第6章 見えざる宇宙の科学
[本章は、これまでオーエン氏の母親からの通信の中に時折割り込む形で綴られたアストリエルと名乗る霊からの通信をまとめたものである。99ページ<原著者ノート>参照]
第1節 祈願成就の原理
1913年10月7日 火曜日

この度始めて同行してきた霊団の協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より見た信仰の価値について少しばかり述べてみたいと思う。キリスト教の信徒信条に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。

すでに多く語られ、それ以上の深いものをまだ人間側にそれを受け入れる用意が充分に出来ていないからである。そこで我々は差し当たってその問題については貴殿の判断にお任せし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている。と述べるに留めておきます。

そこで我々としては現在に地上の人間が余り考察しようとしない問題を取り上げる事にしました。その問題は、人間が真理の表面―根本真理でなく真理のうわべに過ぎないもの―についての論争を卒業した暁には必ず関心を向けるようになるものである。

それを正しく理解すれば、今人間が血眼になっている問題の多くがどうでも良い些細なことである事が判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向ける事になるでしょう。

その一つが祈りと瞑想の効用の問題である。貴殿はこの問題については既にある程度の教示を受けておられるが、我々がそれに追加したいと思います。

祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されてしかるべきものです。

祈りに実効を持たせるためには、その場限りの事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛りこみたいと思っていた有象無象の頼みごとの大部分が視界から消え、より重大で幅広い問題が想像力の対象として浮かび上がってくる。

祈りも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を五千人分に増やしたと言うイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。

その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として”祈りが叶えられる“ことになる。つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的解答が与えられるのです。

祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。

放射された意念が目標物にあたらずに逸れてしまい僅かに的中した分しか効果が得られないことになる。さらにその祈りに良からぬ魂胆が混入しても効果が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。

どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。さて、こうしたことは人間にとっては取り留めのない話の様に思われるかもしれませんが、吾々にとっては些かもそうではない。

実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分別し、選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る、そこで更に検討が加えられ、その価値評価に従って然るべき処理されているのです。

これを完璧に遂行する為には、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。たとえば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。

そして科学者にもまだ扱いきれない光線が存在する事が認識されているように、我々の所に届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションを持つものがあります。

それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこで一段と高い叡智による処理に任される。

高等な祈りが全て聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。その訴え、その嘆きが国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。

「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」―天使がコルネリウス(*)に告げたと言われるこの言葉を御存じであろう。

これは祈りと善行が其の天使の前に形態を取って現れ、多分その天使自身を含む霊団によってたかき世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。

この言葉は次のように言い替える事ができよう。―“貴殿の祈りと善行は私が座長を勤める審議会に託され、その価値は正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人よりさらに上の界の審議官によりても殊の他価値あるものとのご認知を頂いた。

依ってここに命を受けて参じたものである”と。我々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、此方では実際の事情を出来るだけ理解して頂こうとの配慮からです。(ローマ教皇251-253)

以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味して頂けば、我々霊界の者が目の当たりにしている実在の相をいくらか推察して頂けるであろう。

そして大切なのは、祈りについて言えることが其のまま他のあまり関心出来ぬ心の働きにも当てはまると言う事です。例えば憎しみや不純な心、貪欲その他諸々の精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、此方では立派な形態を取って現れるのです。

悲しいかな天使は嘆く事を知らぬと思いこむような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く我々の心中をご存じない。

神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々の為に我々がいかに心を砕いているかご覧になれば、我々の愛着を感じて下さると同時に、むやみに神格化してくれる事も無くなるでしょう。

さてこの問題は貴殿が其の価値をお認めになれば、後はご自分で深く考究して頂く事にして、貴殿はもう少し通信を続けたいとのお気持なので、貴殿にとって興味もあり為にもなる別の問題を提供しようかと思います。

貴殿の教会の尖塔に風見鶏が付いております。あれは貴殿があの様な形にしようと決められた事は覚えておられる事と思いますが、いかがであろう。

今あなたから指摘されるまですっかり忘れておりました。おっしゃる通りです。建築家から何にするかと言われて魚と鶏のどっちにしようと迷ったのですが、最終的には鶏にしました。でもそんな事が何の意味があるのでしょうか。

ごもっとも貴殿にとっては些細な事でしょうが、我々の世界から観ていると、些細な事と言うのは滅多にないものです。

鶏の格好をしたものがあの塔の先に付いている光景は実は5年前に貴殿の精神の中で一連の思念の働きの直接の結果でした。一種の創造的産物と言う訳です。こんな話を聞けばお笑いになる方も多いでしょうが、それは一向に構いません。

我々の方から観ても人間のする事に苦笑する事が多々あり、何故笑うのか理解に苦しまれるであろうことがあるものです。

貴殿が何気なく決めた時の一連の思念の働きと言うのは、風見鶏を見る事によって信者の方に、ペテロが主イエスに反いたことを思い出してもらおうと言う事でした。

思うに貴殿は今の時代に二度とペテロと同じ過ちを繰り返さぬように其の警告のつもりだったのでしょう。しかしただそれだけの一見些細に思える決断が我々の世界へ届き、我々はそれを真剣に取り上げたのです。

申し上げますが、新しく教会を建立すると言う事は実は此方の世界からの大いなる働きかけを誘う大事業です。新しい礼拝の場の建立ですから、礼拝に出席する霊、建物を管理する霊、等々実に大勢の霊が其々の役目を与えられてその遂行に当たります。

貴殿の同僚の中にはその様子を霊視した人がおられますが、その数は極めて限られております。牧師、会衆、聖歌隊、等々のそれぞれの性格を考慮に入れ、我々の中の最適の霊、つまり指導する対象にとって最も相応しい霊を選出し、さらには建物の構造までに細かく配慮する。象徴性は特に念入りに検討します。

