第6章 宇宙の創造原理・キリスト
第1節 顕現としてのキリスト
一九一七年十二月十一日、火曜日

こうして通信を送るために地上へ降りてくる際に吾々が必ず利用するものに〝生命補給路〟(ライフライン)とでも呼ぶべきものがあります。それを敷設するのにかなりの時間を要しましたが、それだけの価値は十分にありました。初めて降りた時は一界また一界とゆっくり降りました。

各界に特有の霊的な環境条件があり、その一つひとつに適応しなければならなかったからです。

これまで何度往復を繰り返したか知れませんが、回を重ねるごとに霊的体調の調節が容易になり、最初の時に較べればはるかに急速に降下できるようになりました。

今では吾々の住まいのある本来の界での行動と変わらぬほど楽々と動くことができます。かつては一界一界で体調を整えながらだったのが、いまでは一気に地上まで到達します。最初に述べたライフラインが完備しており、往復の途次にそれを活用しているからです。

──あなたの本来の界は何界でしょうか。

ザブディエル殿の数え方に従えば第十界となります。その界についてはザブディエル殿が少しばかり述べておられるが、ご自身は今ではその界を後にして次の界へ旅立っておられる。

その界より上の界から地上へ降りて来れる霊は少なく、それも滅多にないことです。

降りること自体は可能です。そして貴殿らの観念でいう長い長い年月の間にはかなりの数の霊が降りてきていますが、それは必ず何か大きな目的──その使命を自分から買って出るほどの理解力を持った者が吾々の十界あるいはそれ以下の界層に見当たらないほどの奥深い目的がある時にかぎられます。

ガブリエル(第二巻三章参照)がその一人であった。今でも神の使者として、あるいは遠くへあるいは近くへ神の指令を受けて赴いておられる。が、そのガブリエルにしても地上近くまで降りたことはそう滅多にない。

さて、こうして吾々が地上界へ降りて来ることが可能なように、吾々の界へも、さらに上層界から高級な天使がよく降りて来られる。それが摂理なのです。

その目的も同じです。すなわち究極の実在へ向けて一歩一歩と崇高さを増す界を向上していく、その奮闘努力の中にある者へ光明と栄光と叡智を授けるためです。

かくして吾々は、ちょうど貴殿ら地上の一部の者がその恩恵に浴するごとく、これからたどるべき栄光の道を垣間見ることを許されるわけです。そうすることによって、はるか彼方の道程についてまったくの無知であることから免れることができる。

同時に、これは貴殿も同じであるが、時折僅かの間ながらもその栄光の界を訪れて、そこで見聞きしたことを土産話として同胞に語り聞かせることも許されます。

これで判るように、神の摂理は一つなのです。今おかれている低い境涯は、これより先の高い境涯のために役立つように出来ています。

吾々の啓発の使命に喜んで協力してくれる貴殿が未来の生活に憧れを抱くように、吾々は吾々で今おかれている境涯での生活を十分に満喫しつつ、神の恩寵と自らの静かな奮闘努力によって、これよりたどる巡礼の旅路に相応しい霊性を身につけんと望んでいるところです。

そういう形で得られる情報の中に、キリストの霊と共に生活する大天使の境涯に関する情報が入ってくる。渾然一体となったその最高界の生活ぶりは、天使の表情がすなわちキリストの姿と目鼻だちを拝すること、と言えるほどです。

底知れぬ静かな潜在的エネルギーを秘めた崇高なる超越的境涯においては、キリストの霊は自由無碍(むげ)なる活動をしておられるが、吾々にとってその存在は〝顕現〟の形をとって示されるのみです。が、その限られた形体においてすら、はや、その美しさは言語に絶する。

