪城ホールで、フランク・シナトラ、ライザ・ミネリ、サミー・デイビス・ジュニアという米音楽界の大物三人によるスーパーコンサートが開かれ、妻と観た。

その公演で、シナトラは初めてこの曲を唄った。その前口上はこんなだった。「ボビー・ダーリン、ルイ・アームストロング、エラ・フィッツジェラルド、ビング・クロスビー、ペギー・リーも唄っているが、、こんな良いバンドが一緒なら、私もこの歌を唄おう

マイ・ウエイももちろん唄ったが、シナトラには正直言ってがっかりした。イブ・モンタンとは比べ様もないくらい魅力がなく、迫力もなかった。その中では、サミー・デイビス・ジュニアが一番エンタテイナーと言える歌と演技をしていたと思う。そのサミー・デイビス・ジュニアも、翌年5月に、64歳で亡くなった。

5.グラナダ Granada

  Granada, tierra so nada pormi  EAGECDEGFE      ラテン・ハワイアン

スペイン人が作った曲と思っていたが、メキシコの作曲家アグスチン・ララが、未だ見ぬグラナダに思いを馳せ、「グラナダ、私には夢の地よ...」とグラナダを讃美して作った曲であることを知った。スケールの大きい堂々とした歌で、フランス革命200年祭を祝って、プラシド・ドミンゴはこの歌を唄った。

6.ラ・マルセイエーズ La Marseillaise

  Al-lons, en-fants de la pa-tri--e,  G,G,G,CCDDGEC        洋楽 雑

この年の7月14日は、フランス革命200年祭だった。私は、この時ミレイユ・マチューを初めて知り、以来彼女の虜になっている。この日、フランス革命200年祭を記念して、NHK2チャンネルで巴里祭の実況生中継があった。世界各地から、お祝いの歌が歌われ、日本からは松田聖子、スペインからはドミンゴがグラナダを歌った。

お膝元のフランスを代表して歌ったのが、ミレイユ・マチューだった。透きとおる美しい声が、ラ・マルセイエーズを格調高く堂々と唄うのに、聞き惚れ、見惚れ、釘付けになってしまった。何と素晴らしい歌手がこの世にいるのか! これと比べると、いつもなら素晴らしいと思うドミンゴも、すっかり色あせて聞こえた。

そして、こんなに誇りを持って高らかに歌える国歌を持ったフランスの人たちを羨ましく思った。美しいミレイユは、神々しいばかりの感じ、それは、まるでジャンヌ・ダルクのようだった。

それから暫く経った9月のある日、大学時代のコーラスの友人の竹村君夫妻が来宅の折に、フランスへ旅行すると聞いて、パリのレコード店で、ミレイユ・マチューのCDとカセット・テープを買ってきてもらった。それからは、レコード店に行く度に、彼女のCDを探し、今では、何とか6枚ばかり所有している。



1990 平成2年 54歳 開業18年目

この年の4月から9月末まで、大阪の鶴見緑地で国際花と緑の博覧会が開催された。この時、レーベン・ブロイの館で、ミュンヘンから来ている楽団が、ビールを大ジョッキ一でグイグイと飲んでは、上機嫌で演奏するのがたまらなく良かった。こう言う酒の飲み方は良いものだと感心してしまい、ドイツのビヤホールに憧れるようになった。スーパー・ドライで強まった私のビール嗜好は、これで以って、駄目押しとなったのである。

画像を独学で学んだ頃は、8色だったが、NIFTYに加入した頃から、16色画像が主流になって来た。そして、この年に入ると、画像に取り組んでいる者の関心が、256色とかフルカラーに発展して行った。

NIFTYの画像関係のフォーラムから、神戸にあるTWIN−NETというCG専門のパソコン通信局を知って加入し、このネットが主催する第1回CG作品展に4点出品をした。9月22日から30日の間、神戸異人館ラインの館を借り切り展示した。折から、CGがブームになりかけていたせいか、訪問者が多くて、会員一同大満足だった。

CGを通じて、医師だけではなく、学生、サラリーマン、画家、プロの映像作家、映像技術者など多くの職種、広範囲な年齢の方と交流ができたのは、予想もしないことだった。この人たちとの、オフライン・ミーティングにも何度か参加したが、BBSで意見を交わしているメンバーなので、初めて逢った時から旧知の間柄のように話が弾み、訪問の約束まで簡単にできてしまうのには驚いてしまった。普段はオンラインで(電話線を通して)情報交換をしているが、直接会って(オフラインで)飲みながら話をする懇親会が、パソコン通信にとって、それに劣らず重要であることを示している。



