第3章 天界の経綸
第1節 寺院の建造
一九一七年十一月二十七日、火曜日
話題はこちらで用意してあり、いつでも述べられる態勢にあります。再び貴殿の精神をお貸しいただきたい(*)。こちらで進行中の仕事を吾々が監督する要領を知っていただくために、つい最近吾々の界で起きた出来ごとをぜひ貴殿に語って聞かせたいと思うのです。
(*前にも述べたことであるが、霊界の者から見ると人間の精神は人間自身が想像しているような無形の観念ではなく、具体的な実質があり触れると実感がある。訳者)
それは、ほかでもない、寺院風の建物の建造です。その建造の目的は強いて言えば天界のエネルギーが地上へ届き易いようにそこで調整するためである。今ゆっくりと最後の仕上げをしており、完成も間近い。
これよりまずその建物に使用する資材を説明し、続いてその用途を述べるとしよう。
資材にはさまざまな色彩と密度とがある。さりとて地上の如くレンガや石等を積み重ねるのではない。全体として一つなのである。吾々は設計図が出来上がったところで、こぞって予定された敷地へ向かった。
その敷地は第五界の低地と高地の中間に位置する台地にある。なお吾々の通信における界層の数え方はザブディエル殿に倣っていることを承知されたい。数え方は霊団によってさまざまですが、貴殿にとってはすでに親しんでいるものが良かろうということでそうすることにしました。
また、それが他の数え方と較べてなかなかうまく出来ています。他のものはあまりに複雑すぎたり、反対にあまりに大ざっぱすぎたりします。その点ザブディエル殿の数え方は言わば中庸を得ているので、ここではそれに倣(なら)うことにします。
さて敷地に到着すると吾々は、まず全員の創造エネルギーを一丸とするための精神統一を行ったのち、そのエネルギーを基礎工事へ向けた。すると、そのエネルギーが敷地からゆっくりと湧き出て来て、そのまま高く伸びて頂上にドーム形の屋根を拵えた。
そこへ大天使が姿を現わし、吾々のエネルギーを一つにまとめて一旦ご自分の霊力の中に収められ、それを少しずつ放射しつつ、穏やかに吾々の仕事に細かい手を加えられた。その間、吾々は念波の放射を手控えて見守っていた。
何ゆえ大天使までお出ましになるのか──貴殿にはそれが不思議に思われるであろう。
理由(わけ)を述べよう。一つの霊団として吾々もそれ相当の修養を積み、協調的仕事にも長いあいだ携わってきた。
しかし脆弱(ぜいじゃく)な第一段階の基礎工事の仕上げに当たっては、吾々より遥かに強烈な霊力をお持ちの大天使によって、吾々の放射したエネルギーを調節していただく必要がある。
それを怠ると形体にキズが残ったり、思わぬ不備から構造が崩れ、折角の努力が烏有(うゆう)に帰することも有りうる。そのほかにも理由はあるが、それは吾々の言語を理解してもらえない以上は説明困難です。
もっとも、次のように考えていただけば、手段はともかくとして、理由だけは多分わかっていただけるであろう。
つまり原始的に言えば誕生時の〝へその緒〟の切断、死亡時の〝たまの緒〟の切断、もしくは堰の水門の急激な閉鎖、大体そういったものに類似したものを想像していただけばよい。そうすれば地上の言語で表現できないものを、おぼろげにでも理解していただけるでしょう。
こうして第一期工事はまず外形の完成に集中する。が、あくまで外形であって、そのまま手を引けば見る間に消滅してしまう。一服したのち吾々は引き続き第二期の基礎工事に着手した。第二期は柱、門、大小の塔を強固にすることである。
最下部から始めて徐々に上方へ向けて手を加えて行き、最後にドームにまで達する。
これを幾回となく繰り返した。まだ外形のみである。が、外形としては一応完成した。残るは色彩を鮮明にすることと、細かい装飾、そしてそれが終わると最後に全体を引き締めて、幾世期にも亘る持続性を与えることである。
吾々はしばし工事に携わっては少し休み、その間にエネルギーを補充し、再び工事に着手するといった過程を幾度となく繰りかえし、その寺院風の建物に全身全霊を打ち込んだ。
美の創造に携わることほど楽しく且つ有難いものはない。吾々の建造せるその建物は大きさといい、デザインといい並はずれて雄大なものであり、同時に又、その雄姿が自分たちの力で着々と美しさを増していったのであるから尚のことであった。
こちらの世界における建築が全てこれと同じ方法で行われるとは限らない。が、いかなる方法にせよ、出来上がったものは建築家による建造物というよりは〝吾が子〟のような存在となる。すべてが建造者のエネルギーと創造力とによって作られたものだからです。
そうして出来あがった建物が、のちにその建物において仕事をする者の理想に叶って居ることも論を俟(ま)たない。
何となれば、その建物にはすでに生命がこもっている。意識的生命ではないが、一種の感性を宿しているからです。こう言えばよかろうか。つまりこちらの世界の建物とその創造者との関係は、言うなれば肉体とそれに宿る霊との関係のようなものである。
肉体と霊とは覚醒時は言うに及ばず、睡眠中でも常に連絡を保持している。それと同じく、吾々建造者はたとえ完成後に各地へ分散しても、常にその建物を意念の焦点として互いに連絡を取り合っているのです。
その生き生きとした実感と満足感は実際にこちらへ来て創造の仕事に携わってみなければ判らないであろう。もっとも、こちらへ来た者のすべてが創造の仕事に携わるとは限らないが・・・・。
さて建物としての一応の形が整い、さらにそれを強固にし終ると、あとに残された仕事は内部装飾の仕上げである。すなわち各室、ホール、聖堂等々にそれなりの装飾を施し、柱廊は柱廊らしく仕上げ、噴水には実際に水を通してその流れ具合を確かめる。
