第4章 天界の”控えの間”-地上界
第1節 インスピレーション
1913年11月26日 水曜日

語りたい事は数多くある。霊界の組織、霊力の働き…それが最上階から発し吾々の界層を通過して地球に至るまでに及ぼす影響と効果、等々。其の中には人間に理解できない者がある。又、例え理解でき出来ても信じて貰えそうにないものもある。

それ故私は、その中でも比較的単純な原理と作用に限定しようと思う。その一つがインスピレーションの問題である。ところが吾々と人間との間でどの様な作用をしているかを述べよ。

ところでインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、解釈を誤ると逆に実に誤解を招きやすい用語でもある。例えばそれは吾々が神の真理を人間の心に吹き込むことであると言っても決して間違ってはいない。が、

それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。それ以外の者…向上する力、神の意思を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就の為の叡智(愛と渾然一体となった知識)等々を吹き込んでいるからである。

故に人間がインスピレーションを受けたと言う場合、それは一つの種類に限られたことではなく、又例外的なものでもない。

いかに生きるべきかを考えつつ生きている者…全く考えぬ者はまずいないであろうが…は何らかの形で吾々のインスピレーションを受け援助を得ているのである。

が、その方法を呼吸運動に例えるのは必ずしも正しいとは言えない。それを主観的に解釈すればまだしも良い。人間が吸い込むのは吾々が送り届けるエネルギーの波動だからである。

人間は山頂においては深呼吸し新鮮なる空気を胸いっぱいに吸い込み爽快感を味わうが、吾々が送り届けるエネルギーの波動も同時に吸い込んでいるのである。が、

これを新しい神の真理を典雅なる言葉で世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す特殊な人々のみに限られた事と思ってはならない。

病を得た吾が子を介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他諸々の人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によって吾々がその考えを変え、

あるいは補足している。たとえ本人は気付かなくても良い。大体において気づいていないが、吾々は出来る範囲の事をしてそれで満足である。邪魔が入らぬ限りそれが可能なのである。

その邪魔にも数多くある。頑なな心の持ち主には無理して助言を押し付けようとはしない。其の者にも自由意思があるからである。また吾々の援助が必要と見た時でも、そこに他の勢力が入り込み、吾々も手出しが出来ない事がある。

悪に陥れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。

其々の人間が、老若男女を問わず、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えば良い。

当人が吾々霊魂(スピリット)がこの地上に存在している事、つまり目に見えぬ路の世界からの影響を受けていると言う事実を嘲笑ったとしても、善意と正しい動機に基づいて行動しておれば、それは一向に構わぬことである。それが完全な障害となる気遣いは無用である。

吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう…いずれ遠からぬ日に。ただ単に、その時点においては吾々の意図を理解するほどに鋭敏で無かったと言う事に過ぎない。

人間が吾々の働きかけの意図を理解せず、結果的に吾々が誤解される事は良くあることである。

水車は車輪に油が適度に差されている時は楽に回転する。これが錆びつけば水圧を増さねばならず、車輪と車輪との摩擦が大きくなり、動きも重い。

又新たに船長として迎えた人がまったく知らない人間であってもその指示には一応忠実に従うであろうが、より知り尽くした船長であれば、例え嵐の夜であっても命令の意味をいち早く理解してテキパキと動くであろう。

互いに心を知り尽くしているが故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、吾々の存在をより自然に、そしてより身近に自覚してくれている者の方が、吾々の意図を正しく把握してくれるものである。

それ故一口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身は様々である。古い時代の予言者は…今日でもそうであるが…其の霊格の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。

又直感的印象で受けた者もいる。吾々がそうした方法及び他の諸々の方法によって予言者にインスピレーションを送るその目的はただ一つ…人間の歩むべき道、神の御心に適った道を歩む為の

心掛けを、高い界に居る吾々が理解し得た限りにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。元より吾々の教えも最高ではなく、又絶対に誤りが無いとも言えない。が、

少なくとも真剣に、そして祈りの気持ちと大いなる愛念を持って求める者を迷わせる事は絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。そしてそれを吾ら神の使途は大いなる喜びとして受け止めるのである。