それを思えば、キリストの霊を身近に拝する天使の目に映じるその美しさ、その栄光はいかばかりであることであろう。

──では、あなたもそのキリストの姿を拝されたことがあるわけですね。

顕現としては拝しております。究極の実在としてのキリストの霊はまだ拝したことはありませんが・・・・。

── 一度でなく何度もですか。

いかにも。幾つかの界にて拝している。権限の形においては地上界までも至り、その姿をお見せになることは決して珍しいことではない。ただし、それを拝することの出来る者は幼な子のごとき心の持主と、苦悶の中にキリストの救いを痛切に求める者にかぎられます。

──あなたがキリストを拝された時の様子を一つだけお話願えませんか。

では、先日お話した〝選別〟の行われる界で、ちょっとした騒ぎが生じた時のお話をお聞かせしましょう。その時はことのほか大勢の他界者がいて大忙しの状態となり、少しばかり混乱も起きていた。

自分の落着くべき場所が定まらずにいる者をどう扱うかで担当者は頭を痛めていた。群集の中の善と悪の要素が衝突して騒ぎが持ち上がっていたのです。

というのも、彼らは自分の扱われ方が不当であると勝手に不満を抱きイラ立ちを覚えていたのです。こうしたことはそう滅多に起きるものではありません。が、私自身は一度ならずあったことを知っております。

誤解しないでいただきたいのは、そこへ連れて来られる人たちは決して邪悪な人間ではないことです。みな信心深い人間であり、あからさまに不平を口にしたわけではありません。心の奥では自分たちが決して悪いようにはされないことを信じている。

ただ表面では不安が過(よぎ)る。その明と暗とが複雑に絡んで正しい理解を妨げていたのです。

口先でこそ文句は言わないが、心では自分の置かれた境遇を悲しみ、正しい自己認識への勇気を失い始める。よく銘記されたい。自分を正しく認識することは、地上でそれを疎かにしていた者にとっては大変な苦痛なのです。

地上よりもこちらへ来てからの方がなお辛いことのようです。が、この問題はここではこれ以上深い入りしないことにします。

さきの話に戻りますが、そこへその界の領主を勤めておられる天使が館より姿を見せられ、群集へ向けて全員こちらへ集まるようにと声を掛けられた。

みな浮かぬ表情で集まって来た。多くの者がうつ向いたまま、その天使の美しい容姿に目を向ける気さえ起きなかった。柱廊玄関から出て階段の最上段に立たれた天使は静かな口調でこう語り始めた──なぜ諸君はいつまでもそのような惨めな気持ちでいるのか。

これよりお姿をお見せになる方もかつては諸君と同じ立場に置かれながらも父の愛を疑わず、首尾よくその暗雲を突き抜けて父のもとへと帰って行かれた方であるぞ、と。

首をうなだれたまま聞いていた群集が一人また一人と顔を上げて天使の威厳ある、光輝あふれる容姿に目を向け始めた。その天使は本来はずっと高い界層の方であるが、今この難しい界の統治の任を仰せつかっている。

その天使がなおも叡智に溢れた話を続けているうちに、足もとから霧状のものが発生しはじめ、それが全身を包みこみ、包まれた容姿がゆっくりとその霧と融合し、マントのようなものになった。その時はもはや天使の姿は見えなかった。が、それが凝縮して、見よ!

今度は天使に代って階段上の同じ位置に、その天使より一段と崇高な表情と一段と強烈な光輝を放つ姿をした、別の天使の姿となりはじめたではないか。

その輝きがさらに強烈となっていき、眼前にその明確な容姿を現わした時、頭部に巻かれたイバラの飾り輪の下部と胸部には、いま落ちたばかりかと思われるほどの鮮血の跡が見て取れた。が、

いやが上にも増していく輝きに何千何万と数える群集の疲れた目も次第に輝きを増し、その神々しい容姿に呆然とするのであった。

今やそのイバラの冠帯は黄金色とルビーのそれと変わり、胸部の赤き血痕は衣装を肩で止める締め金具と化し、マントの下にまとうアルバ(祭礼服の一種)は、その生地を陽光の色合いに染めた銀を溶かしたような薄地の紗織の中で、その身体からでる黄金の光に映えていた。