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1.恋唄綴り

  なみだまじりのこいうたは  EEEEDCEEEDCEB,              歌謡曲

この年の忘年会は、いつもと違ってディナー・ショーを見ながら食事をしようということになり、職員の一人が希望した堀内孝雄を聞くため、神戸のニューポートホテルに出かけた。この歌は、この年の堀内孝雄のヒット曲で、ディナー・ショーでも聞いたが、私にはもう一つだった。唄い方、ちょび髭、最後に必ず大声で怒鳴る「ありがとうございました〜」など、どうも胡散臭い感じがして好きになれない。


1991 平成3年 55歳 開業19年目

この年の1月、イラクのフセイン大統領がクウェートからの撤退拒否を表明したのに端を発し、多国籍軍が攻撃開始し、イラクも徹底抗戦を表明して湾岸戦争に突入した。

また、8月には、ソ連でクーデターが起きたが失敗し、共産党書記長職は解任され、党中央委員会も解散、ロシア革命以来の共産党支配に終止符が打たれた。

 パソコン

パソコン関連では、この年の春にマイクロソフトから、MS−Windows3.0が発売され、早速インストールしたが、結局はタスク・スイッチャーとして使うことに終った。これまでのMS−DOSではシングル・タスクのため、違うソフトを使う場合には、今使っているソフトを一旦終了した上で、違うソフトを立ち上げなければならなかったのが、タスク・スイチャーとして使うことで、二つ以上のソフトを切り替えて使えるのは、診療中に使う場合などに重宝だった。

この頃になると、Macが画像関連で飛躍的に発展し、Macユーザーの鼻息が荒くなって、自慢が目立ってきた。しかし、当時の画像を扱えるMacは非常に高価で、プロは別として、それを買えるのはほとんど医療関係者に限られていた。それに対して、Macでカラーが使えない頃から画像をこつこつとやってきた者は、腹の虫が収まらない。いくら良い道具を持っていても、それを使いこなせなければ、役に立たないではないか。非力というPC9801でも、これだけの画像処理ができるのだと、デモンストレーションをしたくなった。

そこで、NIFTYの医療関係の画像を扱っているFSKY2というフォーラムで、BOWの98画像初心者用講座として数回にわたって書き込みを行い、書き込み終了後、そこのデータ・ライブラリに登録をした。この講座は、98ユーザーからかなり反響があり、他のパソコン通信局から転載の希望が幾つかあった。その時の私は、かなりアグレッシブだったようで、後で友人にからかわれたのを思い出す。今思うと大人げなかったが、お陰で98画像をまとめることができた。

この年の暮れに悲しいことが続いた。第一外科に同期で入局した富川盛博君が11月に亡くなり、12月には、高校から一緒で、大学では同じ解剖グループだった友人の野田寛治君がアメリカで亡くなった。インディア大学神経生理学主任教授だった。



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1.愛は勝つ

  しんぱいないからね きみのおもいが  cBBAAGEGABcdBAGG    Jポップス

KANが作詞作曲して唄ったこの歌は、なぜか大ヒットした。驚くようなタイトルと中身から、そんな楽天的人がいるのだろうかと思ってしまうが、あるいは、これは夢を語ったのかもしれない。結局、一発屋で終ってしまったが、当然だろう。

2.故郷

  うさぎおいし かのやま  CCCDEDEEFG               邦楽 雑

この歌は1914年作の文部省唱歌である。文語体で書かれているが、分りやすく、日本人の心に訴えるものがある。この年の8月に、妻の実家田伏家のファミリー旅行で金沢に行った。その旅館で、義母がこの歌をとくとくと唄ってくれたが、それがどうしようもない音痴で、爆笑また爆笑だった。あとで旅行のビデオを見ても吹き出してしまうほどなので、この親の子守歌を聞いて育った妻などが、音痴になるのは当然だと同情している。



1992 平成4年 56歳 開業20年目

 旧友との再会

この年の私の最大の幸せは、旧友と再会できたことだった。服部道彦君と33年ぶりに大阪難波の南海サウスタワーホテルの「花暦」で食事をしながら、積もる話を交わした。このお膳立てをしてくれたのが、竹村雅之君で、私たちは大学教養時代のコーラス仲間である。竹村君は工学部、服部君は法学部で、共に55年に入学をし、その頃は合唱に明け暮れた学生生活だった。

