第1章 天使による地上の経綸
第1節 霊界の霊媒カスリーン
一九一七年、九月八日、土曜日

私(*)は今あなたの精神を通して述べております。感応したままを綴っていただき、評価はその内容をみて下してください。そのうち私の思念をあなたの思念と接触させることなく直接書きとめることが出来るようになるでしょう。そこでまず述べておきたいのは、こうした方法による通信を手がける人間は多くいても、最後まで続ける人が少ないことです。それは人間の思念と私たちの思念とが正面衝突して、結果的には支離滅裂なことを述べていることになりがちだからです。

ところで私が以前にもあなたの手を使って書いたことがある――それもたびたび――と聞かされたら、あなたはどう思われますか。実は数年前この自動書記であなたのご母堂とその霊団が通信を送ってきた時に、実際に綴ったのはこの私なのです。あれは、あのあとの他の霊団による通信のための準備でもありました。今夜から再び始めましょう。あっけない幕開きですが……。書いていけば互いに要領が良くなるでしょう。

《(*)ここで〝私〟と呼んでいるのはカスリーンである。第一巻並びに第二巻の通信も実はこのカスリーンが〝霊界の霊媒〟として筆記していたのであるが、未発表のものは別として少なくとも公表された通信の中では、カスリーンの個性が顔をのぞかせたことは一度もなかった。それが、本書ではこうして冒頭から出て来てみずからその経緯を述べ、このあと署名(サイン)までしている。しかし回を追うごとに背後の通信霊による支配霊が強くなっていき、八日付の通信では途中でオーエン氏が〝どうも内容が女性のお考えになることにしては不似合のように感じながら綴っているのですが、やはりカスリーンですか〟と、確かめるほどになる。そして第二章になるとリーダーと名告(なの)る男性の霊が前面に出て来る――訳者》

「神を愛する者には全てのこと相働きて益となる」(ロマ8・23)――この言葉の真実性に気づかれたことがありますか、その真意を理解する人は稀です。人間の視野がきわめて限られているからです。〝全(すべ)てのこと〟とは地上のことだけを言っているのではなく、こちらの霊の世界のことも含まれております。しかもその〝全てのこと〟が行き着く先は私どもにも見届けることが出来ません。それは高き神庁まで送り届けられ、最後は〝神の玉座〟に集められます。が、働きそのものは小規模ではありますが明確に確かめることができます。右の言葉は天使が天界と地上界の双方において任務に勤(いそ)しんでいることを指しているのであり、往々にして高き神庁の高級霊が最高神の命のもとに行う経綸が人間の考える公正と慈悲と善性の観念と衝突するように思えても、頂上に近い位置にある高級霊の視野は、神の御光のもとにあくまでも公正にして静寂であり、私たちが小規模ながら自覚しているように、その〝神の配剤の妙〟に深く通じているのです。

今日、人間は神の使徒に背を向けております。その原因はもしも神が存在するならこんなことになる筈はないと思う方向へ進んでいるかに思えるからです。しかし深き谷底にいては、濃く深く垂れこめる霧のために、いずこを見ても何一つ判然とは見えません。あなたたちの地上界へは霊的太陽の光がほとんど差し込まないのです。

このたびの(第一次)大戦も長い目で見ればいわば眠れる巨人が悪夢にうなされて吐き出す喘(あえ)ぎ程度のものに過ぎません。安眠を貪(むさぼ)る脳に見えざる光が差し込み、音なき旋律(せんりつ)がひびき、底深き谷、言わば〝判決の谷〟(ヨエル書)にいて苛立ちの喘ぎをもらすのです。これからゆっくりと目を覚まし、霧が少しずつ晴れ、(眠っている間に行われた)殺戮(さつりく)の終った朝、狂気の夜を思い起こしては驚愕(きょうがく)することでしょうが、それに劣らず、山頂より降りそそぐ温かき光に包まれたこの世の美しさにも驚き、ついに万事が愛によって経綸されていること、神はやはり〝吾らが父〟であり、たとえそのお顔は沸き立つ霧と冷たき風と谷底の胸塞(ふさ)ぐ死臭に遮(さえぎ)られてはいても、その名はやはり〝愛〟であることを知ることでしょう。

それは正にこの世の〝死〟をおおい隠す帳(とばり)であり、その死の中から生命が甦(よみがえ)るのです。その生命はただただ〝美しい〟の一言に尽きます。なぜならば、その生命の根源であり泉であるのが、ほかならぬ、〝美〟の極致である主イエス・キリストその人だからです。

ですから、神の働きは必ずしも人間が勝手に想像するとおりではないこと、その意図は取り囲む山々によって遮(さえぎ)られるものではなく、光明と喜悦(きえつ)の境涯より届けられることを知らねばなりません。私たちの進むべき道もそこにあるのです。では今夜はこれまでにします。

願わくば神が眠れる巨人をその御手にお預かりくださり、その心に幼な子の心を吹き込まれんことを。主の御国は幼な子の心のごときものだからです。そして、その安眠を貪(むさぼ)り、何も見えず何も聞えぬまま苛立つ巨人こそ、曽(かつ)て主が救いに降りられた人類そのものなのです。
(カスリーン)