その容姿はとても地上の言語では説明できない。その神々しき天使は他ならぬ救世主イエス・キリストであるという以外に表現のしようがないのである。

その顔から溢れでる表情は数々の天体と宇宙の創造者の一人としての表情であり、それでありながらなお、頭髪を額の中央で左右に分けた辺りに女性的優しさを漂わせていた。冠帯は王として尊厳を表わしていたが、流れるようなその頭髪の優しさが尊大さを掻き消していた。

長いまつげにはどこかしら吾々に優しさを求める雰囲気を漂わせ、一方、その目には吾々におのずと愛と畏敬の念を起こさせるものが漂っていた。

さて、その容姿はゆっくりと大気の中へ融合していった──消えていったとは言わない──吾々の視力に映じなくなっていくのをそう感じたまでだからです。その存在感が強化されるにつれて、むしろその容姿は気化していったのです。

そしてついに吾々の視界から消えた。するとその場に前と同じ領主の姿が現われた。が、その時は直立の姿勢ではなかった。片ひざをつき、もう一方のひざに額を当て、両手を前で組んでおられた。

まだ恍惚たる霊的交信状態にあられるので、吾々はその場を失礼した。その時はじめて吾々の足取りが軽く心が高揚されているのに気づいた。もはや憂うつさは消え、いかなる用事にも喜んでいつでも取り掛かれる心境になっていた。

入神状態にあられる領主は何も語られなかったが、〝私は常にあなたたちと共にあるぞ〟という声が吾々の心の中に響いてくるのを感じた。吾々は満足と新たな決意を秘めて再び仕事へ向かったのでした。

第2節 イエス・キリスト
一九一七年十二月十二日、水曜日

吾々のことを想像なさる時、はるか遠くにいると思ってはなりません。すぐ近くにいます。貴殿は直接書いているのがカスリーンであるから吾々はどこか遠く離れたところから彼女へ思念を送っていると考えておられるようですが、そうではない。

霊的身体を調節しながら降下してくる難しさを克服した今、貴殿のすぐ近くに来るために思念を統一することは容易です。天界においても同じですが、地上にも霊格の格差というものがあります。

吾々にとっては、動物的次元からさほど進化していない人類に近づくことは敢えて不可能とは言わないにしても、きわめて困難なことです。一方、吾々に憧憬の念を抱いてくれている人に対しては、吾々としても精一杯努力してその人が背のびできる最高の段階で折合うようにする。

貴殿の場合もそうです。これで少しは貴殿の気休めになると思うのですが如何でしょう。

──初めの説明は私もそう理解しておりました。しかし、あとの方の説明が事実だとするとカスリーンは必要ないことになりませんか。

そのことに関しては以前に少なくとも部分的には説明したつもりですが、ここで少しばかり付け加えておきましょう。貴殿に知っておいていただきたい事実が二、三あります。

すなわち──まず霊団の大半がかなり古い時代の人間であるのに較べてカスリーンは貴殿の時代に近いことがあげられます。

そのため平常時においては吾々より貴殿の霊的状態に近く、吾々は貴殿の内的自我とは接触できても、言語能力とか指の運動能力を司る部分つまり肉体の脳への働きかけとなるとカスリーンの方が容易ということになります。

また吾々の思念を言語に転換する際にも彼女が中継してうまくやってくれます。もっとも、それはそれとして、貴殿と吾々とは完全に調和状態で接触していることは事実です。

──質問があるのですが・・・・

どうぞ──ただ一言ご注意申し上げるが、貴殿は知識が旺盛な余り先を急ぎすぎる嫌いがあります。一つ尋ねて、それが片付いてなお余裕のある時にさらに次の質問をお受けしましょう。

──どうも。キリストの地上への降下の問題についてですが、肉体に宿るべく父の住処を離れたあと地上へ至るまでの途中の界層の一つ一つで環境条件に波長を合わせていく必要があったと思われます。キリストほどの高い境涯から降りてくるには余ほどの〝時〟を閲(けみ)する必要があったと思うのですが・・・・。