それをするのに吾々はまず外部に立って念波を送り、それから内部に入って仕上がり具合を点検する。手先はあまり使用しない。主役を務めるのは頭と心である。
そこまで終了すると、以後は吾々が実際にその建物で生活して、地上の言い方をすれば毎日のように部屋から部屋へ、ホールからホールへと足を運び、設計図に照らして少しずつ手直しをする。そして最後に全体を美しく飾って終わりとする。
こうして吾々による仕事が完了した暁に、畏れ多くも大天使が再度遥か高遠の世界から降りて来られ、細かく点検して回られた。そしてもし不備の点があれば大天使みずから手を加えられた。が、時として吾々の勉強のためを思われて、吾々に直々にお言いつけになることもある。
かくして落成の日が訪れると、その大天使がもう一人の大天使を伴って再びお出でになられた。霊格がさらに上の方である。
その権威はイスラエルで言えばアロン(*)とその弟子たちのそれにも相当しよう。ギリシャならば神官、キリスト教ならば主席司祭にも相当しよう。その時の目的は建物の〝聖化〟とでも呼ぶべきものである。(*ユダヤの最初の大司祭。モーゼの兄──訳者)
──献堂式(*)でしょうか。(*新築の教会堂を神に奉納する儀式──訳者)
それで良かろう。地球を含む低級界とを結ぶ保護のための拠点となり、同時に又、それ以後そこに住む人々が神の恩寵と霊力に与る中継の場となるのである。
地上の寺院は天界の寺院のお粗末な模倣に過ぎない。が、その目的と機能は本質的には同一である。イスラエルにおいては雲が地上界とエホバ神との中継をすると考えられた。
古代エジプトにも同じ考えがあった。ギリシャの都市国家においては寺院の霊的活力が衰えていたが、まだ少しは残っていた。イスラエルにおいては天界からの援助と高揚という特殊な側面にはまったく関心を示さないようである。
私はイスラムの霊界を訪ねてみたことはあるが、そこには顕幽の交わりが根本的に違った形で行われていることを知った。キリスト教の(霊界の)教会堂にも同じくその観念はあるが、程度の差が著しい。
キリストを祀(まつ)る幾つかの教会堂においてはキリストとその側近の大天使の顕現がもう少しで見られる段階に至っている。実際に見られるようになるのも遠い先のことではなさそうに私には思える。
そういう次第で、地上の寺院も基本理念においては同じものを持っており、遠い過去が引き継がれているのであるが、それがこちらの世界では目に見えて霊験あらたかとなり、見た目に美しくもあり、天界の高地へ向けて一界又一界と上昇して行く者への祝福に満ち満ちているのである。
──今回お建てになった寺院には特別な使用目的があるのでしょうか。
あれは第五界の各地、時にはそれより下の界から訪れる者が身を浸すエネルギーの貯蔵所としての機能を開始しかけているところです。
訪れた者は色彩の持つ霊妙な波動に浸り、堂内を流れる生命を秘めた小川と噴水に身を洗われ、すみずみまで漲(みなぎ)る霊妙な旋律に包まれて、欠乏した生命力を補い、鈍化した知力を啓発される。そこに注目されたい。単なる保養所ではありません。
もっと質の高い機能を有している。それから先の魂の向上の旅に備えて体力をつけ、入手する知識を即座に、そして効率よく理解する知性を身に付ける場でもあることは確かであるが、同時に、その聖堂を焦点として愛と生命力を注ぎ、彼ら巡礼者の向上を待ち受ける高級神霊との霊的交わりを得るところでもあるのです。
──向上する者は必ずそこを通過しなければならないのでしょうか。
そうと決まっているわけではありませんが、第五界の者は大半がそこを通過します。この界は永く滞在する者がわりに、いや、ずいぶん多いところです。各自の特性を点検し調節して円満さを身に付けなければならない、大切な界だからです。
(第二巻八章参照)その意味では卒業しにくい界であり、滞在が永びいている者が多く見出される理由はそこにある。聖堂の建立もそのためであった。その必要性が生じたのである。出来上がってまだ日も浅く、これからいろいろと機能を発揮していくことであろう。
また経験を積むにつれて細かい手直しも施されることであろう。
が、その聖堂まで来て中を覗いてみて学ぶべきものが特に見当たらず、自己の中に改めるべきものも見当たらないほどのゆとりをもってこの界を卒業して行く者もいる。
そうした優等生的霊魂はさっさと上の界へと進み、その道すがら祝福を垂れ、通過する道が一段と輝きを増すほどである。近くの者はそれを有難がり、その姿を見て勇気を鼓舞される。地上ではこうしたことは見かけぬであろう。
が第五界まで向上した者は品性卑しからず、己れより美しく且つ高き霊力を具えた者を見ることが己れ自身の美徳を高め、かくして〝全て神の子〟の真実味をいやが上にも確認することになるのである。
第2節 象徴(シンボル)の威力── 十字を切ることの意味
一九一七年十一月二十八日、水曜日
貴殿がもし吾々の存在を疑わしく思うような気分になった時は〝十字〟を切っていただくとよろしい。それだけでも吾々が守ってあげていることを認識されると同時に、貴殿と吾々との間に割って入ろうとするあの手この手の邪魔を排除することができます。
身体を張って邪魔するのではなく、思念を放射し、それがモヤのように漂って吾々の視界を遮るのです。程度から言うと吾々よりも彼らの方が貴殿の近くまで接近し、吾々の望んでいる好条件を奪ってしまうことがあるので、よくよく注意をしていただきたい。
── 十字を切るとどういう効果があるのですか。
それが象徴するところの実在の威力が発揮されます。よく考えてみると記号というものも実は大きな威力を発揮しているものです。それは記号そのものに能動的な力が潜んでいるからではなく、それが象徴しているところの存在ないしはエネルギーの潜在力のせいです。
──例えば?
