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歌と思い出 9

 1981〜1985年 45歳〜49歳


2000.11.28. 掲載
2008.05.05. 改訂
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1981 昭和56年 45歳 開業9年目

 コンピュータ

この年の8月に、コンピュータ界のガリバーIBMが、「IBMPC」という16ビットのPersonal Conputerを発売した。そのOS(オペレーティング・システム)として、マイクロソフト社のMS−DOS(PC−DOS)を搭載したのである。

 息子が中学生

我が家ではこの年の春、息子圭が中学生となった。この頃から圭の背丈は妻を越え、風呂は一人で入り、入ると中からロックをするようになった。親と一緒に外出することを嫌い、まれに、そのような機会があると、他人のように離れて歩くのだった。このほかにも、圭が中学生となったことに伴って、変わったことがいくつかある。

その一つが、カルテ記載言語の変更である。医師になって以来、カルテはドイツ語で書くものと習慣付けられてきたが、アメリカ医学全盛の時代に、戦前のドイツ医学の残りかすを何時までも使うのはおかしいと、常日頃思ってきた。そこで、息子の中学入学と同時に、カルテの記載をドイツ語から英語に全面的に変更した。

二つ目は、動物嫌いというより動物恐怖症の妻が、息子の強い希望に負けて、雌のシェルティー犬を飼うことになったことで、飼い始めて半年ばかりの間は、妻の悲鳴が絶えなかった。息子は、自分が世話をすると言って、犬を飼わせたが、結局、その世話は私と妻がすることになってしまった。

 妻が複視

息子が中学生となり、その変化に家族が慣れはじめた8月14日のことだ。物が二重に見えると妻が言い出した。調べてみると、右目を外側に向けることができない。右外転神経麻痺による複視かもしれないと考えて、翌日星ヶ丘厚生年金病院の眼科と、脳神経外科を受診した。その結果、脳腫瘍または脳動脈瘤の可能性があると言われ、いろいろ検査を受けたが、頭部のCT検査では異常は認められず、頸動脈血管撮影、椎骨動脈血管撮影をそれぞれ2回受け、10月1日に行われた最後の検査で、それらの病気は一応否定された。

この結論が出るまでの私の不安は、経験したことがないほど強かったが、職業柄、不安を表に出さない習性が身についていたので、妻や息子にそれをさとられることはなかった。結局、原因不明の複視ということになり、ステロイドの大量療法が行われ、それが効いたのか、妻の複視は徐々に回復して行った。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.哀しみ本線日本海

  どこへ かえるの うみどりたちよ   CB,A,A,A,CEEFEFEB,B,        歌謡曲

浜圭介の曲も良ければ、森昌子の歌い方も素晴らしかった。聞くのも好き、唄うのも好きな曲で、歌曲の雰囲気を持つ曲だと思う。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」も、この歌に似たところがあるが、私には、歌手も、曲も断然こちらの方が良い。

2.もしもピアノが弾けたなら

  もしも ぴあのが ひけたなら  EDEz CCEDz CA,G,A,C         Jポップス

テレビ「池中玄太80キロ」の主題歌を、新劇青年座俳優の西田敏行が歌ってヒットした。これは、不器用な男への応援歌として書いたという阿久 悠の歌詞の面白さと、意外に歌のうまい、西田敏行のユニークな唄いぶりが、受けたのだと思う。

3.お嫁サンバ

  こいするおんなはきれいさ  e^deAfedcdddd             Jポップス

郷ひろみの歌は余り好きではなかったが、妻の実家である田伏家のファミリー旅行で、圭の兄貴分である甥の俊樹が、カラオケに合わせて上手くこの歌を唄うのを聴いてから、郷ひろみも好きになった。

4.セーラー服と機関銃

  さよならはわかれーのことばじゃなくて  AAAAAAGGEEDCCDEE      Jポップス

薬師丸ひろ子の主演した、「セーラー服と機関銃」という、女子高生が組を継承する内容の映画に使われた歌である。彼女が、急に自分も唄いたいと申し出て、この主題歌を歌ったと聞く。素直で、素人ぽい歌いぶりが好感をもって受け入れられ、ヒットした。歌の内容は別れの歌で、物悲しいフォーク調の短調の曲である。