第2節 憩いの里
一九一七年、十一月六日、火曜日

讃美歌に〝岸辺に生命(いのち)の木は茂れり〟という句がありますが、この言葉はよく考えると、二つの意味があるようです。もちろん植物がその養分を河(*)から摂取するという表面的な意味もありますが、こちらの世界へ来てみて私たちは、地上の営みの一つ一つがいかに霊的な意味をもっているかを理解します。つまりその表面的な現象が、人間の目に映るのと同じ程度の自然味をもって私たちに訴える霊的真理を秘めているのです。作者がその天界の事情によく通じていたかどうか、それは知りません。ですが、少なくともそれを書かせた霊には、聞く耳をもつ者に対して地上的現象以上のものを伝えんとする意図があったことは考えられます。そこで、これから私は天界の科学に私以上に通じておられる方々のご援助を得て、それを天界の事情に当てはめ、私の知識の及ぶかぎり拡大解釈してごらんに入れようと思います。

《(*)ここに言う〝岸辺〟は次の八日付けの通信に引用される〝生命の河〟と同じく、〝ヨハネ黙示録〟に画かれている霊界の河のことである――訳者》

もっとも、今の私の念頭にあるのは河というよりは、地上なら内海(うちうみ)とでも呼ぶべき大きな湖で、この第六界を大きく二つに分ける独立した境界域を形成しております。岸辺はとても変化に富み、岩だらけで切り立った崖(がけ)となっているところもありますが、なだらかな芝生と庭園の赴(おもむ)きをもったところもあります。また私の目には一本一本の樹木よりも、ぎっしりと繁った森が青味がかった黄金色に輝く湖を帯状に取り巻いているのが見えます。それはさらに丘を越え高原をおおい、一方、切り立った崖を親縁で縁(ふち)どっています。

その岸辺の近くに、とくに繁った木立ちに囲まれて、大きな施設(ホーム)が建っております。そこは湖を渡ってくる人々のための〝憩いの場〟です。ある者は陸と海を越えての長距離の旅で疲れきっております。第五界からようやくこの界へたどり着いた新参がいます。この新らしい国をさらに奥深く入るために身体をこの界の条件に順応させる必要があるので、ここで一服するのです。また、使命を帯びて下層界へ、時には今の私のように地上界まで降りてきた人もいます。その帰途、必ずとも言えませんが、しばしこの土地に立寄って、これよりそれぞれの界の領主あるいは霊団の指揮者に成果を報告しに行くために、体力を回復させるのです。中には再び下層界へ赴(おもむ)くために一たんここに戻って元気を回復し、急を要するので内陸を通らずにその通って下り、末完のまま残されている仕事の完遂に奮闘する人もいます。

それから時おり――これは決して珍しいことではないのですが――上層界の高級霊が地上ないしはその途中のどこかの界へ訪れる時、あるいはその帰途にここにお立寄りになり、しばし滞在なさってその光輝あふれる霊性で招待者を喜ばせることがあります。まさしくここは憩いの里――この里に入った時の安らぎは入ってみた者でないと分りません。援助を必要とする者のために危険を伴う高き使命に奮闘したあとのこの里での憩いは、私たちの最大の愉しみの一つなのです。湖の岸辺のいかにも相応(ふさわ)しい位置に、こんもりとした木立ちに囲まれて佇(たたず)む住処――そこは薄暗い天界の低地に蒔かれた善意の種子が実を結び、それを領主にご報告申し上げる処(ところ)なのです。愛の旗印のもと、激しくかつ鋭い痛激のやり取りの中に勝ち取った数々の戦勝記念品もまたここに持ち帰り、英気を養い心を癒す縁(よすが)とされます。かつて主イエスが勇気をもって闘いそして勝ち得た、生きた戦利品と同じなのです。

そろそろお疲れのようです。こうして書いていくうちに無理なくラクにあなたの腕が使えるようになるでしょう。私からの愛と感謝の気持をお受けください。ではお寝み。

第3節 生命(いのち)の河
一九一七年、十一月八日、木曜日

ではその〝憩いの里〟を後にして内陸への旅をしてみましょう。その道中にもいろいろと学ぶことがあることでしょう。あなたも私もともに巡礼者であることを忘れてはなりません。同じ光明へ向けて同じ道を歩んでいるのであり、この界と次の第七界との境界にある高い山脈を越えて、さらにさらに向上の道に励まなくてはならないのです。

私たちはその里の敷地と庭園を後にして、広々とした田園地帯に続く長い並木道を行きます。行きながら気づいたことは、その道は一直線に走っているのではなく、そこを通って海に注ぐ小川のある谷に沿っているのです。では、先に進む前に、ここでその小川の水のもつ性質を幾つか説明しておきましょう。