人間には気づかない重要な意味があるからです。風見鶏もその意味で考慮した訳です。

話題としてはもっと大きなものを取り上げてもよさそうですが、一見何でもなさそうに思えるものでもちゃんとした意味がある事をお教えしたくて、これを選んだ訳です。

さて、シンボルとして貴殿が風見鶏を選んだからには、我々としてもそれに応えて教会に何かを寄贈しようと言う事になった。それがわれわれの習慣なのです、そこで選ばれたのが例の鐘で、その為に聖歌隊の一人に浄財を集めさせたのです。

教会が完成して祝聖式が行われた時はまだ鐘は付いておりませんでした。雄鶏は中空高く聳えていても、その口からは貴殿の目論む警告が発せられない。

そこで我々がその“声”を雄鶏に与えたと言う次第です。鐘の音が雄鶏の言葉、―“夕べの祈り”の時も聞こえていた如く―です。

貴殿はこうした事を霊界での幻想とでも思われますか。ま、そういう事にでもしておきましょう。でも、とにかくあの鐘の事は有難いと思われたのではないですか。

―それはもう本当にうれしかったです。この度の通信にもお礼申し上げます。宜しかったらお名前を伺いたいのですが。

我々は貴殿のご母堂が時折訪れる界から参ったものです。実はご母堂から我々のもっと貴殿を身近に観察して、出来れば何かメッセージを送ってほしいとのご要望があった。仲間の方と一緒に来られたのです。

霊団を代表して私から言わせて頂けばこの度の事は我々も喜んでお引き受けいたしました。が実は貴殿の事も教会の建立のことも、ご母堂からお聞きする前から知っておりました。

―御厚意に感謝いたします。お名前をお聞きするのは失礼にあたりましょうか。

別に失礼ではありませんが、申し上げても貴殿は御存じないし、その名前の意味も理解できないのではないかと思いますが。

でも宜しかったらぜひお教えください。

アストリエル。神の祝福を。†

<アストリエル霊は通信のお終に必ず十字架のサインをした>


第2節 神々の経綸
1913年10月9日 木曜日

この度も貴殿のご母堂の要請を受けて参じました。再びベールのこちら側より語りかける機会を得て嬉しく思います。こうして地上へ戻ってくる事を我々が面倒に思っているとは決して考えないで頂きたい。

勿論地上の雰囲気は我々の境涯に較べて明るさに掛け、楽しいもので無い事は事実ですが、こうして使命を仰せつかる事の光栄はそれを補って余りあるものがあります。

今回は天体の科学について述べてみたく思います。貴殿にも興味がおありであろうし役に立つと考えるからです。科学と言っても地上の科学者が行っている単なる物質の表面的分析の事ではありません。その構成要素の内奥に関わるものです。

御承知のように恒星はその一つ一つが周囲に幾つかの惑星を従えた一個の組織を構成していると言うところまでは認識されていますが、実はそれのみでなく、組織全体にわたって地上の

いかに精巧なる機器や秀でた頭脳を持ってしても鑑識出来ない程精妙な粒子が行き亘っております。その粒子は物質と霊質との中間的存在で、物質的法則と霊的法則の両方の働きに反応します。

それと言うのも、両者は根源的に多面性を有する一個の進化性を持つ有機的組織の二つの面を表すに過ぎず、あたかも太陽と其の惑星の関係の如くに互いの作用と反作用とを繰り返しています。

重力もその粒子に対し物的・霊的の両面において反応します。吾々が心霊実験において写真の乾板に、さらには肉眼に感応するまでに霊体に物質性を付加する時に使用するのがこのエネルギーです。本当は貴殿に理解できない要素があるのですが、貴殿の知る用語としては“エネルギー“しかないのでとりあえずそう呼んでおきます。

それ以外にも広い規模で機能しております。例えばもしその粒子が存在しなかったら大気は真っ暗になります。つまり太陽や恒星からの光線が地球まで届かないと言う事です。

なぜかと言えば、そもそも光線が肉眼に映じるのは光波がその粒子に当たった時の反射と屈折の作用のせいだからです。”伝導“と言うのは正しくありません。

伝導とか伝達には別の要素が関わっており、それについてはここでは次のように述べるに留めておきます。すなわち、人間の肉眼に映じているのは光線でもなく光波でもなく、光線が其の精妙な粒子に当たった時の衝撃によって生じる波動である、と。

この問題に関しては地上の科学者はまだまだ学ばなければならない事が沢山あります、と言ってそれを我々がお教えすることは許されません。人間が自らの才能を駆使して探るべきものだからです。

もしその範囲を逸脱して教えてしまえば、地上と言う物的教育の場が地球ならではの価値を減じます。人間の個人的努力ならびに協調的努力によって苦心しながら探る事の効用を台無しにすることのない範囲に援助を抑えているのは、そういう理由によります。

この点をよく明記して頂きたい。その点を理解して頂けば、こうした通信において吾々が良く釈明する事がある事も納得がいかれると思います。

さて、恒星は光を放射している。が、放射するにはそれを内部に蓄えておかなければならない。しかし恒星は自らを自らの力で捉えた訳ではない以上、エネルギーを蓄えるには何処からか与えてもらわねばならない理屈になります・では一体誰が与え、どう言う過程で与えられるのであろうか。

「それは神が与えるのである。何となれば神は万物の根源だからである」―こう言ってしまえば無論簡単である。そしてそれは確かにその通りなのであるが、実際に其の事に携わるのは神の使徒である天使(*)であり、その数は人間的計算の域を超えます。そしてその一人一人に役目が割り当てられているのです。(*日本神道で言う八百万の神々である)