1982 昭和57年 46歳 開業10年目

 コンピューター

Windows95が登場するまで、日本のパソコンの大半のシェアを占めていた、NECの16ビットパソコン「PC9801」が、この年の10月に発売された。これによって、初期の8ビット系パソコンは、徐々に駆逐されて行った。

野村医院では、開業の翌年(74年)から、レセプトコンピュータとして、大型コンピュータの端末機のような機種を使ってきたが、この年からHAYAC3800というオフィス・コンピュータを導入した。そして、これを使ってコンピュータの勉強を始めたが、フロッピーは8インチの大きなもので、言語はCOBOLだった。

 父の死

この年のはじめから、インテリアと庭に私たち夫婦の関心は集中した。3月20日に初めて造園業者と会い、4月4日に庭の最終設計図を書き上げ、それに基づき庭木を選び、4月10〜11日に庭木を搬入して植樹、4月23〜24日で芝張りを完了したが、庭が出来上がった翌日の25日、父は急死した。71歳だった。

私は、小学5年生から大学に入学する頃まで、父に反発することが多かった。父は典型的なインテリゲンチャで、文系に関しては、いろいろな面で呆れるほど博識だったが、自分自身の考えを持っていないと私は思った。どうして、自分の頭、眼、耳、舌、喉で判断しないのかというのが、一番の反発の原因だったと思っている。

もう一つの反発の原因は、私が小さい時から物を作るのが好きだったのに対して、父はペンと箸しか持ったことがなく、物を作る人間をホモ・ファーベル(工作人)と言って軽蔑し、頭を使う人間(ホモ・サピエンス)の方がよほど優れていると思い込んでいることだった。しかし、私も頑固で、父がどのように言おうとも、聞き入れることをせず、絶えず何かを作っていた。

父に「出て行け!」と言われて、「出ていく!」と、家を飛び出そうとするのを、母が泣いて止めたのは、私が5年生の時だった。大学に入ってからは、もう父と争うこともなくなったが、それまでの父は、私の反面教師であった。そういう意味で、私が大きな影響を受けた人間の一人は父親であったと思う。大学に入ると、私と同じように、父親と争ってきた友人がたくさんいて、「父と子」の対立は、思春期の宿命かもしれないと思った。

反面教師と思ってきた父から、それ以外の恩恵を受けていたことを自覚するようになったのは、かなり後のことである。本好きになったのは、家の中にたくさんの書物があり、それを貪るように読んだことが関係しているだろうし、クラシックやシャンソンのレコードを次々に買ってきたので、その類の音楽に親しむようになり、少年美術館など美術書もよく買ってきたので、絵や彫刻にも親しむようになった。「未完成交響楽」「レ・ミゼラブル」「ハムレット」など、洋画にもよく連れていってもらったが、これにも大きな影響を受けたと思う。

反面教師として受けた影響、環境を整えてもらった影響のほかに、父が話したことばの中で、一つだけ妙に納得して、自分の生き方に影響のあったことばがある。高校2年の夏のこと、家へ遊びに来た友人のN君が、人生設計か将来像について、はっきりした意見を話した。それを聞いて、母は非常に感心し、そのことを父に話したところ、父は「小さく固まらない方が良い、回り道も必要」と言って、明確な将来像を持っていない私の方を評価してくれた。このことばは、以来私の中で生きている。

父が亡くなった翌月、5月27日の新聞の訃報欄に、元大阪市立大学心理学科教授の大西憲明氏が急性循環不全で、京大病院にて逝去との報道があった。同氏と父は同じ時に九州帝大の心理学科で学んだが、当時心理学科の学生はわずか2名だったと父から聞いたことがある。旧友が、同じ時に同じ死に方をしたのが印象深かった。

 開業10年目

9月1日から開業10年目に入ったのを記念して、1)レシートの発行、2)「医学豆知識」「医学一口メモ」の復活、3)「よろず医学相談」を始めた。医学相談は、毎週火曜日の午後に、一人30分4人までを限度として、私が応じられる範囲のことは何でも相談に乗ることにした。