〝生命(いのち)の水〟のお話をお読みになったことがあると思いますが、これは比喩(ひゆ)ではなく文字どおり生命の水なのです。と言うのは、こちらの世界の水には地上の水にはない成分が含まれていて、それぞれの水が他に見られない独特の成分を含んでいるのです。川にせよ泉にせよ湖にせよ、水は高級霊によって管理されており、精気と啓発の徳が賦与(ふよ)されているのです。その水を浴びることによって高級霊の賦与した生命波動から精気を吸収し啓発されていくのです。私が知っている噴水池が高い塔の屋上に設けてありますが、装置を作動させると深遠な雰囲気のハーモニーをもつ一連の和音を響かせます。(第一巻一三五頁参照)これはその土地で何かの催しがある時に近隣の人々を召集するための合図が鐘の代りに使われております。しかもその噴水のしぶきはかなりの広い範囲にわたって飛び散り、さまざまな色彩の光の花びらとなって、その一帯の家や庭園に落ちていきます。その花びらにはこれから催される集会のおよその性格と目的の主旨を伝えるものが含まれており、それを浴びる人の全身に心地よき温(ぬく)もりを漲(みなぎ)らせ、ぜひ出席したいと思わせるところの同志愛と連帯意識を自覚させるものも含まれているのです。その地域一帯に集会の時と場所を知らせることも兼ね、同時に、しばしば高き界から講演のため、あるいはその界の領域の名代としてある仕事を執行するために訪れる天使についての情報を知らせることもあります。

いま私どもが歩いているすぐ側を流れている川の主成分は〝安らぎ〟です。この川の側を通る人は、地上の人には遠く理解の及ばない方法でその安らぎの成分を吸収するのです。川面(かわも)の色彩、色合い、流れのざわめき、両岸に繁る植物、岩石や土手の形や雰囲気、等々がみな安らぎを与えるように構成されているのです。また地球に近い下層界での仕事を終えて例の湖を渡って帰ってくる霊の中にも、その安らぎを必要とする者が大勢おります。私たちは時として大変な奮闘努力を余儀なくされることがあるのであり、地上の人がよく想像するように、のんびりと単調な生活を送っているのではないのです。そこで時としてしばし肩の荷を下ろして憩い、待ちうける次の仕事に備えて、使命成就に必須の安らかにして強力なる霊的静寂を取り戻す必要があるのです。

さらに、ここでは全ての存在が浸(し)み入るような個性をもっていることを理解していただかねばなりません。一つ一つの森、一つ一つの木立、一本一本の樹木、そのほか湖も小川も草原も花も家も、ことごとく浸み入るような個性をもっているのです。それ自体は人格的存在ではないのですが、その存在、その属性、その成分は自然霊の個性であり、またその人の感受性の度合いによって摂取量も違ってくるわけです。たとえば樹木に対してとくに感受性の強い人もいれば、小川に対して強い反応を示す人もいるといった具合です。しかし、やはり建物に対しては誰もが反応を示すようです。中に入った時がとくにそうです。それというのも、自然霊というのは人間と少しかけ離れた存在ですが、建物の建造に当たる霊は人間と同じ系列の高級霊であるという点で、質、程度ともに自然霊ほど遠くかけ離れた存在ではないからです。

実はそうしたこちらの世界で当たり前のことが、程度こそ違いますが地上界の普通一般の人にも起きているのです。人類は現段階ではまだ物質にとっぷりと浸(ひた)っていますから、その結果として感覚が鈍いというだけです。明瞭性の程度が劣るというだけで、真実性の程度は決して劣らないのです。

さっきからあなたの精神の中に質問が形成されつつありますが、何でしょうか。おっしゃってみて下さい。お答えしますから。

――「実は内容が女性のお考えになることにしては不似合な感じがしております。お聞きしますが、私の手を使いたいとおっしゃったのはカスリーンですが、今書いているのもそうですか」

そうです、私です。ですが、私一人のおしゃべりでは満足なさるわけがないでしょう。まさか私が一人で無駄話でもするつもりだとは想像なさらなかったはずですが、いかがですか。とにかく私としては、そんなみじめな想像をされないためにも、私があなたを使うのとほぼ同じように私を使う方を何人か用意しました。男性ばかりではありません。女性の方も何人かおられます。全体が一つの声、一つのメッセージとなるように一体となって作業しており(*)、したがって私が綴る言葉はさまざまな知性がブレンドしたものなのです。このところあなたの抵抗感(**)が少し和らいでいますので、まずまずうまく行っております。どうかこの状態を維持してください。私たちもこちらなりに最善を尽くしますから。

ではお寝み。こうして書いていくことによってますます進歩が得られますように。

《(*)二章の1で具体的な説明がある。(**)オーエン氏はこの段階でもまだ時おり疑念を抱くことがあった。次の十日付の通信末尾でもそれが表面化している――訳者》

第4節 生命の気流
一九一七年、十一月十日、土曜日

〝天界からお声が掛かる〟――あなたと私がまさにそれです。私があなたに呼びかけると私は上層界の方から呼びかけられ、その方たちはさらに上層界の神霊からお声が掛かり、かくして最後は、かの遠き昔、父なる神より呼ばれて薄暗き地上へと派遣された主イエスにまでたどり着きます。私たちが絶大なる確信を抱くことができる根拠は実に、霊力乏しき低地の者へその強力な霊力をお授(さず)けくださる崇高なる神霊から〝お声が掛かる〟という事実にあります。