又それを求めて遠くまで出向く事も不要である。何故なら地上がすでに悪より善の勢力の方が優勢だからである。そして其の善と悪の程度次第で大いに援助できる事もあれば、行使能力が制限される事もある。

故に人間は、各自、次の二つの事を心しなければならない。一つは天界にて神に仕える者の如くに地上に在りても常に魂の光を灯し続けることである。吾々が人間界と関わるのは神の意思を成就するためであり、その為に吾々が携えてくるのは他ならぬ神の御力だからである。

人間の祈りに対する回答は吾ら使徒に割り当てられる。つまり神の答えを吾々が届けるのである。故に吾々の訪れには常に油断なく注意しなければならない。

実は吾々は、かのイエスが荒野における誘惑と闘った時、又ゲッセマネにおける最大の苦境に在った時に援助に赴いた霊団に属していたのである。
(もっともあの時直接イエスと通じ合った天使は私より遥かに霊格の高きお方であるが)

もう一つ心しなければならない事は、常に“動機”を崇高に保ち、自分の為で無く他人の幸せを求める事である。吾々にとっても、己自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩がもっとも援助し易いものである。吾々は施す事によって授かる。

人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外と言うものは無いのである。

イエスの言葉を思い出すがよい。「私はこの命を捨てるに吝かではない。が、私はそれを私の子羊の為に捨てるのである」と述べ、その言葉通りに、そして、いささかの迷いもなく、潔く生命を捨てられた。が、捨てると同時に更に栄光ある生命を持って蘇られた。

ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。貴殿も“我”を捨てることである。そうすれば、施す事の中にも授かることの中にも喜びを味わう事であろう。

これを完全に遂行する事は確かに至難の業である。が、それが品来の正しい道であり、是非歩まねばならぬ道なのである。それを主イエスが身を持って示されたのである。

花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐ又補充し、そうした営みの中で日々成就へ近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻ってくる。

かくして二人の人間はどちらかが親切の口火を切る事によってお互いが幸せになる。又、優しき言葉はやがて優しい行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛と共に喜びと安らぎとが訪れる。

また施す事に喜びを感じる者、その喜びゆえに施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。†

第2節 一夫婦の死後の再会の情景
1913年11月27日 火曜日

前回述べた事に更に付け加えれば、地上の人間は日々生活を送っている其の身の周りに莫大な霊力が澎湃として存在することに殆ど気づいていない。

すぐ身の回りに犇く現実の存在であり、人間が意識するとせぬに拘らず生活の中に入り込んでいる。しかもその全てが必ずしも善なるものではなく、中には邪悪なものもあれば中間的なもの、すなわち善でもなければ悪でもない類のものもある。

よって私がエネルギーだの影響力だのと述べる時、必然的にそこにはそれを使用する個性的存在を想定してもらわねばならない。

人間は孤独な存在ではなく、孤独ではあり得ず、又単独にて行動する事も出来ず、常に何らかの目に見えない存在と共に行動し、意識し、工夫している事になる。その目に見えぬ相手がいかなる性質のものとなるかは、意識するとせぬとに拘らず当人自身が選択しているのである。

この事実に鑑みれば、当然当人はすべからくその選択に慎重であらねばならない事になるが、それを保証するのは“祈り”と“正しい生き方”である。崇敬と畏敬の念を持って神を想い、

敬意の念を持って同胞を思いやることである。そして何を行うも常に守護・指導に当たる霊が自分の心の動き一つ一つを見守り注視している事、今の自分、及びこれより変わりゆく自分が其のまま死後の自分である事。

其の時は今の自分にとって物的であり、絶対であり、真実と思える事も最早別世界の話となり、

地球が縁無き存在となり、地上で送った人生も遠い昔の旅の思い出となり、鐘も家財道具も庭の銘木も、その他今の自分にはかけがえのない財産と思えるものの一切が自分のもので無くなることを心して生活することである。