息子圭も中学2年になり、そろそろ勉強をしなければならない時期に入ったので、私が受験勉強で身につけた、勉強のコツを勉強覚え書きという、B5版16ページの冊子にまとめて、9月15日に息子に渡した。おめでたい私は、この方法で勉強すれば成果が上がると思い、免許皆伝の奥義を伝授した積りでいたが、息子は、歯牙にもかけなかったようだ。つまるところ、私の自己満足に終ってしまった。

しかし、それも余り気にならず、私たち夫婦は11月から梅田のヤマハ・エレクトーン教室に通い始めた。先生は若くて、「ヒャー!」を連発する面白い女性だったので、ここに週1回通うのが楽しかった。唄うと音痴の妻も、エレクトーンでは外れることがないので、喜んでレッスンを受けていた。もちろん、私より進級が遅いのは致し方ないことだった。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.北酒場

  きたの さかばどおりには  EGGGz AGEDCDEEE            歌謡曲

細川たかしはデビュー曲「心のこり」でヒットしたが、この歌も、同じく、なかにし礼、中村泰士のコンビによる歌で、テレビの「欽ちゃんのどこまでやるの」の番組の中で唄ってヒットした。陽気なロック調の演歌である。私は、演歌は余り好きではないが、この曲は威勢がよくて、唄いやすく、抵抗がない。

2.氷雨

  のませて ください もうすこし  CCCCCB,A,CA,CEFE           歌謡曲

この演歌も嫌いではないのは、なぜなのか? 余り、演歌っぽくないメロディーのせいかか? それとも、このようないじらしいことばに弱いのだろうか? この歌は、何人かの歌手の競作になったが、日野美歌の歌がヒットした。

3.赤いスイートピー

  はるいーろの きしゃにのって  GGGEFGAFGBc            Jポップス

この歌から直ちに思い出す光景がある。松田聖子のコンサートから帰ってくるなり、息子圭は興奮しきった表情で、「生まれて2番目に楽しかった」と嬉しそうに話したのだった。一番目に楽しかったのは何か、と尋ねても話さないので、きっと、一番楽しかったのだろうと思う。その松田聖子だが、間もなく嫌いになったようだ。

それから10年後の、92年のバルセロナ・オリンピック、200メートル平泳ぎで金メダルを勝ち取った14歳の岩崎恭子が「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と涙声で話すのを聞いて、瞬間閃いたのは圭のこの時のことばだった。どちらも14歳、この年頃は、大人が驚くような喜びの表現をすることができるのかなと思った。

4.聖母たちのララバイ

  さあ ねむりなさい  A,A,CEA,CB,^G,B,EB,DC           Jポップス

歌唱力抜群の岩崎宏美が唄ってヒットした。戦士である男を、母になって守りたい、疲れきった身体を投げ出して眠りなさい、と唄う歌で私は好きだった。ところが、あるテレビ番組で質問に答えているときの、彼女の傲慢な態度に接した途端、嫌いになってしまった。その後、離婚をして、また、テレビで唄うのを見ると、苦労がこの人を成長させたようだと思う。

5.待つわ

  かわいいふりして あのこ  AABBccAAFAccccBBBBABE       Jポップス

女性デュオの曲と言えば、ザ・ピーナツの曲か、この歌が思い浮かぶ。ポップコン受賞曲だが、当時二人は大学生だった。「あみん」とはさだまさしの「パンプキン・パイとシナモン・ティー」という歌に登場する、コーヒー・ベーカリーの安眠のことだそうである。この歌の最後になると、いつも私は「ミレドドシララシド、レドシシラソソラシ、ドシララソファファソラ、シドシドシドシドシー」  とつけてしまうのだが、なぜそのようになったのか分らないでいる。

6.ラブ・イズ・オーヴァー

  Love is over かなしいけれど  G,A,EEz EGGEAGE           Jポップス

作詞作曲をした伊藤 薫は、ギタリストでCMソング作家である。日本人が作曲したとは思えない「マイ・ウエイ」にも似た、ポップ・バラードで、悲しいけれど、この愛は終わりにしようと、大人の恋を、欧陽菲菲は歌っている。彼女の雰囲気にぴったりの歌で大ヒットした。

7.枯葉 Les Feuilles Mortes (Autumn Leaves)