〝下界へ参れ〟との命を受けるということは、これはもうただ事ではないのです。下界へ向けて歩を進めるにつれて環境も私たちの身体も次第に光輝を失っていき、いよいよ地上界へたどり着いた時には、あたりを見極めることが容易でないほどの状態となっています。

が、それも初めのうちだけです。次第に目が地上の波長に慣れてきて、やがて見えるようになります。これを繰り返すことによって、ますます容易になります。もっとも、そのこと自体は少しも有難いことではありません。有難いのは、そうなることによって地上で仕事が出来るということです。と言うのは、私たちの目に映る地上の光景はおよそ楽しいものではなく、一時もはやく自分の界層(くに)へ帰りたい気持ちに駆(か)られます。その意味でも前回お話した水辺の景色や施設が有難く望ましいものであるばかりでなく、私たちの仕事にとって絶対に不可欠のものなのです。これに関して、もう一つお話しなければならない機能があります。それは、その〝憩の里〟には上層界から送られてきた生命力が蓄(たくわ)えられていて、それが気流となってその里一帯を流れており、必要な者に存分に与えられるということです。私たちがいざ地上へ向う時は途中でこの里に立ち寄り、その気流れに身を浸(ひた)して体力と活力を摂取します。地上に近づいた時に必ずしもその効力を実感しませんが、実際には澎湃(ほうはい)として身辺を洗い、身体に浸み込んでいます。そして、ちょうど海中に潜(もぐ)っているダイバーが海上から送られる空気で生命を維持するように、私たちを支(ささ)えています。自由で広大な海上からの光が届かぬ海底は薄暗く、水という鈍重な要素のために働きが重々しくなりますが、私たちもこうして地上に降りている間はまったく同じ条件下にあります。ですから、聞いてもらいたいことがうまく述べられなかったり、用語を間違えたり、通信内容に不自然なところがあっても、どうかそれは大目に見ていただき、(オーエン氏の場合は)決して邪霊に騙(だま)されているかに思わないでいただきたいのです。潜水服に身を固められたダイバーが水中で別のダイバーに話しかけている図でも想像してみてください。私たちベールのこちら側にいる者にとって、それがいかに根気とたゆまぬ努力を要することであるか、まして人間の言い分に耳を傾けること根気のいるものであることが、これで理解していただけるでしょう。

ですが同時に、この地上で仕事を終え、くるりと向きを変えて天界へ上昇して行くと、そうした不自由を味わっただけ、それだけ遠き〝憩の里〟から流れてくる生命の気流をいち早く感じることにもなります。

生命力の波動が再び身辺を洗います。疲れた頬(ほほ)に心地よく当たります。くすんでいた飾りの宝石も次第に本来の輝きを取り戻します。

衣服は一段と明るい色調に輝き、髪は光沢を増し、目から疲れと暗さが消え、そして何よりも有難いのは、私たちの耳に神のお召しのメロディが聞えはじめ、次第に明瞭さを増していくことです。それは神の蔵に蓄えるべき如何なる収穫を得たかをお確かめになるために、私たちを〝収穫の祝宴〟に招いてくださっているのです。

さて、これ以上お引き留めするのはやめましょう。あなたは一刻の遅れも許されない大切な仕事が進行中であることは私にもよく分かっております。

あと一つだけ添えましょう。それは、こうしてあなたに呼びかける私たちとあなたとの間に再び懐疑の念が頭をもたげていることです。ですが、このたびの通信があなたご自身から出たものでないことは確かでしょう。

――「どうすればそれが私に納得できますか」

忍耐あるのみです。それが進歩を確かなものとし、確信を深めるのです。おやすみなさい。安らぎのあらんことを。

カスリーン並びに他の通信霊より慎んで申し上げます。

第5節 天界の音楽と地上の音楽
一九一七年、十一月十二日、月曜日

――「オルガン奏者がこれから演奏をはじめますが、邪魔にならないでしょうね」

邪魔にならないどころか、逆にはかどります。好い機会ですので、今夜は天界の音楽について少しばかりお話しておきましょう。そうなのです。私たちにも地上のあなた方と同じような音楽があるのです。

しかし――この〝しかし〟はとくにアクセントを強くして申し上げておきます――実は地上の音楽は天界にある音楽の〝貯蔵所〟から“こぼれ落ちた”程度のものに過ぎません。壮麗な輝きをもつ天界の調べは地上界へも届いているのです。ですが地上を取り巻く厚いベールを通過する際にどんどんその輝きを失っていきます。地上で名曲とされているのもその程度のものに過ぎないのです。

ではこれから私が、そうした天上の音楽がどういう具合に地上へ届けられるかを説明します。どうか思い切り想像の翼を広げて聞いてください。いくら想像を逞(たくま)しくしてもなお及ばないでしょう。

