第1節 暗闇の実在
1913年11月12日 水曜日
もしお互いが物事を同じ観点から眺める事が出来れば、今問題としている事も容易に説明が出来るのであるが、残念ながら貴殿は原因の世界と結果の世界の間に掛ったベールの向こう側から眺め、私はこちらから眺めているので、必然的に視野が対立する。
そこで何とか判り易くしようとすれば、どうしても私の方が見地を変えて出来る限り地上的見地に立たねばならなくなる。
そこで私は出来る限りそう努力しつつ、貴殿を吾々と共に高く創造の根源へ目を向けるよう呼び掛けたい。つまりは高き神霊の世界から発した思念が物的形態を取りつつ下層界へ至る、その自然な過程と流れを遡って見たいと思う。
界を遡ると、自然界の事物が下層界における時とは様相が違う事に気づく。いわば心理的影像へと変わり、内的視覚に訴えるようになる。が、太陽と日没後の薄明の関係と同じく、物質界の事物、あるいは更に上層界の事物との間につながりがある事はある。
まずその光の問題から始めれば、地上では光は闇との対照によって知らされる。つまり光の欠如した状態が闇であり、本質的には実態も価値も持たない。それ故、吾らが闇と言う時、目の網膜に外界の事物を印象付けさせるある種のバイブレーションが欠如した状態を意味する。
さてベールのこちら側における霊的暗黒地帯においても同じ事情が存在する。つまり暗黒の中にいる者は他の者が外界の事物を認識する際に使用するバイブレーションが欠如している。
其のバイブレーションが受け入れられない状態に在ると言う事である。霊的感覚に変化が生ずれば、鮮明度は別として、ともかくも見えるようになってくる。
然し同時に、そうした暗黒の下層界におけるバイブレーションは上層界に比して粗野である。その為に、暗黒界へ降りていく善霊にとっては、たとえその視覚は洗練されていても暗闇はやはり暗闇であり、彼らに映ずる光はぼんやりとしている。
それで理解が行くと思うが、霊と環境との間には密接な呼応関係があり、それが余り正確で不断で持続性がある為に、そこに恒久的な場が出来上がるのである。
この霊と環境との呼応関係は上級界へ上昇するに従って緊密となり、外界に見る光よりは完全により強烈になって行く。故に、例えば第四界に住む者が第五界へ突入しそこに留るには、第五界の光度に耐えうるまで霊性を高めなければならない。
そして首尾よく第五界に留れるようになりその光度に慣れきると、今度は第四界に戻った時に―良く戻る事があるが―そこの光が弱く感じられる。もっとも、事物を見るには不自由は無いが、更に下がって第二界第一界まで至ると、最早そこのバイブレーションが鈍重過ぎて事物を見るのが困難となる。地上時代と同じように見ようとすればそれなりの訓練をしなければならない。こうして地上へ降りて人間を見る時、吾々はその人間の持つ霊的な光輝によって認識する。
霊格の高い者ほど鮮明に見えるものである。もしも視覚以外に霊的鑑識力が具わっていなければ、吾々は目指す地上の人間を見出すのに苦労するものと思われるが、幸いにして他の数多くの能力を授かっている為に、こうして貴殿との連絡が取れ、使命に勤しむ事が出来るのである。
これで“いかなる人間も近づく事を得ぬ光の中に座す存在”という言葉の真意が理解できるであろう。地上に居る者に対して、数多くの界の彼方まで突入しうる者はいない。そして又、高い界より流れ来る光は余ほど霊性高き人間の目をも眩ませる事でしょう。
考えても見るがよい、この弥が上にも完全な光が天界の美について何を物語っているかを。地上には地上なりに人間の目にうっとりとする色彩が存在するが、ベールのすぐこちら側には更に多くの色彩が存在する。これが更に高い界へ進んで行けばどうなるか。
色彩一つにしても思い半ばにすぎるものがあろう。天界を僅かに昇って来たこの私が目にしたものですらすでに、今こうして述べている言語では僅かにその片鱗を伝え得るに過ぎない。
私にとっては地上の言語は今や外国語同然であり、同時に貴殿が蓄えた用語の使用範囲にも又限界がある。
が、喜ぶがよい。美を愛する者にとって美は無尽蔵に存在し、又光と神聖さとは常に相携えて行くものであるから、一方において進歩する者は他方において大いなる喜びを味わう事になる。
これぞ“聖なる美”であり、全ての人間的想像の域を超える。とは言えこれは熟考の価値ある課題である。熟考を重ねる者には地上の美しきものが天界のより大いなる美を真実味をもって物語ってくれるであろう。
天界において求めるものは生命の喜びのみである。それは貴殿が誤らず向上の道を歩み続けるならば、いずれの日か貴殿のものとなるであろう。†
第2節 天体の円運動の原理
1913年11月15日 土曜日
さて、もう一つ私の立場から見て貰いたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察して、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それに在る程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどうかかわっているかその真相について述べてみたい。
そもそも天体と言う用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異なる。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。
が、その霊的生命力の働きについても皆がみな同じように理解している訳ではない。霊的生命力と言う用語を極めて曖昧な意味に使用している人もいる。“神が万物を創造した”と簡単に言う者がいるが、その意味するところは途轍もなく深遠である。
地上と言う薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を表現しているよりむしろ埋葬していると言いたいところであろう。もっとも偉大なもの、もっとも単純な叡智から生まれる。
絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係(コンビネーション)も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、一つの縺れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、もっとも純粋にしてもっとも単純なものしかないからである。