  あれはとおいおもいで  ABcABcAcAB                 シャンソン

この歌は、46年の映画「夜の門(本邦未公開」)の中で、主演のイヴ・モンタンが歌ったシャンソンである。英語の歌詞もつき、ポップスとして世界中に広まった。1954年の「歌と思い出」の中では、サッチモの唄った「Autumn Leaves」を取り上げたが、ここでは、シャンソンとして、イブ・モンタンの歌について書くことにする。

この年の10月最後の土曜日に、妻とフェスティバル・ホールで、イヴ・モンタンの日本公演を観た。モンタンは61歳だったが、その舞台は素晴らしかった。たくましさの中に、細やかな情感と人生のかなしさをにじませ、粋でほれぼれする歌いぶりだった。この公演の9年後の11月、枯れ葉が舞う季節に、モンタンはこの世を去った。七十歳だった。その訃報を知り、最後の日本公演を観ることができた幸せを思った。



1983 昭和58年 47歳 開業11年目

この年の2月から老人保健法が施行され、70歳以上の医療費無料制度が廃止された。おかしなことに、当院ではこの月から老人医療の患者が増えたのだ。尋ねてみると「今まで無料だったので来にくかったが、有料(月400円)になったので、気兼ねなく来れる」という返事が返ってきた。

前年からの続きで、開院10年記念の4番目として、1月に待合室のマガジンラックを、私の手作り品と取り替えた。5番目は、診療業務の文書化を目指して、3月に「医院勤務マニュアル」 第1版 手書き B5版 43頁を作成し、新たに採用した職員の指導と、在職の職員の業務の再確認に使用した。

その目次は、1.基本的なこと、2.窓口業務、3.薬剤のとりあつかい、4.診療介助、5.消毒、6.掃除とかたづけ、7.保険請求事務、8.ルーティーンの仕事、から成っている。この内の1.基本的なことは、職員に求めてきたこと−医院勤務の基本−として、このWebページにも掲載しているが、開業以来職員に常日頃求めてきたことだった。ただ、このように文書化したのはこれが最初である。

この「医院勤務マニュアル」は、第4版からはワープロ印刷にして、職員採用ごとに、改訂版を作ってきた。最終版は98年12月の改訂第7版追補版で、B5版、105ページになっている。その目次は、1.医院勤務の基本、2.医院勤務者のことば、3.受付業務、4.カルテの工夫、5.投薬、6.レセコン使用法、7.会計業務、8.各種検査、9.予防接種、10.雑務から成っている。

この年の2月に、大学教養時代のコーラスの友人でテナーの竹村雅之君と奥様の訪問があり、27年ぶりで、昔に戻って二人で唄った。彼は住友金属の小倉工場に大学卒業以来勤務していたが、この年から大阪本社勤務になった。この時からは、ほぼ1年に1回どちらかの家に集まり、昔の歌を唄うようになった。92年からはバスの服部道彦君が加わり「日曜に歌う会」という名前をつけ、学生時代に戻って大いに歌い、飲み、語って楽しんでいる。

3月13日の日曜日に、妻の実家で、義母の肛門に指を入れると、硬い塊を触れた。直腸癌の可能性が高く、翌日星ヶ丘厚生年金病院外科に紹介して診断は確定し、28日に手術を受けた。経過は良好で、再発はないが、義母はそれからも、白内障、イレウス、脳梗塞、窒息と入院が続いている。

義母の入院手術があって、私たちはエレクトーン教室を止めた。続けられないこともなかったが、妻がその気になれないのがよく分った。半年足らずだったが、夫婦一緒の習い事は、これが最初で最後となった。

7月には家族3人で沖縄に行った。圭が小学校に入学して以来、毎年夏には家族旅行をしてきたが、楽しく過ごした家族旅行はこの年までだった。

開業して10年が過ぎ、患者数は増え、それにともない診療報酬も増えて行った。しかし、税金がそれ以上に増えるので、実際の所得は減り続けている。そこで、薬問屋の支払など手許にある支出を加算してみると、医師優遇税制といわれる白色申告の経費率と同じ程度の経費率になった。それ以外に欠落している経費がかなりあるはずなので、実際は優遇ではなく税金を払い過ぎていたことを知った。

この結果を得て、当時大阪府医師会に関与していた菱村会計事務所に検討してもらったところ、当院の場合は青色申告の方が絶対有利だと診断してくれた。そこで、翌年から青色みなし法人に切り替えることに決めた。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.浪花恋しぐれ