目にも見えず耳にも聞えず(*)――天界の音楽のあの崇高な躍動、盛り上がりと下降、そして魂の奥底までひびく力強さは、とうてい人間の肉耳(にくじ)には感応しないのです。

《(*)これはシェークスピアの〝真夏の夜の夢〟の一節であるが、天界に人間には聞こえない壮大な妙音が流れているという思想は紀元前からピタゴラスなどが説いていた。――訳者》

それどころではありません。受信と通訳の二つの機能を併せもつ脳を備えた物的身体に宿っているかぎり、天界の調べのあの得(え)も言われぬ美しさのイメージは、とても人間には想像できないでしょう。まして生み出すことなど全く不可能でしょう。

その天界の最高界から最初に流れた旋律がいかなるものであったかは、この低地にいる私たちには測り知ることはできません。それはあなた方地上の人間に私たちの界の音楽が想像できないのと同じです。

ただ、このことだけは断言できます。これしか判らないと言ってもいいでしょう。(そう思うという程度のことです。いずれにせよ私たちの間では常識とされていることですが)それは〝神の御胸〟こそ音楽におけるハーモニーの源であるということです。神の偉大なる〝心臓部〟です。そこから神のメロディの愛の調べが流れ出て、最も感応しやすい界層がそれを受け、他のもろもろの要素と合体して〝美〟の根源たる神にいやが上にも近づいていきます。かくて永遠の時の経過の中で遥か高き上層界の神霊が荘厳さと崇高さを帯び、神的属性を身につけ行きつつあるのです。

しかしこの問題は次元が高すぎて、私ごとき者にはとてもうまく叙述できません。このたびの目的は数少ない言葉を精いっぱい駆使して、その流れが私たちの界まで下降してきたあと地上まで送り届けられる過程を私たちに知り得た範囲で叙述することです。私たちの界を通過した旋律はその音色を構成する微粒子の一つひとつが膨張して互いに押し合い、密度を失い、かくて漸(ようや)く地上との境界にたどり着いた時は基調(テクチャー)のキメが非常に粗(あら)いものとなっていて、地上的感覚にしか感応しなくなっております。

具体的に言えば、第六界まで流れて来たものが一つの受け入れ容器を見つけます。二つ又はそれ以上のこともあります。それが貯蔵庫となり、それを利用してさまざまな節や旋律が構成され、小さくはあっても強烈な作品が再び地上へ向けて下降を開始します。が下降しはじめた瞬間からさきに述べたような膨張が始まります。ですから、あなた方が受け取った時はそれはすでに純粋なエキスではなくなっており、言わば原液が薄められた状態となっております。これを譬(たと)えてみれば壁に開けられた小さな穴から真暗な部屋に差し込んだ光のようなもので、小さくても差し込んだ時は強烈だったものが、突き当たりの壁に届いた時は性質がはるかに弱まっており、さらに雑音も加わっていて、それは瞬間から飛び込んだ時の輝きを失わせることにしかなりません。

もっとも、そうして地上に届く音楽でも魂を高揚させる素晴らしいものがあることは事実です。となると私たちの界の音楽がいかに素晴らしいものであるかは、思い半ばに過ぎるものがあるでしょう。私たちは痛いほどに魂を鼓舞する旋律に心を奪われてしまいます。それを聞いた一人ひとりがみずから霊的エネルギーの集積体となり、さらにそれを各自の個性によって解釈し形体を賦与(ふよ)して、自分より低い界層の者へ送ります。その際、その音楽に秘められた精細さと効力の度合がその道の専門家によって適当に下げられます。高き天界の大音楽家より発せられた旋律を捉(とら)え幾らかでも留めることができる地上の程度の高い音楽家の理解力に合わせて、あまり精細すぎないようにとの配慮からそうするのです。

出来ればもっと話を進めたいのですが、そろそろあなたの受信度が悪くなってきました。そこであと一言だけ簡単に述べておきます。何事も同じですが、この問題においても父なる神より末端の人間に至るまでの整然たる段階を通じて、次の原則が支配しているのです。すなわち〝父が自らの中に生命を宿すごとく父はその子イエスに生命を与え給うた〟ということです。単に生命のみではありません。生命現象のすべてを含めての話です。その一つが音楽であるわけです。

そのイエス様が父の貯蔵庫から受ける生命を大天使に分け与えるごとくに、大天使もまたその能力に応じて小天使へと授けていく――両親が子に生命を授けるように単に生命のみを与えるのではなく、愛と美と高尚な思想と天界のメロディをもあわせて授けられます。

では、私を通じてメッセージを届けている霊団の者になり代って、カスリーンが愛の祝福を申し上げます。

第6節 過ぎし昔も来る世々も
一九一七年、十一月十三日、火曜日

以上、父なる神の愛の流れ、天界の水とその効用、そして音楽について述べました。そこで今夜は最高界で定められた厳令を下層界へ向けて行使することを責務とする神霊によって目論(もくろ)まれた、ある特殊な目的のためのエネルギーの調整について少しばかり言及(げんきゅう)してみたいと思います。こう言えば、地上という最前線にて生活する貴殿(*)には、地上に割当てられる責務が遥か天界の上層部の神霊によって、その程度と目的を考慮して定められていることがお判りであろう。役割分担によるそうした計画が下層界へ向けて末は地上に至るまで伝達されます。