竹村君とは10年ばかり前から、毎年1回はどちらかの家を訪れて歌を唄ってきたが、服部君とは専門に進んでより音信が途絶えていたので、彼との再会は無性に嬉しかった。話を聞くと、商社マンとして、ソ連、アメリカ、ソ連と海外に駐在してきて、今もソ連から一時帰国したところだと言う。服部節は健在で、ちょっと東京なまりが入った他は、学生時代と全く変わらない。海外生活を面白おかしく話すのを聞きながら、その話を書くことを強く勧めた。

もう一つ驚いたことは、奥方が精神科の医師で、しかも義兄田伏と同じ阪大の精神科に属し、大阪教育大の助教授をされていると言うのだ。不思議な縁である。その後、彼から1冊の本が送られてきた。新潮選書 服部祥子著 「親と子―アメリカ・ソ連・日本―」昭和60年7月20日発行だった。これを読み、彼の生きてきた道程の少しを知ることができた。

この本の終わりの部分で、夫について、”平素はあまり姿を見せず、細かいことに口出しをしないが、必要な時には決まってあらわれ、ゴビの砂漠の族長の如き強さで、家族を守ってくれる。子どもたちが幼い時、無心に眠る彼女たちを眺めながら、てれ屋の彼が小さくつぶやいたことがある。「お前たちに何が起ころうと守る。もし要る時があれば命でもやろう」と。”と書かれていたのが心に残った。

パソコンに関しては、もう私の生活、診療に欠かせない道具として一応完成された状態だった。そこで、求められて、枚方市医師会報第40号に、私のパソコン活用法というタイトルで投稿をした。

春に服部君と再会した際に、秋には拙宅で昔の歌を唄おうと約束をしたが、トップテナーの竹村、バリトンの私、バスの服部では、カルテットととしてはセカンドテナーが欠けている。同期の者で連絡のとれるセカンドテナーはいない。その時、1年下の経済学部出の岩崎君が交野に住んでいることを思い出し、彼にも参加してもらった。

33年ぶりに集まった10月17日のスケジュールが残っている。
1.ビデオ・アルバム「遠き青春の日々」鑑賞
  ...これは、昔のアルバムをビデオに撮り、それに男声合唱をBGMで流したもの
2.カルテット 11曲、練習と仕上げ
  これは、昔よく唄った男声合唱曲の中で、比較的易しいものを選んだ。
3.食事
  この時に昔の話がいろいろ出て、知らなかったことを聞かされ驚いたりもした。
4.ビデオ紀行「君よ知るや南の国 イタリア」鑑賞
5.カラオケ
  個人で1〜2曲、最後に全員で「」「You Are My Sunshine」を唄う
6.カルテット 「 Muss i denn 」で散会

3時過ぎから始めて、散会は零時近くだったと思う。楽しい宴であった。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.晴れたらいいね

  やまへゆこう つぎのにちよう  EDCDEEDCDE            Jポップス

作詞作曲した吉田美和が唄ってヒットした。NHKの連続テレビドラマひらりのテーマソングに使われたので、この歌を知らない人は少ないだろう。ドリームズ・カム・トゥルーという言葉はアメリカのポピュラー・ソングやジャズ・ソングに頻繁に出てくるのを、いかにもアメリカらしい発想だと思ってきた。

それをグループ名にしたのが愉快なら、歌も楽しく、自由自在に、ジャズやソウルに近いスタイルで唄うのが素晴らしい。久し振りに良い歌を知った気がする。

2.アリヴェデルチ ローマ Arrivederci,Roma

  Arrivederci, Roma good bye aurevoir  G,EGFEDEDC      カンツォーネ

イタリアのカンツォーネ歌、手レナート・ラシェルが作り唄った歌だが、ディーン・マーティンの唄っている方が私は好きだ。「アリヴェデルチ」とは、またあいましょうの意味である。この歌を、ローマのダ・ヴィンチ空港へ向かうバスの中で聞きながら、センチメンタルになっていた。いい歌だ。

この年、私たち夫婦は結婚25周年を迎えた。その記念に海外へ行こうと言うことになったとき、ためらうことなく選んだのがイタリアである。君よ知るや南の国は、私の一番憧れの国であった。8月8日から8日間のイタリア旅行は、予想していた以上に素晴らしかった。カルチャー・ショックを受けたと言っても言い過ぎではないと思う。