吾々が教わったかぎりにおいて言えば、キリストは地球がまだ形体を持つに至る以前、すなわち非物質的存在の時から存在していた。

そして、いよいよ物質が存在し始めたとき宇宙神は、物的宇宙を今貴殿らが知るところの整然とした星座とするために、キリストをその霊力の行使の主宰霊Master Spiritとされた。

が、存在はしても、当時まだ物的宇宙に形態がなかったごとくキリストの霊みずからも形態を具えていなかった。そして宇宙が物的形態を賦与された時にまず霊的形態を具え、それから物的形態を具えるに至った。

当時の天地創造の全現象の背後にキリストの霊が控え、無限の時を閲して混沌(カオス)より整然たる宇宙(コスモス)へと発展するその道程はすべてキリストの霊を通して行われたのであった。それは混沌たる状態を超越するあの強大な存在による外部からの働きかけなくしては不可能であった。

何となれば、秩序に欠けるものから秩序を生ずるということは、新たな要素を加えずしては有り得ないからである。かくして宇宙はキリスト界とカオスとの接触の産物にほかならない。

カオスとは物質が未知の可能性を秘めた状態である。コスモスとは物質がその潜在力を発現した状態である。とは言え、その顕現されたものは〝静〟の状態を〝動〟の状態へと転じさせた、その原動的エネルギーの現象的結果に過ぎない。

動とはつまるところ潜在的意念の活動の総計である。意念はその潜在的状態から顕現へと転換する過程においては、その創造力として働く意念の性質に相応しい動の形を取る。

かくして万物の創造主はキリストの意念を通してその創造活動を悠久の時の流れの中で行使し続け、ついにコスモスを生んだのである。

さて以上の説明によって吾々が抱いている概念をいくらかでも明確にすることが出来たとすれば、キリストが物質的宇宙の創造の当初より存在していたこと、それ故に地球が徐々に物質性を帯び、形態を整え、ついには顕著な年代的特徴を刻んでいくに至るその全過程において存在し続けていたことが解るであろう。

言いかえれば地球それ自体が創造原理を宿し、それに物的表現を与えていったということである。そのことは地球そのものから鉱物と植物と動物という生命形態が生まれてきた事実によって知れる。そこで、友よ、結局いかなることになると思われるか。

ほかでもない。地球並びに物的全宇宙はキリストの身体にほかならないということです。

──地上に誕生したあのキリストですか。

父と一体なるキリスト、そして一体なるが故に父の個性の一部であったところのキリストです。ナザレ人イエスは父の思念の直接の表現体であり、地球人類救済のためのキリストとして肉体をまとったのです。

友よ、貴殿の心に動揺が見られるが、どうか思念の翼を少しばかり広げていただきたい。

太陽系の他の惑星上には人類とは異なる知的存在が生活を営んでいる。他の太陽系の惑星上にもまた別の存在が生活を営んでいる。さらに他の星雲にも神およびそのキリストとの間に人類と同じつながりを持つ存在がいて、人類と同じように霊的交わりを持つことが出来る。

が彼らの形態は人類とは異なり、思念の伝達も、人類が言語と呼んでいる方法とは異なる。それでいて創造神とそのキリストとの関係は人類の場合と同じなのです。

彼らにとってもキリストは彼らなりの形態を持って顕現する必要があったのであり、今なお必要です。が、それはナザレ人イエスと同じ人間的形態をまとって現われるのではありません。それでは彼らには奇異に思われるでしょう。否、それ以上に、意味がないでしょう。

彼らには彼らなりの形態をとり、交信方法も彼ら独自のものがあり、彼らなりの合理的プロセスを活用している。こうしたことは、地動説を虚空にかなぐり棄てながらも精神的には相も変わらずまるでミイラの如く物的観念によってぐるぐる巻きにされている者にとっては、およそ納得のいかないことでしょう。