其の至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない、遥か彼方の星たちの世界においても永遠に変わらぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。
さて、それら天体組織の各軌道は二種類の原理によって定められているといっても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった一つの原理すなわち直線から出来上がっていると述べた方がより正確かも知れない。
つまり全ての天体は本来直線軌道上の上を直進している。ところが突き進むうちに例外無く曲線を描く事になる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、一つだけ例を挙げて説明しておこう。
地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。するとまず直線を辿るそれが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方向へ曲がり始める。
そしてやがて楕円状に働いている事が判る。結果的には直線は一本もない。曲線の連続によって楕円を描いたのであり、それが地球の軌道なのである。
一方太陽の引力は決して曲線状に働いた訳ではない。やはり一直線なのである。
結局地球の軌道を直線から楕円に変えたのは二種類のエネルギーの直線的作用―地球の推進力と太陽の引力だったのであり、その中には多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。
実はこれには他にも多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸らさぬよう、一つの原理に絞っている。これを定義づければこうなることであろう…二本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する。と。
太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くと言う事自体が驚異と言うべきであり、真実、驚異なのである。その両者が互いに働きを修正し合い、又大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により―明らかに対立した動きをしながらも―二本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。
貴殿はまさか両者が対立する運動をするからにはこの機構は誤っており“悪”の根源より出たものである、等とは思うまい。考えても見るがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。
それを思えば侮辱どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せ持つ叡智の存在を示している。これを考案された神への讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。
偉大なる叡智と偉大なる力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。
人間は神の御業をこのように理解せず、見た目に映じた皮相な見解の基に神及び神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中に先の例の様な対立関係を見ると、すぐに神が不完全で在るかの如く言う。もっと良い方法がある筈であると思い、神の叡智と愛を疑う。
人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみを見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくても全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難も無いコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正される事を好まない。
もとより、過程の問題とすればそれ以外の働き方もあるかもしれない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させた所の、かの完璧な星たちの働きには及びもつかないものとなるであろう。
人生における軋轢や悩み事や苦痛を感じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。
吾々とて全てが判る訳ではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せる訳でもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくても現在自分のおかれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうと、全てが上手く出来ていると言う信念を持って向上へ励むのである。
と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程についてしつこくその詮索をすることをせず、天界に戻って煌々たる光の中において全体を眺める。その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に見事なものである。
余りに見事である為に吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳と驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。
アーメン。私からの祝福を。勇気を持って恐れることなく歩まれるがよい。先の事は私が全て佳きに計らうであろう。†
第3節 ヤコブと天使
1913年11月17日 月曜日
「汝の見る所を書に著せよ」―これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能な限りその命に従い、書き記したものを同志に託した。その時以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。