  げいのためなら にょうぼもなかす  GEGAcAGz AGEGAcd          歌謡曲

この歌の主人公は桂春団治という落語名人。「芸のためなら女房も泣かす、それがどうした、文句があるか」と、酒のいきおいで開き直っても、それが良しとされていた頃の話。作曲の岡 千秋は、作曲家としてはまだ芽がでず、新宿の酒場で、ピアノを弾きながら演歌を唄っていた。その彼とのデュエットを、都はるみが望んだそうだが、発売と同時に大ヒットした。

岡 千秋は、台詞の部分の大阪弁がうまく喋れないので、台詞に音符をつけて覚えたと本人が話すのを聞いたことがある。その効果があったのか、ほとんど分らないほど上手に大阪弁で喋っているが、「今に見てみー」のところはちょっとおかしい。

2.矢切りの渡し

  つれて にげてよ  GGGz GedcG                     歌謡曲

細川たかしがこの歌を唄って、第25回レコード大賞を受賞した。演歌不振の中で、この曲は大ヒットした。「心のこり」や「北酒場」のような都会派演歌でなく、正統派演歌であるが、演歌に珍しい駆け落ちの歌である。もともとは、ちあきなおみがシングルのB面に入れていた曲だと聞く。細川たかしは民謡出身で、伸びやかな高音が美しく歌が上手い。その上、客を面白く喜ばす、まさにエンターテイナーである。その父親が相当な音痴であることを、「家族揃って歌合戦」というテレビ番組で知って驚いたことがある。

3.越冬つばめ

  むすめざかりを むだにするなと  EEEEDCB,z CCCCDCB,A,         歌謡曲

森昌子が唄って、第25回レコード大賞歌唱賞を受賞した。これを作曲したのが、「夢想花」の円広志、本名篠原義彦であることを知って意外に思った。この歌を唄いながら、森昌子がポロポロ泣き出したのを見たとき、彼女は恋をしているのではないかと思ったが、それからしばらくして、森進一と結婚したので、案外当っていたのかもしれない。

4.釜山港へ帰れ

  つばきさく はるなのに  EA^GABz EBABc             Jポップス

韓国の代表的歌手チョー・ヨンピルのデビュー曲で、朝鮮動乱で別離を余儀なくされた、肉親や恋人友人の思いを歌った民族悲哀の歌である。古賀メロディーと共通する哀しさがあり、演歌の源流が改めて話題になった。我が国では、恋人同士のロマンチックな別れの歌詞に変えられ、多くの歌手の競作となったが、渥美二郎がダントツでヒットした。

この年の9月、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空機が、サハリン沖上空でソ連の戦闘機のミサイル攻撃を受けて墜落し、乗客240人全員が死亡した。ソ連領空を侵犯はしていたが、民間旅客機撃墜というソ連の強行手段に、誰もが衝撃を受けた。

5.フラッシュダンス Flashdance…What A Feeling

  First when there's nothing, But a slow glowing dream
                         EDCDDz DEFEEEEDC    映画音楽

83年のアメリカ映画、「フラッシュ・ダンス」のテーマ曲で、アイリーン・キャラが唄っている。映画のヒロインは、昼は溶接所で働き、夜はバーで踊るダンサーで、クラシック・バレーをきちんと習うことを夢見ている。この曲は、クライマックスのバレー・スクールのオーディションのシーンで流れていたが、アメリカでも日本でも大ヒットした。



1984 昭和59年 48歳 開業12年目

 青色みなし法人

この年の1月から青色みなし法人に切り替えた。白色申告の間は、レジスターの管理、現金の管理、給与の計算などは妻の仕事にしていた。丼勘定でも窓口の現金収入だけで、何とかやっていけたからである。

しかし、青色にしてからは、それらはもちろんのこと、毎日の日計表の作成、自費台帳、未収金台帳、領収書、請求書、普通預金、現金出納など、全ての仕事を私が引き受けることにした。

そのため、診療が終ったあと、日計表とレジ管理、自費、未収金の記帳などのため、毎日30分近くをこの仕事に費やさなければならなかった。また、毎週月曜日には、前の週の毎日の窓口収入を入金する仕事もあり、更に、月末近くになると会計事務所の監査があるので、その前日は、準備に長時間を要し、最初の頃は明け方近くなることもあった。