帰国するや、1週間ばかりで、ビデオを編集し、アフレコでBGMを入れ、私のナレーションも加え、タイトルは君よ知るや南の国 イタリアとした。その冒頭は、ベニスのゴンドラを背景に、メンデルスゾーンのイタリアを、フィナーレはローマ国際空港を背景に、このアリヴェデルチ・ローマを流した。このテープを、親類はもとより、たくさんの方に差し上げ、その頃お越し頂いた来客には必ずお見せしていた。今思えば、本当にご迷惑を強要していたわけで、申し訳なく思っている。



1993 平成5年 57歳 開業21年目

この年、マイクロソフトからWindows3.1の日本語版が発売されたが、私は3.0をタスク・スイッチャーとして使うことで満足していたので、これの採用は見送った。

 野村医院開院20周年

この年最大のイベントは、野村医院開院20周年記念事業だった。10年前に「野村医院10年史」を作りたいと思ったが、できなかった。その時まとめたいと思った項目のメモが手許に残っている。

1)患者数、2)新患名簿による新患患者数と累積患者数、3)設備などの変遷、4)紹介患者数、病院名、疾患名、5)死亡診断書による統計、6)検査データ1.胃、2.その他、7)診療圏調査(79年、81年の風疹調査のデータを活用して)、8)診療時間の変遷、9)疾病統計(82年度分)、10)開院当初の写真、と現在の写真

不発に終わったこの願いを、野村医院20年史で果たしたいと強く思った。

8月31日で満20年となる。そこで、8月に入った頃から全力を注いで、野村医院20年史制作に没頭した。それまでの人生でこれほど集中して、全エネルギーを注ぎ込んだ経験はなかった。その甲斐あって、11月28日に開いた20周年記念パーティーに間に合わせることができた。その間の状況を、20年史のあとがきにまとめているので、ここに転載しておく。


野村医院20年史のあとがき

この20年史を作ろうと思った一番の目的は、20年間の開業医としてのまとめを残しておきたいという自己満足のためでした。37歳から57歳までの期間は、私のような普通の人間にとって、一番活動的な時期であるはずです。それをまとめてから、次のステップに進みたいと思いました。

構想は前からありましたが、実際に制作にとりかかったのはこの夏からです。職員などに回想文を書いてもらい、それが終わると同時に、突貫作業がはじまり、今日までこれに没頭してきました。データを整理してまとめる、それをはじめから少しづつパソコンで印刷し、校正してまた印刷をするという作業の連続でした。

印刷は、開業以来当院のすべての印刷をお願いしている峰印刷所にして頂こうと決めていました。しかし、実際にお願いしたのは9月24日です。峰さんは、突然の話に面食らわれたことと思いますが、快く引き受けて下さいました。ただし、この時にはまだ1枚の版下もできていなかったのです。

1ケ月余りで何とか版下制作を完了できたのは、全くパソコンのおかげです。パソコンそのものより、高性能のレーザー・プリンターと優れたソフトの方がより有用でした。CANON LASER SHOT B406G2、MS-WINDOWS 3.0、FD ver.2.32 or FILMTN ver.2.33、MIFES ver.5.0、1-2-3 R2.3J、WordPerfect 5.1J、VJE-Pen ver.3.1、この何れが欠けても駄目でした。私の最初のDTP(desk top publishing )は、これらに助けられて生まれました。

「書きたいことは全て書いた。しんどかったが楽しかった」というのが今の正直な気持です。回想文を寄せてくれた職員、旧職員、息子圭、そしてよき協力者であり、同時に厳しい批評家である妻経子に、心から感謝の気持を捧げます。 1993年10月31日 野村 望


野村医院開院20周年感謝の集い

11月28日に守口プリンスホテルで20周年記念パーティーを催し、20年間で直接お世話になった方々を招待して、感謝の気持を申し上げた。医師会、市役所、大学、親戚などは、あまり関係がないので招待しなかった。その時のスケジュールが残っているので記載しておく。


司会     三枝(ドーエイ)
挨拶     野村 望
永年勤続者表彰
        長谷(20年)
        斎藤(10年)
        荒木(10年)
ビデオ    野村医院20年の映像 25分
挨拶     田伏 薫(義兄)
乾杯     野尻(藤沢薬品)
出席者紹介  三枝(ドーエイ)
スピーチ  1.井上(協和醗酵)
      2.鉾立(協進)
      3.古熊(住友銀行)
      4.中井(中井工務店)
      5.西出(藤沢メディカル)
      6.長谷(野村医院)
おひらき   野村 圭