実は恒星は、整然たる秩序と協調性を持って経綸に当たるその数知れぬ霊的存在からエネルギーを賦与されている。霊的存在が恒星の管理に当たっているのであり、各々の恒星が天体としての役目を遂行するためのエネルギーはそこから受けるのです。

貴殿に是非とも知って頂きたいのは神の造化の王国には何一つとして盲目的ないし無意識的エネルギーは存在しないと言う事です。光線一本、熱の衝撃波一つ、太陽その他の天体からの電波一つにしても、必ずそれには原因があり、その原因には意識的操作が加わっている。

つまり、有る意識的存在による確固たる意図にもとづいた、ある方角への意思の働きがあると言う事です。その霊的存在にも無数の階級と種類があり、霊格は必ずしも同じでなく、形態も同一ではありません(*)。

がその働きは上層界の霊によって監督され、その霊も又さらに高い霊格と崇高さを具えた神霊によって監督されているのです。(*日本の古神道ではこれをひとまとめにして“自然霊”と呼んでいる)

これら物質の大きな球体は、ガス体であろうが、液体であろうが固体であろうが、あるいは恒星であろうが彗星であろうが、全てが連動され、エネルギーが活性化され、其々に存在価値を与えられている。

何か機械的な働きによるものではなく、そうした意識的存在が内面より先に述べた法則に則って働きかけております。今“知的存在”と言わずに“意識的存在”と言いましたが、創造神のもとで造化の大事業に勤しむ霊的存在はそのすべてが必ずしも知的ではありません。

貴殿が理解しているところの“知性”を持つ存在は全体の割合から言うと極めて限られております。但し驚かないで頂きたいのは、貴殿が“知的存在”と呼ぶであろう処の存在は、実は、下等な存在と高等な存在の中間に位置する程度のものであり、其の下等な存在は知的とは言えませんが、全体の経綸にあたる高等な存在になると貴殿の言う“知的”と言う用語の遥かに超えた、崇高なる存在ばかりです。

其の下等と高等の中間に、知的存在と呼ぶに相応しい霊の住む界層が幾つも存在します。
注意しておきますが、下等と言い高等と言い知的存在と言い、その意味するところは地上の人間が使用するものとは違います。

貴殿がこちらへこられてある程度こちらの事情に慣れれば、その本来の意味が判るでしょう。私は地上の言語を使用しているのであり、貴殿の立場に立って説明している事を忘れないで頂きたい。

さて以上の説明によって霊と物質とがいかに緊密なる関係にあるかがお判りになるでしょう。そして又、先日の夜にお話した貴殿の教会の建立と指導霊の働き、なかんずく例の風見鶏に関するものは、今述べたのと同じ創造の原理を小規模の形で物語ったものに他なりません。

小規模とはいえ、全く同じ原理なのです。数知れぬ恒星と惑星の存在を維持する為の機構と同じものが各種の原子の集合体―石材、木材、レンガ等―の配列に関与し、その結果があの教会と呼ぶ一個の存在の創造となった訳です。

その素材は奔流の如き意念の働きによって、それぞれの位置にあってしっかりと他と連動されています。他とのつながりなしにおかれているのではありません。もしそんなことをしたらすぐ崩壊が始まります。バラバラになってしまいます。

今述べた事に照らして、貴殿らが教会とか劇場とか住居とか、その他諸々の建物に入った時の“印象の違い”について考えて見られると宜しい。其々の機能に相応しい影響力が放射されておりますが、それは今我々が解説したのと同じ原理が働いた結果です。

言ってみれば霊から霊への語りかけ―物的身体を持たない霊が物的粒子を媒体として、その建物に入ってくる人間の霊に働きかけているのです。

お疲れのようですね。通信がしにくくなりました。これにて失礼します。宜しければ改めて又参りましょう。貴殿ならびにご家族、教会関係の皆様に幾久しく神の祝福のあらんことを。
アストリエル†


第3節 天体の霊的構成
1913年10月16日 木曜日

吾々が霊界の事情について述べる事の中にもしも不可思議で非現実的に思えるものがある時は、此方には地上の人間に捉えられないエネルギーや要素が沢山なる事を銘記して頂きたい。そのエネルギーは地上の環境にまったく存在しない訳ではありません。

大半が人間の脳では感知し得ない深い所に存在するという事です。霊的感覚の発達した人にはある程度―あくまである程度でしかありませんが―感知できるかもしれません。

霊的に一般のレベルより高い人は平均的人間にとって“超自然的”と思える世界との境界線辺りまでは確かに手が届いております。

その時に得られる霊的高揚は知能や知識をいくら積んでも得られない性質のもので、霊的に感得するしかないものです。


今夜もまたご母堂の要請で、人間界について吾々が見たまま知り得たままを語りに参りました。可能な範囲に限ってお話しましょう。それ以上の事は、すでに述べた如く吾々には伝達技術に限界があり、従って内容が不完全になります。

―アストリエル様ですか。

―アストリエルと其の霊団です。

まずイエスキリストの名において愛と平和の御挨拶を申し上げます。我々にとっての主との関係は地上における人間と主の関係と同じです。ただ、地上にいた時に曖昧であった多くの事がこちらへ来て明らかとなりました。そこで厳粛なる気持ちで申し上げます。

―主イエスキリスト神性の真意と人間とのかかわりの真相を知らんと欲するものは、どうか恐怖心に惑わされることなく敬虔なる気持ちを持って一心に求めよ、と。そういう人にはこちらの世界から思いもよらない導きがあるものです。

そして又、真摯に求めるものは主の説かれた真理の真意がいずこにあるかをしつこく問い詰めようと、決して主への不敬には成らない。―何となれば主がすなわち真理だからである。と言う事を常に心に留めて頂きたく思います。