そして彼らはああでもないこうでもないと思案の末に、よく判らぬ、と兜を脱ぐのである。が彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。
何となれば、もし幼子の如く素直な心を持って読めば容易に真理の扉を開く合鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取るものを待ち受ける天界の美を見る事を得た筈なのである。
ところが人間はいつの時代にも、“複雑”を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それはいわばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。
かくして人間は複雑さに更に複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さは無い。知識を欠くことこそ複雑さを生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。
自動書記という通信方法に拘ってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからと言って、それを疑って掛ってはならない。
それはいわば家屋を建てる為に使用する材料に過ぎず、その為には貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。
更に言えば、貴殿のこれまでの半生は一つにはこの目的の為の監督と準備の為に費やされてきた。すなわち、こうした自動書記の為に貴殿を使用し、さらに又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちらから援助してもらうためである。吾々が映像を見せる。
それを貴殿が文章として書きとめる。かくして“汝が見るところの事を書き記し”それを世に送る。この受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。
各々それで佳しとせねばならない。さ、吾らとともに来るがよい。出来る限りのものを授けよう。
―吾々と言う言い方をされますが、他に何人かいられるのでしょうか。
吾々は協調によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせるものもいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることのできる者もいる。又そうするより他に致し方ない性質の援助もある。
それは海底のダイバーの為に地上から絶え間なく空気を送り込まなければならないと同じで、吾々がこうしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。あたかも海底に居る如く、
普段摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界に在っては、そうした種類の援助を得る事によって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝える事が出来るのである。
この点を考慮に入れ、吾々の事もその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解が行くであろう。
かく申すのも、天使は何故曽てほど地上へ訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが二つある。まず第一は、高い霊格を具えた天使が大挙して地上を訪れる事は絶対にない。
永い人類の歴史の中においても、あそこに一人此処に一人と、極めて稀にしか訪れていない。
そしてその僅かな事象が驚異的な出来事の年代記の中において大きく扱われている。天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まずあり得ない。
万が一そうするとなれば、先に述べた吾々の仕事の困難さをさらに延長せねばならない。つまり、まず暗く深い海底へ潜らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を備えなければならない。
それはあり得ない事である。確かに吾々は人類の為の仕事に携わり、人類と共に共存するが、そういう形で訪れる事はしない。其々の仕事により規則があり方法も異なる。
そこに又、第二の誤解が存在する。確かに吾々の身は今人間界に在り、繰り返し訪れているのであるが、この、訪れると言う言葉には、言葉だけでは表せない要素の方が実に多いのである。
ベールのこちら側に居る者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層に居る者でも霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において以外に僅かしか理解していないものであるが、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。
例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘して勝ったと言う話(創世記32)―貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのは何故だと思われるであろうか。
―私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせて貰えたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせる為であったと思います。
つまり己に勝ったと言う事です。そして天使が名前を明かさなかったのは肉体に宿る人間に天使が名を明かす事は戒律(オキテ)に反く事だったからだと思います。
なるほど最初の答えは良く出来ている。後の答えはいま一つと言うところである。何となれば考えても見よ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反むく行為であるからと言うのなら、では一体なぜそれが戒律に反く事になるであろうか。