《(*)そろそろリーダーと名告る高級霊、実は第一巻でアーノルの名で紹介された霊が強く表に出はじめ、文体が古めかしさを帯び始める――訳者》

とは言え、遠き未来まで見通すこと、あるいは垣間(かいま)見ることを許される者は極めて少数に限られます。イエスがかつて述べた如く、〝今日一日にて足れり〟(*)が原則なのであり、人間の信頼心が堅固にして冷静でありさえすれば、確かにそれで足りよう。未来が絶対に知り得ないものだからではない。知り得るのであるが、人生の大目的を知り得るのは余ほど高度の能力と地位(くらい)の者に限られているからに過ぎない。吾々の能力もわずかに先のことを知りうる程度のものであり、平均的人間の能力に至っては一寸先(いっすんさき)も見えないであろう。さきほど述べた神の大計画も、数多くの界層を通過して来るからには当然、各界の色合いを加味され、いよいよ地上に至った時は余りの複雑さのために究極の目的が曖昧模糊として見分け難く、吾々のように地上に関わってある程度のコツを身につけた者にとっても、往々にして困難なことがある。そこに実は信仰の目的と効用があります。すなわち自分の義務は自覚できても、それ以上のことは判らない。そこで計画を立てた高級界の神霊にはその目的が漠然と見えているに相違ないとの確信のもとに勇気をもって邁進するのです。その計画遂行の手となり足となるべき者が信念に燃え精励を厭(いと)わなければ、成就は覚束(おぼつか)ないことになる。なぜなら全ての人間に選択の自由があり、その問題に関するかぎりいかなる者も意志を牛耳られることはないからです。信頼心をもって忠実に突き進んでくれれば目的成就は固い。が、たとえ計画からそれたコースを選択しても、吾々はそれを強制的に防止することはしない。教育的指導はするが、それも穏やかに行う。そしてもしそれが無視されるに至った時は、もはや好きにやらせるほかはない。一人ぽっちになってしまうという意味ではありません。すぐに別の種類の霊的仲間が付くでしょ。数に事欠くことはありません。(*マタイ6・34。〝この故に明日のことを思い煩(わずら)うな。明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。〟)

具体的に説明してみよう。たとえば科学に関する書物が必要になったとします。するとまず〝科学〟を基調とする界層の霊団が内容の概略を考える。それが〝愛〟を基調とする界層へ届けられます。そこで和(やわ)らかい円味(まるみ)を吹き込まれ、こんどは〝美〟を基調とする界層へ送られます。すると調和と生彩を出すための解説が施され、それがさらに地上人類の特質を研究している霊団へ送られます。その霊団は内容を分析検討して、それを地上へ届けるのに最も相応(ふさわ)しい(霊界の)民族を選択します。選択すると、最終的に託すべき界層を慎重に選ぶ。と言うのは、仕上げとして歴史的事例を付加する必要があるかも知れないし、詩的風味を注入した方がよいかも知れないし、もしかしたらロマンス精神を吹き込む必要があるかも知れません。かくして、ただの科学的事実として出発したものが、地上にたどり着いた時は科学的論文となっていたり、歴史的梗概(こうがい)となっていたり、小論文となっていたり、はては詩とか讃美歌となっていたりするわけです。

ちなみに貴殿が親しんでいる讃美歌を右の言説に照らして見直しされると、吾々の言わんとするところが僅(わず)かでも判っていただけるでしょう。例えば〝神の御胸はいとも奇(くす)し〟(二八番)は宇宙哲学あるいは宇宙科学の解説的論文として書き変えることが出来る。また〝誰(た)れにも読める書(ふみ)あり〟(**)、〝過ぎにし昔も来る世にも〟(八八番)などは神の摂理の歴史的研究の根幹(こんかん)を成すものであり、その研究を基調とする界層において、多分、最初の創作の段階でそうした詩文に盛り込まれたものに相違ない。貴殿もすぐに理解がいくことと思いますが、そうした計画は一つの界層において全てが仕上げられるのではなく、数多くの界層を経過するのであり、しかも一つの界から次の界への伝達の仕方も必ずしも一様ではない。また当初は書物として計画されたものが、幾つかの界層を経るうちに、あるいは議会の法令となり、あるいは戯曲となり、時には商業上の企画に変わることすらある。その方法・手段には際限がない。とにかく、神の創造の大業の促進と人間の進化のための計画に関わる者が決断したことが実行に移されるのです。かくて人間は高き世界より監視し指導する神霊の仕事を推進していることになる。ならば、そうと知った者は背後に強大な援助の集団が控えることを自覚し、何ものをも恐れることなく、途中で狼狽(うろた)えることなく、勇気をもって邁進することです。