例えば貴殿がいま使用しておられる文字も単なる記号に過ぎない。が、それによって綴られた文章を親しみと愛を持って読む者は、こうしたものを全く読むことなく人生を終わる者と違って、こちらへ来てからの進歩を促進する適応性を蓄えることになる。
一人の王様の名前も、その王を象徴する記号に過ぎないが、その名前を軽々しく口にする者は、その王の署名のもとに布告された命令を無視する者と同様に、秩序ある国家においては軽々しく見逃されることはない。
それによって生じる混乱と不統一が原因となって国家の運営が著しく阻害されるからです。故に、名前というものは崇敬の念をもって扱わねばならない。地上に限りません。
天界においても同じことです。たとえば大天使の名をぞんざいに呼ばわる者は、携わる仕事が何であれ、その者の立場を危うくしかねない。そういうことになっているのです。
そして最高の御名である主の御名は、貴殿らの聖典で規制されているように最高の敬意をもって扱わねばなりません。
さて、もともと〝十字架〟の記号は吾々が教わり、遠い過去より今日に至るまでに地上の人間に啓示された数多くの聖なる記号の中の一つに過ぎない。ところが今日では他のいずれにも増して威力を持つに至っている。
ほかでもない、地上の進歩のために注がれる〝生けるキリスト〟の表象(しるし)だからです。他の時代には他の──ためらわずに書かれよ──キリストの世があった如く(※)、今の世は天界の政庁から派遣された最後の、そして最高のキリストの世という意味において特殊な世なのである。
それ故、十字架を使用する者はキリストの生命を意味するおん血によって書かれた親署を使用することを意味し、たとえキリストの絶対的権威を認めずその愛を理解せぬ者も、キリストの十字架の前にはおのずと頭を垂れなければならない。
何となればそれを前にすればその威力を思い知らされ畏れおののくからである。
(※キリストの名で呼ばれる存在が他にもいたということにオーエン氏が戸惑いを見せている。イエス・キリストの真相についてはこの後三つの章で細かく説かれる。訳者)
──では、地獄にいる者でもキリストの十字架の威力が分かるということですか。
まさにその通りである。ここで少しばかりその問題に触れておきたい。というのも、地上には理解力が不足しているために、この記号にあまり崇高の念を覚えぬ者が多いからです。私はしばしば薄暗い低級界を訪れることがあるが──最近は他に用事があって訪れていないが──訪れた時はなるべく十字を切らないようにする。
何となれば、心に少なからず苦悶を抱く哀れむべき魂にとっては、十字を切ることがその苦悶の情をいっそう掻き立てることになるからです。
── 十字を切られた時の反応を実際の例で話してください。
あるとき私は、地上からの他界者の一人で、妙なことにいきなり第二界へ連れて来られた人物を探しに派遣されたことがあった。当然そこは居心地がよくなくて、やがて薄暗い下層界へと引き下ろされて行った。
なぜこのようなことになるのかは今ここで詳しい説明はしない。滅多にないことであるが、まったく有り得ないことでもないのである。
指導と案内に当たる者の認識不足によって、あちこちで同じような事態が起きていることは事実です。一生懸命になるあまり、善意が先走って判断力と洞察力を追い越すことがあるもので、少し複雑で問題の多い人物の処遇に当たって、往々にしてそういうケースが生じます。
さて私は陰鬱な境涯へ降りて身体が環境に適応しきるのを待って、いよいよ捜査を開始した。市(まち)から市へと捜し歩いたあげくに、やっとその人物の気配を感じる門の前まで来た。貴殿には私の述べることが容易に理解できないであろうけど、構わず筆を進められたい。そのうち理解できる日が来ます。
さて、中へ入ってみると、まず目についたのは広場一帯をおおう陰気な光で、そこにかなりの数の群集が集まっていた。空気はまるで鍛冶屋の如く火照(ほて)り、群集が気勢を上げると明るさを増し、意気消沈すると弱まるというふうであった。
その中央に石の台があり、そこに私の探し求めている人物が立っていた。何やら激しい口調で群集に向かって演説をぶっている。私は蔭に隠れて聞き入った。
彼は〝贖(あがな)い〟と〝贖い主〟について語っていた。が、その名が出てこない。暗に言及しているだけである。そこに注意していただきたい。二度、三度と名が出かかるのであるが、どうしても出ない。口元まで出かかると顔に苦渋の表情が浮かび、手をぐっと握りしめ、しばし沈黙し、それからまた話を進めた。
誰の名を言わんとしているのかはその場の誰一人として知らぬ者はいなかった。彼は悔い改めの必要性を長々と説いた。
そして自分が宗教心の不足から否応なしに、ほんのわずか垣間みた天国と光明界からこの苦悶と悔恨の境涯へ引きずり下ろされたことを語って聞かせた。彼はこう語った──自分はこの界へ降りて来る道すがら、この目を見開いて道をしかと確かめてきた。