さて例の格闘であるが、あれは真実みと現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身との取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害を被るであろう。
確かにヤコブの目に映ずるほどの形態で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。が、手荒に扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで足の関節が外れたと言う話でも想像がつくであろう。
では、それほどの威力のある天使を組み伏せた程のヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの念力によって組伏せられたのである。と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだと言うのではない。天使の謙遜の徳と特別な計らいこそがそこにあったのである。
天使が去ろうとするところをヤコブが引きとめると、天使はそれに従ったが、是非帰らせてほしいと実に慇懃に頼んでいる。
貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。慇懃は愛の表現の一つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の一つである。
こうして天使はその謙遜の徳ゆえに引きとめられた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己の意思の力と性格が、しばし、ケチくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れたが、その名は明かさなかった。
名を明かす事が戒律に背くと言う言い方は必ずしも正しいと言えない。名を明かす事もあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこう言う理由による。すなわち名前と言うものにはある種の威力が秘められていると言う事である。この事を良く理解し明記して欲しい。
何故なら、聖なる名を過って使用し続けると不幸が生じる事ことがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われる事になりかねないからである。ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思っての事であった。
祝福を喜んで求めた。がそれ以上に余り多くを求めすぎぬようにと戒めがあったと言う事である。ヤコブは天使の偉大なる力を殆ど直接(ジカ)に接触するところまで体験したが、その威力を無闇に引き出す事は戒めなければならない。
そうしなければ其の後に待ち受ける奮闘は己の力によるものではない事になるからであった。
今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられる事があるかと言うことのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。
不思議に思えるかもしれないがその浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届けるが、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうする事によって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであると言う事になる。
地上に人間が必死にあるものの名を呼べば、それは必ず其の者に届く。そして可能な限り、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。
思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子達との諍い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げた事であろう。
彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できない為に信仰に迷いを生じ当惑した事であろう。又時には援助が授けられた事であろうが、それは歴然とした形で行われたであろうから、理解するには努力は要らず、従って進歩も必要としなかった事であろう。
この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿は見えず声も聞こえないからと言って、それだけで貴殿が吾々から遠く離れている訳でもなく、また吾々が貴殿から遠くに居る訳でもない事を示す為でもあった。
吾々が語り、貴殿が聞く、しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見えるが、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何一つ案ずるには及ばない。
吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以降も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持を持ち続けて欲しい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。†
第4節 神とキリストと人間
1913年11月18日 水曜日
地上の全存在の創造が完了した時、最後一つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。
驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上の進化の道を啓示され、その道を自ら辿るにまかされた。一人ぼっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使していくかを見守っていたのである。
今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりももっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。