カスリーンより。以上は私が代筆したものですが、私自身からも一言付け加えたいと思います。

右(上)のメッセージは私より遥かに多くの知識をもつ方々が、世のために働くさまざまな人間のために贈られたものです。ですが、私の観るところではあなたの今の仕事にも当てはまるものと考えます。いかなる人間のいかなる仕事も、天界の指導と援助を受けないことはありません。お別れに当たって私からのこのささやかなメッセージをお受け取りください。ささやかではありますが、これはカスリーン本人からのものです。

《(**)これは英国の詩人キーブル John KebIe の作品であるが、日本語の讃美歌集にも英語の讃美歌集にも見当たらないところをみると、讃美歌ではなく詩歌なのであろう。「オックスフォード引用句辞典」にその一節だけが載っている。その意味は、宇宙には真理を求める者、心清き者、キリストの心をもつ者であれば誰でも読める書が用意されている、ということ。――訳者》

第7節 〝後になる者、先になること多し〟
一九一七年、十一月十五日、木曜日

吾々が地上生活を送っていた時代には〝霊的真理の道を選んだ者はすぐに後悔するが最後には必ず勝利を得る〟と言われたものです。それを身をもって証明した者が少なくとも吾々の霊団の中にも幾人かいます。視野をこの短い地上的時間に縛られることなく、限りない永遠性に向けていたからでした。今この天界より振り返り、これまでの旅路を短縮して一枚の絵の如く平たく画いてみると、そのカンバスでとくに目立った点が浮き彫りにされ、そこから読み取れる教訓に沿って未来のコースを定めることも可能です。

それにしても、天界の光りに照らし出されたその絵は、かつて吾々がその最中(さなか)において悪戦苦闘した時に想像していたものと何という違いであろう。そこで貴殿に忠告しておくが、人生全体と日々の暮らしを形作っているさまざまな要素の価値判断において余りに性急であってはならないことである。今にして思えば、当時吾々が携わった仕事が偉大であったのは全体として見た場合のことであって、一人ひとりの役割に目を向ければ実にささやかなものであり、大切だったのは個々の持ち前ではなく、されに携わる動機のみであったことが判る。

というのも、一個の偉大な事業のもとに参加する者が多ければ多いほど、それだけ存在価値も分散し、役割分担が小さくなっていくのが道理だからです。重要なのは根気よくそれに携わる“動機”である。事業全体としての趣旨は“人類のため”であり、一人一人がその恩恵に浴するが、その分け前はいたって僅かなものです。しかし一方、動機が気高くさえあれば、世間がそれをどう評価しようと問題ではない。人生という闘争の場において自分に最もふさわしい役割を与えられたのであるから。

――「何だかややこしくなって来ました。良い例を挙げて説明していただけませんか」

例ならば幾らでもあります。では一つだけ紹介しよう。

地上の言い方をすれば“何年も前”のことになるが、靴直しを生業(なりわい)としていた男が地上を去ってこちらへ来た。何とか暮らしていくだけの収入があるのみで、葬儀の費用を支払った時は一銭も残っていなかった。こちらで出迎えたのもほんの僅かな知人だけだったが、彼にしてみれば自分ごとき身分の者を迎えにわざわざ地上近くまで来て道案内をしてくれたことだけで十分うれしく思った。案内された所も地上近くの界層の一つで、決して高い界層ではなかった。が今も言った通り彼はそれで満足であった。と言うのも、苦労と退屈と貧困との闘いのあとだけに、そこに安らぎを見いだし、その界の興味ぶかい景色や場所を見物する余裕もできたからである。彼にとってはそこがまさに天国であり、みんなが親切にしてくれて幸福そのものだった。

ある日のこと――地上的に言えばのことであるが――彼の住まいのある通りへ一人の天使が訪れた。中をのぞくと彼は横になって一冊の本をどこということなく読んでいる。その本は彼がその家に案内されてここがあなたの家ですと言われて中に入った時からそこに置いてあったものである。天使が地上時代の彼の名前――何といったか忘れたが――を呼ぶと彼はむくっと起き上がった。

「何を読んでおられるのかな?」と天使が聞いた。

「別にたいしたものじゃありません。どうにかこうにか私にも理解できますが、明らかにこの世界の者のための本ではなく、ずっと高い界のもののようです」

「何のことが書いてあるのであろう?」

「高い地位、高度な仕事、唯一の父なる神のために整然として働く上層階の男女の大霊団のことなどについて述べてあります。その霊団の人々もかつては地上で異なった国家で異なった信仰のもとに暮らしていたようです。話しぶりがそれを物語っております。しかしこの著者はもうこの違いを意識していないようです。長い年月の修養と進化によって今では同胞として一体となり、互いの愛情においても合理的理解においても何一つ差別がなくなっております。目的と仕事と願望において一団となっております。こうした事実から私はこの本はこの界のものではなく、遥(はる)か上層の界のものと判断するわけです。その上この本には各霊団のリーダーのための教訓も述べられているようです。と言うのは、政治家的性格や統率者的手腕、リーダーとしての叡智、等々についての記述もあるからです。それで今の私には興味はないと思ったわけです。遠い遠い将来には必要となるかも知れませんけど……。一体なぜこんな本が私の家に置いてあったのか、よく判りません」