「私の挨拶の原稿」も残っているので、それも記載しておく。

本日は年末のお忙しい中、折角の日曜日にも関わりませず、当院の開院20周年記念パーティーにお越し下さいまして、ほんとうにありがとうございました。

本年8月末で、医療法人野村医院はちょうど20年を終わりました。20年前、医院の建物の東側を除く三方は田圃でしたが、その状況は今も変わっていません。

しかし、その他のことは大きく変わりました。20年の間には、いろいろのことがありましたが、大過無く終えることができましたのは、皆様のご助力の賜物と感謝致しております。本日は垂幕にもありますように、皆様に対する私どもの感謝の気持ちを表したく、ささやかなパーティーを持たせていただきました。

その前に、まことに恐縮ですが、当院の永続勤務者の表彰式を行いたく存じます。当院で行う最初の表彰式なので、たくさんの皆様の面前で行いたいという、私どもの願いをどうかお許し下さい。

セレモニーはこれだけです。そのあと、話題提供を兼ねて20年間の映像をまとめたビデオをご覧いただき、パーティーに移りたいと思っています。皆様が、この午後のひとときを楽しく過ごしていただけるよう、心から願っております。ありがとうございました。


 交野市医師会設立準備

この20周年記念事業が終ったと思ったら、次のノルマが待っていた。次の年度から、枚方市医師会から独立して交野市医師会を設立することに決まったのだ。私は医師会の仕事は性に合わず、これまで一度も役員をしたことがなかった。

しかし、この地で開業して20年間を大過無く過ごさせてもらいながら、医師会の役はご免というのでは身勝手過ぎる。独立するなら、医師会の端役くらいは引き受けなければなるまいとは思っていた。それが、総務という大役を引き受けさせられ、それに伴い、これまた生涯で経験したことのないような苦労を味わうことになったのだが、その詳細は、医師会設立奮闘記―こんな筈ではなかった 新米総務は右往左往―に書いた。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.蘇州夜曲

  きみがみむねに だかれてーきくは  GAedcdAGEGAcBGA         歌謡曲

この年の1月に、服部良一は亡くなった。85歳だった。この歌は映画「支那の夜」の副主題歌だった。生前、服部良一が、「自分の葬式には『蘇州夜曲』をかけて欲しい」と希望していたので、告別式の出棺の際にはこの曲が流れた。

2.あなたの隣を歩きたい

  ひとみ こらせば きんいろの ことりのまいが  EFGCCDGz GAcGA   Jポップス

三木たかし作曲のこの歌を、都はるみが唄うのを始めて聞いたとき、愛の讃歌に似たところがある格調高い良い歌だと思った。この年の8月に、息子圭の従姉の田伏明子の結婚披露宴で何か唄うように言われた時、迷わずこれを選んだ。タキシードを着て、新郎新婦の前で大声を張り上げ、自己陶酔気味だったが、後でビデオを見ると、かなりリズムが外れている。どどっと冷や汗が流れ、以来そのビデオを見ていない。



1994 平成6年 58歳 開業22年目

 医師会設立

この年の初めから、医師会独立のための業務を片付ける作業が続き、3月26日には設立総会、4月1日から交野市医師会発足、7月10日に交野市医師会設立記念式典、9月1日より、社団法人交野市医師会が認可発足した。その間の事情も医師会設立奮闘記―こんな筈ではなかった 新米総務は右往左往―にたっぷり書いておいた。

2月に日経メディカル記者の取材を受けたが、その記事が6月10日号のカルテ整理学の特集記事の中で、私のカルテ整理法として掲載された。これは、野村医院20年史を読まれて選ばれたのだと思っている。

この年の暮れに我が家で開いた恒例の日曜に歌う会に、竹村君は、自分の歌の伴奏をお願いしている宮本麻里さんを同伴して来られた。彼女は神戸女学院のピアノ科を出られたお嬢さんで、ピアノが大変お上手なのは当然だとしても、うまく伴奏してくれるので、私など下手くそな歌い手には有難い人だった。その彼女が弾いて聞かせてくれたのが、追憶である。

10月2日に、尼崎で開かれた日本プライマリ・ケア学会近畿地方会で、内科開業20年間における紹介患者の疾病統計という演題で発表し、また、11月13日には、府医会館で行われた大阪府医師会医学会総会で、内科開業20年間における紹介患者の分析という演題で発表をした。この時の座長からの推薦があったので発表演題を原著として、大阪府医師会医学雑誌大阪医学に投稿するように、との依頼文があり、翌年同じ演題で投稿した。何しろ、20年以上も原著など書いたことがなく、参考文献と英文抄録には泣かされた。