しかしながら、我々にもそれと同じ大胆さと大いなる敬意をこめて言わせて頂けば、地上のキリスト教徒の間で“正統派”の名のもとに教えられているものの中には、此方で知り得た真相に照らして見た時に、多くの点において適正さと真実性に欠けているものがあります。

と同時に、それ以上のものを追求する意欲と、神の絶対愛を信じる勇気と信念に欠ける者が多すぎます。

神は信じて従うものを光明へと誘い、その輝ける光明が勇気あるものを包み、神の玉座へ通じる正しく且つ聖なる道を教え示して下さる。

その神の玉座に近づける者は何事をも克服していくだけの勇気ある者のみである事、真に勇気ある者とは、怖じ気づき啓発を望まぬ仲間に惑わされることなく、信じる道を平然と歩む人の事である事を知ってください。

さて前回の続きを述べましょう。貴殿に納得のいくものだけを信じて頂けば宜しい。受け入れ難いものは構わないで宜しい。そのうち向上するにつれて少しずつ納得がいき、やがて全体の理解がいきます。

前回は天体の構成と天体間の相互関係について述べました。今回はその創造過程と、それを霊的側面から観察したものを、少しばかり述べましよう。

御承知の如く、恒星にも惑星にも、その他物的なもの全てに“霊体”が具わっております。其の事を貴殿は御承知と思いますので、それを前提として吾々の説を披露します。

天体は“創造界”に属する高級神霊から出た意念が物的表現体として顕現したものです。全天体の一つ一つがその創造界から発せられた思念と霊的衝動の産物です。

その創造の過程を見ていると、高級神霊が絶え間なく活動して、形成過程にある物質に霊的影響力と、その天体特有の言わば個性を吹き込んでおります。

かくして、例えば太陽系に属する天体は大きな統一的機構に順応してはいても、其々に異なった性格を持つことになる。

そしてその性格は責任を委託された天使(守護神)の性格に呼応します。天文学者は地球を構成する成分の一部が例えば火星とか木星とか、あるいは太陽にさえも発見されたと言う。それは事実であるが、その場合あるいは組み合わせが同じであると考えたら間違いです。

各天体が独自のものを持っております。ただそれが一つの大きな統合体系としての動きに順応しているとのことです。太陽系を構成する惑星について言える事は、其のままさらに大きな規模の天体関係についてもあてはまります。

つまり太陽系を一個の単位として考えた場合、他の太陽系とは構成要素の割合においても成分の組み合わせにおいても異なります。各太陽系が他と異なる独自のものを有しております。

さてそういう原因は既に説明したとおりです。各太陽系の守護神の個性的精神が反映する訳です。守護神の配下に更に数多くの天使が控え、守護神の計画的意図に沿って造化の大事業に携わっている。

とはいえ、各天使にはその担当する分野において自由意思の行使が赦されており、それが花と樹木、動物、天体の表面の地理的形態と言った細かい面にまで及ぶ。千変万化の多様性は其の造化の統制上の“ゆとり”から生まれます。

一方、其のゆとりある個性の発揮にも一定の枠が設けられている為に、造化の各部門、更にはその部門の各分野にまで一つの統一性が行き亘る訳です。

こうした神霊の監督のもとに、更に幾つかの段階に分かれた霊格の低い無数の霊が造化に関わり、最下等の段階に至ると個性的存在とは言いかねるものまで居る。

その段階においては吾々のように“知性”と同時にいわゆる自由意思による独自の“判断力”を所有する存在とは異なり、“感覚的存在”とでも呼ぶべき没個性的生命の種族が融合しております。

―物語に出てくる妖精(フエアリー)小妖精(ピクシー)精霊(エレメンタル)と言った類の事ですか。

その通り皆本当の話です。それに大抵は優しい心をしています。ですが進化の程度から言うと人間よりは遥かに低くそれで人霊とか、天使と呼ばれるほどの高級霊ほどその存在が知られていない訳です。

さて地球それ自身についてもう少し述べてみましょう。地質学者は岩石の形成過程を沖積層とか火成岩とかに分けますが、良く観察すると、其の中には蒸気状の発散物―磁気性の成分とでも言っても良さそうなものを放出しているものがある事が判ります。

それがすなわち、その形成を根源にして担当した霊的存在による“息吹”の現れです。こうした性質はこれまで以上にもっともっと深く探求する価値があります。科学的成分の分析はほぼ完了したと言えますが、休むことなく活動しているより精妙な要素の研究が疎かにされている。

岩石の一つたりとも休止しておらず、全成分が休むことなく活動していると言うところまで判れば、その作用を維持し続ける為には何か目に見えない大きなエネルギーがなければならない事、更にその背後にはある個性を持った“施主”が控えているに相違ないと言う考えに到達するには、もうあと一歩でしかありません。

これは間違いない事実です。その証拠に、そうした目に見えない存在に対する無理解の為に被害を被る事があります。これは低級な自然霊の仕業です。

一方“幸運の石”(ラッキーストーン)と呼ばれるものをご存じと思いますが、これはいささか曖昧ではありますが、背後の隠れた真相を物語っております。

こうした問題を検討するに際しては“偶然”の観念を一切拭い去って秩序ある因果律と置き換え、曽に因果律を無知なるがゆえに犯しているその報いに過ぎないとお考えになれば、我々が言わんとする事にも一理あることを認めて頂けるでしょう。

便宜上、話題を鉱物に絞りましたが、同じ事が植物界や動物界の創造にも言えます。今夜はそれには言及しません。こうした話題を提供したのは、科学に興味を抱く人でこれまでの科学では満足できずにいる人に、見えざる世界に奥することなく深く踏み込める分野がいくらでも開けている事をお知らせしようと言う意図からです。