こちらへ来れば地上と言う学校での成績も宝も知人もその時点で縁が切れ、永遠に過去のものとなる事を知るであろう。

其の時は悲しみと後悔の念に襲われるであろうが、一方においては言葉に尽くせぬ光と美と愛に包まれ、その全てが自分の思うがままとなり、先に他界した縁故者がようこそとばかりに歓迎し、霊界の観光へ案内をしてくれる事であろう。

では、窓一つない狭き牢獄の様な人生観を持って生涯を送ったものには死後いかなる運命が待ち受けていると思われるか。そういうものの面倒を私は数多く見てきたが、彼らは地上で形作られた通りの心を持って行動する。

すなわちその大半が自分の誤りを認めようとしないものである。そういう者ほど地上で形成し地上生活には都合の良かった人生観がそう大きく誤っている筈は無いと固く信じ切っている。

この類の者はその委縮した霊的視野に光が射すに至るまでには数多くの苦難を体験しなければならない。

これに対し、この世的な財産に目もくれず、自重自戒の人生を送ったものは、此方へ来て抱えきれぬほどの霊的財産を授かり、更には歓迎と喜びの笑顔を持って入れ替わり立ち替わり訪れてくれる縁故者等の霊は、一人一人確かめる暇もないほどであろう。

そしてそこから真の実在の生活が始まり、地上より遥かに祝福多き世界である事を悟るのである。

では以上の話を証明する実際の光景を紹介してみよう。

緑と黄金色に輝き、色とりどりの花の香りが心地良く漂う丘の中腹に、初期の英国に見る様な多くの小塔とガラス窓を持った切妻の館がある。それを囲む樹木も芝生も、又麓の湖も、色とりどりの小鳥が飛び交い、さながら生を楽しんでいる如く見える。地上の景色ではない。

これもベールの彼方の情景である。こちらにも地上さながらの情景が存在する事は今更述べるまでもあるまい。ベールの彼方には地上の善なるもの美なるものが、その善と美とを倍加されて存在する。

この事実は地上の人間にとって一つの驚異であるらしいが、人間がそれを疑う事こそ吾々に取りて驚異なのである。

さて、その館の櫓の上に一人の貴婦人が立っている。身に纏いる衣服がその婦人の霊格を示す色彩に輝いているが、其の色彩が地上に見当たらぬ故に何色と言う事が出来ない。黄金の深紅色とでも言えようか。が、これでもほとんど伝わらないのではないかと思われる。

さて婦人は先ほどから湖の水平線の彼方に眼をやっている。そこに見える低い丘は水平線の彼方から来る光に照り映えている。婦人は見るからにお美しい方である。姿は地上のいかなる夫人にも増して美しく整い、その容貌は更に更に美しい。

眼は見るも鮮やかなスミレ色の光輝を発し、額に光る銀の星は心の変化に応じて様々な色調を呈している。その星は婦人の霊格を表象する宝石である。言わば婦人の霊的美の泉であり、その輝き一つが表情に和みと喜びを増す。

この方は数知れぬ乙女の住む其の館の女王なのである。乙女たちはこの婦人の意思の行使者であり、婦人の命に従って引きも切らず動き回っている。それほどこの館は広いのである。

実はこの婦人は先ほどから何者かを待ちこがれている。其の事は婦人の表情を一見すれば直ちに察しが付く。

やがてその麗しい目からスミレ色の光輝が発し、それと同時に口元から何やら伝言が発せられた。其の事は、婦人の口のすぐ下から青とピンクと深紅色の光が放射されたことで判った。その光は、人間には行方を追う事さえできまいと思われるほど素早かった。

すると間もなく水平線の右手に見える樹木の間をぬって、一隻のボートが勢い良くこちらへ向けて進んでくるのが見えてきた。オールが盛んに水しぶきを立てている。

金箔を着せた船首が散らす水しぶきはガラス玉の様な輝きを見せながら、あるいはエメラルド、あるいはルビーとなって水面へ落ちて行く。やがてボートは船着き場に着いた。着くと同時に眩いばかりに着飾った一団が大理石でできた上がり段に降り立った。

其の上がり段は緑の芝生へ通じている。一段は足取りも軽やかに上がってきたが、中にただ一人、ゆっくりとした歩調の男が居る。その表情は喜びに溢れて入るが、その目はまだ辺りを柔らかく包む神々しい光に充分に慣れていないようである。