11月に入ると、またも悲しい知らせがあった。阪大精神科助教授の播口之朗君が肺癌で亡くなったのである。彼とは、学生時代にα会というサークルで一緒に活動をした仲間であり、同じ解剖のグループだった。これで、解剖グループ6名の内、野中、野田、播口と半分がこの世を去ってしまった。なぜ、彼らはそんなに死に急ぐのだ!次は私かもしれないと思うと、これまで以上に精一杯生きていこうと思った。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.夜桜お七

  あかいはなおが ぷつりときれた  EEECCCCz CCCB,A,A,A,        歌謡曲

坂本冬美は、86年ににNHKテレビの勝ち抜き歌謡天国で優勝し、猪俣公章の内弟子になり、あばれ太鼓でデビューした。演歌歌手の中では、私の好きな一人だが、この夜桜お七は、かなり技巧的に難しく、律動感があり、どこかエキゾチックで好きだ。これも、三木たかしの作曲である。夕月で作曲家としてデビューした時には、黛ジュンの兄として見られていたのが、今では立派な流行作曲家である。

2.追憶 The Way We Were

  Mem'ries light the corners of my mind  AGGAcBAGE        映画音楽

思い出が私のこころの片隅を照らす...」と、バーブラ・ストライサンドは、主演した73年の映画追憶の中で唄った。忘れてしまおうとしても思い出してしまう胸の痛み、苦しみをバーブラは見事に歌い上げて大ヒットした。彼女の歌も良かったが、曲が美しかった。



1995 平成7年 59歳 開業23年目

この年は、天も人も残酷極まりないことができることを見せつけた年であった。1月17日未明に発生した阪神淡路大震災には、自然の底知れぬ恐ろしさ、強さを思い知らされた。大阪の川柳各結社の代表41人が詠んだ句の一つとして新聞に載った五千余の蓮華へ神はどう詫びるという句に強い共感を抱いてしまった。実際の死者は6308人という大惨事であった。神はあるのか?、神は何のためにこのようなことをされたのか?

それに追い討ちをかけるように、今度は人間の恐ろしさに震え、怒りが込み上げる事件が起きた。3月20日の地下鉄サリン事件である。人がこれほどまで残酷になれるとは、もう情けない。

 圭の医師国家試験合格

悪いことが続いたが良いこともあった。その第一は、圭の医師国家試験合格である。ところが、入局する段になって、第一内科に入ったと思ったら、第二内科に変わり、また第一内科に戻ると言う。「何で出たり入ったりカッコの悪いことをするのか」と尋ねた答えに参ってしまった。「ここを継がしてくれないので、将来病院に勤める時に、雇ってもらえる技術を身に付けるには、どこへ入局したら良いか迷うからだ」と聞いた時、生まれてはじめて、息子を可哀想だと思った。

確かに、以前から私は息子に野村医院を継がせないと言ってきたし、妻も同じ意見だった。私の場合、ぼんぼんで苦労知らずに育ってきた圭に継がせると、頑張りが利かず失敗するだろうという理由からだったし、妻はこのような神経の使う仕事を継がせるのは可哀想だと思うからだった。

しかし、圭の話を聞いて不覚にも涙がこぼれ、「これから10年間は野村医院を続ける。その間にお前に継がせても良いと私が判断し、お前もここを継ぎたいと思うなら、継がせても良い」と話したら、圭の顔がさっと明るくなり、ものすごく嬉しそうな表情に変わった。私たち夫婦が勧めたのではなく、自分の意思で医者になる道を選んだ息子が、健気に生きてきたことを知って、愛しく、圭をぐっと身近に感じた。

このことがあったためか、医師になってからの息子は、今までとは違って医師への道を懸命に歩き始めた。これまでは、最小の努力で最大の結果を得ようとするかのように、努力をしなかったので、「経済原則で生きる男」と私たち夫婦は陰口を叩いていたのだが、医師になってからは、愚鈍なほど努力を重ねているのが分り、嬉しい誤算である。

 スペイン旅行

8月16日からスペインへ旅行した。前年の9月から、関西国際空港は開港していたので、今度は関空からの出発で、イタリア旅行の時と比べて便利になった。スペインは、イタリアに勝る素晴らしい国で、永住するならここが良いと思うほどだった。この時も、帰国するなりビデオを編集し、アフレコでBGMとナレーションを入れ、前と同じように親しい人に差し上げて見ていただいた。