そこで天使は開いていたその本を男の手から取って閉じ、黙って再び手渡した。それを男が受け取った時である。彼は急に頬を赤く染めて、ひどく狼狽(ろうばい)した。その表紙に宝石を並べて綴られた自分の名前があるのに気づいたからである。戸惑いながら彼はこう言った。

「でも私にはそれが見えなかったのです。今の今まで私の名前が書いてあるとは知りませんでした」

「しかし、ご覧の通り、あなたのものです。と言うことは、あなたの勉強のためということです。いいですか。ここはあなたにとってはホンの一時の休憩所に過ぎないのです。もう十分休まれたのですから、そろそろ次の仕事に取りかからなくてはいけません。ここではありません。この本に出ている高い界での仕事です」

彼は何か言おうとしたが口に出ない。不安の念に襲われ、しり込みして天使の前で頭を垂れてしまった。そしてやっと口に出たのは次の言葉だった。

「私はただの靴職人です。人を指導する人間ではありません。私はこの明るい土地で平凡な人間であることで満足です。私ごとき者にはここが天国です」

そこで天使がこう語って聞かせた。

「そういう言葉が述べられるというだけで、あなたには十分向上の資格があります。真の謙虚さは上に立つ者の絶対的な盾であり防衛手段の一つなのです。それにあなたは、それ以外にも強力な武器をお持ちです。謙虚の盾は消極的な手段です。あなたはあの地上生活の中で攻撃のための武器も強化し鋭利にしておられた。たとえば靴を作る時あなたはそれをなるべく長持ちさせて貧しい人の財布の負担を軽くしてあげようと考えた。儲ける金のことよりもそのことの方を先に考えた。それをモットーにしておられたほどです。そのモットーがあなたの魂に沁(し)み込み、あなたの霊性の一部となった。こちらではその徳は決してぞんざいには扱われません。

その上あなたは日々の生活費が逼迫(ひっぱく)しているにも拘らず、時には知人宅の収穫や植えつけ、屋根ふきなどを手伝い、時には病気の友を見舞った。そのために割いた時間はローソクの明りで取り戻した。そうしなければならないほど生活費に困っておられた。そうしたことはあなたの魂の輝きによってベールのこちら側からことごとく判っておりました。と言うのも、こちらの世界には、私たちの肩越しに天界の光が地上生活を照らし出し、徳を反射し、悪徳は反射しないという、そういう見晴らしがきく利点があるのです。ですから、正しい生活を営む者は明るく照らし出され、邪悪な生活を送っている者は陰気(いんき)に映ります。

このほかにも、あなたの地上での行為とその経緯(いきさつ)について述べようと思えばいろいろありますが、ここではそれは措(お)いておきます。それよりもこの度私が携えてきたあなたへのメッセージをお伝えしましょう。実はこの本に出ている界に、あなたの到着を待ちわびている一団がいるのです。霊団として組織され、すでに訓練も積んでおります。その使命は地上近くの界を訪れ、他界して来る霊を引き取ることです。新参の一人ひとりについてよく観察して適切な場を選び、そこへ案内する役の人に引き渡すのです。もう、いつでも出発の用意ができており、そのリーダーとなるべき人の到来を待つばかりとなっています。さ、参りましょう。私がご案内します」

それを聞いて彼は跪(ひざまず)き、額(ひたい)を天使の足もとにつけて涙を流した。そしてこう言った。「私にそれだけの資格があれば参ります。でも私にはとてもその資格はありません。それに私はその一団の方々を知りませんし、私に従ってくれないでしょう」

すると天使がこう説明した。

「私が携えてきたメッセージは人物の選択において決して間違いを犯すことのない大天使からのものです。さ、参りましょう。その一団は決してあなたの知らない方たちではありません。と言うのは、あなたの疲れた肉体が眠りに落ちた時、あなたはその肉体から脱け出て、いつもその界を訪れていたのです。そうです。地上にいる時からそうしていたのです。その界においてあなたも彼らといっしょに訓練をなさっていたのです。まず服従することを学び、それから命令することを学ばれました。お会いになれば皆あなたのご存知の方ばかりのはずです。彼らもあなたをよく知っております。大天使も力になってくださるでしょうから、あなたも頑張らなくてはいけません」

そう言い終わると天使は彼を従えてその家をあとにし、山へ向かって歩を進め、やがて峠を越えて次の界へ行った。行くほどに彼の衣服が明るさを増し、生地が明るく映え、身体がどことなく大きく且つ光輝を増し、山頂へ登る頃にはその姿はもはやかつての靴直しのそれではなく、貴公子のそれであり、まさしくリーダーらしくなっていた。

道中は長びいたが楽しいものであった。(長びいたのは本来の姿を穏やかに取り戻すためであった)そしてついに霊団の持つところへやって来た。ひと目見て彼には彼らの全てが確認できた。出迎えて彼の前に整列した彼らを見た時には、彼にはすでにリーダーとしての自身が湧いていた。各自の目に愛の光を見たからである。