彼らはその小さい世界観から一歩も出ることが出来ず、創造神にとって重大な意義を持つ天体がこの地球以外にも存在することが得心できないのです。

そこで吾々はこう表現しておきましょう──ガリラヤに来たキリストは宇宙的キリストの地球的顕現に過ぎない。が、真のキリストであるという点では同じである、と。

では結論を述べるとしよう。もっとも、以上述べた程度では無窮の宇宙の美事な韻律が綴った荘厳にして華麗なる物語、星雲の誕生と結婚、そしてそこから生まれた無数の恒星の物語のほんの一章節ほどにも満たないでしょう。

要するにキリストは、エネルギーが霊的原動力の活性化によって降下──物質化と呼んでもよい──していく過程の中で降下していったということです。鉱物もキリストの生命の具現です。

何となればあらゆる物質がキリストの生命から生まれているからです。バラもそうです。

ユリもそうです。あらゆる植物がキリストの生命を宿しており、一見ただの物質でありながら美しさと素晴らしさを見せるのはその生命ゆえであり、そうした植物的生命も理性へ向けて進化しているのです。

しかし植物に宿っているかぎりその生命は、たとえ最高に進化しても合目的活動の片鱗を見せるに留まるでしょう。キリスト的生命はまた地上の動物にも顕現しています。

動物も人間と同じくキリスト的生命の進化したものだからです。キリストの意念の最高の表現が人間であった。

それがやがて不可視の世界から可視の世界へと顕現した。つまり人間を創造したキリストみずからが人間となったのです。つまり人間に存在を与え存続させているキリストがその思念を物質に吹き込み、それがナザレ人イエスとなって顕現したのです。

それゆえ創造神より人類創造のための主宰権を委託されたキリストみずからが、その創造せる人間の子となったということです。

(質問に対する答えは)以上で十分であろう。さらに質問があれば、それは次の機会まで待っていただくことにしましょう。神とそのキリストは──その共同作業が人間を生んだのですが──貴殿がその親子関係と宿命を理解し、さらに他の者にも理解させんとする努力を多とされることでしょう。

第3節 究極の実在
一九一七年十二月十四日、金曜日

前回は貴殿の質問にお答えして物質界へのキリストの降下について述べました。ではこれより本題に戻って、これまでの続きを述べさせていただこうと思います。

今回の話は物的コスモスの深奥へ下って行くのではなく霊的コスモスへの上昇であり、その行き着く先は貴殿らが〝父なる住処〟と呼ぶところの境涯です。そこが現段階での人類の想像力の限界であり、存在の可能性へ向けての人類の思考力もそこから先へ進むことは不可能です。

それに、こちらへ来て見て吾々も霊というものが本質は確かに崇高この上ないとは言え、まだ存在のすべてではないということを知るに至りました。

物質界を超えたところに霊界があるごとく、人智を超えた光と、至純の中に至誠を秘めた、遠く高き界層のそのまた彼方に、霊のみの存在にあらずして、霊たるものの本質をすべて自己の中に収めてしまい、霊的存在のすべてを包含して、さらに一段と高き崇高さを秘めた宇宙を構成している実在が存在するということです。

(訳者注──モーゼスの『霊訓』によると地上を含めた試練と浄化のための境涯のあとに絶対無の超越界があるという。右の説はそれを指しているものと推察される。が、その超越界の一歩手前まで到達しているイムペレーター霊でも、その先がどうなっているかについては何も知らないという)

惑星の輝きは中心に位置する太陽の放射物のごく一部にすぎず、しかもそれ自体の惑星的特質による色彩を帯びているごとく、物的宇宙は霊の影響をごく僅かだけ受け、その特質による色彩を帯びたものを反射することによって、同じように霊的宇宙の質を向上させ豊かにする上で少しずつ貢献している。