その時、館の女王が大玄関より姿を見せ一団へ向かって歩を進めた、女王はほど近く接近すると歩を止め、その男に懐かしげな眼差しを向けられた。男の目がたちまち困惑と焦燥の色に一変した。すると女王が親しみを込めた口調でこう挨拶された。「ようこそジェームス様。

ようやくあなた様もお出でになられましたね。ようこそ。本当にようこそ」が彼は尚も当惑していた。確かに妻の声である。が昔と大分違う。それに妻は確かに死んだ時は病弱な白髪の老婆だった筈だ。それがどうした事だ。今目の前にいる妻は見るからにして素敵な女性である。

若すぎもせず老い過ぎもせず、優雅さと美しさに溢れているではないか。
すると女王が言葉を継いだ。「あれよりこの方、私は陰よりあなた様の身を御守りし、片時とて離れた事がございませんでした。たったお一人の生活でさぞお寂しかったことでしょう。が、

それはもはや無過去の事。かくお会いした上は孤独とは永遠に別れをつげられたのでございます。此処は永遠に年を取る事の無い神の常夏の国。息子たちやネリーも地上の仕事が終わればいずれこちらへ参る事でしょう」

女王はそう語る事によって自分が嘗ての妻である事を明かさんと努力した。そしてその願いはついに叶えられた。彼はその麗しくも神々しい女王こそまさしく我が妻、吾が愛しき人である事を判然と自覚し、そう自覚すると同時に感激に耐えかねて、どっと泣き崩れたのである。

再び蘇った愛はそれまでの畏敬の念を圧倒し、左手で両目を押さえ、時折垣間見つつ、一歩二歩と神々しい女王に近づいた。

それを見た女王は喜びに顔をほころばせ、急いで歩み寄り、片腕を彼の方に掛け、もう一方の手で彼の手を握り締めて確かな足取りで彼と共に石段を登り、その夫の為に用意しておいた館の中へ入って行ったのであった。

さようその館こそ実に二人が地上で愛の巣を営み、妻の死後その妻を弔いつつ彼が一人寂しく暮らしたドーセット(英国南部の州)の家の再現なのである。

私はその家族的情景を、天界なるものが感傷的空想の世界ではなく、生き生きとして実感あふれる実態の世界である事を知ってもらう為に綴ったのである。

家、友、牧場…天界には人間の親しんだ美しいものがすべ存在する。否、此方へ来てこそ、地臭をすてた崇高なる美を発揮する。

この夫婦は素朴にして神への畏敬の念の中に、貧しき者にも富める者にも等しく交わる良き人生を送った。こうした人々は必ずや天界にてその真実の報酬を授かる。その酬いはこの物語の夫婦の如く、往々にして予想もしなかったのである。

この再会の情景は私が実際に見たものである。実は私も其の時の案内役として其の館まで彼に着き添った者の一人であった。その頃の私はまだ其の界の住民だったのである。

―第何界での出来事だったのでしょうか。

六界である。さて、これにて終わりとしよう。私はしみじみ思う…愛の発する行為を行い、俗世での高き地位よりも神の義を求める、素朴な人間を待ち受ける栄光を少しでも知らせてあげたいものと。

そうした人間はあたかも星の如く、辺りの者がただ側にいるだけでその光輝によって一段と愛らしさを増す事であろう。†

第3節 “下界〟と自縛霊
1913年11月28日 金曜日

人類の救世主、神の子イエス・キリストが“天へ召されるものは下界からも選ばれる”と述べている事について考察してみたい。下界に見出されるのみならず、その場において天に召されると言う。

その“下界から選ばれる者”はいずこに住む者を言うのであろうか。これにはまずイエスが“下界”という用語をいかなる意味で用いているかを理解しなければならない。
この場合の下界とはベールの彼方において特に物質が圧倒的影響力を持つ界層の事を指し、その感覚に浸るものは、それとは対照的世界すなわち、物質は単に霊が身にまとい使用する表現形態に過ぎぬ事を悟るものが住む世界とは、霊的にも身体的にも全く別の世界に生活している。