以上を要約してみましょう。それに納得がいかれれば吾々が意図した結論も必然的に受けいれねばなりません。つまり物的創造物はどれ一つとってもそれ自体は意味がないし、それ一つの存在でも意味がない。

それは高級神霊界に発した個性的意念が低級界において物質と言う形態となって表現されているもので、霊的観念が原因であり、物的創造は其の結果だと言う事です。

ちょうど人間が日常生活において自分の個性の印象を物体に残しているように(*)創造界の神々と其の霊団が自然界の現象に個性を印象付けている訳です。

(*サイコメトリと言う心霊能力によって、物体を手にするだけでその物体に関わった人間の事が悉く読み取れる)

何一つ静止しているものはありません。全てがひっきりなしに動いております。その動きには統一と秩序があります。それは休むことなく働きかける個性の存在を証明するものです。

下等な存在が高等な存在の力によって存続する様に、其の高等な存在は更に崇高なる守護神の支配を受け、その守護神は宇宙の唯一絶対のエネルギー、すなわち宇宙神の命令下にあります。が、そこに至るともはや吾々の言語や思索の域を超えております。

宇宙神に対しては、全てはただただ讃仰の意を表するのみであり、我々は主イエスの御名において崇高の意を表するのみです。全ては神の中に在り、全ての中に神がまします。
アーメン†


第4節 霊的世界の構図
1913年10月24日 金曜日

今夜もまた貴殿のご母堂ならびにその霊団の要請を受け、私の霊団と共にメッセージを述べに参りました。貴殿にとって何が一番興味があろうかと考えた挙句に吾々は、地上へ向けられている数々の霊力の真相を幾らかでも明かせば、貴殿ならびに貴殿の信者にとって、地上生活にまつわる数々の束縛から解脱した時に始めて得られる膨大な霊的知識へ向けて一歩でも二歩でも近づく足掛かりとなり、天界への栄光へ向けて自由に羽ばたく事になろうとの結論に達しました。

―どなたでしょうか。

前回と同じ―アストリエルと其の霊団です。第十界(*)より参りました。話を進めても宜しいでしょうか。(*界が幾つあるかについての回答はこの先に出てくる=訳者)

―どうぞ、ようこそこの薄暗い地上界へ降りて来られました。さぞ鬱陶しい事でしょう。

“降りてくる”とおっしゃいましたが、それは貴殿の視点からすればなかなかうまい表現ですが、実際の事実とは違いますし、完璧な表現でもありません。

と言うのは貴殿が生活しておられる天体は虚空に浮いている訳ですから“上”とか“下”とかの用語の意味が極めて限られたものとなります。

其の事はすでに貴殿の筆録されたもの、と言うよりは霊的に印象付けられたものをお読みになって気付いておられる筈です。

最初地上へ向けられている“数々の霊力”と申しましたが、これは勿論地上の一地域の事ではありません。地球と呼ばれている球体全部を包括的に管理している霊力の働きの事です。

地球のまわりに幾つもの霊的界層があり、言わば円心円状に取り巻いております。下層界ほど地表近くに在り距離が遠のくほど力と美が増して行きます。

もっとも、その距離を霊界に当てはめる際は意味を拡大して理解して頂かないといけません。吾々にとっては貴殿らの様な形で距離が問題となる事がないからです。

例えば私がそのうちの十番目の界にいる以上は、大なり小なり其の界特有の境涯によって認識の範囲が制限されます。時折お許しを得てすぐ上の界、あるいは更にその上まで訪れる事は出来ますがそこに永住する事は許されません。

一方下の界に住む事は不可能ではありません。何となれば私が住む第十界も球体をしていますから幾何学的に考えても、下の九つの界を全部包含している事になるからです。

従ってこれを判り易く言い替えれば次のようになりましょう。すなわち地球は数多くの界の中心に位置し、必然的にその全ての界層に含まれている。

故に地球の住民はその全ての界層と接触を取る可能性を有しており、現に霊的発達程度に応じて接触している。―あくまで霊的発達程度です。何故なら其の界層は全て霊的であり物質的なものではないからです。

その地球の物質性は実は一時的な現象に過ぎません。と言うのは、地球は其れを取り巻く各界の霊力が物質となって顕現したものだからです。

実はそれらの界の他にも互いに浸透し合っている別の次元の影響もあるのですが、それは描(オ)いておきます。当面は今まで述べたもののみの考察に留めましょう。

さて、これで人間の抱く願望とか祈願とかがどういう意味を持つかが、ある程度はお判りでしょう。絶対的創造神ならびに(貴殿らに判り易い言い方をすれば)最高界ないしは再奥界にあって他の全ての界の全存在を包含する聖霊との交わりの手段なのです。

従って地球は創造神より託された計画のもとに働く聖霊によって行使される各種の、そして様々な程度の霊的影響力によって取り込まれ、包み込まれ、その影響を受けているのです。

しかし向上していくと事情は一段と複雑となってまいります。地球に属するその幾つかの界層に加えて、太陽系の他の惑星の一つ一つが同じように霊的界層を幾つも持っておるからです。

地球から遠く離れて行くと、地球圏の霊界と一番近くの惑星の霊界とが互いに融合し合う領域に至ります。

各惑星にも地球と同じように霊的存在による管理がいき届いておりますからそれだけ複雑さが増す訳です。此処まで来ると、霊界の探求が地上の熱心なお方がお考えになるほどそう簡単にできるものではない事が判り始めます。

ちなみに太陽を中心においてまわりに適当な惑星を配置した太陽系の構図を描いてみてください。それからまず地球の周りに、さよう、百個ほどの円を画きます。

同じ事を木星、火星、金星、その他にも行います。太陽にも同じようにして下さい。これで神界までも探求の手を広げる事の出来る、我々の汲めども尽きぬ興味のある深遠な事情が大雑把ながら判って頂けるでしょう。