又、我々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見る事は許されているのである。
又その考察に当たっては、地上で行われている神学的ドグマに捉われる事がない事も承知されたい。神学の世界は余りにも狭隘(キョウアイ)であり、又余りにも束縛が多い為に、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手を伸ばせば、取り囲む壁に当たって傷を負いかねない。
更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難が降りかかるかもしれないとの不安の為に、つい躊躇してしまうのである。
良く聞くがよい。神学の教え方をあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的と思い込む者には、衝撃が余りに大きく恐るべきものに思えるかもしれないが、吾々にとっては、道を誤らぬ為に神より賦与されている人間本来の意思と理性な自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見る事の方が、よほど悲劇に思えるのである。
考えても見よ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。自らの思考力を駆使して真摯に考え、その挙句にたまたまドグマから逸れたからと言って、神がその者を無気味な笑みを浮かべて待ち受け網を持って捕えんとしているからとでも言うであろうか。それとも“汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱もない。
よって汝の願いは却下する”と述べたと言うのはこの神の事であろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持ちを持って存分に使えば良いのである。そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出た事である。
両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。一度や二度的を真ずれたとて少しも戸惑う事は無い。恐れてはいけない。神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。
この事は自信を持って断言する。私はその二種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求める経緯(イキサツ)を見て、その真実性を十分に得心しているのである。
さて天界の大群の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしい事がある。改めてこう申すのも、これから私が申し上げる事の中には貴殿の意にそぐわない事があるかもしれからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。
キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側に来ても軽々しく論じられている。と言うのも、地上に限らず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めなければならないと言う事情があるのである。
吾々には啓示の奇跡は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制される事もない。人間と同様に吾々も導きを受けるが、あれこれと特定の信仰を押し付けられる事は無い。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説く事で万事終われりとする者が大勢いる事になる。
この度の私の目的はそれを否定して真相を説く事ではない。それを絶対に者として説くつもりは更にない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義付けを疎かにしてはこの種の問題が理解できない事を説きたいと思う。
ではまず、第一に一体“神”とは何を意味するかと言う事である。“父なる存在”を想う時の、一個の場所に位置する個人、つまり人間の様な一人物を意味するのであろうか。もしそうだとすれば、キリストが神ではない事が明らかである。
さもないと、それは二重の人物つまり二個の人物が区別付かない状態で一体となった存在を創造する事になる。キリストが“私と父とは一つである”と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の二人の人物が一体となる事は考えられない事であり、理性が即座に反発する。
それともキリストは父なる人間として顕現したと言う意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり、わたしもそうである。何故なら神は全存在に宿り給うからである。
あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体として其のまま宿ったと言う事であろうか。もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じ様に神は完全なる形で宿っている事になる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。
しかしそれを神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないと言う言い方をすれば、それは単なる一個の俗説に過ぎず。それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。
何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストがすなわち神となって両者の区別がつかない事になるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。