それ故、下界と言う時、それは霊的な意味において地上に近き界層に居るものを指す。時に自爆霊と呼ぶ事もある。肉体に宿るものであろうと、すでに肉体を捨てた者であろうと、同じ事である。身は霊界にあっても魂は地球に鎖でつながれ、

光明の世界へ向上して行く事が出来ず、地球の表面の薄暗き界層にたむろする者同士の間でしか意思の疎通が出来ない。完全に地球の囚われの身であり、彼らは事実上地上的環境の中に存在している。

さてイエスはその“下界”より“選ばれし者”を天界へ召されたと言う。その者達の身の上は肉体を纏ってはいても霊体によって天界と疎通していたことを意味する。その後の彼らの生活態度と活躍ぶりを見ればその事実に得心がいく。

悪のはびこる地上を止むを得ぬものと諦めず、悪との戦いの場として厳然と戦い、そして味方の待つ天界へ帰って行った彼ら殉教者の不屈の勇気と喜びと大胆不敵さは、その天界から得ていたのであった。そして同じ事が今日の世にも言えることである。

これとは逆に地上の多くの者が襲われる恐怖と不安の念は自爆霊の界層から伝わってくる。その恐怖と不安の念こそがそこの住む者たちの宿業なのである。肉体は既になく。さりとて霊的環境を悟るほどの霊格も芽生えていない。が、

それでも彼らは其の界での体験を経て、やがては思考と生活様式の向上により、それに相応しい霊性を身につけて行く。かくて人間は“身は地上に在っても霊的にはこの世の者とは違う事があり得る”と言う言い方は事実上正しいのである。

これら二種類の人間は、此方へ来ればそれ相応の境涯に落ち着くのであるが、いずれの場合も自分の身の上については理性的判断による知識は無く、無意識であった為に、おかれた環境の意外性に驚く者が多い。

この事を今少し明確にする為に私自身の知識と体験の中から具体例を紹介してみよう。

嘗て私は特別の取り扱いを必要とする男性を迎えに派遣された事がある。特別というのは、その男は死後の世界について独断的な概念を有し、それに備えた正しく且つ適切な心掛けはかくあるべしという思想を勝手に抱いていたからである。

地球圏より二人の霊に付き添われて来たのを私がこんもりとした林の中で出迎えた。二人に挟まれた格好で歩いてきたが、私の姿を見て目が眩んだのか見分けのつかないものを前にしたような当惑した態度を見せた。

私は二人の付き添いの霊に男を一人にするようにとの合図を送ると、二人は少し後方へ下がった。男は初めのうち私の姿が良く見えぬようであった。そこで、此方から意念を集中すると、ようやく食い入るように私を見つめた。

そこでこう尋ねてみた。「何か探しものをしておられるようだが、この私が力になってあげよう。その前に、この土地へお出でになられてどれほどになられるであろうか。それをお先ずお聞かせ願いたい」

「それがどうもよく判りません。外国へ行く準備をしていたのは確かで、アフリカへ行くつもりだったように記憶しているのですが、ここはどう考えても想像していたところではないようです」

「それはそうかも知れない。ここはアフリカではありません。アフリカとは随分遠く離れたところです」

「では、ここは何と言う国でしょうか。住んでいる人間は何と言う民族なのでしょうか。先ほどのお二人は白人で、身なりもきちんとしておられましたが、これまで一度も見かけたことのないタイプですし、書物で読んだ事もありません」

「ほう、貴殿ほどの学問に詳しい方でもご存じない事がありますか。が、貴殿もそうと気づかずにお読みになった事があると思うが、ここの住民は聖人とか天使とか呼ばれている者で、私もその一人です」

「でも…」

彼はそう言いかけて、すぐに口をつぐんだ。まだ私に対する信用がなく、余計な事を言って取り返しがつかぬ事にならぬよう、私に反論する事を控えたのである。

何しろ彼にしてみれば全くの見知らぬ国であり、見知らぬ民族に囲まれ、一人の味方もいなかったのであるから無理もなかろう。

そこで私がこう述べた。「実は貴殿は今、かつてなかったほどの難問に遭遇しておられる。これまでの人生の旅でこれほど高く分厚い壁に突き当たった事はあるまいと思われます。これから私がざっくばらんにその真相を打ち明けましょう。