しかし事はそれでおしまいではありません。今太陽について行った事を他の恒星と其の惑星についても当てはめてみなくてはなりません。そして各々の太陽系について行った上で、今度は太陽系と太陽系との関係についても考えなくてはなりません。

これで、あなたがこちらへおいでになったら知的探求の世界が無限に広がって行くと述べた真意が理解して頂けるでしょう。

所でその霊的界層が幾つあるのかと言う質問を良く受けます。ですが、以上の説明によって、まさか貴殿が同じ質問をなさる事はありますまい。

万一お聞きになっても多寡が第十界の住民に過ぎない吾々にはこうお答えするしかありません。―“知りません。また、これ以後同じ質問を何百回、何億回繰り返され、その間吾々が休むことなく向上進化し続けたとしても多分同じ返事を繰り返す事でしょう”と。

さて貴殿にはこの問題を別の角度から考えて頂きたい。以上述べた世界は霊的エネルギーの世界です。御承知の如く天体は科学者が“引力”と呼ぶ所のエネルギーによって互いに融合し合っておりますが、各天体の霊界と霊界との間にも霊的エネルギーの作用と反作用とがあります。

先ほどの太陽系の構図をご覧になればお判りの通り地球はその位置の関係上、必然的に数多くの界層からの作用を受け、それも主として太陽と二三の惑星が一番大きい事が推察されます。

その通りです・占星術にも意味があるのです。科学者はそれについて余計な批判はしない方がいいでしょう。と言うのは、霊的エネルギーと言うものが源として存在することを理解しない科学者には到底理解しがたい事であり、ともすると危険でもあるからです。

霊的エネルギーには実質があり、驚異的威力を秘めております。それがあればこそ各界がそれなりの活動ができ、他の天体と霊界との関係も維持されているのです。こうした問題になると最高の崇高の念と祈りの気持ちを持って研究に当たらねばなりません。

何となれば、そこは天使に経綸する世界であり、さらにその上には全ての天使をも一つに収めてしまう宇宙の大霊が座します。吾々はただ讃仰を捧げるのみ。何とお呼びすべきかも知りません。

近づかんとすれば即座に己の力の足りなさを思い知らされます。距離をおいて直視せんとしても、その光の強さに目がくらみ、一面真っ暗闇となってしまいます。

しかし貴殿に、そして未知なるものへの敬虔の念を抱かれる方に誓って申し上げますが、例え驚異によって立ちすくまれる事はあっても、神の存在感の消えうせる事は決してない事、神の息吹とはすなわち神の愛であり、其の導きは慈母が我が子を導く手にも似て、この上なく優しいものである事を自覚せぬ時は一時たりともありません。

それ故、貴殿と同じく吾々は神を信じてその御手に縋り、決して恐れる事はありません・栄光より更に大いなる栄光へと進む神々の世界は音楽に満ちあふれております。友よ来たれ。

挫けず倦まず歩かれよ、と申し上げたい。行く手を遮る霧も進むにつれて晴れて行き、未知の世界を照らす光が一層その輝きを増すことでしょう。未知の世界は少しも怖れるに及びません。

故に吾々は惑星と星たちの世界の栄光と神の愛の真っただ中を幼子の如く素直に、そして謙虚に進むのです。友であり同志である貴殿に今夜もお別れを述べると同時に、この機会を与えて下さった事に感謝申し上げます。

吾々の通信が、例え数は少なくても、真理を求める人にとって僅かでもお役に立つ事を願っております。では改めてお寝みを申し上げます。†

第5節 果てしなき生命の旅
1913年10月25日 土曜日

今夜も、宜しければ、死後の世界に関する昨夜の通信の続きをお届けしようと思います。引き続き太陽に関してですが、昨日の内容を吟味してみると、まだまだ死後の世界の複雑さの全てを述べ尽くしておりません。

と言うのも、太陽と各惑星を取り巻く界層が互いに重なりあっているだけでなく、其々の天体の動きによる位置の移動、―ある時は接近しある時は遠ざかると言う変化に応じて霊界の相互関係も変化している。

それ故、地球へ押し寄せる影響力は一秒たりとも同じではないといっても過言ではありません。事実その通りなのです。

又同じ地球上でも、その影響の受け方、つまり強さは一様ではなく場所によって異なります。それに加えて、太陽系外の恒星からの放射性物質の流入も計算に入れなければならない。

こうした条件を全て考慮しなければならないのです。なにしろそこでは霊的存在による活発な造化活動が営まれており、瞬時たりとも休む事がない事を銘記して下さい。

以上が各種の惑星系を支配している霊的事情のあらましです。地上の天文学者の肉眼や天体望遠鏡に映じるのはその外側に過ぎません。

ところが実は以上述べた事も宇宙全体を規模として考えた時は大海の一滴に過ぎない。船の舳先に立っている人間が海のしぶきを浴びている光景を思い浮かべて頂きたい。

細かいしぶきが霧状となって散り、太陽の光を受けてキラキラと輝きます。その様子を見て“無数のしぶき”と表現するとしたら、ではそのしぶきが戻って行く海はどう表現すべきか。

キラキラと輝く満天の星も宇宙全体からすればその海のしぶき程度に過ぎません。それも目に見える表面の話です。しぶきを上げる海面の下には深い深い海底の世界が広がっているのです。

もう少し話を進めてみましょう。そもそも“宇宙”と言う用語自体が、所詮表現できる筈のないものを表現するために便宜上もちいられているものです。従って明確な意味は持ち合わせません。地上のあらゆる詩人が宇宙を一篇の詩で表現しようとして。

中途で絶望して筆を折ったという話がありますが、それで良かったのです。もしも徹底的にやろうなどと意気込んでいたら、その詩は永遠に書き続けなければならなかった事でしょう。