それ故吾々が第一に理解しなければならぬ事は“父”と言うのは神について吾々が考える限り最高の要素を差す為の名称に過ぎないと言う事である。もっとも吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。何故なら正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。
私には父なる定義することはできない。未だ一度もそのお姿を拝したことがないからである。それより以下の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が排したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。
ならばキリストと父との一体性の真意もまた、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考しうる限りの事を述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。
地上においてキリストは父なる神を身をもって証言しておられた。つまり人間の身体によって顕現し得る限りの神の要素を吾々に示されたと言う事である。それ以上の事は判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まりゆくことであろう。
キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。“人間性”と呼ぶものと“神聖”と呼ぶものと融合したキリストの中に存在する事によって、吾々は父なる神の中に存在する。
キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。例え語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。
さて以上の説を読まれて、これで私は人間が組み上げてきた足場組を徒(イタズラ)に取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないではないかと言う者もいるであろう。が、私の目的は頭初に述べたように、建物を構築することではない。
今何よりも必要なのは確固たる基礎づくりである事を指摘する事であった。脆弱な基礎の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩必ず崩壊して多くの労力が徒労に終わることは必定である。実は人間はまさにそれに等しい事をこれまで延々と続けてきたのである。
そして自らは其れに気づいていない。明確であるべき多くの事が曖昧模糊としている原因はそこに在る。“良くは知らぬ。がしかし…”というセリフで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。
又深遠な問題に対して即座に応える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じている事があり、傲慢から真実は生まれず、又愛すべきものでもないからである。
貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見え祝福し合う。では私から祝福を述べる事にしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。†
第5節 第十界の住居
1913年11月19日 水曜日
そういう次第であるから、私が語る言葉は多くの者にとって受け入れ難いものであろう。が、この事だけは知っておいてほしい。キリストの祭日には東からも西からも大勢に信者がキリストの神性の真相を知らぬまま参列する。が、その人間的優しさと愛ゆえにキリストに愛を捧げる。
少なくてもそこまでは理解できるからである。が、その神性の本質を理解する者は一人としていない。そこでこれより話題を変えて、まず肉体に宿る人間がキリストによって示された向上の道を歩む上において心すべき事を取り上げてみよう。
何よりもまず人間は“愛する”事が出来なければならない。これが第一に心がけることであり、又最大のものである。難しいのはこれを持続することである。
互いに愛し合うべきであると言えば、誰しもその通りであると言う。が、これを行為で示す段階に至ると、悲しいかな能書き通りにはいかない。しかし、愛なくしてはこの宇宙は存在し得ず、
崩壊と破滅の道を歩むであろう。宇宙が今あるべき姿に保ち続けているのは神の愛あればこそである。その愛は、求める者ならば至るところに見出す事が出来る。
ものごとを理解する最上の方法はその対照を求める事である。愛の対象は崩壊である。何故なら、崩壊は愛の行使の停止から生じる憎しみも愛の対象である。もっとも、本質的には対立したものではない。憎しみは往々にして愛の表現を誤ったものに過ぎないからである。
人間について言える事は其のまま教義や動機についても言える。他の主義、主張を嫌うその反動で一つの主義に傾倒すると言う者が数多くいるものである。
愚かしくもあり誤ってもいるが、必ずしも悪とは言えない。が人間は他を憎む時、憎むが故に愛する事が出来ない事になり、ついには何ものをも愛する事が出来ない事になる事を知らねばならない。
これが実はこちらの世界でも面倒を増幅する種の一つなのである。と申すのは、誰しも憎まずにして全てを愛する事が出来るようにならない限りは、愛がすなわち光を意味するこの世界においての進歩は望めず、愛する事を知らぬ者は暗き世界において道を見失い、その多くが身も魂も生気をなくし、ついには真理の鑑識力までが外界と同じく朦朧(モーロー)としてくるのである。
一方には一つ一つの石材までが光輝を放つ“天界の住処”が無数に存在し、辺り一円、遥か遠き彼方まで光を放っている。その光はそこに住む者の愛の純粋さが生み出すのである。
―そうした住居と、そこに住む人々について具体的にお教え願いませんか。その方が一般的な叙述より判り易いと思うのですが。
それは容易なことではない。その困難さはいずれこちらへ来て見れば判る。例え要求に応じても、貴殿が得るものは結果的には真実からずれる―少なくとも不適切なものになる。
その事もいずれ理解が行く事と思うが、たつての要求とあらば、何とか説明してみよう。何か特別に叙述して欲しい事があれば申すがよい。
―ではあなたご自身の住まいから。
第十界においては低級界の存在しない事情、特に地上では全く見られぬ事情がある。