だから、どこをどう行けば光明界へ行き着くかをよく知っている。が、その道は長く苦しい登り坂となっており、しかも暗い。そう述べてから、自分と共に出発する意志のある者を募り、羊の群れの如く一団となり手を取り合って進めば、例え道中は苦しくとも必ず目的地に辿り着き、ゆっくりと休息できる。
ただ道中ではぐれぬよう注意をする必要がある。道なき峡谷を通り、左右の見分けもつかぬ森林地帯を抜けて行かねばならぬ。
万一はぐれたら最期、道を見失って一人永遠にさ迷い続けることになる。いずこをさ迷っても常にそこは暗闇であり、また極悪非道の輩が待ち伏せして通りかかる者に残虐のかぎりを尽くす危険がある。だから絶対に自分が掲げる旗から目を離さぬように。
そうすれば恐れるものは何もない。なぜならその旗には道中に耐えるだけの強大な力のシンボルとなるものを用意するつもりでいるからだ、と。
以上が彼の演説の趣旨である。これに対して群集はまんざらでもない反応を示しているようであった。彼は台から降りて、しばし黙したまま立っていた。すると群集の一人がこう聞いた──「どういう旗を考えてるんだ。何の紋章を飾るつもりだ。我々が付いて行くのに分かるものでないと困るぞ」と。
するとさっきの男が再び広場の中央の石の上に立って右手を高く上げ、それを下ヘ向けて直線を描くように下そうとするが、下せない。何度も繰り返すが、その度に手がしびれるようであった。そして結局最後は──彼を知る私には見るに忍びない光景であったが──大きな溜息と苦悶の涙と共に、その手をだらりと力なくぶら下げるのだった。
が間もなく、彼はきりっと姿勢を正し、顔に決意の表情を浮かべて、もう一度試みた。
そして何とか手を垂直に下すことができた。すると、どうであろう、その手の辿ったあとに微かに光輝を放つ一本の線が描かれているではないか。そこで又力をふりしぼり、用心深く、今度はその垂直の線の真ん中よりやや上あたりに横棒を描こうとして手を上げるのであるが、またもや出来ない。
私には彼の心が読めていた。光明界への旅に彼が掲げ持つ旗の紋章として十字架を飾ることを群集に示そうとしているのである。あまりの哀れさに私は進み出て、ついに彼の側に立った。そして、まだうっすらとではあるが目に見えている直線をなぞった。
ゆっくりとなぞった。するとさっと光輝が増して広場全体と群集の顔という顔を照らし出した。次に私は横棒を画いた。それも同じように光輝を放った。私はその光輝を避けて、見えないところに身を隠した。
ところが、その直後に狂乱した声と泣き叫ぶ声が聞こえてきたので再び出てみた。十字架はやや輝きを失っていたが、群集は、ある者は地面にひれ伏し、ある者はのたうち回りながら顔を隠し、十字架のイメージを消そうと必死になっていた。
嫌っているのではない。そこの群集はすでに自分の罪に対して良心の呵責を覚える段階にまで達した者たちであった。
苦痛の原因はその良心の呵責を覚えさせるほどの〝進化〟そのものであった。悔恨の情が罪悪と忘恩の不徳に対する悲しみへと変化し、その進化そのものが悲しみの情に一層の苦痛を加えていたのである。
くだんの男はそうした群集のようにひれ伏さずに両手で顔を覆い、両ひじを膝の上に置いて跪き、他の者たちと同じく悔恨の情にからだを二つに折り曲げるようにして悶えていた。
私はやっと気がついた。私のした事は彼らにとって余りに早まった行為だったのである。慰めになると思ってやってあげたことが実は彼らの古傷に手荒らに触れる行為となっていたのである。そこで私は群集を鎮めるためにその友人に代ってあの手この手を打った。
そして何とか治まった。が私は、その時その場で、これ以後は低級界ではよくよくのことがない限り十字架のサインは使用しない決心をした。心に傷を持つ者はそれが痛みを増す結果になることを知ったからです。
──今その男のことを〝友人〟と呼ばれましたが・・・・・。
その通り。彼は私のかつての友人だったのです。二人は地上で同じ大学で哲学を教えたことがありました。彼はまっとうな生活を送り、時には奇特な行いもしないでもありませんでした。が、残念ながら敬虔な信仰心に欠けていた。もっとも今はもう順調に向上の道を歩み、善行にも励んでいますが・・・・。
さきの話に戻りますが、どうにか旗が出来上がった。しかしそれはおよそ旗と呼べるしろものではなかった。二本の木の枝、それも節だらけの曲がったものを十字に組んだものに過ぎない──この界層でもそんな樹木しか見当たらないのです。
それでも彼らには立派な十字架に見えるのだった。横棒がぐらぐらしている。彼らの一途な気持ちと彼らにとっての深刻な意味合いを考えると、あまりにグロテスク過ぎるが、彼らにとってそれは自分たちを守ってくれる霊力を意味し、又、その源でありキリストを意味する。