このように、自分にとって負担が大きいのにも関わらず、私はむしろ喜んでこれに当って来た。そのわけは、白色申告が医師優遇税制と非難され、やっかまれるのに我慢がならず、青色申告という正攻法を選んだのだが、そのほかにも、これまで一度もしたことがない経理を、一度経験しておきたいという気持もあった。そして、このようなことは、若い今でなければできないと思ったからである。

青色にした結果、経理が良く分っただけでなく、大幅な節税となった。データが全て残っているので、過去との比較は簡単にできるし、将来の予想も可能だ。最も大きな効果は、診療に必要なものは必要経費として落とせるので、使いたい機器などを積極的に取り入れることができたことだと思う。開業して28年目に入った今日まで、萎縮せず自分の好きなように診療をして来れたのは、青色申告とその発展段階としての医療法人を採用したことが大きいと思う。

この青色に伴う業務を最初は手書き、手計算で行ったので、計算間違い、記載間違いを何度も繰り返した。そこで、いろいろ工夫をしたり、ルーティーンを作ったりした。翌年、パソコンを購入すると、まず、これらの業務をパソコンに代行させるよう努めたが、それは、この手計算、手書きでの成果があったために、可能だったと思っている。

 息子の反抗

息子圭が中学を卒業した3月半ばに、エレキギターを購入してやった。圭は私立明星中学校の生徒で、そのまま明星高等学校に進学できるため、公立中学校の生徒のように高校入試という試練を経験しなくても良く、ロック・ギターをしたいと思っていたのだと思う。圭がMTVなどを見ている傍で、それをよく一緒に見ていた記憶がある。しかし、間もなく波乱が起こった。

圭が高校に進学して間もなくの4月30日、私は圭にいくつか指示をし、注意や禁止をしたところ、腹を立てて、家を出て行ったのだ。海の見える神戸に行くと言って出て行ったと妻はおろおろしている。

義父母をはじめ、義兄などにすぐさま連絡し、車で手分けして探し回ったが見つからない。義母は「圭ちゃんにどんな悪いことを言ったの!」と私を責める。数時間過ぎた頃、圭がこっそり帰ってきたのを妻が見つけた。その帰ってきた弁がふるっている。歩いては神戸までは行けないので、自転車を取りに帰ってきたというのだ。そのまま、取り押さえ一件落着となった。

この後も、2回ばかり家出をしてくれたが、もううろたえることはなかった。探さないでくれとのメモを置いて家を出たときのこと、妻と二人で門の外に出ようとして、人の気配を感じて、ガレージの屋上を見ると、這いつくばってこちらの様子をみている者がいる、圭だ! 途端に吹き出してしまった。そして、これをもって圭は、家出を卒業したのである。

この頃、世間では陰湿なグリコ・森永事件が進行していた。犯人は独特な大阪弁で脅迫状を送りつけ、「かい人21面相」を自称していた。残念ながら、この事件は2000年に時効が成立し、迷宮入りとなってしまった。

この年の夏の、家族旅行先は合歓の郷だったが、行き帰りの車の中も、合歓の郷でも、圭は不服そうにしていて、不愉快極まりなく、もう二度と一緒に旅行するものかと私たち夫婦は思い、事実、これが3人で旅行する最後となった。

おまけに、この合歓の郷のホテルの部屋に入った途端、圭と私は猛烈な喘息発作に襲われた。何か合わないアレルゲンがあったのだろう。仕方なく、二人は車の中で一夜を明かした。膨れっ面をした男二人が、背を向けて、悶々としながら、狭い車内で横になっているさまは、他人の眼には、異様な光景として映ったに違いない。

秋に入ると、圭の心のいらいらは一層ひどくなった。特に、月始めに行われる頭髪検査の頃になると、検査をする先生に猛反発をするのだった。反抗的な圭と親子で話し合い、言い争い、決裂することを何回もくり返した。そのようなことが1年近く続いたと思う。その間、いろいろ本を読んだり、考えたり、話し合いをしたり、trial and error をくり返したが、その間に、私はあることを悟った。