がその太陽とて自己よりはるかに大きい、恒星の集団である星雲の中のごく小さな一単位である太陽系の一部にすぎないように、霊の世界も吾々の理解力をはるかに超えた規模と崇高性を具えたもう一つ別の存在の宇宙の一部にすぎない。

そして星雲もさらに広大な規模の集合体の一単位に過ぎない──これ以上広げることは止めにしましょう。理性と理解力を頼りとしながら道を探っている吾々には、これ以上規模を広げていくと、あまりの驚異に我を忘れてしまう恐れがあるからです。

それ故に吾々としては本来の栄光の玉座へと戻られたキリストの後に付いて、いつの日かそのお側に侍(はべ)ることを夢見て、幾百億と知れぬ同志と共に数々の栄光に満ちた天界の道を歩むことで満足しようではありませんか。

無窮の過去より無窮の未来へと時が閲するにつれてキリストの栄光もその大きさを増していきます。

何となれば天界の大軍に一人加わるごとに王国の輝きにさらに一個の光輝を添えることになるからです。吾々が聞き及んだところによれば、その光輝は、天界の最も遠く高き界層の目も眩まんばかりの高所より眺めれば、あたかも貴殿らが遠き星を見つめるごとくに一点の光として映じるという。

瀰漫する霊の海の中にあってはキリスト界の全境涯は一個の巨大な星であり、天界の高所より眺めればその外観を望むことができる。もっとも、このことは今の吾々には正しく理解することはできません。が、ささやかながらも、およそ次のようなことではあるまいかと思う。

地上から太陽系全体を一つの単位として眺めることは不可能であろう。地球はその組織の中に包まれており、そのごく一部に過ぎないからです。が、アークツルス(牛飼座の一つ)より眺めれば太陽系全体が一つの小さな光球として見えることであろう。その中に太陽も惑星も衛星も含まれているのです。

同じように。そのアークツルスと他の無数の恒星を一個の光球と見ることのできる位置もあるでしょう。かくして、キリストの王国と各境涯を一望のもとに眺めることのできる超越的境涯がはるか彼方に存在するというわけです。

そしてその全組織は、それを構成する生命が物質性を脱して霊性へと進化してゆく悠久の時の流れの中で少しずつ光輝を加えていく。

つまり私は霊的宇宙全体を一つの恒星に見立て、それを一望できる位置にある高き存在を、霊の界層を超越した未知と無限の大いなる〝無〟の中の存在と見なすのです。

その超越界と吾々第十界まで向上した者との隔たりは、貴殿ら地上の人間との隔たりとも大して差がないほど大きいものです。かりに人間から吾々までの距離を吾々と超越界との距離で割ったとすれば、その数値は計算できないほどの極小値となってしまうでしょう。

が、恒星の集団のそのまた大集団が、悠久とはいえ確実なゴールへ向けて秩序整然たる行進を続けているごとく、霊の無数の界層もその宿命へ向けて行進している。その究極においては霊の巡礼の旅路は超越界へと融合し、そこに完全の極地を見出すことでしょう。

その究極の目標へ向けてキリストはまず父の御胸より降下してその指先でそっと人類に触れられた。その神的生命が、魂の中に息づく同種の生命に衝動を与えて、人類は向上進化の宿命に目覚めた。そして至高の君主の後に付いて、他の天体の同胞に後れを取らぬように、ともに父の大軍として同じ目標へ向けて行進し続けているのです。

── 一つよく理解できないことがあります。吾らが主は幼な子の純心さについて語ってから〝神の御国はかくの如き者のものなり〟と述べています。あなたのこれまでのお話を総合すると、私たちは年を取るにつれて子供らしさの点において御国に相応しくなくなっていくという風に受け取れるように思います。

たしかに地上生活については私も同感です。が、これでは後ろ向きに進行する、一種の退行現象を意味することになるでしょう。

しかも地上生活が進化の旅の最初の段階であり、それが死後のいくつもの界層まで続けられるとすると、子供らしさを基準として進化を測るのは矛盾するように思えます。その点をどう理解したらよいでしょうか。