一体宇宙とは何か。何処に境界があるのか。無限なのか。もし無限だとすると中心がないことになる。すると神の玉座はいずこにあるのか。神は全創造物の根源に位置していると言われるのだが。

いや、その前に一体創造物とは何をさすのか。目に見える宇宙の事なのか。それとも目に見えない世界も含むのか。

実際問題として、こうした所詮理解できない事をいくら詮索してみた所で何の役にも立ちません。もっとも判らないながらもこうした問題を時折探って見るのも、人間の限界を知る上であながち無益とも言えますまい。そう観念したうえで吾々は、理解できる範囲の事を述べてみたいと思います。

これまで述べてきた霊的界層には其々の程度に応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて一界又一界と、低い界から高い界へ向けて進化していく。そして、先に述べたように、そうやって向上していくうちにいつかは、少なくとも二つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。

さらに向上すると今度は二つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径を持つ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、二つ以上の太陽系まで包含してしまうほどの広大な世界に至る。

そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的、物的の区別なく、影響力を行使している。御承知の通り我々は惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化してきたところです。

その先にはまだまだ荘厳にして驚異的世界が控えておりますが、この第十界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実な事は何一つ判らないと言う有様です。

が、これで吾々が昨夜の通信の中で“神”の事を、何とお呼びすべきか判らぬ路にして不価値の存在のように申しあげた。その真意がおぼろげながらも理解して頂けるのではないかと思います。

ですから、貴殿が創造主を賛美する時、正直言ってその創造主の聖秩について何ら明確な観念はお持ちじゃない。“万物の創造主の事である”と簡単におっしゃるかも知れませんが、では、万物とは一体何かと言う事になります。

さて少なくとも吾々の界層から見る限り次の事は確実に言えます。すなわち“創造主”と言う用語をもって貴殿が何を意味しようと、確固たる信念を持って創造主に祈願する事は間違っていない。

その祈りの念はまず最低界に届き、祈りの動機と威力次第でそこでストップするものとそこを通過して次の界に至るものがある。中にはさらに向上して高級神霊界へ至るのもある。

吾々の遥か上方には想像を超えた光と美のキリスト界が存在する。そこまで到達した祈りはキリストを通して宇宙神へと届けられる。地上へ誕生して人類に父なる神の説いたあの主イエスキリストである。(この問題に関しては第二巻以降で詳しく説かれる)

ところで、以上に述べたことは全て真実であるが、その真実も、語りかける我々の側とそれを受ける貴殿の側の双方の能力の限界によって、その表現が極めて不適切となるのです。

例えば段階的に各界層を通過して上昇していくと述べた場合、あたかも一地点から次の地点へ、さらに次の地点へと、平面上を進むのと同じ表現をしている事になります。ですが実際は吾々の念頭にある界層は“地帯”と言うよりは“球体”と表現した方がより正確です。

何故なら繰り返しますが、高い界層は低い界層の全てを包んでおり、其の界に存在すると言う事は低い界の全てを存在すると言う事でもあるからです。

その意味で“神は全てであり、全ての中に存在し、全てを通して働く”と言う表現、つまり神の偏在性を説く事はあながち間違ってはいないのです。

どうやら吾々はこのテーマに無駄な努力を費やし過ぎている感じがします。地球的規模の知識と理解力を一つの小さなワイングラスに例えれば、吾々はそれに天界に広がる広大なブドウ畑からとれたぶどう酒を注がんとしているようなもので、この辺でやめておきましょう。

一つだけお互いに知っておくべきことを付け加えておきますが、その天界のブドウ園の園主(宇宙神)も園丁(神々)も霊力と叡智において絶対的信頼のおける存在であると言う事です。

人生は其の神々の世界へ向けて果てしない旅であり、吾々は目の前に用意された仕事に精を出し、感遂し、成就し、それから次の仕事へと進み、それが終わればすぐまた次の仕事が待っている。かくしてこれでお終いと言う段階は決して来ない。

向上すればするほど“永遠”あるいは“終わりなき世界”と言う言葉に秘められた意味の真実性を悟るようになります。しかし貴殿にそこまで要求するのは酷というものでしょう。失礼な言い方かもしれませんが。

では再び来れることを希望しつつお別れします。ささやかとは言え天界の栄光の一端をこうして聞く耳を持つものに語りかける事が出来るのは有難いことであり、楽しい事でもあります。

どうか、死後に待ち受ける世界は決して黄昏に包まれた実体なき白日夢の世界ではない事を確信して頂きたい。そしてその事を聞く耳を持つ者に伝えて頂きたい。

断じてそのような世界ではないのです。そこは奮闘と努力の世界です。善意と努力とが次ぐ次と報われ成就される世界です。父なる神へ向けて不屈の意思を持って互いに手を取り合って向上へと励む世界です。

その神の愛を吾々は魂で感じ取り鼓舞されてはおりますが、そのお姿を排する事も出来ず、その玉座は余りにも崇高なるがゆえに近づく事も出来ません。

吾々は向上の道を必死に歩んでおります。後に続く者の手を取ってあげ、その者の裾を其の後に続く者が握りしめて頑張っております。友よ、吾々も奮闘している事を忘れないで頂きたい。

まさに奮闘なのです。貴殿とそして貴殿のもとへ集まる人々と同じです。吾々が僅かでも先を行けば、つい遅れがちなる人も大勢おられる事でしょう。

どうかそういう方達の手を貴殿がしっかりと握ってあげて頂きたい。―優しく握ってあげて頂きたい。貴殿自身も同じ人間としての脆さを抱えておられる事を忘れてはなりません。