したがってそれはそれなりに彼らにとって最も〝聖なるしるし〟であり、よろこび勇んで、しかし沈黙と畏敬の念をもって付いて行くべき目標であった。
二本の枝の交わる部分を結わえている赤の布切れは血の流れの如くなびいていた。そして彼らはいよいよその十字架の後について長き旅に出発した。足は痛み、疲れ果てることもしばしばであろう。が、
光明が見出せることを信じて、あくまでも高地へ高地へと進み続けることであろう。
──どうも。これでお終いにしたいのですが、最後に一つだけお聞きしたいことがあります。昨夜の例の聖堂のことですが、最初にその建立の目的は地上界への援助のためとおっしゃって、あとでそれとはまったく違った使用目的を話されました。そこのところが納得できません。ご説明願えますか。
吾々の述べたことに何ら誤りはありません。ただ吾々が意図したほど明瞭には伝わっていないだけです。昨夜は貴殿は重々しい感じがしていました。今も疲れておられる。吾々の意図していた真意は次の機会に述べるとしよう。では今宵も神の祝福のあらんことを。
第3節 勇気をもって信ずる
一九一七年十一月二十九日、木曜日
約束どおり例の建物についての問題点を説明しましょう。実は問題というほどのものは何もないのです。憶えておられるでしょうが、あの建物は第五界およびそれより下の界の住民を対象としていると述べました。その中には当然地球も含まれます。
地球は外観こそ違え、本質的には貴殿らが霊界と呼んでいる世界と少しも変わらない。その建物から出た影響力は中間層を通過して、最後は地上界にも至ります。表現が明確さを欠いていたようです。別に吾々が先を急いだからではありません。
貴殿の限界のせいです。すなわち精神的ゆとりと受容力とを欠いておられた。
この二つは密接に関連しています。静けさと安らかさのゆとりをもたぬ者は、環境条件の異なる界層からやって来た吾々の思念及び出発の際に携えて地上界との境界のぎりぎりのところまで運んできている穏やかな霊力には感応しません。
その霊力は地上界に至るまでにある程度は散逸しますが、全部を失うわけではない。ぶじ持ち来ったものを、それに反応を示す者とそれを必要としている者に分け与えんとします。が、吾々とてそのうち善意とエネルギーが枯渇する。
そこで補給のために澄み切った天界へと舞い戻る。そこが全ての霊力と安らぎの源泉だからです。
ここで例の聖堂が関わってきます。それが用途の一つなのです。すなわち高き天界から送られてきた霊力と数々の恵みを蓄えておき、必要に応じて地球を包む下層界の為に使用するというわけです。
仕事が進展していけばまた新たな用途も見出され、今行われている仕事と組み合わされていくことになります。
さて、貴殿は今夜はこの仕事にかかるまで何かと用事が続き、またこのあとも貴殿を待っておられる人々がいるようなので、あまり長く引き留めることが出来ない。そこで今夜は早く切り上げようと思うので、通信はあと少しだけ──それも貴殿がまだ明確に理解していない点を指摘するだけに止めておきましょう。
吾々がこうして地上界へ下りてきても、吾々の到来を心待ちにし通信を期待している人でさえ必ずしもすんなりと交信状態に入れないことがあります。
貴殿でもそういう場合があります。例えば吾々が身近にいることをどうにか気付いてくれたことが吾々には判る。ところが交信が終わると貴殿の心に疑念が生じ、単なる自分の想念に過ぎなかったように結論し、霊的なものであったと思ってくれない。
このように吾々の側から送信しにくく貴殿の側がそれを受信しにくくさせる原因は、主として信ずる勇気の欠如にある。貴殿は自分ではその勇気なら人後に落ちないつもりでおられる。
吾々もそれをまったく認めぬわけでもありませんが、こと霊的交信の問題となると、真理探究の仕事における過ちを恐れすぎる傾向がしばしば見受けられます。
次のように言い切っても決して言い過ぎではないでしょう。つまり貴殿が何か身近に存在を感じた時は必ず何かがそこに存在する。それは貴殿にとって望ましいもの、あるいは見分けの付くものであるかも知れないし、そうでないかも知れない。
が、何であれ、そこに何かの原因があってのことであるから、冷静に通信を受け続ければ次第にその本性がはっきりしてきましょう。
貴殿は最初それを知人の誰それであると判断する。が、実際はそうではなくて全く別人であったとする。が、それは落ち着いて通信を受けていくうちに必ず判ってくるはずのものです。
ですから、誰かの存在を感じたら、余計な憶測を排除し、同時に判断の誤りについての恐怖心を拭い去っていただきたい。そして、送られて来るものを素直に受けるだけ受けた上で、その通信内容から判断を下しても決して遅くはありません。
この度はこれで終わりにしておきましょう。貴殿は他の用事で行かねばなりますまい。その仕事に限らず、日々のすべてのお仕事に神の御力のあらんことを。
第4節 美なるものは真なり
一九一七年十一月三十日、金曜日