それを簡単に表すと、イソップの「北風と太陽」であり、俗に言う「盗人にも3分の理」である。それまでは、指示し命令し禁止すると言う高圧的な態度で、息子に接することが多かったが、これは逆効果以外の何ものでもないことが分った。また、それまでは、こちらの立場で物を言い、息子の言い分をほとんど聞こうとはしなかったが、盗人にさえ3分の理由があるとするなら、普通の子である息子には、5分も8分も理由があるに違いないということが、実感として分った。このことを悟るまで1年近くかかったが、これは大きな収穫だった。

 悲しい別れ

悲しい別れもあった。10月26日に交野病院副院長の、横山良忠先生の告別式が玉泉院で行われたのである。温厚誠実な方で、開業以来、交野病院へ患者を紹介するときは、ほとんど、横山先生宛てに紹介状を書き、また、それに対して、常に誠意を持って対処して下さった。私より1歳若い昭和12年生まれだったと思う。「野村医院二十年史」の中に、紹介状に返事を下さった先生のお名前を記載したが、横山先生に紹介をしたわずか10年ばかりの間に、30通の返書をいただき、これは返書の多い順から6番目だった。若くして直腸癌で亡くなられた先生の無念さを思うと、いたたまれない気持になる。

 カラオケ・コンテスト

何か暗いこと、鬱陶しいことが続いた年のように書いてきたが、楽しいこと嬉しいことも、もちろんいくつかあった。その一つが、12月29日にラジオ関西の百万人の英語の時間で放送された「エヴァーグリーン・カラオケ・コンテスト」優秀賞の放送で、私が応募したテープも放送された。これは、「百万人の英語」という番組を放送している会社が、英語のカラオケテープを販売し、それを購入した人に、カラオケ・コンテスト応募資格を与えたものだった。私が唄ったのは「MY WAY」である。

そのほか、石川達三の「四十八歳の抵抗」が妙に気になり、どこか焦りを感じていた年だったことを思い出し、苦笑している。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.桃色吐息

  さかせて さかせて ももいろといき  EEEDDFFFEEGGGFFEDD      Jポップス

高橋真梨子の曲と言えば、ペドロ&カプリシャス時代の「ジョニーへの伝言」、「五番街のマリーへ」と、独立してからの、この「桃色吐息」が思い浮かぶ。私はそのどれもあまり好きではない。この曲などは嫌いな方だ。この曲は聞く者を幻想の世界に誘う、などと言う紹介文を読むと、どこが幻想的なのか、気持の悪い色気ではないかと思うが、それもセンスの違いで、致し方ないのかも知れない。

ジュディ・オングの唄った「魅せられて」と情景は似ているが、こちらはハイカラで、さらっと唄っているのに対して、「桃色吐息」の方は、ねっとりしていて、私には合わない感じだ。

2.涙のリクエスト

  なみだの りくえすと さいごの りくえすと「  EGAGGEGBA       Jポップス

涙を流し、てラジオ番組にリクエストするという失恋の歌だが、長調で明るく、50年代アメリカンポップスを聞いているような懐かしい歌だった。若い人が、このような種類の歌を唄うのは、多分両親とか、その人の周りに、この時代の音楽を楽しんだ人がいたということだろう。


1985 昭和60年 49歳 開業13年目

 最初の遺書

40代最後の誕生日という節目に、圭に贈るを書いて、息子圭に手渡した。それは、圭に対して伝えておきたい私の気持と考えを文書にまとめたもので、B5版手書き47ページからなっている。その最後を、「もしも、私が近い将来に死ぬことがあれば、この文はお前に対する私の遺書だと思ってくれてよい。その積りでこれを書いてきた。そして、49歳の誕生日を記念して、この文をお前に贈る。1985年4月16日 望」と結んだ。

これは、高校2年生となった息子に対する、私の側からの総括であった。これを書き上げ、息子に手渡してしまうと、「言うべきほどのことは言った。もう思い残すことはない。」という心境になり、自分のしたいことにまた関心は戻って行った。このようなものを書き与えたことについて、妻は批判的で、無駄で意味がないと思ったようだが、私の自己満足に役立ったのは間違いなく、お陰で、私は息子から自由になった。

今思えば、この年の圭は16歳から17歳に当り、難しい時期だった。それなのに、自分勝手に総括をして、そこを抜け出したのは、父親として無責任だと非難されるかもしれない。この後、私は妻と息子の争いの仲裁役、調停役を引き受けることが多かった。