例え貴殿をその十界まで案内したところで、貴殿の目には何も映らないであろう。霊的状態が其の界の状態にそぐわないからである。
せいぜい見えるのはモヤの如き光―それも其の界のどの地域であるかによって程度が異なる。九界そして八界と下ればより多くのものがみえるであろうが、やはり全ては見られない。しかも目に映じたものをすみずみまで理解する事は出来ないであろう。
仮に一匹の魚を盛ったガラスの器に入れて街中を案内したとしよう。その魚には、まず第一にどれほどのものが見え、第二にそれがどれほど理解できるであろうか。
思うに、魚にはその住処―水つまり魚本来の環境からせいぜい二、三インチ先しか見えないであろう。貴殿の顔を魚の見える位置に持って生き、次に手を見せてやるがよい。魚にはその二つのものがどう映るであろうか。
人間が吾等の界へ来た時もそれと同じである。内在する霊的能力を活性化し、楽に使用できるようになるにはただ“鍛錬”のみである。さて、話を更に進めて、例えばその魚にウエストミンスター寺院を説明するとなったらどうするか。
村の教会でもよい。それを魚の言語で説明しなければならない。その話を聞いた魚が貴殿の言う事が不合理であると言ったところで、それは魚の能力の限界の為に貴殿の思うに任せぬからに過ぎない。
もし村の教会やウエストミンスター寺院の様なものがある訳がないと魚が言ったところで、それは貴殿の説明がまずいのではなく、魚の方の理解力に原因がある事をどうすれば納得させる事が出来るであろうか。が
たつての要望であれば、これより私の住居、私の寛ぎの場について出来るだけの説明を試みてみよう。が終わって見れば多分貴殿はもっと何とかならないものかと思うであろうし、いっそうの事何も語らずにいた方が良かったと言う事になるかもしれない。
吾らが住居を建立している国は数多くの区域にまたがっており、それぞれの区域からはその特質を示す無数の色彩が発散され、それが私と共に住む者たちの霊性とほぼ完全に一致している。
それらの色彩のほとんどは貴殿の知らぬものばかりであるが、地上の色彩も全て含まれており、それが無限と言えるほどの組み合わせと色調を持っている。我らが携わるその時その時の仕事によって調和の仕方が異なり、それが大気に反映する。
又吾等の界へ届けられる様々な思念と願望にたいしても、その住居が反応を示す。それには下層界からの祈りの念もあれば上層界からの援助の念もあり、その最下層に地上界が存在する。
音楽も放送される。必ずしも口を使う事とは限らない。大抵は心から直接的に放送し、それが近隣の家々に反響する。これも吾らによる活性化の一端である。
周囲の樹木、花等の全ての植物もその影響を受け、反応を示す。かくて色彩と音楽と言う本来生命の無い存在が吾らの生命力を受けて意識に反響する事になる。
家屋の形は四角である。が、壁は四つだけでなく、また壁と壁とが向き合っているのでもない。全てが融合し、又内と外とが壁を通して混ざり合っている。
壁は保護の為に在るのではなく、他に数々の目的がある。その一つはバイブレーションの統一の為、つまり吾等の援助を必要とし、又その要請のあった地域へ意念を集中する時に役たてる。
かくて我々は地上からの祈りにも応えて意念を地上へ送り、他の諸々の手段を講じて援助を授ける事になる。
同じく上層界からの意念が吾々の界へ届けられ、それが吾々の家屋を始めとして他の用意した幾つかの作用によって吾々の感覚に反応するものに変えられ、それを手段として高級神霊との連絡を取り、吾々を悩ませる問題についての指導を受ける事もある。
更には、反対に下層界から使命を帯びて吾々の界へ訪れるものにこの界の環境条件に慣れさせ、滞在中の難儀を軽減するために霊力を特別に授ける時も、この家屋を使用する。
又、吾々と話を交わし、吾々の姿を見せ、声を聞く事が出来るようにして上げるのにも、その家屋にそなわっている作用が活用される。それなくしては彼らは使命が全うできないのである。
私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の一住民による叙述によって紹介しよう。彼は私に家を見た時に“隠し得ぬ光に包まれし丘上の都”(マタイ5・14)と言う言葉を思い出したと言う。
見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止り地面へ降下した。(そこまで空中を飛行していたのである)そこで暫し彼は眼を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。
例の塔(第一巻参照)も見えたが、その青い光が余りに強烈で、何処まで光輝が届いているか見分けがつけなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。
それから例のドームも…赤色のもあれば黄金色のもある…その光輝が余りにも眩しく、何処で終わっているのか、その全体の規模を見る事が出来なかった。
門も外壁も同じく銀色、青、赤、スミレ色に映え、眩いばかり光で丘全体と周囲の森を覆い尽くし、それを見た彼は、そこへいかにして入り、そして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとの事であった。
が、彼らは既に其の者の姿は見えていた。そこで使いの者を派遣ししかるべき処置を施させたのであった。無事使命を終えて吾らに別れの挨拶をしに見えた時彼はこう述べた。
「今お別れするに当たって私の心に一つの考えが付きまとっています。それは、私が戻れば仲間の者から私が訪れた都はいかなるところであったかと聞かれる事でしょうが、一旦自分の本来の界層に帰り、再び元の限りある能力での生活に戻った時、この光栄をどう語れば良かろうかと言う事でございます」
私は答えた「これ以降、あなたは二度と嘗てのあなたに戻る事は無いでしょう。何となればあなたの中にこの界の光と感受性とが幾らかでも残る筈だからですあなたの記憶に残るものは仲間に告げ得るものより遥かに大きいことでしょう。
何故なら、例え告げても理解してもらえないでしょうし、告げようとすればこの界の言語を使用せざるを得ないからです。
それ故あなたは彼らにこう告げられるが宜しい…より一層の向上に鋭意努力する事です。そうすれば自ら訪れて、語ってもらえないものを自ら見る事が出来るでしょう。と」
聞き終わると、彼は大いなる喜びの内にこの界を後にした。同じ事がいずれ貴殿の身の上にも訪れる日が来るであろう。彼に告げた最後の言葉を此処で貴殿にも与える事にしよう。†