〝美〟なるものは〝真〟である──これが天界において最も目立つ原則の一つです。逆の言い方をすれば、見た目に醜(みにく)く歪(いびつ)なものは、細かく観察すると必ずどこか真実の持つ特質に欠けていることが判ります。
吾々が〝真実〟というときは貴殿らが神または父と呼ぶところの究極の精神(こころ)と調和したものを意味する。
父より湧き出ずるものには必ず秩序があり、その子孫たる吾々の至高にして至純なる憧憬と相通ずるものがある。その特質に相応しいものは〝美〟を惜いて他にありません。
何となれば美なるものは見た目にも心地よいものだからです。愛の本質を知る者にとって、その愛を心地よく包むものは〝調和〟です。
その愛のみが上(のぼ)せうる馳走に何の食欲もそそられない者は、どこか愛に逆らうものを宿している者にかぎられます。そして、ここで銘記すべきことは、愛は神より出ずるものであると同時に神そのものでもあるということです。
そこで吾々は陸の風景にせよ海の風景にせよ、あるいは人間の顔にせよ身体にせよ、その美しさ、その均整美は神の倉庫より取り出せる美の表現であり、真なるものも神の意思と調和したもの以外は有り得ないことを理解しているので、美なるものはすべて真であり、真なるものはすべからく美を具えていなければならないと言うのです。
神の生命の流れが汚されるのはその本流に逆らう何らかのエネルギーが流入するからであり、この譬えはそのまま人類に当てはまる。
すなわち一家庭ないしは一国家内の不和はそれ自身の中にあるのではなく、その源ははるか天界において神の目的と意志に逆らうものが混入した時点にまで遡ることができる。
しかし、神の御力はあくまでも〝奇しきもの〟である。究極的には神がそうした不純な要素をも有用なるものに変え、活用を誤った神的生命力の対立的表現の一つ一つから、人間も天使も含めた全存在の向上進化のために役立つものを抽出していく。
──おっしゃることが(私の筆で)正しく表現できているかどうか私には判りませんが、いずれにしてももう少し判り易い話題、そして単純に表現できるものにしていただけないでしょうか。
では、すでに話題にした例の大聖堂について今少し述べるとしましょう。この話題なら貴殿の霊聴力と同時に霊視力も使用できるので、吾々にとっても表現しやすく、貴殿にとっても受けやすいでしょう。貴殿は今夜は吾々の期待するほどの心の平静さが見られません。
その大聖堂に大きな塔が付いている。が、その塔に吾々が解(げ)しかねる一角があった。その大塔は建物の角に立っており、正方形をしている。その四つの角の一つが他の三つと様子が異なるのだった。
が、妙なことに吾々の中の誰一人として、他の角と比較して何が欠けているとかどこがどう違っているとかが判らなかった。
四つの角を同時に見た時は、私の目には形も均整も他と全く同じに見える。ところが他の三つを見てからその角に目をやり、さらに近づいてその台座を見て回ると、明らかに調和に欠けるものを感じる。何度やっても同じものを感じるのです。
余計な話は省略して結論を急ぎましょう。結局その欠陥を見出したのは、その建築に携わった吾々のうちの誰でもなく、たまたまその第五界を通りかかった、もう一つ上の界の方で、その方があとで詳しく原因を教えて下さったのであった。
その方は暗黒の下層界で大きな対立や反乱が起き、その悪影響が境界を接したすぐ上の界へ及んでいる時に、その鎮圧に赴く霊団のお一人である。
そうした騒乱による悪影響は強烈で、上の界まで及んで進歩を阻害し、ようやく光明界へ向けて向上せんと必死に努力している霊を挫けさせ、一時的に努力を怠らせる結果となる。もっとも、よほどの騒乱でないかぎり完全に絶望的なものには至らない。
その方はそうした騒乱が発生した時に霊団の一人として暗黒界へ降りてその鎮圧に当たり、せっかく光明に目覚めて向上しかけた霊が足を引っぱられぬように配慮する仕事に携わっておられる。
吾々を困惑させていた塔の異常の原因をすぐに突き止めることができたのも、そうした烈しい仕事に永く携わってこられたからである。その方はまず四つの壁を入念に点検されてから、その建物を離れて遠くの丘に上がり、そこからしばらく塔を見つめておられた。
やがて戻って来られ、吾々を平地に呼び集めて、およそ次のような言葉で欠陥を説明してくださった。
「皆さんがこの聖堂の建築に携わっておられた時、この塔の部分だけを残してまず他のホールの仕上げを急がれた。それが終わってから持てるエネルギーの全てをこの塔を強固にする作業に集中された。そのとき仕事に夢中になって一つだけ見落されたことがあります。
四つの側面の手入れに同じ頭数(あたまかず)で当たるべきだったことです。その上、高く聳えた塔の上の部分に遠くからの光が当たった時に下の部分で働いていた人たちの意思がその方へ奪われ、その時そこを流れていた霊力に十分に曝(さら)されなかった。