 パソコン

この年の6月に、大阪府医師会のマイコン同好会に入会し、本格的にパソコンを始めた。6月30日にPC9801M2というパソコンを購入したが、これは1.2MBの5インチフロッピー・ディスクが使える機種で、その前年11月に発売されたものである。前年には、アップル社からマッキントッシュMacintoshも発売されている。

私がパソコンを始めた年は、これまでのパソコンから大きく変化する年でもあった。その一つは、パソコン用の汎用OS(Operating System)が確立し、それまでの機種ごとの独自なOSが駆逐されて行ったことで、MS−DOSというマイクロソフト社の Disk Operating System の上でソフトが動くようになったのである。

二つ目は、ワープロ・ソフトに「一太郎」という、廉価で、優れたソフトが現れたことで、それまでは「」というワープロ・ソフトが、ワープロ専用機に劣らぬ高性能で君臨していた。これは、定価が10万円で、コピーされないように厳重なプロテクトが掛けられていて、故障した時の予備用のディスクは添付されず、これを必要と思う人はもう一つ購入するようにと、高姿勢だった。

そこへ、4万8000円の廉価で、「」に劣らぬ高性能の「太郎」が登場したのである。この「太郎」はプロテクトがかけられていないため、予備用のフロッピーも作ることも可能で、「貧乏人の松」と陰口を叩かれながらも急成長し、第2版からは現在の「一太郎」という名前に変わった。

パソコンを手にして私が行ったことは、青色申告に必要な経理関係の仕事をパソコンに代行させることだった。その中でも、給与計算が一番面倒なので、BASICでプログラミングをして、8月からパソコンで給与計算を始めた。そのほかにも、自分で幾つかのプログラミングを行ったが、年末になって、これらのほとんどを、表計算ソフトで処理することに切り替えた。その最大の理由は、自分で作ったプログラムであっても、その一部を変更するのに莫大な時間と集中力がいることを経験したからである。

表計算ソフトとして、当時「Multiplan」と「Super Calc」というソフトがあり、私は「Super Calc 3」の方を使って、給与計算を始め、これまで手書き手計算で行ってきた経理業務関係を、ほとんどこのソフトに行わせるようにした。その後、LOTUS1-2-3、現在ではEXCELというソフトが表計算の主流になり、私も新しく作るものは、これらのソフトを利用しているが、青色申告に関する経理は、今なお15年前の「Super Calc 3」を使っている。

このように、1985年は私にとって40代最後の年、子離れをした年、パソコンを使い始めた年とまとめることができる。世間では、阪神タイガースが27年ぶりの優勝をし、さらに、初めて日本シリーズを制覇して、「六甲おろし」で大トラがフィーバーした年であった。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜     データベース


1.熱き心に

  きたぐにの たびのそら  CDEGA,z CDEAG                 歌謡曲

マイト・ガイ小林旭は、「昔の名前で出ています」でカムバックしたが、その後でヒットしたこの歌は、日本離れした風景と、現実離れしたロマンがあって、小林旭によく似合っている。ライバルだった石原裕次郎や結婚して別れた美空ひばりが、この世にいないことを思うと、なぜか、この人に好感を持ってしまう。この歌は、はじめに曲ができて、それに阿久 悠が歌詞を付けたと聞く。

2.アメイジング・グレース Amazing Grace

  Amazig grace! How sweat the sound  G,CCEDCEEDCA,G,      ポップス

紀伊國屋書店で本を見て回っていたら、この歌が流れてきた。この世のものとも思われないほどの、美しいアカペラに聞き惚れていたが、後で店員に尋ねると、「アメイジング・グレース」という歌で、唄っているのは白鳥英美子だと言う。その場でCDを購入して、白鳥英美子というのは「トワ・エ・モア」というペア・シンガーの、女性の方であることを知った。

この曲は、イギリスの古い讃美歌で、西部開拓時代から米国でも唄われてきたという。71年ジュディー・コリンズの歌でヒットし、他にも多くの人が唄っているが、私は白鳥英美子の唄うのが一番美しいと思う。



<2000.11.28.>
<2008.5.5.>改訂

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