そして、例えあなたに荷が過ぎると思われても決して手を離さず、上に向けて手を伸ばして頂きたい。そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折はさせません。

ですから明るい視野を持ち、清らかな生活に徹する事です。挫折するどころか、視野が燦然たる輝きを増す事でしょう。聖書にもあるではありませんか。―心清き者は幸いなり。神を見ればなり、と。(マタイ5・8)†

第6節 予知現象の原理
1913年10月31日 金曜日

吾々がこうして地上を訪れるのは人間を援助するためである。と思って下さるのは結構であるが人間本来の努力が不要となるほどの援助を期待されるのは間違いです。地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じる様な事は許されません。

これはもう薄明の理と言ってもよいほどの当たり前の事でありながら、人間にしかできない事まで吾々に依頼する人が多く、それもほどほどならともかくも、いささか度を越した要求をする人が多くて困ります。

―どなたでしょうか

ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です。

―どうも、いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。

違いましょう。同じではない筈です。その理由(ワケ)は一つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、此方でも其々特有の性格が出るものです。もう一つは地上での時代がご母堂達とは違うからです。

―古い時代の方ですか。

さよう英国でした。ジョージ一世(1660~1717)年の時代です。もっと古い時代の者もおります。

―霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教え願えませんか。

いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく判りそうに思えても吾々には大変厄介ものです。でも判るだけの事を申し上げましょう。

私はウォーリック州に住み、学校の教師―学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確な事は判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のない事です。

では用意してきたものを述べさせていただきましょうか。吾々は援助する事は許されていても、そこには思慮分別が必要です。

例えば我々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をする為の才能をお授けになっている事を忘れた考えです。

人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来る限りの事を尽くした時にはじめて我々が手を差しのべ、向上と真理探究の道を誤らないように指導してあげます。

―何か良い例を上げて頂けますか。

すぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導していた時の事です。彼は夢の中に予知現象が混じっている研究をしていました。

つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。私との意思の疎通ができた時に、私は、今までどおりに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時期を見て理解させてあげようと言う趣旨の事を伝えました。

その夜彼が寝入ってから私は直接彼に会い(*)現在と言う時の近くを浮遊している出来事、つまり少し前に起きた事と、そのすぐ後に起きる事を映像の形で映し出す実験をする霊界の研究室へ案内しました。

そこでの実験にも限界があり、ずっと昔の事や、ずっと先の事までは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。
(睡眠中人間は肉体から抜け出て、地上または霊界を訪れる。そのとき必ず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄には滅多に感応しない。きちんと回想出来る人が霊能者である)

吾々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映しだし、よく見ているように言いました。そこに“上演”されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の街に入ってくる光景でした。

終わると彼は礼を言い、吾々の手引きで肉体へ戻って行きました。翌朝目を覚ました時なんとなくどこかの科学施設で実験をしている人達の中にいる様な感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。

が、午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇ってきました。それと一緒に、断片的ながら夢の中の体験も幾つか思い出しました。

それから二三日後の事です。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問する事になっていると言う記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。

吾々が案内した実験室も、スクリーンに上演して見せたものも思い出せません。が、その人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこう言う事でした。―肉体が眠っている時人間は少なくとも時たまは四次元世界を訪れる。

その四次元世界では本来の事を覗き見る事が出来るが、三次元の世界に戻る時にその四次元世界での体験の全てを持ち帰る事は出来ない。しかし、地上の人物とか行列の顔といった三次元世界で“自然”なものは何とか保持して帰る、と。

予知された実際の出来事との関係は四次元状態から三次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きい為に、時間的にも、出来事の連絡性においても、後者よりはどうしても広い範囲にわたる事になります。

さてこうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。

無論彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずで有り、実際的効用を持っております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上の事は出来なかったでしょう。

以上が吾々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合の良いやり方をしつこく要求してくる人は、吾々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身につけてくれれば再び戻ってきて援助を続けることになります。

ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時折吾々の通信が霊界からのものである事に疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)鮮明にしてくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えになれば、貴殿自ら考察していく上でヒントになるものはちゃんと与えてある事に納得がいかれる筈です。

忘れないで頂きたいのは、貴殿はまだまだ“鍛錬”の段階にあると言う事です。本来の目的はまだまだ成就されておりません。嫌、地球生活中の成就は望めないでしょう。

ですが吾々を信じて忠実に従ってくだされば事情が段々明瞭になって行きます。自己撞着のないものだけを受け入れて行けば宜しい。証拠や反証を求めすぎてはいけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。

吾々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。が、その批判に公正を欠いてはなりません。貴殿のまわり、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方が遥かに多く存在しています。

少しでも多くの真理を求める事です。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。例えば山道を行くとしましょう。貴殿は二つの方向へ注意を向けます。

すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険がないかを確かめます。が、危険がないかと言うのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道と言う積極的な方へ注意を向けるでしょう。それで宜しい。危険ばかり気にしては先へ進めません。

ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進む事です。怖がるものはとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥る事が良くあります。

では失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝きわたっております。その輝きは万人に隔てなく見える筈のものです。―見る意思無き者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。

<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りにも呆気無さ過ぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭いきれない。そこで次に通信を引き継いだザブディエル霊にその点を率直に質してみた。(第二巻の冒頭で)

―私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。・あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。

さよう終わりである。あれはあれなりで結構である。もともと一つにまとまった物語、あるいは小説の様なものを意図したものではない事を承知されたい。断片的かもしれぬが正しき眼識を持って読む者には決して無益ではあるまい。

―正直言って私はあの終わり方に失望しております。余りに呆気なさすぎます。また最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、ありのまま公表すると言う事ですか。

それは汝の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが、ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられる更に高尚なる通信の為の下準備であった。それを予が行いたい。

結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本篇はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取る他はなさそうである。

G・V・オーエン