この年は、もう一つ嬉しいことが始まった年だった。同じ医師会の松吉陸雄先生と、親しく飲み、唄い、ミュージカルやコンサートを鑑賞するようになったのだ。気が合い、同じように英語の歌が好きで、二人が出かけると何時も午前を過ぎての帰宅になるのだった。

パソコン関係では、この年の11月末に Windows 95 日本語版が発売され、パソコン・ブーム、インターネット・ブームに火が点いた。



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1.影を慕いて

  まぼろしの かーげをしたいて  A,A,CB,Ez AFFEA,A,A,B,C        歌謡曲

古賀政男が25歳の時、セゴビアの演奏を聞いて、その興奮の内に作曲した歌と言われ、古賀メロディーの原点とされている。この歌をここに持ってきたのは、義父がこの歌をよく唄っていたからで、間奏の部分を口三味線で入れるのが面白くて、田伏ファミリー旅行のカラオケでは、定番になっていた。義母と違って、義父が音痴ではなかったのは、田伏の血を引く者には救いかもしれない。この年は高山へ行った。

2.花

  かわは ながれて どこどこ ゆくの  G,G,A,CDECDEDCB,B,C        歌謡曲

喜納昌吉作詞作曲のこの歌を、石嶺聡子がNHKで唄うのを聞いて、惚れこんでしまった。唄いやすく良い歌だが、ある時カラオケでこの歌を唄ったたら、ママさんに、「先生が唄うと、カンツォーネになるのね」と言われてガックリ来たことがある。これは東宝映画ひめゆりの塔主題歌だったそうだ。

3.TOMORROW

  なみだのかずだけ つよくなれるよ  edcedGGGABcABEE       Jポップス

シンガー・ソング・ライター岡本真夜のデビュー曲で、リズミカルで、行進曲にもなる良い歌だと思う。

4.ズルい女

  Bye-Bye ありがとう さようなら  CDEEEEAEDED          Jポップス

シャ乱Qのつんくが作詞作曲し、シャ乱Qが唄ってヒットした曲である。今夜のぼくの誕生日に、あなたは来ない。愛していたけど、ずるい女だった。ようするに振られたということを唄っている歌である。シャ乱Qというのは、シャッターズ、乱、QPというバンドが合体してつけた名前とのことで、芸名も、はたけ、つんくなど変わっている。

ここに持ってきたのは、シャ乱Qの一員のはたけが、一時期だけど、息子圭の友人だったことがあり、我が家にも来て泊まって行ったことがあることを紹介したいためである。というのは、圭が明星中学に入って最初に友達となったのが、シャ乱Qのはたけこと畠山君だった。

6月のある土曜日に、我が家に遊びに来る約束をしていたが、その直前に二人は喧嘩をしたらしい。それでも、畠山君は約束を守って、その日に我が家に来てくれたのだが、二人は圭の部屋でブスッとしたまま、黙りこくって座っている。たまりかねて、私たち夫婦は気を使い、蛍狩りに連れて行ったりしたのだが、二人は黙ったままだった。どちらも強情な奴で、呆れて苦笑してしまった。その畠山君が、あのシャ乱Qのはたけだと知って、あの時のことを思い出した。どっちもどっちである。

5.オンリー・ラヴ Only Love

  Only love can make a memory  GecEFGGGAF        シャンソン

これは、84年フランスのテレビ・ドラマミストラルの嫁の主題歌だそうである。ナナ・ムスクーリがこの歌を唄っているのを聞いて覚えてしまった。彼女はギリシャの歌手で、ミレイユ・マチューと違って、女性らしい繊細で柔らかな唄い方に魅力がある。スペイン旅行で彼女を知り、以来、彼女のCDもたくさん聞いてきた。ミレイユ・マチューのような迫力はないが、その代わり、女性が与えてくれるやすらぎがある。

6.恋のアランフェス Aranjuez Mon Amour

  もなむーる かぜはそらをわたり  EDEEFGAGFEDE     ラテン・ハワイアン

この歌は、スペインの盲目の作曲家ロドリーゴの作った、ギター協奏曲「アランフェス協奏曲」の第2楽章冒頭部分で、この一部に歌詞がつけられたものである。いかにもスぺインらしい、民族色豊かな魅力一杯の曲である。

スペインへ旅行し、マドリード郊外にあるこのアランフェスの離宮に立ち寄った時、感無量で興奮し続けていたことを思い出す。


1996 平成8年 60歳 開業24年目

 還暦

4月16日に私は60歳となった。その朝、思ってもいなかった60本の真紅のバラが届けられ、私は感涙した。交野市健康増進課の有志の方が贈って下さったことを知り、嬉しくて何枚も写真に撮り、リビングに飾った。そして、この日のためにそれまでに書いてきた雑文をまとめて、DTPで還暦までという書名で自家出版したものをお返しとした。

