運命と自由意志との関係
人間には自由意志があるのでしょうか、それとも運命が定められているのでしょうか。と言う問題・疑問についての話です。
が、私自身の見解を述べてもあまり意味がありませんので、霊訓とM・H・テスター氏の説明を載せることにしました。

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シルバーバーチの霊訓から(まだまだ沢山有りますよ)、
──航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだと言う考えは、私にはまだ得心がいきませんが・・・。

「ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず、計画されている、という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事を引き起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者──この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます──の問題ですが、これには別の観方があることを知ってください。つまり、あなた方にとって死は確かに恐るべきことでしょう。が私たち霊界の者にとっては、ある意味で喜ぶべき出来ごとなのです。

赤ちゃんが誕生すればあなた方は喜びますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらは大よろこびでお迎えしています。

次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命と言うものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です

つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されて居るわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかいい方法が思い当たりません」


霊訓は高級霊からの啓示ですが、M・H・テスター氏の説明がとても分かりやすいのでご紹介します。
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背後霊の不思議(M・H・テスター)から、
人間には自由意志というものがあるのでしょうか。それとも運命がキチンと定められているのでしょうか。

自由意志と運命の問題についてはすでに数多くの本が書かれています。人間は将棋の駒のようなもので、何ものかによって一挙手一投足まで操られているのか。運命というものがキチンと定まっていて、芝居のように筋書きどおりに動くだけなのか。

インドなどではこの運命観が非常に強くて、貧民街などで見かける乞食はみな「自分は乞食の人生を運命づけられているのだ」と信じて、物乞い以上のことは何もしようとしません。

西洋にもこの種の運命諦観思想とでも言うべき思想を抱いている人は少なくないようです。若気の至りでついつい肉体関係にまで行ってしまった男女が「こうなるのも宿命だったんだ」などと真面目な顔をして言うらしいですが、好き合った者同士でやった楽しい体験を、なぜそう深刻に弁解しようとするのか、私にはわかりません。

なるほど、理屈を単純に組み立てればそういうことにならないこともないでしょう。つまり宇宙には凡てを支配する全知全能の神がいて、雀一羽、木の葉一枚といえどもその生死を見のがすことはないとなると、われわれ人間の生死もその神によって支配され身動きができないはずだというわけです。

が、これがあまりに単純な論理であることは、少しでも融通のきく頭の持ち主ならすぐわかるはずです。ナチス・ドイツのヒトラーが、神の与えた宿命によってあのような残虐行為をやったとはとても考えられないでしょう。

十三世紀から十九世紀にかけて続いたローマ・カトリックによる非道きわまる宗教裁判の犠牲者たちが全知全能の神の思し召しだったとは、まともな理性の持ち主には到底考えられないことです。

ではどうだというのか。宇宙は偶然の産物で目的も計画も無く、人間は何をしようと勝手にできているとでもいうつもりか。そうは言っておりません。

もしも私が精子と卵子の偶然の結合によって生産された気まぐれの産物だとすると、何のけじめもない無味乾燥な人生を送っていることになりましょう。「何をしようとオレの勝手だ」こういう人生観が生まれても仕方がないことになります。

結論を申しましょう。両方とも真理の半分しかとらえていません。宇宙には確かに厳然たる目的と計画があり摂理があります。好むと好まざるにかかわらず、あなたもその機構の中の一部であり、逃れようにも逃れられない宿命を負ってります。

たとえば、あなたは男性としての生を享け背は低く色浅黒く、髪の色も黒だとしましょう。これだけは変えようにも変えられますまい。

生まれついた国家、民族も生年月日も宿命といってよいでしょう。個性も霊格も前もって定まっています。それを進化向上させる目的をもってこの世に生まれ出て来たのです。

また、どういうタイプの人生を送るかも定まっています。寿命も定まっています。ビッコになるか、脳性マヒになるか、万能スポーツマンになるかも定まっています。頭の良し悪しも定まっています。人生の航路において遭遇する困難や事件などもあらかじめ定まっています。

実はこうした一定のワクの中で、あなた自身の自由意志が与えられているのです。これを大学生活にたとえれば容易に理解が行きます。

かりに、A大学のB学科に入ったとしましょう。その大学はいつ始業式があって、何年後に卒業するということが、あらかじめ定まっています。またその間に学ぶ教科の数、使用する教材、担当教師の顔ぶれ、試験の時期、休暇の日数等々もあらかじめわかっているわけです。

が、だからといって、学生に自由意思がないわけではないでしょう。つまり、真面目に出席しようが適当にさぼってデートを楽しもうが、学校側の知ったことではありますまい。試験でいい点を取るか悪い点を取るかも本人の努力次第でしょう。


人生もこれとまったく同じです。男女の別、顔の美醜、貧富の差、知能程度、性格、霊格、こうしたものは前もって定まっています。が、そうした条件のもとであなたがどういう人生を送るかは、あなた自身の自由意志の問題なのです。