子供はいくつかの資質と能力とを携えてこの世に生まれてきます。ただし幼少時の期間は無活動で未発達の状態にある。存在はしていても居睡りをしているわけです。それが精神的機能と発達とともに一つ一つ開発され使用されるようになる。

そうすることによって人間はひっきりなしに活動の世界を広げ、そして、広げられた環境が次から次に新しいエネルギーを秘めた界層と接触することによって、そのエネルギーを引き寄せることができるようになる。

私のいうエネルギーは創造性と結合力と霊的浄化力とを秘め、さらには神の本性を理解させる力も有しています。

それらの高度なエネルギーをどこまで活用できるか──霊的存在としても人間の発達はそれに掛かっています。幼な子を御国の者になぞらえるのはその心が父なる神の心に反しない限りにおいてのことです。

人間の大人もその能力の開発の道程においてはそのことを銘記し幼な子の如き心を失わなければ、その限りなく広がりゆく霊的能力は壮大な神の目的に沿って、人類ならびに宇宙的大家族の一員であるところの他の天体の知的存在の進化のために使用されることになるでしょう。

が、もし年齢的ならびに才能上の成長とともに幼児的特質であるところの無心の従順さを失っていくとしたら、それは神の御心にそぐわなくなることを意味し、車輪の回転を鈍らせる摩擦にも似た軋みが生じ、次第に進化の速度が鈍り、御国の辺境の地へと離れていき、離れるにつれて旅の仲間との調和が取れにくくなる。

一方その幼児的従順さを失わず、生命の旅において他の美徳を積む者は、退行することなくますます御国の子として相応しい存在となって行く。

ナザレのイエスがまさしくその見本でした。その生涯の記録の書から明確に読み取れるように、父なる神の御子として、その心は常に御心と完全に一体となっていた。少年時代にあってもその心を占めていたのは父なる神についてのことばかりであった。

(修行時代に)自己中心的にならず世俗的欲望から遠ざけたのは父の館であった(*)。

ゲッセマネの園にあってもあくまで父の御心と一体を求めた(**)。十字架上にあっても父のお顔を振り返ろうとした。しかしそのお顔は地上時代の堕落の悪気によって完全に覆いかくされていた。が、それでもその心は神の御心から片時もそれることなく、肉体を離れるや否や神へ向けて一気に旅立って行った。

さらにイースターの日にはマグダラのマリヤに約束された如く(***)その日を神への旅路の道標としてきっと姿をお見せになる。

パトモス島の予言者ヨハネが天界の大聖堂にて主イエスと再会した時、イエスはヨハネに対してご自分が父の御心と完全に一体となっていたことを父が多とされて(ありがたく思う)、天界にても地上と同じように、霊力と共に最高の権威を委ねられたと述べた。

吾々のごとく地上にてはささやかな記録(バイブル)を通じて知り、こちらへ来てからは直々にそのお姿を拝した者が、汚れなき霊性に霊力と完成された人間性の威厳が融合し、その上に神性の尊厳を具えた童子性を主に見出して何の不思議があろう。

さよう。友よ、父の御国の童子性を理解するのは天界の高き境涯にまで至った者のみなのです。

(*モーゼスの『霊訓』によると、イエスの背後霊団は一度も肉体に宿ったことのない天使団、日本神道で言う〝自然霊〟によって構成され、イエスも自分が出世前その霊団の最高の地位(クライ)にあったことを自覚し、一人でいる時は大てい肉体から脱け出てその霊団と交わっていたという。

**ゲッセマネとはイエスがユダに裏切られ生涯で最大の苦悶に遭遇した園。父との一体を求めたというのはその時に発した次の言葉のことで、祈りの最高の在り方としてよく引用される──〝父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給え。しかし私の望みより、どうか御心のままになさらんことを〟。***マルコ16・9~11。訳者)