それを貴殿は信じて下さらぬかもしれない。しかし、それを信じ得心がいくまでは貴殿の心の平和は無く、進歩もないでしょう。貴殿はこれから為さねばならない事は、今までの一切の説を洗いざらいひっくり返して、その上で自分は学者でも科学者でもない、

知識の上では赤子に過ぎない事、この土地について考えていた事は一顧の価値もない…つまり完全に間違っていた事を正直に認めることです。酷な事を言うようですが、事実そうであれば致し方ないでしょう。

でも私の事を良く見つめて頂きたい。私が正直な人間で貴殿の味方だと思われますか。それともそうとは見えぬであろうか」

男はしばし真剣な面持ちで私を見つめていたが、やがてこう述べた。「あなたのおっしゃる事は私にはさっぱり理解できませんし、何か心違いをしている狂信者のように思いますが、お顔を拝見した限りでは真面目な方で私を思って下さっているようにお見受けします。で、私に信じて欲しいとおっしゃるのは何でしょうか」

「死について聞かされたことでしょう。」

「さんざん!」

「今私が尋ねた様な口調であろう。なのに貴殿は何もご存じない。知識と言うものはその真相を知らずしては知識とは言えますまい。」

「私に理解できる事を判り易くおっしゃってください。そうすればもう少しはTみ込みが良くなると思うのですが…」

「ではズバリ申し上げましょう。貴殿は所謂“死んだ人間”の一人です」

これを聞いて彼は思わず吹き出し、そしてこう述べた。

「一体あなたは何とおっしゃる方ですか。そして私をどうなさろうと考えておられるのでしょうか。もし私をからかっておられるのでしたら、それをいい加減にして、どうか私を行かせてください。この近くの何処か食事と宿を取る所がありますか。少しこれから先の事を考えたいと思いますので…」

「食事を取る必要は無いでしょう。空腹は感じておられないでしょうから……宿も必要もありません。疲労は感じておられないでしょうから……。それに夜の気配がまるでない事にお気づきでしょう」

そう言われて彼は再び考え込み、それからこう述べた。

「あなたのおっしゃる通りです。腹がすきません。不思議です。でもその通りです。空腹を感じません。それに確かに今日と言う日は記録的な長い一日です。分けが判りません」

そういって再び考え込んだ。そこで私がこう述べた。

「貴殿はすでに死んだ人間であり、ここは霊の国です。貴殿は既に地上を後にされた。此処は死後の世界で、これよりこの世界で生きてゆかねばならず、より多く理解していかねば、これより先の援助する訳には参りません。暫く貴殿を一人にしておきましょう。

良く考え、私に聞きたい事があれば、そう念じてくれるだけで馳せ参じましょう。それに貴殿を此処まで案内してきた二人が何時も付き添っています。なんなりと聞かれるが宜しい。

答えてくれるでしょう。ただ注意しておくが、先ほど私の言い分を笑った様な調子で二人の言う事を軽蔑し喋笑してはなりません。謙虚に、そして礼儀を失いさえしなければ二人のお伴を許しましょう。

貴殿はなかなか良いものを持っておられる。が、これまでも同じ様な者が多くいましたが、自尊心と分別の無さも又度が過ぎる。それを二人へ向けて剥き出しにしてはなりませんぞ。

その点を篤と心して欲しい。と言うのも、貴殿は今、光明の世界と影の世界との境界に位置しておられる。そのどちらへ行くか、その選択は貴殿の自由意思に任せられている。神のお導きを祈りましょう。それも貴殿の心掛け一つに掛っています」

そう述べてから二人の付き添いの者に合図を送った。すると二人が進み出て男の側へ立った。そこで三人を残して私はその場を離れたのであった。

…それからどうなりました。その男は上を選びましたか下を選びましたか。

その後彼からは何の音沙汰もなく、私も久しく彼のもとを訪れていない。根がなかなか知識欲旺盛な人間であり、二人の付き添いがあれこれ面倒を見ていた。が、

次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染めなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に優るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛く屈辱の体験でもあった。