5月19日に、ANCORの会という、大学で合唱をしていた関西の大学OBの発表会があり、竹村君が出演するのを服部君と二人で見たあと、食事をして別れたのだったが、服部君の顔色の悪いのが少し気になっていた。

その10日あと、彼は急性心筋梗塞に襲われ、杏林病院に緊急入院をして一命をとり止めたことを知った。そのような病気になったため、ソ連勤務を止めることになったが、彼のために良かった、ソ連でそのような目に逢えば命はなかっただろうと、不幸中の幸いを喜んだのである。

 O-157による集団食中毒

この年の最大のできごとは、日本列島を襲ったO-157の脅威だった。この年の7月13日に、病原性大腸菌O-157による集団食中毒が日本列島を襲った。患者は9000人を超え、死者は11人に及んだ。

この時、O-157に関する情報は、一般の医学書に記載はなく、最新の情報は、インターネットから入手できるものに限られていた。私はパソコン通信から情報を得ようとしたが、そこに流れている情報は、インターネットで入手したものを、パソコン通信に移植しているものに過ぎないことが分った。

 パソコン同好会

7月13日の交野市医師会の移動理事会が行われている頃、あのO-157事件は起きていた。翌月8月3日の理事会で、明石理事から、医師会にパソコン同好会を作り、インターネットに接続できるようにしよう。その世話人は野村 望にしようという緊急動議が満場一致で可決された。

仕方がないので、その足で日本橋に行きWindows95搭載のパソコンを購入し、インターネット接続を可能にした上で、足がかりとなるホーム・ページとして、野村医院のホーム・ページを開設した。それが、8月15日で、Windowsマシーン購入後2週間足らずで作り上げたことになる。今そのことを思うと、信じられないほどの短期間で仕事を仕上げていることに、我ながら驚いてしまう。いつも追い詰められた時に、火事場の馬鹿力が出るような気がする。

これから後は、パソコン同好会の世話人となり、平均年齢が60歳近い会員のパソコンの手ほどきをさせてもらいながら、知らなかったWindowsのマルチタスクの世界、インターネットの世界に、新たにのめり込んで行くことになった。それからの経過は、パソコン物語に詳しく書いている。これは、同時進行の形で交野市医師会のホームページに掲載したが、全国規模で評判を呼ぶことになった。今思うと、この年は私にとって、インターネットへの出発の年と総括できるようだ。

 私の60年間の歌と思い出

還暦を迎えて、生まれた時の干支に戻った。思えば、この60年の間に、非常にたくさんの変化を見てきたような気がする。音楽はもちろん、エレクトロニクス、車その他エンジニアリングに関することでは、途方も無いほどの大きい変化を体験した。しかし、人間そのものはほとんど進歩していないように思える。そのギャップがいろいろのひずみを露呈しているのではなかろうか? このままで行けば、人類最後の日を見ることになる可能性なきにしも非ず。

タイトルの歌と思い出と言うのは、上手い組合せだったと、今にして思う。自分史の背景を恒常的に流れるものは、私の場合音楽以外のものは考えられない。歌と自分史とが対等の関係で、ここまで続いてきた。60歳になったところで、この歌と思い出を終わりにしようと思う。ここまで、お読みいただいた皆様に、心からお礼を申し上げる。ありがとうございました。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.サマータイム Summertime

  Summertime and the livin is easy  ecez dcdecAE         映画音楽

ジョージ・ガーシュインが作曲したオペラポギーとベスの冒頭で「夏は暮らしが楽だよ、...」とクララが唄う子守歌。最初の出だしのメロディーの魅惑的なこと、そして昔、阪急御影駅の近くの地下道に入る手前の坂道で、この歌がよく頭に浮び、口ずさんでいたことを思い出す。それは同じガーシュインのザ・マン・アイ・ラヴだったのかもしれない。

96年の2月18日に、ヒューストン・グランド・オペラによるポギーとベスの日本公演をフェスティバル・ホールで妻と観た。やはり、この歌は良かった。フォスターが日本の古賀政男なら、ガーシュインンは服部良一だと言われることがある。そう言われてみると、私は服部良一とガーシュインの方が断然好きな人間だ。



<2000.12.31.>
<2008.5.5.>改訂









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