訳者あとがき
第一巻はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占めた。その親子関係が醸し出す雰囲気には情緒性があり、どこかほのぼのとしたものを感じさせたが、この第二巻は一転して威厳に満ちた重厚さを漂わせている。文章は古い文語体で書かれ、用語も今日では〝古語〟または〝廃語〟となって居るものが数多く見受けられる。

が、同時に読者はその重厚は雰囲気の中にもどこかオーエン氏に対する温かい情愛のようなものが漂っていることに気づかれたであろう。最後のメッセージにそれがとくに顕著に出ている。もしそれが読み取って頂けたら、私の文筆上の工夫が一応成功したことになって有難いのであるが・・・

実は私は頭初より本書をいかなる文体に訳すかで苦心した。原典の古い文体をそのまま日本の古文に置き換えれば現代人にはほとんど読めなくなる。それでは訳者の自己満足だけで終わってしまう。

そこで語っているのがオーエン氏の守護霊である点に主眼を置き、厳しさの中にも情愛を込めた滋味を出すことを試みた。それがどこまで成功したかは別問題であるが・・・

さてその〝厳しさの中の情愛〟は守護霊と人間との関係からでる絶対的なもので、第一巻が肉体的ないし血族的親子関係であれば、これは霊的ないし類魂的親子関係であり、前者がいずれは消滅していく運命にあるのに対し、後者は永遠不滅であり、むしろ死後においてますます深まっていくものである。

ついでに一言述べてきたいことがある。守護霊と言う用語は英語でもGuardian(ガーデアン)と言い、
ともに守るという意味が込められている。そのためか、世間では守護霊とは何かにつけて守ってくれる霊と言う印象を抱き、不幸や苦労まで取り除いてくれることを期待する風潮があるが、これは過りである。

守護霊の仕事はあくまでも本人に使命を全うさせる宿命を成就させるよう導く事であり、時には敢えて苦しみを背負わせ悲劇に巻き込ませることまでする。そうした時、守護霊は袖手傍観しているのではなく、共に苦しみともに悲しみつつ、しかも宿命の成就のために霊的に精神的に援護してやらねばならない。

そうした厳粛な責務を持たされているのであり、その成果如何によって守護霊としての評価が下されるのである。

そのことは本分の〝七つの教会〟の話からも窺われるし、シルバーバーチの霊訓が〝苦難の哲学〟を説くのもそこに根拠がある。

守護霊にはその守護霊がおり、その守護霊にもまた守護霊がいて、その関係は連綿として最後には守護神に辿り着く。それが類魂のなかの一系列を構成し、そうした系列の集合体が類魂集団を構成する。言ってみれば太陽系が集まって星雲を構成するのと同一である。

その無数の中でも一番厳重な形体の中での生活を余儀なくさせられているのが我々人間であるが、それは決して哀れに思うべきことではない。苦難と悲哀に満ちたこの世での体験はそれだけ類魂全体にとって掛がいのないものであり、それだけ貴重なのであり、それゆえ人間は堂々と誇りをもって生きるべきである。と言うのが私の人生観である。

但し一つだけ注意しなければならないのは、この世には目には見えざる迷路があり、その至る所に見えざる誘惑者がたむろしていることである。大真面目に立派なことをしているつもりでいて、その実トンでもない邪霊に弄ばれて居ることが如何に多いことか。

ではそうならないためにはどうすべきか。それは私ごとき俗物の説くべきことではなかろう。読者自ずから本書から読み取っていただきたい。それが本書の価値の全てとは言えないにしても、それを読み取らなければ本書の価値は失われるのではなかろうか。
1985年9月 近藤千雄