ちょうどその時です。たまたま私たちの一団が暗黒界での仕事からの帰りにここを通りかかりました。私たちは悪戦苦闘したあとで、すっかり体力を消耗していましたので、そこを流れていた霊力を吸収してしまったのです。
そのとき四つの側面に同じ人数が携わっていれば良かったのですが、私たちもそうとは知らずに、その数の少ない問題の部分から吸収してしまったということです。
ですから問題の角は形と均整がいびつなのではなくて、素材のキメが粗いのです。この私の話を念頭に置かれてもう一度よくご覧になれば、他の三つの角に較べてその角だけが色調が暗いことに気づかされるでしょう。
それは今も言ったとおり私たちによって生命力を奪われ光沢を失ったからで、形態は他と少しも変わらないのに、見た感じが見劣りがするわけです」
そのあと吾々もその通りであることを確認し、その修復を行ったが、それは簡単に済みました。最初に建築に携わった同じメンバーを集めて仕事に取り掛かりました。
全員から湧き出る意念の流れをその問題の箇所に向けて放射すると、次第に色調が明るさを増して他の部分と同じ光輝を放つようになりました。そして完全に同じとなった段階で意念の放射を止めました。仕上がりは上々で、完璧な調和を見せておりました。
これでお判りの通り、そもそもの原因はまだ建築が完全に仕上がっていない段階で暗黒界でエネルギーを使い果たした一団がそうとは知らずに近くを通りかかったことにあった。悪というものは本質的には侵略的なものではなく消極的なものです。
善性の欠如にすぎません。善なるものには力があります。暗黒界での仕事でエネルギーを使い果たした一団が吸い取った力も善なる天使の力です。
吾々の側を通りかかった時に無意識のうちに生命力を再摂取したのも、元はといえば暗黒界の悪影響に原因があり、それが不調和を生んだ。それは美の欠如を意味する。かくして吾々は廻りめぐって〝美なるものは真である〟という最初の言葉に戻って来た。
では失礼します。祝福を。
第5節 宇宙の全てが知れる仕組み
一九一七年十二月三日、月曜日
こうして地上へ降りてくる時、吾々は道中でこんなことを語り合ったりします──これから向かう国は霧と黄昏(たそがれ)の世界だ。その奥地に入り込んだら吾々自身の光と熱をかなり放出することになるかもしれない、と。
高き界層にいる時からそれが判ります。貴殿はそれにはいかなる化学、もしくは理法が働いているのかと不思議に思うでしょうが、その詳しい原理は到底地上の言語では説明できません。
が、もし貴殿に興味がおありならば、これを後で読まれる方々のためにも、その概略だけでも何とか説明してみましょう。
──どうも。ぜひ説明していただきたいです。
では、できるだけ簡略に説明してみます。そもそもこうした霊的交信の必要性の中でも第一に大切なものは貴殿にはもう容易に知れるでしょう。地上の人間と天界の吾々とを一つの海、同じ大海の中に浸(ひた)らせる普遍的原理としての効用です。
私が言っているのは霊的生命、霊力、霊的エネルギーのことです。霊的生命は貴殿に取っても吾々にとっても、そして少なくとも吾々の推理と想像の翼の及ぶかぎりにおいて、吾々よりさらに上層界の神霊にとっても同じものを意味します。
霊的生命こそ地上の生命現象の拠って来たる根源であることは貴殿も容易に納得してくれるであろう。この原因と結果の相関関係は界が上がるにつれて緊密の度を増して行く。
それは当然、延々と最高界までも続くという理屈になります。その最高界は完全なる調和の世界であろう。が、その完全なる世界においてこそ、吾々が洞察するかぎり、その因果律が最も顕著に働いているであろうことが予想される。
こういう次第であるから、吾々が一個の霊的エネルギーの大海という時、それは単なる空想的観念を述べているのではなく、現実に吾々自身の手によって操作できる具体的な事実について述べている。このことをまず第一に認識していただきたい。
次に認識すべきことは、地上から上層界へ向けて進むときに界と界との間に完全な断絶は無いということです。聖書には深い裂け目の話があることは承知しています。が、そこに何も無いのではない。その淵にも底がある。それも地上と次の界との間にあるのではない。遠く脇へそれた位置にあり、向上して行く道には存在しません。
各界の中間には一種の境界域があり、そこで融合し合ってひと続きになっている。従ってそこを通過する者は何の不安もない。しかし、互いに接する二つの界にはそれぞれ明確な特徴がある。そしてその境界域はどっちつかずの中間地帯というわけではなく、両界の特質が渾然と融合し合っている。
従って何も無いというところはどこにもなく、下から上へ段階的に実質的つながりが出来ているのである。以上の二つの事実を前提として推論すれば、吾々と地上の人間は潜在的に直接の交信関係があるという結論が極めて自然に出て来るであろう。