しかし彼は勇気のある魂の持ち主で、ついに己に克った。その時点において二人の付き添いに召されて再び始めの明るい界層へと戻った。

そこで私は前に迎えた時と同じ木陰で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで安易に人を軽蔑する事も無くなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの事を思い出し恥辱心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私を嘲笑った事を偉く後悔しているようであった。

やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。嗚咽で肩をふるわせているのが判った。

私はその頭に手をおいて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうした事は良くあることである。†

第4節 天使の怒り
1913年12月1日 月曜日

暗黒の中にあって光明を見出す者はすくなく、その暗黒の何たるかを理解するものも又多くは無い。暗黒は己の魂の状態の反映に他ならない。其の中にあって真理を求める者には、吾々の界よりその者の魂の本性と能力に応じて然るべき援助を授ける。

それは今に始まった事ではない。天地の創造以来ずっとそうであった。何となれば神は一つだからである。本性において一つであるのみならず、その顕現せる各界層を通じての原理においても一つなのである。

神は現在のこの物的宇宙を創造した時、直接造化の事業に携わる神霊に、企画遂行に要する能力を授けると同時に、すでに述べたように、その能力の行使に一定範囲の自由をも授けた。が、

万物を支配する法則の一つとして、その託された能力の行使において自由から生まれる細々とした変化と、一見すると異質に思える多様性の中においても統一性と言うものが主導的原則として全てを律し、究極において全てがその目的に添わねばならない事になっている。

この統一性と一貫性の根本原理は造化の大業の事実上の責任者である最高界の神霊にとっての絶対的至上命令であり、絶対に疎かにされた事は無い。

それは今日においても同じである。人間はその事実を忘れ、吾ら天界の者が未発達の人間世界に関与し、こうして直接交信し、教えを説き導くと言う事実を否定し、それに関わる者を侮辱する。

同時に又、これに携わる者がこれに躊躇し、霊と口をきくことは悪と思い、救世主イエスの御心に背く事になると恐れることこそ吾らには驚異に思える。

実はイエスが地上へ降りたそもそもの目的は、その大原理すなわち霊的なものと物的なものとは神の一大王国の二つの側面に過ぎず両者は一体である事を示す為であったのだが……

イエスの教えを一貫して流れるものもこの大原則であり、皮肉にも敵対者達がイエスを磔刑に処したのもそこに理由があった。

つまり、もともと神の王国がこの地上のみに限られるものであったならば、イエスは彼らの敵対者達の地上的野望も安逸と豪奢な生活も批判する事は無かったであろう。が、イエスは、神の国は天界に在り地上はそれに至る控えの間に過ぎない事を説いた。

そうなれば当然、魂の気高さを計る尺度は天界のそれであらねばならず、俗世が求める低次元の好き勝手は通じない事になる。

しかし、人間はその大真理を説くイエスを葬った。そして今日に至るも、先に述べたように、キリスト教界と一般社会の双方の中にそれに似通った侮辱的感情を吾らは見ている。

人間が吾ら霊魂による地上との関わり合いを認識し、神の王国の一員としての存在価値を理解するに至るまでは、光明と暗黒の差の認識において大いなる進歩は望めないであろう。

地上には盲目の指導者が余りに多過ぎる。彼らは傲慢なる態度で吾々の仕事と使命を軽蔑し、それが吾々の不快を誘う。現今のキリスト教の指導者達は言う…

…「当時の人間がもし真実を知っていたら栄光の主イエスを葬る事はしなかったであろう」と。まさにその通りであろう。が、現実には葬ったでは無いか。

同じくその様に嘆く者達が、もしも吾々のようにこうして地上へ降りてくる者が彼らの言う天使であることを認識すれば、吾々と地上の烏合の衆より一頭地を抜くものとの交霊を悪しざまに言う事もあるまいに、と思う。

しかし現実には吾らと関わりをもつ者達を悪しざまに言っているではないか。そして主イエス・キリストを葬った者達と同じ趣旨の申し聞きをして、己の無知と盲目を認めようとしないではないか。

・・・おっしゃる事はまさにその通りで、間違ってはいないと思います。ただ、おっしゃる事に憤怒に似たものが感じられます。それに、イエスを葬ったユダヤ人を弁護したのはペテロであってユダヤ人自身ではなかったのではないでしょうか。

よくぞ言ってくれた。私は今確かに怒りを込めて語っている。が、怒りも雅量のある怒り、すなわち愛に発する怒りがある。吾々が常に平然として心を動かされる事が無いかに思うのは誤りである。吾らとて時には怒りを覚える事がある。が、

その怒りは常に正しい。と言うよりは、そこに些かでも邪なものがあれば明晰な目を持って吾らを監視する上層界の霊によってすぐさま修正される。が、復讐だけは絶対にせぬ。

この事だけは良く覚えておいてほしく思う。そして又よく理解しておいて欲しく思う。但し、公正の立場、そして又、吾々の地上の協力者である地上の同志への愛の立場から、不当なる干渉をする者へは吾々がそれ相当の処罰を与え、義務の懲罰を課す事はある。が、

どうやら貴殿は私の述べる事に賛同しかねている様子が窺える。そこで一応その気持ちを尊重し、この度はこの問題はお預けといたそう。が、私が述べた事に些かも誤りは無いし、何か訴えるものを感じる者にとっては熟考するに値する課題であることを指摘しておく。

ペテロの弁護の問題であるが、確かに弁護したのはペテロであったが、もう一つ次の事を忘れてはならない。私はベールのこちら側より語り、それを貴殿はベール越しに地上において聞いていると言う事である。

人間と同じく吾々の世界にも歴史の記録…ベールのこちら側の歴史…があり、それは詳細を極めている。その記録より判明するに、彼らイエスを告発した者達は、此方側へ来て其の迷妄を弁明せんとしたが、大して弁明になってはいない。

光明も彼らにとっては暗黒であり、暗黒が光明に思えた。何故なら、彼らは魂そのものが暗黒界に所属していたからである。イエスの出現を光明と受け止めなかったのも同じ理由による。無理からぬ事であった。彼らはまさに真理に対して盲目であり理解できなかったのである。

かくて死後の世界においては盲目とは外の光を遮断する事による結果ではなく魂の内部に起因する。外的で無く内的なのであり、霊的本性を意味する。故に真理に盲目なる者はそれに相応しい境涯へと送られる…暗闇と苦悶の境涯である。

今は光明界の強烈な活動の時代である。地上の全土へ向けて莫大なエネルギーが差し向けられている。教会も教義も、その波紋を受けないところはまずあるまい。光が闇へ向けて差し込みつつある。修養を心掛ける者にとっては大いに責任を問われる時代である。

すべからく旺盛な知識と勇気とを持ってその光を見つめ我がものとしなければならない。これが私からの警告であり、厳粛なる思いを込めて授けるものである。

と申すのも、私が語る事の多くは、物的脳髄を使用するより遥かに迅速に学ぶことのできる、この霊界と言う学校における豊富な体験を踏まえているからであ。この種の問題についての真相を人間はすべからく謙虚に求め、自ら探しださねばならない。

真理を求めようとせぬ者に対しては、吾々はあえて膝を屈してまで要求しようとは思わない。其の事も彼らにしかと伝えるのが良い。吾々は奴隷が王子へ贈物を差し出すが如き態度で真理を授ける事はしない。

地上のいかなる金銀財宝によっても買う事の出来ない貴重な贈り物を携えて地上へ参り、人間のすぐ近くに待機する。そして謙虚にして善なる者、心清らかな者に、イエスの説いた真理の真意を理解する能力、死後の生命の確信と喜び、地上のあるいは死後の受難を恐れぬ勇気、

そして天使との交わりと協調性を授ける。

本日はこれにて終わりとする。これまでと比べて気の進まぬ事を書かせた事については、どうか寛恕を願いたい。こちらにそれなりの意図があっての事だからである。又の機会により明るいメッセージを述べることでその穴埋めをする事にしよう。
心に安らぎと喜びを授からんことを。アーメン†