次に、ではこうした条件を吾々がどのように活用しているかを説明せねばなりますまい。
これには数多くの方法がありますが、そのうちでもよく使用されるものを三つだけ紹介しておきましょう。この家(*)には窓が数多くあっても、よく使用する窓は幾つかに限られているのと同じです。(*オーエン氏の自宅──訳者)
第一の方法は、地上に関する情報や報告が地上と接した界層の者によって、ひっきりなしに上層界へ送られ、その情報処理に最も適した界まで来る。
これが極めて迅速に行われる。が、その素早い動きの中にあっても、通過する界ごとによってふるいにかけられ、目ざす界に届けられた時はエキスだけとなっている。
地上の人間の願望も祈りも同じようにふるいにかけられた上で高級界へ届けられる。そうしないと地上特有のアクのためにその奥にある崇高な要素が、届けられるべき界層まで届かないのである。この方法についてはこれ位にしておきます。まったくの概略であるが、先を急がねばならないので已むを得ません。
次は〝直接法〟とでも呼ぶべきものです。地上には特殊な使命を帯びて高級界からの直接の指導を受けている者がいます。中には非常に高級な光り輝く天使もいて、地上よりはるかに掛け離れた界層に所属している。そういう霊になると直接地上界まで降りて来られないことがある。
というのは、霊格は高級であっても必ずしも万能というわけではない。地上界まで降りるためには途中の界層の一つ一つにおいて、それぞれの環境条件に順応させる必要があり、それには莫大なエネルギーがいる。
安全が十分に保障されている時は敢えてそれを行うことがあるし、それも決して珍しいことでもありませんが、無駄な浪費は避けたい。霊的エネルギーがいくら無限だといっても無益なことには使いたくない。そういう時には原則としてこの直接法を使用するわけです。
そのためには、地上的な言い方をすれば電話または電信に似た装置を架設する。振動または波動による一本の線で地上界とつなぐのです。その敷設には指導に当たる霊と指導される人間の生命力の融合したものが使用される。
〝敷設〟だの〝生命力〟だのと、あまり感心しない用語を使っていますが、貴殿の脳の中に他に良い言葉が見当たらないので、已むを得ません。ともかく、こうした方法によって交感度の高い通信が維持されるのです。
(守護霊と人間との関係が原則的にこれに当てはまる──訳者)
これは言ってみれば脳と身体との関係を結ぶ神経組織のようなものです。意識しない時でも常に連絡が取られており、必要に応じて機能する。地上の人間の思念や願望が発せられると瞬間的に届けられて、最も適切な処置が為される。
以上の二つの方法によりさらに入り組んだ三つ目の方法があります。〝普遍的方法〟とでも言えるかもしれません。どうもしっくりしませんが、已むをえません。
第一の方法では地上から上層界へと流れる思念が各界で必要な処置を施される。それはちょうど大陸を横断して郵便馬車が配達していくようなもので、途中で馬を交代させたり休憩したりしないだけと思っていただければよろしい。
第二の方法では通信網はいつでも使えるように入力されている。電話にいつも電気が通っているようなものです。それが地上の人間と指導霊とを直接結びつけています。
この第三の方法では過程(プロセス)がそれとは全く異なる。地上界の人間のあらゆる思念、あらゆる行為が、天界へ向けて放送され録音され記録されている。能力を有する者なら誰でもそれを読み、聞くことが出来ます。生(なま)のままであり、しかも消えてしまうことがない。が、その装置は言語では説明できません。
前の二つの方法の説明でも不便な思いをさせられたが、この方法の説明では全くお手上げです。が、せいぜい言えることは、一人ひとりの人間の一つ一つの思念が宇宙全体に知れ渡り響き渡っているというだけである。
宇宙全体に瀰漫(びまん)する流動体──何と呼ばれようと結構である(オリバー・ロッジの言うエーテル質のことであろう──訳者)──の性質は極めて鋭敏であり緻密(ちみつ)であり連続性に富んでいるので、かりに貴殿が宇宙の一方の端をそっと触れただけでも他の端まで響くであろう。
いや、その〝端〟と言う言葉がまたいけません。地上での意味で想像していただいては、こちらの事情に合わなくなります。
貴殿にその驚異を少しでも判っていただくために私が伝えようとしているのは、救世主イエスがとくに名称を用いずに次のようにただその機能(はたらき)だけを表現したものと同じである。
曰く〝汝の髪の毛一本が傷つくも、一羽のひなが巣から落ちるのも、父なる神は決してお見逃がしにはならない〟と。
(イエスがこういう譬えをよく用いたことは事実だが、この通りの文句は私が調べたかぎりでは見当たらない。オックスフォード引用句辞典にも載っていない。たぶん霊界の記録からの引用であろう。そのことは次章の最初の通信からも窺(うかが)える。訳者)